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2021年7月30日 (金)

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 17/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                      2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2022/01/13

*倭人伝の「普通」
 倭人伝を見る限り、冒頭近くで、郡から狗邪韓国まで七千余里と書かれていて、これは、倭人伝の原稿を書いたと推定される帯方郡関係者にしてみると、魏朝の「普通」、つまり魏朝里制と同じとは限らないと知っているので、倭人伝の「普通」を明記するために、ことさらに書かれているのである。
 帯方郡管内は、楽浪郡の南方の荒れ地に郡の体制が準備された時代を含め、後漢/魏制の「普通里」が敷かれていて、郡に服属した各戸の農地/田は、一歩六尺の制で測量/検地され、街道道里を示す「里」は、一里三百歩で記録されていたから、一里が、現代で言う、四百五十㍍程度であったと見えるのである。これは、特記されていないが、国家制度を管内全戸に履行するのは、当然、自明だから書いていないだけであり、歴史上施行されていた証拠のない、普通里の一/六の短い里は、存在しなかったと見るものである。
 先に確認したように、郡内に限らず、帝国各地では、一歩六尺、一里三百歩の関係が当然であったから、里を一/六に短縮する改変は、実行不能だったのである。

 といいつつ、倭人伝編纂に際して、陳寿は、郡から倭まで万二千里という公式記録を改変することは許されなかったから、倭人道里は、全体で万二千里としつつ、部分道里を設定せざるを得なかったという事態が想定されるのである。となると、倭人伝の道里記事は、普通里の一/六の地域里により帯方郡が推定する各地点道里を採り入れるしかなかったのである。これは、本来困難の極みであったが、半島内の郡街道を七千里とし、三度の渡海を、一律一千里の「水行」とし、倭の末羅国に上陸後は、二千里の街道が続いているとすることにより、一種筋の通った道里記事が成立したのである。

 倭人伝道里記事の解釈で、度重なる誤解がはびこっているのは、以上のような妥当な経緯が理解されていないことによる。道里行程記事が、魏志の実験によるものと見たために、現地に「短里」が施行されていたと主張することになり、それは、果てしない実証記録探索に繋がったのである。それは、記事の趣旨を、旅行案内や旅行報告と速断することにより、万二千里の由来を見失っていたのである。

 正当な推定は先に述べた通りである。まず、周制によって、遠隔の蕃夷を遇する際に、最遠隔として、万二千里を申告した遼東郡太守公孫氏の蛮行が、この事態を招いたと言えるが、遼東郡の公文書は、司馬懿郡が、官人一同共々、残らず破棄してしまったから、実際の成り行きは、洛陽鴻臚に残された「倭人」身上書しか残っていないのである。

 曹魏二代皇帝である明帝曹叡は、祖父の武帝曹操と父の文帝曹丕を乗り越える、絶大な功績を求めたため、万二千里の遠隔の東夷の貢献を演出してしまったと見えるのである。一部浅慮の徒が、倭人伝は、陳寿によって司馬懿の功績として工作されたとみているが、考えが足りないとしか言いようがない。あり得る姿は、明帝が、倭人記録を操作したために、このような道里が記されたのであり、陳寿は、明帝の工作が表面化しないように、道里記事の工夫を施したというものである。史官は、述べて作らずと言うが、最低限の工作は避けられなかったのである。もちろん、司馬懿の顕彰など、眼中になかったのである。以下、本題から離れていくので、「普通論」は、このあたりで幕を引くのである。

 ここで想定しているのは、帯方郡が採用していた里制は、遼東公孫氏の指示に従ったものなのか、新朝王莽の治世に制定、施行されたと思われる周制の遺制なのか、由来原因は定かではないが、已に各地に定着していたと見るのである。

 と言うことで、帯方郡が中心となった地方文化が存在していて、それに基づいて書かれたと思われる倭人伝は、魏志の一部となっているものの、帯方郡の地方色を帯びているものであり、それは、三品氏始め、古代史学界の泰斗の信ずる「普通」と異なると見られる。

*不揃いな普通
 もちろん、中華文明の威光は絶大で、地方文化の大半は、中原文化が「普通」なのだが、気候、風土の違いが反映して、地方独自の文化も見られる。

*独断のお断り
 以上の点は、当方としても自信を持っているが、めったに聞かれる議論ではないから、主張を隈無く理解いただいた上で、批判いただこうと丁寧に説明する。この見方を認めれば、榎氏の説を言下に否定する論拠が失われる。

 おわかりのように、当方は、榎氏の行程論の筋に賛成するものである。提示された仮説は、仮説の論旨を理解した上で、批判すべきと思うのである。

*独断のお断り おまけ
 ついでながら、後ほど紹介される古田氏の所説で、行程最後の「水行・陸行」(水行十日、陸行一月)が、帯方郡からの全行程総計との主張に対して、上田正昭氏が、そのような書法は普通でないと批判したのを想起させる。

 それは、文献解釈の基本原則であろうが基本原則だけでは批判として心細いと思うのである。

 倭人伝は、必ずしも、魏朝の「普通」を守っているとは限らないのであり、解釈の基本は、記事の真意は、まずは文献の文脈で解釈し、解釈しきれないときは、一段上の世界に頼り、最後は、中原文化に依拠するものと思う。

 おわかりのように、当方は古田氏の行程論に基本的に賛成するものである。(異議は、複数あるので、その都度提起するものとする)

 大事なことなので、念押しするが、提示された仮説は、仮説の論旨を理解した上で、批判すべきと思うのである。別に、二回言えば、二倍の説得力があると主張しているわけではない。先ほどの部分を読み飛ばされたことを懸念しているだけである。注意力、記憶力に優れた方には、うるさいことだろうが、読者の注意力、記憶力は、千差万別なので、ある程度「くどく」するのである。

                      未完

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