新・私の本棚 上発知たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 2/2 追記
魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
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私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成 2021/03/20 追記 2021/07/24
〇後漢書誤読批判
丁寧に言うと、後漢書には、倭の女王之所、つまり、王城への道里は、公式記録がないため、最後まで皆目わかっていないので、「郡治を起点として何里」と書けないのです。ということは、ここで言う「去」一万二千里は、当然、倭国からの道里を想定していますが、所在不明では「明確」に認識できたはずがないのです。倭は韓の東南にあるというのは、光武帝時、洛陽から見て、韓の(東)南にある(らしい)と言うことしかできなかったのです。
して見ると、倭奴国王が金印を賜ったという東夷列伝記事も、「本紀」記事でない以上、そして、袁宏「後漢紀」に書かれていない以上、根拠の無い推測になってしまいます。
金印は、客(野蛮人)への下賜物として定番でも、黄金印なのか金(青銅)印なのか、判然としないのです。何しろ、古代人にとって、金印は、粘土細工みたいに手軽ですが、青銅鋳物の設備では、とてつもない高温が必要な黄金を溶かせないし、溶かした黄金を受け入れる鋳型も、そのままで、溶けた黄金を受け付けるのかどうか、良いのかどうか不明です。いや、余談でした。
因みに、後漢書の扱う時代は、精々、曹操が没して曹丕が継承し、後漢献帝から天下を譲り受けた時点までですので、少なくとも、倭人伝記事を、「パクる」わけにはいかないのです。范曄が、後漢代の東夷列伝を確保していれば、東夷の新参者である「倭」が後漢朝に対して提出した国書なり、自己申告が確保されているはずであり、それを引用すれば、堂々と、明確に倭伝を書き出すことができるのです。
そうしなかったということは、笵曄は、東夷伝で語るべき後漢代末期の「倭」資料を一切持っていなかったことになります。
因みに、この時代、遼東に割拠していた公孫氏が、東夷と後漢朝の間に入って連絡を遮断していたので、後漢皇帝の手元には、何の資料も入らなかったということです。笵曄は、どんな根拠があって倭伝の記事を書いたのでしょうか。まさか、魏のことを書いたと決まっている魚豢「魏略」の記事を切り貼りしたというのでしょうか。
このあたり、氏の誤解が氏を誤導しています。「致命傷」などの言い方をしなくても断定していることは伝わります。勘違いを怒鳴って恥の上塗りです。
〇范曄冤罪批判
但し、後漢書編纂に際して、范曄が時代錯誤の魏代記事を盗用したとの冤罪は、大変な侮辱であり、いくら、当人が反論しないからと言って、そのように歴史上の偉人を見くびるものではないのです。告発には、証拠が必要です。前段に書いたのは、あくまで、疑惑止まりであって、決定的な告発ではありません。
要するに、後漢書記事は、史料自体の視点でよくよく吟味しなければならないのです。
倭人伝の里程記事が、魏使の紀行記事(だけ)を元にしたとは、現代読者に普通の誤解ですから、氏の個人的過失ではないのですが、ここに公開する以上、本当に正しいのか、という反問は必要だったのではないでしょうか。
以下、引くに引けない強攻になるのですが、魏使派遣前後の現地報告が諸所に混入していると言う程度なら、もっと慎重な断罪ができると思います。少なくとも、タイトルに「百㌫」などと、恥さらしな言い分を書くことは無かったはずです。笵曄は、盗用とわかる書き方はしていないのです。
二千年過去の史料が、どの程度正確かすら不確かなのに、後世人の勘違いだらけの僭越な解釈で、「百㌫」正確に読み取れる可能性は皆無です。
氏の口ぶりで言うと「皆無」でなく「零㌫」なのでしょうが、当時存在しなかった言葉遣いでは意味が通じず、間違い積層のあげく正確な見解に到達することも「ぜったいありえない」わけではないのでそう言わないのです。
いや、氏の著書は、世上にたむろしている勝手な論説の山では、健全な史料観を元にした「異色作」でも、諸所に誤解と見過ごしが散在し、さながら、躓き石が散らばる散歩道では、歩き続けることはできないのです。受けるのは、氏の好む「致命傷」などではなく、擦り傷と打ち身だけですが、不慣れな読者だと、全て真に受けて大きく転倒し、大腿骨や骨盤を骨折する可能性が否定できないので、ここに具体的な批判を書き続けているのです。
以上、一般的でない事項は、丁寧に根拠を示していますが、基本的に、諸資料に書かれていることは、節約しています。どう勘違いし、言い間違いしたか理解いただいた上で、改善いただければ、ゴミ箱直行は避けられます。
〇最後に
世上の「所在説」論者の大半は、所在地を言い立てるために諸論を誂えるので、史料解釈の是正など「ご意見無用」ですが、氏はどうでしょうか。「耳、日曜」でしょうか。氏の場合、論議の前提を修正しても、所在地は健在かも知れません。
氏は、論考の最後で、一世風靡の「纏向」説に冷静な批評を加えていて、同感に加えて痛快なのですが、氏が起用された諸史料ないしは資料は、大抵、原文に纏向風の上塗りを施しているので、安易に信用しない方が良いのです。
氏だけがどうこう言うことではないのですが、中国史書である「倭人伝」や後漢書「倭伝」を論じるには、中国史書の文字や言葉に通じた論者の意見を聞くべきであり、生かじりの翻訳に頼るべきではないのです。まして、勝手に、自己流の「所在地」にあうように書き換えた自己流資料で論じているのは、その自己流改竄資料に頼ってしまっているので、中国史書の解釈ではなくなるのです。
ぜひとも、読者諸氏においては、現代語離れ、改竄離れすることをお勧めします。
以上
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