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2021年7月

2021年7月30日 (金)

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  1/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2021/12/10

*前置き
 本書は、刊行以来十五年間当方の目の届くところに来ず、二〇一八年になって初めて目について購入した。実に、美麗な想定であり、講談社の出版物であるから、権威を持ったものと感じてしまうのである。ただし、書評を見かけないので、絶賛、好評ではないようである。

 いや、古代史分野では、タイトルを大きく構えた書籍は、見かけ倒しが多いので、大抵は御遠慮申し上げるのだが、今回は、手元の書き物の参考にと購入、一読したのである。後悔先に立たずである。

*総評
 結構迷ったが、最悪の判定、星ゼロとなった。「金返せ」である。
 当方の好みに合わないだけなら、買わない、読まないで、何の迷惑もないが、本書は、確実な史料に基づき、先入観、俗説を廃して、まじめな議論を進める」と銘打って読ませながら、突然変節して裏切っているのである。

 より重大なのは、そのような変節の兆しを表明せず、読者を落とし穴に導く書法を取っているからである。
 重大な策謀であるので、ここに高らかに宣言するのである。それでも、あえて買い込んで読むのなら、それは、ご当人の「酔狂」である。できれば、図書館の利用をお勧めする。

*警告~2021/12/10
 事前に警告しておくが、氏の「用語」は、他に例のない独特のものであり、時代錯誤と重ねて、氏の論考の文意理解を困難にしている。そして、そのような「異様な」「用語」世界を通じて、倭人伝や諸先行文献の解釈を聴いても、何のことか掴めないのである。そして、天下の講談社が、そのように用語が混乱している書籍を、編集、校閲せずに「単行本として」出版した意図が知れないのである。世上には、倭人伝解説書はデタラメなものばかりだという非難が見られるが、本書は、そのような非難に結構寄与しているものと見えるのである。

 当ブログ記事は、世上諸書籍の典型、平均値ではないが、最悪では無いとだけ申し上げる。近年、新書形の「書籍」は、「持ち込み原稿をそのまま出版する」例が珍しくないから、もっと、編集・校閲の欠けた書籍も有りうるのである。「下には下がある」のである。

 当方も人間であり、見せかけの抱負に共鳴して、肯定的な書評を書き始めたが、当方が支持できる発言を拾おうとして飛ばし読みして、出てくるのは、トンデモ発言ばかりで、座り直し、読書眼鏡を磨いて、丁寧に読み進んだのである。評価が手厳しいのは、騙されたからである。
 と言っても、書籍編集の専門家ではないから、素人の技で万全ではないから、見当外れや指摘漏れがあっても、ご勘弁いただきたい。

 書籍購入代金は、やりくりで埋め合わせするとして、否定的な書評を何とか建設的な苦言にと書き整えた努力は、当方に特に得るところがないから、限りある時間を奪われた恨みは尽きないのである。また、当事者の反論も弁明もないから、改訂の度に、指摘がきつくなるのも、ご容赦いただきたい。

*プロローグの酔狂
 冒頭の一幕は、新説開示の枕として、別に異例でもないが、「著者が天啓を受けて、本書の論説の理路を幻視した」というのは、当人にはそうだろうが、他人が一切知り得ない思考世界なので、自慢されて同感も否定もできない。
 大事なのは、「神がかり」を契機として構築した所説が実証できたかどうかである。実証のない天啓は、個人的な幻想である。ざっくり言って、天啓の90%は「ゴミ」である。それが耳障りなら単なる「錯覚」である。高々と謳い上げるべきものではない。
 ちなみに、古田武彦氏は入浴中に、道里説解決の天啓を受け、そのまま飛び出したので「アルキメデス的天啓」だが、大事なのは実証であり、氏は、それ以降順当に論証しているが、本稿を含めた当方の指摘で「アルキメデス的天啓」は覆っている(と、勝手に思う)。

 当方は、やはり湯船で、今書いた、氏の天啓説への反論を思いついたが、別に興奮せず、飛び出さずにそのまま入浴を続けた。成り行きは、まことに陳腐だが、反論は有効だと信ずる。

*安請け合いの非
 末尾に「知的興奮」と言うが、推理小説でもあるまいにどんでん返しや犯人捜しは論外であり、読者は、真理に触れ、知識を深めたいのであって、心地よく騙されることを期待して読んでいるのではない。

 盗まれたと思われることは「絶対にないであろう」と言うが、口先だけの強調表現の大安売りで騙すのは、盗みとどう違うのか。要は、騙りは犯罪なのである。

                                          未完

 

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  2/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*約束破りの書き出し
 ノンブル(ページ番)は「プロローグ」から始まっているものの、論議はここから始まる。
 本書で、早々に、倭人伝解釈を、「中華書局本」に基づくと高々と宣言していながら、そこに、妥当な根拠を一切示すことなく誤字論を導入しているが、唯一の依存史料が誤りとの根拠は示せるはずがない。端から不合理で、「虚言 」癖を疑わせるが、まだ早々なので、辛抱する。

 続いて、諸兄の倭人伝の地理・行程論を「既存諸説の批判」の形で展開するが、「諸説」とその批判は、勝手に選別されている。自身の選別見識も、また選別すべきではないかと思われる。
 
また、その際、地理・行程論に不可欠な『倭人伝「里」の長さに対する議論が欠落している』のは、大変お粗末である。

 著者の結論として、倭人伝には、「邪馬壱国」が九州島内と書かれていると断じた上で、一転、「倭人伝」は誤記と断じているが、論拠となる史料による妥当な根拠は示されない。まさしく、神がかりである。

 ここまでで、著者の不見識と誤謬が露呈しているから、ここで投げ出してもいいのだったが、ついつい、追従したのである。

*根拠なき先入観
 著者は、はなから「邪馬壱国」は、遥か東方の今日言う奈良盆地方面にあったとの確信/錯覚を持ち出して、そこまで書き立てている「倭人伝」の史料解釈を捨て去る。つまり、先ほどまで紙数を費やした諸説批判は無意味な字数稼ぎでしかない。嘆きたくなるのである。
 誰やらの「古代史家全員嘘つき」論を想起させる。

*ボロボロのエピローグ
 「エピローグ」では、本書は、思いつき(神がかり)の論旨を短縮日程でまとめて一丁上がりとし、編集部に超特急校正させて(もろに書いてはないが)、(不備だらけで、ごまかし満載の)著書を(無理矢理)世に出したと誇っている。そんな著者のやっつけ書籍を、一流出版社が世に出したのは、会社ぐるみのペテンとの疑惑が否定しがたい。

 また、当人は、少なからぬ私財を投じたと示唆しているのだろうが、読者には、関係無い話である。
 私財を投じて購入する読者にしてみれば、とんでもない話である。
 参考文献一覧と謝辞を備え、用語索引を整備する水準の著作を志したのではないか。

 当書評は、しきりに本書の用語の混乱を語っているが、用語索引を作れば、初出箇所と後続の箇所が目に見えるので、初出時に、誤解を防ぐ手当をするなり、自己校正で低次元の用語混乱は、容易に発見でき、是正できたたと思うのである。どんな無残な失敗も、世に出す前に発見して是正すれば、ないのと同じである。と言うか、誰でも、勘違いや思い違いはあるから、何とかして、手の内にある間に、誤謬を発見して是正するのである。
 著者は、その程度の初歩的な、つまり、最低限の必須手順を手抜きして、何を得たというのであろうか。
 それが、素人に思いつかないこととしても、一流出版社「講談社」の編集子には、当然の手順であったはずである。

 してみると、ここに氏名入りで、編集不備の責任を押しつけられた両編集子は気の毒である。
 ただし、当書評で批評されているのは(最高かつ最終)責任者たる発行者であり、一流出版社としての業務基準と是正ルールの欠如である。担当者を責めているのではないから、御安心いただきたい。
 これでは、星無しにせざるを得ない。いや、マイナス評価が書けないのが残念なほどである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  3/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*批判の幕開き
 単なる思いつきで非難したと思われると、ブログ筆者としての沽券に関わるので、ここから後は、くどくどと丁寧に指摘する。
 言うまでもないが、当記事全体は、一私人の個人的な意見であり、他人の意見を押しのける排他的なものを意図したものではないが、一説として意義のあるものと自負しているので、あえて公開しているのである。

*看板に偽り~高度なタイトル論議

 大事なタイトルに、著者の時代錯誤が現れていて、読むに値しないと門前払いになりかねないのである。

 二〇〇〇とあるのは、古代中国になくて、遥か後世に紹介された零の概念とか、位取り多桁計算とかの視点であるが、そのようなものは、魏晋朝時代の中国にも、倭にも存在していなかったことは明らかである。当の時代・地域に存在しなかった、後代・別世界概念を言い立てる時代錯誤は却下されるべきである。

 次に問題なのは、倭人伝を二〇〇〇字と称している点である。現代人感覚と言うか、学校での教育訓練によれば、二〇〇〇字とあれば、一字の多少もない二〇〇〇字キッチリであるから、これは誤っている。つまり、間違っている。

 と言うことで、数値表現の時代錯誤と不始末を避けるには、魏晋朝に存在しない概念を一切導入せず、「魏志倭人伝二千余字に謎はない」と書かねばならないと「史学素人」は信じるのである。倭人伝「余」論は、すぐ出てくる。

*概数の理解欠如 普通の誤解
 百字単位に何らかの意味があるなら、千九百余字と書きそうなものであるが、そう書かないのは、百字単位概数の意義を適切に理解しているように見せている。つまり、偽装である。

 著者が、この理屈を理解していないのは、行程論(p114)で、一五〇〇余里と、時代錯誤の多桁表示で一里単位まで表示しているのでわかる。つまり、里数には、一里まで意義があるように表現し、かたや、世上の誤解に追従して、「余」を端数切り捨てと決めている。

*倭人伝「余」論
 倭人伝の里数、戸数は、例外を除き、「余」であるが、全て、プラス端数、端数切り捨てだろうか。

 『倭人伝の「余」』は、程度の意であり、多少は不明と解すべきであると考える。義務教育の算数程度の知識があれば、容易に理解できるはずであるが、著者に理解できなくても、当方は、著者の教師ではないので理解不足を恨まないで欲しい。

 簡単な常識であるが、概数がすべて切り捨てだと、戸数や里数の加算計算は、項目が増えれば、切り捨てが累積して、とんでもない誤算になるのである。当時、「世界」唯一の文明国が、そのような統計管理をすることは、あり得ないのである。
 少なくとも、史記以来の史書は、周代以来の算数教育を経た、「数字に強い」筆者を擁しているので、そのようなつまらない誤算はしないのである。端的に言えば、「余」は概数の中心値を示しているのであり、項目数の多い加算でも、個別の端数が打ち消し合って、誤算しないのである。

 戸数で言えば、五万余戸と二万余戸を足せば、七万余戸であり、これは、五と二の足し算であるから、当時の教養人なら、暗算できる程度である。他に、千戸単位、ないしは、それ以下の端数戸数/家数があっても、全国戸数の計算では、無視できるのである。

 世に、倭国三十国の戸数表示のない国にも、戸数があるはずであり、『塵も積もれば』で推定すれば、千や二千の戸数が出る」と、勝手な推測を述べている向きがあるが、何重もの誤謬を重ねているので重症である。

 まず、戸数は、何軒の民家があるかという数字ではなく、戸籍に登録され、農地を割り当てられ、耕作と貢納、徴兵の義務を背負っている、いわば、有産者の数であるから、国によって、戸籍がないと戸数の把握はできず、あえて申告させれば、国主含めて、一戸とか数戸のところが多いはずである。

 帯方郡の指示に対して戸数が表明されていないのは、戸数があっても、万戸どころか、千戸にも届かない「はした」であることを明示しているのである。

 つまり、「倭人伝」に表明されている公称戸数、全国七万余戸が「正しい」のである。「従郡至倭」の行程上の倭人の「国」は、対海、一大、末羅、伊都の諸国であり、各国戸籍に基づいて、百戸単位で表示されているが、それ以外の「余傍」の国は、不確かな戸数を載せているとみられる。
 そうした余傍の国別の戸数明細は、「倭人伝」の記事体裁を整えただけであり、郡は、個別に管理しているわけではないから、国ごとの戸数には大した意義はないのである。まして、行程上の千戸台の戸数は、それぞれの「国邑」が、太古以来の、隔壁集落であると示しているのである。誠に、史官の寸鉄表現は、寡黙に見えて雄弁であり、決して、饒舌ではないのである。(後記中等教育の範囲だが、わかるかな)

 著者は、榎一雄氏の言う「唐六典」の歩行一日五〇里記事に関して、ここでは何も言わないので、提言に同意したかに見えるが、後段では、「独自の道を行く」、倭人伝とは関係無いと明解に断罪、否定している。悪質な詐話ではないかと疑惑が募るのである。
 素人の勝手な予告であるが、読者が、著者の片言を真に受けて、不意打ちを食わないように言い添えておく。

 著者は、高名な岡田英弘氏のような自分に理解できないことは、ことごとく頭から断固否定する』蛮勇は、示していないから救われる。いや、示していないだけで、実は、場当たりな出任せなのかも知れない。

未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  4/30

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

⚪巨大な三大難点
 タイトルのダメ出しを終わって、内容評価を開始すると、三つ(も)の(巨大)難点がある。
 とにかく、論旨不明瞭なので、走り読みでは、変節点が見えず誤解しかねない。困ったものである。

一.旗幟隠蔽
 本書の論旨展開の本旨は、明解に語られていない。
 倭人伝論読者は、プロ野球ファンと同様、ご贔屓の応援本は買うが、敵の応援本には、目もくれない
 と言って、旗幟を隠して毛針で無辜の読者を誘い込んでも、疑似餌でだまし通すことはできず、ばれたとき憤激を巻き起こす。販促大事の欺瞞的な執筆は、感心できない。

二.言行不一致

 前項と相通ずるが、著者は、後世人のとらわれがちな先入観を脇に置いて、倭人伝の原典の明解な読み方を提案しようとしている」と宣言しているが、遺憾ながら、著者も人の子、資料より優先する、濃厚な先入見が漂っていて、宣言はむなしいのである。
 先入見はあって当然で、明言すれば良いのである。口先で「なくする」というのが、俗に言う舌先三寸の「リップサービス」であり、根っから不誠実なのである。

三.構成不備
 目次を見てわかるように、目に付くのは、論文系に必須の構成の不備である。
 各論は、本文に順次述べるとして、冒頭には、第一章に先立ち、準拠テキスト、執筆方針などが開示される緒言に当たる段がないのが目次から見て取れる。
 自然科学系の論文では、冒頭に、概要、要約が示されるが、史学関係では、まず見かけないから、こんな相場かもしれないが、感心しないのは間違いない。
 また、結論部に当たる段も存在しないし、謝辞も、参考文献一覧も、少なくとも、目次に見当たらない。

 いや、実際は、それぞれ書かれているというかもしれないが、目次などから見て取れないのである。道ばたの石ころまで、全部確認せよというように見える。

*小まとめ
 いずれも書籍としての品格・価値を損ない、総じて全て致命的である。いや、ただ単に、書籍を構築するのが、下手だということに治まらないかもしれないと思うのである。書籍を商品と見ると、商品を形づくる技術が未熟で、かくも無様なゴミ屑を上梓したのである。(講談社編集者の怠慢というのは、妥当かどうかわからないが、そのように非難されても、名前を曝された担当者に逃げ道は無いのである。)

 敬愛する白川静氏は、七十四才にして教職を辞して、本格的に著作を開始し、二十年余に亘り膨大、かつ、燦然たる業績を残したから、著者は手遅れではない。(なかったというべきか)

 と言うことで、以下、順次批判していくことになる。

                                         未完

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 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*第一章
1.邪馬台国論争と「倭人伝」の正しい読み方(P12)

 「魏志倭人伝」は、冒頭で紹介済みだから、改めて「仮に」は、不首尾である。「忘れてはならない」と二重定義に力むのは、まことに混乱している。著者は、自著の用語提議を読み返さないのだろうか。不審である。

*私撰論の見当違い(P12)
 三国志を、陳寿の私撰史書と無造作に書いているが、官命で着手した可能性が高いから、これは風評に過ぎない、と言うか、筆者とその依存先の無知による誤解である。

 先行王朝(曹魏)の国史を、私的に編纂することは大罪であり、官命の裏付けがなければ、洛陽に収蔵されていた後漢・魏朝公文書を参照した史書編纂など「できない」からである。また、史書編纂に要する人材、資材、資金は、官命無しには調えられないのである。
 陳寿は、政府高官や大富豪の道楽でないから、私的に、つまり、道楽、私費で「三国志」を編纂したわけではない。公職に任じられていた時期は、行動の自由がなかったから、気ままな史書編纂はできなかったのである。
 この点、当然なので、余り論じられないが、事情に通じない論者は、好んで暴論を構えるのである。

 その後、母親の不幸や晋朝政争で、最終的には官職を解かれたようだが、魏国史編纂の使命自体は解かれていなかったようであり、依然官命のもと、編纂を続けていたように思う。言うまでもないが、かりに私撰であっても、晋朝皇帝に上申、嘉納され、後年「正史」に列された「三国志」の価値は、いささかも減ずるものでない。
 それにしても、つまらない難癖は、言っている当人への評価が下がるだけである。ご自愛いただきたい。


*解けない「邪馬台国論争」問題(P12)
 続く(目次にない)小見出しでも「邪馬台国論争」と書いているが、「邪馬台国論争」は、初出語である。不意打ちは不用意である。大事な著書を、衝動的な書きぶりで、自ら貶め、それを自覚しないというのは、悲惨であるし、そのような杜撰な著作を買わされる読者も、たまったものではない。

 「論争」は解くものではない。
とんだ、見当違いである。「問題」は、時には、学習者の理解度を試す「課題」であり、時に、ものごとの破綻を示す非難でもある。意味が不定の言葉の乱用は、差し控えるべきである。(読者がどの意味で理解するか、不確かなのである)

*倭人伝研究の歴史(P12)
 「倭人伝」の研究はもう二〇〇年をこえる歴史があると言うが、いつ始まったか不明では、読者には確認できない。
 私見では、十八世紀に「倭人伝」の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤記と決め付けて自著で唱えた松下見林の放言以来三百年である。立証に失敗している説を教義として崇めるのはいい加減にして、「除籍」時期を考えるべき「遺物」と明言すべきと思うが、この世界ではまだ生きている。当世言葉で言う「レジェンド」である。新説への無批判追従も感心しないが、ひび割れた骨董品を、修復せず崇める趣味は、感心しない。

 それにしても、「倭人伝研究」と「邪馬台国論争」は、定義不備の上に互いの関連も不明確である。本書に相応しくない、不用意さである。

*「大問題」論(P12)
 続く「邪馬台国の所在地をめぐる論争」と「邪馬台国論争」の関係がわからない。「大和朝廷」(倭人伝に記載なし)が「大問題」と結びつくのが唐突であるが、「大問題」とは、単なる謎なのか、致命的難点なのか。問題の大きさは、何で測るものなのか。不思議である。

 古代史の「論争」は、大半が、混乱した世界観の交錯であり、用語の意味があやふやなために、攻防が空を切っているのだが、そんな中の参入に際して、やたらと強弁を振るっては、議論の振興にも沈静にもならない、まるで、子供の喧嘩に、また、子供が飛び込んでいるのである。


 そして、論争自体は、「要するに」「大和説」、「九州説」の二択とするが、なにが「要するに」なのか、混乱した本書から読み取れるはずがない。「大和説」すら「プロローグ」に説明がなく、松本清張「畿内説」との関連も不明である。しゃれにならない粗忽さである。

 こんなふうに、著者の「議論」は、個人的な、つまり、不出来で異常な言葉遣いが、定義も解題も無しに蔓延、暴走していて、不明確で不安定、つまり混乱しているのが理解を妨げ、以下巻末まで一貫している。
 いかに、紙数を積み、多大な言葉を費やしても、肝心の言葉遣いが乱れていては、読者に意図が伝わらない。

 それとも、「一貫して乱れている」のを尊いとすべきか、苦笑ものである。

                      未完

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*百花斉放
 そのあと、読者が十分了解できないまま、先賢諸説のこき下ろしが続くが、根底となる「倭人伝」なる史料が未確定だから、何を提示しても、しょうがない。
 以下、松本清張氏の露払いに続き、「大和説」「九州説」の概要が示されるかと思ったが、概要無しに深入りしているのは、困ったものだ。
 まるで、酔っ払いがくだを巻いているようで、何を言っているのか明解で無いから、逃げ出す方が適確かも知れない。

*アキレス腱(P13)とネック(P14)
 それにしても、「大和説のアキレス腱」という言い方は、失笑ものである。弱点は、これ一つだけで、後は不死身だというのである。実際のアキレス腱断裂は、重傷だが致命傷ではないし、正しく治療すれば、かなりの程度回復する。両脚同時でなければ、全く自力で移動できないわけではない。比喩は、適切でないと意味不明、むしろ逆効果となる。生かじりは禁物である。

 もっとも、九州説も、同様の嘲笑を浴びている。「最大のネック」とは、何のことか。意味不明の極みである。
 
調べると「ネック」は、瓶の首、つまり、「ボトルネック」が、瓶の吐出を制するという意味らしいが、「アキレス腱」の重大性と不揃いである。大体、寸胴な容器をわざわざ多大な労苦と高度な技術を動員して「ネック」に絞っているのは、「ネック」に絶大な効用、価値があるからである。
 重ねて言うと、比喩は、適切でないと意味不明、むしろ逆効果となる。生かじりは禁物である。 まるで、散歩中に路上に「落とし物」を見つけて、拾い食いしているようである。せめて、泥を落として、匂いを嗅いで、誰か通りがかりのものに毒味させてから食いつくべきである。因みに、奈良公園名物の「落とし物」は、はやり歌で言う鹿の「ふん」である。

 念押しすると「最大のネック」は、比喩を掴(つか)み損ねたと失笑ものである。ネック部が太ければ、ネックの段差、隘路は緩和するのである。自分が何を書いているか、理解していないのではないか。

 また、「ネックを解決」とは、どんな比喩なのか。折角絞ったクビを、無理矢理膨らませて、どうしようというのか。
 後先考えない比喩起用は不用意である。自滅である。自罰である。


*「商品化期」の意味(p14)
 続いて、「商品化期」なる独りよがりの小見出しに続いて、諸氏の意見がさらし者になっているが、肝腎の「商品化期」の意味が不明だから、著者に付いていけない。
 いや、この愚は三品彰英氏の造語のようだが、著者が、鸚鵡返ししているので、独りよがりの小見出しと見える。拾い食いは、慎んで欲しいのである。読者に毒味させているのだろうか。

 著者に「議論が粗雑」「恣意的に過ぎる」と非難されても、批判された論者はおまえごときに言われる筋合いはないと言うだろう。まことに同感である。勝手な思い込みで、勝手な主張をしていては、誰も、相手してくれないのである。

 繰り返すと、まるで「一人スカッシュ」である。さすがに、武光誠・山岸良二の二氏の批判発言を引いているが、それについても、「妥当」(意味不明)としか言わない。

 所在地論者列伝は、松本清張氏に始まるが、引用批判されているのは所在地論ではないので、ヘンテコである。

 また、松本氏の論法は、元の倭人伝にあったが以後失われたと紹介され、著者は、「このような議論が許されるなら、どんな議論も可能になろう」と指摘するが、これは、実は松本氏論法に対する褒め言葉であり、著者は、以下の「議論」と言うか、仮説構築で、大いに見習ったということなのだろう。「春秋の筆法」マニアなのだろうか。

 因みに、現下の風潮では、誰も、仕切っていない無法状態なので、許すも許さないも無いのである。そんなこと言うやつの顔が見たかったら、ご自宅の洗面台に立ったら、好きなだけ長々と、細々と見えるのである。

                      未完

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*殿御乱行(p15)
 著者は、ぞんざいに「古田武彦氏の議論には問題が多い」と言い放っているが、ここでは、重箱隅の投馬国所在論を資料改竄と難詰している。重大な所在地論の全貌は、伏せている上に、巻末「注」によれば、著者が、ここで参照したのは、古田氏の最初の著作「「邪馬台国」はなかった」だけのようである。いや、ここで言う問題は、算数教科書のように、「問題」ばかりで解答が書かれていないという苦情かも知れない。語彙がずれているとしたら、問題に対して解答できるはずがない。

 衆知の如く、古田氏には倭人伝関連書が多数ある。全体を読んでいないのに、一般論として古田武彦氏の議論を「罵倒」するのは、著者の誠実さを疑わせるものである。倭国への行程が九州島内に収まる趣旨は、承知で忌避したのか。

 因みに、榎一雄氏は、逃げずに古田説批判を書き送っている。

*百花斉放続く(p16)
 水野昌弘氏説は大胆で隙が多く批判容易であろう。

 大和岩雄氏は「大和説」の提唱者・主導者ではないが、その仮説が断定的でないせいか、「大和岩雄」説は、不倶戴天の敵、両説のいいとこ取りと非難される。感情的な「論戦」で、素人目にも、両論の折り合いを付けてまとめるのは、火中の栗を拾うものであり、賞賛すべきと思う。要は、著者の独解力が不足していて、大和岩雄氏 の論議を理解できないと言うだけではないだろうか。

 少なくとも、長年にわたり「東アジアの古代文化」誌を主宰し、各派の「論文」を掲載し続けた労は、大いに賛嘆すべきである。

*みんなウソ(p16)

 ここで、大御所らしい岡田英弘氏が登場して、倭人伝欺瞞説、つまり、道里、戸数の数値は、全てウソと武断していると紹介されている。
 この大家の意見には、「古代史家はみんな嘘つき」とでも取れる後継、追従発言まで登場している。著者の論法で「このような議論が許されるなら、どんな議論も可能になろう」というと、本書の議論は全て無意味であり、それこそ「邪馬台国はなかった」になる。

 それにしても、いきなり「岡田氏の資料論」と言われると、何のことかと戸惑うが、単に「史料全否定論」のことなら、「論」と呼ぶほどのものではない。単なる、個人的な気まぐれに過ぎない。岡田氏の著作を読んだ上で言うのである。

*嫌いだからきらい
 因みに、当方の見る限り、岡田氏は「算数嫌い」であり、倭人伝の戸数・里数論のように、概数の計算という「難業」は受け付けず、自分に理解できない議論は、大嫌い、だから、全てウソ、との主張に見えると言うだけけである。一人前の大人が、人前で、金を獲って発表する事ではない。

*書記官の魂

 素人としては、倭人伝の筆者が、中原人が未踏の異郷の、最初の見聞の忠実な記録を記すという栄えある務めを捨てて、でたらめな造り話を捏造したというのは、それこそ、重ね重ね無責任で途方もない大嘘と思うのである。ここまで混乱されると、是正するのが困難である。

 いかなる思い付きも、論拠無しに公開すべきでは無いと思う。特に、誹謗中傷は、そのような発言をものしたものに跳ね返るのである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  8/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*考古学の隆盛(p17)
 「隆盛」とは、「西郷南州」のことでなく、経済的な繁栄、社会的認知の向上のことと思うのだが、あるいは、公的資金を集め、地方公共団体の支持を受ける状態を言うものなのかと思うのである。著者の羨望が現れているのだろうか。
 面倒なので、用例検索はしていないが、この「単語」は、時代錯誤ないのだろうか。著者、無頓着で、自己用語の点検を怠りっぱなしだから、信用できないのだが、ここはほっとくことにする。

*一考古学記者の暴言(p17)
 そこに、一考古学者、寺沢薫氏の歴史的失言がでかでかと取り上げられているのは、感心しないのである。
 「たかだか二千字ほどの」で始まる発言は、「リアルタイムの証拠」などと「ものの道理」を大きく踏み外していて、中高生の口喧嘩並みで、真剣な意味を汲み取れない。いや、これは、中高生に失礼で、成人男子の「飲んべえがくだを巻いている」と言うべきかも知れない。
 そりゃそうである。古代の「事実」が「リアルタイム」で判明するなど、夢想・幻想以外ではあり得ないのである。

 何とか素直に読むと、『一人の考古学者が、「大和説隆盛」を「至上命令」とし、反対論を叩き潰すと宣言している』だけで、学問の精神とは無縁の暴言と聞こえる。それにしても、どなたが、氏の夢に立って、命令を伝えたので労か。まことに面妖な神がかりであるが、反論しようがないのである。
 と言うものの、発言の状況もわからなければ、発言者固有の言葉遣いもわからないので、当方が書かれていると感じた趣旨が、正確な理解かどうか不明だし、用語解釈がどうなのかもわからない。

 少なくとも、本書著者が、自身の独特の言葉遣いを維持しながら、寺沢氏の別種の放言が寺沢氏の意図通りに的確に理解できたことが不思議である。言いっぱなし、意味不明の放言であるから、「一般人が理解可能な日本語」に翻訳して欲しかったと思う。

*大和の考古学批判(p18)
 続いて、「大和の考古学」に始まる放言は、考古学者は「山師」の類いであって、一山当てることだけ考えているから、論説は、すべて信用できない、と言っているように聞こえるが、それは、飲み屋での駄弁ならともかく、論議の場で言うべき事ではない。
 思いついたことを何でも言えばいいというものではない。動物園のゴリラが、投げつけるものがなくなったときに、来客に糞塊を投げ付けるようなものである。少なくとも、大の大人が口にすべきものではない。(といって、子供なら言ってもいいというものではない)

*考古学者の天敵
 次項に示したように、著者は、考古学者全般に強い偏見を示しているので、考古学に関する発言は、一切、絶対に信用できないのである。
 「証言」と称しても、証人が偏見に満ちていて、発言が不正確とわかっていたら、端から、証言は許されないのである。「証言」は、資格審査が証人の資格を確認した上で、証言台に立てるものである。通りがかりの野次馬の無責任な不規則発言は、無視されて当然なのである。
 ここに不意打ちで登場する「天敵」は理屈抜きの「捕食者」であるから、論議の埒外である。現代文明に食人の風は無い。

 そもそも、一人二人ではない考古学者全体の意見を、一人の、どこで出たかもわからない発言から読み取れるはずがないが、著者は、何故か、でかでかと取り上げて不思議である。ここまで書いたように、著者の日本語読解力は、ほぼゼロであるから書いたものも信用できないのである。その判定が、また裏付けられたと言うだけである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  9/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*考古学バッシング(p18)
 つづいて、著者は、考古学者の見解を紹介した後で「考古学によって論争に決着が付けられると考えるのは、考古学者の思い上がりである」と罵倒しているが、著者の主張は、どう見ても、常識に欠ける論者の勝手な「思い上がり」である。

 多数の真摯な考古学者の長年の研究活動が、無資格、無責任、無思慮の一個人の勝手な意見で否定できるわけはない。まして、氏の混濁した意識では、「考古学」は、遺物、遺跡を評価する考古学であり、しかも、三世紀限定、倭人伝記事関係限定のように見える。酔漢の暴挙のように、振り回す棍棒が誰にあたっているのか、関心がないようである。
 当方も、このあたりは、話の流れが理解できないままに読み進んで、突然の棍棒の風に巻き込まれ、いかにも、不出来な批評となっているのに、後日気づいたのである。慚愧のいたりである。考古学者断罪に至って、却って迷惑をかけたかと後悔している次第である。

 考古学の基本は、「遺物を評価する考古学の見解と文献を評価する考古学の見解は、互いに整合しないのが当然であり、いずれかをもって他を圧倒してはならない」と言うものであると聞いている。この基本に反している発言があれば、その個人を批判すれば良いのである。

 他人の意見を聞くとき、無前提・無批判で依存してはならないのは当然であるが、他人の意見に丁寧に耳を傾け、時に依存するのが、物の道理、大人の分別である。まして、「考古学に惑わされない」というのは、相手構わぬ、一方的暴言であり、当然、考古学は文献学に惑わされないと、お互い様の暴言で報われるのである

 近年の各機関の発表は、考古学が、文献学の一説、主として国内史料の無節操な適用で、長年築き上げてきた年代観を歪めようとしているとさえ思える。考古学が主体となって、「衆を惑わ」しているのではなく、国内文献学が、衆を惑わし続けているのかと思う。

*考古学の最終(的地)点(p18)
 「考古学はまだ全然最終的地点に達してはいない」など、まるで、青二才の妄説、一人スカッシュである。考古学界の核心にいないものが、どうして、考古学の最終点を語れるのだろうか。(ここは、子供の口喧嘩の果てではないのだから、言葉を無駄に積み上げて「まだ全然 」最終的などとは言わないものだ)

 逆に倭人伝解釈、及び国内史料解釈の最終点を問われると思うが、回答はあるだろうか。漫然たる暴言は、さらに漫然たる暴言で報いられる。子供の口喧嘩である。いや、子供に失礼だから酔っ払いの罵り合いと言うべきか。

*倭人伝が求めるもの(p18)

 最後に、過去の陋習を非難したいという感情が言わせるのか、『「倭人伝」はそれが本来求める読み方をされたことがない』など、意味不明な断定啖呵を切っているが、著者は、自分の書いた文を読み返さないのだろうか。
 「(それ)倭人伝が求める読み方」の意味がわからない
以上、問い掛けられても答えようがないのである。それでは、聞き手が納得して回心するわけがないのである。

 つづいて「(所在地)論争の本当の土俵」などと、どうも相撲の比喩らしい意味不明のたわごとを言い放つ。誰にもわからない比喩で、見知らぬ読者に何を伝えたいのだろうか。そして、読者は、このような寝言の山に、カネを払うべきなのだろうか。

 最後は「”不良債権を積み上げている銀行業界”のようなもの」と、前代未聞の難業に取り組む銀行業界への賛歌(ではないのか)で終わるのは、各自(誰?)自由な空想を賞賛されているのか、読者にわからないのではないかと懸念する。少なくとも、常人の理解できる比喩ではない。

 延々振るわれた熱弁も、擁護か罵倒か不明では、一段と意味不明である。この下りは、何のために、何を訴えているのか、終始不明という、「妙技」を陳列しているのであった。

             未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 10/30

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*「倭人伝」の正しい読み方(p19)
 著者は、論拠無しに、「倭人伝」は、「三・四世紀の中国人を読者として想定している」とまたもや神がかりのご託宣であるが、三世紀後期の「倭人伝」編纂者が、後世四世紀の読者を、特定して想定しているはずがない。時代錯誤である。「世紀」も時代錯誤、地理錯誤の妄言である。中国古代にキリスト教紀元の概念は無い。要は、「同時代の中国人」と言えばいいのに、無用の錯誤を犯しているのである。
 重ねて、同時代の中国人に「アトランティス」もアテナイもスパルタも「全く未知」であり、時代錯誤、空間錯誤の概念を持ち込む理由が理解できない。

 せいぜい、魏使到来時の魏帝曹芳から陳寿存命中の晋恵帝までの各皇帝に、司馬懿に匹敵する政府高官を想定して書かれたろうが、少帝や暗愚の景帝に合わせたとも思えない。

 具体的に言うなら、倭人伝の「稿」は、魏使を勤めた帯方郡使の書記役が、郡太守に書いたと考える。

 ということで、「倭人伝」の本質を表現しているはずが、端的な文を棄てて、稚拙な文を連ねて。読者に受け入れられる機会を逸しているのである。

*突如転進(p19)
 そこで、著者は、本書読者の襟首を掴んで、身近に据えるが、「われわれ日本人読者」などと抱き込まれても、ここまでの著者の書きぶりから同調しかねる。仮想被告席に同列に連なるのは、ご勘弁いただきたい。
 それにしても、「日本の現地」とは意味不明である。「日本」自体七世紀以降であり、倭人伝理解に無用である。「現地」は、重大な概念であるが、これでは、筆者共々ドブに落ちている。

*憑依する人格
 そこへ、「倭人伝が想定する読者」は別と言うが、「倭人伝」には人格はないから、自分の読者を想定することは不可能である。と言うことで、何が正しい読み方かわからないが、著者の言い分がわからないから同意もできない。

*独創的な狂詩曲
 と言うように、議論の導入部に綿々と書かれているのは、読者に理解不能な妄言ばかりである。大体、泳いでいるサカナの心境は知る由もないし、不可解の極みであるが、「三・四世紀の中国人の心境」など、根っから不可解である。

 繰り返しだが、倭人伝の現地風俗を述べた部分は、「魏使」随員として倭を訪れた帯方郡書記官の筆になるものであり、おそらく、魏使正使、副使として倭国を訪れた郡高官に提出し、郡太守に承認されるべきものであったろうから、著者の決めつけは、外しているのである。

*うたた寝の妄想(p19)
 続いて、まことに唐突に、詳しい説明無しに、「アトランティスの都市国家」と書いて、それに関する情報が、古代ギリシャの哲学者プラトンの書いたものだけであったと書いているが、本書読者に、場違い、見当違いの片言が何のことかわかるとも思えない。うたた寝の夢か、妄想か。プラトンが語った内容が、「現地」を塗膜ていできない、実在したかどうか不明という事は、よくよく噛みしめるべきである。

*危険な言葉遊び
 著者は、「邪馬台国」と「アトランティス」が、同類、同等と主張しているのだろうか。
 「アトランティス」は、後継者を持っていないが、「邪馬台国」は、後継者だけでなく、神格化して信奉する人々がいるのである。著者は、命が惜しくないのだろうか。そのような棄権に、無辜の読者を巻き込んでいいのだろうか。

*「都市牛利」賛歌
 「都市国家」も、未定義、初出の意味不明語である。(中国史の先哲が創出した「学術用語」らしいが、ここに説明がないので、理解しようがない)少なくとも、倭大夫「都市牛利」の国や「家」ではないだろう。因みに、中国古代史の用語は、後世の東夷無教養人の理解をしばしば裏切るので、よほど調べた上でなければ、適用できないのである。

*危険な地図幻想
 意味不明の前振りの後、現代人は、現在の関係地域の地理を知っているから、理解の助けになると言いかけて、いや、それは、余計な先入観となり、曲解の元だから否定せよとも取れる言い方で、「理解の助け」の意図も意味も不明である。

 因みに、現代人が、九州北部の地理を知っているというのも、とんでもない妄想である。普通、東日本の人々は、福岡と熊本の位置関係を把握していない程度の地理認識のはずである。いや、近畿人だってあやしいものである。小学校で習ったはずでも、日常の言語/地理感覚はあやしいものである。何が何の理解の助けや曲解の原因となるのかも、不明である。要は、全て寝言である。

 そして、言うまでもないが、現在の地理から三世紀時点の地理を正確に推定するのは、不可能事である。特に、市町村レベルの詳細な地理は、至難である。「国土地理院」のデータのお世話になっても、それは、現代の地理であり、三世紀に関しては、一切保証されないはずである。(データ利用規定では、保証外の時代に適用することは、禁止されているはずである)
 著者は、何か神がかりで、三世紀の地形を見知っているのだろうか。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 11/30

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

2.「倭人伝」の構成・構造(P21)
 毎度のことながら、倭人伝は「約二〇〇〇字程度の小文にすぎない」と冗漫(約+程度)に卑下しているが、「すぎない」との評価は後世の一部の軽率なやじうまの浅知恵にすぎず、著者は、大事なところで状況判断を誤っているように思う。

*「倭人伝」全文(P21)
 ここで、初めて「「倭人伝」の構成・構造」の大前提である「倭人伝」全文が掲示されるが、出し遅れで、しかも目次に明示されていないのは、首尾顛倒で困ったものである。

*著作権談義の暴走
 著者は、中華書局標点本(以下、書局本と略する)の文字テキストに、岩波文庫の石原道博編訳を利用して、独自の句読、訓読を加えていると言う。「すべて従ったわけではない」と称しているが、そのような利用方法は、著作物の改編にあたり、著作権上難点があると考える。引用部と改編部を明記しないと、第三者著作物の勝手な改竄になるのである。

 岩波文庫本は百納本準拠であるから、著者は何らかの修正を加えているのかも知れないが、大半は複写であり創作と呼べるほどではないから、さらに疑義が残る。
 結局、本書の手法は、引用にあたって無断で勝手な改変、改竄を行ったに等しいと思われる。講談社編集部は、岩波書店の許諾を得ているのだろうか。

 なお、諸兄の倭人伝関連著作で、宮内庁書陵部所蔵の紹凞本影印版の複写を掲載するのは、史料原本が、確実に所蔵されていて、閲覧が可能である上に、史料を所蔵し写真版を撮影した宮内庁が、写真データを国民の里用に供して公開しているので、原則として、著作権上の問題が無いからである。これは、光学的に読み取ったテキストを含めてのことなので、広く活用されている。

 一方、書局本は、一九五九年初版以来、改訂を経ている現代出版物であり、当然、著作権が有効であり、利用には許諾が必要と思われる。

 つまり、著作権法上許容されている部分引用でなく全文掲載する以上、出典明示だけでなく、権利関係について不可欠な許諾の要否、有無などの明記が必要と思われるが、本書に明記されていない。

 一流出版社である講談社が、著作権侵害が疑われる記事を断りなしに出版している事は、会社としてのコンプライアンス遵守に不備があるとみられても、仕方ないのではないか。

*見捨てられた中華書局本(p34)

 本文紹介に続いて、これも、首尾顛倒して、漸く、使用テキストの説明があるが、不徹底である。

 書局本談義を続けると、このページの書き出しは、原典を踏み固めるにしてはぞんざいである。
 著者は、「一二点断っておきたい」とだけ前置きしているが、語られているのは意図不明の文であり、著者の主張の不出来な点をバッサリ切り捨てているとは思えない。
                      未完

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*不徹底の不手際(p34)
 地名等の誤字を正すと、大言壮語しながら、以後、対海、一大、邪馬壱と表記するというのは、これもまた、筋の通らない話である。将来本書が電子化されたとしても、索引なし、全文検索外しをされていては、大変困るのである。広い意味で、フェイク、ごまかしである。
 突然、紹興本に従うと言うが、議論の基礎となっている準拠本を、途中で動揺されては困のである。

 ネット公開の影印版「紹興本」には、冒頭に「倭人伝」の小見出しはなく、また、対海国でなく対馬国と書かれているから、著者の言う誤字ではなく修正の必要はない、となる。なお、紹興本の「原本」の所在が示されていないので、そのような確認が正当な資料に基づいているかどうか、検証が困難である。文献考古学は、「学」ではないのだろうか。
 著者は、対海国、対馬国の選択が、中華書局本でも1959年、1982年版で変わっているのを承知しているのだろうか。
 書局本依拠と言いながら、勝手に修正していると非難したのが空を切って、当方も不満である。

 ついでに言うと、「倭人伝」中の固有名詞の読みがなの根拠は、明示しないとしても、論外の、つまり、「倭人伝」にない「邪馬台」(やまと)のふりがなの出所、根拠が、この位置で示されていないのは、まことに不都合である。

*勝手にふりがな
 念押しすると、本書に原典テキストが誤字であるという論考は示されていない。特に、「邪馬壱」が、正しくは、誤字訂正で言われる「邪馬臺」ならぬ別字の「邪馬台」とされ、これに「やまと」と勝手にふりがな付けしているのが、説明無しに「断られている」
 著者らしく、衝動的で筋の通らない話である。

 中国史書である倭人伝には、当然、そのような「ふりがな」は書かれておらず、当時、倭に、漢字の理解の助けとして、自分たちの言葉を表音化して漢字に振る「カナ」が発明されていたとする証拠は「絶対」無い。

 従って、素人目には、そのような無理なあて読みは、過去の文献解釈未開時代の遺物として、古代史学界から見捨てられているブラック解釈(過去の一説などとかばい立てることはない)と思うのだが、まだ、黒魔術の支持者は絶えていないという事のようだ。
 著者の抱負は、形骸化しているようである。

 いずれにしろ、以下の論議の根幹を成す事項を、著作全体の前提として、緒言として書き出すのならともかく、第一章冒頭にそそくさと書き捨てる態度は、著者の壮大な抱負に相応しくない
と考える。

 地理行程論を飛ばし読みする「王道」を行く読者に、この部分は目にとまらないのである。

                      未完

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*最古談義
 最古とは「現存最古」の意としても、本書ほどの論考の起点として、まことに粗雑でずさんである。
 当方理解の限りでは、全巻に近い刊本として、どちらも南宋初期のほぼ同時期に木版印刷で刊刻された「紹興本」と「紹凞本」がある。相接して、大金と多大な労力を必要とする刊刻事業が二度行われたということは、それぞれ、その時点で重大な意義を皇帝に認められたということであり、素人目にもどちらが早い、遅いという単純な問題ではなく、その真価を問うべきと思われる。

 当方の聞きかじりでは、書局本は、大半を紹凞本に基づく「百納本」(本書に説明はないようである)に基づいているが、主監が原本の誤りと判断した文字には、権威を持って修正を加えていると聞いている。
 だからどうしたという事はない。中途半端な説明は、素人を含めた読者にとって意図不明と言うだけである。

 「最古」以前の刊本写本が現存しないのは、自明の冗句であり、字数稼ぎは感心しない。

 因みに、それ以前の資料も、断片、切れ端は残っているようであるから、不用意な断定的言葉遣いには注意したいものである。
 続いて、若干の誤字例(と著者が見た)が列記されていて、出典は、当然、書局本であろうが、著者が原典を動揺させたままなので、必ずしも明解でない。
 著者は、ここで、有効な根拠を示さず誤字としているが、書局本が、誤字と確定しても訂正しない、不正確な資料と主張しているのだろうか。なんとも、場当たりで筋の通らない話である。いや、それは、ここだけではないが、指摘しないと是認したと解される懸念があるので、書き足している。

*書局本の権威と限界
 なお、後段(p185)に「不意打ち」で、紹興本・紹凞本と列記される部分が登場するが、著者が提起した紹興本に対して、紹凞本の位置付け、両者の関係、及び、書局本、さらには、百納本との関係は語られていないから、不案内な読者は困惑するのである。
 著者は、何か、世に出回っている紹凞本、百納本を嫌う決定的な理由があるのだろうか。好き嫌いレベルでも、合理的な理由があれば、世間は耳を傾けるのである。

 また、著者が書局本(一九五九、一九八二年版)を所蔵していて、これを座右の宝典として、依存しているのなら、とことんその方針を貫くべきではないかと思うのである。書局本依拠との著者の抱負は徹底せず、好き勝手な修正をしながら、いたずらに書局本依拠と謳い上げているようである。それにしても、掲載されているテキストを検証するために書局本を購入して確認する気にはなれないので、迷惑としか言いようがないのである。
 何にしろ、論証の手順としては、まずは、基準史料を原点として定めることと考える。原典に対して、史料批判を加えるなら、まず、批判の根拠史料を批判しなければならないである。原点が動揺しては、議論ができないのであるが、どうも、世間には、原点の上にモルタルでも塗りつけて、原点を偽造するのが流行っているようである。著者は、そのような事例を散見して批判の筆を執ったようだが、原点知らずの原点論に陥ったようである。

*原点設定の提案
 また、実際問題として、二千字の資料で、各史料の異同は、まことに限られているから、容易に、現物を閲覧して確認できる紹熙本を、当代「倭人伝」論の原典とすると言うのが、古田氏の「原点」設定であったと思うのである。これを、「紹熙本」神聖不可侵宣言とみて、非難を浴びせた複数の論客があり、古田氏が、応答を通じて姿勢を硬化させたと見えるのが、近年の「倭人伝」論争に深い溝を刻んでいるように見える。
 しかし、先に確認したように、各本の内容に異同は限られていて、例えば、懸案となっている「邪馬壹国」は、すべての史料で共通して、「邪馬壹国」であって、「邪馬臺国」は、言うならば、架空の存在なのである。
 ぼつぼつ、無意味な史料論議は、論争から退役した「レジェンド」として「史学殿堂」に退いていただいて、実のある論争をすべき時が来ているのではないかと思うのである。

 論じられているのは、原点の設定ではなく、古来、読み下しや現代語訳と称して、史料の文字を書き換える二次創作を、読者に押しつけたことから発しているのである。
 いや、それは、大抵の論者がどっぷり浸かっている泥沼であるから、原典読解力のない著者が、二次創作を原文と誤解してしまうのも無理ないと言える。

                      未完

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

3.<末羅国起点の放射行程>説(p62)
 著者は、山積する道里論の諸説を、(1)行程は、順次進むと書かれているとする「連続行程」説と、(2)行程は、連続行程を辿っていって、倭国内の一国で、そこが起点となる放射行程が書かれているとする「放射行程」説、の二派に峻別されるという。一刀両断で威勢はいいが、大抵、論議の要点を廃棄する暴挙になっている前例に学ばないのだろうか。

 確かに字義から言うと「派」とは、河川の支流のことであるから、遡って流れが分かれたら、両派は二度と会うことは無いのである。また、それぞれの流れの水温や不純物が異なれば、両派が合流しても、密度が異なれば容易に混じり合わないので、仮に一度分かれて後に合流しても、直ちに一体化することはなく、遙か下流まで見分けがつくものである。
 比喩を持ち出すについては、この程度の裏付けの用意が必要なのである。

 著者は、考察課程の説明を後回しにして「放射行程」説が正しいと断じる。珍しく、結論を提示して、続いて詳細に説明する良心的な書き方になっている。これは、一旦は、褒めるしかないのである。

*榎一雄氏の<伊都国起点>説(p65)
 ただし、明解なのは一時で、また混沌としてくる。著者は、放射行程説は、榎氏の「伊都国起点」説が問題であると言い切って、「問題」の意味も「解」も明らかにしないまま論を進める。言ったばかりで転進するのである。そして、読者は、次段の迷言に阻まれる。

*榎説の問題点(p67)

 榎氏の高名な説は、連続行程部分から放射行程部分に移るのは行程の書き方が異なることを手掛かりとしているが、著者は、これは、倭人伝記事を読めば、事実(傍点付き)として確認できるので、<事実>ととらえよう、と意味不明の文字遊びの後、問題は、と意味不明の言葉遣いで、<事実>が、伊都国起点の放射式行程説の根拠となっていることにあると断罪する。何のことやら、断罪を理解する手掛かりがない。

 意味不明の先触れに続いて、この断罪に続いたのが、意味不明の比喩である。何が、「事実」なのか、なぜ著者が「事実」を知り得たのか、なぜ、先賢に対して、知識、学識が、断然足りない著者が、「問題」、ここでは、「難点」、を突きつけて、解答を迫るのか、奇々怪々である。

*推理小説(ミステリー)の秘儀(ミステリー)(p67)
 「三・四世紀の中国人にとって、「倭人伝」は推理小説ではなく、旅行案内文書に過ぎないのだから」と言い立てるが、当時、推理小説は無かったから、この発言の前半は、当時の人に無意味で、後世人の自己満足である。
 また、魏志が知られたのは、三世紀後半であるが、それ以前の三世紀人は、倭人伝と言われても、何のことかわからないのである。
 ついでに言うと、当時、旅行案内文書などあり得ない。もっとも、存在しない以上、あれば希少、かつ貴重だから、「過ぎない」と言うのは、時代錯誤の妄言である。
 というように、現代東夷蛮人の世界観で、三世紀の中国人の著作を論ずる愚が繰り返されている。

 倭人伝で描かれる東夷の国は、中華文明にとって未曾有大発見であるから、その地の案内は、現実に書かれていたとすると、先例がなく、その意味でも「過ぎない」などと価値を卑しめるべきではない。後世、中原世界の仏僧が、天竺に仏典を求めた長途の旅に出て、旅行記を残したのは史実であり、代表するのは、後世の東晋代法顕の「仏国記」、唐代玄奘の「大唐西域記」であるが、天竺行程の記録として現存しているのは、二書だけではない。倭人伝を、そのような聖地探求の渾身の旅の旅行記の先駆者になぞらえるとしたら、まずは、絶大な時代錯誤であり、続いて、途方もない見当違いである。ここは、「正史」の巻末の結句であり、大旅行記の出る幕は無い。

 これは、著者の見識を糞土に落とすものである。まして、比喩の絵解きが、完全な見当違いの大失態で、絵解きになっていないのは笑うに笑えない。

*比喩の空転、誤用、誤解釈(p68)
 常套句、つまり、常用比喩による決め言葉は、
書き手にとって良い気分だろうが、自身の稀代の決め言葉が通じるのは、身近の言語空間に限られ、説明抜きで見知らぬ第三者に向かって放つと、空を切ったり、見当違いに波及したりしかねないから、濫用を戒めたいものである。

*行程記事の出だしが問題(p70)
 ここで、「問題」は、出題、課題の意味のようである
 「行程記事の出だし」と突然言い放っているが、見て取れる「記事の出だし」でなく、各国記事の冒頭のようである。現代語訳が必要な名文である。

                      未完

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*謎の「読者(p71)」
 榎氏の絵解きは、迂遠で難解で、一般人の知性でついていけないから間違っている
との事のようである。
 しかし、倭人伝は、想定する読者に対して「問題」を投げかけて「解」を求めていて、それは、読者に知性の発露を求めるものであり、所用の知性と教養に欠ける現代人(当時の規範では、東夷蕃人)が、特段の(大量の)予備知識無しに、気楽に、すらすらと読み解けるように書かれているものでは「絶対に」ない。少なくとも、陳寿は、現代人の知識を全く想定していないから、現代人に易々と読める文章を書くことは、あり得ない。

 念には念をと重ねると、ここで言う「読者」は、著者や当方のような、教養欠如の現代人ではない。本書の想定する読者でもない。同時代の教養人・学徒としても、安直に必ず、直ぐに、一人の例外もなく」理解せよなどと、教養欠如の現代人が強制することはできないのである。

 当時と言わず、現代でも、誰が、年少の曹芳(魏使を派遣した少帝)や暗愚の司馬衷(陳寿存命中最後の晋帝 恵帝)に対して、天子の知性と教養を量ることなく、倭人伝を初見で読み解けなどと言えようか。あくまで、天子の教養を想定したのである。

*獲物を狙う眼(p74)

 著者が随所で闖入させる不規則発言が、ここでも、複数あって、批判対象を選ぶのに苦労する。
 根拠不明の「獲物を狙うような学者・研究者」の眼を非難しているが、肉食動物は、獲物を捕食しないと生きていけないから、そのような眼が必須なのであり、それについて、関係のない部外者が、純然たる菜食主義でもない限り、善悪を言うべきものではない。

 「学者・研究者」が、行程記事を「アクロバット」の妙技で解釈してみせるのも、学界での生存を掛けた必死の業であり、衆人環視のもとにしてのけた曲芸は、超絶技巧として賞賛すべきであるし「アクロバット的」とは、練達の至芸を賞賛されている形跡がある。
 突然、著者は、「我々も」と、無辜の読者を寝床に抱き込もうとするが、謹んで辞退する。

*時代錯誤の比喩(p74)
 著者の紹介を信じて、三品氏が、不出来な比喩でしか、榎氏説を否定できなかったとすると、三品氏は、榎氏の提示した「問題」が解けなかったのである。
 因みに、榎氏の述懐によると、放射行程説を発表した途端、史学会の(大)先輩から、「史料文献によれば、放射行程を記述するのは、起点が、地域国家の首都である場合だけだが、伊都国が倭国の首都との証拠はあるのか」と妥当な指摘(きついおしかり)があり、当時若輩の榎氏は、指摘を克服するのに苦慮を重ねたという。克服とは、そのような合理的な批判に対して適確に反論して、反論を乗り越えたという事であり、別に恐れ入って自説を撤回したわけではない。

 ここでは、三品氏の批判の「普通」でないという指摘に対して、まことに僭越ながら、素人視点から教え諭しているが、榎氏説を、先ずは、長年にわたる史料の読破の豊富な学識に基づく批判的視点から理解しようとした先輩の態度は、往時の学会の健全なあり方を示すものであって、むしろ賞賛すべきと思う。批判は、「絶対に」否定ではないのである。

    • 余談 伝統の壁
       クラシックの指揮者で、今や大老の感があるNHK交響楽団の先任正指揮者は、若い頃欧州に留学して新思潮を吸収して帰国し、あるとき、関西の大御所のオーケストラでの楽聖ベートーヴェン交響曲の指揮で、重厚たるべき名作を疾風のごとく駆け抜けて、聴衆に新鮮な感動を与え、商都の話題になったそうであるが、その直後に、大御所に昼食に誘われたが、当日、大御所が(付箋や書き込みのある)大判の指揮者用スコアを持参して、テーブルに置かれたのを目にして、いつ何を言われるか気になって、折角の食事の味がしなかったと述解されたのを記憶している。
       話しの落ちとして、大御所は、食事の場を通じて、当日の指揮について何も言わなかったが「怖かった」とのことであった。
       素人考えでは、伝統の築いた壁は、時に突き抜けねばならないが、壁は、伝統を守る、目に見えない力で支えられ、そして継承されると言うことのようである。「ハードル」は飛び越えるように設定されているが、別に、突き倒しても良いのである。

  • お断り
     以上は回顧談であり、古き良き時代の挿話が語られたときから40年近く経って、長命の大御所は世を去り、往年の若輩指揮者は、いまは大老である。当ブログ筆者は、伝統は継承されたのだろうかと、感慨深い。
     当「余談」は、ブログ記事の他の部分と異なり、本書と関係のない、当ブログ筆者の個人的な回顧談であって、「伝統の継承」に関する個人的感慨を述べたものであり、当事者の伝記記録を目的としてとしたものでない。また、「個人的な感慨」は、ご参考までに書いたものであって、何らかの論拠、ないしは、何らかの権威を持つものではない。

    記録としての正確さは保証されたものでなく、一種のフィクション、説話として受け止めていただければ、幸いである。 

*試煉のとき
 壁を破る新説は、批判と擁護が火と水の如く降り注ぐのに晒されて、初めて、その仮説の真価が示されるのである。克服すべき「火と水の試煉(錬)」である。
                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 16/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*「普通」私論(p74)
 著者が抜粋した三品氏の榎説批判は、否定の論拠として、「漢文の普通の解釈」でないとしているのが、いろいろな疑問を巻き起こすのである。
 つまり、「普通」とは、中国語では、普(あまね)く、つまり広く通じるとの意味だが、この批判は、三国志の時代様相とそぐわない楽天的な言い方である。中原の中核となる帝国から発された文化、例えば漢文の書き方が、全土にもれなく、むらなく、普く通じているという前提で見るから、榎氏の解釈は「普通」でない、即ち、間違っているとの断定であるが、それは、事実誤認である。

*異常事態での普通

 ご存じのように、三国鼎立時代は、そうした「普通」の概念が、容易に適用できない異常な時代だった。

*三国それぞれの普通

 三国が独立して存在した以上、それぞれの首都を中心として、三者三様の文化が「発信」(当説の流行語をご笑覧いただきたい)されていたのであり、「普通」は、まずは、それぞれの国内に限っての普通であったと見て良いのではないか。

*朝鮮半島の普通
 さらに言うと、遼東に、公孫氏が、半ば自立して半島と中原の交信を遮っていたため、洛陽政権の「普通」は、帯方郡に届いていなかったとみるべきと思う。いや、公孫氏がいなくても、漢時代、中華文化は、発信源を離れるにつれて希薄となり、各地の文化は、程度の差はあっても、独自の地域性を帯びていたはずである。

*遼東青州圏の普通

 ついでに言うと、遼東郡や帯方郡の地域は、山東半島を含む青州との海上交通が盛んと思われるのだが、そのせいか、一時、公孫氏が青州に進出し支配下に置いたため、中華文化の帯方郡への伝搬は遮られていたと思う。

 三国文化が、それぞれ個性を持っていた一例として、三国はそれぞれ異なった元号、暦制を採用していたと思われる。

*現代の「普通」

 言うまでもないが、中国各地には、全国に通じる「普通話」が行き届いているというものの土地固有の話し言葉が「**話」として定着している。周代以来、儒教などの文字資料は、当然同一の文字を使用していて、その発音も、ある程度共通していたが、会話では、各地固有の言葉が飛び交っていたし、今日も、大勢としては変わっていないように思う。
 韓伝には、半島東南での秦韓(辰韓)では、西方の関中方言、つまり、秦の口語が通じていたとしている。秦代の地方官が、一族もろとも移住したとでも言うようである。
 いや、テレビもラジオも電話がない時代は、普通の文化は浸透せず、時に「普通」しなかったと見るのである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 17/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                      2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2022/01/13

*倭人伝の「普通」
 倭人伝を見る限り、冒頭近くで、郡から狗邪韓国まで七千余里と書かれていて、これは、倭人伝の原稿を書いたと推定される帯方郡関係者にしてみると、魏朝の「普通」、つまり魏朝里制と同じとは限らないと知っているので、倭人伝の「普通」を明記するために、ことさらに書かれているのである。
 帯方郡管内は、楽浪郡の南方の荒れ地に郡の体制が準備された時代を含め、後漢/魏制の「普通里」が敷かれていて、郡に服属した各戸の農地/田は、一歩六尺の制で測量/検地され、街道道里を示す「里」は、一里三百歩で記録されていたから、一里が、現代で言う、四百五十㍍程度であったと見えるのである。これは、特記されていないが、国家制度を管内全戸に履行するのは、当然、自明だから書いていないだけであり、歴史上施行されていた証拠のない、普通里の一/六の短い里は、存在しなかったと見るものである。
 先に確認したように、郡内に限らず、帝国各地では、一歩六尺、一里三百歩の関係が当然であったから、里を一/六に短縮する改変は、実行不能だったのである。

 といいつつ、倭人伝編纂に際して、陳寿は、郡から倭まで万二千里という公式記録を改変することは許されなかったから、倭人道里は、全体で万二千里としつつ、部分道里を設定せざるを得なかったという事態が想定されるのである。となると、倭人伝の道里記事は、普通里の一/六の地域里により帯方郡が推定する各地点道里を採り入れるしかなかったのである。これは、本来困難の極みであったが、半島内の郡街道を七千里とし、三度の渡海を、一律一千里の「水行」とし、倭の末羅国に上陸後は、二千里の街道が続いているとすることにより、一種筋の通った道里記事が成立したのである。

 倭人伝道里記事の解釈で、度重なる誤解がはびこっているのは、以上のような妥当な経緯が理解されていないことによる。道里行程記事が、魏志の実験によるものと見たために、現地に「短里」が施行されていたと主張することになり、それは、果てしない実証記録探索に繋がったのである。それは、記事の趣旨を、旅行案内や旅行報告と速断することにより、万二千里の由来を見失っていたのである。

 正当な推定は先に述べた通りである。まず、周制によって、遠隔の蕃夷を遇する際に、最遠隔として、万二千里を申告した遼東郡太守公孫氏の蛮行が、この事態を招いたと言えるが、遼東郡の公文書は、司馬懿郡が、官人一同共々、残らず破棄してしまったから、実際の成り行きは、洛陽鴻臚に残された「倭人」身上書しか残っていないのである。

 曹魏二代皇帝である明帝曹叡は、祖父の武帝曹操と父の文帝曹丕を乗り越える、絶大な功績を求めたため、万二千里の遠隔の東夷の貢献を演出してしまったと見えるのである。一部浅慮の徒が、倭人伝は、陳寿によって司馬懿の功績として工作されたとみているが、考えが足りないとしか言いようがない。あり得る姿は、明帝が、倭人記録を操作したために、このような道里が記されたのであり、陳寿は、明帝の工作が表面化しないように、道里記事の工夫を施したというものである。史官は、述べて作らずと言うが、最低限の工作は避けられなかったのである。もちろん、司馬懿の顕彰など、眼中になかったのである。以下、本題から離れていくので、「普通論」は、このあたりで幕を引くのである。

 ここで想定しているのは、帯方郡が採用していた里制は、遼東公孫氏の指示に従ったものなのか、新朝王莽の治世に制定、施行されたと思われる周制の遺制なのか、由来原因は定かではないが、已に各地に定着していたと見るのである。

 と言うことで、帯方郡が中心となった地方文化が存在していて、それに基づいて書かれたと思われる倭人伝は、魏志の一部となっているものの、帯方郡の地方色を帯びているものであり、それは、三品氏始め、古代史学界の泰斗の信ずる「普通」と異なると見られる。

*不揃いな普通
 もちろん、中華文明の威光は絶大で、地方文化の大半は、中原文化が「普通」なのだが、気候、風土の違いが反映して、地方独自の文化も見られる。

*独断のお断り
 以上の点は、当方としても自信を持っているが、めったに聞かれる議論ではないから、主張を隈無く理解いただいた上で、批判いただこうと丁寧に説明する。この見方を認めれば、榎氏の説を言下に否定する論拠が失われる。

 おわかりのように、当方は、榎氏の行程論の筋に賛成するものである。提示された仮説は、仮説の論旨を理解した上で、批判すべきと思うのである。

*独断のお断り おまけ
 ついでながら、後ほど紹介される古田氏の所説で、行程最後の「水行・陸行」(水行十日、陸行一月)が、帯方郡からの全行程総計との主張に対して、上田正昭氏が、そのような書法は普通でないと批判したのを想起させる。

 それは、文献解釈の基本原則であろうが基本原則だけでは批判として心細いと思うのである。

 倭人伝は、必ずしも、魏朝の「普通」を守っているとは限らないのであり、解釈の基本は、記事の真意は、まずは文献の文脈で解釈し、解釈しきれないときは、一段上の世界に頼り、最後は、中原文化に依拠するものと思う。

 おわかりのように、当方は古田氏の行程論に基本的に賛成するものである。(異議は、複数あるので、その都度提起するものとする)

 大事なことなので、念押しするが、提示された仮説は、仮説の論旨を理解した上で、批判すべきと思うのである。別に、二回言えば、二倍の説得力があると主張しているわけではない。先ほどの部分を読み飛ばされたことを懸念しているだけである。注意力、記憶力に優れた方には、うるさいことだろうが、読者の注意力、記憶力は、千差万別なので、ある程度「くどく」するのである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 18/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 2019/07/22 追記少々

*論敵併存
 偶然ではないと思うが、古田氏は、榎氏の放射行程論と魏使不会見論に対して、強く反対論を展開したが、あくまでも公開「論争」であり、筋の見える論議の応酬であるから、当方のような後世の者が、自身の視点で確認できるので、こだわりなく両者の意見に賛成できる。

 みな、「問題」に対する解答として完璧ではないから、我ら後世の凡人は、俗耳をそびらかせて、よりよい解答を求め、いいとこ取りするしかないのである。

 著者に求めたいのは、史料から出発したまっすぐな、掘り下げた検討であり、そうすれば、自身の語彙の動揺と不備を、自然に、無理なく正せると思うのである。 

*色眼鏡嫌い(p74)

 第一章の一応の結論として、従来の凡俗論者に「不当の読み方や解釈」をする人がいなかったのかと歎いているが、読者に意味が通じない。
 続いて、”日本人的関心で着色された、しかも度のきつい色メガネの比喩であるが意味不明である。
 「日本人的関心」がどんな色と濃度なのか、読者は知るすべがない。

 色メガネは、眩しくて正確な視認ができない状態を改善する手段であり、身近な例では、プロ野球選手が日中の試合中に常用するように視認改善に有効、と言うより、必須なのである。
 「度付き」なのは、医学的に正確な視認を確保するためであり、「度がきつい」のは、裸眼では日常生活に支障が出るための医学的な矯正である。何も、非難すべきことではない。著者の判断は倒錯している。

 以上、いずれも、史料批判に無関係で、低俗で見当違いの比喩は、著者の見識を疑わせるだけである。ご自愛いただきたいものである。

*日本人的関心の亡霊(p74)

 「日本人的関心」が再登場するが、「日本」が、八世紀新登場の時代錯誤概念であるのは別として、それがどんなもので、なぜ悪いのか、まるで、読者にわかるように語られていない。
 
著者には自明なのだろうが、著者の内面に潜んでいる精神世界を見ていない読者には意味不明で明解とほど遠い。素直に読む限り、国内史料や後世の視点から倭人伝を解釈する愚を戒めたようだが、著書で維持されていない口先だけのきれい事のようである。
 以下も、意味不明の比喩の山であるが、ここで突然、『「倭人伝」は推理文書(注:新語)でなく、”日本人的関心”を捨てないと、「論争」ができない』という。意味不明のかたまりである。別に、論争するのに、資格も、禁制もない。
 その時初めて、意味不明の“不良債権”が処理できるとおっしゃるが、何の比喩かわからないので「処理」も、何のことかわからない。食ってしまうのだろうか、ドブに流すのだろうか、それとも、灼いてしまうのだろうか。

 本格派の推理小説なら、適宜、適切な手掛かりが明示されるのだが、本書はそのような手配がされていないから、大抵の読者には解決の手掛かりは見えず、著者が大声と大仰な身振りで何を仰山に喚いているのか皆目わからない。

 猿芝居というと、与えられた役を見事に演じているサルに対する侮辱だろう。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 19/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 2019/07/22 追記少々

*批判の儀礼
 榎一雄氏に、「誰かの著作に非難すべき点の複数例が見つかっても、それで、その人の全著作を否定すべきでない」という至言がある。
 当方も、著者が本書に記した言葉の多数の問題点を取り上げているが、当然、本書を全否定する無礼は犯していない。指摘していない部分には批判を加えていない。一般化した批判をしたとしても、あくまで、ここにあげた点のみのことである。

*個人的な辞書

 気合いの入った読者なら誰でもすると思うが、書籍によくわからない言葉が出てきたら、先ず、その前後を読み、それでもわからなければ、文書全体を読んで、なんとか理解しようとする、一種の辞書作りなのである。
 もちろん、辞典を引くのが解釈の常道だが、よほどの特異な言葉でない限り、辞典に出ているような代表的な意味は、読者も了解しているのである。それでは、意味が通じないと感じて、辞書を頼るのである。

*本書の辞書
 本書は、不用意な用語起用の弊害が頻発して、読者を躓かせるものであり、用語統一が無く、補足無しの言いっぱなしのため、躓きから立ち上がるのが難しい。(実際上、不可能という意味である)

 比喩を変えると、とかく、素人撮りの不出来な動画が、視野が揺れてブレブレの上に、しきりに場面転換するのでは、めまいを呼んで、鑑賞に堪えないのであるが、本書の論考展開が、それに似ていなければ幸いである。酒酔いは心地よいことが多いが、読書で船酔いはたまらない。

*問題と解
 単に「問題」というと、著者自身が別の場所て言う「課題」と類似の言葉であるが、単純に、「難点」の意味で使うのは、一意的に解釈できないので、 学問書としては、用語が不適当である。

 英語国のこどもの意見で、数学(算数)の教科書は、問題(problem)ばかり多くて悲しい、と言うものがあるが、当方も、著者の安直な言い切りに不満を言いたくなる。
 単刀直入と粋がってみても、手抜きしすぎて読者に意味が伝わらなくてはどうしようもないのである。

 同様に、「議論」(discussion)に問題が多いというと、論客との議論の際に問題提起ばかりで、回答を示していないとも取れる。所説とか提言とか、素直に読み取れる言葉にすべきではないか。

 これが初めてでも最後でもないが、説明抜きの、生煮えの比喩の捨て台詞は、読者の理解の努力をすっぽかすので、不満と徒労感が積み重なるのである。
                      未完

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*勝手に弁護
 著者は、複数の先賢の議論に検討を加え、当否を述べるが、本書の性格上、撃破して葬り去る体を成している。斬り捨て御免は、勇ましい限りだが、相手は、藁人形ではないのである。

*不可解な過去の一説扱い
 著者は、「過去の一説に過ぎない」と格好を付けているが罵倒しているつもりなら、不用意な自爆である
 きれいな言い方をすると、「一人スカッシュ」である。懸命に打ち込んでいるが、相手はその場にいないから、跳ね返って来るのである。人は、自身の最悪の敵とも言う。

 本書の論説自体が、世に出た瞬間に過去のものとなり、『また一つの「一説」』としか呼べないことをお忘れのようである。また、「過ぎない」と評価をなすりつけても、何の権威も無い、感情的な捨て台詞であるから、たちどころにくずかご行きかと思われる。
 「一説」の価値判断は、一説を知るものにのみ下せる処断であり、理解力のない通がかりの野次馬の所見は、くずかごに放り込む価値もないかも知れない。

*不合理なバッシング
 その中で、古田武彦氏の諸説について、気まぐれにあちこちで不当と見える口ぶりで酷評しているが、ここで、勝手に故人の弁護を買って出ることにした。
 法曹界の弁護士が、自分の正義感でなく、職業上の使命に従って行動する時のように、当方も、自身の見識、意見ではなく、古田氏の著作、それも、著者が提示している初期著作の内容と、自説に基づいて反論することにする。

*邪馬台国はなかった

 古田氏の著書と違い、「」は付けない。つまり、三国志に誤字があったとしても、「邪馬臺国」であり「邪馬台国」ではないということである。よく引き合いに出される後漢書も同様、「邪馬臺国」であり 「邪馬台国」ではない
 「臺」と「台」は、本来別の字であり、何れかの時代から、台が臺の略字として認められたようだが、三国志には、「邪馬臺国」と臺(壹)を一度だけ使用した他に、「臺」と書かれている例もあり、「邪馬台国」と書けない理由があったと思われる。

*臺台論
 古田氏によると「説文解字」で、「臺」の発音は、ダイ、ないしはドであって、濁音に属するが、台は、タイないしはトであり、濁音ではない、明らかに異なった音とのことである。
 仮に、著者の言うように倭国が「ヤマト」と自称していて、その発音を「邪馬台」と書いたと仮定しても、同時代基準で発音の違う「邪馬臺」とは書けないのである。
 古田氏の仮説には、そうした推測も提示されているが、著者は、何の根拠も無しに、自説を押しつけるのである。とんでもない話である。

                      未完

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*誤写予防策か
 もし、倭人伝元史料に邪馬臺国と書かれていたとして、倭人伝編纂の際に、散在する「壹」字との混同・誤写を避けるために、「台」と置き換えるのではないかと思われる。また、宗女に関して、壹輿壹輿と連呼しているのを見たり、殊更に壹拝と書いているのを見たりすると、懸命の誤写予防策と思うのであるが、当方の勝手な推測であって、著者にも古田氏にも関係無い戯言である。

*東大「史学雑誌」の権威
 なお、「「邪馬台国」はなかった」の冒頭部分は、「邪馬壹国」のタイトルで、東大「史学雑誌」に投稿され、当時編集に任されていた榎一雄・井上光貞両氏の論文審査に合格して、同誌に掲載されている。(「多元的古代の成立 (上} 邪馬壹国の方法」 ミネルヴァ書房刊 に再録)

 もちろん、両氏は、古田氏の提出した論文の論旨(「「邪馬台国」はなかった」)に同意したということではなく、「同論文が独自・新規であり、論文として論理の展開に誤りがない」と認められているのである。
 著者は、両氏の論文審査が誤っていたと主張しているのだろうか。興味のあるところである。

*書局本談義再び
 書局本は、編集陣が、集団見識に基づいて「校勘」を行い、根拠資料が見出された場合だろうが、果敢に誤字修正を加えているが、ここで誤字と決めつけている「邪馬壹国」が、修正を受けていないのは真剣に学ぶべきである。
 つまり、「邪馬壹国」は、今日も健在である。
 この見地からも、「邪馬壹国」を「邪馬台国」と修正する、文献学上認められた、客観的な根拠は存在しないのである。
 それが、この論争の結末である。

*とこしえの闇に沈む倭人伝邪馬台国仮説
 「以上のように、「邪馬壹国」は、学術的に確立されて、これに対する反論の種も尽きたので、誤字論は影を潜め、太古の闇、忘却の霧に潜んでいるように思うのである。「慎んで、哀悼の意を述べたい」(RIP:ラテン語で言うと、Requiescat in Pace)と書けば、論敵なる「我が敵」を怨霊とせずに、鬼神の世界に送り出せるのである。

*買わず読まずの全否定

 それにしても、古田氏は、労を厭わず多数の著書に多数の新機軸の「論議」を公表し、少なからぬ著書の形で上梓したが、著者は知らぬ顔であり、酷評の「古池」に、買わず飛び込むならぬ、読まず飛び込むのでは、読者に対して無責任ではないか。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 22/30

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*二大巨悪扱い(p116)
 先に、榎氏事例に続いて、古田氏事例を取り上げたのは、本書のあちこちで、著者が両氏の諸説を、行き当たりばったり、気分の赴くままに、やり玉に挙げて批判しているからである。

 特に、榎一雄氏の地理関係諸説に対する攻撃は、まことに執拗であり、第二章第三節と第六節で多くの紙数を裂いているし、章題にないので不鮮明であるが、目次に出ない小見出しでは、個人攻撃に近く、その意味では鮮明である。
 ところが、著者の一旦の結論は、榎氏説の賜物であるから、一段と不可解である。

*根拠無き榎氏断罪(p116)

 第六節の締めで、著者の口から、「(榎)氏の所論が、現在でも従来の「倭人伝」研究の最高峰であると考えられる」なる讃辞が飛び出してきて、素人読者には、著者自身が、「榎氏所論こそ倭人伝論の最高峰と絶賛に近い」と最高の評価をしていると見える。
 ところが、続く、榎一雄氏所論感で、「説自体が成立しないことを論理的に明らかにしなければならない」一種の諦観を示しているが、これは論争の場で言う事ではない。

 所「説」ならぬ所「論」が「説」だと言うのも困ったものだが、著者が、論議における批判は、完全論破でなければ無意味だと決めつけているのは、それより困ったものである。完全論破は、言わば、「排他的主張」であるが、そのようなことは、実行不能であるのは、誰にでもわかることである。いや、世間知らずの中高生なら、わけもわからずに断言するだろうし、ご時世は、個人が意見を高々と公言できる時代だから、そのような断言、罵倒がまかり通る世界もあるのだろうが、巻き込まれるのは、御免被りたいものである。

 更に、(突如、激高したらしい)著者は、今度は、『(世論が)榎一雄氏の所論を(すべて)論破しないから、議論が明確に決着せず、(古代史界に)「主観的」「恣意的」な空理空論の跋扈を許している』と獅子吼して、この場の榎説・所論感を締めくくっている。南下も悪いクスリでも、啜ったのだろうか。ご自愛いただきたいものである。せめて、こうした気分の高まりで書き殴った文章は、覚めた目で読みなおしていただきたいものである。

 著者は、文章独解力が、若干/相当に不足していて、普通の用語と異なる異様な用語を駆使していては、何を言っても、世間の普通の言葉遣いの人に信用してもらえないのではないかと思われる。いや、これは、当ブログ記事筆者の勝手な意見である。


*感情の渦
 以上のように、この部分は、絶賛と罵倒が交錯した感情の渦であり、ある意味では、ここまでで揶揄している「一人スカッシュ」の極致である。自身と敵手の見分けが付かず、自打球を受ける痛みはいかばかりかと傷ましいのである。


 もし、「主観的」「恣意的」な空理空論、つまり、「見かけ倒しの張り子の虎が、古代史学界を跳梁跋越して許せない」というのなら、文献準拠の正義の論者である著者は、易々と打倒し、克服できるはずである。
 それが
、事態の本質を突く、いわゆる、上策であり、悪玉の実態を示さずに漠然と指摘するような、持って回った回りくどい策は、下策の下策であり、本書で吐露、吐瀉して、店開きするするものではない。これでは、氏の手管に騙されて買わされた「読者」の軽蔑を集めても、何の不思議もない。
 おそらく、氏が、上策に取り組めないのは、著者自身が、また一つの「主観的」「恣意的」な空理空論の論者として、三極の一にあって対峙していると自認しているからではないか。

 繰り返しになるが、攻撃の対象を具体的に書いていないから、意図不明だが、意図不明なことを、この場で獅子吼してどうしようというのだろうか。それとも、今後も(すでに故人となっていて)反論のできない、そして、客観的に罪なき最高峰を、今後の著書で罵倒し続けるのだろうか。
 悪罵の押し売りは、ご勘弁いただきたい。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 23/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*どんでん返し(p120)
 地理論に紛れて、場違いな場所で、「邪馬台国」が、正しい国名であり、倭人伝では誤写によって「邪馬壹国」となったと断言し、事のついでに、『邪馬台は、「やまと」』と読むと放言しているが、放言は無根拠、つまり、無責任である。
 いまだかって、「臺壹誤写」が起きた証明も、見たことがない。大体が、このような路地裏で、見出しも無しに大事を語るべきではない。トイレの落書き並である。

 とにかく、「正しい国名」がいつ、どこに書かれたというのか、倭人伝に「誤写」しようにも、元ネタがなければ写し取れない。そして、それが、正しいとどうしてわかるのか。なんとも、不可解なホラ話である。


*臺台論(p126) 小回顧
 他の議論の中で、著者の感想として、『古田氏が「倭人伝」では、概して卑字を用いているから、倭国の国名に貴字である「台」を使ったはずがない』と主張したのに対して、尾崎雄二郎氏の見解として、『「台」は貴字とは言えない』とした反対論を上げ、古田氏の主張をにべもなく却下しているとしている。要は、素人目には、見解の相違であり、言い争いになっても、論争にはなっていないのではないだろうか。
 しかし、これは粗略な虚報である。古田氏が取り上げているのは、「邪馬臺国」の「臺」(だい)であり「台」(たい)と異なる文字である。知ってこう書いたとすると、素人を騙そうとしていると受け止められても仕方ない。

*筆禍の脅威
 古田氏が論拠とするのは、三国志魏朝記事に於いて、「臺」は、天子居所として専ら使われているから、蛮夷の国の国名に使えない、と言うものである。それが適確な論議であるかは別儀であるが、主張の主旨を捉えなくては、異論は出ないはずである。
 批判の対象を見誤っているとしたら、それは、最低の態度であるという事である。

 筆禍と呼ばれるように、不用意に、公文書で皇帝実名など皇帝専用の文字を使うと、妻子・孫、両親、祖父母まで、死刑の渦に巻き込まれる大罪であるから、史官ならずとも、高級官僚はそのような文字を忌避する。
 時代感覚無視の議論は、厳に戒めねばならない。

*卑貴論争の果て
 時間がないので、具体的な指摘はしないが、両者の論争は、古田氏の著作(「邪馬壹国の論理」ミネルヴァ書房刊)に再録されているから、長談義だったことは、誰でも確認可能である。

 著者は、「尾崎氏の見解が決め手となったと誤断している」ようだが、短慮不用意と思うし、自身の粗忽さを無造作にまき散らすのは、どんなものかと思うのである。自身の読解力欠如を自覚せず、まして、不用意な「孫引き」で読者に誤解を蔓延させたのでなければ良いが。著者の「風聞、伝聞引用を無批判に採用する愚行」は、誰も冒さないと思うが、人の意見は多彩であるから、何とも言えない。

*異論を排除しない論争
 議論には、相手の意見を『「絶対に」あり得ない』と「完全」に否定する排他的なものもあれば、そうと限らないのではないかとたしなめるものもある。
 少なくとも、尾崎氏の意見は、排他的な効力を持つものでは「絶対」になかったように思う。よくよく、原文をご確認いただきたいものである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 24/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*俗耳の輩(p126)
 ここで、著者は、具体論なしで、「古田氏の論は俗耳に入りやすい」ので、はっきり否定すると斬り捨てている。この悪態は、どこかで聞いたようだが、いきなり「俗耳」と侮辱されていては、まともに取り合えないのである。これでは、敵を作って味方を失うだけである。最後の土壇場での悪足掻きなのだろうか。確かに、土壇場の次は、処刑であるから、悪足掻きするのも、無理からぬとは思うが、別に、実際(リアル)に首を落とされるわけではないから、散り際を美しくした方がいいのではないか。

 「俗耳」とは、学者諸兄の聖耳ではない、一般人の粗野な耳だろうが、著者は、自分は違うというので、力説しているのだろうか。誰か高貴な方のお言葉を無批判に流用しているのだろうか。
 御自分の立場に合わせて、言葉遣いを改めるべきではないか。とにかく、滑稽(道化役)である。

*国内史料乱入
 本書に混入した国内史料の紀記編纂時期は、精々が七世紀以降であるから、描き込まれている三世紀記事が正確と思えない。また、国内史料写本は個性豊かで原典を確定しかねていると思う。一度、姿見で、自説の全身を眺めてみたらどうだろうか。

*隠れ「畿内」説(p156)
 著者は、本書の流れで、「倭人伝」は「九州説」とした後、それは、倭人伝記事著者の誤った倭国・倭地観によっていると断罪する。不思議である。倭人伝に、九州も畿内大和も本州島もない。根拠不明では、正誤判定できないのである。

 ここまで、原典記事を支持していたのに、ここまでの展開の果て、手前味噌の「正しい」倭国・倭地観で断罪するが、傍目にも脈略のない意見は不可解である。中国史書に書いていることは、想定されている「読者」にとって誤解の余地のない明解なもののはずであるのに、部外者が、せっせとヤジを入れるのは、見苦しいのである。

 例えば、冒頭の「倭人は帯方東南(の海中山島)にいる」との単純明解な「倭人」観が読めないのは、初歩的な難儀である。


*考古学の利用(p156)

 用語批判で言うと、考古学陣営の寺沢氏は、「大国大和」に「王都」があっても、キャスティングボート(CV決定権)は、比較「小国吉備」が持つと、視点は異なっても、一応適確な評価と見えるが、非勢派の著者は、聞きかじりの言葉の適切な用法を学ばずに、「学問の原則で、我々文献学がCVを持つ」と誤用で虚勢を張る。考古学の狭い分野で、文献派と遺跡/遺物派が、なじり合っているとは、困ったものだが、太古から「呉越同舟」の比喩が伝わっているから、これに学んで、難船時の共存/協力体制を見直して欲しいものである。
 要は、必要な知識が欠けたままで、聞きかじりの外来語を「駆使」したための失態/失言であり、なにより、Vote(投票)とVeto(拒否権)と混同しているが、いずれにしろ、
討議・議決の参集者の合意なくして、Casting Voteも、Vetoもない。
 それにしても、氏の無軌道な論議に追従する人がいるとは、驚嘆するしかない。

*「遠大」論 個人的まとめ
 伊都国から邪馬壹国への行程が、南という方向と所要日数だけで、魏使がたどり着けなかったとは珍妙である。
 魏使は、倭国高官に伴われているし、賓客には、丁重な出迎えが来るから、女王の元に行けないはずはない。
 後年、「賓客」は、蕃人の言い換えだという中原語法が伝わるまでは、本当に、「客」は、お客様としてもてなしていたと見えるのである。

 その行程は、交易貨物搬送にも用いられ、官道整備され、道中、道しるべ、里標、宿駅があったはずである。途中野宿や断食もなく、また、日数制限もないから、ゆるゆると行けたはずである。何しろ、畿内説は、三世紀当時、九州は、畿内の支配下にあったと想定しているのであるから。当然、支配に必要な諸街道は、整備されて久しかったと見ざるを得ない。街道として用をなすには、騎馬往来が常識であったはずである。自説の脚もとは、見てみないふりで通すのだろうか。穴だらけと知るべきである。
 希有な場合には、不手際もあったろうが、本来、組織的に運用すれば、特に難点は無かったはずである。 

 魏使には、諸国地図(概念図である。念のため)や地籍戸籍資料が、あれば提供されたはずであり、日々の旅程の目安が得られたはずである。
 当たり前のことを言うのは、気恥ずかしいのだが、畿内説」を唱えるからには、当然/自明の事項として、三世紀に「古代国家」の仕組みが整っていたと言わざるをえないはずである。「国家」は、時代、環境で意味が大きく異なるが、ここでは、現代語風に解する。
 それにしても、三世紀に街道が整備されていたと言える遺跡、遺物は、出土しているのだろうか。
 時に、瀬戸内海の船舶航行が説かれるが、激流渦巻く関門海峡を皮切りに、「瀬戸」と怖れられる東西の多島海の岩礁群と明石海峡、ないしは。鳴門海峡の難関を突き抜ける東西一貫航行が、三世紀に、早くも存在したという明確な証拠は提示されたのであろうか。何しろ、世紀時点では、帆船を造船したくても、帆布が一切手に入らなかったとされていて、延々と漕ぎ渡ると想定されているのである。
 これこそ、本当の意味で、「古代最大の謎」と言えるのではないか。東西交通が断絶していては、纏向から筑紫を統御するなど、到底できないのである。(断言言葉で、「絶対」と言いたいが、若者言葉では、相当意味が軽いので、茶化されるのを怖れて、ここでは使わないことにした)

*最終行程問題と解
 著者は、魏使が邪馬台国に行かなかったという先入観を堅持している。
 しかし、魏使不達・不会見説と行程不明は、「全く関係無い。」

 榎一雄氏の説の論拠は、倭国王城の描写がおざなりで、実際に女王の治所を実見したと感じられないというのであり、それなりに一考に値すると思う。因みに、古田氏の反論は、倭人伝には、魏使が女王に接見したおもむきが読み取れるとしている。
 いずれにしろ、後生の東夷の憶測であり、実質的な価値のない「山の賑わい」に過ぎない。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  25/30

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*王城への路
 行程の最終部の邪馬臺国への行程には、諸説がある。

 著者は、各説を取捨選択して、確定させないのだから、所説を羅列する義務がある。
 取り上げられていないが、古田氏の著作に書かれている説は、邪馬壹国にいたる最終行程は、書くほども無い短距離であって、「水行十日陸行一月」は、帯方郡からの「万二千里」に対応する記事であるという、まことに明解な説である。なぜ無視したのだろうか。

 因みに、古田氏は、この部分の記事が、「絶対」そのように解釈されると主張したのではない。漢文としては、従来の(当方の言う凡俗の)通り、この部分が、水行+陸行の日数、あるいは、水行、または陸行の日数が書かれているという解釈も、禁止される謂れはない。古田氏説のように、全体日数が書かれているという解釈も、当然可能であり、文献解釈だけでは決められないとしている。
 史学の論戦での態度は、見習うべきではないか。

 因みに、この提唱に対する上田氏の批判と、それに対する当方の批判は、別に示した。

*明解な解釈

 古田説の根拠は明解であるから、素人でも、多分、中高生でも自分なりに算術を展開できる。帯方郡から狗邪韓国まで七千里(引き続き余を略す)とあり、三度の渡海で計三千里とあるから、帯方郡から九州末羅国までが小計一万里となる。
 総行程は、万二千里であるから、簡単な算術で、九州上陸から倭王都まで最終行程は二千里である。しかし、総計も小計も概数であり、最終行程は一段と大雑把の可能性がある。

 このような大局的な味方は、藤井滋氏が創唱したものであり、後に、安本美典氏が、藤井氏の提唱を発掘して、強力に提言したものであり、これに、古田氏が唱和して、独自の敷衍を加えたので、論議が広かったものである。

 もちろん、千里単位の概数計算であるから、百里の位で端数が生じるのは避けられず、部分行程の総和が、総行程に、厳密に等しくなるとは限らない。むしろ、≒(大体合っている)にしかならない。
 
これは、「部分行程の総和が、総行程に、厳密に等しくなる」との古田説の根幹の一つを覆す意見であるが、滅多に指摘されないのは、どういうことか不明である。概数計算による食い違いを目立たせないために、最終行程を明記しなかったという考えもあり得る。いや、計算が合うように書いてしまえば簡単なのだが、それは嘘(創作)になるので書かなかったという見方もありうると思う。

 現在の私見では、総行程萬二千里が、はなから与えられていて、この総行程を、概ね見合ったように振り分けたのが、現在残っている倭人伝記事と推定している。計算行程が逆であるが、従って大雑把に計算は合うはずであるし、概数計算の欠点で、部分の合計と全体が合わないのは、むしろ当然であるから、重要性の低い倭地内部の諸国里数は、割愛したと見えるのである。

*端数の美 榎氏提言に類似(p114)

 言い方を変えると、この最終行程の里数は、千里単位で概算勘定して、せいぜい二千里(程度)であり、帯方郡住人である魏使は、それまでの倭国との交信から得た現地情報今回の遣使の移動に要した日数と目測でもわかる里数から判断して、短距離と解しているので、「遠大で到達不能」と解するはずが無いのである。

 資料不足で検証不可能だが、大雑把に見て、「水行十日」に「陸行一ヵ月」を加えると、行程として、倭人伝「里」で、万里から一万五千里になりそうである。この表現を最終行程の所要日数と見ると、どう押し込んでも総計万二千里に収まらないのは自明のように思える。「水行なら十日、陸行なら一ヵ月」と珍妙にこじつけて解釈したくても、それでは史料の記事として無意味であるから採用できないのは言うまでもない。

 柔軟な体を畳んでスーツケースなどに収まってみせるのは、賞賛すべき「アクロバット」芸であるが、ビールジョッキに収まるのは「不可能」である。いくら「成せば為る」であっても、どこかに限度の壁がある。と言っても、所詮比喩であるから、余り、厳密さを追求してはならないのである。

*私見 思いついた女王居所の姿
 政経中心伊都国と王城の間は、精々一日、二日の行程と見るのが、実体として古代で当然と思えるのである。
 いや、むしろ、伊都国と王城は、 むしろ、相接していたのではないかとも見えるのである。
 あるいは、戸数一千戸の伊都「国邑」の中に、女王の「王城」があったのかとも見えるのである。

 倭人伝冒頭に予告されている「国邑」は、地域の「交通」、「物流」の要であって、「市」(いち)が常設されていて、人、物すべてが集うことから、最大の「国邑」は、[一に都(すべて)会す]「一都会」、「伊都」と呼ばれても、女王は世俗の王ではなかったので、「都会」でなく「王城」にいたのである。
 「王城」と言っても、後世の国内戦国時代の城郭のような壮大な代物でないのは言うまでもないだろう。「伊都国邑」の南にあって、隔壁で囲まれて「女王之所」と書かれているようなささやかな聚落なのである。後世で言う「スープが冷めない」程度の距離だったかも知れない。
 必要であれば、「王城」で朝廷を開いて、御前会議をしたかも知れないが、実際はしなかったのかも知れない。このあたり、倭人伝の記事は、中原諸国の王治の姿を引き写していたかも知れない。よくわからないことは、よくわからない。

 「王城」には、王と取り巻きしかいないから、耕作地はなく、「住民」は免税で、徴兵されることもないから、女王居所の「戸数」は、意味がないのである。
 中国古代史料から倭人伝記事を読み解くと、そのような明解な世界観が描き出されるのであるが、「そうした見方は、学説の崩壊につながるから、死んでも受け入れられない」畿内説から敵視されるので、これぐらいにしておく。

                      未完

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 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*遠大論の終焉
 議論が煮詰まってしまった里数詮議をあえて別において、文献解釈に戻ると、古田氏は、漢文には複数の解釈が成立することがあると認めていて、「倭人伝の行程記事の最終行程が、水行十日陸行一ヵ月を要するとの読み方も可能である」としている。

 だが、同時代の事情を想定すると、女王が、使節が到達をはなから諦めるほど遠方(東方)にいたとするのは、不合理な想定と思う。
 素直に見ても、当時は文字が通用していなくて、従って、文書行政がなく、文書便による短期間の意思伝達ができない体制で、どのようにして、伊都国等九州諸国の報告を受けて指示を出し、君主として実効支配できたかという「巨大な」疑問が残る。余りに巨大なので、直面しないようにしているようだが、それでは、克服できることはない。ごまかし続けたという記録が、後世に伝わるだけである。

 畿内説の最大の課題は、古代国家の実現、維持可能な構成を示せないことである。畿内に邪馬臺国があっても、九州と音信不通では、単なる、国名詐称に過ぎない。結果論で、所在地を引っ張ってきても、合理的な国家像が描けないなら、意味がないのである。ここでは、国家像でもってイメージ、画餅、構想図などを言っているのではない。実質のある「図」(Picture)が求められているのである。

*遠隔支配古代帝国の幻想
 遠方から各国を実効支配していたのであれば、各地の地方領主(国主)は、主権国家として不可欠な外交、軍事、税務の全てに渡り、独自に決定、執行する権限を持たず、逐一、遠方の君主の指示、裁可、承認を得なければならないことになる。

 文書行政では、地方と中央の間を、膨大な文書が往来するが、文書がない、つまり、書き言葉を記した簡牘。いや、絹布を使った帛画でも良いのだが、とにかく何か、書いたものをやりとりしなければ、仕方なく、伝言を暗記した伝令を往来させるのであるが、それでは、報告も指示もできず、国政を執行できないのである。纏向説は、この大事な点を無視し続けているが、ど真ん中に、巨大な大穴のあいた国家像をいつまで維持するのだろうか。

 なお、各地に君主の許可をうけた刺史のごときものを置くと想定しても、刺史と君主の間に、頻繁な交信が不可欠であり、伝言でこれを行うには、数日内の往き来が可能でなければ、持続できないのである。そうでなければ、刺史が、筑紫に強力な幕府を開いて、小皇帝となって自立してしまうのである。

 結局、畿内にある女王国が遙か東方から九州北部の諸国を支配していたとする筋の通った政権構造を描くことは、困難、すなわち、事実上不可能としか言いようがない。
 いや、一部には、当然のごとく、三世紀時点ですでに、今日言う奈良盆地に「古代国家」が成立していて、西は、今日言う九州北部から、東は今日言う関東に至る、堂々たる大帝国を支配していたと夢想している向きもあるのである。
 空想は自由であるが、学問として主張するには、神がかりや願望に頼るのでなく、批判に耐える堅固な論証が必要である。

 細(ささ)やかな一疑問であるが、これに筋の通った解を見いだせないのでは、説の存続に拘わるのではないか。それこそ、王都遠隔説は、鼎の軽重を問われているのである。
 大勢がそのように論述されているだけに、突如登場する先入見が、とてつもなく不都合に見えるのである。

*隠蔽された短里論

 それにしても、本書の地理・行程論で、倭人伝の「里」が七十五㍍程度であるという仮の定義が見過ごされているように見えるのが、不思議である。いや、短里と書くと岡田英弘氏に「叱られる」、いや叱責を受けるから隠したのであろうか。人は、叱られるのを怖れて口をつぐんでいて、それでいいのだろうか。
 因みに、本書の行き方は、倭人伝の里数値を図示していて、それが、何㍍に相当するかの言及は回避している。これが倭人伝記事だけの議論であれば、賢明なのかも知れない。

 ところが、著者は、ここになって「唐六典」の唐里、つまり、基本的に「普通里」は、倭人伝の「里」に関係無いとにべもない。
 第一章(p14)で初登場の榎一雄氏の説を紹介したときは、「唐六典」を引いた一日歩行五十里の記述に一切批判を加えず、井上光貞氏の賛辞を添えている。つまり、一旦読者に、著者は、「唐六典」を強く支持していると思わせておいて、ここにきて「仁義なき」どんでん返しを加えるのである。まことに理不尽である。まるで「極道」世界である。

 講談社の編集子は、このようなあからさまの内部矛盾に気づかなかったのだろうか。気づいたが、読者にはわかるまいと放置したのだろうか。冒頭に「詐欺」と書いた由縁のごく一例である。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終 27/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                          2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2022/01/13

*水行、陸行 見過ごされた「水」の意
 いや、「水行」が、海洋経路であるという見当違いの先入観も、凡俗の説を不用意に継承しているが、まことに不都合である。

 確かに、中島信文氏『甦る三国志「魏志倭人伝」』(2012年10月 彩流社)は、本書の十年後の出版であるから、影響はされていないかも知れないが、それ以前から、(古代)中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)のように河川を指すもので、海(うみ)は「海」と用字が違うのは常識だったので、慎重な論者は、とうの昔に気づいていたはずである。

*水行と時代錯誤の海路
 文献に頼るまでもなく、当時の当地域の海洋経路は、山東半島との渡船を除けば、小型の船舶による沿岸航行であるが、沿岸航路は、本来短行程、一日単位の停泊寄港であり、水先案内無しには多島海を安全航行できないものである。
 と言うものの、既存短距離便の乗り継ぎであれば、巨船は却って邪魔で危険であり、多数の漕ぎ手や船員を長期拘束する必要もなく、東夷の国でも維持できたはずである。船便は、お天気次第、潮次第で、日程の読めないものである以上、数十日とか、数か月としか書けないのである。
 してみると、広域国家を想定した場合、穀物など多量の貨物輸送に、沿岸航路で船便を利用したかも知れないが、日数の規定された文書便や要人往来には、確実な日程と安全が保証されない船便は使えない。少なくとも、中原では、江水(長江、揚子江)の大型川船による大量輸送が大半であり、特に、「唐六典」の記事は、秦漢代以来、江水水運に加えて、大運河による南北輸送が定着し、河水(黄河)の氾濫も多少静まって、全国的に、河川交通が進んでいたことを示しているのである。

 それ以前の三世紀時点であるから、半島への船便は、山東半島から甲板と船倉のある帆船便があったはずだが、半島沿岸は、帆船航行が不可能だったし、それほどの量の荷がなかったから、手漕ぎの小型の荷船しかなかったと見るのである。

 もちろん、船便は、船酔いするものには使えない手段でもあるから万能ではない。深入りすると、九州北部から今日の奈良県中部まで、どうやって移動するのかという(回答のある問題や謎でなく)解けない難問が浮上するので、著者は言及を避けた(逃げた)と思われる。

 ここで大事なのは、従来当然のごとく想定されている魏使の沿岸移動は、先ほどまで想定していた、小規模の短距離の移動というものでは対応できないのである。何しろ、銅鏡百枚と言うだけで、小船で、数十杯に及ぶ重荷であり、沿岸の小船を、貸切にしても、到底足りないのである。まして、日頃、月に何度かの往復だけで、非力でも、中で休みを入れてこなしていたものが、数十便詰めっきりでは、体力が続かないのである。まして、重荷が荷崩れして、小船が転覆すれば、煽動や漕ぎ手は、なんとか脱出できても、船荷は、救い上げる術がなく、海のモズク、ならぬ藻屑と化するのである。それを避けるためには、個別の荷が、水に浮くように木枠勝ちにするのであるが、当然、随分大柄になり、苦戦するはずである。いずれにしろ、西海岸に小型の船が往来していたとしても、魏使の遣い船には、ならないのである。

 いい加減に、あり得ない船便を、失敗の許されない魏使の遣い船にすることは、あってはならないことだと見極めるべきてある。

羊頭狗肉/どんでん返し
 倭人伝がどう書いていても、誤字や誤記があるので、正確にはこうであるという書きぶりが見られる。まじめに言うのも馬鹿馬鹿しいが、同時代の文書史料は、二千年近い期間、第一級史料として尊重されてきた「倭人伝」が唯一無二の史料だから、考察の原点として不動の信念を築かなければ、学問にならないのである。「誤字や誤記があるので、正確にはこう 」とは、後世の不見識で、不勉強な、つまり、不確かな資料に基づく「憶測」に過ぎないので、厳格に史料批判しない限り、検討の俎上に載せられないのである。
 ごみの山を真に受けて、原典史料を改竄したら、それは、学問の道ではない。遺跡、遺物を考証する考古学者は、自身の論理をもとに出土物を改竄して、「考古学」と称するのだろうか。著者は、「考古学」を十把一絡げに罵倒したが、ご自分も同類だと気づかないのだろうか。

 著者のわがままかっての代表例は、氏が本書で採用している国名表記である「邪馬壱国」であるが、原典に沿って書いているだけで、氏は、これは、「邪馬台国」(”やまと”と、ふりがな)が正しいと言い張っているが、無根拠の憶測で、限りなく白昼夢の世界に及んでいる。
 また、倭人伝の行程記事を読む限り、邪馬壱国の所在地は九州内であると断定しているが、そのまま、これは、倭人伝筆者の誤解による誤記事であるとしている。無根拠の憶測である。 見事に、自罰行動に落ち込んでいる。

 散々読み続けてきたら、ここで突然、著者の根拠のない私見、無根拠の憶測 が出て来るから、読者は大抵憤慨するであろう。一種、「羊頭狗肉」の詐話のように見えるが、成句解釈は凡俗用法としておく。

*第三,四章読み飛ばし
 想定外の三国志以外の史料・資料談義は割愛する。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  28/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*第五章
 以下、約束破りの国内史料大量導入に辟易して、倭人伝を検討した第五章に飛ぶ。
 「治癒神」は、倭人伝に、根拠があれば別だが、異様であり、深刻な治癒しがたい時代錯誤と見る。

*卑弥呼の宗教(p253)~賛辞
 さて、著者の想像力は、邪馬壱国の民俗に至るまで滔々と推定を述べているが、従来の凡俗の論と比べて、随分理性的であると思う。卑弥呼の出自や鬼道も、そここそ筋の通った考察を得ている。

 高名な凡俗は、『卑弥呼は市井の「魔女」が神通力によって名声を博した故に、壮年にして女王に祭り上げられ、老いて神通力を失った故に殺され、墳丘墓に葬られた』などと、自家製の汚名を押しつけている。比べて失礼だろうが、著者は、女王の汚名を雪いでいて、当人に代わってお礼したい。

 卑弥呼が二十才(満で十八、九才)で共立された(p221)と書くと世論の感情的な反発が気がかりである。牧健二氏の「日本の原始国家」(1968)辺りからの孫引きでなく、依拠記事の批判が必要である。

*倭人伝用語(p258)
 「重松氏の道教説」論の最後の無茶な放言自体は、珍しくないが、当方の議論に拘わるので、立ち止まる。
 「儒教合理主義者」は噴飯造語である。儒教は「主義」と呼べるものでなく、儒教が合理主義(時代錯誤)とは、筆者の頭のねじが、また一つ外れたようである。
 そして、本書の大半の議論で触れられない「倭人伝用語」が浮上し、「倭人伝」には独特の用語が存在するから、安易に、普通読みはしてはならないとする、当方の持論似の論だが、本書で、この言葉はここまでどこにも影さえ見えず、以下、著者の用語混沌に沈むから、どの程度本気かわからない。

*羊頭狗肉の言い訳(p290)
 最後に、羊頭狗肉の言い訳として、「邪馬台国」と書くと、既成概念が付いてきて、”日本人的関心”がつきまとうのを避けたかったとしている。そして、古田氏の「「邪馬台国」はなかった」に従ったのではないというが、「邪馬壱国」は古田氏が強く提唱したと衆知であるから俗に言うパクリと見られる。「李下の冠」である。

 しかも、「邪馬壱国」で古田氏説との関連を示唆しながら、批判も同意もせずに言い捨てるのは非礼であり、善意の読者に、虚説、「フェイク」を押しつけたと見られる。講談社の編集者は、何も助言しなかったのだろうか。

 古田氏説をパクらなかったのであれば、どこがどうパクりでないのか、冒頭で論証・明言すべきである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  29/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*第五章
*時代錯誤と地理錯誤(p290)

 著者は、続いて、倭人伝に書かれた「邪馬台国が、畿内大和の国だった」原典解釈に論拠を示さずに断定しているが、倭人伝には、ヤマトも畿内もなく、また、後世国内史書を参照しても、三世紀当時、畿内もなければ大和も無かったのである。初歩の初歩である。

 「同時代になかった地理概念」、「原典史料にない地理概念」を持ち出すのは、氏の史学論者としての資質を疑わせる。多数の凡俗が、そのような誤解を誘う狡猾な書き方をしていても、著者ほどの見識の人は、回避すべきと思うのである。

 本来、この部分は、第五章の蛇足などではなく、改ページして、結語段扱いすべきである。

*重大な結論隠蔽
 書店店頭で立ち読みするものは、大抵は、結語を見て買うかどうか決めるのである。
 羊頭狗肉に続いて、結語隠蔽では、書籍としての体がなっていないと思うものである。また、参考文献も示されず、「注」しかなく、綜合して、天下の講談社の編集力も、随分、落ちたものだと思うのである。いや、詐欺だと罵倒されるよりはましと思うしかないのだろうか。

 本書は、「プロローグ」、「エピローグ」などと、小ずるく言葉遣いを変えて、個人的な述解を呈しているが、それは、中核となる論考部の首尾が整っての話であり本末転倒である。

*論争の終わり 個人的総括

 当方も、俗耳の輩であるから、「邪馬壹国」論争は、総じて、「邪馬台国」陣営の敵前逃亡で、事実上終戦しているように見える。何しろ、検証可能な根拠の示せない「誤写」疑惑、憶測がすべてであり、そのような根拠なき偏見を何年頑固に言い続けても、現存刊本の紙面の文字が変貌するわけはないのである。
 
あくまで素人の俗耳の輩にそう見えるのである。著者には、ものの道理を知らない俗耳にも通じる、明解かつ丁寧な形でご高説を賜りたい。

*言い捨ての散在
 誤字論の論拠は、あちこちに散らばっていて、索引もないので、探し出すのに苦労するが、総じて空虚である。論拠の数がいくら多くても、信ずるに足りないごみは山を成しても、論拠とならず「ごみの山」でしかない。

 本書の上っ面に騙されて財布の紐を緩めてしまった読者に言わせると、大ペテン、フェイクが言いすぎとしたら、アンフェアであり、当世風に言うとミスリーディングである。

*まがい物、まやかし
 すがすがしいオムレツとの触れ込みの卵ぐるみが、中身は「関西名物」納豆飯では、納豆大嫌いの関西人のちゃぶ台返しである。

 隠れ「畿内説」の東軍論説が、「九州説」西軍の読者に与える不快感は、関東人に実感できないかも知れないし、ここに言う東軍は「奈良・河内」陣営だから、時代錯誤なのだが、食べ物ネタで余り極端な比喩は出せないのである。所詮、比喩は比喩である。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 最終  30/30

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である                               2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30

*結語
 以上、気力・体力の続く限りとばかり、延々と批判し続けたが、著者に対して過酷な評価だったろうか。
 いや、著者は、古代史学界で一旗揚げようとしているのであるから、その道のプロの著作として欠けている点は、早期に、キッチリ指摘されて当然と思う。
 本書は、自費出版でなく商業出版であり、また、手軽な新書類でなく本格的な単行本であり、著者の持ち込みの即席出版ではなく、従って、かばってあげる必要のない率直な批判に値する書籍と見たからである。

 別に、自然科学の手法を採り入れても、人文科学の尊厳は冒されるものではなく、Historical Science、つまり、已に起こった事象に後代の叡知によって思索を加える科学分野の独自の高みは損なわれないと思う。

 本書の最大の問題点は、著者の隠蔽体質であるが、当方は、一介の私人であるし、現実に出版以来十五年余り経っているから、批評しても「手遅れ」かも知れない。誠実な著作であればよいのに、残念である。

*宣告
 講談社単行本には、毅然とした品質基準があるはずだが、素人目にも、本書は、書籍として不体裁な出来であり、編集子は、寄稿内容に適確な修正を加えて是正することなく、不出来な書籍を、講談社の名の下に世に出したのは、会社の信用を損なうものであり、編集子は、編集のプロとしての職責を全うしていないと思う。

 最終責任は、出版許可を出す権限を与えられた責任者にあり、編集子の編集を確認した上で、出版許可した以上は、責任は、奥付記載の発行者に帰するものである。

 本書は発行者の不手際による「不良品」と思われる。機器メーカーなら社告回収ものと考える。

 講談社は、そのような批判に値する高い水準の出版社と思うので、あえて、ここに荒立てているのである。組織としての不備を言っているのであって、個人的な責任を咎めているのではないことは言うまでもない。

⚪免責事項
 因みに、当ブログは、個人の著作であって、個人としての限界内で、適正な校正努力はしているものの、収益の期待できる商業的なものでないから、万全ではないし、何より、第三者の校正を受けていない、個人の技に過ぎない。
 ただし、ブログ記事に求められていると思われる「品質」は満足していると思う。
 定番であるが、当記事に示された内容は、当記事筆者が、努力の及ぶ限り編集校正したものであるが、絶対的に厳正であるとの保証は、一切付されていない。
 念押しすると、必ずしも、出版社の商業出版物に求められる「品質」を達成していないことは、くれぐれもご承知頂きたい。

                                            完

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2021年7月27日 (火)

今日の躓き石 幻滅した卓球 金メダリストの暴言~悪疫「リベンジ」の蔓延防止を願う

                        2021/07/27

 本日の題材は、昨日、東京オリンピック卓球競技混合ダブルスで金メダルを獲得した直後のインタビューでの「リベンジ」発言である。何しろ、当人のナマの発言であるから、さすがのNHKもそのまま放送したのである。

 それにしても、オリンピックで最初の卓球混合ダブルスでの優勝談話であり、いわば、前人未到の偉業で、前回大会での敗戦などないのに、いきなり、『これで、「リベンジ」をやってのけた』、つまり、「過去の恨みの仕返しに血祭りに上げた。ざまあ見ろ」というのは、何重もの意味で、不謹慎であった。

 まずは、全国で応援していた視聴者の祝福に対して、今回の勝利は、金メダルより何より、個人的な復讐がすべてだと語っているのであり、不謹慎極まりない。パートナーも、これではたまったものではない。どうして、世界中に向けて、いきなりぶちまけないと、気が済まなかったのだろうか。

 もちろん、さらに不謹慎なのは、あからさまに、スポーツの場に、血なまぐさい「復讐」を持ち込んだことである。これではまるで、オリンピックが、血で血を洗う復讐の場だと言っているようなものである。今回「血祭り」に上げられ、晒し者にされた銀メダリストは、国の威信の回復と共に、血なまぐさい復讐戦を至上の使命として仕掛けられたようなものである。まるで報復の連鎖で血で血を洗うテロリストの世界である。
 いや大げさに言っているのではない。世界に蔓延している「テロ」は、「リベンジ」を合い言葉に延々と報復合戦しているのである。
 だから、心ある宗教人は、キリスト教などの教えに基づき、「リベンジ」を絶対的な禁句にしているのである。そんな中、異教徒であり、不謹慎な卓球選手が、国際的な報道も想定されるインタビューで、「リベンジ」を誇らしく口にしているのを聞くと、「なぜ、誰も野蛮な言葉遣いを直さなかったのか」と悲しいのである。

 遡って言うと、オリンピック精神を無視して、闘志、さらには、敵愾心を掻き立てて、敵を倒すことが、金メダルへの道だと勘違いしているようである。いや、これは、選手一人の問題では無い。国内スポーツ界全体の持病となっているように見えるのである。

 今回の暴言が、何事もなく聞き流されることを願う一方、本人には、これを機会に、金メダリストの言葉の重みを考え直して欲しいものである。何より、ヒーローの言葉は、世界のこどもたちが、真似するのである。世界一の金メダリストには、世界一の心と言葉を望みたいのである。

以上

2021年7月25日 (日)

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 1/3 追記

 季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*初期考察の偉業
 本件は、最近論議を見かけた本資料に関する最初期の考察であることから、以下、三十五年を経て批判するものです。といっても、史料現物に臨んだ考察に大きな異議は立てられないのです。

*論説でなく所感
 当記事への批判が難しいのは、掲題の通り所感的な構想で書かれていて明確な主張が書かれていない事と途中で大きく主題を離れて巨大類書「太平御覧」の編纂時の資料取り寄せの混乱を思わせる、とこれも所感が書かれているからです。つまり、肝心の論考は些細にとどまっているのです。とはいえ、全体として、堅実な学術的な思考が窺われて敬服しているのです。

*「写真は現物ではない」「地図は現地ではない
 但し、一点、敬意をもって批判させていただくと、尾崎氏氏は、中国で発行された学術資料である『敦煌遺書目録』に資料の写真が掲載され「現物」が見えると評していますが、「写真は現物でない」から、氏は肝心なところで失言しています。基本則を謹んで指摘するものです。とは言え、現物の「写真」では、適確な確認ができないのは、氏も自認しています。

*骨董品か、史料か
 当「遺書」(遺物文書、ここでは、歩隲伝残巻、断片)を含む敦煌「遺書」は、盗掘売却されたものを、新中国成立後に回収したもので、出土経緯は不明であり、骨董品の贋造改竄疑念がついて回るのです。その疑念自体は、念頭に置く必要があるのですが、では、何の根拠があって、そのような偽物をでっち上げたのか、ちょっと理解しがたいものがあります。
 いずれにしろ、紙質や墨質の分析確認などで、随分、適確な時代考証ができると思うのですが、そうした確認が行われた形跡はありません。お国柄なのでしょうか、例えば、資料解析しない条件で所蔵しているのかも知れません。

*文字(テキスト)の確認
 さて、尾崎氏は、「遺書」を三国志「呉志」歩隲伝と照合しつつ、文字起こしています。今日、良好なカラー写真が公開され、読解の苦労は、随分ましですが、当初読取の功績は大です。

*「周昭」小伝考
 さて、細かい異同は別として、歩隲伝末尾に追加されている周昭にまつわる記事の構成に差異があると、尾崎氏は指摘し、考察を加えています。
 当方の見るところ、引用記事は、周昭著書引用ですが、書き出し部に、周昭の信条を述べた上で、『周昭が「呉書」編纂者の一員であった』と述べた一行を加え、次行にその「呉書」(〻点 二文字反復記号を復原)に以下の記事があると述べていて、以下、三国志現存刊本とほぼ同一になっていますが、ことさら先触れされているので、周昭小伝の感が示されます。
 現行、三国志「呉志」歩隲伝は、いきなり、呉書ならぬ周昭著書の引用記事に入るので、当該部分は小伝の体裁は整っていないように見えます。

                               未完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 2/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*些細だが重要な差異
 現行三国志「呉志」は、引用文の後に、周昭が呉書を編纂したと書いた行があるので、この一行が移動したというものの、行数変動はなく、実質的に同一内容で、私見では裏打ちした巻物でも、部分的に剥がした上での差し替えは可能ですから、「遺書」の原本が、三国志「呉志」の抜き書きに、私家本とする際に、この一行を移動したという可能性も、無視できないと考えます。
 この辺り「呉書」と呉志の原史料と推定される「呉書」が交錯しますが、氏は、この点に触れていません。

*西域異本 伝家の秘書
 以上、「遺書」は呉志異稿の断簡であり、当時、西域辺境に呉志異本が存在した証しとも見えます。ただし、現地に当該巻の全写本があってね一部断簡が残存したとの確証はないのです。まして、呉志全体、果ては、三国志全巻の写本があったとも思えないのです。
 なお、歩家などの関係者子孫が、抜き書きを保有した可能性はあります。確たることは判明していないのです。おそらく、歩隲伝写本が、歩家の末裔の家宝として珍重されていたのではないでしょうか。

*大いなる余談 太平御覽所引魏志
 ここで、尾崎氏は、該当部分を「太平御覧」の引用する「呉志」と比較して、現行本の記事がこれに近いと考察し、そこから余談に逸れます。
 氏は、更に、御覧所引の魏志倭人伝記事を、翰苑所引の魏志、魏略記事と比較して考察を加えていますが、当記事の本題を更に外れるので、批判を加えないのです。
 と言うことで、矢崎氏は、脱線したまま、走行を続けて、随分走ってから、復元しています。季刊「邪馬台国」誌でも、論考ならぬ随想であれば、余談が繁盛するのも、許容されるのでしょうか。とは言え、脱線が人ごとと言えないのは、次回とします。

*遺書論回帰、慟哭
 最後に、尾崎氏は、本論に還って「遺書」は(氏が仮想した)善本の一部であり、幾度かの校正によって、かかる善本が現行本に不当に駆逐されたと大いに悲憤慷慨したと見えます。
 この種の議論は、文献論議でしばしば見かけるとしても、仮想善本への過度の感情移入と擬人化は、学問の客観性を阻害するので厳に避けるべきと考えます。
 仮に、氏の思考を辿るとしても、いずれかの時期に生成して、遂に現行本に採用されなかった異稿は、言うならば、自然の摂理で淘汰され、帝室保存の原本が適者として生存したのであり、無用に思い入れすべきではないと考えます。まして、そのような異稿は、三国志編者陳寿が、確定稿から割愛したものであり、三国志を論ずる際には、些事に過ぎないのです。文献考証の本筋を見失わないようにしていただきたいものです。

 案ずるに、世上の議論として、例えば、「邪馬臺国」と書かれた異本が一例でもあれば、それを論拠として、目障りな邪馬壹国説を駆逐できる可能性が否定できないのに、三国志なる史料二は、ことのほか異稿が乏しい/無いために、「陳寿オリジナル」(?)を誰も見ていないとか、この世に存在しないとか、反則攻撃したり、途中改竄を憶測したりしかできないことに苛立っていると誤解されない口ぶりです。

*呉書引用の怪 
 氏が、三国志「呉志」と遺書に抜き書きされた「呉書」の区別を曖昧にしているのは不満です。

 陳寿が、呉志編纂の際に、かなりの部分で「呉書」を忠実に引用した事は確実に思われます。陳寿の見識では、東呉亡国の際に、晋朝皇帝に献呈された東呉 の公式書である 「呉国志」、つまり、周昭「呉書」の完成本は、東呉史官の畢生の著作であり、三国志に収録するのが、自身の使命と感じたはずです。
 とは言え、あくまで、三国志は、各国国志の寄せ集めでなく、天下の形勢を陳寿が編纂した史書の一翼との建前なので、志の呉書引用部にいちいち「呉書に曰」と書いてないのです。とすると、なぜ、ここだけ「呉書に曰」とする異稿があるのか、不思議です。

 そこから始まる周昭小伝の意義については、当批判の枠外なので別稿とします。

                              完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 3/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25

*呉志との比較
 遺書と呉志を比較して、異同を確認できます。 (資料部脱落を補充)

遺書 敦煌断簡                  三国志 呉志(改行は断簡/遺書にあわせたもの)
① 解患難書數十上權雖不能悉納其然時采其     解患難書數十上權雖不能悉納然時采其
② 言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育     言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育
③ 門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻     門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻
④ 妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵廿年鄰敵敬     妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵二十年鄰敵敬
⑤ 其威信性寬和得衆喜怒不刑於聲色而內肅     其威信性寬弘得衆喜怒不形於聲色而內肅
⑥ 然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒    然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒
⑦ 子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍     子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍
⑧ 封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西     封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西
⑨ 卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降     卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降
⑩ 於晉遣璣弟瑁詣洛陽為任晉以闡為都督西     晉遣璣與弟璿詣洛陽為任晉以闡為都督西
⑪ 陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州    陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州
⑫ 牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常    牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常
⑬ 侍領廬江太守改封江陵侯瑁給事中宣威將軍    侍領廬陵太守改封江陵侯璿給事中宣威將軍
⑭ 封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往     封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往
⑮ 赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城     赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城
⑯ 斬闡等步氏泯滅惟牓瑁紹祀           斬闡等步氏泯滅惟璿紹祀
⑰ 潁川周昭字恭遠與韋曜華覈薛瑩並述呉書
呉書稱步騭嚴畯諸葛瑾顧邵張承曰古今賢士    潁川周昭著書稱步隲嚴畯等曰古今賢士
⑲ 大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要    大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要
⑳ 其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢    其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢
㉑ 二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭    二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭
㉒ 名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者   名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者
㉓ 不除未有能全也當世君子能不然者亦有   不除未有能全也當世君子能不然者亦比有
㉔ 之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使    之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使
㉕ 君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也         君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也

*顕著な相違点
 一見してわかるように、⑰に遺書に『潁川の周昭が、(同僚であった)韋曜、華覈、薛瑩とともに「呉書」を編集した』と明記されていて、つづいて、その「呉書に曰わく」と二段構えになっているのに対して、呉志では、単に「潁川の周昭の著書に曰わく」と 短縮、整理されていることです。当記事では、脇道なので、ここでは、相違点の指摘にとどめます。

*記号の見落とし
 遺書で、⑱〻稱步騭嚴畯諸葛瑾顧邵張承曰を呉書稱步騭と校訂したのは、「〻」を、汚れではなく、前行末の「呉書」を二文字反復する記号と読んだものです。それで字数があいます。但し、改行した後で、省略記号で一行を起こすのが妥当かどうかは、別義です。

*紹凞本倭人伝の瑕瑾

 ちなみに、倭人伝では、「壹與壹與」「諸國諸國」と反復する形が二ヵ所にあり、紹凞本では、後者の例で反復二文字がなくなっています。
 思うに、紹凞本のもと史料は北宋刊本そのものではなく、少なくとも一度写本に移されたものであり、その際に、二字反復を〻に置き換えたのが、当該写本から紹凞本刊刻稿に書き戻す際に、うっかり見落としたと思えるのです。

 少なくとも、根拠としている北宋咸平刊本の善本から直接木版を起こしたであれば、このような間違いはありえません。刊本は、このような記号を使わないからです。
 あるいは、想定している写本は、職人ではない教養人が「達筆」、つまり、草書書法でで残したものであり、そこから書き写した担当者が、教養不足で、省略記号を読み飛ばしてしまったのでしょうか。
 つまり、高貴な写本であっても、絶対完璧な写本ではなかったのかも知れません。

 巷間、「紹凞本は完璧ではない」と批判されていますが、この例は、編集記号の見落としであり、紹興、紹凞両刊本(全刊本)に共通する「仮想」誤写論議は、両刊本共通の「祖先」の文字取り違え事態を予め想定しておいて、それは別の時代、別の写本工に別の要因に起因する過誤があったからに違いない、と「予断している憶測」ですから、当事例とは、特に因果関係はないものです。

 いずれにしろ、誰にも間違いはあるのであり、大事なのは、間違いを見つけて是正する仕組みを持っているということです。
 三国志の場合は、早々に帝室所蔵となり、写本継承の際の是正の仕組みに保護されたため、世上、むしろありふれている「異本」が少ない/無いのです。

 大唐の滅亡後の小国乱立による「五代十国」の小戦国時代を、颯爽と統一し、文治の原則を確立した北宋が、国家をあげて行った刊本事業の成果は、後に、北宋末の金軍による帝都開封陥落と文物破壊、南下による諸処刊本、版木全滅と、壊滅的な被害を受けたのです。
 南遷して再興された南宋は、諸國から持ち寄られた質の高い写本を結集して、今日見られる刊本を再現する偉業を達成し、両刊本は、奇異な経過を経て併存しているものと思います。

                                以上

2021年7月24日 (土)

新・私の本棚 上発知たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 1/2 追記

 魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
 アマゾンKindle B071DYB11Q 2017年5月 第一版 2021/03/20
私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24

〇はじめに
 諸所に、同意したい見解が多数提示されていて、同感、同感とうなずきかけて、すぐ、意見の転進(迷走などではない)を見て首を傾げたものです。

〇足りない点~先行諸説の克服
 参考文献に、古田武彦氏と安本美典氏の著書が見られません。文中で、「邪馬台国はなかった」と書いているという所を見ると、この部分は、誰か(不注意な人の)受け売りかと思われます。顔を洗ってください。「近年」も奇っ怪。
 つまり、新説は、有力な先行諸説を理解した上で、無意味だと既に排除されている「脇道」を取る際には、念入りの検証が必要ということです。率先して「混迷」「混迷」を自演されては、付き合いきれないので、本書の大部分の考察は、一瞥しただけで、お蔵入りです。折角、健全な始発点を選んでいるのに、勿体ないことです。

 古田氏は「短里説」創唱者と書かれていますが、それは不正確だし扱いが不適切です。氏は、「里程記事」解釈を通して邪馬壹国博多説を唱えています。氏の短里説を論ずるなら氏の所在地説を乗り越えねばならないのです。

 因みに、短里説は、随分以前から説かれていましたが、確たる論説になったのは、藤井氏の書であり、それは、帯方郡から狗邪韓国まで({郡狗}という)を七千里とするなら、そこから渡海三千里を経た末羅国は、帯方郡から一万里であり、「倭」は、末羅国から二千里、つまり、郡狗道里の七分の二の辺りに存在するという明確な説であり、自ずと、ある範囲が想定できます。(藤井滋「『魏志』倭人伝の科学」『東アジアの古代文化』1983年春号)
 短里説を広く紹介したのは、まずは安本美典氏であり、氏は朝倉説です。

 この提言に対し、正史である魏志に書かれているその道里は、魏朝明帝曹叡により秦始皇帝施行の「普通里」(450㍍程度)が廃され、「魏朝里」(75㍍程度)が魏制とされたとの判断が古田氏創唱の「魏晋朝短里」説です。
 一方、安本氏は、そのような国家制度は無かったとしています。

 氏が、両説のいずれに組みするにしても、長年論議されている「短里説」に関する認識不足は、氏の浅読みを思わせて信用をなくしているのです。私見ですが、氏の判断は、それぞれの提言の原文に触れず、諸賢の評価にも触れず、細部の確認がいい加減なために、あやふやな私見と見られているのです。

〇奇妙な「東治県」談義
 また、何気なく「東治県」などと混乱していますが、未だかって、「会稽郡」「東治県」が存在したことはありません。
 世間で議論されているのは、倭人伝の「会稽東治」が「会稽東冶」の誤記であり、これは「会稽省東治郡」ならぬ「会稽郡東冶県」の誤断でないか、などの論議であり、これを無視して、勝手読みしているのは、軽率、不明で、妙薬のない深刻な病患です。

〇今さらの後漢書批判
 後漢書史料批判、史料素性調べ不足で、倭記事解釈に深刻な錯誤があります。
 笵曄は、後漢の歴史史料、つまり、国家文書に基づき光武帝本紀の倭の記事を書きましたが、他の有力後漢史書、袁宏「後漢紀」にも、同主旨の本紀記事があり、倭人伝にも裏付け記事があるから、この記事は信頼できると言えます。
 但し、氏が引用している倭に関する地理的な記事には本紀に裏付けがないのです。つまり、倭が参上した公式記録がない以上、史官視点では風聞、憶測に基づく創作です。そのような史料を論考の基礎に置くのは失当です。

 いずれにしろ。曄後漢書は、後漢時点公式史料を根拠に書かねばならないのです。当然、魏志の倭人伝記事は利用できないのです。

 楽浪郡境が、その国を去ること萬二千里と書いているのに、後漢書の冒頭で楽浪郡に触れていないのは、冒頭記事時点では、東夷倭の管轄は、楽浪郡や帯方郡でなかったことを示しています。
                                未完

新・私の本棚 上発知たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 2/2 追記

 魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
 アマゾンKindle B071DYB11Q 2017年5月 第一版 2021/03/20

私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24

〇後漢書誤読批判
 丁寧に言うと、後漢書には、倭の女王之所、つまり、王城への道里は、公式記録がないため、最後まで皆目わかっていないので、「郡治を起点として何里」と書けないのです。ということは、ここで言う「去」一万二千里は、当然、倭国からの道里を想定していますが、所在不明では「明確」に認識できたはずがないのです。倭は韓の東南にあるというのは、光武帝時、洛陽から見て、韓の(東)南にある(らしい)と言うことしかできなかったのです。

 して見ると、倭奴国王が金印を賜ったという東夷列伝記事も、「本紀」記事でない以上、そして、袁宏「後漢紀」に書かれていない以上、根拠の無い推測になってしまいます。
 金印は、客(野蛮人)への下賜物として定番でも、黄金印なのか金(青銅)印なのか、判然としないのです。何しろ、古代人にとって、金印は、粘土細工みたいに手軽ですが、青銅鋳物の設備では、とてつもない高温が必要な黄金を溶かせないし、溶かした黄金を受け入れる鋳型も、そのままで、溶けた黄金を受け付けるのかどうか、良いのかどうか不明です。いや、余談でした。

 因みに、後漢書の扱う時代は、精々、曹操が没して曹丕が継承し、後漢献帝から天下を譲り受けた時点までですので、少なくとも、倭人伝記事を、「パクる」わけにはいかないのです。范曄が、後漢代の東夷列伝を確保していれば、東夷の新参者である「倭」が後漢朝に対して提出した国書なり、自己申告が確保されているはずであり、それを引用すれば、堂々と、明確に倭伝を書き出すことができるのです。
 そうしなかったということは、笵曄は、東夷伝で語るべき後漢代末期の「倭」資料を一切持っていなかったことになります。
 因みに、この時代、遼東に割拠していた公孫氏が、東夷と後漢朝の間に入って連絡を遮断していたので、後漢皇帝の手元には、何の資料も入らなかったということです。笵曄は、どんな根拠があって倭伝の記事を書いたのでしょうか。まさか、魏のことを書いたと決まっている魚豢「魏略」の記事を切り貼りしたというのでしょうか。

 このあたり、氏の誤解が氏を誤導しています。「致命傷」などの言い方をしなくても断定していることは伝わります。勘違いを怒鳴って恥の上塗りです。

〇范曄冤罪批判
 但し、後漢書編纂に際して、范曄が時代錯誤の魏代記事を盗用したとの冤罪は、大変な侮辱であり、いくら、当人が反論しないからと言って、そのように歴史上の偉人を見くびるものではないのです。告発には、証拠が必要です。前段に書いたのは、あくまで、疑惑止まりであって、決定的な告発ではありません。
 要するに、後漢書記事は、史料自体の視点でよくよく吟味しなければならないのです。

 倭人伝の里程記事が、魏使の紀行記事(だけ)を元にしたとは、現代読者に普通の誤解ですから、氏の個人的過失ではないのですが、ここに公開する以上、本当に正しいのか、という反問は必要だったのではないでしょうか。

 以下、引くに引けない強攻になるのですが、魏使派遣前後の現地報告が諸所に混入していると言う程度なら、もっと慎重な断罪ができると思います。少なくとも、タイトルに「百㌫」などと、恥さらしな言い分を書くことは無かったはずです。笵曄は、盗用とわかる書き方はしていないのです。

 二千年過去の史料が、どの程度正確かすら不確かなのに、後世人の勘違いだらけの僭越な解釈で、「百㌫」正確に読み取れる可能性は皆無です。

 氏の口ぶりで言うと「皆無」でなく「零㌫」なのでしょうが、当時存在しなかった言葉遣いでは意味が通じず、間違い積層のあげく正確な見解に到達することも「ぜったいありえない」わけではないのでそう言わないのです。

 いや、氏の著書は、世上にたむろしている勝手な論説の山では、健全な史料観を元にした「異色作」でも、諸所に誤解と見過ごしが散在し、さながら、躓き石が散らばる散歩道では、歩き続けることはできないのです。受けるのは、氏の好む「致命傷」などではなく、擦り傷と打ち身だけですが、不慣れな読者だと、全て真に受けて大きく転倒し、大腿骨や骨盤を骨折する可能性が否定できないので、ここに具体的な批判を書き続けているのです。

 以上、一般的でない事項は、丁寧に根拠を示していますが、基本的に、諸資料に書かれていることは、節約しています。どう勘違いし、言い間違いしたか理解いただいた上で、改善いただければ、ゴミ箱直行は避けられます。

〇最後に
 世上の「所在説」論者の大半は、所在地を言い立てるために諸論を誂えるので、史料解釈の是正など「ご意見無用」ですが、氏はどうでしょうか。「耳、日曜」でしょうか。氏の場合、論議の前提を修正しても、所在地は健在かも知れません。

 氏は、論考の最後で、一世風靡の「纏向」説に冷静な批評を加えていて、同感に加えて痛快なのですが、氏が起用された諸史料ないしは資料は、大抵、原文に纏向風の上塗りを施しているので、安易に信用しない方が良いのです。

 氏だけがどうこう言うことではないのですが、中国史書である「倭人伝」や後漢書「倭伝」を論じるには、中国史書の文字や言葉に通じた論者の意見を聞くべきであり、生かじりの翻訳に頼るべきではないのです。まして、勝手に、自己流の「所在地」にあうように書き換えた自己流資料で論じているのは、その自己流改竄資料に頼ってしまっているので、中国史書の解釈ではなくなるのです。

 ぜひとも、読者諸氏においては、現代語離れ、改竄離れすることをお勧めします。

                                以上

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 1/2 改訂

 中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり   2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24

〇初めに
 本章著者は、森博達氏と杉本憲司氏の並記ですが、恐らく主体は杉本氏でしょう。

*曹叡拝謁図の虚報
 口絵の倭使明帝拝謁図は、虚報、妄想と罵られても仕方ありません。
 原史料倭人伝に依れば、使節が帯方郡に於いて洛陽で皇帝に拝謁することを上申したのは、景初二年六月なので、そう書いたのでしょうが、倭人伝には、詔書引用だけで皇帝拝謁記録がない以上、拝謁してない可能性が、大変高いと見られます。
 皇帝に拝謁していれば、堂々と明記されるのです。

 なお、俗説は、一つ覚えの誤記説で「景初三年六月」を押し通していますが、この絵は俗説信奉者に対し異様に反抗的/挑戦的です。衆知ですが、明帝曹叡は、景初三年元旦に崩御して、即日新皇帝が即位しているので、俗説の通り、景初三年に洛陽に昇ったとしたら、皇帝は、明帝の筈はなく、既に、口絵は虚報であることが明らかです。編集の際、記事校正はしても、口絵の攻勢はしなかったのでしょうか。著者の権威に泥を塗っています。(文庫本は、単行本の文庫化ですが、校正はしなかったのでしょうか)

*誤読/誤解のしるし~余談
 因みに、書紀には「明帝景初三年」と「はっきり」書かれているようですが、中国史書では、皇帝没後、翌年改元されるまでの期間は、単に「景初三年」と書くのが、厳格な規定であり、書紀は、魏書/魏志を正しく引用していないのです。
 この場合、明帝曹叡は、元旦に逝去したので、景初三年が「明帝景初三年」と書かれることはないのです。

 書紀編者は、よほどの物知らずから聞かされた、ごみ情報を書いたのでしょう。書紀編者を、誤謬を「はっきり」書いた「浅学非才」の馬鹿者との非難、不面目から救うとしたら、元々「明帝景初二年」と正しく書かれた佚文を、見習いの実務担当者が書紀に採り入れる際に、達筆佚文を誤読して、「明帝景初二年」と書いたとでも言い訳するのでしょう。
 あるいは、継承経過不明の書紀のいつ、誰の手によったかわからない写本継承の際、その際の誰ともわからぬ写本者が、小賢しく追記したのでしょうか。中国では、正史の帝室保存の至高写本、時代原本を次代に継承するのは、その時点の王朝の国家事業として取り組み、その時点の良質写本とも照合して、当代「本」を確定した上で、最高の写本工が写本し、厳格な校訂を経て、初めて、写本を当代本と交代させる手順を踏んだはずですが、天皇家を至高の存在とする書紀は、武家政権にとっては、悪書の極みであり、いわば、禁書の類いともなりかねなかったので、書紀の写本継承は、古来、いずれかの寺社の秘めやかなものであり、時代の叡知を集めた国家事業ではなかったので、写本の正確さには限界があったと推定されるのです。
 古来、中国正史の伝承を見ても、厳格な校訂を維持しなければ、つまり、一度でも、ぞんざいな写本がなされたら、写本には、誤字、誤写、誤釈が繁茂するのです。

 まあ、精々弁護しても、書紀の「魏晋代」記事伝承は、中国文化に対して厳格な「修行」に欠けた、素人仕事の積み重ねなので、多分、無学無教養な東夷にありがちな間違いなのでしょう。当時の日本で、中国古典権威者は、一字一句の編集校正をしなかったのでしょう。いや、この部分は、両氏に責任の無い余談です。

 再確認すると、両氏が採用した原史料解読は、景初二年上洛なので、このようなつまらない余談は無関係なのですが、倭人伝解釈は、古典解釈の常識の通らない渡世なのです。

*「通読を終えて」
 両著者は、本章の最後に「通読を終えて」と感慨を述べていますが、「古典の解読では、先人の読み方に異をはさむのに急で、自分の先入観に惑わされた読み方をすることが多く見られる」とは、見事に見当外れです。自分に先入観があれば、先人にも先入観があり、先人の読み方に無批判に追従することは、大局を誤るものと考えます。起点とすべきは、史料原文であることを再確認すべきなのです。

*原著者最優先ということ
 「先人」の誤りの大半は、原史料たる倭人伝に縁も所縁(ゆかり)もない、「国内史料」と言う、つまりは、倭人伝にとっては異界の史料から生じた先入観に囚われて原史料を改竄、創作して読み進むことから生じている過誤に起因していると思われます。

 文献解釈で最優先すべきは、原著者の意図、真意を察することであり、いかに高名でも、「先人」は原史料解釈に於いては、一介の初心者に過ぎないことを説きたいのです。もちろん、「先人」の読み方は、国内史料に関する学識の厖大な蓄積に立脚しているのですが、原史料の起点を理解していないとみられる場合は、まず、「先人」の読み方を、虚心な坦懐に批判する必要があるのです。

 と言うことで、倭人伝解釈の原点を再確認すると、万事、原史料本位、原史料起点の解釈が必要なのです。倭人伝は、編者陳寿の著作物であり、何よりも、原著者の深意を察することが始点なのです。
 史実は、原著者の深意を解読した上で、次段階で追求すべきなのです。
 以上、「邪馬台国論争」で、滅多に語られない原点確認なので、ことさら、ここに書き立てたものです。

                     未完

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 2/2 改訂

中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり   2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24

*三国志上程余談
 遡って、当段落では、「倭人伝」を初めて読んだのは、誰かわからない』と、まことに意味不明の愚問を呈されています。
 愚問に愚答を返すとして、話題を、陳寿最終稿に絞ると、まずは、陳寿自身であり、次いで、陳寿の遺稿を写本した写本工であり、さらには、それを、陳寿編纂「三国志」として上申した官人となりますが、皇帝が嘉納して初めて官許を得たとみれば、「三国志」を最初に見たのは、(皇帝を除けば)担当高官となります。

 なお、陳寿は、別に三国志編纂を秘匿していたわけではないので、少なからぬ知識人が、陳寿の稿本の写本を所蔵していたはずです。
 諸所に残されている諸般の批判、世評、風聞をみると、陳寿の編纂の過程で関係者の意見を聞くなどの取材が行われていたことの証左であり、西晋高官の許可を得ていたことを物語っています。

 「愚問」と断罪したのは、その人名を知っても、何の意味もないからです。

 世上、陳寿の編纂を私撰と誹る向きがありますが、古来、公認を得ず史書を編纂するのは大罪であり、斬罪処刑の対象です。漢書を編纂した班固は、当初、公認を得ていなかったため、史書私撰の大罪で告発されて下獄し、あわや処刑されるところを、高位の女官であった妹班昭や西域都護に属していた弟班超の助命嘆願で許されて、任官して史書編纂を公認され、漢書を完成しています。いや、正確に言うと、班固は、政争に巻き込まれて、漢書未完にして処刑され、文筆に優れた班昭が、兄の遺業を引き継いで完成させています。正確には、漢書は、班固、班昭の共纂とすべきですが、班昭の名は滅多にあげられません。

 陳寿の編纂に司直の手が伸びなかったということは、高官の援護のある、官撰に近い編纂であったことは明らかです。官撰史書となるには、皇帝に上申して勅許を得る必要があったので、陳寿の存命中は官撰と言えず、没後に皇帝の裁可を得て官撰となったものの、編纂者が当然行う、序文の整備ができていないのです。
 因みに、上申稿に序文をつけて完成形とすると、皇帝の裁可無しに決定稿とした不敬で処刑されかねないので、上申の際には、序文の欠けた「不完全な未定稿」としたものなのです。
 古田武彦氏の考察(「俾彌呼」ミネルヴァ書房)では、当時、上申書籍の決定稿の裁可後の仕上げの手順としては、三国志巻中に収められて上意を得ていた序文(東夷伝序文)を本来の位置に移動し、後跋を付して補筆を完成する想定だったそうですが、編者が没していて、遺命も伝わっていなかったため、序跋不備で画竜点睛を欠いているとのことです。まことに筋の通った提言ですが、多分、定説となることはないでしょう。

 このように、陳寿の没後、程なく西晋帝室に陳寿遺稿が謹呈されて嘉納され、帝室原本として収納された後、公認された帝室原本を基点として、子写本を起こし、次いで、子写本から孫写本と、少なからぬ数の初期写本が出回ったはずです。少なからぬとは、百部まで多くはないが、数部という少ないものでなく、二十部程度だろうということです。当然、西晋帝室写本工房が、世界一の権威をこめて、全力を振るった、高度な写本が行われたはずです。

 因みに、三国志編纂時代は、依然として、帝室蔵書は、簡牘、恐らく伝統的な木簡巻物であり、下って、范曄「後漢書」時代も、建康が長江流域ということで、竹簡巻物が正式写本のはずです。何しろ、伝統的な工房ですから、後漢代に普及しはじめた「蔡侯紙」といえども、四書五経、仏典、四書などの蔵書は、簡牘巻物が長く続いたはずです。

 一方、西域乾燥地帯などで出土した呉志(それとも、東呉史官編纂の呉書?)紙写本断簡は、明らかに民間写本であり、恐らく、旅行者/商人の携帯が前提の紙写本でしょうが、恐らく、簡牘巻物から写本しやすく荷物にならない紙巻物類と思われます。何しろ、現代では普通至極の「コピー用紙」風の単葉紙は、ページ毎の構成が固定されるので実務に適さず、巻紙に書き連ねることが普通だったでしょう。また、文書としても、巻き上げる方が扱いやすかったようです。ひょっとすると、現代でも、仏教のお経に見られるように、巻紙を折り曲げて製本していたかも知れませんが、出土遺物は、巻物の一部と見えるのです。
 いずれにしろ、出土遺物は、写本の信頼性で言うと、帝室写本に近い正式写本とは思えないのです。つまり、三国志現存刊本との異同は、異本とみるべきか、誤写、改竄とみるべきか、確かではないのです。いずれにしろ、素性不明の僅かな断簡で、現存刊本の記事の当否を云々すべきではないのです。

 何しろ、耐久性の実証された簡牘巻物と異なり、紙文書の耐久性、例えば、吸湿による変質や紙魚食いなどの対策が確立されるのに時間がかかったことでしょう。一方、民間では、補完、形態の難点解消が優先されたでしょう。

*「読者」裴松之ということ
 三国志の最重要読者は、百五十年後、晋朝南遷行幸の地で、南朝劉宋官人として付注した裴松之でしょう。
 同時代の「後漢書」編纂の范曄は、三国志講読の動機が不明です。「後漢書」倭伝は倭人伝に似た「お話」を載せますが、史官の用語、文体では書かれてないし、魚豢「魏略」が底本の一部とも見えますが実際の所は、全ての詮索が不確かなのです。

 後漢書は、先行史書を明快に書き改めたこともあって、文章表現として明解で、断じて読みやすいとされていますが、史書としては「正確さに欠ける」落第作との批判とも見えます。

*「倭国大乱」の愚~世界観倒錯
 一例として、後漢書に、倭国「大乱」とありますが、史官辞書で、「大乱」は天下が乱れて天子の地位を争う非常事態の用語です。陳寿は、蛮人である倭人の内紛に「大乱」などと「たわごと」を書かなかったのです。

 これに対して、笵曄の属する南朝劉宋は、後漢が崩壊した霊帝没年以来、「大乱」の果てに、三国鼎立、つまり、地域自立という形の安定期に入ったのに満足せず、南部の両反乱分子を討伐し収束し全国統一の難業を成し遂げた晋が、あろうことか、王族内紛というお手盛りの「大乱」で秩序を乱し、北方異民族の軍兵を招き込んで、遂に亡国となった結果、中原世界という天下を失った晋朝残党が旧賊地に設立した流亡政権東晋を継いだ流亡の政権であり、劉宋高官であった笵曄は、今さら、古典用語にこだわることもなかろうと蛮人「大乱」に何とも思わなかったのです。

 陳寿「三国志」は、中原政権である曹魏が、南方の二大「反乱分子」と対峙したという形式を取っているものの、実は、三国それぞれが、大義名分を抱えていたという「形式」を踏まえていますが、劉宋は旧「反乱分子」の故地に逃げ込んでいて、中原回復のめどがたたない「惨状」にありました。
 東晋代の書家王羲之(書聖)は、残された「喪乱帖」で、 晋の南遷以後、天下は乱れ、故郷郎邪に残された父祖の墓が荒らされていると歎いていますが、 後世、そのような「喪乱」 は、司馬氏の乱行によるものであるとの非難が定着し、さらには、そのような司馬氏に、むざむざ天下を奪われた曹氏の不始末を非難する風潮があったことから、三国鼎立は、漢の名分を嗣ぐ蜀漢が統一すべきだったとの風評が起こったようです。
 いずれにしろ、笵曄は、曹魏に対して、かなり冷淡であったと考えていいようです。
 陳寿から范曄までの百五十年間に、中国知識人の世界観は、大きく倒錯するに至ったのです。

 このように、世界観倒錯後の笵曄が、「陳寿が古典的世界観で編纂した倭人伝」を、「謬って」解読し、中原世界を喪失した「謬った」世界観で「後漢書」を書いたのは、明らかですから、そのような史書としての危うさを脇に置いて、行文の流麗さをもって褒めそやすのは、范曄が問題のある不正確な史書を物したと、暗に非難していることになるのです。

 杉本氏、森氏の意図は、そのような「春秋の筆法」にあるのでしょうか。一般読者向け書籍は、素人にもわかるように、明解に書くべきではありませんか。

 以上、両氏には、苛酷な批判かと思いますが、御両所の高名に惹かれて購入した読者は、それ故、無批判に追従しかねないのです。そのため、本書については、労作としてその価値は認めるものの、倭人伝の誤釈という悪しき伝統(誤伝)の蔓延拡大という見地から批判すると、悪書の誹りは免れないのです。
 もちろん、御両所が、諸悪の元凶と断じているのではありませんが、「先人」の諸悪を、拡大再生産したという点では、率直に指弾せざるを得ないのです。

                             この項完

新・私の本棚 古田武彦 九州王朝の歴史学~「国都方数千里」談義 再訂版 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31 2021/07/22

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

○一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。
 対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後世人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もないのです。

 何しろ、唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が錯誤に陥っているのです。古典書を、先入観に囚われて軽率に誤読するのは、東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」を止め、「其国」「都方数千里」とします。つまり、「其国都」が「方数千里」ではなく、「其国」が「都(すべて)方数千里」と読みなおすのが妥当で、以下、意味が通るのです。
 「国都」を、国内史料風に、国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、中国側の鴻廬、つまり、異人受け入れ部門からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、返事のしようがないのです。いや、これは、「国土」の書き間違いDEATHなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢から、説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 本能のままに自然に読まず、丁寧に深意を読み解く、知性的な努力が必要なのです。

 ただし、古田氏の採用した「方里」が正方形一辺とする「方里」解釈には難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

○舊唐書記事参照
 「舊唐書倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら、蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし、と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正した「新唐書」の日本伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で、矩形で囲まれた領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧したと見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 漢書以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を都と称しません。
 国内の「王」の治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 但し、西晋滅亡中原喪失以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、中原を占有した北魏から隋の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称していましたが、全土統一として隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、高度な審議なので、俄に信じがたいかも知れませんが、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように、倭人伝の道里行程記事の明解な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術及び関係論考、司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を通読した上での素人考えの意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。
                                       未完

新・私の本棚 古田武彦 九州王朝の歴史学~「国都方数千里」談義 再訂版 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 功罪相半ばの卓見 2020/11/09 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12, 01/31 2021/07/22

*短里制実施例との解釈
 古田氏は、「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形、ないしは正方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた、「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍が整合すると説きました。魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。

 なぜ、「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制「短里」を持ちだしたか、不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解ですが、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。

 因みに、魏志烏丸東夷伝の数カ国記事の「方里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したも真野であり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域は知られていなかったのです。かといって、領域の知られている、比較的近隣の諸国に対して「方里」を適用した記事は無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、「理解不能」を暫定的結論として、先に進みます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代人の追従の様は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭人の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。

 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭は、めでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する、反則となる蕃人の意見を、蛮人の不見識を示すために、ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。

 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことは、あり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 方里を、正方形一辺一里の図形とする例がありますが、そのような面積の使われた由来、根拠が不明です。面積は辺の自乗で増減して(読者の理解を超え)収拾が付かなくなるのです。

 私見では、「方里」は、国内戸籍情報に基づく「農地面積総計」であり「数千里」は、概数の定則から「二、三千里」と見ています。

 基本的に、五千里は、十進範囲を四分割する程度の概数でも、五千里と思います。つまり、(「零」)、「二,三千」、「五千」、「七,八千」、「一万」という感じです。現代では見かけない、大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。

 こうした概数表示の初歩的な常識からして、数千里は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を無造作に数千里とするのは、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、常識的には「五千余里」と書くものでしょう。

 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を一里四方の面積である「方里」に換算した統計数字であり、あるいは、倭国が、国内制度として魏晋代の旧制を維持していたのかも知れません。解釈が揺らぐところです。

 国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は倭人伝基準ですから、新唐書が正しく継承したかどうか、やや不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を方二千五百里(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍程度の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。

 方二千五百里は、常用単位で百万畝程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(憶測です)、二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。

 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な相関関係があるということだけです。一方、未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのです。

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきである』との倭人伝解釈を支持する一件と思われます。

 倭人伝道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り、反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なのですが、これもまた、黙殺するのでしょうか。

 因みに、古代史の泰斗、上田正昭氏は(今般の「都」の新解釈は抜きで)総日数表示という解釈に対して、「史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠である」と苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、お伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、いかなる定則にも例外は存在するというのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に交渉してから取り上げるべきだということも、手抜きしてはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、魏晋代に常識であったかどうかの時代考証が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

2021年7月23日 (金)

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」1/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

はじめに~NHK番組批判の弁
 今回は、NHK番組の批判ですが、下一の報道機関である公共放送NHKが、古代史分野一機関の粗雑な仮説を、十分検証せずに番組制作した点に批判の重点があります。以下、番組進行順に、即席の批判を積み重ねたので確認いただければ幸いです。(素人著作の批判とは別世界です)

〇NHK番組紹介~NHKサイトより引用
 私たちが暮らす日本という国はどのように誕生したのか。神話の世界と歴史的事実をつなぐのが全国に4700基ある前方後円墳だ。今、最新の科学技術を使った研究から、新発見が続いている。番組では最初に築造されたと考えられている巨大前方後円墳の「箸墓古墳」の謎の解明を出発点に、それを築いたヤマト王権が一体どのように誕生し、日本列島の姿を変えていったのかに迫ってゆく。出演:松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか

〇粗雑極まる「タイトル」設定
 この番組紹介を見ると、まず「前方後円墳が語り出す」と言う怪奇現象に驚き、チャンネルを間違えたかと思うのです。二千年前に造成され、半ば放置されていた遺跡が今、声を上げて語り出すなら、現代人が陰に隠れた子供だましのお化け屋敷です。河内の古墳群の近傍は、うるさくてしょうがないでしょう。いずれにしろ、公共放送が、教養文化番組として製作すべきタイトルではありません。
 どうも、当番組は、国立歴史民俗博物館(歴博)宣伝番組のようで、タイトルも持ち込みかも知れませんが、NHKは視聴者からの受信料で運営される公共放送ではないのでしょうか。

 以上のように不吉な番組紹介を越えて番組を視聴しましたが、特定の団体に奉仕する内容は目を覆わせるもので受信料返せと言いたいものでした。

 因みに、雑踏となっている先入観を離れてタイトルを見ると、「ヤマト王権」は、「前方後円墳」の萌芽と成長に伴って台頭したという主張だけであり、これは、遺跡、遺物に基づく多数の研究者の合議体による「実直な考古学考察」に連携しているので、特に異論を述べる筋合いはないのです。いわば、鉄壁のご高説なのです。
 ところが、そのような「実直な考古学考察」定説を奔放に変形して、その萌芽を、倭人伝の描く三世紀にずり上げ、「ヤマト王権」の成長発端を、大幅にずり上げた無理がたたっているのです。
 学界全体で気づきあげた考察は、同様の時間をかけて、同様の合議体で審議して、初めて改訂できるものではないでしょうか。 

無批判、無検証の危うさ
 一番問題なのは、この番組には、従順な聞き役しか出てこないで、長々と「歴博」の勝手な(検証されていない)主張を無批判に踏襲することです。
 特に論敵「九州説」の主張を、勝手に代弁して揶揄していることは、公共放送による論争報道のありかたとして、論外です。よく言う(勝って当然の)独り相撲です。「歴博」と言うと公平な視点で運営されていると解されがちですが、多額の運営費用と有能な人材を投入して「纏向説」を高揚している「畿内派本山」と見えるのです。

 さらに言うと、番組が、世上論議が渦巻いているC14年代判定の「歴博お手盛り」の無謀な見解を無批判で採用するのは不穏です。本来、自然科学技術による客観的な判定であるべきものが、歪んでいると否定的に評されるのは、つまり「歴博」が存在意義をかけた独自判定で、念入りに判定者に圧力をかけたものと思われます。判定に要する最先端機器の、高額の運転費用を、意に染まない判定結果であれば、費用支払いに疑義を呈する、と言うか、次回以降の判定依頼を「考慮」するという言外の圧力は、むしろよく見かけるものであり、別に驚くものではないのですが、この事例では、ちょっとあからさまな形で露呈したようです。(安本美典氏の考察を参考していますが、自分なりに分析した物です)

粗雑な科学見識、大時代の内部闘争
 ニューオンが「見えない素粒子」とは珍妙な意見で、「見える」素粒子などありません。子供だましでなく、「科学的」に述べて欲しいものです。
 「殴り込み」など、反社会的団体風言動がそのまま出回っているのは、「畿内説」陣営内の不穏な動きを暴露しています。そして、それを、視聴者にぶつけるのは、NHKの品性を疑わせます。チェックなしなのでしょうか。

甘い判断
 因みに、松木教授は、軽く、箸墓が卑弥呼の墓なら、女王国は纏向しかあり得ないと断じます。それ自体、軽率で非論理的な、無用の断言です。畿内説論者でも、箸墓は、倭人伝に書かれている卑弥呼の墓 ではないことが明確だから、むしろ、宗女「壹與」の墓であろうとする論者が見えます。浅慮早計で、立脚点を間違えているようです。

 続いて、「三世紀文献、中国史書「魏志倭人伝」に従えば「九州説」も成立する」とは、けったいな独善です。
 伝統の倭人伝改竄戦略から撤退、転進したのでしょうか。

 このあたり、自陣営の過去の発表との整合が審査されていないようで、さらに、番組司会者から過去番組との関連に対して何の質問もないのが、奇っ怪です。

 

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」2/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

「ヤマト」王権~「文化」の詐称
 ヤマト王権が、七世紀あたりに、律令制度を敷いたのは、遣隋使、遣唐使の持ち帰った知識によるものであり、従ってそれ以前には何も法制がなかったと見ているはずです。

 各地にほかの「文化」があったと誤解を述べますが、文字の無い世界に文書はないから「文化」はなく、単なる、風俗習慣です。その証拠に、文書記録が皆無で、何も伝わっていません。

粗雑な列島展望
 さらりとごまかしていますが、筑紫、北九州に太陽の女神の信仰はなかったと言う主旨が述べられています。これほど重大な仮説をどさくさ紛れに開陳するのは、胡散臭い物がありますが、倭人伝に、「太陽の女神」は、一切登場しないのです。何を主張しているのでしょうか。

 そして、「列島最大」と言いますが、関東、東北はどうなっていたのか。いずれも重大な提言に説明がありません。仰々しい四千を越える墳丘墓の検証はなく、大半は「箸墓」論議です。奈良盆地内の他遺跡の考察も、ほとんどありません。まことに、胡散臭い自家製新説です。

不穏当な「ルーツ」論援用
 箸墓の「ルーツ」が各地に窺えるとは、「職人を大挙拉致し、奴隷として駆使した」との主旨でしょうか。

 造墓は大規模な技術集団を必要とし、技術を結集しようにも、言葉の問題以外にも設計図が読めなければどうにもなりません。職人拉致談義は、「ルーツ」と言う(語源に戻ると、大変)不穏当な用語のせいばかりでもありませんが、「神がかり」よりは、まだまともな考察です。

箸墓造営論
 箸墓は、石積みで覆われたとして、倭人伝で、卑弥呼の墓は、「冢」、つまり土饅頭であり、巨大なものは作れません。考証の齟齬でしょうか。
 王墓造成には、まず、候補地を決めて縄張りし、一大土木工事、それも、未曾有のものを施行しなければなりません。
 当然、多数の労力を長期間動員するので宿舎と食料が必須です。それは、国家として保有している官人、食料庫の他に設けなければなりません。期間中に必要な石材や材木を倉庫に貯めねばなりません。などなど、厖大、広大な建設現場が必要で、国家の中枢を離れたところに設けるものです。
 つまり、墳丘墓は、国の王宮などから、相当離れた場所に設けざるを得ないのです。王宮は、南の飛鳥や北の平城京あたりとも思えます。
 一部に、卑弥呼は、筑紫で君臨していましたが、晩年に畿内方面に移住し、そこで没して、墳丘墓に埋葬されたという「奇説」を聞いたことがあります。(「奇説」は、伝統的用法であり、褒め言葉です。念のため

 素人考えですが、こうした異論をすっ飛ばすとは、松木教授は余りに太平楽ではないかと思われます。それとも、良い度胸をしているのでしょうか。

〇急遽否定された武力統一
 ここで、松木教授は、従来の「定説」を覆して、ヤマト王権は、武力統一なしの合意国家と言います。学界を揺るがしかねない大転換ですが、纏向派は、いつ、どのような論議を経て、転進したのでしょうか。

 文書のない時代、列国は、対話、談合するのですが、話す言葉は不統一の筈であり、どうやって意思疎通し、合意ができたのか、合意の文書記録をどのように残したのか、まことに不思議です。近隣同士なら、日頃の近所づきあい、口頭対話で折衝が進められますが、離隔していて季節の挨拶しかできなければ、当然疎遠であり、まして、往来しようにも片道数ヵ月かかっては、新年の挨拶も粗略になりがちで、いつまで経っても、ほぐれる一方で固まるはずのない天下です。

 いや、そもそも、当時の交通事情を想定すると、遠隔地の国と喧嘩することも、同様に困難なので、中国戦国時代の秦国の取った「遠交近攻」の政策が賢明なのです。文書通信があり、街道での往来が容易であった先進国でも、隣り合っていればこそ喧嘩して争うことができたのです。

 「合意」と称して、諸公は騙せても、配下は、国益を損なう合意に納得しないはずです。武力で威圧しなくては、手前勝手な契約を押しつけることはできないのです。

 古代、漢武帝が、西域諸国の服属を求めて、百人規模の使節団を各地に送り込みましたが、服属どころか、使節団を一度ならず皆殺しにして、高価な手土産を奪い取った例が珍しくないのです。武力無くしては「説得」できません。

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」3/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

〇 空疎な「広域」観 
 つまり、互いに十分知り合えない「疏」状態では、広域国家も広域連携も幻想であり、飾り立てても空疎です。最近まで、畿内は「野蛮な」周辺地域と交流がなくて平和だったとの説が聞こえましたが、空耳だったのでしょうか。

〇「倭国乱」の真意~後漢書「大乱」の放棄
 むしろ、健全なのは、倭人伝に「倭国乱」とあっても、実際に戦ったのではないとする見解です。これに対して、当ブログの守備範囲外ですが、記紀に多数見られる戦闘や殺戮の記事は、全て虚構というのでしょうか。

「文化」「伝統」の蹉跌
 「文化」と「伝統」と言いますが、「伝統」は、先祖以来の氏族構成に従う「王位」継承を言うのであり、また、文字のない「文化」の融合などあり得ないのです。

〇 気象学「新説」の暴走
 続いて、突如、気象学ご託宣ですが、標本採取場所の気象災害は、妥当な見解でしょうが、広域災害を断じるのはどうでしょうか。

 ヤマト盆地が災害を受けにくかったとは不思議です。盆地は、降水量が少ないものの、東の山並みからの急峻な渓流で、多雨期には、出水、氾濫があったと推定されます。その意味では、大型建物を高床にしたのはもっともですが、一般人の住家は、どう水害対策したのでしょうか。
 いや、唐古・鍵遺跡のように、二世紀にわたって環濠が維持されていたとする見方は理解できるのですが、纏向に広域の環濠は見当たらず、用水路が目立つだけです。
 して見ると、近隣の唐古・鍵遺跡などの伝統考古学に基づく時代考証も必要ではないでしょうか。ヤマト盆地に、纏向しか無かったわけではないはずです。

 古道「山辺の道」は山腹を等高線で結び纏向扇状地に降りてないのです。巨大な湖沼の存在した低湿地が、次第に乾燥したのは、雨量が少なかったからではないのでしょうか。要するに、ヤマト盆地の時代推移すら、手軽に説明できるものではないと思うのです。

 因みに、余り語られないのですが、奈良盆地を南下して、吉野方面に進むと、冬季の寒冷は厳しく、纏向から赴いて越冬するのは、無理なのです。中には、吉野の高台に「吉野宮」を見る幻視客がいますが、高台で一段と厳しい寒冷地であり、纏向人は、冬季、屋内でも水がめが凍り付く気候に耐えられないと考えます。南に向かうと気候が温暖になると決め込んでいては、万事地図次第で、地に足の着いた時代考証が、根っからできていないのです。「歴博」は、土地勘一切無しで、地図上の線引きで迷走する事例が多発しているのですが、関係者は、誰も現地確認していないのでしょうか。

〇 天下中心幻想~子供だましの言い散らし
 ヤマト盆地は、「交通の要」であったと言いますが、四囲を山並みで守られた「壺中天」(まほろば)という古来の見方は、どうなったのでしょうか。纏向付近の世界観であって、飛鳥や平城京付近は、山並みに近いので、隔離された感じはさほどではないかも知れませんが、いずれにしろ、全体として、固く閉ざされた環境と見た方が、当時の「まほろば」秘境的世界観として適確なような気がします。

 いずれにしろ、壺中天が「交通の要」とは、河川交通が無いに等しく、陸上交通も、街道網が発達していたとは見えないし、あったとの立証が試みられていない以上、言いたい放題のホラ話のように聞こえます。言うだけなら、「自由」で「ただ」ですから、言いっぱなしにしたのでしょうが、公共放送の教養番組の場なのをお忘れなのでしょうか。NHKは、一切、番組内容を審査しないのでしょうか。

 大規模な研究組織に研究員が多数いれば、中には、自説で全組織を支配するような極端な思い付きを述べ立てる方もあるでしょうが、組織全体で構築、維持してきた考古学理論全体の整合性は、吟味しないのでしょうか。
 古来、新説の99㌫は、思い付きだけで根拠を持たない「ごみ」説に過ぎないのです。長年の定説を転覆させるような「新説」は、千年に一度でしょう。

 「日本」の前史時代を終えた時代、河内側からの峠越えの物流が至難で、大和川遡行も不可能事であったので、淀川・木津川水運に至便の平城京を設営したのを見落としています。さらには、平城京建都の最中に、北の木津付近に水運に適した恭仁京を設営しようとしています。奈良盆地が、交通至便というのは、空文だったとわかります。

 どさくさ紛れにも程があって、纏向から大阪湾に通じる大運河などという極大幻想が出回っていて、その一点だけで空論とわかります。傾斜地に運河を設ける絵空事は、不可能事と明らかです。実験不要の自明事項です。また、当時の河内平野は、奈良盆地から流入する大和川と南河内から流下する石川が合流後直ちに分岐展開して北に流れ、安定した「水運」など不可能だったとみられます。

東京一極集中の弊~時代錯誤依存症
 ここで、松木教授は、纏向は現代の東京のような「首都」と言い張ります。またも神がかったようですが、時代錯誤の塊です。

 現代の東京は、法治国家であって、統治機構が集中していて、企業本社が集中し、離島も含め遠隔地に及ぶ全国から、人材に加えてカネや資源が流入してくるのであり、別に自然現象ではありません。
 そのような社会機構と歴史の霞の彼方の古代纏向の仮想政権は、どこが共通でしょうか。不思議です。聞き役から、当然質問がありそうですが、台本にないのでしょうか。

 纏向には、当然、文書記録も法秩序もなかったのです。「国家」を運用するために財務機能はあったとして、通貨制度がないのに、どう計算して帳尻を合わせたのでしょうか。どこに、警視庁や高裁に相当する司法機関があったのでしょうか。法はなくても罪と罰はあったのでしょうか。とても、類推できるものではありません。

 「首都」の語義解釈もいい加減で、当時にあっては、と言うか、言葉として通じたとしても、精々大きい「街」に過ぎないのです。
 素知らぬ顔で、現代語を持ち込んで、時代錯誤を引き起こしているのは、中国古代文書の教養に乏しい纏向説の論議に良く見ますが、それにしてもまずい手口です。

「一都会」再現
 いや、現代語と言っても、若者言葉では、大きな街(まち)の語感になっていると聞いています。俗に言う、「人、物、金」を、磁石が「鉄くず」を吸い付けるように集めているとも見えます。実は、太古、「都」とは、「人、物、金」が一ヵ所に都(すべて)会する集散地、「一都会」という意味だったようですが、いわば、言葉が先祖返りしているようにも見えます。

〇 王者葬列幻想
 王の死にあたって、各地から多数が参集したといいますが、それほど多数の人間が、どのようにして、一斉に旅することができたのか説明がありません。どんな方法で告知して、期限厳守で出席を命じたのでしょうか。このような場合、遅参は死罪と決まっていましたから、何をおいても参集したことになるのですが、そのような「葬制」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、街道未整備で、従って、満足な宿舎はなく、宿舎がなければ食料や水はありません。現地調達としても、何を対価として賄い、物乞いせずに辿り着けると想定していたのでしょうか。焼き物のような器物は、街々の市での順送りで「一人歩き」して長距離移動しても、人は、日々何かを食べて、日々歩かなければなりません。そのような「犠牲」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、遠国からの参集者に過大な負担を押しつけないとしたら、各地の沿道では、公務の旅人には、無償で食事を与え、宿所を供じるとしなければなりません。どうやって、それを補償したのでしょうか。そもそも、太古、街道沿いに宿所などあったのでしょうか。何しろ、遠隔地もあるので、沿道全線を通じて、そのような制度を維持するのは、当時としては、厖大な負担になるのですが、なぜ、負担を強いられて、反抗しなかったのでしょうか。

 三世紀に、国家制度の裏付けがある、宿駅の完備した古代街道が各地に通じていて、公務の旅人は、身一つで移動できたと主張されるなら、証拠を示していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」4/4 改訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23

〇 虚構の葬列~絵空事で済まない考証
 いや、(予定していない)逝去で、急遽工事に着手しても、墳丘墓の造成には五年、十年かかるから、参列者の準備期間はあったでしょうが、遠隔地から、手弁当、つまり、道中の食料を背負ってやって来て、帰国の途は、どうしたのでしょうか。
 三世紀に、参集する人々一人一人を、そのような命がけの旅に駆り立てたのは何なのでしょうか。それぞれ、故郷では、そこそこの地位にあったもののはずです。何のために、何を求めて、半年、一年、家族を放棄して、異国に出向くものでしょうか。生きて帰国しなければならないのです。

 これほど壮大な儀式を、手順書なしにしてのけるのは人間技と思えません。いや、番組では、CGによって軽々と壮大な儀式を描き出していますが、ご自分で手書きで、全人物を描き込んでみれば、絵空事を見せるのも、結構労力を要することがわかるはずです。各人が肉体を備え、故郷に家族のいる生きた人間であれば、絵空事どころではないのです。
 文献がなくても、各人の労苦は、容易に想到できるのではないでしょうか。

〇 「お墨付き」漫談
 ここで、纏向論者から「お墨付き」の比喩が出ましたが、文字も紙もないので、書き付けの「お墨付き」はあり得ないし、江戸時代ではないので武家諸法度などは無く、「お墨付き」には、何の裏付けもありません。「お墨付き」の類いの漫談は、そろそろ卒業して欲しいものです。いつまでも、留年を重ねて、すねかじりをされては、天下に迷惑を流すのです。

〇 「ネットワーク」漫談
 ここで「ネットワーク」なる時代錯誤が持ち出されます。聞き手の質問がありませんが、古代史論で何を言いたいのか理解に苦しみます。なぜ、問い返さないのでしょうか。聞き手は、たっぷり説明されて、丸ごと理解したのかも知れませんが、古代史に興味を集中している視聴者には、何もわからないのです。

 簡単に考証すると、「ネットワーク」のそれぞれの「節」は、送られてきた情報とエネルギーがあって生存できるのです。道路がなく文書がないと、全て、有能な使者の「野駆け」頼りであり、物品の輸送も、人手頼りです。と言うことで、「網細工」は実現できません。漁網であれば抜け放題です。
 要は、各地勢力は、まばらに点在していただけで、密接な連携などできたはずは無いという、冷静な理解が必要です。
 むしろ、「点と線」と、松本清張氏の名作のタイトル(著作権?)に抵触する、古典的な比喩が出てくるのです。古代史分野では、時代を問わず、「ネットワーク」は禁句にしたいものです。

 何がどうだったのか、皆目わからない古代の様相を描くのに、自分でも理解できていないカタカナ言葉を使うのは、二重の時代錯誤です。
 そんなたわごとは、少なくとも、古代史論議では、ご勘弁頂きたいのです。借り物の言葉は、早く貸し元に返して、自分の理解した言葉で語るべきです。自分のネタで漫談してほしいものです。

華麗な画餅
 松木教授は、締めくくるように、見てきたような借り物の纏向絵図を持ち出しますが、ここまで丁寧に説いてきた考古学の道筋を無視して、怒濤の虚像を描くのです。ご自分で考証したのでもないのに、無検証、無批判なので借り物なのです。
 因みに、古来、「画に描いた餅」、「画餅」の比喩があります。空腹を抱えた身に、食べられない画餅は、ご勘弁いただきたいのです。いくら、きれいに描いても食えないものは食えません。まずは、ご自分で味見してから、視聴者に勧めたらどうでしょうか。

冷静な時代考証
 最後に、横合いから良心的な意見が提示されて、巨大墳丘墓は、設計図が必須であり、設計図を駆使できる共通基盤が不可欠であるとしています。墳丘墓に実寸図面は使用できませんし、実現には、当時としては厖大な縮寸計算か、現場での作図が必要です。当然、幾つかの技術者集団が巡訪して、できる限り口頭で技術移管したと思うのです。もっとも、文字も紙文書も無い時代、「設計図」は、どこに書かれたのでしょうか。
 考古学分野で、実際のあり方を踏みしめていた森浩一師の実直な論議はどこに消えたのでしょうか。長年の纏向派の論議の基盤を覆す、掌を返すような転進は無残に見えます。

古典派考古学希求
 ここまで控えていましたが、「纏向博士」と時に揶揄された石野博信師は、多年に亘る考古学学究から得た広範、多岐の遺跡、遺物に根ざした考察が根底にあり、確たる考察に裏付けられた信念を感じさせましたが、今回聞いた松木氏の歴史浪漫にわけ込んだ「浪漫派」論議は、浪漫溢れる巨大な「ヤマト王権」誕生の三世紀幻図に引き摺られて、理念無くして意見が動揺し、素人には信じがたいのです。

無目的なブレゼンテーション
 それにしても、この番組を、一人舞台、独り相撲としたのは、誰に向けた提案(プレゼン)なのでしょうか。少なくとも、当方は、こんなメシは食いたくないと思うのです。

 ひょっとすると、過日の「邪馬台国サミット2021」で、不振であったことに対する「意趣返し」でしょうか。それなら、物量主義でしてのけた華麗な「プレゼン」でなく、検証と試錬を重ねた丁寧な論議が必要ではないでしょうか。それは、NHKが論じるべきではないでしょうか。

 善良な視聴者、納税者としては、「金返せ」と言いたいところです。
                                以上

2021年7月22日 (木)

新・私の本棚 安本美典 季刊邪馬台国 第12号 魏晋朝短里説批判 1/1 補充

  梓書院 昭和57年春号 (1982/5発行)
私の見立て ★★★★★ 必読       2019/07/18 補充 2021/07/22

*地域里論の嚆矢
 当方の倭人伝里制に関する行脚は、ようやく、原点回帰できたようです。当記事によれば、安本美典氏の「地域里論」に対して、古田武彦氏は、(後に)「魏晋朝短里説」に固執し、今日に到る不毛な論争が始まったようです。

 当方も、両氏の確執を含め、道里論の混沌を避けていたため理解が深まらず、十年余の停滞の果てに、ようやく短里説論争の原点を見極めたのです。
 倭人伝記事という原点から発して、安本氏は、史料のもとに足を留めたのに対して、古田氏は、こころの命ずるままに荒野に足を踏み出したのだなと、感慨ひとしおです。後年の熾烈な較差を思うと、別れ道は僅かな見解の相違だったのです。そして、この件に関して、当方は、安本氏の行き方を支持するものです。

*短里説内紛の経緯
 安本氏は、いち早く、倭人伝道里は、中国の四百五十㍍程度の普通里でなく、せいぜい百㍍程度の短里と検証しています。(先行者を認めた上で)
 古田氏は、「三国志一貫里制」を信奉した「三国志短里説 」から、魏朝が公布した「里」が、後継の西晋まで継承されたとの「魏晋朝短里説」に道を採ったのですが、今日に到るも、そのような公布施行を証する資料は見出されていないのです。
 安本氏は、一貫して、帯方郡から倭までの行程に限定した「地域里制説」を唱えたのですが、古田氏が拡張した「魏晋朝短里説」の論争が激化し、氏の正当な説は影を潜めたように見えます。

*一解法の提案
 当方は、本記事に先立ち、倭人伝に即した一解法を提示しました。
倭人伝記事は、帯方郡人士によって、帯方郡の地域事情を根拠として書かれたため、独特の「地域里制」によって書かれた可能性が否定しがたいこと
魏書編纂にあたり、倭人伝道里は、整合不可能であったため、冒頭で、独特の地域里制を用いたことを「地域里制」として明示していること
 具体的に言うと、「郡から狗邪韓国まで七千余里」と帯方郡拠点への里数を明記し、「地域里制」の校正を可能にしているのです。

 陳寿は、編纂に際し、「地域里制」の確証が得られなかったため、史官としての本分に順い、普通里制との整合は保留し、倭人伝自体の整合を第一義としたのです。

 それにしても、未だに、魏使は洛陽人士と誤解している論者が、頑迷に地域道里に反対し、「誇張説」、「虚構説」が跳梁跋扈し、議論が収束しないのです。論拠が砂上だと、いくら堅固な論考を立てても、空しいのです。

*史実で無く、真意の究明~最初の一歩
 倭人伝解釈は、史実の究明と解している向きが多いのですが、当方は、まずなすべきは、陳寿の真意の究明との視点から、所論を公開しています。つまり、陳寿が、倭人伝を書いた際に構想した里制を、倭人伝記事から解明するのが、第一義なのです。

 それは、必ずしも、当時、現地で通用していた里制とは限らないし、まして、魏朝治世下の全土に施行されていた里制とも限らないのです。

 込み入った課題は、少しずつ解きほぐすのが最善策で、苛立って、一刀両断してしまう武断策は、この際、辛抱が足りないのです。

*論争終熄の提案
 八十年代冒頭の時点で、安本氏は、史料に即して倭人伝の「地域短里」制を提示しましたが、②「地域里制明示」指摘を備えなかったため、折角の正解が、古田氏の「魏書統一里制」なる、いらざる拡張に抗し得なかったとみえます。

 古田氏は、「物証より論証を信念とした」ため、正論とした短里説拡張に対する反論には一切歩み寄ることがなく、用例検証の泥沼にはまったようです。氏の急峻な論法は、支持者と共に反論者も硬化させ、全三国志の用例を総覧して、逐一、それぞれの「里」を考証するという聖戦のごとき泥沼は今も続いています。
 しかし、複数件の不確かな用例を緻密に検証しても、それは、それぞれ一個の用例における「里」長を証するに過ぎないのです。帯方郡に「地域短里」があったという主張に対して、別の地域で、別の「地域里制」が横行していたかも知れない、と言う「不確かな」主張に過ぎないから、何件集まっても、倭人伝の明記された記事を覆す効力は無く、論議は一向に進まないのです。いや、進展させる方法があれば、とうに進展していたはずで、進展しないのは、歴史の必然と言うべきです。

 古田氏の言うとおり、不確かな物証は、数多く集めても、不確かなままであり、確かな主張にはならないのです。

 国の土地制度の根本である「里」の六倍規模の伸縮は、国政を揺るがす大事なので、皇帝に上申されるまでに多大な審議がされるはずであり、例え皇帝が「里」の大幅変更を裁可しても、その実施に際しては、多数の制度変更と全土における大規模な「土地台帳」改定、それには、多大な計算が必要となるのですから、とても、ひっそり実施するわけにはいかないのです。

 そして、そのような魏朝の短里制布令・施行の裏付け史料も、晋朝の里制復元の布令・施行の裏付け資料も「皆無」です。何より、正史晋書地理志にも、何の記載も無いのです。


 古田氏の「魏晋朝短里説」評価で言うと、四十年近い歳月を消費した「魏晋朝短里説」の終熄ができないため、古田氏の諸論が、まるごと「頑迷な異説」の箍をはめられているのは、公的な損失です。いくら古田氏の提言の主眼であろうと、これを神聖不可侵とするのは、必ずしも、古田氏の遺徳を高めることにはならないのです。

 そして、安本氏の正論が、うやむやのうちに、諸説の玉石混淆の泥沼に埋もれているのは、残念の極みです。安本氏は、一刀両断で、魏晋朝短里説に引導を渡し、葬り去ったとお考えなのでしょうが、一向に、明解になっていないのです。

                                完

2021年7月20日 (火)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

◯はじめに
 以前、本書不買(買わず)判断の背景を三回にわけて書いたのです。

 要は、惹句の部分に、商品紹介として不出来な文句が並んでいたから、これでは、とても売り物になりませんよ、と書いただけであり、新書編集部のずさんな仕事ぶりへの批判が、半ば以上と思います。

 以後二年半に、結構参照されたので、「買わず飛び込む」と言ってられず身銭を切って購入しました。旧記事抜きで書いて、時に重複、時に途切れますが、ご了解いただきたいのです。
 そして、まだ、主旨が届いていないようなので、再再掲しました。

*言葉の時代錯誤
 まず、基準として明確にしたいのは、用字、用語のけじめの緩さ(あるように見えないが)です。

 用字、用語は、同時代を原則とし、同時代と現代で変化があったために誤解しやすい言葉は、初出時に注釈して、時代錯誤を避けるものです。近年、魏志倭人伝は、三世紀中国人が、同時代中国人のために書いたから、時代と目的を認識して解すべきとの趣旨の意見があり、至言です。倭人伝論考で、カタカナ語や当代風の言葉は読者を混乱させるので、「断固」避けるべきです。

 当時の適当な言葉がないのは、当時の人々の念頭にない、全く知られていない概念だったからであり、知られていない概念は、当時の人々の動機にも目標にもならないのです。時代錯誤の用語を使うのが避けられない場合は、丁寧に説き起こして言い換えを示すべきと考えます。

*「海路」はなかった
 いや、こんな話が出るのは、本書の表題で「海路」と打ち出しているからです。引用符入りですから現代語と見て取れというのは、読者に気の毒です。

 古代中国語に「海路」という言葉が無かったので、中国古典全文検索で、魏晋朝まで「海路」は出て来ません。三国志、倭人伝にも出て来ません。当時「海路」が無かったのは、「海路」で示す事柄がなかったからです。

 「海路」があったとすると、それは、官制の街道であり、海中に道路を設えたように、経路、里数、所要日数が規定されます。所要日数は、国家規定文書通信の所要期間として規定されるので、保証するために、整備、補修の維持義務が課せられるのです。
 所定の宿泊地、宿場の整備も必須です。宿場は文書通信の要諦であり、維持義務が課せられます。道路維持は理解できても、海路維持の説明がないのが不思議ですが、ないものに説明はないのが当然です。

 と言うことで、本書筆者は、本書の商品価値の要であるタイトルの用語選定を誤っているのです。それは、単に字を間違えたのでなく、「海路」と言う概念の時代考証を間違えているので、まことに重大です。

 これに対して、「渡海」は、川を渡るように海の向こう岸まで移動するということです。古来、中原の大河には橋が架かっていないのが常道なので、街道に渡し舟は付きものですが、特に渡河何里、所要何日とは書かないものです。渡海も、普通は、道里、日数を書かないものです。
 また、日程を定めない海上移動は、「浮海」と呼ばれます。

 いずれも海路を行くという概念とは無縁です。
 賑々しく著書を公開するには、十分な下調べが不可欠です。そのような事項を出版社が確認していないのも、不審です。
 出版社編集部は、世間の信用とか、恥さらしとかを怖れていないのでしょうか。勿体ない話です。
                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

第一章 卑弥呼と海人の海は 九州それとも大和?
 この章題は不吉です。馴れ馴れしく問い掛けられても、当時、中国語に、「海路」も「海人」も無いのです。当然、東夷には、言葉がないので、何も無いのです。
 こうした言葉がない以上、当時、海人論は無かったのです。時代錯誤は、「断固」戒めるべきです。
 そして、畿内説にとっては、重ねて不吉です。奈良盆地の大和に、海はないのです。ここで、畿内説論者は、本書をゴミ箱に放り込んでもおかしくないのです。

一.一 私たちの先祖が暮らした古代の海
 冒頭の抱負として、魏志倭人伝解読を課題とし『三世紀の「魏志倭人伝」の倭国や魏の海に漕ぎ出し』と大言を吐きますが、三世紀に倭国の海や魏の海などなかったのは自明ですから比喩が不出来です。特に、曹氏の魏は、内陸国家なので、「海」は圏外だったのです。
 もっとも、そこに他意はないようで、「卑弥呼の国」について考察すると建言しています。

 因みに、著者のご先祖の由来は、読者にはわかりません。当ブログ記事筆者の先祖は、少なくとも、乾いた大地に暮らしていたはずです。得体の知れない筆者に馴れ馴れしく抱き込まれては、大迷惑です。

*定番の水海混同
 第一章冒頭で、既に著者の誤解、誤読が露呈しています。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、
 なる倭人伝記事を引用しますが、著者は、「水」と「海」の違いが理解できないまま、以下、暴走しています。

 中国古典で「水」は淡水河川です。狭義では、河水(黄河)のような大河であり、広い意味では、つまり、「普通」は河川です。「水」で海を指すことは、まずないのです。
 つまり、ここで、水人、水禽と言っているのは、まずは、「自然に」淡水漁人、淡水水鳥と見るべきです。海のものであれば、海人、海禽と言ったかも知れませんが、余り、前例はありません。倭人伝の文脈を斟酌しても、「自然な」読みに、大いに分があると思います。

 また、古代中国語で、「沈没」は、大抵、人が水(河川)で身を半ば沈めて、「泳いで」いるのかどうか、姿がよく見えない状態を言うのであり、潜水とは限らないのです。

 この記事を皮切りに、「水」を、勝手気ままに「海」に読み替えての論考が進んでいますが、第一歩で大きく踏み違えていては、以下のご高説も、話が耳に入らないのです。本書で、度々躓く石ころです。

*余談無用
 ここで、著者は、脇道に逸れて、長々とご託宣を述べますが、これは、新書の体(てい)、字数を成すためにか、あるいは、著者の知識を誇示するためにか、用も無いのに詰め込んだと見え、この手の余談は時間の無駄です。
 丁寧に言い直すと、時も場所も大いに異なる状況での見聞を、三世紀限定の議論に持ち込まれても、何の参考にもならないのです。

 また、著者がしばしば見せる「受け売り」の迷走を見ると、余談の報告者たる著者に信頼はおけないから、検証無しで信用できないのです。要は、ほら吹き常習と見なされるだけです。
 言うまでも無いのですが、書かれている情報源の信頼性検証が、必要です。

 とにかく、場違いで参考にもならない余談は無用に願いたいのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 3/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*トンビの批評
 と言うことで、末尾に飛んで批判を再開します。

*白日夢の展開
一.四 近畿纏向国から難波の海に下る
 言うまでも無いのですが、三世紀時点で「近畿」は無く、時代を問わず、「纏向国」は無いのです。無いものの議論は妄言で無意味です。
 以下、動機不明の引用紹介が受け売りで続いています。「なぜ古都・平城京が舟運の便が悪い内陸にあったのか?」と物ものしく切り出しています。
 無法な問いかけなのは、冒頭抱負から明らかです。ここまで、専ら、三世紀辺りの考察に耽ったのに、急遽、CE701に開闢した平城京談義ですが、時代が四世紀以上ずれて、有効な推定ができないのです。

*纏向幻想に加担
 纏向遺跡を「大規模集落」(どの程度を大規模というか不明)としても、三世紀中頃の仮定では、せいぜい千人規模で、自給自足を旨とすれば、細々とした供給手段でも、生存に要する食料補給はできるでしょう。
 いや、誰だって飢え死にしたくはないから、何とかして自分の食い扶持は稼ぎ出すでしょう。食っていけなければ逃げ出すだけです。

*時代錯誤
 ところが、平城京は、万を遙かに超えるであろう非生産人員が寄り集う「都市」(大きな街の意味)であり、持ち寄りでは物資の供給が不足するのです。戸籍があるから逃亡すると重罪となり、餓死しかねないことになります。時代の相違です。
 もっとも、遠国から物資貢納の仕組み、律令制度があったから、餓死はしなかったようですが、遠国はたまった物ではなかったろうと推察します。
 ここでは、平城京を考察するのですが、提示されるのは三世紀辺りの状勢です。言葉を連ね、河内平野開発も水運も、妄想に近い推定であり、著者が「イメージ」とする絵は、何の根拠も無い単なる画餅ですから、平城京について何も論じていないのです。
 冒頭で課題を提示して、一切、その解明に当たらないというのは詐欺です。

*イメージ談義
 因みに、現代において「イメージ」とは、食品の、調理仕上がり、盛り付け図であって、そのように出来上がる保証はなく、時に、購入者自身で調達する食材まで含まれています。ある意味、無責任な「絵」ですから、本書のような論考書めいた物には、まことに不似合い、それとも、お似合いです。
 因みに、このカタカナ語の由来とも見える「image」も漠然たる「姿形」を指すことが多く、概念図、模式図は、「ピクチャー」と呼び分けています。安直なカタカナ語乱用は、固く戒めたいものです。

 そうでなくても、「イメージ」は、見る人次第で印象が大きく異なるので、論衡の展開は、極力、文字で綴る言葉で進めるべきです。

 「これは、古代の現実の姿を推定したものでなく、著者の考える夢を描いたものである」と責任を持つべきです。無責任を明言するのも、責任の取り方の一つです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 4/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*白日夢の展開 承前
一.五 纏向国から魚買い出し舟が行く
 ここで、遂に著者の白日夢です。
 三輪山麓の纏向から盆地を横断し、大和川下りで魚買い出し舟が数十隻連なって、およそ二十㌔㍍を行ったと言い切りますが、舌の根の乾かぬうちに、下りは五,六時間、上りは、二日かかると、何とも不細工な二枚舌です。

 そのような川下りは、能書き通りに進む日帰りなら、頻繁に往来できるでしょうが、一泊二日以上の長丁場では、下った日は魚を積んだ川港で寝泊まりし、翌朝こぎ出して途次で一眠りし、翌日、昼過ぎにでも、奈良の市に魚を出す「絵」です。二泊三日の食事はどうか、魚は持つか疑問です。
 さらに、大和川筋から奈良盆地東部纏向まで、当然、きつい登り坂であり、手漕ぎで登るのは、大変難航です。と言って、川沿いに大勢動員して、曳き船で登るのも、馬鹿馬鹿しい限りです。小船の積み荷は微々たるものなので、船体の重みが大半です。にを小分けして、背負い込んで登れば、どうということは無いのです。そのあと、空船を漕ぎ登るのでしょうか。水量が乏しく、渇水期が多く、増水期には広範囲に水没する奈良盆地で、奈良盆地で、運河水運など、あり得ない愚行です。
 奈良盆地のような傾斜地に運河開鑿とは画餅も良いところです。運河は、等高線状に開鑿するから、安定して運用できるのです。
 寝ぼけた話は、ご勘弁頂きたい。

 とかく、関係者というか当事者は、遺跡発掘公費投入のために、きれいに手軽に想定図(イメージ)を描きますが、自然法則無視の画餅が多いのです。一種の捏造です。

*無理な鮮魚商売
 買付談義に戻ると、地域の市から、半日程度かけて各家庭に届き、やっと調理できます。こうした迂遠な買付は、日常生活の中で長期に維持できると思えないのです。天候、渇水、氾濫問題などが一切無いとしてもです。そして、肝心なことですが、これは、鮮魚類流通の絵とはなっていません。浜でゆで干しする「干し魚」でしょうか。河内に大々的な干し魚「コンビナート」を作り上げたのでしょうか。
 著者が絵解きしなければ、この画餅は、罪作りな夢想です。

*うつろな夢想
 このように、著者の推論は、大きくうねって、まずは、奈良盆地に古代国家があって、大和川船便で食糧輸送したとの夢幻世界に誘い込んでいます。
 先人考察で、奈良盆地(都市国家)への大和川経路が提案されますが、現実的な実施形態を検証し、安直な受け売りや時代錯誤は避けるべきです。

*大和川幻想あるいは願望
 江戸時代の付け替え以前の大和川は、奈良盆地からの落差を一気に流れ下る早瀬であり、人間業では遡上できません。付け替えでは、下流は一路、天井川になって、等傾斜で西行していますが、往時は、河内平野に突入して扇状地を形成した後、北へ分流していて、とても、漕ぎ船の主力経路とならなかったと思います。
 後年、山間からの水流が安定したので多少は水運に供したようですが、それでも、物流の大勢は、早々に陸揚げして陸上輸送したとみられます。
 大和川は、山間を抜ける渓流部の流れ沿いに人夫が曳き回る道はないように見受けます。と言って、曳き船で補助するのも、無理と見えます。そこまでして、船体を担ぎ上げる意義も無いのです。

*曳き船の不合理
 現実に戻ると、河内平野の荷は、二上山竹ノ内峠越えのつづら折れの道を、重荷を背負った多数の者達が往き来したと思われます。大和川沿いの経路は、険阻で不安定で、常用されたかどうか不明なのです。
 一方、奈良盆地北部は、淀川木津川経由で木津の川港に荷下ろしてから、背の低い奈良山越えで到達できます。

 纏向は、創業できても守成できないので、大和川川船横行は、願望の幻像です。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 5/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*淀川実相~余談
 古来、河内湾からの物流の主流は、水甕琵琶湖を上流に持ち、調整池もあって、水量が安定して豊富で、概して緩やかな淀川水系経由と思われます。
 ただし、琵琶湖に向かう瀬田川は、水量は安定していても、渓谷の急流であり、また、当時、現在の京都市市域には河川交通に適した水流が無かったため、物資の主流は南に折れて、今日の木津付近まで運ばれ、そこから奈良山越えで、比較的大きな消費地、奈良盆地に運び込まれたものと思います。

 総じて見るに、素人考えでは、淀川水系は流域の農地開発も早くから進んでいたようなので、曳き船に動員できる農民に不足はなかったろうし、農民にしてみれば、本業以外の格好の副収入ですから、いそいそと参じたものと思います。いわば、持続可能な体制だったのです。

 著者の性癖に倣い、現代用語を持ち込むと、淀川が「ブロードバンド」、大和川は「ナローバンド」と思います。並行しても交通量に大差があったのです。古代史には定量的な評価がないので、一石を投じたつもりです。倭人伝に倣うと、大和川は「禽鹿径」であり、道ではなかったのです。

*木津談義~余談
 当時の淀川水系物流終着点だった木津には、往時の繁栄を示すように丘上に銅鏡王墳墓が築かれ、川畔に最古と思われる恵比寿神社があります。
 平城京では、物流の乏しさに呆れた聖武天皇が、河内平野の難波京と木津付近の恭仁京に遷都を企てたという挿話からも、平城京の貧しさが偲ばれ、平城京の豊かさを願って、故郷を捨てた旧都の貧しさも知れるのです。いや、以上は、素人の勝手な意見てあります。 

*ロマンの氾濫
 本書の批判に戻ると、この辺り、著者は、止めどないロマンの世界に溺れているようですが、それらの世界は、著者だけしかうかがい知ることのできない、著者の脳内に存在している幻宇宙であって、現実世界とのつながりが示されていないから、学術的な論考と主張するのは、断じて無理なのです。
 特に、史料引用などで、粗忽と言いたいぼろを頻発するのは、自身のロマンに溺れて現実世界が見えないためでしょう。もったいない話です。

*第一章総括 どんでん返しのカラクリ
 第一章の問題点を総括すると、一見、奈良平野に古代国家があって半島、大陸と交流があったと論じている論考と見えますが、著者の暴走に付いてきた読者を、最後に否定的判断に放りだして、どんでん返しです。

 いわゆる「近畿説」の読者は、ここまで自説の裏付けと思っていたとしたら、読者をだましていて、最後にペロリと舌を出した体です。財布から金を出した読者に非礼です。

 以下の論議も、うわべのもので、真意は逆なのではないかと思わせる、不吉な出だしです。文章作法のイロハに反しているように思います。雑誌募集の懸賞論文でも、ここまで論文として杜撰であると普通は許されないのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 6/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*無かった海の道
 飛ばした部分から見ると、著者は、日本海沿岸の「海の道」という概念に惚れこんでいるようです。ここで示された現地確認の努力が、大和川水運説に対して堅実に費やされていたら、ここで素人に突っ込まれることはなかったはずです。
 著者は、「大船団長距離航海」というロマンに浸っていますが、まさか、山中から切り出した丸太舟ではないでしょうから、どんな材木をどんな大工道具で製材加工して、航海に耐える船体に仕上げたか、帆船にするとして、帆布はどうやって調達したのか、船員をどうやって集めたのか。「イメージ」の壮麗さに酔っていては、書き割り以外のものにはできないのです。
 実務としては、道中の食料と水の補給をどうしたのでしょうか。寄港地に、人員を配置していたのでしょうか。ここまでに説明はないのです。「海路」と言えるためには、確実に到着できる保証が必要なのです。倭国使節が魏都洛陽まで航行と陶酔しますが、確たる根拠があるのでしょうか。
 朝鮮半島の産鉄に誤解があるようです。鉄鋌が「銭」として使われたというのは、機能をいい、大小などを言うのではないのです。鉄銭は、古来希です。

*無かったコンビナート
 第四章も、冒頭に時代錯誤のロマンが提示されておおぼらです。英語やロシア語由来カタカナ語を連発しないと著者ロマンは書けないとしたら、古代に、そうした概念はないので、ほら話としか言いようがないのです。
 例えば、「コンビナート」(ロシア語:комбинат,ラテン文字転写:kombinat)を「工場群」と言い放っていますが、古代に「工場」などはなかったのです。
 コンビナートは、本来、ソ連のシベリア開発で、離れた鉄鉱山と石炭鉱山を鉄道で連結し、行きは、石炭を乗せ、帰りは、鉄鉱石を乗せて貨車往復輸送によって、資源産地双方に工業化の道を開いたことを言います。つまり、単に複数分野の工場が連携したものを言うのでは無いのです。
 無人の荒野に産業拠点を新設するソ連シベリア開発に独特な課題に併せた革新的な解決策を造語したのであり、同様の課題が存在しないところに同様の解決策は無いから、他国に本来の「コンビナート」は、ほとんど存在しないと思います。心ある著者なら、誤用されたカタカナ語は避けるべきです。

 この「コンビ」は、その名の通り、遠隔地の二業種限定の「コンビ」を言うのですから、氏は、現実離れした幻想を書き殴ります。
 いや、この機微を承知で、だらだらと言い崩しているのでしょうか。

 現実の丹後半島地域も、町おこしどころか、著者のおおぼらの「サカナ」にされて、世間の嘲笑を浴びては不本意でしょう。

 立て続けに、とんでもない前置きでは、以下を読み通すのは、途方もない苦痛です。当方の忍耐の限界が来てしまいました。

*荷物の山越え~できる方法
 荷物山越えを考察します。まず、海船の河川遡上は無謀なので、小振りで底が浅い河川航行用の船に積み替えます。
 川幅が狭まって通行不能になればさらに小振りの船に積み替えます。それでも通行不能になれば背負子に載せ替えたのです。それぞれの船腹は、次便に備えて温存待機です。
 峠を越えたら小舟の船着き場まで下り、以下、順次積み替えていくのです。局面、局面に適した手段で荷送りすれば、無理なく山越えできるのです。
 「荷船」の山越えは、船体が途方もない重荷の上に、引きずり移動で船体の痛みが激しく、長続きしないのです。そもそも、山向こうには山向こうの手立てがあるので、無理して船体を運ぶ必要など、全くないのです。
 この理屈は、大和川の山越えでも同様です。
 奈良盆地に、小船の荷船が運用されていたら、下流から川船を持ち越す必要は、全く無いのです。そして、奈良盆地に、荷船が、一切運用できていなかったら、川船を持ち越しても、何の意味も無いのです。古代人が、無駄な労苦に取り組んでいたと考えるのは、余り、古代人を見損なっていることになります。
                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 7/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*終幕
 おわかりのように、当書評は、著者がロマンを抱いていることやそのロマンの内容についてとやかく言っているのではないのです。
 堂々と自著を市場に展開するからには、後私心の夢想を現実と付き合わせて、筋の通った説明を付けるべきではないかと言っているのです。

 他方、ファンタジーなら、ファンタジー、フィクションならフィクションと明記すべきです。もっとも、ファンタジーもフィクションも、現実世界との接点は考証が必要です。空想世界でも、自然法則は、通用するので、重量物が重力や水流に逆らって、勝手に急流を遡上するとこはありません。

*誤解、誤記の塊
 80ページ末尾から、「魏の曹操は船を使って戦う常勝将軍であったが二〇八年、長江中流域の蜀の諸葛孔明と呉の孫権の連合軍にその船団を焼き討ちされ敗れるという不覚をとった」と誤解、誤記の塊です。
 「魏の曹操」と言いますが、二〇八年(CE208)時点は無論、曹操は、終生後漢の臣下で、在世中は、魏なる国は存在しないのです。
 「常勝将軍」と言いますが、曹操ほど度々大敗を喫した将軍は少ないはずです。負けの数で劉備に勝てないとしても、当代有数の負け馬と言えます。
 「」は渡河に必須ですから一切不使用と言えませんが、正史三国志で、曹操はほぼ陸戦であり、船戦は皆無に近いのです。(まぼろしの赤壁は別として
 もちろん、時に応じて、兵糧の輸送に船を使ったことはむしろ当然と言えます。兵員、馬匹の移動に水運を使ったとも思われますが、特筆されていない以上、些細な事項と見られているものと思います。それが史書です。

 「長江中流域の蜀の諸葛孔明」というのは、論考の一部としてグズグズに型崩れしています。
 「諸葛亮」は、一時、長江中流の荊州辺りにいましたが、そこは、蜀などではないのです。
 国としての「蜀」(蜀漢)は、長江上流に劉備が建国したのですが、正確に、漢と号したのです。蜀は、長江上流の成都付近の地域名です。
 言うまでもありませんが、蜀の君主は、劉備とその嫡子であって、諸葛亮は、宰相です。孔明は、本名でないあざなで、曹操、孫権と並べるのは、一段と無様です

 孫権の当時の支配領域は、古来、呉と言われていましたが、別に、当時呉国皇帝だったわけではないのです。寄留していた荊州を逃れて根拠地を持たない流亡の劉備軍団の無名の軍師と同盟する小身ではなかったから、ここで並記するのは見当違いです。そうではないでしょうか。それが史書です。

 「その船団」と言いますが、曹操が率いたという船団は、曹操の私兵でも後漢朝の官兵でもなく、大半が降伏した荊州船団に過ぎないから、戦いが不首尾でも、曹操船団が「敗れた」わけではないのです。それが史書です。(漢水上流で、新造船を命じたと言いますが、急拵えの船腹に訓練されていない兵を乗せても、戦力にはならないのです)

 後漢の最高権力者である曹操ですから、戦ったとしたら、当然勅命のある敵に勝つべくして戦ったのでしょうが、帰還後、皇帝から違勅、敗戦の責任をとらされたわけではないから、曹操は、この時は、不覚はとっていないのでしょう。

 三国志魏志で、曹操は、地域を歴訪する傍ら孫権に示威行為を示しただけで、疫病多発の瘴癘の地を忌避して帰還し、別に戦ってないのです。

 以上、随分、うろ覚えでいい加減なことを言い散らしていて、僅かに残っていた信用を損ねています。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 8/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*終幕の続き
 次に、何の繋がりもなく、とんでもないことが、書かれています。
 倭国使節団は、長江で大敗した荊州水軍の船を渤海湾などで見たという趣旨を述べています。
 河川船団を、三十年かけて回航したといいたいのでしょうか。何の幻を見たのでしょうか。
 荊州船団の生き残りを転進させたとして、孫権麾下の水軍支配下の長江中下流域をどうやって擦り抜けたのか不審です。

 そんな無茶をしなくても、皇帝が指示しただけで、帯方郡最寄りの青州で、易々と保証付き海洋船を多数造船できるのに、海船としての運航に耐えるかどうか不明の三十年前の川船を、延々と回航する意味がわからないのです。
 ホラ話として、誰も感心しないのです。

*倭人伝談義
 92ページで、魏志倭人伝に「倭国大乱」が書かれているかのような妄言が書かれていますが、倭人伝には、「乱」れたと書いているだけであり、「大乱」と書いたのは後漢書です。

 「邪馬台国が書かれたのは倭人伝だけ」というのは妄言です。
 「邪馬台国」は、後漢書初出が起源で後世史書、類書に引用されています。
 現存三国志に「邪馬台国」はなくて、書かれているのは「邪馬壹国」であるというのが客観的事実であり、これを、論拠を示して否定する論議は見られないのです。

 史書記事を誤記と主張するなら、主張者に立証責任があるというのが、学問上の常識ですが、著者は、ここでも無頓着で、出所不明の誤断を受け売りしていて、この不注意も、見過ごせないのです。
 以上のように、著者の文献依拠のあり方は、誤断と受け売りの混在です。

 不正確な史料引用は、不正確な情報源のせいですが、容易に原典を確認できることが多いから、著作の際に検証するのが当然と考えます。

 一方、書紀の史書としての信頼性は低いと賢明な判断を示していながら、ここで例示していないものの、随所で、検証せずに安易に受け売りしているのには同意できないのです。

*軽率な余言
 注意をそらす余言癖も健在であり、斉明天皇は、二百隻の船を率いて奈良を出たことになっていますが、時代違いとは言え「奈良に海はない」ことは衆知です。別に高度な思索を要しない言い間違いです。まして、二百隻の新造船が可能だったという証拠は示されていません。「画餅」と言うものの、二百隻の海船の絵を描くことすら、容易ではありません。まして、二百隻に乗船して波濤を越えるに耐える船員は、画に描くことはできません。
 それ以上は、当否の範囲外なので、追究しないのです。

*信頼性の欠如
 本書は、近来見受けるように、出版社として出版物を無条件に近い篤さで信頼されるべきものが、出荷検査無しに、瑕疵満載、傷だらけで上梓したものです。

 権威のない一私人には、買ってはいけないなどと言う資格はありませんが、商用出版物に必須の校正の労が執られていない無責任な書籍であり、真剣に読むべきものでないと言わざるを得ないのです。ここまで、我慢して丁寧に批判しましたが、余の部分は推して知るべしです。

 折角の著書ですから、後世に恥を遺さないように、明白な欠点は是正し、改訂すべきであると思います。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 9/9 最終改訂

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★★☆☆☆      2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20

*蛇足 半島迂回の夢
 それにしても、著者の乱調ぶりは、禍福ない交ぜているようです。つまり、図4-2(77ページ)ですがこれは、自身で懸命に描いたものですから、細部に至るまで責任を持つものであり、「イメージ」と逃げられないのですが、この地図に、著者の主張の矛盾が顕在化しているのです。

*不可能な無寄港航海
 自身で、当時の船舶航行では、二十から三十㌔㍍が一日の限界としています。
 私見では、甲板、船室無しの吹きさらしでは、好天でも夜間航行できず、夜明けに出港、午後早々に入港、食料と水を補給し、乗員を休養させるのでしょう。漕ぎ船で、漕ぎ手を常人とすると、相当丁寧な休養が必要でしょう。当ブログの別記事で、寄港地毎に漕ぎ手と船を替える乗り継ぎが常識と書いていますが、筆者は、超人揃いの連漕を想定しているようです。

 それにしても、ここには、朝鮮半島西南部の多島海を大きく迂回して無寄港で進む「画」を描いているのです。この間、一五〇㌔㍍程度を無寄港とした理由は見て取れないのです。極限の画餅症候群とでも言うのでしょうか。

 おそらく、氏の良心から、このような多島海を、連漕しつつ、時に応じて、寄港する画が描けなかったのなら、そのように明言すべきかと思うのです。
 いや、それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうが、それはそれで明言が必要では無いでしょうか。

 何とも、著者への信頼性を損なう愚策と思うのです。

*半島内陸行の示唆か
 と言うことで、氏の見識を信じると、半島西南部の航行は、頑張ってやり遂げるべき困難などでは無く、全く「不可能」であり、従って、倭国使節は半島内陸行したとみられるのです。
 その際、洛東江を上下したか陸行かは、この場での論議の対象外です。
 いかに優れたと感じた着想でも、論証できない場合は、証拠不十分として撤回しなければならないのです。

*書き残した提言
 幸い、著者は、不都合な証拠を覆い隠すような姑息な感性の持ち主では無いのですが、これほど自明な事実に目を向けないのは、もったいないと思うのです。因みに、史書で当然とされている山東半島と遼東、ないしは、帯方郡との渡海往来は、何故か、慎重にも明言していません。

 それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうか。

◯まとめに代えて
 是非、改訂版では、自身の所説の限界に直面し、可能であれば、堂々と、本稿を論破して欲しいものです。

                              以上

2021年7月19日 (月)

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 1/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*NHK番組案内
[BSプレミアム] 2021年07月18日 午前11:58 ~ 午後1:57 (119分) (参考:NHKオンデマンドで配信中)

 私たちの遠い先祖たちは、何を考え、どう生きたのか?縄文・弥生・古墳、3つの時代をめぐり、最新の発掘や研究成果から“古代人のこころ”に迫る2時間スペシャル!
 出演者ほか 【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】松木武彦,荒俣宏,いとうせいこう,中野信子,【語り】松重豊

 詳細:個性的でミステリアスな姿が大人気の「土偶」。その顔の表現の変遷から縄文人のどんな心理が読み取れるのか?弥生時代の「テクノポリス」と驚きの「海洋経済ネットワーク」とは?カラフルな幾何学模様で埋め尽くされた「装飾古墳」には、人々のどんな心情が投影されているのか?縄文・弥生・古墳、3つの時代をディープに掘り下げ、現代の日本人にもつながる”古代のこころ”を探求。ロマンあふれる古代史の魅力をひもときます!


⚪初めに
 「古代人のココロ」を探る番組の新版である。「縄文・弥生・古墳」と列記されているが、一括して論じられないし、並記比較できるものでない。「最新の発掘や研究成果」は、検証不明であり、NHKの勝手な報道とも見える。

 貴重な受信料を投入して大騒ぎしているのは、何とも勿体ないことである。

 再放送を通し見の批判で、練れけていないので、先行番組の批判記事と食い違ったらご勘弁頂きたい。

⚪通し批判
1.「縄文時代」
 まずは、縄文人の心に迫った構成である。何しろ、一万二千年にわたるらしいが、文字記録が皆無なので、憶測、推測に頼るしかない。

 当世人のこころと縄文人のこころは、明らかに、大いに異なっているという見通しを立てたはずだが、文化の刷り込みの違う異邦人まで交えて、縄文遺物の見てくれに対する感想を求めて、科学的論議としているのは不審である。

 追いかけて、磯田氏が、縄文土器の造りは、求めているもの(コンセプト)が、現代人の求めるコンセプトに通じないと主張して毒消しのようである。

2.「弥生時代」
 続いて、弥生人であるが、特徴として木製遺物の出土を言うが、縄文時代の木製遺物の出土有無がわからないので、比較になっていないように思う。

 稲作が大陸から渡来したというが、水田稲作は、地域ぐるみの共同作業であり、稲作技術を備えた集団が、各戸で必要な農機具や物差などの補助具、稲作開始に必要な稲もみなど一財産を携えて大挙渡来したことになるのである。

 当然、原住の縄文人を押しのけたと見える。互いに言葉が異なるから、土地を譲り合うことは、困難と思われる。つまり、紛争が想定されるのである。

 番組では、水田稲作集団は、技術者集団を伴ったと言うが、それなら、中国の小国中核部が、父祖の墳墓を棄ての移住と見えるが、考えにくい。

*「奴国」~「テクノポリス」幻想
 それにしても、仮想された「奴国」は、時代を超絶する技術を持っていたことになる。それほど隔絶した大国が、なぜ。歴史の中に消えたか、よくわからない。後漢初期に認知されたなら、魏代にも、後継王朝かどうか確認したはずである。説明がないということは、倭人伝の「従郡至倭」の目的地かと思われる。

 番組では、原住の縄文人が、渡来技術を使いこなしたとしているが、言葉を知らず、数を数えられない縄文人が学ぶのに数世代を要するはずである。
                                未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 2/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*人工技術の幻妄
 磯田氏は、「不自然」な人工技術の新規性を賛美するが、先ほどまで縄文原住の者のココロを讃えていたのが急転直下で、人のココロは「豹変」と言いたいのか。

*カタカナ言葉の幻妄
 番組は、挙って生煮えのカタカナ語で新技術を褒め称えるが、当時、そのような言葉の価値観はなかったから、諸氏の内面の「幻想」に過ぎない。
 磯田氏は、しきりに、世界観、価値観の突出を語るが、もし、誰かがそのような意識変革をしても、伝わるのは至近距離に過ぎないのを忘れてはならない。
 当時は、この番組はないから、語られている世界観は、知りようがなかったのである。ここにあるのは、同時代に存在しない別世界の言葉である。

*墳丘墓談義の序奏
 歴博杉本氏は、弥生墳墓は、高い盛り土と決めているが、倭人伝記事では、封土に過ぎない。高塚は、堅固に石積みしないと、成立しないのである。

 氏の専門分野らしく滔々としているが、素人向きに言葉を改め誰でもわかるようにして欲しいのである。格闘技ではないのでキメ技名乗りは必要無い。

*硯新規発見
 そこに、文字利用の萌芽が、硯の出土によって裏付けられたという。しかし、従来発掘で、硯が出土していなかったとは、確信できないのではないか。

 先に描かれた技術者集団は、いかにして高度技術を伝承し、加工方法、加工手順を普及させたのだろうか。口伝だけだったというのだろうか。

 そのような高度な技術で、生産量を増やした稲作を、周辺に広げる際に、どのようにして、高度で握雑な新規が普及できたのだろうか。

*「ネットワーク」時代錯誤の怪
 中国銅銭出土を根拠に玄界灘を中核とする船舶「ネットワーク」なるカタカナ語を押しつけてくるが、勘違いに過ぎない。海村は近隣海村と交流したまでで、乗り継いで遠隔の海村と連携したとは見えない。文書通信も高速大量輸送も無い時代に、カタカナ語を塗りつけた幻想戦術は畏るべきである。

*文書行政・貨幣経済の輸入
 磯田氏は、海村の民が、中国統治システムを帯方郡で学んだというが思い込みに過ぎない。郡からは通貨を学んだのではないか。等価物々交換に銅銭なる指標を取り込み、市場相場に応じた市糴、古代の市場経済というものである。

 そして、多数の留学生を派遣したり、先進国の高官を招請したりして、初めて、高度な文書行政国家が創設できたのは、歴史の示すところである。

3.「古墳時代」
 ここまで、九州北部、玄界灘の視野であったのが、突如、纏向箸墓を端緒とする百舌・古市古墳群に大きく飛躍するのが、当番組の離れわざであるが、今回は、なぜか関東が皮切りである。父祖の墓地を、近郊に設けて命日に偲ぶのが日本人のこころのはずだが、関東古墳葬礼を描く。地域支配者の務めは、各集落への水分(みずわけ)であったと示している。整合しているのか不明。

*「馬」の導入~偉大な改革、謎の連発
 「関東」の支配者は、いち早く「馬」を採り入れて、地域の権力を支配し、ヤマトと交易したとの見解である。馬の繁殖と訓練には、先進地域から多くの技術者と成馬の導入が先決であるから、その由来は謎である。歴史上実現されたのは間違いないから、その歴史が残されていないのを悼むだけである。
                                未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 「古代人のこころを発掘せよ!!」 3/3

私の見立て ★★☆☆☆ 「フェイク」蔓延の予兆 2021/07/19

*関東の独立性
 当時、ヤマトは、関東を権力支配していなかったとは。素直な考証である。
 ヤマトが、墳丘墓を構築する技術者を、関東に派遣したとしたら、精々、工事請負だったということのようである。関東は、例えば、鹿島神宮の影響力で、会津方面に進出していたから、その技術が伝播したかも知れない。
 往き来するのに一年以上かかるヤマトが、例えば、関東の北の会津に影響力を及ぼせるものではないのであるから、当然の推定である。

*神がかりの高上がり
 そこで、突然神がかりの発言があって、「突出して高いもの、大きなものは、人々の理性を麻痺させた」と称しているが、根拠も意義も不明である。
 古来、奈良桜井の三輪山は、親愛と尊敬を受けていたはずである。麓に小山を築いて尊崇の念を奪王としたと言うが、賛歌を献げる歌人は出たろうか。
 荒俣氏は、「遠近法」に基づく錯覚を提案しているが、現代人の妄想を当時の人たちは知らなかったから、趣旨が不明なのである。

*史実の取り違え
 因みに、磯田氏は、ニューヨークの自由の女神を、アメリカのモニュメントとしたが、実は、仇敵イングランド王国から果敢に独立する努力を支援したフランス共和国が、両国の盟約を記念した贈り物である。場違いである。

*虚空のモニュメント
 松木氏は、墳丘墓を媒体(medium)にヤマトのココロを全国に発信したように言うが、各地が同調し共感しなければ「送りっ放し」で何も伝わらない。せめて、武装伝道師を派遣して、手足と汗で稼ぐものではないか。
 それにしても、莫大な労力と物資の投入を、口答指示で伝えたというのは、まるで呪術である。いや、ここだけの話ではないが。

*横穴式石室の革新性~中国史料に記載なし
 横穴式石室の工法革新を掘り下げていないが、墳丘墓造成方法変革は、技術確立に要する試行錯誤を思うと、いずれか、先進地で確立された技術を身につけた技術者集団が渡来したと見るべきである。番組では無視されたが、横穴工法は、平地に墓室構築して石詰み盛り土で埋設した合理的工法と見える。

 墳丘頂上まで機材を持ち上げて掘り下げ埋設する素朴な技術とは雲泥である。そもそも、頂上は風雨や地震被害を受けやすく耐久性に疑問がある。

 後世の石舞台を見ても、巨石墓室に盛り土したのは明らかで、何れかの時点で、設計思想が「進化」し旧弊は淘汰されたと思うのである。

*墓誌の無い貴人墓の怪
 墳丘墓は大陸由来と言うが、貴人の事績を墓誌に残していないのが不審である。曹魏では、薄葬により、墳丘を廃したが墓誌は必須である。なぜ、「日本」は、葬礼の必須事項を学ばなかったのだろうか。

 他の番組では、文書考証に弱いことを露呈した松本氏であるが、先行と思える遺跡考古学で、学識を出し惜しみしているように見えるのである。

*先入観の無い解説を求む
 結論を言うと、古代人とココロが通じている気がするのは、現代人の先入観で遺物、遺跡をこね回しているからであり、出席者は、一連の古代史番組を通じて何も学んでいないし、何も視聴者にもたらしていない気がする。

 それにしても、ここにしばしば展開されたような、現代人視点に汚染された歴史観は、後世に伝えたくないものである。

                                以上

2021年7月17日 (土)

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み 改 1/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
□お断り
 当記事は「倭人伝」の道里記事(道里条)を理解するための手掛かりとして、国別記事を「対馬条」などと見なしたので、条が小分けの階層です。

□倭人伝「道里条」(仮称) 考察
 郡から「倭王之所」に至る行程道里の里数と所要日数を書いた記事は、条仕立てと見ました。国別記事は、位置、官名、戸数を旨としています。

 最初の三条は通過点、四条目「伊都条」は、倭の要地(扇の要(かなめ))伊都を発して傍路国への脇道を示す道標記事と当該国の官名、道里が列記され、さらに、目的地「倭王之所」に着いて、所要日数と全国戸数を確認し、小国列記の後、「自郡至女王國萬二千餘里」で完了です。

 なお、⑷伊都条の小分け記事である①奴国条、②不弥条、③投馬条の三項は、さらなる小分けのように書いてみました。

 因みに、「道里」は古来、地点間の道のりを「里」(道里)と明示したものです。辺境で道のりが計測できない場合、所要期間を示したものと見ます。まことに、合理的な、土地事情に応じた制度運用と思います。

 ということで、目下焦点を当てている「道里」条を、とかく誤解の生じる概念図(イメージ!?)でなく、純然たる文章形式で示したものです。倭人伝記事の編集過程では、こうした記事構成の推敲を重ねに重ねた苦心の構成と想定されます。

〇道里条 特製版 (紹熙本原文に無い条名、改行、箇条記号を追加)
 從郡至倭 循海岸水行
 歷韓國乍南乍東
 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

⑴対馬条(對海国)
 始度一海千餘里 至對海國
 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
 所居絕島 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
 有千餘戶
 無良田 食海物自活 乖船南北巿糴

⑵壱岐条(一大国)
 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
 官亦曰卑狗副曰卑奴母離
 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
 差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴

⑶末羅条(末羅国
 又渡一海 千餘里 至末盧國
 有四千餘戶
 濵山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉沒取之

⑷伊都条(伊都国)
 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戶
 世有王 皆統屬女王 國郡使往來常所駐
 以下三項目は、条の態を成さない、はしたの挿入句です。
  ①東南至奴國  百里 官曰兕馬觚副曰卑奴母離 有二萬餘戶 (奴小条)
  ②東行至不彌國 百里 官曰多模副曰卑奴母離 有千餘家  (不弥小条)
  ③南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戶(投馬小条)

⑸南至  (邪馬壹国とあると、ご不快の方もあるでしょうから、配慮しました)

 南至邪馬壹國女王之所   (「都」を次行に移動)
  邪馬壹国は、国邑、つまり、「王之所」、居所、居城を隔壁で囲む聚落です。国も邑も、古代中原用語です。
  (一千家程度にとどまる小振りの国邑です)
  中原で国邑は土や石の城壁で囲まれていますが、邪馬壹国は、中州の島、洲島ではないので海でないとしても、環濠や城柵で囲まれています。

 都水行十日陸行一月
  「都」は、ここでは、全て、と言う意味であって、「みやこ」と云う意味でもないし、「まち」と言う意味でもないのです。
  つまり、郡からの所要日数を明記しています。
  倭は、蛮夷の国であるので、都(みやこ)は存在しない。正史の書法です。

  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮
  可七萬餘戶 (小国列記を省略)

⑹道里総括 
 自郡至女王國萬二千餘里
 「都水行十日陸行一月」、つまり、行程日数四十日に対応する、郡から倭に至る「全体道里」ですが、実際の道里に基づいたものでないのは、明らかでしょう。
 ともあれ、行程の千里単位で書かれた「主要道里」は、この総計道里に辻褄を合わせたものです。百里単位の端(はした)は、対象外です。

                              未完

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み 改 2/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
〇諸国銘々伝
⑴対馬条考~原文解釈の試み
 さて、対馬条「無良田」について軽重様々の誤解がはびこっています。
 良田を良い「水田」と解するのは可愛い方です。中国語の「田」、水田、畠を含んだ農地との意味は明白ですが、わざわざ「良田」無しと言う意味が捉えられていない気がします。
 現代感覚で言うと、痩せた農地で収穫不足、食べるに事欠いています、という声に聞こえますが、書かれた時代と場を考えないといけません。
 これは、対馬領主が、免税を願っているのです。農地はあっても、租税を納める収穫がないから、「良田」として報告できないと言い訳しているのです。
 一畝(ほ 百平米程度)を面積単位として基準収穫量を決め込まれ、その例えば半分を国が取り立てるとすると、収量が少ない耕作者の取り分がなくなって困窮するから、「無良田」と書いたのです。
 「禽鹿径 」を「けものみち」と「現代語訳」するのは、時代錯誤を招く安直な「誤訳」です。道でも路でもないのは、車の轍も、馬や牛の蹄鉄の後もなく、起伏をつづら折れで緩和していないことを言うのです。
 乗り換え、積み替えでしょう。「径」とは、「道」でも「路」でも無い「抜け道」のことなのですが、恐らく峠越えのごく短い乗り継ぎ径(みち)、峠越えの抜け道を「禽鹿の径」 と言うのでしょう。
 つまり、それ以外では、日常の市糴の荷運びがあるので、そこそこ整備されていましたが、当たり前のことは書く必要がないので、省略しているだけです。

*免税の里
 魏朝公文書である倭人伝対馬条に、特に「無良田」と書かれたということは、対馬は魏朝に(永代)免税を認められたということです。
 俗説のように、常々食うに事欠いていると解すると、対馬は、食糧難によって低迷していたことになりますが、そうでしょうか

*市糴考~壱岐、対馬の繁栄
 対馬条に、対馬の南北市糴が明記されたのは、対馬が自ら海船を造り、漕ぎ手を養い、壱岐、狗邪(韓国)との間にそれぞれ、定期便を往復させ、海港に倉庫を設け、定期的に市を開いていたのを、簡潔に記録したものです。
 こうした市糴から得られる食料は潤沢で饑餓はありません。中原制度にない商業活動による収入で、対馬はむしろ繁栄していたと見られるのです。
 倭の一員ではない狗邪韓国でも、港の倉庫と海市は、対馬官員が仕切ったはずで、これも、とても饑餓地獄の者のできることではありません。

⑵壱岐条考
 ここで、(土地)多竹木叢林と書いているのは、別に街道が叢林に埋もれていたというわけでは無く、宿から見ると、小高い丘に竹木叢林が繁茂していたと言うだけです。洛陽付近で見られない景観なので特筆しています。帯方郡からの道中も、半島の産地が多かったので、竹木叢林繁茂ではなく物珍しかったのです。

 街道が、対馬条にあるような峠越えの抜け道「禽鹿の径」かどうか明記していませんが、一大国内は、さほど、険阻な道でなく、日常の市糴の荷運びがあるので、そこそこ整備されていましたが、当たり前のことは書く必要がないので、省略しているだけです。いや、荷物搬送にわざわざ、山道を行くはずはないのです。 

*南北市糴送り継ぎ
 末羅国以降、市糴を書かないのは、当然だから、特記していないだけです。言うまでもなく、対馬だけで南北市糴できるわけはなく、港ごとに送り継いで海峡を越える市糴を各国一丸となって維持していたのです。

 また、一大国は、南北以外にも、東西に市糴していたはずです。よく言う日本海岸交易は、一大国(実名は、「天国」(あまくに)か)に発していたでしょうが、漕ぎ船では、一貫運用は不可能、無茶であり、あくまで、港々の送り継ぎだったのです。

*一大国方里の意義(對海国も同様)
 この場での論証は略しますが、一大国「方三百里」は、農地面積であり、三百「平方里」程度、ほぼ十七里角であり、住民が三千許家でも、農地閑散で貧困なのは記事の基調と符合しています。 (「九章算術」準拠)

 東夷伝高句麗、韓の「方数千里」は、両国の国土全面積(測量不可能)を表示したものではなく、農地面積の申告であるように、両島の「方数百里」は、両島の面積(測量不可能)を表示したものではなく、農地面積の申告なのです。

 いや、ご不満の方もあるでしょうが、道里なら、道里で表示したはずであり、表記が違うのは、単位系、次元が異なるためと考えます。

                              未完

倭人伝随想 「道里条」(仮)による道里記事解読の試み  改 3/3

                    2019/09/20 改訂 2021/01/15 2021/07/17
⑶末羅条考
 「濵山海居 草木茂盛 行不見前人」と字数を費やしているのは、海岸近くと内陸の様子が異なっていたということでしょう。

 まずは、海に近いところまで小屋があって驚いたのでしょう。玄界灘は、干満が激しく、また、風濤が押し寄せるので、海から遠いところに住まいそうですが、漁民は、結構海辺に舟小屋を建てたようです。中原はもとより、郡管内でも、このような光景は見かけなかったのでしょう。
 といって、末羅国は四千戸あり、耕作地を与えられた「戸」は、収穫物貢納の義務があったので、本拠は内陸にあって、半農半漁だったようです。
 ここでも、草木繁茂が見て取れます、労役動員の街道整備で切っても切っても生えるので、冬季以外は、草に埋もれかけていたのでしょう。

*沈没談義
 「沉沒取之」は、魏使にそう見えただけで、別に、素潜りで海底まで潜っていたわけでは無いはずです。中原で「沈」は、胸あたりまで「みず」にはいって、恐らく、脚をかいて進むか、バタ足で泳ぐだけで、潜水したとは限らないのです。誤訳、誤解の可能性濃厚です。

 中原に河川はあっても、さほど漁業は行われず、潜水漁業は皆無と見えるのです。少なくとも、魏使のような士人は、農林水産業のような一次産業に汗かきして手を汚すことはないので、正確な観察かどうか怪しいのです。
 多分、「金槌」だったでしょうから、水(みず)には、一切近づかないようにしていて、行程の渡海では、船酔いでのびていなければ、船の揺れの止まらない旅に震え上がっていたものと思われます。

 いや、いくら、地元の漁民でも、ゴーグルも何も無しに、潜水して、海底のアワビの採取などできなかったのではないでしょうか。恐らく、浅瀬で漁業に勤しんでいたのでしょう。
 産物の干し魚を広く売るには、煮干しが必要で、家族総出で、はらわたを取って、湯で加熱した後、天日乾燥で干物造りに励んだことでしょう。

⑷伊都条考
 伊都国には、以上のような風俗記事はありません。倭を代表する権威を持ち、街道、宿駅は、ちゃんと整備されていて苦言は無かったのです。

 戸数一千戸ですが、これは、さほど農地はなく、従って、「人口」は多くても、耕作している農民は少なかったということです。国の運用を担う官人が多くても、一種公務員待遇であり、課税されず、兵役、労役も免除されけていたものと見えます。それが戸数の意義です。
 何しろ、中国風の環濠などで囲まれた国邑であれば、一千戸単位の国しか考えられないのです。

 伊都は、韓国と文書交信していましたが、伊都に届けば倭に届いたと見ていたことがわかります。以後、伊都から女王之所までの送達に時日がかかっても所要日程に数えないし、その間の道里はあげないのです。
 いや、千里単位の概算計算に、百里や二百里は、はしたに過ぎないし、四十日の日程で、一日やそこらは、想定済みなのです。洛陽の皇帝にも、下読みする鴻臚にも、東夷の細々した辻褄合わせなどに関心はないのです。

〇各国条の意義
 以上の考察から道里条の主旨が一貫していると見るのです。それとも、特に主旨無しに書かれたのでしょうか。一度考えてみてください。

▢余談ー暴言の人弾劾
 古代史学界には、頭のネジが外れた大家がいるようで、『対馬は「人身売買」で食料を手に入れていた』と暴言を吐いたようです。「人身売買」は、浅慮の言い間違いで「人売り米買い」でしょうか。人を買ったら口が増えます。

 それにしても、不合理極まる暴言です。全島飢餓の時、口減らしするのでしょうか。手が減ると、農林水産全てが衰弱し、遠からず若者はいなくなります。「ファクトチェック」などと言わなくても、自分が言うことは、念には念をいれて、とことん裏付け取りすべきです。特に、罵倒どころでなく、刑事告発に近い発言は、絶対に、絶対を重ねてから発言すべきだし、そもそも、そのような「告発」実は「誣告」を公(おおやけ)にしてどうしようというのでしょうか。名誉毀損で告発されたらどうするのでしょうか。

 実際は、豊富な海産物もあり、さらに、交易で食っていけたのです。両島は無良田免税で穀物を備蓄し、異常気象の不作にも強かったはずです。

 頭のネジが不安な人は、弾劾される前に講演を辞退すべきでしょう。まさか、無償で講演したのではないでしょうから、「倍返し」、「三倍返し」と言われても反論できないでしょう。

                               以上

新・私の本棚 番外 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 1/3 追記

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,魏志倭人伝から見える日本
私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し書紀論は場違い 2020/03/05

*はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。いや、今回は二度目の試みで、多少は意義のある批判になっていることと思います。

 塚田氏は、「魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していく」のに際して、造詣の深い国内史料に基づく上古史論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、やはり、育ちは争えないと思うのです。

 揚げ足取りと言われそうですが、三世紀に「日本」は存在しないのです。

*現代風世界観の弊
 些細なようで重大なのは、倭人伝に関する取り組みの基調となる世界観の整合であり、例えば、「陳寿の頭脳」から生まれたなどと言うのは、現代物質文明の齎した比喩表現であり古代史論では場違いです。つまり、陳寿に対して、「あなたの文章は、あなたの頭脳から生まれたものですか?」と聞いて、単語は翻訳できても意義が通じないので、陳寿の深意を解することができていないのではないかと懸念されます。

*心から発し心に至る
 古代人にとって、頭脳の存在と役割はうっすら知っていたとしても、頭脳はあくまで体内器官、つまり、一種の物質であり、物質から文章は生まれないと見ていたはずです。

 当世風のカタカナ語で言うと、メンタルなものは、フィジカルなものからは生まれないというものです。散々説明を聞いた後で、陳寿は言うはずです。「志は、心から発し、心に至らんことを」
 現代で時代錯誤と言われかねない志操とか気骨とかの生きていた世界なのです。

*全史官虚言論~余談
 現代風な即物的な価値観では、古代の史官、つまり、天下唯一の政権の歴史を記録するという天命、つまり、天に与えられた使命を全うするという使命感とそれを支える自己研鑽は、想像できないのでしょう。

 現代の高名な史学者は、「古代の史官には、史実を正確に記録する動機などなかった」と放言するほどです。つまり、史学者は悉く嘘つきとの断定ですが、三国志分野で高名な史学者は、そのような暴言を吐くときの自分の顔を鏡などで見たことは無いのかと言いたいところです。

*余談から復帰
 いや、話がわき道に逸れ、全く別人の批判になってしまいましたが、以上は、別に塚田氏の見解が間違っているとか、どうとか言うことではありません。氏の論議が、三世紀当時の「時代精神」にあっていないことを理解いただきたいということです。

 例えば、塚田氏は、陳寿の「表現」がどうのこうのいっていますが、これもまた、現代ですら通じがたい時代錯誤の概念であり、時代人には、一切通じない、翻訳不可能な概念です。
                                未完

新・私の本棚 番外 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 2/3 追記

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,魏志倭人伝から見える日本
私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し書紀論は場違い 2020/03/05 補充2021/07/17

*国内史料の桎梏
 そして、そんな深遠な話題を除くと、塚田氏の論議が倭人伝論議に場違いと感じるのは、その濃厚な国内史料世界観です。ご自身の世界観を堂々と持ち込んで、倭人伝解釈を仕切るのは、(純血派)倭人伝論者の反発を買うだけです。

 前記事(宝賀寿男「邪馬台国論争は必要なかった」 サイト記事批判で紹介)で提唱されている、『国内史料の世界観を、倭人伝論争に持ち出すことに対する「感情的」な反発を避ける韜晦』の勧めですが、そうした反発を、論理的なものでなく「感情的」なものと捉えるとしたら、それは、前記事筆者ご自身が感情の沸騰に負けているのであり、ここは、大人になって、ことさらに不評を買う原因を見据えて、前向きに解決しなければ「保守派」の反発は解けないのです。正々堂々たる議論では、韜晦は忌むべき詐術です。よろしくご自愛ください。

*倭人「伝」論議
 倭人伝は、三世紀の古代「中国人」が、三世紀の古代「中国人」を読者と想定して三世紀を描いた史書です。

 ここで、古代「中国人」とは、三世紀当時に於いて古典である書経に通じていた「教養人」を言うのであり、絶滅危惧どころか、三国志上申の後に訪れた西晋亡国以後は激減し、それ以降の「中国人」に、「教養人」は、ほとんど見出すことはできません。よって、東晋以降の後世人は「倭人伝を普通に読み解くことはできない」のです。まして、蕃夷のものには、到底及びもつかない境地なのです。そのような事情は、「教養人」でない(現代の)「中国人」であっても大差ないのです。

 それはさておき、私見では、不正確な俗説で、倭人伝は「伝」に不適格とされていますが、実質的には「伝」として成立しているから、後は、このように再審を請求し続けて、不合理な旧弊が絶えるのを待てば良いのです。

*国内史料不要論
 いや、本題に還ると、ここでは、「倭人伝」論議に於いて、国内史料の存在意義を、終始一貫、全面的に否定しているのではありません。

 しかし、冷静に見ればわかるように、国内史料は遙か数世紀後世の、はるか東方の畿内圏の史観で書かれた史料です。三世紀当時の記録が残っていて、史書に編纂されたものではないのです。

 当世風に言うなら、国内史料は、「倭人伝」から見て、厖大な時空の壁の彼方で書かれています。何しろ、文書の無い世界で、代々継承されるのは口伝であって、まっとうな文字記録(文書)は、一切存在しなかったのだから、正確、克明な伝承はなかったのです。
 それだけで、「倭人伝」考察に、後世国内史料を起用することが、学問として無効であることが明らかです。いや、必要に応じて、参考資料として参照するのは当然ですが、随分丁寧に(手厳しく)史料批判しなければならないのです。(「倭人伝」に書かれているのが、三世紀畿内だと信じている方には、「時空」の「時」しか通じないでしょうが)

 そして、ここで言うのは、そのような国内史料を「倭人伝」解釈の主力史料として起用することの愚です。そうでなくても、「倭人伝」解釈には、近代・現代日本人の軽率な誤解が出回っていて、ために、とうに収束しているはずの史料解釈が大きく迷走しています。

 前記事で、『「倭人伝」解釈に伴う論争を収束するには広い範囲で資料を吟味すべきだ』との提言がありました。大所高所からの一般論としてちょっと聞くと、分別のある賢明な提言のように聞こえますが、倭人伝解釈という具体的な課題を具体的に考察する事を考えると、精々二千字程度の倭人伝ほど限定された範囲で、史料解釈に、勝手な諸論が出て収拾がつかないのに、これ以上考察範囲を広げたら、議論は拡散、発散するだけです。
 泥沼化するのを望んでいる方の思惑に、簡単に乗らないようにしたいものです。せいぜい二千文字の史料の解釈に、山ほど、胡散臭い外部資料を持ち込んで、山ほど、言いたい放題の個人的な意見を積み上げているのは、「倭人伝」解釈が明解になると、落第、退席になるから、それを避ける努力を重ねていると見えるのです。

*揺らぐ史料観
 仄聞するに、国内史料は異本異稿が多く統一解釈が困難なようです。先賢の中には、一級史料であるべき「日本書紀」を自己流史書の素材に過ぎないと見ているものが多いようです。
 これに対して、倭人伝は、二千余字ながら、緻密堅固であり、二千余年の風雨、氷雪に耐えて屹立しています。よく理解して比較すべきです。

 倭人伝論争資料の主客は、字数で決めるべきではありません。

*「現代創作」の氾濫
 現代の個人の見解で「日本書紀」の解読が左右されているとしたら、それは、古代史料でなく現代著者による「現代創作」です。
 「現代創作」には、それ自体の仮説とそこから展開される論理が、念入りに積み上げられているから、あくまで「現代創作」として適正に扱うべきであり、原史料を置き換えるものとして混乱を巻き起こしてはならないのです。当たり前の話で恐縮ですが、念には念を入れようとしているのです。

*神功紀事例批判
 塚田氏の資料で気になるのは、神功皇后の三韓征伐記事を、年代こそずれているものの、史実の記録(の忠実な反映)と見ているところにあります。

 史書にとって、年代は一切譲れない根幹であり、年代の「ずれ」を正すだけでも、書記編纂者の書斎にまで立ち入って、別の史書に手直しする「創作」行為であり、史料批判の限界を大きく超えた二次創作になっています。塚田氏ほどの学識をもってしても、自己流創作の誘惑は断ち切れないのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 3/3 追記

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,魏志倭人伝から見える日本
私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し書紀論は場違い 2020/03/05 補充2021/07/17

*吠えない勇気
 この下りで、塚田氏の論調は、いつになく断定的であり、余程、書き立てている論議に自信がないのかと思わされるのです。
 世の常は、議論が飛躍するなど、不安な部分で、激昂とも思われる強調に走る例が多く、塚田氏にその意識がないのであれば、「損してますよ」と言いたいものです。ここでは、いくら血が騒いでも、「吠えない」勇気が必要でしょう。

*敗者の延命策
 塚田氏の論説では、世の「倭人伝」論者は、氏の神功紀論をそのまま受け入れるか、書紀史料批判に立ち入って批判するか、二択を迫られる景色です。
 少し考えればわかるように、「倭人伝」解釈の場に、神功皇后史料批判を担ぎ込むのは場違いで、これは、一般論で言うと、「倭人伝」論争で非勢にある論者が、土壇場の反攻を試みているさまに影響されているように見えるのです。(不穏な言い方で言うと、「往生際が悪い」のですが「土壇場」自体が既に不穏なのです)
 それは、意に染まない結論への論戦収束を、命がけで嫌うという延命策であり、塚田氏がそのような風潮に荷担するのは、どうしたものかと思うのです。

*率直な批判
 以上、敢えて苦言を呈するのは、塚田氏の示された基本理念に同意しているからです。英語で言う誠意”SINCERITY”の表明です。
 塚田氏は、単に「倭人伝」世界で最初に相談した「権威」の意見を、強く刷り込まれ、その指導、助言は、裏切れないようです。

*見聞は寛く、見解は堅く
 これに対して、無視と決めた論者の意見は、聞かないようです。
 「倭人伝」論では、古田武彦氏の提言は、一読・吟味した上で克服すべき意見と思うのですが、塚田氏は、『「邪馬台国」はなかった』なる書名を、うろ覚えで誤記していて、つまり、実物を確認していないし、まして、古田氏の後漢書「邪馬臺国」観を一顧だにせずに、実は知らずして古田史観をなぞっているのは感心しないのです。(単なる事実誤認と思えますが、現時点で当PDF文書に訂正は加えられていません)

 あらゆる史書を全部読む必要はありませんが、これほど画期的な「一書」を読まずに、うろ覚えのまま不正確と批判しているのは困ったものです。思うに、誰か先人の著作を丸写ししているのではないかという疑問が湧いてきます。この程度の手違いで信用を無くすのは、勿体ないことです。

〇まとめ 批判が美点を高める
 以上は、塚田氏の基本論の是非を言うものでないのは明らかと思います。当方が言いたいのは、塚田氏が、妥当な事前準備を費やすことなく「倭人伝」に深入りしていることを惜しんでいるのです。

 世上、自身の本論とその根拠を示さずに、高々と自説を唱える論者が多い中で、手順を踏んだ上で所信を明言していることに同感し、それ故、率直に批判しているのです。

*実直な著作努力に賛辞
 因みに、塚田氏の公開されているPDF資料の構成を考察すると、氏は、随分丁寧に段落書式設定などを操作して、周到な構想のもとに当文書を書き上げていて、読者が読み取りやすい文書とした労苦、つまり、厖大な時間と手間に大いに感謝するものです。ローマは一日にしてならずです。
 それだけに、小説は想像に任せて書くものだという誤解は、創作の意義を見逃していて、まことに勿体ないのです。(例えば、司馬遼太郎氏が、一作を書く準備で、トラック一杯の史料を調達した逸話は、知る人ぞ知るものです。そして、肝心の著作が、資料の継ぎ接ぎでなかったのは、明らかです)

 いや、こうした当たり前の些末事を、ことさら書き立てるという事は、塚田氏の見識の高さを物語るものと見て頂きたいのです。世の中には、言及するのも時間の無駄という気質・見解の方が圧倒的に多いのです。
                                 完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」[新装版] 1/4  序章 再掲

    雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
 私の見立て★★★★☆    『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』      2016/06/18 追記 2020/06/07  2021/07/17

◯はじめに
*雑感
 本書は、以前から大型書店の書架で見かけていたが、何しろ、本文653ページの大部であり、また、本体価格で12,000円の高価な物だったので、内容に価格ほどの価値があるかどうかの懸念もあって、なかなか手が出なかったが、最近、古書の掘り出し物が見つかったので、あわてて購入したものである。

 一度、大型書店の立ち読みで流し読みして、手堅い論考に一目置いていたが、今回、自分の蔵書として、じっくり読んでみると、大変な労作であり、また、当ブログ筆者が最近「俗論」と勝手に呼んでいる、通説固執の議論がほとんど見られないので、一段と敬意を深めたものである。

*概要
 まずは、宮内庁書陵部蔵書である三国志宋版刊本(「紹煕本」)影印が綴じ込まれていて、これに続いて、凡例と目次を挟んで、句読点を補充し全29段の区分入り「漢字原文」が続いている。

 なお、「紹煕本」は「倭人伝」と小見出しして開始しているので、正式名称云々の雑音の毒消しになっているように思う。

 巻末の主要引用参考文献目録には、およそ、膨大な魏志倭人伝関係書籍群に加えて、魏晋朝時代の当時の社会動向、政治思潮を書き綴った岡崎文夫氏の「魏晋南北朝通史」 や邪馬台国に関する論考を集成した橋本増吉氏の「邪馬臺国論考」、さらには、松本清張氏の「清張通史-1  邪馬台国」等々、与党的と見える論考があげられているのは当然だが、野党的と見られる安本美典氏の「新考 邪馬台国への道」、そして、古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」があげられている。ただし、最終例は、邪馬台国のカギ括弧が抜けた誤記になっているのは、ご愛敬である。

 以上のように、書名を書き連ねたのは、本書が、安易な通説固執の弊を免れていると感じさせてくれると言うことである。

 本書著者は、自身明言しているように、「九州派」であり、不偏不党とは言えないが、根拠のない、度を過ごした偏見は見られず、また、野党的な論考であっても、採り入れるべき主張は採り入れるという姿勢が貴重である。

 ということで、さりげなく、「漢字原文」と書いたが、ごく一部の例外を除けば、影印本の記載に従った読み取りであり、従って、世に溢れている原文書き換えは、避けられている。
 著名な例で言うと、「邪馬壹國」、「一大國」、「会稽東治」、「景初二年」、「壹與」の表記が採用されている。史料批判、評釈を行う以上、当然の処置である。

*追記
・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、『国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない』との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。

 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、その本質を追究して、史料としての価値を見極め、しかして、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。

 俗な言い方で気が進まないのだが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。

 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」[新装版] 2/4  序章 再掲

 私の見立て★★★★☆    『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』      2016/06/18 追記 2020/06/07  2021/07/17

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されいる。

 さらに、「先入観に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない」と主張している。

 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。

 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的な検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。

 本書刊行当時、すでに、三國志などの中国史料に対する考古学系研究者の反感が顕著だったようで、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まであるが、これはあくまで寓意としているだけで、本気でないことは言うまでもない。

 本書は、倭人傳本文の評釈に先立ち、第二章 魏を中心とする三国時代史概観、と題して、後漢朝衰亡期に始まる一世紀あまり、乱世に堕ちていく政治、社会動向が描かれている。この期間に含まれる、倭人傳に所縁のある桓帝、霊帝治世時の深刻な内紛も描かれている。

 当ブログ筆者のこの時代に関する参考書は、主として、陳舜臣「中国の歴史」、宮城谷昌光「三國志」、それに、岡崎文夫「魏晋南北朝通史」(国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵は、内外両編揃い)であるが、あくまで、時代背景を知るための読書であり、厳密に参照しているわけではない。

*無知の癒し
 世上、「史料批判」の何たるかを知らず、また、先人によって、適確な史料批判が既に為されていることも知らず、ひたすら、倭人伝の史料価値の欺騙を叫ぶ素人論者が見られるが、まあ、まずご自身の無知を癒やすべきと思うものである。
 無知は「やまい」ではないから治療のしようがないが、ご当人が気づいて、自覚是正すれば救われるのである。さしあたっては、本書が、妙薬となる可能性があるが、まさか、「鵜呑み」はしないだろうと思うのである。

*「概説」の偉業
 と言う事で、本書の冒頭では、概説篇として、三国志とそれに先行する「三史」(史記、漢書、後漢書)、さらには、三国志に隣接する魏略について、適切な概評が加えられている。

 また、時代、地理背景として、(後漢末期)遼東郡が、半島中部に設けた帯方郡を経て、海峡の向こうの東夷に管轄を及ぼすに至った経緯とその滅亡が説かれている。

 薄手の新書版では、本書の真似はできないが、その際は、本書の該当部分を参照する「注記」を書き込んでおけば、一々再現する必要はないのである。

未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」[新装版] 3/4 「倭人在」再掲

    雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
 私の見立て★★★★☆    『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』      2016/06/18 追記 2020/06/07  2021/07/17

鵜呑み」論 - まくらに代えて
 本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって、飲み込み、消化するものである。

 鵜は、鳥類であるから、歯も舌もなく、川魚を、囓りも味わいもせず丸呑みできるのだが、人は、人類であるので、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。

 人は、決して、鵜の真似はしないのである。低級な比喩は、早く撲滅したいものである。 

-第二部 評釈篇 第一段 総序
*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」
 前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
 知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」には、小見出しはないようである。
 おそらく、「紹熙本」が依拠した新規史料は、恐らく、同一の「紹興本」と共通した北宋刊本に依拠しているが、「紹熙本」より優れていると判断された写本に「倭人伝」と書かれていたということのようである。
 「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に、審査、校正が完了した版であることから、「紹熙本」と命名されたものであり、印刷、製本、公開された時点が、どの年間であるかは関係無いのである。「紹熙本」は、現代日本語でないことに留意頂きたい。ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、その価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。

 さて、小見出し論を終えて本文に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。

 著者である水野氏は、これは、中国唐代以前の「日本人」に対する呼称であるが、自称ではなく、中国人が「日本人」に対して与えたものと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるものであるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。

 氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないわけだから、いずれの時代なのか、どんな由来かは、知る由もないが、中国からの頂き物だという可能性が高いと思う。

◯傍道の倭人論など~私見
 別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。

 つまり、「倭」という文字は、倭人の姿、おそらく、女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りの旁を見ると、「女」、つまり、女性の頭の上に、「禾」、つまり、稲穂のような髪飾りがかざされている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々である、ということである。

 私見によれば、「倭奴」は、後漢朝が「倭人」を言い換えと見られる。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。
 という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。

 後年、「倭」という文字を嫌って「日本」と改称したらしいが、おそらく、国を継いだものたちが、あからさまに「女王国」を表す文字を嫌ったのではないかと思われる。「倭」は、周代史書にも残されている貴称の類いであるので、相当無理をして返上したようであるが、唐代となると、相手も、天子と言いながら、蕃人上がりの付け焼き刃なので、古典知識にこだわらず、自称を許したようである。

 さて、「倭人」に続いて、直ちに続いて「在帯方東南」と五字の付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。

 もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるのであるが、倭人の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
 としてみると、この七文字は、独立して、必要な情報を過不足なく伝えているのであるが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。

 朝鮮半島と西日本を包含した地図を見ていただけばわかるように、帯方郡治の想定されている朝鮮半島中部西岸地区から見て東南にあるのは九州島である。本州島は、その九州島のすぐ東にはじまり、東方から東北方向に延びていて、東南方向にまるで収まっていない。倭人不在域である。(住んでいるのは、倭種らしいが)

 世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍は、優勢にあるとされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。
 いや、触れている例はあったが、「大意として、そのように読めるかも知れないが、現代人は、邪馬台国が、近畿中部にあって、遠く九州北部まで支配していたことを知っているから、倭人伝の誤記と理解できる」と割り切っている。
 わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる
のである。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えるのであるから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。

 水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に、遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定しているのである。

 かたや、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、頑迷な俗論が形成されているのは、かねてより感じていることであるが、ここにも、その端緒が表れているのである。

未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」[新装版] 4/4 「倭人在」再掲

    雄山閣    新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
 私の見立て★★★★☆    『「倭人伝」は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料』      2016/06/18 追記 2020/06/07  2021/07/17

*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」

最初の躓き石
(追記)
 本書の最初のそして多分最大の躓き石は、「従郡至倭」に始まる行程記事の冒頭の「郡から狗邪韓国まで」(郡狗)行路の解釈の難点にある、と言うか、見落としにあるように思う。

 氏の堅実な解釈手順にも拘わらず、「循海岸水行」が「従海岸水行」と字義の異なる別字と読み替えられ、そのために、郡狗行程は、半島「海岸」に沿った「沿海航行」とみなされ、氏は、史官がこれを「水行」と称したと、早計にも断じている。ついでに言うと、史書行程記事における「従」は、必ずしも、何かに「沿って」の意味でないことが多いのを見過ごしているのは、やはり、氏の限界かと思うのである。

 古くは周に発し、承継した秦漢代以来の官道制度に、「海岸」沿いの「沿海航行」は存在せず、敢えて、正史の一条として構想された魏志「倭人伝」が、法外の行路を官道と制定したすれば、先だって諄諄と明記して裁可を仰ぐべきであるが、そのような手順がない以上、法外の行程は書かれていないと見るべきである。

 この解釈は、日本古代史視点では順当に見えたのだろうが、中国史料解釈としては古典用例を取り違えた曲解の誹りを免れない。

 当記事は魏志に書かれている以上、帯方郡に至る官道は、遼東郡からの陸上官道が順路、官制の正道であり、「海岸」は、陸上の土地であるから、もし、帯方郡から海上に出て船で南下するのであれば「乗船」の二字を要するのである。

*良港幻想
 氏は、何らかの史料を根拠として、「半島西岸は、多くの大河が流入して良港が多く、沿岸航行が容易であったと見ている」が、同時代、現地の地理、交通事情を考察すると憶測と言わざるを得ない。そもそも、小白山地が後背に聳える地域に、大河が存在するはずはない。大河と呼べそうなのは、山地の東、嶺東と呼ばれる地域を南北に流れる洛東江しかないのである。そして。洛東江は、対馬に向かうように河口を開いているのである。
 半島西岸の地理事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、有力な港湾があったとしても、後背地が狭隘で、耕作地が乏しいため、少なくとも、三世紀時点では、沿岸航行による交易、市糴は希だったと見える。

 後世、百済の王城漢城が、南下した高句麗の大軍に包囲壊滅され、国王以下王族、高官が全滅する大難があり、辛うじて南方に退避した王族が、百済を再興したのだが、その結果、漢江付近から山東半島に至る海上輸送を高句麗に奪われたため、百済は、南部諸港を開発して、細々と沿岸航行していたようであるが、それでは国が成り立たないため、漢江付近の海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したのは知られているから、半島南部の海港繁栄は、幻想と見えるのである。つまり、細々とした営みでしかなかったのである。

 後年、隋唐代に至って国使派遣のため、青州から半島沖合を通過して、九州北部に乗り入れる帆船航行が行われたようであるが、安全な行路を新規開拓した上での竹斯への来貢と書かれているところを見ると、先立つ、三世紀魏代には、当該部分に航行路は形成されていなかったと見られるのである。倭人伝に、当時の沿岸航行を官営の交通路としていたと書かれているのであれば、隋唐代に航路開拓する必要などなかったのである。

 以上の議論は、「正道」の議論であり、「邪道」、つまり、斜めの、遠回りの曲がった道として存在していたことまで否定するものではないのは、言うまでもないと思う。

 氏ほどの見識であれば、以上の難点に気づいてさえいれば、「循海岸水行」が、郡狗区間を「水行」と規定するものか、官道経路に関する注記に過ぎないものか、比較、考察を加えたはずであるが、残念ながら、ここでは、氏もまた、倭人伝の記事解釈でありがちな、無意識の改竄を施したと見られるのである。

 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられないのである。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではないのは、言うまでもないことである。全長一万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

*中断の弁(追記)
 と言うところで、実は、一休みしたままになっていて、今回は、一項目を追記したにとどまっている。

 正直なところ、本書で滔々と展開された「史料批判」が、世上顧みられることなく、野に埋もれたままになっているのに呆れたこともある。

 凡そ、学術上の論議は、先行所説の批判と克服を経て、提言することで前進するものと思うのだが、「黙殺」路線が大勢を占めていて、困惑しているのである。

 どうも、個人的な書評は、成立しがたいものになっているようである。日暮れて、道遠し、か。

以上

2021年7月15日 (木)

新・私の本棚 番外 伊藤雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 1/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25

私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15

⚪個人ブログ批判の弁
 個人ブログの批判は、事実誤認の指摘と建設的な意見を除き、遠慮するようにしていますが、氏の場合は、単なる素人論客ではなく、既に、商用出版物*を刊行していて、いわば、業として収益を得ているので、著作に対して責任があり、読者側からの率直な批判を拒否できないと思量します。
 *「邪馬台国は熊本にあった!」!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社BOOKS新書) 当ブログにて批判済み

⚪過去多難、前途多難 傍線部は、引用
 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 何を言っているのか、一向に意味が通じないのですが、同時代に「正史」の記事を改竄、別に変造~改作、すり替え、偽作と、どう言っても同じですが、要は皇帝蔵書を破壊するのは、極刑ものの大罪(一族皆殺しもの)であったから「犯意」は否定できない、と言うか、しても仕方ない、誰も弁護しないので、それで断罪のすべてです。

 氏ほど堂々の確信者が、自説の「根幹」をはぐらかすのは、それ自体不誠実です。また、史学論争の基本ルールとして、「イメージ」と称して、個人的な「印象」を読者に押しつけるのはご勘弁いただきたい。氏が、陳寿の深意を解した上で築いた世界観なら、一見、一読の価値がありますが、自家製の妄想の自賛では、無意味です。論考は、言葉で展開いただきたい。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。
 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。
 不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。
 しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。
 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。
 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 氏自身の「根幹」表明なので、真剣な批判に値するものとして、以下、できるだけ丁寧に論じます。因みに、ご自身の主張の「根幹」を「ようなものと」は、何とも、けったいな物言いで、氏の本質的な弱点を「自画自賛」(現代用語として使いました)しているもののように見えます。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ
1.「不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程」が書かれていたと断定するのは、あくまで、氏の創作であり、論拠が不明なので論議の対象外です。また、倭人伝記事の「本来」の内容は、誰も知らない氏の空想の産物であり、論議の第一段階として不適切極まりないのです。

2.「観念的な位置」の意味が意味不明です。「後漢書」は史書であるから、人格を持たず、従って、ものごとを理解も誤解もする能力はないのです。

 また、厳密に言うと、「邪馬台国」は、「後漢書」に登場するだけで、「後漢書(編者?)の創作」であるから、どこに位置させようと編者笵曄の勝手です。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 2/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15

*取り敢えずの疑問点~つっこみ 承前
3.『三国志』後代写本の際に、氏の解釈する後漢書の「創作」に合わせて三国志が「改竄」されたというのは動機の存在しない大罪です。この「改竄」によって、利益を得るものがいないから、犯罪は発生しようがないのです。「三国志写本の際」と言っても、いつ、どこで、誰が、誰のために写本するのか、不明です。
 「両者」、「抽象的な」日程と意味不明な文字を費やす意味がわかりません。

*流通写本の対処不明
 明らかに、「改竄」計画は劉宋以降ですが、劉宋代の改竄計画を、誰が、後世王朝で実行したのでしょうか。その間、裴松之によって念入りに校正、補注された「三国志」裴注本は、着々と写本複製され世に広がっていたのです。

*実行不能な改竄使命
 時の皇帝の蔵書である「三国志」同時代原本は、天下に一冊しかない貴重書であるから、厳重保管されていて通りがかりに改竄することなどできません。
 氏は、そこから写本を起こす際に、改竄、つまり、すり替えを行ったと言うつもりらしいが、慎重に人選された関係者が分担して行う大事業に介入して史料をすり替えることなど不可能です。

*露見必至/斬首必至
 よしんば、何かの曲芸で改竄写本を作成しても、官制写本の全文校閲で露見するのです。よしんば、権威者の校閲の目を逃れ、つまり、校閲に手落ちがあって、原本と明らかに異なる改竄写本が世に出ても、原本は健在であり、次回写本時には、本来の記事が世に出ます。
 また、改竄写本が世に出れば、当然、当時、南北両朝各地で、「改竄」前写本と照合されるので、悪は露見するのです。

*族滅不可避の大罪
 とことん遅くとも、この時点で前回写本時のすり替えが露呈し記録されている関係者一同が尋問に曝され、程なく、「犯人」が特定、処刑されるのであり、改竄写本に由来する三国志は、残らず廃棄されます。

*意味不明の大罪
 総じて言うと、そのような改竄は、不可避的に是正され無意味です。中国古代国家の法と秩序を侮ってはならないのです。

*証拠提示の義務
 視点を変えて、学問上の論証の常識として、な原本改竄というとびきりの異常事態が行われたと主張するなら、いつ、どのようにして発生したか論証する必要があります。それがなければ、ただの「ごみ」新説でゴミ箱直行です。せめて、当時こうすれば実現可能だったとの「おとぎ話」が必要です。

*史官の使命~史書の継承
 この件で、実際に肝心なのは、史官の立場を取る関係者は、資料を漏らさず追求して、史書記事を書き上げるのが命がけの責務であり、噂話や勝手な造作で、本来の記事を書き換えることは、一切ないのです。
 いずれの時代も、真摯な史官は、最善を尽くして、時に身命を賭して執務したのであり、現代人の死生観や倫理観を押しつけてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 3/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15

*迷走ふたたび~泥沼の称揚
中略 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 考察の前段となる「仮定」は、どのようにも勝手に設定でき、他人からの批判を排除できると思っている論者もいますが、肝心なのは、合理的な仮定であることを確認、検証したことが必要です。なぜなら、後方で考察の根幹を覆され、議論の全体が、一切灰燼に帰するのでは批判が徒労に陥るのです。
 ここで言うと、倭人伝の「行程道里記事」が、魏使の報告書の内容を元にしているという仮説は、誰にも全否定できない仮説ですが、どの部分がどうかという史料批判無しに採用できない、思い付きに過ぎません。古代史分野に漂う、掟のない泥沼に染まらないようことを祈ります。

*不可解な「前提」
 前提条件は2つです。
〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない
 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。[中略]

 この「前提条件」と勿体ぶって言う第一の「思い付き」が主旨不明です。「古代中国の天文学の知識」などと、気休めのおぞましい「おまじない」を唱えなくても、小中学生程度の簡単な理科知識があれば、南北、東西の方位は、容易にわかるのです。

*子供の世界
 要は、広場に棒を一本立てて、棒の影の推移を見ていれば、影の一番短くなったときの太陽の方位が、真南であり、その時の影の方位が真北です。見つかった南北線に、コンパス代わりの縄と棒で垂線を立てれば東西です。「天文学」や「幾何学」は、不要です。東西南北が明確なら、精度などいらないのです。

 単純明快ですから、夷蕃も東西南北は、遥か昔から知っていてあちこちに表示されたのです。帯方郡も洛陽も関係無いのです。漢字も数字も要りません。確か、縄文遺跡にも、日時計はあったはずです。

 いや、これほど単純明快な事項が語られないのは、「日本自大主義」古代史分野の独自事情を思わせるのです。この成り行きは、氏の責任ではないのですが、くれぐれも、とまる木、依拠「説」を間違えないでほしいものです。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあり[中略]畿内説の根拠ともされます。

 氏の読解力限界で誤解されていますが、倭人伝のキモは、「倭人は帯方東南に在り」と明記された世界観です。現代人の勝手な思い付き、実質的な史料改竄は相手にしないことです。まして、思い付きを「根拠」とする学説は、いくら、権威めいた魔法の外套をかむっても、内実は児戯に等しいのです。
 どれほど「遠い」か、「長い」かの混乱は、畿内「説」が創作したのですが、このような不合理な改竄を唱える動機は、常人の理解を超えているのです。

*畿内説の推す使命感
 「畿内説」なる俗説派が、遮二無二推し進めている道里行程事解釈は、
1  倭人伝には、「邪馬台国」とその所在が書かれている。
2  「邪馬台国」は、「ヤマト」、つまり、後のヤマトに違いない
と言う二段階の思い込み(の蔓延、拡散)です。
                                未完


新・私の本棚 番外 伊藤雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 4/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15

*畿内説俗説の泥沼戦術
 つまり、「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」と崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒です。他にも、誤記、誤解の類いが山なし、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく、「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、思い込みと決め込みの連鎖で、論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要です。主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、倭人伝に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書いていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が、戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 因みに、「考えられない」のは、氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。
 なぜ、このように書いたか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。
 氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく氏の非論理性を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦調」ですが、帯方郡が、服属した倭に対して郡に出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で、ほぼ問題外です。
 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数に加えて、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、倭に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。
 各国の戸数申告は、郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。
                                未完


新・私の本棚 番外 伊藤雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 5/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15

*倭人伝記事要件と由来
 魏志で、倭人伝にまず要求されるのは、蕃国の徴税や徴兵の根拠となる全戸数明記であり、新参蕃夷の服属を申告の際に、全戸数を皇帝に報告したと見るものです。全行程日数(都水行十日陸行一月)がこれに継ぐものであり、国別戸数は、雑記事に過ぎないので、後日でも良いのです。

 最初に全戸数を申告したから使節が派遣がされたとみるべきです。因みに、未開で文字を知らず、大多数が十を越える数を数えられない、加算計算もまともにできない非文明国の戸数の実数集計など、その場ではできないのです。

 因みに、これは、概算推計であって虚偽ではありません。実数不明では、改竄しようはないのです。投馬国戸数は、「可」、万戸単位すら不確かです。

*戸数論の不明
 以下、三世紀倭に存在しないデータの解釈で、夢物語を展開しますが、「根幹」に誤りがあっては、結論が合理的かどうか評価できないのです。
 いや、以上は、世上の俗説であり、氏の創案ではないのですが、麗々しく思い付きを上梓するなら俗説の無批判な追随はご勘弁いただきたいものです。

*こじつけの結論に到着
[中略]このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、
奴国=福岡平野 投馬国=筑紫平野 邪馬台国=熊本平野
 つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 氏も自覚されているように、最終的に位置比定してみると、方角も、里数も、日数も、まことに大雑把な推定に過ぎないので、改竄不要です。倭人伝解釈に半人前の思い付きを持ち込むなら、実行不可能な史書改竄など唱えなくても、「熊本」説は、難なく提唱できるでしょう。

 氏は、唯一資料たる「倭人伝」の記事改竄により論争上の「禁句」、「禁じ手」を解放したので、毒をくらわばなんとやら、原文を好きなように想定すれば良く、なぜ、ちまちました改竄を言い立てるのか不思議です。

 「しか考えられない」と言うのは個人信条なので。どうぞご自由にと言うところですが、知識不足で信条堅固を言うのにどんな意義があるのか不明です。

⚪地図の「だまし絵」
 因みに、当時、ここに表示した改竄地形通りとの保証は一切ないのです。

 「原図」をどの条件で使用許諾されたか不明ですが、三世紀の地形論に利用することを、保証どころか、許諾もされていないはずです。まして、勝手な改竄は論外の筈です。つまり、資料偽造になります。

 また、単に、漠然たる「イメージ」、つまり、細かい字で「実際の地形と関係ありません」と断りするとしても、読者が古代実図と錯覚するのは間違いありません。食品表示にならうなら「イメージ」には、「あくまで参考であり、実際とは違います」の但し書きが必須と思います。あわせてご自愛頂きたい。

 氏のお絵かき図形も、当時存在しなかったから、全体として、これは、氏の書いた戯画に過ぎず、倭人伝記事の解釈論議、つまり、誰もが同一の史実と解釈して論議する場に通用しないのは明らかです。

 世上には、古代史論に、場違いな精密地図を掲載している事例はあるのを見聞きしているので、氏も、そうした悪習に無批判に追従したかも知れませんが、ペテンをそれと知らずに真似しても同罪と言われるだけです。

 以上、率直に難点を指摘したので、再考いただければ幸いです。
                                以上

2021年7月14日 (水)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊邪馬台国 128号 1/2

                           2016/03/08  補足2021/07/14
 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆写から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように燃える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは、著者の意図に反すると思うのだが、「季刊邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

 本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。

 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。同組織は、国民全体に、研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。
 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、各大学は、研究成果を、国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。
 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。
 公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。
 当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が、現代の著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊邪馬台国 128号  2/2

                       2016/03/08  確認 2020/09/28 補足2021/07/14
 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月

⚪補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

⚪私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。

 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。

 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 また、「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である三国志は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。

 三国志を写本するという行為は、既存の著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。

 写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。
 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。

 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。

 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば、「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。

 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。

 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。

 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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今日の躓き石 NHK BSで蔓延する用語の乱れ 「将棋倒し」「コロナ」

                         2021/07/14

*ささやかな、軽率な、言い間違い
 今日の題材は、NHK BSの「ワールドニュース」であるが、海外ニュースの語りで「将棋倒し」には恐れ入った。

 国内ニュースの報道ですら、将棋連盟の懇望で、「将棋倒し」は廃語になったはずである。もちろん、現に将棋駒を立てて、「将棋倒し」して遊んでいるのは、その通り報道するしかないのだが、(人出で大勢が倒れて死傷者が出たような場合)災害報道で、「将棋倒し」は、是非とも勘弁して欲しいとの公式要請があって、各報道機関は納得したはずである。

 今回は、海外ニュースの枠なので、現地に「将棋倒し」遊びはないから、無神経な場違いである。このような無頓着な問題発言が、BS番組の語りに出てしまうと言うことは、NHKもたるんでいるとしか思えない。

*悪用放置の事例
 それはそれとして、とてつもなく大きな問題に素人が口を挟むのは「越権」として控えていたのだが、長らく、誰も表立って発言していないようなので、素朴な意見を述べておく。
 言うまでもないと思うが、「コロナ」は、トヨタ自動車の主力車種の愛称であり、つまり「商標」なのである。不都合であることの説明は、不要である。
 NHKは「商標」を放送で使わない禁制があった(今でもあるはず)と思うのだが、トヨタ自動車は、爾来、主力車種名をCOVIT-19の「愛称」に転用されているのである。いや、もちろん、NHKだけの手違い、間違いではない。今や、この国では、「コロナ」は邪悪なものとなっているのである。これは、迷惑などで片付くものではない。

 比較的早い段階で、WHOがCOVIT-19と「命名」したので、世界的には、商標権抵触が懸念される俗称「コロナ」は終熄したのだが、日本は別の動きに固執しているのは、奇異である。

 このような基本的な不都合に対して、何の説明もないから、今後とも不都合な事態の是正はされてないのだろうが、当事者たるトヨタ自動車は、自社商標を踏みにじられて、なぜ厳重に抗議せずに済ましているのだろうか。誠に不可解である。既に、「コロナ」は、商標として無効になっているように思うのである。
 いや、被害は発生して取り返しがつかないから、何を言っても手遅れであり、この先は、被害は発生しないという意味である。
 素人目には、重大な事件だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

以上

2021年7月13日 (火)

新・私の本棚 岡 將男 季刊邪馬台国 第140号 吉備・瀬戸内の古代文明

 「吉備邪馬台国東遷説と桃核祭器・卑弥呼の鬼道」 2021年7月

 私の見立て ★★★★★ 考古学の王道を再確認する力作  記 2021/07/13

⚪はじめに
 著者は、フェイスブック「楯築サロン」代表と自称している。吉備地方の「楯築」墳丘墓の在野研究者と拝察する。要領を得ないが、本誌で示された実直な研究活動には賛嘆を惜しまないものである。

⚪私見~纏向と吉備 桃種異聞
 以下、当記事の一端を端緒として、他地域遺跡の発掘事例の瑕疵を考察したものであり、岡氏の著作を批判したものではない。よろしくご了解いただきたい。

 当ブログ筆者は、纏向遺跡出土の桃種のNHK/毎日新聞報道が提灯持ち報道(もどき)と批判したので、当記事での事実確認に、まずは歓迎の意を表したい。

*纏向大型建物「事件」
 敢えて付け加えるなら、現在もNHKオンデマンドで視聴可能である「邪馬台国を掘る」で公開されている「桃種」出土時の学術対応について指摘したい。
 画面では、「桃種」が、纏向遺跡の土坑、一種のゴミ捨て穴から出土したとき、無造作に水洗いして付着物を除き、シート上で陰干ししたように見える。個々の桃種の出土位置と深さを記録していないのも難点だが、別に「非難」しているのではない。考古学関係者も、一般視聴者も、何とも思わなかったはずである。

 他の考古学的な発掘では、有力な遺物については、前後左右上下関係を記録した上で取り出し、発見時の位置が再現できるものと考えるが、今回の事例では、後日、桃種サンプルを年代鑑定したものの、出土位置不明では、新旧不明と見える。建物建設との前後関係も不明。歴年か一括かも不明である。後悔は尽きないと思うのである。

*遺物蒸し返しの愚
 近年になって、それらしいサンプル(数個)の年代鑑定を行ったようであるが、もともと、考古学的に適切な発掘、保存がされていなかった以上、莫大な経費を投じても、悪足掻きになっているものである。何しろ、三千個の攪拌された母集団から、ランダムに数個取り出して鑑定しても、統計的には、意味がないと見えるのである。

*纏向式独占発表の愚
 他の考古学的発掘の「桃のタネ」事例を調べることなく未曾有としたのは不用意である。想定外の大当たりを自嘲している暇があれば、大規模墳墓の出土地域に、前例の有無を、謙虚に問い合わせれば良かったのではないか。
 学会発表であれば、論文審査で疑義が呈されて克服するから粗忽を示すことはないが、実際は、NHK、全国紙など一部「報道機関」に成果発表を独占的/特権的に開示し、真に受けて追従した「報道機関」に誤報の負の資産を課した。NHKなどは、勝手な「古代」浪漫を捏造し、懲りずに継承している。懲りて改めなければ、負のレジェンドとして、"Hall of Shame"の「裏殿堂」に永久保存されるだけである。

 以上の批判は、別に素人が勝手な思い込みで記事を公開したわけでなく、大筋は、前後はあっても、当誌の泰斗である安本美典氏が、誌上で論難していることは、読者諸氏には衆知であろう。
 一方、「報道機関」は、毒を食らえばなんとやら、纏向桃種の「奇蹟」は、多数の努力と巨費を空費して、勿体ないのである。

 岡氏は、別に、纏向遺跡の桃種について「非難」しているわけではなく、土坑出土の桃種の年代鑑定に疑義を淡々と提示しているが、当ブログ筆者は、素人で行きがかりも影響力もないので、率直、真摯に論難した。直諌は耳に痛いが、社交辞令にすると、大抵無視されてしまうのである。

⚪まとめ

 因みに、当記事で説かれている「吉備邪馬台国」は、各遺跡で出土した万余の桃種の年代鑑定に依存してはいない。考古学論考の限界で倭人伝記事との連携はこじつけと見えるが、遺跡遺物考証に基づく世界観は、盤石と感じる。

 余言であるが、近来、本誌の刊行について「邪馬台国の会」ホームページに、予定どころか刊行の告知も、とんと見かけない。論敵「古田史学の会」が、古賀達也氏のブログで、細かく進度報告を公開しているのと大違いである。学ぶべき所は、謙虚に学ぶべきではないか。
                                以上

2021年7月11日 (日)

今日の躓き石 NHKBSにはびこる低級失言 国際「同級生」と明日のない「フューチャー」

                             2021/07/11

 今回の題材は、大谷選手をはじめ「大リーグ」に挑んでいる名選手達の活躍を伝えてくれているNHK BSのMLB中継であるが、言うならば、スポーツ中継の最高峰に似合わぬ失言があったので、以後の戒めにしていただきたいと思い、ここに苦言を述べていくことにした。

*大洋を越え、月日を超えた「同級生」
 今日は、登板日でも無いので、打席の巡ってくる合間の時間塞ぎのネタ切れで注意が散漫になったか、”大谷選手とチームメイトが、誕生日の近い「同級生」”だと、とんでもない失言があったのである。

 この際だから、丁寧に確認しておくと、合衆国では、学校の新学年は、9月に始まる。一方、日本では、4月が新学年である。ずれているなどと言うものではない。
 つまり、完全に外れているので、両者は、端から、「同級生」どころか、「同学年」にもならないのである。変に言葉をこね回さなくても、「同年」とか「同期」と言えば、それで済むのではないか。こうした国際的な話題で、知ったかぶりするには、学年開始時期が、各国で一致しないことは、忘れてはならないことだと思うのだが、どうも認識が行き渡っていないようである。
 と言っても、ことは、NHKの独占でなく、全国紙の文化面の各国囲碁界の話題で、でかでか、ぞろぞろ紙面に出たりするので、ことさらに警鐘を鳴らすのである。

 元に戻って、高校で同窓でも、学年が違えばクラスが違うし、同学年でも学級、クラスが同じとは限らない。よほど調べない限り、あるいは、当人に確認しない限り、「同級生」とは言えないのである。
 このあたりは、半人前の芸人の低級の失言が世にはびこって、ほとんど社会問題になったが、まだ、この地上から撲滅されていないので騒ぎ立てるのである。

 それにしても、NHKのアナウンサーが、このような馬鹿馬鹿しい、札付きの「バチネタ」(罰当たりなボロネタ)を温めていて、最高の舞台でボロっと口にするというのは、信じられないものである。

*「フューチャー」の怪 
 それにしても。今回の中継は、大谷疲れの谷間なのか、大谷を「フューチャー」するMLB制作動画などと「迷言」もあって、何か、長時間出ずっぱりで、寝ぼけたかという感じである。NHKは、イニング間の息抜きがないので、お疲れなのだろうが、ご自愛頂きたいものである。30分に一回、番宣を挟むとか、配慮して頂きたいのである。視聴者も、かじりついているわけではないのである。

 それにしても、このように日本語の発音/表記と縁遠い言葉をすらりと口にするのは。日頃の鍛錬の賜物かと思うのである。きっと、「若隆景」(わかたかかげ)も、力まずにさらっと発音できるのだろう。

 もちろん、NHKのアナウンサーの手元には、沢山のネタの収まった玉手箱があると思うが、勘違いだけでなく、ネタの賞味期限切れもあると思うので、時に、冷静に点検いただくのも一案である。

*NHKは、最後の砦
 民放の中継アナウンサーは、その場の思い付き、勝手な造語で、無邪気な視聴者の注意を引くのが定職なのか、言うのも馬鹿馬鹿しいほど放言が多いのだが、NHKのアナウンサーは、十分な訓練を受けた名人揃いと思うので、ここに、一言苦言を述べるのである。
 未来を担う子供達に、たわけた言葉を遺さないで欲しいのである。

以上

2021年7月 8日 (木)

今日の躓き石 囲碁界に怨念復讐の渦~毎日新聞の「リベンジ」蔓延拡大 再説!!

                           2021/07/08

〇再三の蒸し返し御免
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版総合・社会面記事であり、トップ記事である。「カド番から偉業」と大見出しにあるように、最終局の結果報道であって、全手合いの総括であり、本因坊の普及を頌えていることに何の文句もない。

 ここで取り上げたのは、文中の転換点で、「リベンジマッチ」なる異様な造語が飛びだして、以下、挑戦者視点で語られる回顧である。つまり、伝統の挑戦手合いが、挑戦者にとっては、個人的な復讐戦に過ぎなかったという決めつけであるから、穏やかでないのである。

 何しろ、全国紙毎日新聞の看板の本因坊戦七番勝負の総括であるから、毎日新聞の沽券に関わる、あるいは、主催紙の面目躍如たる報道であろう。長年の読者としては、いくら、署名記事であろうと、個人の責任と逃げて貰っては困るのである。それとも、毎日新聞では、個別の騎射のあげた記事は、無編集、無校閲で紙面を飾るのだろうか。

〇意味不明な「リベンジマッチ」
 それにしても「リベンジマッチ」とは、一介の購読者には何を言いたいのか意味不明である。囲碁界の発明した「業界用語」であるが、無審査、無批判で取り込んでは、全国紙の見識が疑われるのである。それだけでも、紙面掲載を憚られる失態である。

 主旨を念押しすると、「リベンジ」なるカタカナ言葉は、意味が揺らいでいて、原語の「revenge」を辞書で引いて「血の復讐」と理解する人もいるだろうし、現代風に「再挑戦」と読み飛ばす人もいるだろう。こうした訳のわからない、生煮えのカタカナ言葉で世間を汚染するのが、毎日新聞のポリシーなのだろうか。

 不出来な言葉に対して、編集部で誰もダメ出ししなかったのが、まことに不思議である。ここでは、挑戦者は、全年の敗退を個人的に恨んでいて、今回は、「怨念復讐」の場であったという血なまぐさい言葉のように読める。何しろ、今回の挑戦手合いの記事では、初めてではないのである。この調子でいくと、挑戦者は、またぞろ復習の怨念を書き立てて生きていくように、不吉な影を投げかけられているように見える。

 「リベンジ」は、無差別テロを称揚する言葉であり、当ブログの最大の敵なので、しつこくとがめ立てをしているが、ここまで汚い言葉をことさらに目立たせていると、一言言わざるを得ないのである。毎日新聞には、こうした不適当な言葉に対する基準などないのだろうか。
 談話の引用以外であれば、簡単に言い換えられる気がするのである。談話の引用だって、律儀に不適当な言葉を引用・報道しなくても良いように思うのである。

〇 毎日新聞にはびこる悪弊
 今回の記事では、このようなとんでもない不穏当な汚い言葉を担当記者が「創造」した責任は明確であるが、何にしろ、一連の記事で見られる表現の混乱は、目を覆わせるものがある。担当記者は、未熟で、新聞社の基準に従う用語、言い回しをできていないかも知れないから、専門家たる上級記者が、最後の護り人になるべきではないのか。

〇 頂上決戦には頂上報道を
 個人的には、本因坊挑戦手合いは、挑戦者として、その場に立つこと自体が大きな業績と思うのである。挑戦者は、多くの競争相手を退け、全員の思いを背負って登場していると思うのである。決して、個人的な復讐心を表現する場を与えられているのではないのである。いや、これは、一介の素人の意見だから、別に強制したいものではないのだが、一度、考えていただきたい言い分である。

以上

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