私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 9/30
講談社 二〇〇二年一〇月刊
私の見立て☆☆☆☆☆ 詐欺である 2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30
*考古学バッシング(p18)
つづいて、著者は、考古学者の見解を紹介した後で、「考古学によって論争に決着が付けられると考えるのは、考古学者の思い上がりである」と罵倒しているが、著者の主張は、どう見ても、常識に欠ける論者の勝手な「思い上がり」である。
多数の真摯な考古学者の長年の研究活動が、無資格、無責任、無思慮の一個人の勝手な意見で否定できるわけはない。まして、氏の混濁した意識では、「考古学」は、遺物、遺跡を評価する考古学であり、しかも、三世紀限定、倭人伝記事関係限定のように見える。酔漢の暴挙のように、振り回す棍棒が誰にあたっているのか、関心がないようである。
当方も、このあたりは、話の流れが理解できないままに読み進んで、突然の棍棒の風に巻き込まれ、いかにも、不出来な批評となっているのに、後日気づいたのである。慚愧のいたりである。考古学者断罪に至って、却って迷惑をかけたかと後悔している次第である。
考古学の基本は、「遺物を評価する考古学の見解と文献を評価する考古学の見解は、互いに整合しないのが当然であり、いずれかをもって他を圧倒してはならない」と言うものであると聞いている。この基本に反している発言があれば、その個人を批判すれば良いのである。
他人の意見を聞くとき、無前提・無批判で依存してはならないのは当然であるが、他人の意見に丁寧に耳を傾け、時に依存するのが、物の道理、大人の分別である。まして、「考古学に惑わされない」というのは、相手構わぬ、一方的暴言であり、当然、考古学は文献学に惑わされないと、お互い様の暴言で報われるのである。
近年の各機関の発表は、考古学が、文献学の一説、主として国内史料の無節操な適用で、長年築き上げてきた年代観を歪めようとしているとさえ思える。考古学が主体となって、「衆を惑わ」しているのではなく、国内文献学が、衆を惑わし続けているのかと思う。
*考古学の最終(的地)点(p18)
「考古学はまだ全然最終的地点に達してはいない」など、まるで、青二才の妄説、一人スカッシュである。考古学界の核心にいないものが、どうして、考古学の最終点を語れるのだろうか。(ここは、子供の口喧嘩の果てではないのだから、言葉を無駄に積み上げて「まだ全然 」最終的などとは言わないものだ)
逆に倭人伝解釈、及び国内史料解釈の最終点を問われると思うが、回答はあるだろうか。漫然たる暴言は、さらに漫然たる暴言で報いられる。子供の口喧嘩である。いや、子供に失礼だから酔っ払いの罵り合いと言うべきか。
*倭人伝が求めるもの(p18)
最後に、過去の陋習を非難したいという感情が言わせるのか、『「倭人伝」はそれが本来求める読み方をされたことがない』など、意味不明な断定啖呵を切っているが、著者は、自分の書いた文を読み返さないのだろうか。
「(それ)倭人伝が求める読み方」の意味がわからない以上、問い掛けられても答えようがないのである。それでは、聞き手が納得して回心するわけがないのである。
つづいて「(所在地)論争の本当の土俵」などと、どうも相撲の比喩らしい意味不明のたわごとを言い放つ。誰にもわからない比喩で、見知らぬ読者に何を伝えたいのだろうか。そして、読者は、このような寝言の山に、カネを払うべきなのだろうか。
最後は「”不良債権を積み上げている銀行業界”のようなもの」と、前代未聞の難業に取り組む銀行業界への賛歌(ではないのか)で終わるのは、各自(誰?)自由な空想を賞賛されているのか、読者にわからないのではないかと懸念する。少なくとも、常人の理解できる比喩ではない。
延々振るわれた熱弁も、擁護か罵倒か不明では、一段と意味不明である。この下りは、何のために、何を訴えているのか、終始不明という、「妙技」を陳列しているのであった。
未完
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