私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 24/30
講談社 二〇〇二年一〇月刊
私の見立て☆☆☆☆☆ 詐欺である 2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30
*俗耳の輩(p126)
ここで、著者は、具体論なしで、「古田氏の論は俗耳に入りやすい」ので、はっきり否定すると斬り捨てている。この悪態は、どこかで聞いたようだが、いきなり「俗耳」と侮辱されていては、まともに取り合えないのである。これでは、敵を作って味方を失うだけである。最後の土壇場での悪足掻きなのだろうか。確かに、土壇場の次は、処刑であるから、悪足掻きするのも、無理からぬとは思うが、別に、実際(リアル)に首を落とされるわけではないから、散り際を美しくした方がいいのではないか。
「俗耳」とは、学者諸兄の聖耳ではない、一般人の粗野な耳だろうが、著者は、自分は違うというので、力説しているのだろうか。誰か高貴な方のお言葉を無批判に流用しているのだろうか。
御自分の立場に合わせて、言葉遣いを改めるべきではないか。とにかく、滑稽(道化役)である。
*国内史料乱入
本書に混入した国内史料の紀記編纂時期は、精々が七世紀以降であるから、描き込まれている三世紀記事が正確と思えない。また、国内史料写本は個性豊かで原典を確定しかねていると思う。一度、姿見で、自説の全身を眺めてみたらどうだろうか。
*隠れ「畿内」説(p156)
著者は、本書の流れで、「倭人伝」は「九州説」とした後、それは、倭人伝記事著者の誤った倭国・倭地観によっていると断罪する。不思議である。倭人伝に、九州も畿内大和も本州島もない。根拠不明では、正誤判定できないのである。
ここまで、原典記事を支持していたのに、ここまでの展開の果て、手前味噌の「正しい」倭国・倭地観で断罪するが、傍目にも脈略のない意見は不可解である。中国史書に書いていることは、想定されている「読者」にとって誤解の余地のない明解なもののはずであるのに、部外者が、せっせとヤジを入れるのは、見苦しいのである。
例えば、冒頭の「倭人は帯方東南(の海中山島)にいる」との単純明解な「倭人」観が読めないのは、初歩的な難儀である。
*考古学の利用(p156)
用語批判で言うと、考古学陣営の寺沢氏は、「大国大和」に「王都」があっても、キャスティングボート(CV決定権)は、比較「小国吉備」が持つと、視点は異なっても、一応適確な評価と見えるが、非勢派の著者は、聞きかじりの言葉の適切な用法を学ばずに、「学問の原則で、我々文献学がCVを持つ」と誤用で虚勢を張る。考古学の狭い分野で、文献派と遺跡/遺物派が、なじり合っているとは、困ったものだが、太古から「呉越同舟」の比喩が伝わっているから、これに学んで、難船時の共存/協力体制を見直して欲しいものである。
要は、必要な知識が欠けたままで、聞きかじりの外来語を「駆使」したための失態/失言であり、なにより、Vote(投票)とVeto(拒否権)と混同しているが、いずれにしろ、討議・議決の参集者の合意なくして、Casting Voteも、Vetoもない。
それにしても、氏の無軌道な論議に追従する人がいるとは、驚嘆するしかない。
*「遠大」論 個人的まとめ
伊都国から邪馬壹国への行程が、南という方向と所要日数だけで、魏使がたどり着けなかったとは珍妙である。
魏使は、倭国高官に伴われているし、賓客には、丁重な出迎えが来るから、女王の元に行けないはずはない。
後年、「賓客」は、蕃人の言い換えだという中原語法が伝わるまでは、本当に、「客」は、お客様としてもてなしていたと見えるのである。
その行程は、交易貨物搬送にも用いられ、官道整備され、道中、道しるべ、里標、宿駅があったはずである。途中野宿や断食もなく、また、日数制限もないから、ゆるゆると行けたはずである。何しろ、畿内説は、三世紀当時、九州は、畿内の支配下にあったと想定しているのであるから。当然、支配に必要な諸街道は、整備されて久しかったと見ざるを得ない。街道として用をなすには、騎馬往来が常識であったはずである。自説の脚もとは、見てみないふりで通すのだろうか。穴だらけと知るべきである。
希有な場合には、不手際もあったろうが、本来、組織的に運用すれば、特に難点は無かったはずである。
魏使には、諸国地図(概念図である。念のため)や地籍戸籍資料が、あれば提供されたはずであり、日々の旅程の目安が得られたはずである。
当たり前のことを言うのは、気恥ずかしいのだが、「畿内説」を唱えるからには、当然/自明の事項として、三世紀に「古代国家」の仕組みが整っていたと言わざるをえないはずである。「国家」は、時代、環境で意味が大きく異なるが、ここでは、現代語風に解する。
それにしても、三世紀に街道が整備されていたと言える遺跡、遺物は、出土しているのだろうか。
時に、瀬戸内海の船舶航行が説かれるが、激流渦巻く関門海峡を皮切りに、「瀬戸」と怖れられる東西の多島海の岩礁群と明石海峡、ないしは。鳴門海峡の難関を突き抜ける東西一貫航行が、三世紀に、早くも存在したという明確な証拠は提示されたのであろうか。何しろ、世紀時点では、帆船を造船したくても、帆布が一切手に入らなかったとされていて、延々と漕ぎ渡ると想定されているのである。
これこそ、本当の意味で、「古代最大の謎」と言えるのではないか。東西交通が断絶していては、纏向から筑紫を統御するなど、到底できないのである。(断言言葉で、「絶対」と言いたいが、若者言葉では、相当意味が軽いので、茶化されるのを怖れて、ここでは使わないことにした)
*最終行程問題と解
著者は、魏使が邪馬台国に行かなかったという先入観を堅持している。
しかし、魏使不達・不会見説と行程不明は、「全く関係無い。」
榎一雄氏の説の論拠は、倭国王城の描写がおざなりで、実際に女王の治所を実見したと感じられないというのであり、それなりに一考に値すると思う。因みに、古田氏の反論は、倭人伝には、魏使が女王に接見したおもむきが読み取れるとしている。
いずれにしろ、後生の東夷の憶測であり、実質的な価値のない「山の賑わい」に過ぎない。
未完
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