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2021年7月30日 (金)

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  25/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*王城への路
 行程の最終部の邪馬臺国への行程には、諸説がある。

 著者は、各説を取捨選択して、確定させないのだから、所説を羅列する義務がある。
 取り上げられていないが、古田氏の著作に書かれている説は、邪馬壹国にいたる最終行程は、書くほども無い短距離であって、「水行十日陸行一月」は、帯方郡からの「万二千里」に対応する記事であるという、まことに明解な説である。なぜ無視したのだろうか。

 因みに、古田氏は、この部分の記事が、「絶対」そのように解釈されると主張したのではない。漢文としては、従来の(当方の言う凡俗の)通り、この部分が、水行+陸行の日数、あるいは、水行、または陸行の日数が書かれているという解釈も、禁止される謂れはない。古田氏説のように、全体日数が書かれているという解釈も、当然可能であり、文献解釈だけでは決められないとしている。
 史学の論戦での態度は、見習うべきではないか。

 因みに、この提唱に対する上田氏の批判と、それに対する当方の批判は、別に示した。

*明解な解釈

 古田説の根拠は明解であるから、素人でも、多分、中高生でも自分なりに算術を展開できる。帯方郡から狗邪韓国まで七千里(引き続き余を略す)とあり、三度の渡海で計三千里とあるから、帯方郡から九州末羅国までが小計一万里となる。
 総行程は、万二千里であるから、簡単な算術で、九州上陸から倭王都まで最終行程は二千里である。しかし、総計も小計も概数であり、最終行程は一段と大雑把の可能性がある。

 このような大局的な味方は、藤井滋氏が創唱したものであり、後に、安本美典氏が、藤井氏の提唱を発掘して、強力に提言したものであり、これに、古田氏が唱和して、独自の敷衍を加えたので、論議が広かったものである。

 もちろん、千里単位の概数計算であるから、百里の位で端数が生じるのは避けられず、部分行程の総和が、総行程に、厳密に等しくなるとは限らない。むしろ、≒(大体合っている)にしかならない。
 
これは、「部分行程の総和が、総行程に、厳密に等しくなる」との古田説の根幹の一つを覆す意見であるが、滅多に指摘されないのは、どういうことか不明である。概数計算による食い違いを目立たせないために、最終行程を明記しなかったという考えもあり得る。いや、計算が合うように書いてしまえば簡単なのだが、それは嘘(創作)になるので書かなかったという見方もありうると思う。

 現在の私見では、総行程萬二千里が、はなから与えられていて、この総行程を、概ね見合ったように振り分けたのが、現在残っている倭人伝記事と推定している。計算行程が逆であるが、従って大雑把に計算は合うはずであるし、概数計算の欠点で、部分の合計と全体が合わないのは、むしろ当然であるから、重要性の低い倭地内部の諸国里数は、割愛したと見えるのである。

*端数の美 榎氏提言に類似(p114)

 言い方を変えると、この最終行程の里数は、千里単位で概算勘定して、せいぜい二千里(程度)であり、帯方郡住人である魏使は、それまでの倭国との交信から得た現地情報今回の遣使の移動に要した日数と目測でもわかる里数から判断して、短距離と解しているので、「遠大で到達不能」と解するはずが無いのである。

 資料不足で検証不可能だが、大雑把に見て、「水行十日」に「陸行一ヵ月」を加えると、行程として、倭人伝「里」で、万里から一万五千里になりそうである。この表現を最終行程の所要日数と見ると、どう押し込んでも総計万二千里に収まらないのは自明のように思える。「水行なら十日、陸行なら一ヵ月」と珍妙にこじつけて解釈したくても、それでは史料の記事として無意味であるから採用できないのは言うまでもない。

 柔軟な体を畳んでスーツケースなどに収まってみせるのは、賞賛すべき「アクロバット」芸であるが、ビールジョッキに収まるのは「不可能」である。いくら「成せば為る」であっても、どこかに限度の壁がある。と言っても、所詮比喩であるから、余り、厳密さを追求してはならないのである。

*私見 思いついた女王居所の姿
 政経中心伊都国と王城の間は、精々一日、二日の行程と見るのが、実体として古代で当然と思えるのである。
 いや、むしろ、伊都国と王城は、 むしろ、相接していたのではないかとも見えるのである。
 あるいは、戸数一千戸の伊都「国邑」の中に、女王の「王城」があったのかとも見えるのである。

 倭人伝冒頭に予告されている「国邑」は、地域の「交通」、「物流」の要であって、「市」(いち)が常設されていて、人、物すべてが集うことから、最大の「国邑」は、[一に都(すべて)会す]「一都会」、「伊都」と呼ばれても、女王は世俗の王ではなかったので、「都会」でなく「王城」にいたのである。
 「王城」と言っても、後世の国内戦国時代の城郭のような壮大な代物でないのは言うまでもないだろう。「伊都国邑」の南にあって、隔壁で囲まれて「女王之所」と書かれているようなささやかな聚落なのである。後世で言う「スープが冷めない」程度の距離だったかも知れない。
 必要であれば、「王城」で朝廷を開いて、御前会議をしたかも知れないが、実際はしなかったのかも知れない。このあたり、倭人伝の記事は、中原諸国の王治の姿を引き写していたかも知れない。よくわからないことは、よくわからない。

 「王城」には、王と取り巻きしかいないから、耕作地はなく、「住民」は免税で、徴兵されることもないから、女王居所の「戸数」は、意味がないのである。
 中国古代史料から倭人伝記事を読み解くと、そのような明解な世界観が描き出されるのであるが、「そうした見方は、学説の崩壊につながるから、死んでも受け入れられない」畿内説から敵視されるので、これぐらいにしておく。

                      未完

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