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2021年7月

2021年7月27日 (火)

今日の躓き石 幻滅した卓球 金メダリストの暴言~悪疫「リベンジ」の蔓延防止を願う

                        2021/07/27

 本日の題材は、昨日、東京オリンピック卓球競技混合ダブルスで金メダルを獲得した直後のインタビューでの「リベンジ」発言である。何しろ、当人のナマの発言であるから、さすがのNHKもそのまま放送したのである。

 それにしても、オリンピックで最初の卓球混合ダブルスでの優勝談話であり、いわば、前人未到の偉業で、前回大会での敗戦などないのに、いきなり、『これで、「リベンジ」をやってのけた』、つまり、「過去の恨みの仕返しに血祭りに上げた。ざまあ見ろ」というのは、何重もの意味で、不謹慎であった。

 まずは、全国で応援していた視聴者の祝福に対して、今回の勝利は、金メダルより何より、個人的な復讐がすべてだと語っているのであり、不謹慎極まりない。パートナーも、これではたまったものではない。どうして、世界中に向けて、いきなりぶちまけないと、気が済まなかったのだろうか。

 もちろん、さらに不謹慎なのは、あからさまに、スポーツの場に、血なまぐさい「復讐」を持ち込んだことである。これではまるで、オリンピックが、血で血を洗う復讐の場だと言っているようなものである。今回「血祭り」に上げられ、晒し者にされた銀メダリストは、国の威信の回復と共に、血なまぐさい復讐戦を至上の使命として仕掛けられたようなものである。まるで報復の連鎖で血で血を洗うテロリストの世界である。
 いや大げさに言っているのではない。世界に蔓延している「テロ」は、「リベンジ」を合い言葉に延々と報復合戦しているのである。
 だから、心ある宗教人は、キリスト教などの教えに基づき、「リベンジ」を絶対的な禁句にしているのである。そんな中、異教徒であり、不謹慎な卓球選手が、国際的な報道も想定されるインタビューで、「リベンジ」を誇らしく口にしているのを聞くと、「なぜ、誰も野蛮な言葉遣いを直さなかったのか」と悲しいのである。

 遡って言うと、オリンピック精神を無視して、闘志、さらには、敵愾心を掻き立てて、敵を倒すことが、金メダルへの道だと勘違いしているようである。いや、これは、選手一人の問題では無い。国内スポーツ界全体の持病となっているように見えるのである。

 今回の暴言が、何事もなく聞き流されることを願う一方、本人には、これを機会に、金メダリストの言葉の重みを考え直して欲しいものである。何より、ヒーローの言葉は、世界のこどもたちが、真似するのである。世界一の金メダリストには、世界一の心と言葉を望みたいのである。

以上

2021年7月25日 (日)

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 1/3 追記

 季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*初期考察の偉業
 本件は、最近論議を見かけた本資料に関する最初期の考察であることから、以下、三十五年を経て批判するものです。といっても、史料現物に臨んだ考察に大きな異議は立てられないのです。

*論説でなく所感
 当記事への批判が難しいのは、掲題の通り所感的な構想で書かれていて明確な主張が書かれていない事と途中で大きく主題を離れて巨大類書「太平御覧」の編纂時の資料取り寄せの混乱を思わせる、とこれも所感が書かれているからです。つまり、肝心の論考は些細にとどまっているのです。とはいえ、全体として、堅実な学術的な思考が窺われて敬服しているのです。

*「写真は現物ではない」「地図は現地ではない
 但し、一点、敬意をもって批判させていただくと、尾崎氏氏は、中国で発行された学術資料である『敦煌遺書目録』に資料の写真が掲載され「現物」が見えると評していますが、「写真は現物でない」から、氏は肝心なところで失言しています。基本則を謹んで指摘するものです。とは言え、現物の「写真」では、適確な確認ができないのは、氏も自認しています。

*骨董品か、史料か
 当「遺書」(遺物文書、ここでは、歩隲伝残巻、断片)を含む敦煌「遺書」は、盗掘売却されたものを、新中国成立後に回収したもので、出土経緯は不明であり、骨董品の贋造改竄疑念がついて回るのです。その疑念自体は、念頭に置く必要があるのですが、では、何の根拠があって、そのような偽物をでっち上げたのか、ちょっと理解しがたいものがあります。
 いずれにしろ、紙質や墨質の分析確認などで、随分、適確な時代考証ができると思うのですが、そうした確認が行われた形跡はありません。お国柄なのでしょうか、例えば、資料解析しない条件で所蔵しているのかも知れません。

*文字(テキスト)の確認
 さて、尾崎氏は、「遺書」を三国志「呉志」歩隲伝と照合しつつ、文字起こしています。今日、良好なカラー写真が公開され、読解の苦労は、随分ましですが、当初読取の功績は大です。

*「周昭」小伝考
 さて、細かい異同は別として、歩隲伝末尾に追加されている周昭にまつわる記事の構成に差異があると、尾崎氏は指摘し、考察を加えています。
 当方の見るところ、引用記事は、周昭著書引用ですが、書き出し部に、周昭の信条を述べた上で、『周昭が「呉書」編纂者の一員であった』と述べた一行を加え、次行にその「呉書」(〻点 二文字反復記号を復原)に以下の記事があると述べていて、以下、三国志現存刊本とほぼ同一になっていますが、ことさら先触れされているので、周昭小伝の感が示されます。
 現行、三国志「呉志」歩隲伝は、いきなり、呉書ならぬ周昭著書の引用記事に入るので、当該部分は小伝の体裁は整っていないように見えます。

                               未完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 2/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*些細だが重要な差異
 現行三国志「呉志」は、引用文の後に、周昭が呉書を編纂したと書いた行があるので、この一行が移動したというものの、行数変動はなく、実質的に同一内容で、私見では裏打ちした巻物でも、部分的に剥がした上での差し替えは可能ですから、「遺書」の原本が、三国志「呉志」の抜き書きに、私家本とする際に、この一行を移動したという可能性も、無視できないと考えます。
 この辺り「呉書」と呉志の原史料と推定される「呉書」が交錯しますが、氏は、この点に触れていません。

*西域異本 伝家の秘書
 以上、「遺書」は呉志異稿の断簡であり、当時、西域辺境に呉志異本が存在した証しとも見えます。ただし、現地に当該巻の全写本があってね一部断簡が残存したとの確証はないのです。まして、呉志全体、果ては、三国志全巻の写本があったとも思えないのです。
 なお、歩家などの関係者子孫が、抜き書きを保有した可能性はあります。確たることは判明していないのです。おそらく、歩隲伝写本が、歩家の末裔の家宝として珍重されていたのではないでしょうか。

*大いなる余談 太平御覽所引魏志
 ここで、尾崎氏は、該当部分を「太平御覧」の引用する「呉志」と比較して、現行本の記事がこれに近いと考察し、そこから余談に逸れます。
 氏は、更に、御覧所引の魏志倭人伝記事を、翰苑所引の魏志、魏略記事と比較して考察を加えていますが、当記事の本題を更に外れるので、批判を加えないのです。
 と言うことで、矢崎氏は、脱線したまま、走行を続けて、随分走ってから、復元しています。季刊「邪馬台国」誌でも、論考ならぬ随想であれば、余談が繁盛するのも、許容されるのでしょうか。とは言え、脱線が人ごとと言えないのは、次回とします。

*遺書論回帰、慟哭
 最後に、尾崎氏は、本論に還って「遺書」は(氏が仮想した)善本の一部であり、幾度かの校正によって、かかる善本が現行本に不当に駆逐されたと大いに悲憤慷慨したと見えます。
 この種の議論は、文献論議でしばしば見かけるとしても、仮想善本への過度の感情移入と擬人化は、学問の客観性を阻害するので厳に避けるべきと考えます。
 仮に、氏の思考を辿るとしても、いずれかの時期に生成して、遂に現行本に採用されなかった異稿は、言うならば、自然の摂理で淘汰され、帝室保存の原本が適者として生存したのであり、無用に思い入れすべきではないと考えます。まして、そのような異稿は、三国志編者陳寿が、確定稿から割愛したものであり、三国志を論ずる際には、些事に過ぎないのです。文献考証の本筋を見失わないようにしていただきたいものです。

 案ずるに、世上の議論として、例えば、「邪馬臺国」と書かれた異本が一例でもあれば、それを論拠として、目障りな邪馬壹国説を駆逐できる可能性が否定できないのに、三国志なる史料二は、ことのほか異稿が乏しい/無いために、「陳寿オリジナル」(?)を誰も見ていないとか、この世に存在しないとか、反則攻撃したり、途中改竄を憶測したりしかできないことに苛立っていると誤解されない口ぶりです。

*呉書引用の怪 
 氏が、三国志「呉志」と遺書に抜き書きされた「呉書」の区別を曖昧にしているのは不満です。

 陳寿が、呉志編纂の際に、かなりの部分で「呉書」を忠実に引用した事は確実に思われます。陳寿の見識では、東呉亡国の際に、晋朝皇帝に献呈された東呉 の公式書である 「呉国志」、つまり、周昭「呉書」の完成本は、東呉史官の畢生の著作であり、三国志に収録するのが、自身の使命と感じたはずです。
 とは言え、あくまで、三国志は、各国国志の寄せ集めでなく、天下の形勢を陳寿が編纂した史書の一翼との建前なので、志の呉書引用部にいちいち「呉書に曰」と書いてないのです。とすると、なぜ、ここだけ「呉書に曰」とする異稿があるのか、不思議です。

 そこから始まる周昭小伝の意義については、当批判の枠外なので別稿とします。

                              完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 3/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*呉志との比較
 遺書と呉志を比較して、異同を確認できます。 (資料部脱落を補充)

遺書 敦煌断簡                  三国志 呉志(改行は断簡/遺書にあわせたもの)
① 解患難書數十上權雖不能悉納其然時采其     解患難書數十上權雖不能悉納然時采其
② 言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育     言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育
③ 門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻     門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻
④ 妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵廿年鄰敵敬     妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵二十年鄰敵敬
⑤ 其威信性寬和得衆喜怒不刑於聲色而內肅     其威信性寬弘得衆喜怒不形於聲色而內肅
⑥ 然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒    然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒
⑦ 子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍     子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍
⑧ 封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西     封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西
⑨ 卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降     卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降
⑩ 於晉遣璣弟瑁詣洛陽為任晉以闡為都督西     晉遣璣與弟璿詣洛陽為任晉以闡為都督西
⑪ 陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州    陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州
⑫ 牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常    牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常
⑬ 侍領廬江太守改封江陵侯瑁給事中宣威將軍    侍領廬陵太守改封江陵侯璿給事中宣威將軍
⑭ 封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往     封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往
⑮ 赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城     赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城
⑯ 斬闡等步氏泯滅惟牓瑁紹祀           斬闡等步氏泯滅惟璿紹祀
⑰ 潁川周昭字恭遠與韋曜華覈薛瑩並述呉書
呉書稱步騭嚴畯諸葛瑾顧邵張承曰古今賢士    潁川周昭著書稱步隲嚴畯等曰古今賢士
⑲ 大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要    大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要
⑳ 其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢    其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢
㉑ 二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭    二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭
㉒ 名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者   名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者
㉓ 不除未有能全也當世君子能不然者亦有   不除未有能全也當世君子能不然者亦比有
㉔ 之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使    之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使
㉕ 君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也         君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也

*顕著な相違点
 一見してわかるように、⑰に遺書に『潁川の周昭が、(同僚であった)韋曜、華覈、薛瑩とともに「呉書」を編集した』と明記されていて、つづいて、その「呉書に曰わく」と二段構えになっているのに対して、呉志では、単に「潁川の周昭の著書に曰わく」と 短縮、整理されていることです。当記事では、脇道なので、ここでは、相違点の指摘にとどめます。

*記号の見落とし
 遺書で、⑱〻稱步騭嚴畯諸葛瑾顧邵張承曰を呉書稱步騭と校訂したのは、「〻」を、汚れではなく、前行末の「呉書」を二文字反復する記号と読んだものです。それで字数があいます。但し、改行した後で、省略記号で一行を起こすのが妥当かどうかは、別義です。

*紹凞本倭人伝の瑕瑾

 ちなみに、倭人伝では、「壹與壹與」「諸國諸國」と反復する形が二ヵ所にあり、紹凞本では、後者の例で反復二文字がなくなっています。
 思うに、紹凞本のもと史料は北宋刊本そのものではなく、少なくとも一度写本に移されたものであり、その際に、二字反復を〻に置き換えたのが、当該写本から紹凞本刊刻稿に書き戻す際に、うっかり見落としたと思えるのです。

 少なくとも、根拠としている北宋咸平刊本の善本から直接木版を起こしたであれば、このような間違いはありえません。刊本は、このような記号を使わないからです。
 あるいは、想定している写本は、職人ではない教養人が「達筆」、つまり、草書書法でで残したものであり、そこから書き写した担当者が、教養不足で、省略記号を読み飛ばしてしまったのでしょうか。
 つまり、高貴な写本であっても、絶対完璧な写本ではなかったのかも知れません。

 巷間、「紹凞本は完璧ではない」と批判されていますが、この例は、編集記号の見落としであり、紹興、紹凞両刊本(全刊本)に共通する「仮想」誤写論議は、両刊本共通の「祖先」の文字取り違え事態を予め想定しておいて、それは別の時代、別の写本工に別の要因に起因する過誤があったからに違いない、と「予断している憶測」ですから、当事例とは、特に因果関係はないものです。

 いずれにしろ、誰にも間違いはあるのであり、大事なのは、間違いを見つけて是正する仕組みを持っているということです。
 三国志の場合は、早々に帝室所蔵となり、写本継承の際の是正の仕組みに保護されたため、世上、むしろありふれている「異本」が少ない/無いのです。

 大唐の滅亡後の小国乱立による「五代十国」の小戦国時代を、颯爽と統一し、文治の原則を確立した北宋が、国家をあげて行った刊本事業の成果は、後に、北宋末の金軍による帝都開封陥落と文物破壊、南下による諸処刊本、版木全滅と、壊滅的な被害を受けたのです。
 南遷して再興された南宋は、諸國から持ち寄られた質の高い写本を結集して、今日見られる刊本を再現する偉業を達成し、両刊本は、奇異な経過を経て併存しているものと思います。

                                以上

2021年7月24日 (土)

新・私の本棚 上発知たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 1/2 追記

 魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
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私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24

〇はじめに
 諸所に、同意したい見解が多数提示されていて、同感、同感とうなずきかけて、すぐ、意見の転進(迷走などではない)を見て首を傾げたものです。

〇足りない点~先行諸説の克服
 参考文献に、古田武彦氏と安本美典氏の著書が見られません。文中で、「邪馬台国はなかった」と書いているという所を見ると、この部分は、誰か(不注意な人の)受け売りかと思われます。顔を洗ってください。「近年」も奇っ怪。
 つまり、新説は、有力な先行諸説を理解した上で、無意味だと既に排除されている「脇道」を取る際には、念入りの検証が必要ということです。率先して「混迷」「混迷」を自演されては、付き合いきれないので、本書の大部分の考察は、一瞥しただけで、お蔵入りです。折角、健全な始発点を選んでいるのに、勿体ないことです。

 古田氏は「短里説」創唱者と書かれていますが、それは不正確だし扱いが不適切です。氏は、「里程記事」解釈を通して邪馬壹国博多説を唱えています。氏の短里説を論ずるなら氏の所在地説を乗り越えねばならないのです。

 因みに、短里説は、随分以前から説かれていましたが、確たる論説になったのは、藤井氏の書であり、それは、帯方郡から狗邪韓国まで({郡狗}という)を七千里とするなら、そこから渡海三千里を経た末羅国は、帯方郡から一万里であり、「倭」は、末羅国から二千里、つまり、郡狗道里の七分の二の辺りに存在するという明確な説であり、自ずと、ある範囲が想定できます。(藤井滋「『魏志』倭人伝の科学」『東アジアの古代文化』1983年春号
 短里説を広く紹介したのは、まずは安本美典氏であり、氏は朝倉説です。

 この提言に対し、正史である魏志に書かれているその道里は、『魏朝明帝曹叡により秦始皇帝施行の「普通里」(450㍍程度)が廃され、「魏朝里」(75㍍程度)が魏制とされた』との判断が古田氏創唱の「魏晋朝短里」説です。
 一方、安本氏は、そのような国家制度は無かったとしています。

 氏が、両説のいずれに組みするにしても、長年論議されている「短里説」に関する認識不足は、氏の浅読みを思わせて信用をなくしているのです。私見ですが、氏の判断は、それぞれの提言の原文に触れず、諸賢の評価にも触れず、細部の確認がいい加減なために、あやふやで人騒がせな「思い違い」と見られているのです。

〇奇妙な「東治県」談義
 また、何気なく「東治県」などと混乱していますが、未だかって、「会稽郡」「東治県」が存在したことはありません。
 世間で議論されているのは、倭人伝の「会稽東治」が「会稽東冶」の誤記であり、これは「会稽省東治郡」ならぬ「会稽郡東冶県」の誤断でないか、などの論議であり、これを無視して、勝手読みしているのは、軽率、不明で、妙薬のない深刻な病患です。

〇今さらの後漢書批判
 笵曄「後漢書」史料批判、史料素性調べ不足で、倭記事解釈に深刻な錯誤があります。
 笵曄は、後漢の歴史史料、つまり、国家文書に基づき光武帝本紀の倭の記事を書きましたが、他の有力後漢史書、袁宏「後漢紀」にも、同主旨の本紀記事があり、「倭人伝」にも裏付け記事があるから、この後漢書記事は信頼できると言えます。

 但し、氏が引用している倭に関する地理的な記事には、本紀に裏付けがないのです。つまり、倭が参上した公式記録がない以上、史官視点では風聞、憶測に基づく創作です。そのような史料を論考の基礎に置くのは失当です。

 いずれにしろ。曄「後漢書」は、後漢時点公式史料を根拠に書かねばならないのです。当然、魏志「倭人伝」は時代違いで利用できないのです。

 楽浪郡境が、その国を去ること萬二千里と書いているのに、後漢書の冒頭で楽浪郡に触れていないのは、冒頭記事時点では、東夷倭の管轄は、楽浪郡や帯方郡でなかったことを示しています。

                                未完

新・私の本棚 上発知たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 2/2 追記

 魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
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私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24

〇後漢書誤読批判
 丁寧に言うと、笵曄「後漢書」には、倭の女王之所、つまり、王城への道里は、公式記録がないため、最後まで皆目わかっていないので、「郡治を起点として何里」と書けないのです。ということは、ここで言う「去」一万二千里は、当然、倭国からの道里を想定していますが、所在不明では「明確」に認識できたはずがないのです。倭は韓の東南にあるというのは、光武帝時、洛陽から見て、韓の(東)南にある(らしい)と言うことしかできなかったのです。

 して見ると、倭奴国王が金印を賜ったという東夷列伝記事も、「本紀」記事でない以上、そして、袁宏「後漢紀」に書かれていない以上、根拠の無い推測になってしまいます。

*「金」と「黄金」~余談挿入
 金印は、客(野蛮人)への下賜物として定番でも、黄金印なのか金(青銅)印なのか、判然としないのです。何しろ、古代人にとって、金印は粘土細工みたいに手軽ですが、青銅鋳物の設備では、高温が必要な黄金を溶かせないし、溶かした黄金を受け入れる鋳型も、そのままで受け付けるのかどうか、良いのかどうか不明です。いや、余談でした。

 因みに、笵曄「後漢書」の扱う事のできる時代は、精々、曹操が没して曹丕が継承し、後漢献帝から天下を譲り受けた時点までですので、少なくとも、「倭人伝」記事を、「パクる」わけにはいかないのです。范曄が、後漢代の東夷列伝を史料として確保していれば、東夷の新参者である「倭」が後漢朝に対して提出した国書なり、自己申告が確保されているはずであり、それを引用すれば、堂々と、明確に倭伝を書き出すことができるのです。そうしなかったということは、笵曄は、東夷伝で語るべき後漢代末期の「倭」資料を一切持っていなかったことになります。

 因みに、この時代、遼東に割拠していた公孫氏が、東夷と後漢朝の間に入って連絡を遮断していたので、後漢皇帝の手元には、何の資料も入らなかったということです。笵曄は、どんな根拠があって倭伝の記事を書いたのでしょうか。まさか、魏のことを書いたと決まっている魚豢「魏略」の記事を切り貼りしたというのでしょうか。

 このあたり、氏の誤解が氏を誤導しています。「致命傷」などの言い方をしなくても断定していることは伝わります。勘違いを怒鳴って恥の上塗りです。

〇范曄冤罪批判
 但し、笵曄「後漢書」編纂に際して、范曄が時代錯誤の魏代記事を盗用したとの冤罪は、大変な侮辱であり、いくら、当人が反論しないからと言って、そのように歴史上の偉人を見くびるものではないのです。告発には、証拠が必要です。前段に書いたのは、あくまで、疑惑止まりであって、決定的な告発ではありません。
 要するに、笵曄「後漢書」記事は、史料自体の視点でよくよく吟味しなければならないのです。

 倭人伝の里程記事が、魏使の紀行記事(だけ)を元にしたとは、現代読者に普通の誤解ですから、氏の個人的過失ではないのですが、ここに公開する以上、子供が書いているのではないのですから、本当に正しいのか、という反問は必要だったのではないでしょうか。

 以下、引くに引けない強攻になるのですが、魏使派遣前後の現地報告が諸所に混入していると言う程度なら、もっと慎重な断罪ができると思います。少なくとも、タイトルに「百㌫」などと、恥さらしな言い分を書くことは無かったはずです。笵曄は、盗用とわかる書き方はしていないのです。
 二千年過去の史料が、どの程度正確かすら不確かなのに、後世人の勘違いだらけの僭越な解釈で、「百㌫」正確に読み取れる可能性は皆無です。

 氏の口ぶりで言うと「皆無」でなく「零㌫」なのでしょうが、当時存在しなかった言葉遣いでは意味が通じず、間違い積層のあげく正確な見解に到達することも「ぜったいありえない」わけではないのでそう言わないのです。

 いや、氏の著書は、世上にたむろしている勝手な論説の山では、健全な史料観を元にした「異色作」でも、諸所に誤解と見過ごしが、やたらと散在し、さながら、躓き石が一面に散らばる散歩道では、普通の人は歩き続けることはできないのです。受けるのは、氏の好む「致命傷」などではなく、擦り傷と打ち身だけですが、不慣れな読者だと、全て真に受けて大きく転倒し、大腿骨や骨盤を骨折する可能性が否定できないので、ここに具体的な批判を書き続けているのです。

 以上、一般的でない事項は、丁寧に根拠を示していますが、基本的に、諸資料に書かれていることは、節約しています。どう勘違いし、言い間違いしたか理解いただいた上で、改善いただければ、ゴミ箱直行は避けられます。

〇最後に
 世上の「所在説」論者の大半は、所在地を言い立てるために諸論を誂えるので、史料解釈の是正など「ご意見無用」ですが、氏はどうでしょうか。「耳、日曜」でしょうか。氏の場合、論議の前提を修正しても、所在地は健在かも知れません。

 氏は、論考の最後で、一世風靡の「纏向」説に冷静な批評を加えていて、同感に加えて痛快なのですが、氏が起用された諸史料ないしは資料は、大抵、原文に纏向風の上塗りを施しているので、安易に信用しない方が良いのです。

 氏だけがどうこう言うことではないのですが、中国史書である魏志「倭人伝」や後漢書「倭伝」を論じるには、中国史書の文字や言葉に通じた論者の意見を聞くべきであり、生かじりの翻訳に頼るべきではないのです。まして、勝手に、自己流の「所在地」にあうように書き換えた自己流改竄資料に頼っては、中国史書の解釈ではなくなるのです。
 まして、学術的な翻訳文は、日常会話の言葉遣いとは大きく異なるので、現代日本人が、とんでもない誤解をしていることもあるのです。桑原、桑原。

 ぜひとも、心ある読者諸氏は、現代語離れ、改竄離れすることをお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 1/2 改訂

 中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり   2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24

〇初めに
 本章著者は、森博達氏と杉本憲司氏の並記ですが、恐らく主体は杉本氏でしょう。

*曹叡拝謁図の虚報
 口絵の倭使明帝拝謁図は、虚報、妄想と罵られても仕方ありません。
 原史料倭人伝に依れば、使節が帯方郡に於いて洛陽で皇帝に拝謁することを上申したのは、景初二年六月なので、そう書いたのでしょうが、倭人伝には、詔書引用だけで皇帝拝謁記録がない以上、拝謁してない可能性が、大変高いと見られます。
 皇帝に拝謁していれば、堂々と明記されるのです。

 なお、俗説は、一つ覚えの誤記説で「景初三年六月」を押し通していますが、この絵は俗説信奉者に対し異様に反抗的/挑戦的です。衆知ですが、明帝曹叡は、景初三年元旦に崩御して、即日新皇帝が即位しているので、俗説の通り、景初三年に洛陽に昇ったとしたら、皇帝は、明帝の筈はなく、既に、口絵は虚報であることが明らかです。編集の際、記事校正はしても、口絵の攻勢はしなかったのでしょうか。著者の権威に泥を塗っています。(文庫本は、単行本の文庫化ですが、校正はしなかったのでしょうか)

*誤読/誤解のしるし~余談
 因みに、書紀には「明帝景初三年」と「はっきり」書かれているようですが、中国史書では、皇帝没後、翌年改元されるまでの期間は、単に「景初三年」と書くのが、厳格な規定であり、書紀は、魏書/魏志を正しく引用していないのです。
 この場合、明帝曹叡は、元旦に逝去したので、景初三年が「明帝景初三年」と書かれることはないのです。

 書紀編者は、よほどの物知らずから聞かされた、ごみ情報を書いたのでしょう。書紀編者を、誤謬を「はっきり」書いた「浅学非才」の馬鹿者との非難、不面目から救うとしたら、元々「明帝景初二年」と正しく書かれた佚文を、見習いの実務担当者が書紀に採り入れる際に、達筆佚文を誤読して、「明帝景初二年」と書いたとでも言い訳するのでしょう。
 あるいは、継承経過不明の書紀のいつ、誰の手によったかわからない写本継承の際、その際の誰ともわからぬ写本者が、小賢しく追記したのでしょうか。中国では、正史の帝室保存の至高写本、時代原本を次代に継承するのは、その時点の王朝の国家事業として取り組み、その時点の良質写本とも照合して、当代「本」を確定した上で、最高の写本工が写本し、厳格な校訂を経て、初めて、写本を当代本と交代させる手順を踏んだはずですが、天皇家を至高の存在とする書紀は、武家政権にとっては、悪書の極みであり、いわば、禁書の類いともなりかねなかったので、書紀の写本継承は、古来、いずれかの寺社の秘めやかなものであり、時代の叡知を集めた国家事業ではなかったので、写本の正確さには限界があったと推定されるのです。
 古来、中国正史の伝承を見ても、厳格な校訂を維持しなければ、つまり、一度でも、ぞんざいな写本がなされたら、写本には、誤字、誤写、誤釈が繁茂するのです。

 まあ、精々弁護しても、書紀の「魏晋代」記事伝承は、中国文化に対して厳格な「修行」に欠けた、素人仕事の積み重ねなので、多分、無学無教養な東夷にありがちな間違いなのでしょう。当時の日本で、中国古典権威者は、一字一句の編集校正をしなかったのでしょう。いや、この部分は、両氏に責任の無い余談です。

 再確認すると、両氏が採用した原史料解読は、景初二年上洛なので、このようなつまらない余談は無関係なのですが、倭人伝解釈は、古典解釈の常識の通らない渡世なのです。

*「通読を終えて」
 両著者は、本章の最後に「通読を終えて」と感慨を述べていますが、「古典の解読では、先人の読み方に異をはさむのに急で、自分の先入観に惑わされた読み方をすることが多く見られる」とは、見事に見当外れです。自分に先入観があれば、先人にも先入観があり、先人の読み方に無批判に追従することは、大局を誤るものと考えます。起点とすべきは、史料原文であることを再確認すべきなのです。

*原著者最優先ということ
 「先人」の誤りの大半は、原史料たる倭人伝に縁も所縁(ゆかり)もない、「国内史料」と言う、つまりは、倭人伝にとっては異界の史料から生じた先入観に囚われて原史料を改竄、創作して読み進むことから生じている過誤に起因していると思われます。

 文献解釈で最優先すべきは、原著者の意図、真意を察することであり、いかに高名でも、「先人」は原史料解釈に於いては、一介の初心者に過ぎないことを説きたいのです。もちろん、「先人」の読み方は、国内史料に関する学識の厖大な蓄積に立脚しているのですが、原史料の起点を理解していないとみられる場合は、まず、「先人」の読み方を、虚心な坦懐に批判する必要があるのです。

 と言うことで、倭人伝解釈の原点を再確認すると、万事、原史料本位、原史料起点の解釈が必要なのです。倭人伝は、編者陳寿の著作物であり、何よりも、原著者の深意を察することが始点なのです。
 史実は、原著者の深意を解読した上で、次段階で追求すべきなのです。
 以上、「邪馬台国論争」で、滅多に語られない原点確認なので、ことさら、ここに書き立てたものです。

                     未完

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 2/2 改訂

中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり   2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24

*三国志上程余談
 遡って、当段落では、「倭人伝」を初めて読んだのは、誰かわからない』と、まことに意味不明の愚問を呈されています。
 愚問に愚答を返すとして、話題を、陳寿最終稿に絞ると、まずは、陳寿自身であり、次いで、陳寿の遺稿を写本した写本工であり、さらには、それを、陳寿編纂「三国志」として上申した官人となりますが、皇帝が嘉納して初めて官許を得たとみれば、「三国志」を最初に見たのは、(皇帝を除けば)担当高官となります。

 なお、陳寿は、別に三国志編纂を秘匿していたわけではないので、少なからぬ知識人が、陳寿の稿本の写本を所蔵していたはずです。
 諸所に残されている諸般の批判、世評、風聞をみると、陳寿の編纂の過程で関係者の意見を聞くなどの取材が行われていたことの証左であり、西晋高官の許可を得ていたことを物語っています。

 「愚問」と断罪したのは、その人名を知っても、何の意味もないからです。

 世上、陳寿の編纂を私撰と誹る向きがありますが、古来、公認を得ず史書を編纂するのは大罪であり、斬罪処刑の対象です。漢書を編纂した班固は、当初、公認を得ていなかったため、史書私撰の大罪で告発されて下獄し、あわや処刑されるところを、高位の女官であった妹班昭や西域都護に属していた弟班超の助命嘆願で許されて、任官して史書編纂を公認され、漢書を完成しています。いや、正確に言うと、班固は、政争に巻き込まれて、漢書未完にして処刑され、文筆に優れた班昭が、兄の遺業を引き継いで完成させています。正確には、漢書は、班固、班昭の共纂とすべきですが、班昭の名は滅多にあげられません。

 陳寿の編纂に司直の手が伸びなかったということは、高官の援護のある、官撰に近い編纂であったことは明らかです。官撰史書となるには、皇帝に上申して勅許を得る必要があったので、陳寿の存命中は官撰と言えず、没後に皇帝の裁可を得て官撰となったものの、編纂者が当然行う、序文の整備ができていないのです。
 因みに、上申稿に序文をつけて完成形とすると、皇帝の裁可無しに決定稿とした不敬で処刑されかねないので、上申の際には、序文の欠けた「不完全な未定稿」としたものなのです。
 古田武彦氏の考察(「俾彌呼」ミネルヴァ書房)では、当時、上申書籍の決定稿の裁可後の仕上げの手順としては、三国志巻中に収められて上意を得ていた序文(東夷伝序文)を本来の位置に移動し、後跋を付して補筆を完成する想定だったそうですが、編者が没していて、遺命も伝わっていなかったため、序跋不備で画竜点睛を欠いているとのことです。まことに筋の通った提言ですが、多分、定説となることはないでしょう。

 このように、陳寿の没後、程なく西晋帝室に陳寿遺稿が謹呈されて嘉納され、帝室原本として収納された後、公認された帝室原本を基点として、子写本を起こし、次いで、子写本から孫写本と、少なからぬ数の初期写本が出回ったはずです。少なからぬとは、百部まで多くはないが、数部という少ないものでなく、二十部程度だろうということです。当然、西晋帝室写本工房が、世界一の権威をこめて、全力を振るった、高度な写本が行われたはずです。

 因みに、三国志編纂時代は、依然として、帝室蔵書は、簡牘、恐らく伝統的な木簡巻物であり、下って、范曄「後漢書」時代も、建康が長江流域ということで、竹簡巻物が正式写本のはずです。何しろ、伝統的な工房ですから、後漢代に普及しはじめた「蔡侯紙」といえども、四書五経、仏典、四書などの蔵書は、簡牘巻物が長く続いたはずです。

 一方、西域乾燥地帯などで出土した呉志(それとも、東呉史官編纂の呉書?)紙写本断簡は、明らかに民間写本であり、恐らく、旅行者/商人の携帯が前提の紙写本でしょうが、恐らく、簡牘巻物から写本しやすく荷物にならない紙巻物類と思われます。何しろ、現代では普通至極の「コピー用紙」風の単葉紙は、ページ毎の構成が固定されるので実務に適さず、巻紙に書き連ねることが普通だったでしょう。また、文書としても、巻き上げる方が扱いやすかったようです。ひょっとすると、現代でも、仏教のお経に見られるように、巻紙を折り曲げて製本していたかも知れませんが、出土遺物は、巻物の一部と見えるのです。
 いずれにしろ、出土遺物は、写本の信頼性で言うと、帝室写本に近い正式写本とは思えないのです。つまり、三国志現存刊本との異同は、異本とみるべきか、誤写、改竄とみるべきか、確かではないのです。いずれにしろ、素性不明の僅かな断簡で、現存刊本の記事の当否を云々すべきではないのです。

 何しろ、耐久性の実証された簡牘巻物と異なり、紙文書の耐久性、例えば、吸湿による変質や紙魚食いなどの対策が確立されるのに時間がかかったことでしょう。一方、民間では、補完、形態の難点解消が優先されたでしょう。

*「読者」裴松之ということ
 三国志の最重要読者は、百五十年後、晋朝南遷行幸の地で、南朝劉宋官人として付注した裴松之でしょう。
 同時代の「後漢書」編纂の范曄は、三国志講読の動機が不明です。「後漢書」倭伝は倭人伝に似た「お話」を載せますが、史官の用語、文体では書かれてないし、魚豢「魏略」が底本の一部とも見えますが実際の所は、全ての詮索が不確かなのです。

 後漢書は、先行史書を明快に書き改めたこともあって、文章表現として明解で、断じて読みやすいとされていますが、史書としては「正確さに欠ける」落第作との批判とも見えます。

*「倭国大乱」の愚~世界観倒錯
 一例として、後漢書に、倭国「大乱」とありますが、史官辞書で、「大乱」は天下が乱れて天子の地位を争う非常事態の用語です。陳寿は、蛮人である倭人の内紛に「大乱」などと「たわごと」を書かなかったのです。

 これに対して、笵曄の属する南朝劉宋は、後漢が崩壊した霊帝没年以来、「大乱」の果てに、三国鼎立、つまり、地域自立という形の安定期に入ったのに満足せず、南部の両反乱分子を討伐し収束し全国統一の難業を成し遂げた晋が、あろうことか、王族内紛というお手盛りの「大乱」で秩序を乱し、北方異民族の軍兵を招き込んで、遂に亡国となった結果、中原世界という天下を失った晋朝残党が旧賊地に設立した流亡政権東晋を継いだ流亡の政権であり、劉宋高官であった笵曄は、今さら、古典用語にこだわることもなかろうと蛮人「大乱」に何とも思わなかったのです。

 陳寿「三国志」は、中原政権である曹魏が、南方の二大「反乱分子」と対峙したという形式を取っているものの、実は、三国それぞれが、大義名分を抱えていたという「形式」を踏まえていますが、劉宋は旧「反乱分子」の故地に逃げ込んでいて、中原回復のめどがたたない「惨状」にありました。
 東晋代の書家王羲之(書聖)は、残された「喪乱帖」で、 晋の南遷以後、天下は乱れ、故郷郎邪に残された父祖の墓が荒らされていると歎いていますが、 後世、そのような「喪乱」 は、司馬氏の乱行によるものであるとの非難が定着し、さらには、そのような司馬氏に、むざむざ天下を奪われた曹氏の不始末を非難する風潮があったことから、三国鼎立は、漢の名分を嗣ぐ蜀漢が統一すべきだったとの風評が起こったようです。
 いずれにしろ、笵曄は、曹魏に対して、かなり冷淡であったと考えていいようです。
 陳寿から范曄までの百五十年間に、中国知識人の世界観は、大きく倒錯するに至ったのです。

 このように、世界観倒錯後の笵曄が、「陳寿が古典的世界観で編纂した倭人伝」を、「謬って」解読し、中原世界を喪失した「謬った」世界観で「後漢書」を書いたのは、明らかですから、そのような史書としての危うさを脇に置いて、行文の流麗さをもって褒めそやすのは、范曄が問題のある不正確な史書を物したと、暗に非難していることになるのです。

 杉本氏、森氏の意図は、そのような「春秋の筆法」にあるのでしょうか。一般読者向け書籍は、素人にもわかるように、明解に書くべきではありませんか。

 以上、両氏には、苛酷な批判かと思いますが、御両所の高名に惹かれて購入した読者は、それ故、無批判に追従しかねないのです。そのため、本書については、労作としてその価値は認めるものの、倭人伝の誤釈という悪しき伝統(誤伝)の蔓延拡大という見地から批判すると、悪書の誹りは免れないのです。
 もちろん、御両所が、諸悪の元凶と断じているのではありませんが、「先人」の諸悪を、拡大再生産したという点では、率直に指弾せざるを得ないのです。

                             この項完

2021年7月23日 (金)

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」1/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

はじめに~NHK番組批判の弁
 今回は、NHK番組の批判ですが、下一の報道機関である公共放送NHKが、古代史分野一機関の粗雑な仮説を、十分検証せずに番組制作した点に批判の重点があります。以下、番組進行順に、即席の批判を積み重ねたので確認いただければ幸いです。(素人著作の批判とは別世界です)

〇NHK番組紹介~NHKサイトより引用
 私たちが暮らす日本という国はどのように誕生したのか。神話の世界と歴史的事実をつなぐのが全国に4700基ある前方後円墳だ。今、最新の科学技術を使った研究から、新発見が続いている。番組では最初に築造されたと考えられている巨大前方後円墳の「箸墓古墳」の謎の解明を出発点に、それを築いたヤマト王権が一体どのように誕生し、日本列島の姿を変えていったのかに迫ってゆく。出演:松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか

〇粗雑極まる「タイトル」設定
 この番組紹介を見ると、まず「前方後円墳が語り出す」と言う怪奇現象に驚き、チャンネルを間違えたかと思うのです。二千年前に造成され、半ば放置されていた遺跡が今、声を上げて語り出すなら、現代人が陰に隠れた子供だましのお化け屋敷です。河内の古墳群の近傍は、うるさくてしょうがないでしょう。いずれにしろ、公共放送が、教養文化番組として製作すべきタイトルではありません。
 どうも、当番組は、国立歴史民俗博物館(歴博)宣伝番組のようで、タイトルも持ち込みかも知れませんが、NHKは視聴者からの受信料で運営される公共放送ではないのでしょうか。

 以上のように不吉な番組紹介を越えて番組を視聴しましたが、特定の団体に奉仕する内容は目を覆わせるもので受信料返せと言いたいものでした。

 因みに、雑踏となっている先入観を離れてタイトルを見ると、「ヤマト王権」は、「前方後円墳」の萌芽と成長に伴って台頭したという主張だけであり、これは、遺跡、遺物に基づく多数の研究者の合議体による「実直な考古学考察」に連携しているので、特に異論を述べる筋合いはないのです。いわば、鉄壁のご高説なのです。
 ところが、そのような「実直な考古学考察」定説を奔放に変形して、その萌芽を、倭人伝の描く三世紀にずり上げ、「ヤマト王権」の成長発端を、大幅にずり上げた無理がたたっているのです。
 学界全体で気づきあげた考察は、同様の時間をかけて、同様の合議体で審議して、初めて改訂できるものではないでしょうか。 

無批判、無検証の危うさ
 一番問題なのは、この番組には、従順な聞き役しか出てこないで、長々と「歴博」の勝手な(検証されていない)主張を無批判に踏襲することです。
 特に論敵「九州説」の主張を、勝手に代弁して揶揄していることは、公共放送による論争報道のありかたとして、論外です。よく言う(勝って当然の)独り相撲です。「歴博」と言うと公平な視点で運営されていると解されがちですが、多額の運営費用と有能な人材を投入して「纏向説」を高揚している「畿内派本山」と見えるのです。

 さらに言うと、番組が、世上論議が渦巻いているC14年代判定の「歴博お手盛り」の無謀な見解を無批判で採用するのは不穏です。本来、自然科学技術による客観的な判定であるべきものが、歪んでいると否定的に評されるのは、つまり「歴博」が存在意義をかけた独自判定で、念入りに判定者に圧力をかけたものと思われます。判定に要する最先端機器の、高額の運転費用を、意に染まない判定結果であれば、費用支払いに疑義を呈する、と言うか、次回以降の判定依頼を「考慮」するという言外の圧力は、むしろよく見かけるものであり、別に驚くものではないのですが、この事例では、ちょっとあからさまな形で露呈したようです。(安本美典氏の考察を参考していますが、自分なりに分析した物です)

粗雑な科学見識、大時代の内部闘争
 ニューオンが「見えない素粒子」とは珍妙な意見で、「見える」素粒子などありません。子供だましでなく、「科学的」に述べて欲しいものです。
 「殴り込み」など、反社会的団体風言動がそのまま出回っているのは、「畿内説」陣営内の不穏な動きを暴露しています。そして、それを、視聴者にぶつけるのは、NHKの品性を疑わせます。チェックなしなのでしょうか。

甘い判断
 因みに、松木教授は、軽く、箸墓が卑弥呼の墓なら、女王国は纏向しかあり得ないと断じます。それ自体、軽率で非論理的な、無用の断言です。畿内説論者でも、箸墓は、倭人伝に書かれている卑弥呼の墓 ではないことが明確だから、むしろ、宗女「壹與」の墓であろうとする論者が見えます。浅慮早計で、立脚点を間違えているようです。

 続いて、「三世紀文献、中国史書「魏志倭人伝」に従えば「九州説」も成立する」とは、けったいな独善です。
 伝統の倭人伝改竄戦略から撤退、転進したのでしょうか。

 このあたり、自陣営の過去の発表との整合が審査されていないようで、さらに、番組司会者から過去番組との関連に対して何の質問もないのが、奇っ怪です。

 

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」2/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

「ヤマト」王権~「文化」の詐称
 ヤマト王権が、七世紀あたりに、律令制度を敷いたのは、遣隋使、遣唐使の持ち帰った知識によるものであり、従ってそれ以前には何も法制がなかったと見ているはずです。

 各地にほかの「文化」があったと誤解を述べますが、文字の無い世界に文書はないから「文化」はなく、単なる、風俗習慣です。その証拠に、文書記録が皆無で、何も伝わっていません。

粗雑な列島展望
 さらりとごまかしていますが、筑紫、北九州に太陽の女神の信仰はなかったと言う主旨が述べられています。これほど重大な仮説をどさくさ紛れに開陳するのは、胡散臭い物がありますが、倭人伝に、「太陽の女神」は、一切登場しないのです。何を主張しているのでしょうか。

 そして、「列島最大」と言いますが、関東、東北はどうなっていたのか。いずれも重大な提言に説明がありません。仰々しい四千を越える墳丘墓の検証はなく、大半は「箸墓」論議です。奈良盆地内の他遺跡の考察も、ほとんどありません。まことに、胡散臭い自家製新説です。

不穏当な「ルーツ」論援用
 箸墓の「ルーツ」が各地に窺えるとは、「職人を大挙拉致し、奴隷として駆使した」との主旨でしょうか。

 造墓は大規模な技術集団を必要とし、技術を結集しようにも、言葉の問題以外にも設計図が読めなければどうにもなりません。職人拉致談義は、「ルーツ」と言う(語源に戻ると、大変)不穏当な用語のせいばかりでもありませんが、「神がかり」よりは、まだまともな考察です。

箸墓造営論
 箸墓は、石積みで覆われたとして、倭人伝で、卑弥呼の墓は、「冢」、つまり土饅頭であり、巨大なものは作れません。考証の齟齬でしょうか。
 王墓造成には、まず、候補地を決めて縄張りし、一大土木工事、それも、未曾有のものを施行しなければなりません。
 当然、多数の労力を長期間動員するので宿舎と食料が必須です。それは、国家として保有している官人、食料庫の他に設けなければなりません。期間中に必要な石材や材木を倉庫に貯めねばなりません。などなど、厖大、広大な建設現場が必要で、国家の中枢を離れたところに設けるものです。
 つまり、墳丘墓は、国の王宮などから、相当離れた場所に設けざるを得ないのです。王宮は、南の飛鳥や北の平城京あたりとも思えます。
 一部に、卑弥呼は、筑紫で君臨していましたが、晩年に畿内方面に移住し、そこで没して、墳丘墓に埋葬されたという「奇説」を聞いたことがあります。(「奇説」は、伝統的用法であり、褒め言葉です。念のため

 素人考えですが、こうした異論をすっ飛ばすとは、松木教授は余りに太平楽ではないかと思われます。それとも、良い度胸をしているのでしょうか。

〇急遽否定された武力統一
 ここで、松木教授は、従来の「定説」を覆して、ヤマト王権は、武力統一なしの合意国家と言います。学界を揺るがしかねない大転換ですが、纏向派は、いつ、どのような論議を経て、転進したのでしょうか。

 文書のない時代、列国は、対話、談合するのですが、話す言葉は不統一の筈であり、どうやって意思疎通し、合意ができたのか、合意の文書記録をどのように残したのか、まことに不思議です。近隣同士なら、日頃の近所づきあい、口頭対話で折衝が進められますが、離隔していて季節の挨拶しかできなければ、当然疎遠であり、まして、往来しようにも片道数ヵ月かかっては、新年の挨拶も粗略になりがちで、いつまで経っても、ほぐれる一方で固まるはずのない天下です。

 いや、そもそも、当時の交通事情を想定すると、遠隔地の国と喧嘩することも、同様に困難なので、中国戦国時代の秦国の取った「遠交近攻」の政策が賢明なのです。文書通信があり、街道での往来が容易であった先進国でも、隣り合っていればこそ喧嘩して争うことができたのです。

 「合意」と称して、諸公は騙せても、配下は、国益を損なう合意に納得しないはずです。武力で威圧しなくては、手前勝手な契約を押しつけることはできないのです。

 古代、漢武帝が、西域諸国の服属を求めて、百人規模の使節団を各地に送り込みましたが、服属どころか、使節団を一度ならず皆殺しにして、高価な手土産を奪い取った例が珍しくないのです。武力無くしては「説得」できません。

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」3/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

〇 空疎な「広域」観 
 つまり、互いに十分知り合えない「疏」状態では、広域国家も広域連携も幻想であり、飾り立てても空疎です。最近まで、畿内は「野蛮な」周辺地域と交流がなくて平和だったとの説が聞こえましたが、空耳だったのでしょうか。

〇「倭国乱」の真意~後漢書「大乱」の放棄
 むしろ、健全なのは、倭人伝に「倭国乱」とあっても、実際に戦ったのではないとする見解です。これに対して、当ブログの守備範囲外ですが、記紀に多数見られる戦闘や殺戮の記事は、全て虚構というのでしょうか。

「文化」「伝統」の蹉跌
 「文化」と「伝統」と言いますが、「伝統」は、先祖以来の氏族構成に従う「王位」継承を言うのであり、また、文字のない「文化」の融合などあり得ないのです。

〇 気象学「新説」の暴走
 続いて、突如、気象学ご託宣ですが、標本採取場所の気象災害は、妥当な見解でしょうが、広域災害を断じるのはどうでしょうか。

 ヤマト盆地が災害を受けにくかったとは不思議です。盆地は、降水量が少ないものの、東の山並みからの急峻な渓流で、多雨期には、出水、氾濫があったと推定されます。その意味では、大型建物を高床にしたのはもっともですが、一般人の住家は、どう水害対策したのでしょうか。
 いや、唐古・鍵遺跡のように、二世紀にわたって環濠が維持されていたとする見方は理解できるのですが、纏向に広域の環濠は見当たらず、用水路が目立つだけです。
 して見ると、近隣の唐古・鍵遺跡などの伝統考古学に基づく時代考証も必要ではないでしょうか。ヤマト盆地に、纏向しか無かったわけではないはずです。

 古道「山辺の道」は山腹を等高線で結び纏向扇状地に降りてないのです。巨大な湖沼の存在した低湿地が、次第に乾燥したのは、雨量が少なかったからではないのでしょうか。要するに、ヤマト盆地の時代推移すら、手軽に説明できるものではないと思うのです。

 因みに、余り語られないのですが、奈良盆地を南下して、吉野方面に進むと、冬季の寒冷は厳しく、纏向から赴いて越冬するのは、無理なのです。中には、吉野の高台に「吉野宮」を見る幻視客がいますが、高台で一段と厳しい寒冷地であり、纏向人は、冬季、屋内でも水がめが凍り付く気候に耐えられないと考えます。南に向かうと気候が温暖になると決め込んでいては、万事地図次第で、地に足の着いた時代考証が、根っからできていないのです。「歴博」は、土地勘一切無しで、地図上の線引きで迷走する事例が多発しているのですが、関係者は、誰も現地確認していないのでしょうか。

〇 天下中心幻想~子供だましの言い散らし
 ヤマト盆地は、「交通の要」であったと言いますが、四囲を山並みで守られた「壺中天」(まほろば)という古来の見方は、どうなったのでしょうか。纏向付近の世界観であって、飛鳥や平城京付近は、山並みに近いので、隔離された感じはさほどではないかも知れませんが、いずれにしろ、全体として、固く閉ざされた環境と見た方が、当時の「まほろば」秘境的世界観として適確なような気がします。

 いずれにしろ、壺中天が「交通の要」とは、河川交通が無いに等しく、陸上交通も、街道網が発達していたとは見えないし、あったとの立証が試みられていない以上、言いたい放題のホラ話のように聞こえます。言うだけなら、「自由」で「ただ」ですから、言いっぱなしにしたのでしょうが、公共放送の教養番組の場なのをお忘れなのでしょうか。NHKは、一切、番組内容を審査しないのでしょうか。

 大規模な研究組織に研究員が多数いれば、中には、自説で全組織を支配するような極端な思い付きを述べ立てる方もあるでしょうが、組織全体で構築、維持してきた考古学理論全体の整合性は、吟味しないのでしょうか。
 古来、新説の99㌫は、思い付きだけで根拠を持たない「ごみ」説に過ぎないのです。長年の定説を転覆させるような「新説」は、千年に一度でしょう。

 「日本」の前史時代を終えた時代、河内側からの峠越えの物流が至難で、大和川遡行も不可能事であったので、淀川・木津川水運に至便の平城京を設営したのを見落としています。さらには、平城京建都の最中に、北の木津付近に水運に適した恭仁京を設営しようとしています。奈良盆地が、交通至便というのは、空文だったとわかります。

 どさくさ紛れにも程があって、纏向から大阪湾に通じる大運河などという極大幻想が出回っていて、その一点だけで空論とわかります。傾斜地に運河を設ける絵空事は、不可能事と明らかです。実験不要の自明事項です。また、当時の河内平野は、奈良盆地から流入する大和川と南河内から流下する石川が合流後直ちに分岐展開して北に流れ、安定した「水運」など不可能だったとみられます。

東京一極集中の弊~時代錯誤依存症
 ここで、松木教授は、纏向は現代の東京のような「首都」と言い張ります。またも神がかったようですが、時代錯誤の塊です。

 現代の東京は、法治国家であって、統治機構が集中していて、企業本社が集中し、離島も含め遠隔地に及ぶ全国から、人材に加えてカネや資源が流入してくるのであり、別に自然現象ではありません。
 そのような社会機構と歴史の霞の彼方の古代纏向の仮想政権は、どこが共通でしょうか。不思議です。聞き役から、当然質問がありそうですが、台本にないのでしょうか。

 纏向には、当然、文書記録も法秩序もなかったのです。「国家」を運用するために財務機能はあったとして、通貨制度がないのに、どう計算して帳尻を合わせたのでしょうか。どこに、警視庁や高裁に相当する司法機関があったのでしょうか。法はなくても罪と罰はあったのでしょうか。とても、類推できるものではありません。

 「首都」の語義解釈もいい加減で、当時にあっては、と言うか、言葉として通じたとしても、精々大きい「街」に過ぎないのです。
 素知らぬ顔で、現代語を持ち込んで、時代錯誤を引き起こしているのは、中国古代文書の教養に乏しい纏向説の論議に良く見ますが、それにしてもまずい手口です。

「一都会」再現
 いや、現代語と言っても、若者言葉では、大きな街(まち)の語感になっていると聞いています。俗に言う、「人、物、金」を、磁石が「鉄くず」を吸い付けるように集めているとも見えます。実は、太古、「都」とは、「人、物、金」が一ヵ所に都(すべて)会する集散地、「一都会」という意味だったようですが、いわば、言葉が先祖返りしているようにも見えます。

〇 王者葬列幻想
 王の死にあたって、各地から多数が参集したといいますが、それほど多数の人間が、どのようにして、一斉に旅することができたのか説明がありません。どんな方法で告知して、期限厳守で出席を命じたのでしょうか。このような場合、遅参は死罪と決まっていましたから、何をおいても参集したことになるのですが、そのような「葬制」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、街道未整備で、従って、満足な宿舎はなく、宿舎がなければ食料や水はありません。現地調達としても、何を対価として賄い、物乞いせずに辿り着けると想定していたのでしょうか。焼き物のような器物は、街々の市での順送りで「一人歩き」して長距離移動しても、人は、日々何かを食べて、日々歩かなければなりません。そのような「犠牲」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、遠国からの参集者に過大な負担を押しつけないとしたら、各地の沿道では、公務の旅人には、無償で食事を与え、宿所を供じるとしなければなりません。どうやって、それを補償したのでしょうか。そもそも、太古、街道沿いに宿所などあったのでしょうか。何しろ、遠隔地もあるので、沿道全線を通じて、そのような制度を維持するのは、当時としては、厖大な負担になるのですが、なぜ、負担を強いられて、反抗しなかったのでしょうか。

 三世紀に、国家制度の裏付けがある、宿駅の完備した古代街道が各地に通じていて、公務の旅人は、身一つで移動できたと主張されるなら、証拠を示していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」4/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

〇 虚構の葬列~絵空事で済まない考証
 いや、(予定していない)逝去で、急遽工事に着手しても、墳丘墓の造成には五年、十年かかるから、参列者の準備期間はあったでしょうが、遠隔地から、手弁当、つまり、道中の食料を背負ってやって来て、帰国の途は、どうしたのでしょうか。
 三世紀に、参集する人々一人一人を、そのような命がけの旅に駆り立てたのは何なのでしょうか。それぞれ、故郷では、そこそこの地位にあったもののはずです。何のために、何を求めて、半年、一年、家族を放棄して、異国に出向くものでしょうか。生きて帰国しなければならないのです。

 これほど壮大な儀式を、手順書なしにしてのけるのは人間技と思えません。いや、番組では、CGによって軽々と壮大な儀式を描き出していますが、ご自分で手書きで、全人物を描き込んでみれば、絵空事を見せるのも、結構労力を要することがわかるはずです。各人が肉体を備え、故郷に家族のいる生きた人間であれば、絵空事どころではないのです。
 文献がなくても、各人の労苦は、容易に想到できるのではないでしょうか。

〇 「お墨付き」漫談
 ここで、纏向論者から「お墨付き」の比喩が出ましたが、文字も紙もないので、書き付けの「お墨付き」はあり得ないし、江戸時代ではないので武家諸法度などは無く、「お墨付き」には、何の裏付けもありません。「お墨付き」の類いの漫談は、そろそろ卒業して欲しいものです。いつまでも、留年を重ねて、すねかじりをされては、天下に迷惑を流すのです。

〇 「ネットワーク」漫談
 ここで「ネットワーク」なる時代錯誤が持ち出されます。聞き手の質問がありませんが、古代史論で何を言いたいのか理解に苦しみます。なぜ、問い返さないのでしょうか。聞き手は、たっぷり説明されて、丸ごと理解したのかも知れませんが、古代史に興味を集中している視聴者には、何もわからないのです。

 簡単に考証すると、「ネットワーク」のそれぞれの「節」は、送られてきた情報とエネルギーがあって生存できるのです。道路がなく文書がないと、全て、有能な使者の「野駆け」頼りであり、物品の輸送も、人手頼りです。と言うことで、「網細工」は実現できません。漁網であれば抜け放題です。
 要は、各地勢力は、まばらに点在していただけで、密接な連携などできたはずは無いという、冷静な理解が必要です。
 むしろ、「点と線」と、松本清張氏の名作のタイトル(著作権?)に抵触する、古典的な比喩が出てくるのです。古代史分野では、時代を問わず、「ネットワーク」は禁句にしたいものです。

 何がどうだったのか、皆目わからない古代の様相を描くのに、自分でも理解できていないカタカナ言葉を使うのは、二重の時代錯誤です。
 そんなたわごとは、少なくとも、古代史論議では、ご勘弁頂きたいのです。借り物の言葉は、早く貸し元に返して、自分の理解した言葉で語るべきです。自分のネタで漫談してほしいものです。

華麗な画餅
 松木教授は、締めくくるように、見てきたような借り物の纏向絵図を持ち出しますが、ここまで丁寧に説いてきた考古学の道筋を無視して、怒濤の虚像を描くのです。ご自分で考証したのでもないのに、無検証、無批判なので借り物なのです。
 因みに、古来、「画に描いた餅」、「画餅」の比喩があります。空腹を抱えた身に、食べられない画餅は、ご勘弁いただきたいのです。いくら、きれいに描いても食えないものは食えません。まずは、ご自分で味見してから、視聴者に勧めたらどうでしょうか。

冷静な時代考証
 最後に、横合いから良心的な意見が提示されて、巨大墳丘墓は、設計図が必須であり、設計図を駆使できる共通基盤が不可欠であるとしています。墳丘墓に実寸図面は使用できませんし、実現には、当時としては厖大な縮寸計算か、現場での作図が必要です。当然、幾つかの技術者集団が巡訪して、できる限り口頭で技術移管したと思うのです。もっとも、文字も紙文書も無い時代、「設計図」は、どこに書かれたのでしょうか。
 考古学分野で、実際のあり方を踏みしめていた森浩一師の実直な論議はどこに消えたのでしょうか。長年の纏向派の論議の基盤を覆す、掌を返すような転進は無残に見えます。

古典派考古学希求
 ここまで控えていましたが、「纏向博士」と時に揶揄された石野博信師は、多年に亘る考古学学究から得た広範、多岐の遺跡、遺物に根ざした考察が根底にあり、確たる考察に裏付けられた信念を感じさせましたが、今回聞いた松木氏の歴史浪漫にわけ込んだ「浪漫派」論議は、浪漫溢れる巨大な「ヤマト王権」誕生の三世紀幻図に引き摺られて、理念無くして意見が動揺し、素人には信じがたいのです。

無目的なブレゼンテーション
 それにしても、この番組を、一人舞台、独り相撲としたのは、誰に向けた提案(プレゼン)なのでしょうか。少なくとも、当方は、こんなメシは食いたくないと思うのです。

 ひょっとすると、過日の「邪馬台国サミット2021」で、不振であったことに対する「意趣返し」でしょうか。それなら、物量主義でしてのけた華麗な「プレゼン」でなく、検証と試錬を重ねた丁寧な論議が必要ではないでしょうか。それは、NHKが論じるべきではないでしょうか。

 善良な視聴者、納税者としては、「金返せ」と言いたいところです。
                                以上

2021年7月22日 (木)

新・私の本棚 安本美典 季刊邪馬台国 第12号 魏晋朝短里説批判 1/1 補充

  梓書院 昭和57年春号 (1982/5発行)
私の見立て ★★★★★ 必読       2019/07/18 補充 2021/07/22

*地域里論の嚆矢
 当方の倭人伝里制に関する行脚は、ようやく、原点回帰できたようです。当記事によれば、安本美典氏の「地域里論」に対して、古田武彦氏は、(後に)「魏晋朝短里説」に固執し、今日に到る不毛な論争が始まったようです。

 当方も、両氏の確執を含め、道里論の混沌を避けていたため理解が深まらず、十年余の停滞の果てに、ようやく短里説論争の原点を見極めたのです。
 倭人伝記事という原点から発して、安本氏は、史料のもとに足を留めたのに対して、古田氏は、こころの命ずるままに荒野に足を踏み出したのだなと、感慨ひとしおです。後年の熾烈な較差を思うと、別れ道は僅かな見解の相違だったのです。そして、この件に関して、当方は、安本氏の行き方を支持するものです。

*短里説内紛の経緯
 安本氏は、いち早く、倭人伝道里は、中国の四百五十㍍程度の普通里でなく、せいぜい百㍍程度の短里と検証しています。(先行者を認めた上で)
 古田氏は、「三国志一貫里制」を信奉した「三国志短里説 」から、魏朝が公布した「里」が、後継の西晋まで継承されたとの「魏晋朝短里説」に道を採ったのですが、今日に到るも、そのような公布施行を証する資料は見出されていないのです。
 安本氏は、一貫して、帯方郡から倭までの行程に限定した「地域里制説」を唱えたのですが、古田氏が拡張した「魏晋朝短里説」の論争が激化し、氏の正当な説は影を潜めたように見えます。

*一解法の提案
 当方は、本記事に先立ち、倭人伝に即した一解法を提示しました。
倭人伝記事は、帯方郡人士によって、帯方郡の地域事情を根拠として書かれたため、独特の「地域里制」によって書かれた可能性が否定しがたいこと
魏書編纂にあたり、倭人伝道里は、整合不可能であったため、冒頭で、独特の地域里制を用いたことを「地域里制」として明示していること
 具体的に言うと、「郡から狗邪韓国まで七千余里」と帯方郡拠点への里数を明記し、「地域里制」の校正を可能にしているのです。

 陳寿は、編纂に際し、「地域里制」の確証が得られなかったため、史官としての本分に順い、普通里制との整合は保留し、倭人伝自体の整合を第一義としたのです。

 それにしても、未だに、魏使は洛陽人士と誤解している論者が、頑迷に地域道里に反対し、「誇張説」、「虚構説」が跳梁跋扈し、議論が収束しないのです。論拠が砂上だと、いくら堅固な論考を立てても、空しいのです。

*史実で無く、真意の究明~最初の一歩
 倭人伝解釈は、史実の究明と解している向きが多いのですが、当方は、まずなすべきは、陳寿の真意の究明との視点から、所論を公開しています。つまり、陳寿が、倭人伝を書いた際に構想した里制を、倭人伝記事から解明するのが、第一義なのです。

 それは、必ずしも、当時、現地で通用していた里制とは限らないし、まして、魏朝治世下の全土に施行されていた里制とも限らないのです。

 込み入った課題は、少しずつ解きほぐすのが最善策で、苛立って、一刀両断してしまう武断策は、この際、辛抱が足りないのです。

*論争終熄の提案
 八十年代冒頭の時点で、安本氏は、史料に即して倭人伝の「地域短里」制を提示しましたが、②「地域里制明示」指摘を備えなかったため、折角の正解が、古田氏の「魏書統一里制」なる、いらざる拡張に抗し得なかったとみえます。

 古田氏は、「物証より論証を信念とした」ため、正論とした短里説拡張に対する反論には一切歩み寄ることがなく、用例検証の泥沼にはまったようです。氏の急峻な論法は、支持者と共に反論者も硬化させ、全三国志の用例を総覧して、逐一、それぞれの「里」を考証するという聖戦のごとき泥沼は今も続いています。
 しかし、複数件の不確かな用例を緻密に検証しても、それは、それぞれ一個の用例における「里」長を証するに過ぎないのです。帯方郡に「地域短里」があったという主張に対して、別の地域で、別の「地域里制」が横行していたかも知れない、と言う「不確かな」主張に過ぎないから、何件集まっても、倭人伝の明記された記事を覆す効力は無く、論議は一向に進まないのです。いや、進展させる方法があれば、とうに進展していたはずで、進展しないのは、歴史の必然と言うべきです。

 古田氏の言うとおり、不確かな物証は、数多く集めても、不確かなままであり、確かな主張にはならないのです。

 国の土地制度の根本である「里」の六倍規模の伸縮は、国政を揺るがす大事なので、皇帝に上申されるまでに多大な審議がされるはずであり、例え皇帝が「里」の大幅変更を裁可しても、その実施に際しては、多数の制度変更と全土における大規模な「土地台帳」改定、それには、多大な計算が必要となるのですから、とても、ひっそり実施するわけにはいかないのです。

 そして、そのような魏朝の短里制布令・施行の裏付け史料も、晋朝の里制復元の布令・施行の裏付け資料も「皆無」です。何より、正史晋書地理志にも、何の記載も無いのです。


 古田氏の「魏晋朝短里説」評価で言うと、四十年近い歳月を消費した「魏晋朝短里説」の終熄ができないため、古田氏の諸論が、まるごと「頑迷な異説」の箍をはめられているのは、公的な損失です。いくら古田氏の提言の主眼であろうと、これを神聖不可侵とするのは、必ずしも、古田氏の遺徳を高めることにはならないのです。

 そして、安本氏の正論が、うやむやのうちに、諸説の玉石混淆の泥沼に埋もれているのは、残念の極みです。安本氏は、一刀両断で、魏晋朝短里説に引導を渡し、葬り去ったとお考えなのでしょうが、一向に、明解になっていないのです。

                                完

2021年7月19日 (月)

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 1/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*NHK番組案内
[BSプレミアム] 2021年07月18日 午前11:58 ~ 午後1:57 (119分) (参考:NHKオンデマンドで配信中)
 私たちの遠い先祖たちは、何を考え、どう生きたのか?縄文・弥生・古墳、3つの時代をめぐり、最新の発掘や研究成果から“古代人のこころ”に迫る2時間スペシャル!
 出演者ほか 【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】松木武彦,荒俣宏,いとうせいこう,中野信子,【語り】松重豊

 詳細:個性的でミステリアスな姿が大人気の「土偶」。その顔の表現の変遷から縄文人のどんな心理が読み取れるのか?弥生時代の「テクノポリス」と驚きの「海洋経済ネットワーク」とは?カラフルな幾何学模様で埋め尽くされた「装飾古墳」には、人々のどんな心情が投影されているのか?縄文・弥生・古墳、3つの時代をディープに掘り下げ、現代の日本人にもつながる”古代のこころ”を探求。ロマンあふれる古代史の魅力をひもときます!


⚪初めに
 「古代人のココロ」を探る番組の新版である。「縄文・弥生・古墳」と列記されているが、一括して論じられないし、並記比較できるものでない。「最新の発掘や研究成果」は、検証不明であり、NHKの勝手な報道とも見える。
 貴重な受信料を投入して大騒ぎしているのは、何とも勿体ないことである。
 再放送を通し見の批判で、練れていないので、先行番組の批判記事と食い違ったらご勘弁頂きたい。

⚪通し批判
1.「縄文時代」
 まずは、縄文人の心に迫った構成である。何しろ、一万二千年にわたるらしいが、文字記録が皆無なので、憶測、推測に頼るしかない。
 当世人のこころと縄文人のこころは、明らかに、大いに異なっているという見通しを立てたはずだが、文化の刷り込みの違う異邦人まで交えて、縄文遺物の見てくれに対する感想を求めて、科学的論議としているのは不審である。
 追いかけて、磯田氏が、縄文土器の造りは、求めているもの(コンセプト)が、現代人の求めるコンセプトに通じないと主張して毒消しのようである。

2.「弥生時代」
 続いて、弥生人であるが、特徴として木製遺物の出土を言うが、縄文時代の木製遺物の出土有無がわからないので、比較になっていないように思う。
 稲作が大陸から渡来したというが、水田稲作は、地域ぐるみの共同作業であり、稲作技術を備えた集団が、各戸で必要な農機具や物差などの補助具、稲作開始に必要な稲もみなど一財産を携えて大挙渡来したことになるのである。
 当然、原住の縄文人を押しのけたと見える。互いに言葉が異なるから、土地を譲り合うことは、困難と思われる。つまり、紛争が想定されるのである。
 番組では、水田稲作集団は、技術者集団を伴ったと言うが、それなら、中国の小国中核部が、父祖の墳墓を棄ての移住と見えるが、考えにくい。

*「奴国」~「テクノポリス」幻想
 それにしても、仮想された「奴国」は、時代を超絶する技術を持っていたことになる。それほど隔絶した大国が、なぜ。歴史の中に消えたか、よくわからない。後漢初期に認知されたなら、魏代にも、後継王朝かどうか確認したはずである。説明がないということは、倭人伝の「従郡至倭」の目的地かと思われる。
 番組では、原住の縄文人が、渡来技術を使いこなしたとしているが、言葉を知らず、数を数えられない縄文人が学ぶのに、うまく行ったとしても、数世代を要するはずである。
                                未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 2/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*人工技術の幻妄
 磯田氏は、「不自然」な人工技術の新規性を賛美するが、先ほどまで縄文原住の者のココロを讃えていたのが急転直下で、人のココロは「豹変」と言いたいのか。

*カタカナ言葉の幻妄
 番組は、挙って生煮えのカタカナ語で新技術を褒め称えるが、当時、そのような言葉の価値観はなかったから、諸氏の内面の「幻想」に過ぎない。磯田氏は、しきりに、世界観、価値観の突出を語るが、もし、誰かがそのような意識変革をしても、伝わるのは至近距離に過ぎないのを忘れてはならない。
 当時は、この番組はないから、語られている世界観は、知りようがなかったのである。ここにあるのは、同時代に存在しない別世界の言葉である。

*墳丘墓談義の序奏
 歴博杉本氏は、弥生墳墓は、高い盛り土と決めているが、倭人伝記事では、封土に過ぎない。高塚は、堅固に石積みしないと、成立しないのである。氏の専門分野らしく滔々としているが、素人向きに言葉を改め誰でもわかるようにして欲しいのである。格闘技ではないのでキメ技名乗りは必要無い。

*硯新規発見
 そこに、文字利用の萌芽が、硯の出土によって裏付けられたという。しかし、従来発掘で、硯が出土していなかったとは、確信できないのではないか。
 先に描かれた技術者集団は、いかにして高度技術を伝承し、加工方法、加工手順を普及させたのだろうか。口伝だけだったというのだろうか。
 そのような高度な技術で、生産量を増やした稲作を、周辺に広げる際に、どのようにして、高度で握雑な新規が普及できたのだろうか。

*「ネットワーク」時代錯誤の怪
 中国銅銭出土を根拠に玄界灘を中核とする船舶「ネットワーク」なるカタカナ語を押しつけてくるが、浅はかな勘違いに過ぎない。海村は近隣海村と交流したまでで、乗り継いで遠隔の海村と連携したとは見えない。文書通信も高速大量輸送も無い時代に、カタカナ語を塗りつけた幻想戦術は畏るべきである。

*文書行政・貨幣経済の輸入
 磯田氏は、海村の民が、中国統治システムを帯方郡で学んだというが思い込みに過ぎない。郡からは通貨を学んだのではないか。等価物々交換に銅銭なる指標を取り込み、市場相場に応じた市糴、古代の市場経済というものである。
 そして、多数の留学生を派遣したり、先進国の高官を招請したりして、初めて、高度な文書行政国家が創設できたのは、歴史の示すところである。

3.「古墳時代」
 ここまで、九州北部、玄界灘の視野であったのが、突如、纏向箸墓を端緒とする百舌・古市古墳群に大きく飛躍するのが、当番組の離れわざであるが、今回は、なぜか関東が皮切りである。父祖の墓地を近郊に設けて命日に偲ぶのが日本人のこころのはずだが、関東古墳葬礼を描く。地域支配者の務めは、各集落への水分(みずわけ)であったと示している。整合しているのか不明。

*「馬」の導入~偉大な改革、謎の連発
 「関東」の支配者は、いち早く「馬」を採り入れて、地域の権力を支配し、ヤマトと交易したとの見解である。馬の繁殖と訓練には、先進地域から多くの技術者と成馬の導入が先決であるから、その由来は謎である。歴史上実現されたのは間違いないから、その歴史の証しが残されていないのを悼むだけである。
                                未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 3/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*関東の独立性
 当時、ヤマトは、関東を権力支配していなかったとは。素直な考証である。
 ヤマトが、墳丘墓を構築する技術者を、関東に派遣したとしたら、精々、工事請負だったということのようである。関東は、例えば、鹿島神宮の影響力で、会津方面にまで進出していたから、その技術が伝播したかも知れない。
 往き来するのに一年以上かかるヤマトが、例えば、関東の北の会津に影響力を及ぼせるものではないのであるから、当然の推定である。

*神がかりの高上がり
 そこで、突然神がかりの発言があって、「突出して高いもの、大きなものは、人々の理性を麻痺させた」と称しているが、根拠も意義も不明である。古来、奈良桜井の三輪山は、親愛と尊敬を受けていたはずである。麓に小山を築いて尊崇の念を奪おうとしたと言うが、賛歌を献げる歌人は出たろうか。
 荒俣氏は、「遠近法」に基づく錯覚/妄想を提案しているが、現代人の妄想を当時の人たちは知らなかったから、趣旨が不明なのである。

*史実の取り違え
 因みに、磯田氏は、ニューヨークの自由の女神を、アメリカのモニュメントとしたが、実は、仇敵イングランド王国から果敢に独立する努力を支援したフランス共和国が、両国の盟約を記念した贈り物/モニュメントである。場違いである。

*虚空のモニュメント
 松木氏は、墳丘墓を媒体(medium)にヤマトのココロを全国に発信したように言うが、金輪際物理的に成立し得ない妄想であり、各地が同調し共感しなければ「送りっ放し」で何も伝わらない。せめて、武装伝道師を派遣して手足と汗で稼ぐものではないか。
 それにしても、莫大な労力と物資の投入を、口答で指示したとは、まるで呪術である。いや、ここだけの話ではないが。

*横穴式石室の革新性~中国史料に記載なし
 横穴式石室の工法革新を掘り下げていないが、墳丘墓造成方法変革は、技術確立に要する試行錯誤を思うと、いずれか、先進地で確立された技術を身につけた技術者集団が渡来したと見るべきである。番組では無視されたが、横穴工法は、平地に墓室構築して石詰み盛り土で埋設した合理的工法と見える。
 墳丘頂上まで機材を持ち上げて掘り下げ埋設する素朴な技術とは雲泥である。そもそも、頂上は風雨や地震被害を受けやすく耐久性に疑問がある。
 後世の石舞台を見ても、巨石墓室に盛り土したのは明らかで、何れかの時点で、設計思想が「進化」し旧弊は淘汰されたと思うのである。

*墓誌の無い貴人墓の怪
 墳丘墓は大陸由来と言うが、貴人の事績を墓誌に残していないのが不審である。曹魏では、薄葬により墳丘を廃したが墓誌は必須である。なぜ、「日本」は、葬礼の必須事項を学ばなかったのだろうか。
 他の番組では、文書考証に弱いことを露呈した松本氏であるが、先行と思える遺跡考古学で、学識を出し惜しみしているように見えるのである。

*先入観の無い解説を求む
 結論を言うと、古代人とココロが通じている気がするのは、現代人の先入観で遺物、遺跡をこね回しているからであり、出席者は、一連の古代史番組を通じて何も学んでいないし、何も視聴者にもたらしていない気がする。
 それにしても、ここにしばしば展開されたような、現代人視点に汚染された歴史観は、後進/若者達は元より、後世に伝えたくないものである。

                                以上

2021年7月17日 (土)

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み 改 1/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
□お断り
 当記事は「倭人伝」の道里記事(道里条)を理解するための手掛かりとして、国別記事を「対馬条」などと見なしたので、条が小分けの階層です。

□倭人伝「道里条」(仮称) 考察
 郡から「倭王之所」に至る行程道里の里数と所要日数を書いた記事は、条仕立てと見ました。国別記事は、位置、官名、戸数を旨としています。

 最初の三条は通過点、四条目「伊都条」は、倭の要地(扇の要(かなめ))伊都を発して傍路国への脇道を示す道標記事と当該国の官名、道里が列記され、さらに、目的地「倭王之所」に着いて、所要日数と全国戸数を確認し、小国列記の後、「自郡至女王國萬二千餘里」で完了です。

 なお、⑷伊都条の小分け記事である①奴国条、②不弥条、③投馬条の三項は、さらなる小分けのように書いてみました。

 因みに、「道里」は古来、地点間の道のりを「里」(道里)と明示したものです。辺境で道のりが計測できない場合、所要期間を示したものと見ます。まことに、合理的な、土地事情に応じた制度運用と思います。

 ということで、目下焦点を当てている「道里」条を、とかく誤解の生じる概念図(イメージ!?)でなく、純然たる文章形式で示したものです。倭人伝記事の編集過程では、こうした記事構成の推敲を重ねに重ねた苦心の構成と想定されます。

〇道里条 特製版 (紹熙本原文に無い条名、改行、箇条記号を追加)
 從郡至倭 循海岸水行
 歷韓國乍南乍東
 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

⑴対馬条(對海国)
 始度一海千餘里 至對海國
 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
 所居絕島 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
 有千餘戶
 無良田 食海物自活 乖船南北巿糴

⑵壱岐条(一大国)
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
 官亦曰卑狗副曰卑奴母離
 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
 差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴

⑶末羅条(末羅国
 又渡一海 千餘里 至末盧國
 有四千餘戶
 濵山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉沒取之

⑷伊都条(伊都国)
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戶
 世有王 皆統屬女王 國郡使往來常所駐
 以下三項目は、条の態を成さない、はしたの挿入句です。
  ①東南至奴國  百里 官曰兕馬觚副曰卑奴母離 有二萬餘戶 (奴小条)
  ②東行至不彌國 百里 官曰多模副曰卑奴母離 有千餘家  (不弥小条)
  ③南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戶(投馬小条)

⑸南至  (邪馬壹国とあると、ご不快の方もあるでしょうから、配慮しました)

 南至邪馬壹國女王之所   (「都」を次行に移動)
  邪馬壹国は、国邑、つまり、「王之所」、居所、居城を隔壁で囲む聚落です。国も邑も、古代中原用語です。
  (一千家程度にとどまる小振りの国邑です)
  中原で国邑は土や石の城壁で囲まれていますが、邪馬壹国は、中州の島、洲島ではないので海でないとしても、環濠や城柵で囲まれています。

 都水行十日陸行一月
  「都」は、ここでは、全て、と言う意味であって、「みやこ」と云う意味でもないし、「まち」と言う意味でもないのです。
  つまり、郡からの所要日数を明記しています。
  倭は、蛮夷の国であるので、都(みやこ)は存在しない。正史の書法です。

  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮
  可七萬餘戶 (小国列記を省略)

⑹道里総括 
 自郡至女王國萬二千餘里
 「都水行十日陸行一月」、つまり、行程日数四十日に対応する、郡から倭に至る「全体道里」ですが、実際の道里に基づいたものでないのは、明らかでしょう。
 ともあれ、行程の千里単位で書かれた「主要道里」は、この総計道里に辻褄を合わせたものです。百里単位の端(はした)は、対象外です。

                              未完

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み 改 2/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
〇諸国銘々伝
⑴対馬条考~原文解釈の試み
 さて、対馬条「無良田」について軽重様々の誤解がはびこっています。
 良田を良い「水田」と解するのは可愛い方です。中国語の「田」、水田、畠を含んだ農地との意味は明白ですが、わざわざ「良田」無しと言う意味が捉えられていない気がします。
 現代感覚で言うと、痩せた農地で収穫不足、食べるに事欠いています、という声に聞こえますが、書かれた時代と場を考えないといけません。
 これは、対馬領主が、免税を願っているのです。農地はあっても、租税を納める収穫がないから、「良田」として報告できないと言い訳しているのです。
 一畝(ほ 百平米程度)を面積単位として基準収穫量を決め込まれ、その例えば半分を国が取り立てるとすると、収量が少ない耕作者の取り分がなくなって困窮するから、「無良田」と書いたのです。
 「禽鹿径 」を「けものみち」と「現代語訳」するのは、時代錯誤を招く安直な「誤訳」です。道でも路でもないのは、車の轍も、馬や牛の蹄鉄の後もなく、起伏をつづら折れで緩和していないことを言うのです。
 乗り換え、積み替えでしょう。「径」とは、「道」でも「路」でも無い「抜け道」のことなのですが、恐らく峠越えのごく短い乗り継ぎ径(みち)、峠越えの抜け道を「禽鹿の径」 と言うのでしょう。
 つまり、それ以外では、日常の市糴の荷運びがあるので、そこそこ整備されていましたが、当たり前のことは書く必要がないので、省略しているだけです。

*免税の里
 魏朝公文書である倭人伝対馬条に、特に「無良田」と書かれたということは、対馬は魏朝に(永代)免税を認められたということです。
 俗説のように、常々食うに事欠いていると解すると、対馬は、食糧難によって低迷していたことになりますが、そうでしょうか

*市糴考~壱岐、対馬の繁栄
 対馬条に、対馬の南北市糴が明記されたのは、対馬が自ら海船を造り、漕ぎ手を養い、壱岐、狗邪(韓国)との間にそれぞれ、定期便を往復させ、海港に倉庫を設け、定期的に市を開いていたのを、簡潔に記録したものです。
 こうした市糴から得られる食料は潤沢で饑餓はありません。中原制度にない商業活動による収入で、対馬はむしろ繁栄していたと見られるのです。
 倭の一員ではない狗邪韓国でも、港の倉庫と海市は、対馬官員が仕切ったはずで、これも、とても饑餓地獄の者のできることではありません。

⑵壱岐条考
 ここで、(土地)多竹木叢林と書いているのは、別に街道が叢林に埋もれていたというわけでは無く、宿から見ると、小高い丘に竹木叢林が繁茂していたと言うだけです。洛陽付近で見られない景観なので特筆しています。帯方郡からの道中も、半島の産地が多かったので、竹木叢林繁茂ではなく物珍しかったのです。

 街道が、対馬条にあるような峠越えの抜け道「禽鹿の径」かどうか明記していませんが、一大国内は、さほど、険阻な道でなく、日常の市糴の荷運びがあるので、そこそこ整備されていましたが、当たり前のことは書く必要がないので、省略しているだけです。いや、荷物搬送にわざわざ、山道を行くはずはないのです。 

*南北市糴送り継ぎ
 末羅国以降、市糴を書かないのは、当然だから、特記していないだけです。言うまでもなく、対馬だけで南北市糴できるわけはなく、港ごとに送り継いで海峡を越える市糴を各国一丸となって維持していたのです。

 また、一大国は、南北以外にも、東西に市糴していたはずです。よく言う日本海岸交易は、一大国(実名は、「天国」(あまくに)か)に発していたでしょうが、漕ぎ船では、一貫運用は不可能、無茶であり、あくまで、港々の送り継ぎだったのです。

*一大国方里の意義(對海国も同様)
 この場での論証は略しますが、一大国「方三百里」は、農地面積であり、三百「平方里」程度、ほぼ十七里角であり、住民が三千許家でも、農地閑散で貧困なのは記事の基調と符合しています。 (「九章算術」準拠)

 東夷伝高句麗、韓の「方数千里」は、両国の国土全面積(測量不可能)を表示したものではなく、農地面積の申告であるように、両島の「方数百里」は、両島の面積(測量不可能)を表示したものではなく、農地面積の申告なのです。

 いや、ご不満の方もあるでしょうが、道里なら、道里で表示したはずであり、表記が違うのは、単位系、次元が異なるためと考えます。

                              未完

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み  改 3/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
⑶末羅条考
 「濵山海居 草木茂盛 行不見前人」と字数を費やしているのは、海岸近くと内陸の様子が異なっていたということでしょう。

 まずは、海に近いところまで小屋があって驚いたのでしょう。玄界灘は、干満が激しく、また、風濤が押し寄せるので、海から遠いところに住まいそうですが、漁民は、結構海辺に舟小屋を建てたようです。中原はもとより、郡管内でも、このような光景は見かけなかったのでしょう。
 といって、末羅国は四千戸あり、耕作地を与えられた「戸」は、収穫物貢納の義務があったので、本拠は内陸にあって、半農半漁だったようです。
 ここでも、草木繁茂が見て取れます、労役動員の街道整備で切っても切っても生えるので、冬季以外は、草に埋もれかけていたのでしょう。

*沈没談義
 「沉沒取之」は、魏使にそう見えただけで、別に、素潜りで海底まで潜っていたわけでは無いはずです。中原で「沈」は、胸あたりまで「みず」にはいって、恐らく、脚をかいて進むか、バタ足で泳ぐだけで、潜水したとは限らないのです。誤訳、誤解の可能性濃厚です。

 中原に河川はあっても、さほど漁業は行われず、潜水漁業は皆無と見えるのです。少なくとも、魏使のような士人は、農林水産業のような一次産業に汗かきして手を汚すことはないので、正確な観察かどうか怪しいのです。
 多分、「金槌」だったでしょうから、水(みず)には、一切近づかないようにしていて、行程の渡海では、船酔いでのびていなければ、船の揺れの止まらない旅に震え上がっていたものと思われます。

 いや、いくら、地元の漁民でも、ゴーグルも何も無しに、潜水して、海底のアワビの採取などできなかったのではないでしょうか。恐らく、浅瀬で漁業に勤しんでいたのでしょう。
 産物の干し魚を広く売るには、煮干しが必要で、家族総出で、はらわたを取って、湯で加熱した後、天日乾燥で干物造りに励んだことでしょう。

⑷伊都条考
 伊都国には、以上のような風俗記事はありません。倭を代表する権威を持ち、街道、宿駅は、ちゃんと整備されていて苦言は無かったのです。

 戸数一千戸ですが、これは、さほど農地はなく、従って、「人口」は多くても、耕作している農民は少なかったということです。国の運用を担う官人が多くても、一種公務員待遇であり、課税されず、兵役、労役も免除されけていたものと見えます。それが戸数の意義です。
 何しろ、中国風の環濠などで囲まれた国邑であれば、一千戸単位の国しか考えられないのです。

 伊都は、韓国と文書交信していましたが、伊都に届けば倭に届いたと見ていたことがわかります。以後、伊都から女王之所までの送達に時日がかかっても所要日程に数えないし、その間の道里はあげないのです。
 いや、千里単位の概算計算に、百里や二百里は、はしたに過ぎないし、四十日の日程で、一日やそこらは、想定済みなのです。洛陽の皇帝にも、下読みする鴻臚にも、東夷の細々した辻褄合わせなどに関心はないのです。

〇各国条の意義
 以上の考察から道里条の主旨が一貫していると見るのです。それとも、特に主旨無しに書かれたのでしょうか。一度考えてみてください。

▢余談ー暴言の人弾劾
 古代史学界には、頭のネジが外れた大家がいるようで、『対馬は「人身売買」で食料を手に入れていた』と暴言を吐いたようです。「人身売買」は、浅慮の言い間違いで「人売り米買い」でしょうか。人を買ったら口が増えます。

 それにしても、不合理極まる暴言です。全島飢餓の時、口減らしするのでしょうか。手が減ると、農林水産全てが衰弱し、遠からず若者はいなくなります。「ファクトチェック」などと言わなくても、自分が言うことは、念には念をいれて、とことん裏付け取りすべきです。特に、罵倒どころでなく、刑事告発に近い発言は、絶対に、絶対を重ねてから発言すべきだし、そもそも、そのような「告発」実は「誣告」を公(おおやけ)にしてどうしようというのでしょうか。名誉毀損で告発されたらどうするのでしょうか。

 実際は、豊富な海産物もあり、さらに、交易で食っていけたのです。両島は無良田免税で穀物を備蓄し、異常気象の不作にも強かったはずです。

 頭のネジが不安な人は、弾劾される前に講演を辞退すべきでしょう。まさか、無償で講演したのではないでしょうから、「倍返し」、「三倍返し」と言われても反論できないでしょう。

                               以上

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」1/4  序章 再掲

  雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』  2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17

◯はじめに
*雑感
 本書は、以前から大型書店の書架で見かけていたが、何しろ、本文653ページの大部であり、また、本体価格で12,000円の高価な物だったので、内容に価格ほどの価値があるかどうかの懸念もあって、なかなか手が出なかったが、最近、古書の掘り出し物が見つかったので、あわてて購入したものである。
 一度、大型書店の立ち読みで流し読みして、手堅い論考に一目置いていたが、今回、自分の蔵書として、じっくり読んでみると、大変な労作であり、また、当ブログ筆者が最近「俗論」と勝手に呼んでいる、「通説」固執の議論がほとんど見られないので、一段と敬意を深めたものである。

*概要
 まずは、宮内庁書陵部蔵書である三国志宋版刊本(「紹煕本」)影印が綴じ込まれていて、これに続いて、凡例と目次を挟んで、句読点を補充し全29段の区分入り「漢字原文」が続いている。

 なお、「紹煕本」は「倭人伝」と小見出しして開始しているので、正式名称云々の雑音の毒消しになっているように思う。

 巻末の主要引用参考文献目録には、およそ、膨大な魏志倭人伝関係書籍群に加えて、魏晋朝時代の当時の社会動向、政治思潮を書き綴った岡崎文夫氏の「魏晋南北朝通史」 や邪馬台国に関する論考を集成した橋本増吉氏の「邪馬臺国論考」、さらには、松本清張氏の「清張通史-1  邪馬台国」等々、与党的と見える論考があげられているのは当然だが、野党的と見られる安本美典氏の「新考 邪馬台国への道」、そして、古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」があげられている。ただし、最終例は、「邪馬台国」のカギ括弧が抜けた誤記になっているのは、ご愛敬である。
 以上のように、書名を書き連ねたのは、本書が、安易な通説固執の弊を免れていると感じさせてくれると言うことである。

 本書著者は、自身明言しているように、「九州派」であり、不偏不党とは言えないが、根拠のない、度を過ごした偏見は見られず、また、野党的な論考であっても、採り入れるべき主張は採り入れるという姿勢が貴重である。

 ということで、さりげなく、「漢字原文」と書いたが、ごく一部の例外を除けば、影印本の記載に従った読み取りであり、従って、世に溢れている原文書き換えは、避けられている。

 著名な例で言うと、「邪馬壹國」、「一大國」、「会稽東治」、「景初二年」、「壹與」の表記が採用されている。中国史書である「倭人伝」を、中国史書として考察するという、当然の前提に従うものであり、当然の処置である。

*追記
・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、「国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない」との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。

 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)(日本列島の)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、その本質を追究して、史料としての価値を見極め、しかして、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。
 俗な言い方で気が進まないのだが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。
 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」2/4  序章 再掲

  雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』  2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されている。
 さらに、「先入観に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない」と主張している。

 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。

 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的な検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。

 本書刊行当時、すでに、三國志などの中国史料に対する(国内)考古学研究者の「反感」、「敵視」が顕著だったようで、世上、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まであるが、これはあくまで寓意としているだけで、本気でないことは言うまでもない。と言うものの、当分野の議論が、「学術論義」でなく、個人的な「信念」なり「感情」で大きく左右されていることは、見逃せない。

 本書は、倭人傳本文の評釈に先立ち、第二章 魏を中心とする三国時代史概観、と題して、後漢朝衰亡期に始まる一世紀あまり、乱世に堕ちていく政治、社会動向が描かれている。この期間に含まれる、倭人傳に所縁のある後漢桓帝、霊帝治世時の深刻な内紛も描かれている。

*「桓帝霊帝時」談義~余談
 以下、余談に近い、私見であり、氏の見解を云々するものではない。
「倭人伝」に見られる後漢桓帝、霊帝時なる時代区分が、実は、後漢の内征崩壊の露呈した時期であり、それまで、東夷の管理が、漢武帝が創設した楽浪郡による秩序だった管理が、新興の遼東郡による勝手な管理に堕したことも容易に想到できるのである。つまり、それまで、定期的な報告により現地事情をつぶさに把握し、しきりに訓令していた洛陽の管理部局が、東夷の管理を放棄し、遼東郡の気ままな管理に委ね、放任する時代になっていたのである。
 因みに、当ブログ筆者のこの時代に関する参考書は、主として、陳舜臣「中国の歴史」、宮城谷昌光「三國志」、それに、岡崎文夫「魏晋南北朝通史」(国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵は、内外両編揃い)であるが、あくまで、時代背景を知るための読書であり、厳密に参照しているわけではない。

 世上、「史料批判」の何たるかを知らず、また、先人によって、適確な史料批判が、既に徹底的に為されていることも知らず、ひたすら、「倭人伝」の史料価値の欺騙を叫ぶ無知、無教養な素人論者が見られるが、まあ、まずご自身の無知を癒やすべきと思うものである。
 無知は「やまい」ではないから治療のしようがないが、ご当人が気づいて、自覚是正すれば救われるのである。さしあたっては、本書が、妙薬となる可能性があるが、まさか、味見も咀嚼もせずに「鵜呑み」はしないだろうと思うのである。

*「概説」の偉業
 と言う事で、本書の冒頭では、概説篇として、陳寿「三国志」とそれに先行する史料である「三史」(司馬遷「史記」、班固「漢書」、笵曄「後漢書」)、さらには、三国志に隣接する魚豢「魏略」について、適切な概評が加えられている。
 また、時代、地理背景として、(後漢末期)遼東郡が半島中部に設けた帯方郡を経て、海峡の向こうの東夷に管轄を及ぼすに至った経緯とその滅亡が説かれている。

 薄手の新書版では、当然本書の真似はできないが、その際は、本書の該当部分を参照する「注記」を書き込んでおけば、一々再現する必要はないのである。適確な参照は、無理な短縮紹介に遙かに勝るのである。言うまでもないが、当節はやりの軽薄な新書「倭人伝」談義は、思いつき、思い込みを怒鳴り立てるのではなく、本書などの先賢諸兄姉の著作を踏まえて書くべきである。いや、言うまでもなく、これは、自戒でもある。

未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」3/4 「倭人在」再掲

  雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』  2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17

鵜呑み」論 - まくらに代えて
 本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって、飲み込み、消化するものである。
 鵜は、鳥類であるから、歯も舌もなく、川魚を、囓りも味わいもせず丸呑みできるのだが、人は、人類であるので、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。
 人は、決して、鵜の真似はしないのである。低級な比喩は、早く撲滅したいものである。 

-第二部 評釈篇 第一段 総序
*「倭人伝」事始め 「倭人在帶方東南」
 前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
 知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」には、小見出しは存在しない。

 「紹熙本」は、「紹興本」と共通した北宋刊本「咸平本」に依拠している。

*官業から民間事業への移行~余談
 以下は、「紹凞本」の由来を確認するものであり、一部説かれている「坊刻」、つまり、官業でなく、民間事業に托したことを殊更批判していることに対する反論である。特に、書誌学的な事項に興味がなければ、「紹熙本」の史料価値に影響を与えるもので無いとの趣旨を理解いただければ、深入りは不要である。

 南宋創業時に、北宋亡国時の「国難」を逃れて河南に逃亡し、再集結した天下一の英才が結集し、国富を傾けた経書、史書の「国家刊刻事業」の一環で、国史「三国志」として「紹興本」が刊行されていた。
 「国難」は、北方異民族が中国文明の撲滅を図った徹底的なものであった。
 文書破壊は、四書五経そのものの棄却、焚書に始まり、史記以来の正史に到る書籍類が根こそぎ駆逐され、更に、復刻をも許さないとして、木版印刷の版木に到るまで破壊したのである。地域としても、江水、つまり長江流域までに侵略が及んだので、実質的に、宋代の刊本事業は、壊滅したのであるが、侵略者は勢力を後退させ、江水流域は、南宋として回復したのであるが、広く成された破壊は、甚大な打撃を与えたのである。
 西晋滅亡時には、異民族の軍に洛陽が蹂躙されて、皇帝、皇族が連行されたが、難を免れた皇族が江南に逃れて、東晋として再興し、その際は、民間中心、辺境地区に、比較的良質な古典書籍類が、辛うじて生存したようであるから、祖のような国難すら越えて、未曾有の甚大な被害と言って良いようである。

 さて、国家事業として再度取り組まれた三国志復刊事業で、「紹熙本」は既刊の「紹興本」より優れていると判断され、刊刻に付されたが、「国家刊刻事業」計画としては、「三国志」の刊刻は終了し、他の経書、史書の刊刻にかかっていたから、計画外の民間事業に附託したので、時に「坊刻」と称されるが、それは、「国家刊刻事業」の枠外、予算外で、あえて刊刻したと言う事であり、別に、質を貶める根拠にはならない。
 因みに、国難以前の北宋時代、刊刻は、国家が独占的に実施していたが、亡国、南遷によって、中原に分布していた関連事業は壊滅し、辛うじて、江水、つまり、長江沿岸に展開されていた刊本事業を復元して対応したものであるから、その際、古来、国家事業として運営していたものの多くが、民間事業に移管されたのである。

*「青磁」の起源~余談
 参考であるが、北宋に至るまで、天子の執り行う礼式に使用されていたのは、殷周代以来、精巧な青銅器が伝世されていたのだが、北宋壊滅時、神聖な青銅器の避難が叶わず、南遷した南宋朝は、天子の執り行う礼式の祭器に事欠くことになったのである。そのため、「青磁」と呼ばれる精巧な時期が創出され、青銅器に代わる祭器となったのである。
 歴代の天子は、太古以来継承された祭器を正当に継承していることが権威の根拠とされたので、青銅器に代わる「青磁」は、本来、尚方という名の帝室工房に独占される門外不出の技術であるはずが、南遷に伴って異動した尚方には、必要な祭器を制作するのに必要な技術、技術者、製造設備が備わっていなかったため、民間に委託せざるを得ず、結果として、青磁の技術は、次第に民間に流出したと見える。

 刊刻事業は、文書を木版に刻む技術と版木を用いて印刷を行い、製本する技術が必要であるが、南宋再興期、国家事業といえども、民間の事業に移築せざるを得なかったと見えるのである。それは、印刷に適した、優れた品質の用紙の製造技術についても、同様であったと見える。要するに、北宋初期に完成した印刷製本技術は、帝室尚方が成し遂げたものであるが、それが、南宋期に、民間に開放されたと見るのである。

*「紹熙本」談義
 三国志で言うと、「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に審査、校正が完了し、確定したことから「紹熙本」と命名されたのであり、印刷、製本、公開が、どの年間であるかは関係無いのである。「紹熙本」は、現代日本語の表現でないことに留意頂きたい。
 ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して。重複と見られかねない改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、「紹興本」に勝るとも劣らない価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。
 推測するに、侵略者の侵攻を免れた「蜀漢」旧地である成都付近の蔵書家から、北宋刊本の良質写本の提供があったように見える。

*「倭人」論再開
 さて、小見出し論を終えて本文に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。
 著者である水野氏は、これは、中国唐代以前の「日本人」に対する呼称であるが、自称ではなく、中国人が「日本人」に対して与えたものと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるものであるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。
 氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないわけだから、いずれの時代なのか、どんな由来かは、知る由もないが、中国からの頂き物だという可能性が高いと思う。但し、それなりに由緒のある命名であり、性急な思い込みは後回しとしたいものである。

◯傍道の倭人論など~私見
 別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。
 つまり、「倭」という文字は、倭人の姿、おそらく、女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りの旁を見ると、「女」、つまり、女性の頭の上に、「禾」、つまり、稲穂のような髪飾りがかざされている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々である、ということである。

 私見によれば、「倭奴」は、後漢朝が「倭人」を言い換えと見られる。あるいは、諸蕃夷を改名した王莽の指示によるものかも知れない。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。

 後年、「倭」という文字を嫌って「日本」と改称したらしいが、おそらく、国を継いだものたちが、あからさまに「女王国」を表す文字を嫌ったのではないかと思われる。「倭」は、周代史書にも残されている貴称の類いであるので、相当無理をして返上したようであるが、唐代となると、相手も、天子と言いながら、蕃人上がりの付け焼き刃で、古典知識にこだわらず、自称を許したようである。

◯「在帯方東南」
・最初の躓き石
 さて、「倭人」に続いて、直ちに続いて「在帯方東南」と五字の付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。

 もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるのであるが、倭人の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
 としてみると、この七文字は、独立して、必要な情報を過不足なく伝えているのであるが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。

 朝鮮半島と西日本を包含した現代地図を見ていただけばわかるように、帯方郡治の想定されている朝鮮半島中部から見て東南にあるのは九州島である。本州島は、その九州島のすぐ東にはじまり、東方から東北方向に延びていて、東南方向にまるで収まっていない。「倭人」不在域である。(住んでいるのは、倭種らしいが)このあたり、「倭人伝」の世界観、地理観が、端的に表現されていて、「倭人伝」劈頭を飾る名文と感じる。

 世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍はなぜか優勢とされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。
 いや、多数の論者の中には、この点に触れる例はあったが、『大意として、そのように読めるかも知れないが、「現代人は、邪馬台国が、近畿中部にあって、遠く九州北部まで支配していたことを知っている」から、「倭人伝」の誤記と理解できる』と割り切っている。

 わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる
。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えればいいから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。

 「畿内説」、「纏向説」論者の暴論嗜好は、かくのごとく、無根拠の思い込みに支配され、史料論議の場から「外野」の荒地に踏み出しているのである。

 水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に、遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定している

 かたや、世上、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、外部資料の勝手な持ち込みで、頑迷極まる俗論が形成されているのは、かねてより感じていることであるが、ここにも、そのような俗論を堰き止めようとする賢明な配慮が表れているのである。

                 未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」4/4 「倭人在」再掲

  雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』  2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17

*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」
・最初の躓き石
(追記)
 本書の最初のそして多分最大の躓き石は、「従郡至倭」に始まる行程記事の冒頭の「郡から狗邪韓国まで」(郡狗)行路の解釈の難点にある、と言うか、見落としにあるように思う。

 氏の堅実な解釈手順にも拘わらず、「循海岸水行」が「従海岸水行」と字義の異なる別字と読み替えられ、そのために、郡狗行程は、半島「海岸」に沿った「沿海航行」とみなされ、氏は、史官がこれを「水行」と称したと早計にも断じている。
 氏は、在野の伝記類が同一文字の反復を避けて、同義の文字の言い換えを多用する点を想起して、「循」に格別の意義を見ていないが、それ以外にも、史書行程記事における「従」は、必ずしも、何かに「沿って」の意味でないことが多いのを見過ごしているのは、やはり、氏の限界かと思う。

 古くは周に発し、承継した秦漢代以来の官道制度に、「海岸」沿いの「沿海航行」は存在せず、敢えて、正史の一条として構想された魏志「倭人伝」が、法外の行路を官道と制定したすれば、先だって諄諄と明記して裁可を仰ぐべきであるが、そのような手順が示されていない以上、法外の行程は書かれていないと見るのが、順当な解釈である。
 氏の解釈は、日本古代史視点では順当に見えたのだろうが、中国史料解釈としては古典用例を取り違えた曲解の誹りを免れない。

 当記事は、魏志に書かれている以上、帯方郡に至る官道は、遼東郡からの陸上官道が順路、官制の正道であり、「海岸」は陸上の土地であるから、もし、帯方郡から海上に出て船で南下するのであれば「乗船」の二字を要する

*良港幻想
 氏は、何らかの史料を根拠とされたのか、「半島西岸は、多くの大河が流入して良港が多く、沿岸航行が容易であったと見ている」が、同時代、現地の地理、交通事情を考察すると憶測と言わざるを得ない。

 そもそも、小白山地が後背に聳える狭隘な地域に、大河が存在するはずはない。大河と呼べそうなのは、山地の東、嶺東と呼ばれる広大な地域を南下する洛東江しかない。そして、洛東江は、対馬に向かうように、半島南岸の東端に河口を開いている。
 あるいは、帯方郡付近の山間から南下した北漢江が、漢城(ソウル)当方で南漢江と合流しているので、北漢江を南下した上で、合流点から、南漢江を遡行するとして、「水行」の道を採れば、これも一つの大河としてみることができるかも知れない
 但し、南漢江上流は、渓谷を嵌入蛇行しているため、遡行は不可能であり、洛東江上流との間が小白山地で遮られているのもあって、早々に、陸道に移行しなければならないのである。

 嶺東に到る事情は置くとして、半島西岸の事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、有力な港湾があったとしても、後背地が狭隘で耕作地が乏しいため、少なくとも、三世紀時点では、沿岸航行による交易、市糴は希だったと見える。
 後世、百済の王城漢城が、南下した高句麗の大軍に包囲壊滅され、国王以下王族、高官が全滅する大難があり、辛うじて南方に退避した王族が、南方の熊津、泗沘に百済を再興したが、その結果、漢江付近から山東半島に至る海上輸送を高句麗に奪われたため、百済は、南部諸港を開発して、細々と沿岸航行していたようであるが、それでは国が成り立たないため、漢江付近の海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したのは知られているから、半島南部の海港繁栄は、幻想と見えるのである。つまり、細々とした営みでしかなかったのである。
 現に、熊津も泗沘も、内陸に位置し、海港とはほど遠いのである。

 後年、隋唐代に至って国使派遣のため、青州から半島沖合を通過して九州北部に乗り入れる帆船航行が行われたようであるが、安全な行路を新規開拓した上での竹斯への来貢と書かれているところを見ると、先立つ、三世紀魏代には、当該部分に航行路は形成されていなかったと見られる。「倭人伝」に、当時の沿岸航行を官営の交通路としていたと書かれているのであれば、隋唐代に航路開拓する必要などなかったのである。

 以上の議論は、「正道」の議論であり、「邪道」、つまり、斜めで遠回りの曲がった径(みち)が存在していたことまで否定するものではないのは、言うまでもないと思う。人の行く後に径はできるのであり、径があれば、人や物の往き来は出きるが、それは、官制の街道とは別であり、「禽鹿径」、人馬の通れないぬけみち、とでも言うべきものである。

 氏ほどの見識であれば、以上の難点に気づいてさえいれば、「循海岸水行」が、郡狗区間を「水行」と規定するものか、官道経路に関する注記に過ぎないものか、比較、考察を加えたはずであるが、残念ながら、ここでは、氏もまた、倭人伝の記事解釈でありがちな、無意識の改竄を施したと見られるのである。
 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられないのである。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではないのは、言うまでもないことである。全長一万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

*中断の弁(追記)
 と言うところで、実は、一休みしたままになっていて、今回は、一項目を追記したにとどまっている。
 正直なところ、本書で滔々と展開された「史料批判」が、世上顧みられることなく、野に埋もれたままになっているのに呆れたこともある。
 凡そ、学術上の論議は、先行所説の批判と克服を経て、提言することでのみ前進するものと思うのだが、当分野では、「黙殺」路線が大勢を占めていて、当分野の新参、素人は、困惑しているのである。

 どうも、本書ほどの大部に関しては、個人的な書評は、成立しがたいものになっているようである。日暮れて、道遠し、か。

以上

2021年7月14日 (水)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊邪馬台国 128号 1/2

                           2016/03/08  補足2021/07/14
 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆写から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように燃える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは、著者の意図に反すると思うのだが、「季刊邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

 本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。

 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。同組織は、国民全体に、研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。
 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、各大学は、研究成果を、国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。
 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。
 公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。
 当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が、現代の著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊邪馬台国 128号  2/2

                       2016/03/08  確認 2020/09/28 補足2021/07/14
 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月

⚪補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

⚪私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。

 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。

 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 また、「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である三国志は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。

 三国志を写本するという行為は、既存の著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。

 写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。
 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。

 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。

 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば、「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。

 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。

 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。

 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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今日の躓き石 NHK BSで蔓延する用語の乱れ 「将棋倒し」「コロナ」

                         2021/07/14

*ささやかな、軽率な、言い間違い
 今日の題材は、NHK BSの「ワールドニュース」であるが、海外ニュースの語りで「将棋倒し」には恐れ入った。

 国内ニュースの報道ですら、将棋連盟の懇望で、「将棋倒し」は廃語になったはずである。もちろん、現に将棋駒を立てて、「将棋倒し」して遊んでいるのは、その通り報道するしかないのだが、(人出で大勢が倒れて死傷者が出たような場合)災害報道で、「将棋倒し」は、是非とも勘弁して欲しいとの公式要請があって、各報道機関は納得したはずである。

 今回は、海外ニュースの枠なので、現地に「将棋倒し」遊びはないから、無神経な場違いである。このような無頓着な問題発言が、BS番組の語りに出てしまうと言うことは、NHKもたるんでいるとしか思えない。

*悪用放置の事例
 それはそれとして、とてつもなく大きな問題に素人が口を挟むのは「越権」として控えていたのだが、長らく、誰も表立って発言していないようなので、素朴な意見を述べておく。
 言うまでもないと思うが、「コロナ」は、トヨタ自動車の主力車種の愛称であり、つまり「商標」なのである。不都合であることの説明は、不要である。
 NHKは「商標」を放送で使わない禁制があった(今でもあるはず)と思うのだが、トヨタ自動車は、爾来、主力車種名をCOVIT-19の「愛称」に転用されているのである。いや、もちろん、NHKだけの手違い、間違いではない。今や、この国では、「コロナ」は邪悪なものとなっているのである。これは、迷惑などで片付くものではない。

 比較的早い段階で、WHOがCOVIT-19と「命名」したので、世界的には、商標権抵触が懸念される俗称「コロナ」は終熄したのだが、日本は別の動きに固執しているのは、奇異である。

 このような基本的な不都合に対して、何の説明もないから、今後とも不都合な事態の是正はされてないのだろうが、当事者たるトヨタ自動車は、自社商標を踏みにじられて、なぜ厳重に抗議せずに済ましているのだろうか。誠に不可解である。既に、「コロナ」は、商標として無効になっているように思うのである。
 いや、被害は発生して取り返しがつかないから、何を言っても手遅れであり、この先は、被害は発生しないという意味である。
 素人目には、重大な事件だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

以上

2021年7月13日 (火)

新・私の本棚 岡 將男 季刊邪馬台国 第140号 吉備・瀬戸内の古代文明

 「吉備邪馬台国東遷説と桃核祭器・卑弥呼の鬼道」 2021年7月

 私の見立て ★★★★★ 考古学の王道を再確認する力作  記 2021/07/13

⚪はじめに
 著者は、フェイスブック「楯築サロン」代表と自称している。吉備地方の「楯築」墳丘墓の在野研究者と拝察する。要領を得ないが、本誌で示された実直な研究活動には賛嘆を惜しまないものである。

⚪私見~纏向と吉備 桃種異聞
 以下、当記事の一端を端緒として、他地域遺跡の発掘事例の瑕疵を考察したものであり、岡氏の著作を批判したものではない。よろしくご了解いただきたい。

 当ブログ筆者は、纏向遺跡出土の桃種のNHK/毎日新聞報道が提灯持ち報道(もどき)と批判したので、当記事での事実確認に、まずは歓迎の意を表したい。

*纏向大型建物「事件」
 敢えて付け加えるなら、現在もNHKオンデマンドで視聴可能である「邪馬台国を掘る」で公開されている「桃種」出土時の学術対応について指摘したい。
 画面では、「桃種」が、纏向遺跡の土坑、一種のゴミ捨て穴から出土したとき、無造作に水洗いして付着物を除き、シート上で陰干ししたように見える。個々の桃種の出土位置と深さを記録していないのも難点だが、別に「非難」しているのではない。考古学関係者も、一般視聴者も、何とも思わなかったはずである。

 他の考古学的な発掘では、有力な遺物については、前後左右上下関係を記録した上で取り出し、発見時の位置が再現できるものと考えるが、今回の事例では、後日、桃種サンプルを年代鑑定したものの、出土位置不明では、新旧不明と見える。建物建設との前後関係も不明。歴年か一括かも不明である。後悔は尽きないと思うのである。

*遺物蒸し返しの愚
 近年になって、それらしいサンプル(数個)の年代鑑定を行ったようであるが、もともと、考古学的に適切な発掘、保存がされていなかった以上、莫大な経費を投じても、悪足掻きになっているものである。何しろ、三千個の攪拌された母集団から、ランダムに数個取り出して鑑定しても、統計的には、意味がないと見えるのである。

*纏向式独占発表の愚
 他の考古学的発掘の「桃のタネ」事例を調べることなく未曾有としたのは不用意である。想定外の大当たりを自嘲している暇があれば、大規模墳墓の出土地域に、前例の有無を、謙虚に問い合わせれば良かったのではないか。
 学会発表であれば、論文審査で疑義が呈されて克服するから粗忽を示すことはないが、実際は、NHK、全国紙など一部「報道機関」に成果発表を独占的/特権的に開示し、真に受けて追従した「報道機関」に誤報の負の資産を課した。NHKなどは、勝手な「古代」浪漫を捏造し、懲りずに継承している。懲りて改めなければ、負のレジェンドとして、"Hall of Shame"の「裏殿堂」に永久保存されるだけである。

 以上の批判は、別に素人が勝手な思い込みで記事を公開したわけでなく、大筋は、前後はあっても、当誌の泰斗である安本美典氏が、誌上で論難していることは、読者諸氏には衆知であろう。
 一方、「報道機関」は、毒を食らえばなんとやら、纏向桃種の「奇蹟」は、多数の努力と巨費を空費して、勿体ないのである。

 岡氏は、別に、纏向遺跡の桃種について「非難」しているわけではなく、土坑出土の桃種の年代鑑定に疑義を淡々と提示しているが、当ブログ筆者は、素人で行きがかりも影響力もないので、率直、真摯に論難した。直諌は耳に痛いが、社交辞令にすると、大抵無視されてしまうのである。

⚪まとめ

 因みに、当記事で説かれている「吉備邪馬台国」は、各遺跡で出土した万余の桃種の年代鑑定に依存してはいない。考古学論考の限界で倭人伝記事との連携はこじつけと見えるが、遺跡遺物考証に基づく世界観は、盤石と感じる。

 余言であるが、近来、本誌の刊行について「邪馬台国の会」ホームページに、予定どころか刊行の告知も、とんと見かけない。論敵「古田史学の会」が、古賀達也氏のブログで、細かく進度報告を公開しているのと大違いである。学ぶべき所は、謙虚に学ぶべきではないか。
                                以上

2021年7月11日 (日)

今日の躓き石 NHKBSにはびこる低級失言 国際「同級生」と明日のない「フューチャー」

                             2021/07/11

 今回の題材は、大谷選手をはじめ「大リーグ」に挑んでいる名選手達の活躍を伝えてくれているNHK BSのMLB中継であるが、言うならば、スポーツ中継の最高峰に似合わぬ失言があったので、以後の戒めにしていただきたいと思い、ここに苦言を述べていくことにした。

*大洋を越え、月日を超えた「同級生」
 今日は、登板日でも無いので、打席の巡ってくる合間の時間塞ぎのネタ切れで注意が散漫になったか、”大谷選手とチームメイトが、誕生日の近い「同級生」”だと、とんでもない失言があったのである。

 この際だから、丁寧に確認しておくと、合衆国では、学校の新学年は、9月に始まる。一方、日本では、4月が新学年である。ずれているなどと言うものではない。
 つまり、完全に外れているので、両者は、端から、「同級生」どころか、「同学年」にもならないのである。変に言葉をこね回さなくても、「同年」とか「同期」と言えば、それで済むのではないか。こうした国際的な話題で、知ったかぶりするには、学年開始時期が、各国で一致しないことは、忘れてはならないことだと思うのだが、どうも認識が行き渡っていないようである。
 と言っても、ことは、NHKの独占でなく、全国紙の文化面の各国囲碁界の話題で、でかでか、ぞろぞろ紙面に出たりするので、ことさらに警鐘を鳴らすのである。

 元に戻って、高校で同窓でも、学年が違えばクラスが違うし、同学年でも学級、クラスが同じとは限らない。よほど調べない限り、あるいは、当人に確認しない限り、「同級生」とは言えないのである。
 このあたりは、半人前の芸人の低級の失言が世にはびこって、ほとんど社会問題になったが、まだ、この地上から撲滅されていないので騒ぎ立てるのである。

 それにしても、NHKのアナウンサーが、このような馬鹿馬鹿しい、札付きの「バチネタ」(罰当たりなボロネタ)を温めていて、最高の舞台でボロっと口にするというのは、信じられないものである。

*「フューチャー」の怪 
 それにしても。今回の中継は、大谷疲れの谷間なのか、大谷を「フューチャー」するMLB制作動画などと「迷言」もあって、何か、長時間出ずっぱりで、寝ぼけたかという感じである。NHKは、イニング間の息抜きがないので、お疲れなのだろうが、ご自愛頂きたいものである。30分に一回、番宣を挟むとか、配慮して頂きたいのである。視聴者も、かじりついているわけではないのである。

 それにしても、このように日本語の発音/表記と縁遠い言葉をすらりと口にするのは。日頃の鍛錬の賜物かと思うのである。きっと、「若隆景」(わかたかかげ)も、力まずにさらっと発音できるのだろう。

 もちろん、NHKのアナウンサーの手元には、沢山のネタの収まった玉手箱があると思うが、勘違いだけでなく、ネタの賞味期限切れもあると思うので、時に、冷静に点検いただくのも一案である。

*NHKは、最後の砦
 民放の中継アナウンサーは、その場の思い付き、勝手な造語で、無邪気な視聴者の注意を引くのが定職なのか、言うのも馬鹿馬鹿しいほど放言が多いのだが、NHKのアナウンサーは、十分な訓練を受けた名人揃いと思うので、ここに、一言苦言を述べるのである。
 未来を担う子供達に、たわけた言葉を遺さないで欲しいのである。

以上

2021年7月 8日 (木)

今日の躓き石 囲碁界に怨念復讐の渦~毎日新聞の「リベンジ」蔓延拡大 再説!!

                           2021/07/08

〇再三の蒸し返し御免
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版総合・社会面記事であり、トップ記事である。「カド番から偉業」と大見出しにあるように、最終局の結果報道であって、全手合いの総括であり、本因坊の普及を頌えていることに何の文句もない。

 ここで取り上げたのは、文中の転換点で、「リベンジマッチ」なる異様な造語が飛びだして、以下、挑戦者視点で語られる回顧である。つまり、伝統の挑戦手合いが、挑戦者にとっては、個人的な復讐戦に過ぎなかったという決めつけであるから、穏やかでないのである。

 何しろ、全国紙毎日新聞の看板の本因坊戦七番勝負の総括であるから、毎日新聞の沽券に関わる、あるいは、主催紙の面目躍如たる報道であろう。長年の読者としては、いくら、署名記事であろうと、個人の責任と逃げて貰っては困るのである。それとも、毎日新聞では、個別の騎射のあげた記事は、無編集、無校閲で紙面を飾るのだろうか。

〇意味不明な「リベンジマッチ」
 それにしても「リベンジマッチ」とは、一介の購読者には何を言いたいのか意味不明である。囲碁界の発明した「業界用語」であるが、無審査、無批判で取り込んでは、全国紙の見識が疑われるのである。それだけでも、紙面掲載を憚られる失態である。

 主旨を念押しすると、「リベンジ」なるカタカナ言葉は、意味が揺らいでいて、原語の「revenge」を辞書で引いて「血の復讐」と理解する人もいるだろうし、現代風に「再挑戦」と読み飛ばす人もいるだろう。こうした訳のわからない、生煮えのカタカナ言葉で世間を汚染するのが、毎日新聞のポリシーなのだろうか。

 不出来な言葉に対して、編集部で誰もダメ出ししなかったのが、まことに不思議である。ここでは、挑戦者は、全年の敗退を個人的に恨んでいて、今回は、「怨念復讐」の場であったという血なまぐさい言葉のように読める。何しろ、今回の挑戦手合いの記事では、初めてではないのである。この調子でいくと、挑戦者は、またぞろ復習の怨念を書き立てて生きていくように、不吉な影を投げかけられているように見える。

 「リベンジ」は、無差別テロを称揚する言葉であり、当ブログの最大の敵なので、しつこくとがめ立てをしているが、ここまで汚い言葉をことさらに目立たせていると、一言言わざるを得ないのである。毎日新聞には、こうした不適当な言葉に対する基準などないのだろうか。
 談話の引用以外であれば、簡単に言い換えられる気がするのである。談話の引用だって、律儀に不適当な言葉を引用・報道しなくても良いように思うのである。

〇 毎日新聞にはびこる悪弊
 今回の記事では、このようなとんでもない不穏当な汚い言葉を担当記者が「創造」した責任は明確であるが、何にしろ、一連の記事で見られる表現の混乱は、目を覆わせるものがある。担当記者は、未熟で、新聞社の基準に従う用語、言い回しをできていないかも知れないから、専門家たる上級記者が、最後の護り人になるべきではないのか。

〇 頂上決戦には頂上報道を
 個人的には、本因坊挑戦手合いは、挑戦者として、その場に立つこと自体が大きな業績と思うのである。挑戦者は、多くの競争相手を退け、全員の思いを背負って登場していると思うのである。決して、個人的な復讐心を表現する場を与えられているのではないのである。いや、これは、一介の素人の意見だから、別に強制したいものではないのだが、一度、考えていただきたい言い分である。

以上

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