私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」3/4 「倭人在」再掲
雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17
〇「鵜呑み」論 - まくらに代えて
本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって、飲み込み、消化するものである。
鵜は、鳥類であるから、歯も舌もなく、川魚を、囓りも味わいもせず丸呑みできるのだが、人は、人類であるので、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。
人は、決して、鵜の真似はしないのである。低級な比喩は、早く撲滅したいものである。
-第二部 評釈篇 第一段 総序
*「倭人伝」事始め 「倭人在帶方東南」
前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」には、小見出しは存在しない。
「紹熙本」は、「紹興本」と共通した北宋刊本「咸平本」に依拠している。
*官業から民間事業への移行~余談
以下は、「紹凞本」の由来を確認するものであり、一部説かれている「坊刻」、つまり、官業でなく、民間事業に托したことを殊更批判していることに対する反論である。特に、書誌学的な事項に興味がなければ、「紹熙本」の史料価値に影響を与えるもので無いとの趣旨を理解いただければ、深入りは不要である。
南宋創業時に、北宋亡国時の「国難」を逃れて河南に逃亡し、再集結した天下一の英才が結集し、国富を傾けた経書、史書の「国家刊刻事業」の一環で、国史「三国志」として「紹興本」が刊行されていた。
「国難」は、北方異民族が中国文明の撲滅を図った徹底的なものであった。
文書破壊は、四書五経そのものの棄却、焚書に始まり、史記以来の正史に到る書籍類が根こそぎ駆逐され、更に、復刻をも許さないとして、木版印刷の版木に到るまで破壊したのである。地域としても、江水、つまり長江流域までに侵略が及んだので、実質的に、宋代の刊本事業は、壊滅したのであるが、侵略者は勢力を後退させ、江水流域は、南宋として回復したのであるが、広く成された破壊は、甚大な打撃を与えたのである。
西晋滅亡時には、異民族の軍に洛陽が蹂躙されて、皇帝、皇族が連行されたが、難を免れた皇族が江南に逃れて、東晋として再興し、その際は、民間中心、辺境地区に、比較的良質な古典書籍類が、辛うじて生存したようであるから、祖のような国難すら越えて、未曾有の甚大な被害と言って良いようである。
さて、国家事業として再度取り組まれた三国志復刊事業で、「紹熙本」は既刊の「紹興本」より優れていると判断され、刊刻に付されたが、「国家刊刻事業」計画としては、「三国志」の刊刻は終了し、他の経書、史書の刊刻にかかっていたから、計画外の民間事業に附託したので、時に「坊刻」と称されるが、それは、「国家刊刻事業」の枠外、予算外で、あえて刊刻したと言う事であり、別に、質を貶める根拠にはならない。
因みに、国難以前の北宋時代、刊刻は、国家が独占的に実施していたが、亡国、南遷によって、中原に分布していた関連事業は壊滅し、辛うじて、江水、つまり、長江沿岸に展開されていた刊本事業を復元して対応したものであるから、その際、古来、国家事業として運営していたものの多くが、民間事業に移管されたのである。
*「青磁」の起源~余談
参考であるが、北宋に至るまで、天子の執り行う礼式に使用されていたのは、殷周代以来、精巧な青銅器が伝世されていたのだが、北宋壊滅時、神聖な青銅器の避難が叶わず、南遷した南宋朝は、天子の執り行う礼式の祭器に事欠くことになったのである。そのため、「青磁」と呼ばれる精巧な時期が創出され、青銅器に代わる祭器となったのである。
歴代の天子は、太古以来継承された祭器を正当に継承していることが権威の根拠とされたので、青銅器に代わる「青磁」は、本来、尚方という名の帝室工房に独占される門外不出の技術であるはずが、南遷に伴って異動した尚方には、必要な祭器を制作するのに必要な技術、技術者、製造設備が備わっていなかったため、民間に委託せざるを得ず、結果として、青磁の技術は、次第に民間に流出したと見える。
刊刻事業は、文書を木版に刻む技術と版木を用いて印刷を行い、製本する技術が必要であるが、南宋再興期、国家事業といえども、民間の事業に移築せざるを得なかったと見えるのである。それは、印刷に適した、優れた品質の用紙の製造技術についても、同様であったと見える。要するに、北宋初期に完成した印刷製本技術は、帝室尚方が成し遂げたものであるが、それが、南宋期に、民間に開放されたと見るのである。
*「紹熙本」談義
三国志で言うと、「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に審査、校正が完了し、確定したことから「紹熙本」と命名されたのであり、印刷、製本、公開が、どの年間であるかは関係無いのである。「紹熙本」は、現代日本語の表現でないことに留意頂きたい。
ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して。重複と見られかねない改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、「紹興本」に勝るとも劣らない価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。
推測するに、侵略者の侵攻を免れた「蜀漢」旧地である成都付近の蔵書家から、北宋刊本の良質写本の提供があったように見える。
*「倭人」論再開
さて、小見出し論を終えて本文に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。
著者である水野氏は、これは、中国唐代以前の「日本人」に対する呼称であるが、自称ではなく、中国人が「日本人」に対して与えたものと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるものであるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。
氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないわけだから、いずれの時代なのか、どんな由来かは、知る由もないが、中国からの頂き物だという可能性が高いと思う。但し、それなりに由緒のある命名であり、性急な思い込みは後回しとしたいものである。
◯傍道の倭人論など~私見
別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。
つまり、「倭」という文字は、倭人の姿、おそらく、女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りの旁を見ると、「女」、つまり、女性の頭の上に、「禾」、つまり、稲穂のような髪飾りがかざされている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々である、ということである。
私見によれば、「倭奴」は、後漢朝が「倭人」を言い換えと見られる。あるいは、諸蕃夷を改名した王莽の指示によるものかも知れない。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。
後年、「倭」という文字を嫌って「日本」と改称したらしいが、おそらく、国を継いだものたちが、あからさまに「女王国」を表す文字を嫌ったのではないかと思われる。「倭」は、周代史書にも残されている貴称の類いであるので、相当無理をして返上したようであるが、唐代となると、相手も、天子と言いながら、蕃人上がりの付け焼き刃で、古典知識にこだわらず、自称を許したようである。
◯「在帯方東南」
・最初の躓き石
さて、「倭人」に続いて、直ちに続いて「在帯方東南」と五字の付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。
もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるのであるが、倭人の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
としてみると、この七文字は、独立して、必要な情報を過不足なく伝えているのであるが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。
朝鮮半島と西日本を包含した現代地図を見ていただけばわかるように、帯方郡治の想定されている朝鮮半島中部から見て東南にあるのは九州島である。本州島は、その九州島のすぐ東にはじまり、東方から東北方向に延びていて、東南方向にまるで収まっていない。「倭人」不在域である。(住んでいるのは、倭種らしいが)このあたり、「倭人伝」の世界観、地理観が、端的に表現されていて、「倭人伝」劈頭を飾る名文と感じる。
世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍は、なぜか優勢とされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。
いや、多数の論者の中には、この点に触れる例はあったが、『大意として、そのように読めるかも知れないが、「現代人は、邪馬台国が、近畿中部にあって、遠く九州北部まで支配していたことを知っている」から、「倭人伝」の誤記と理解できる』と割り切っている。
わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えればいいから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。
「畿内説」、「纏向説」論者の暴論嗜好は、かくのごとく、無根拠の思い込みに支配され、史料論議の場から「外野」の荒地に踏み出しているのである。
水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に、遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定している。
かたや、世上、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、外部資料の勝手な持ち込みで、頑迷極まる俗論が形成されているのは、かねてより感じていることであるが、ここにも、そのような俗論を堰き止めようとする賢明な配慮が表れているのである。
未完
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