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2021年8月

2021年8月21日 (土)

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 1/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*総論
 本記事は、記念論文の使命で、論争史を回顧し今後の展開を想定するのでしょうが、所詮、当論争は、「九州説」「畿内説」に二分され、異なった使命感で熱烈に説かれていて、不倶戴天、何れかの陣営に属すると相手の論理が見えないのです。

 西本氏は、畿内派視点で論じていて、以下示すように、筋立てが無理で。裏付けが追いつかず、ちょっと(つまり、めちゃめちゃの意です)お粗末です。

 ただし、本誌の編集方針で、論拠のあやふやな記事は採用しないので、偏見、曲解の根拠を読み取れるようになっています。

*内藤・白鳥回帰の是非
 ここで、氏は、古典的な内藤湖南、白鳥庫吉両氏(両先達)の論争を回顧し、倭人伝記事の理解を図るという生き方ですが、偉大な先人といえども、前提となる倭人伝記事への先入観が災いして、いきなり、引き返しようのない論説を立ててしまったため、後生に大きな軛(くびき)を遺したように見受けます。(国内史学界は、先達の後追いの隊列を構成しているので、そうなるのです)

 当方は、両氏の深い学識と堂々たる知性を尊敬していますが、前提となる資料把握が整っていなかったという限界は如何ともし難く、今日、倭人伝理解の出発点とすることはできないと考えます。つまり、誌面の無駄なのです。

*方位 苦慮の辻褄合わせ~博物館の名物に
 方位論は、所詮、想定里数で想定比定地に届かせるこじつけであり、いわば、辻褄合わせの屁理屈でしかないのです。もはや、博物館入りの骨董品であり、きれいに言うなら「レジェンド」(歴史遺物)です。

*道里 数字に弱い畿内派~補習必須

 まず、倭人伝里程は地域ごとにバラバラで、「郡から狗邪韓国までは数倍の誇張、渡海旅程はかなりの誇張なのに、九州上陸後は実里程に近い」とする見方が提示されていますが、随分筋の通らない話です。

 帯方郡近くで、「洛陽から指示があれば実測検証すべき旅程を6倍に誇張し、海の果てで、検証困難な旅程を実里数にする」とは理解に苦しみます。そもそも、当時実測困難だった「実里数」は、誰がどうやって測ったのでしょう。(丁寧に言い直すと、古来『困難』とは、「事実上不可能」という意味です。念のため)

 なぜ、当時としては、大変計算が困難な六倍なのでしょうか。「十倍」なら単位を「百里」から「千里」にするだけで、再計算不要。現代風なら、小数点を移動するのですが、倭人伝の一桁概数表示では、単位の書き換えで良いのです。
 五倍なら、単位の書き換えで「十倍」しておいて、数字部分を二で割るだけなので楽勝なのに、なぜ、わざわざ六倍なのか。もちろん、
6.5倍は、当時不可能な計算になります。

 数字に弱い人が、どうして無理な作り話に凝るのか。誰の知恵を借りたのかも不審です。大の大人が、受け売りは、情けないように思うのです。

*無理なこじつけ
 実際の距離と言うなら、郡から狗邪韓国までの七千里と書かれている道里と、末羅国辺りから纏向までの地図上の距離は大差ない
のですから、これを、ほぼ五分の一の千三百里と見るのは、どう考えても無理です(つまり、不可能です)。

 その間は、当時、どう考えても、道路や港湾の整備がなく、騎馬移動ができないのを考えると、所要期間は、倍になりそうです。

 氏は、淀川水系運航は提案しても、そこまでの行程は示さないのですが、いくら魏使が鈍感でも、長期間の移動の方位や所要日数を体感できたはずで、終生、誤解し続けとは信じがたいのです(嘘だろうという趣旨です)

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 2/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*日程 不届きなドタバタ
 日程論も、伊都国以降の里程解釈に依存していて、直線行程と解釈して最終部が否定困難となったために起こる「ドタバタ喜劇」であり、廃棄することはできないにしても、単なる仮説に落とすべきです。

 魏制が求めたのは、郡から王の居処への所要日数であり、これが「日数水行十日に加えて陸行一月」と明記されているのです。何しろ、郡から末羅国の里数は明確なのに、所要日数は明記されていないわけですから、そう理解しなければ、「倭人伝」として必須記事が欠けていると非難していることになります。

*墨守
 そこまで、内藤・白鳥論争を辿って、論争初期の諸論が行き届かないものであったことを示した後、氏は、自身の理解で捌こうとします。(現代「読者」の理解力が、三世紀「読者」の要件を満たしていれば、それが正解への最短の道里ですが、ほぼ間違いなく、理解力の不足、欠格により、題意の理解に失敗して頓挫するのが、多くの、つまり、ほぼ全員の失敗の前例に示されています)

 方位論を云えば、氏は、相変わらず魏使、つまり、倭人伝「錯誤説」を振りかざします。何しろ、倭人伝の方位が正しければ、持論である畿内説は破綻するので、倭人伝「錯誤説」に固執するのです。そのような錯誤はあり得ないと、百人、千人が諄諄と理屈を説いても、「錯誤説」を撤回できないのが、背水の陣というものなのでしょう。
 魏使が、行程上の諸国間の道里、里数を提供したという誤解は置くとしても、伊都国記事に付された各国への道里行程の方位に間違いがある途方もない言いがかりが蔓延しているために、諸兄の誤解に論拠を与えているように見えるのが、深刻なのです。

 道里論で云えば、畿内説諸兄の例に漏れず、氏は随分「数字に弱い」と思われます。短里説を認めると、畿内説は破綻するので、変則理解に固執するのです。これも、また、不退転、背水の陣でしょう。これでは、論議が収束しません。

 日程論も同様です。水行十日、陸行一月が、(投馬国から)邪馬台国に至る道里として行程最後に来なければ、畿内説は破綻するので、俗説に固執するのです。不退転、背水の陣ばかりです。

 後に、三世紀の中国史書魏志の一記事である「倭人伝」が二千年に近い考証で検証されてきたのに対して現代東夷の勝手な解釈を押しつける目的で、倭人伝と同等の考証を受けていない東夷の『不法な』史料である、四百年後の七世紀書紀記事(隋使裴世清来俀とこじつけられているもの)を動員しての畿内説墨守は、学術的論議の手順を踏み外していて、感心しないのです。(それでは駄目ですよの意です。そもそも、中華に服属するのに、自前の天子を掲げる「正史」など、自国年号共々「論外」であり、下手をすると討伐されるのです。)

 三世紀中国史書は、三世紀に書かれた文化背景、先行史書の視点で解釈しなければ、編纂者の真意と当時読書人の理解を追体験することができないのです。つまり、浅慮に基づく勝手な誤解、極論すれば史料改竄になるのです。

 学術的な論議の前提として「書記」の史料批判が不可欠なのですが、この不可欠な手順を飛ばして、国内基準の読解が超法規的に投入されるのは、問答無用の最終兵器ということなのでしょうか。

 それでは、論証として、不備が満載で、後世の批判に耐えることができません。勿体ないことです。

*数字嫌いの食わず嫌い
 氏は、この蒸し返しで、最終行程の一千三百里が、長里なのか短里なのか比較検討ができないようです。
 短里制に大きな疑問がある」と嘆じていますが、疑問があるなら、ご自身の脳内の混乱を放置せず「聞くは一時の恥」と言う至言に従うべきです。このままでは、氏の不明が歴然と残され、末代の恥で、まことにもったいないのです。
 
 理解が困難なら、当方が好むきりの良い数字で、概数が自明として、「約」抜きの短里七十五㍍、長里(普通里)四百五十㍍と「仮置き」して場合分けして評価したらいいのですが、氏は、思考が混乱して文末まで動揺し続けたようです。
 
 わかりやすく言うと、一千三百里は、長里とすると五百八十五㌖、短里とすると三十五㌖で、それぞれ、諸々の誤差、不確かさを考えれば、一応、畿内説、九州説に適した数字と見えます。

 それが、自説にとってどういう意味を持つのかは、ご自分で考えていただきたいものです。

*里程論の突き当たり
 郡から末羅国までの里数を考え合わせると、倭人伝の短里/長里判断で、短里はそのまま理解できるのに対して、長里は不合理な「誇張」が必要です。後で蒸し返しが来ますが、理屈を整理すれはそれだけです。
 
 因みに、先ほど提示したように、測定不能な海上里程や測定困難な倭地里程を、どの程度の精度のものと評価するか、掘り下げが必要でしょう。
 
 この程度の理屈が聞き分けできなければ、全て一緒くたにして排斥し、短里説全面否定となるのも無理からぬ所です。

 そもそも、論争で、相手陣営の論理が聞き取れずに、感情/情緒だけで首を振り続けると、子供の口げんかになってしまって、とても、大人の論争などできないのです。
 いたずらに醜態を露呈し続けるのは、勿体ないことです。

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 3/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*魏志行程記事と古墳時代開始時期
 当ブログ記事の筆者たる小生は、元々、古代史に関しては「素人」ですが、素人の限界を多少なりとも緩和するために、それなりの勉学を重ねてきましたが、全般的な勉学に手が回らず、国内古代史学については、勉強不足になっていることを申し上げておきます。
 今回も、勉学の立場で読み進めたのですが、小生の乏しい知識でも、同意しがたいご意見が見られるので、素人なりに批判しています。

木津川水系重視の視点賞賛
 当論説で意外だったのは、魏使の河内到着以降の旅程が、淀川~木津川水系にとられていて、それは、流域に散在する初期古墳の時代比定と連動していることです。つまり、淀川~木津川の流域に展開した勢力が、なら山を越えて奈良平野に進出し、平野の中・東部、今日「中和」と呼ばれる纏向で周辺を睥睨したとの設定のようです。淀川~木津川水系 から、奈良平野北部、後の平城京領域に出る移動・輸送経路は、小生がかねてから、西の方から奈良平野への経路として最有力として着目していたので、ここに取り上げられたのを見て、我が意を得たとの感慨があります。(なぜか、無理難題山積の大和川遡行にこだわった先哲が多いのですが、その衣鉢を継ぐ諸氏は、同説に囚われて、自由な視点を取れずにいるようです)

 そのような進出と展開には、最低でも二世代六十年は必要と思われるので、淀川水系の古墳造成が三世紀中頃に一応整ったのであれば、纏向は、遅れて四世紀中期の古墳造成開始となるのではないでしょうか。
 まことに、無理の無い、筋の通った作業仮説ですが、これ以降、あまり見かけないのは、纏向学会で賛同を集められなかったのでしょうか。

*おわり方の問題
 「おわりに」と題して、少し長めの結語が書かれています。
 その一は、中国王朝の記録能力を正視して行程記事を正当に評価するという趣旨です。自戒、自責を込めた言葉として貴重で、同感です。
 その二は、考古学成果をもとに、三世紀当時日本列島を統轄する政治中心がどこにあったか明らかにするという趣旨で、賛成できません。

 古代史用語で「日本列島」は、概ね、今日の近畿以西の西日本ですが、そもそも、三世紀当時、この広大な地域を統轄する政治中心があったとは、作業仮説、要は、単なる思い付きに過ぎないと思量します。ないものの所在地を明らかにするのは、できない話です。氏は、素人ではないのですから、学者らしく、もっと手前から、丁寧に検証を一段一段重ねるべきです。
 
 また、『「古墳時代」のはじまり』が、「以前より早まった」とは、学説の表現方法としては、ちと稚拙の響きがあります。近年蔓延している若者言葉に染まっているのではないかと憂慮しています。
 そのため、提示された概念は、一段と不可解
です。
 当論説を見る限り、「以前」は、纏向地区の墳丘墓のはじまりが「古墳時代のはじまり」とされていたと思えるのです。不可解な動揺です。
 
 当論説に依れば、淀川水系の墳丘墓の副葬銅鏡が、中国由来で先行していたとの仮説を踏まえた考古学的見解のようですが、他分野に影響するので、「考古学学界内の台所事情による辻褄合わせの作業仮説」では済まないのです。纏向を中心とした奈良平野内の考古学的な研究活動、就中、長年にわたる広範囲の発掘活動は、多額の国費と地元協力者の労苦に支えられているので、厳密な論証と焦点を定めた有力仮説の検証に絞られるべきと考えるのです。
 巨大な計画は、それ自体、自己正当化の本能が発生するため、捏造や虚飾の危険性が高まるのですが、天に恥じない公明正大な活動を貫けているでしょうか。

 諸々のしがらみに連なっていない素人なりの危惧を提示しておきます。

*正当化困難な言い分
 「魏や遼東に発した数百枚の銅鏡が連綿と将来された」という仮説や「魏使が淀川水系を通過した」という仮説は、ベタベタの常套句で「今後の発掘に大いに期待」するとしても、論拠が明確でない以上、氏の思惟にとどまる、単なる作業仮説であり、そのように明記すべきものと理解します。要は、論考に遙かに及ばない、個人的な「思い付き」であり、この場に書き立てる意義が理解できません。氏の周囲には、率直に批判してくれる学友はいないのでしょうか。氏の不快を買うことを怖れず、苦言を吐く人が、真の学友と思うのです。
 
 行間を読むと、氏には、卑弥呼の墓を纏向に誘致するとの使命が課せられたようですが、大黒柱の三角縁神獣鏡魏鏡説が、実質的にほぼ崩壊した今、正当化手段に窮して、引くに引けず、強弁していると見えて、しぶといと云うより、痛々しいのです。

 と言うことで、畿内説に基づく本論説は、倭人伝錯誤説や魏鏡説など、根拠不明で正当化「困難」な作業仮説が、あまりに多く含まれています。因みに、当方が「困難」と言うのは、社交儀礼に従った古風な婉曲表現で、若者言葉で言うと「不可能」なのです。

 今日日の口喧嘩では、「不可能」には「成せばなる」の反論があって、「絶対不可能」と追い打ちする
のですが、普通の日本語では、「困難」と言えば十分強い否定表現なのです。
 真意を誤解されないように、念押しします。

                               完

2021年8月19日 (木)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 前編      1/2

  字書参照、用例検索  2021/08/19

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は、「径」と「步」は、「歩」と同じ文字です。ここで、「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡しとの解釈が当然としているようですが、古典解釈では、当然は、思い込みに繋がりやすくもっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であるので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」が百歩となります。女王の円墳への参道が、百歩、百五十㍍となります。
 榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の深意かと想ったものです。

 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れ、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月で、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。

 「歩」は、土地制度「検地」単位で、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。「径百余歩」は確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 探索を「九章算術」なる古典書に広げます。算数教科書で検索から漏れたようです。「専門用語は専門辞書に訊く」鉄則が古代文献でも通用するようです。

 手早く言うと、耕作地測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、円周率は三です。農地測量で面積から課税穀物量計算の際、円周率は三で十分です。それだけでも、一仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は円形の可能性がありますが、行政区画に円形はないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 後編      2/2

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも、曲筆もありません。
 液化学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄と棒二本でほぼ完璧な径百歩円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」~不適切な伝統継承
 「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。
 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、円部の盛り土形状と方部の形状が推定でき、盛り土の所要量が算定でき、全体としての工事規模が想定できる有意義な形容です。
 「九章算術」は、矩形地では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は廣掛ける従なる公式を残しています。「径百歩」とあるだけでは、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが定式であり、対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統
 倭人伝記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」。「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなるという「寓話」です。

 史料記事に無い「実際」を読むのは、史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきなのです。
 結果、箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説に、退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2021年8月17日 (火)

今日の躓き石 NHKに望まれる「美しい言葉」垂範 「リベンジ」撲滅に力を

                        2021/08/17

 今回の題材は、「スポーツXヒューマン」「”誓い”のメダル………」と題するオリンピック体操競技に関するドキュメンタリーの再放送である。

 ここで讃えたいのは、選手達の努力の尊さとともに、それを冷静に報道するNHKの心意気である。選手は、目指すのは、技術の完璧さだけで無く、「美しさ」だと聞こえた。

 ところが、それを、視聴者に伝えるはずの大事な番組で、選手が漏らした「リベンジ」のこの上なく汚い失言を、そのまま取り上げているのは、まことに勿体ないと思うのである。これでは、選手個人の暴言の記録を「永久保存」、「無限拡散」してしまうのである。
 選手達は、目前の体操演技の向上に専心していて、口に出している言葉が世間にどう受け止められるか、考えが行き届いていなくて、周辺の指導者も、気づかないのは無理の無いことだが、世界一の日本語を持ち合わせているNHK関係者が、何も選手の言葉の「美しさ」の向上に寄与していないのは、困ったものである。

 NHKの番組の言葉遣いは、全国民のお手本であり、はるか後の世代まで影響を残すのである。公共放送としてのNHKには、そこに出てはならない言葉があると理解いただき、世間の忌まわしい流れ、病害蔓延を堰き止めて欲しいのである。

 毎回繰り返すので、あごがくたびれるのだが、「リベンジ」なるカタカナ語は、英語に根ざしていて、英語では、血なまぐさい復讐を意味し、世界に渦巻くテロリズムの根強い源泉になっているのである。そして、報復、復讐のくり返しは、世界に悲惨な出来事を繰り広げ、繰り返すから、「リベンジ」は神の手に委ねて人は恨みを晴らすな、と言うのが、古代オリエント、メソポタミア文明に元を見いだせる世界宗教の根本的な戒律である。

 どうか、NHKの番組から「リベンジ」が絶滅し、番組の取材過程で、NHK関係者が、これほど大事なことを習っていない人々の心に、「リベンジ」を口にしない「美しい」心を広げるように望みたいのである。

 後世に「美しい」言葉が残るように望むものである。

以上

2021年8月16日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 1/12 序論1

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

〇はじめに~謝辞にかえて
 本書は、かねてから古代史論で兄事する刮目天一氏が、第三者ブログを舞台に、小生(当ブログ筆者の一人称)の専攻範囲「倭人伝」について、高柴氏と問答しているのを拝読して、どう差し出口するか迷ったあげくの題材です。
 第三者ブログ投稿に第四者が口を挟むのは、無作法ですが、放っておくにしのびないので、本書書評で、高柴氏の見解に口を挟むことにしたものです。
 ご両人はもとより、対話の場を提供された氏の厚誼に感謝するものです。
 以下の書評はお耳触りでも率直な意見と聞き置いていただければ幸いです。

〇古代史論争に涼風一陣
 まずは、長年混迷が続く倭人伝談義の経緯を精査し、漂う暗雲というか、泥沼に似た混迷を歎いて明解な筋を通す建言に、全面的に賛成します。
 つまり、『倭人伝論議は、信頼すべき文書史料「倭人伝」を全考察の出発点としなければ、混沌に目鼻がつかない』との提起と思います。

 既に世紀を越えた仁義なき議論は、浄き高嶺を目指して難所に登攀路を創出すべく先を競っていますが、私見は、それと別に、最寄りの高みへの「散歩道」を進むというものです。ご不快でしょうが、耳に留めていただければ幸いです。

 砕けて言うと、例えば、倭人伝」冒頭の「倭人」紹介や郡から倭に至る「道里行程」記事は、締めとする「読者」に倭人なる新参の東夷を紹介する「倭人伝」のつかみの部分であり、多少の謎で好奇心を喚起するのは序の口で、以下は、読者の教養をもって読み解ける程度の「問題」であったはずです。

〇論争混迷の実相
 後世人には、「倭人伝」を読解する教養に欠けるにも関わらず、読み解けないのは誤記のせいとの「神がかり」説が出回っています。
 そんな風評のため、「倭人伝」の道は、大半の「読者」にとっては、踏み込みをためらう「荒れ地」 であり、家庭ごみや業務廃材に類するごみを投棄されて、「荒れ地」にすら見えなくなっていると見えます。
 倭人伝は、同時代に関する最も有効な史料であり、廃材をどけて、じかに噛みしめる時と思うのです。

〇失敗の効用~惹き句の失敗
 「発明王」トーマスエジソンによれば、失敗例は、探索範囲を一段絞らせるので、幾千の失敗例は、そう見えずとも、針路を照覧していると見えます。

 ちなみに、「惑わされない」は倭人伝と齟齬します。卑弥呼は「衆を惑わし」多くを感動させ共立されたのが筋で、「迷わされない」と字を変えた方が良かったようです。
 「倭人伝にあいまいな記述無し」は不用意で、概数表現のように、『過不足無く「あいまい」である』と考えます。
 帯惹句の「一切の固定観念」は勇み足で、「固定観念」の取捨選択なしの読解は不可能です。現に、本書は「固定観念」満載です。「合理的」も要らざる断言です。過去論者は、全て自分なりに「合理的」な判断と自負していたわけで、「自分なり」同士の衝突は解決不能です。

 まあ、これらは、恐らく出版社の営業方針によるもので、氏につけを回すのは筋違いなのでしょうが、「随分損してますよ」と言うところです。

 氏の指摘が大勢の混濁を晴らすだけに瑕瑾を指摘したくなったものです。

〇景初遣使論争の意義
 因みに、契機となった両氏論議は、魏志東夷伝/倭人伝の「景初遣使」の経緯の解釈で、史料に立脚した論議を進めようとしているのには、敬服しますが、史料から御両所の「合理的」見解に移ると「固定観念」に足をとられて迷走していると感じたものです。
 「ダイハード」の諺のように「悪い癖ほど止められない」のです。

 それにしても、能書きはどこへやら、「通説」やら「俗説」やらを棄てきれずに引き摺っているのは、もったいない話で、ゴミ屋敷必然です。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 2/12 序論2

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

〇裏切られた抱負
 氏は、『安易な「通説」追従や無効な「固定観念」を棄却して、論理の筋を明解にする』抱負ながら、当然必要となる「原文回帰」が果たせていません。
 実際には、東西両派を問わず、数多くの「固定観念」が混沌に手を貸しています。この点は、まことに残念であり、この急転はまことに残念です。

〇借り物の固定観念
1.短里説の不都合
 行程道里記事の解釈は、倭人伝解釈の基礎の基礎であり、冒頭で解明しなければ、以下の論議の混沌に繋がります。この際、一から洗い直すべきです。

2.史料批判の欠如
 倭人伝に対する批判の根拠とされる諸史料ですが、適確な史料批判のないままに起用されているのが不適当です。自明に近いものを列記しておきます。
⑴「三国史記」史料批判の欠如
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅に関する記事は、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク]であり棄却すべきです。要は、統一新羅を高揚し、敵対「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。

 統一新羅といえども、「倭人伝」時代は、まともに国史記事を残せなかった辰韓の一員「辰韓斯羅」に過ぎず、倭国使を受ける立場にありません。
 同記事は、年代比定が不合理で、採用した断片史料が、不都合な断片かと思わせます。と言うことで、本記事は、後世編者が、後知恵で半ば捏造したものとして、棄却すべきです。
 氏は、「通説」論者が道ばたのごみを盛り付けた「ごちそう」にかぶりついているもので、「拾い食い」は止めた方が良いですよと進言するだけです。
 氏には、慎重な史料批判を求めます。

⑵「翰苑」史料批判の欠如
 本件は、小生にとっては、解決済みです。氏は、正確な史料批判のできない福永氏の提言に依拠し、これは「固定観念」の最たるものでしょう。
 福永氏は、「翰苑」の現物(影印版)を精査することなく、不正確な文字起こしに推定を重ねて「謝承後漢書」なる散佚史書を勝手に再構築し、現存「倭人伝」対等史料としたもので、率直に言うと、福永氏ほどの学識の方に不似合いな粗忽と言うしかありません。誰も、氏に対して事実誤認を指摘しなかったのは、「学界」として機能不全と見えます。いや、学説として公開していないから、批判されなかったのかも知れません。
 言うまでもないことですが、原文資料から書写、引用を重ねると、原資料から遠ざかるにつれて急速に失調が募り、史料が損壊してしまうのは常識中の常識で、そのような行程で起きる破壊的な誤写雪崩は、一度起きれば、取り返しのつかない惨状に陥ります。そのような惨状を満載した非史書「翰苑」は、原本でなく、不確かな引用を重ねた誤写満載「資料」なので、文献論議には、無用の廃材です。

 このような不当な史料を根拠に論議するのは、冒頭の崇高な抱負に反するものであり残念です。氏には、慎重な史料批判と証人審査を求めます。

〇所感まとめ
 主要部だけで力尽きた感じですが、氏は、新しい革袋の雑味のない「新酒」を、と訴えています。古いワインには古いワインなりの滋味があるのですが、氏は、「先賢」の独断と偏見を検証不十分なままに温存した古いワインを「新酒」と触れ込んでいるのは、民心を「迷わせて」いるのです。

*今さらの「長大」論議
 例えば、「長大」なる普通の言葉の解釈を、用例を踏まえた古田氏の提言に背いて、俗説の老齢の決め込みで、無法な卑弥呼老婆説捏造に加担する類いの(Die Hardest)愚行は、金輪際是正できないのでしょうか。
 倭人伝をそのまま読めば、魏使が書いたのは、「女王は小娘時代に女王に担がれたが、ついこのあいだ、成人になった」と言う、まことに合理的な報告と思うのです。因みに、ここで示された「長大」は、「成人」となったという意味であり、「いい年をしている」という意味ではないのですが、違いがわかるでしょうか。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 3/12 目次評

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

〇本書目次紹介
 21の鍵がどんな順序で開示されるか見ることができます。
第一章 倭人伝の前に
 邪馬台国はいわゆる大和朝廷の前身ではない     ー 惑わされない鍵  1
 倭人伝の間違いは多くない             ー 惑わされない鍵  2
 倭人伝は短里で書いてある             ー 惑わされない鍵  3
 三国志では長里と短里が混在            ー 惑わされない鍵  4
 朝鮮半島の南部には倭人がいた           ー 惑わされない鍵  5
 朝鮮半島は全水行ではなく大部分が陸行       ー 惑わされない鍵  6
 弥生時代の年代観                 ー 惑わされない鍵  7
 魏使は何故遠路を越えてやって来たのか       ー 惑わされない鍵  8
第二章 倭人伝に従って進む
第三章 伊都国から邪馬台国へ
 志賀島の金印をどう読むのか            ー 惑わされない鍵  9
 「奴」の古代音                  ー 惑わされない鍵10
 「奴園」はどこにあったのか            ー 惑わされない鍵11
 不弥国へ                     ー 惑わされない鍵12
 魏使は投馬国に行ったのか             ー 惑わされない鍵13
第四章 邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった ー 惑わされない鍵14
 春日市の王墓                   ー 惑わされない鍵15
 伝世鏡理論は成立しない              ー 惑わされない鍵16
 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない         ー 惑わされない鍵17
 三角縁神獣鏡はどうして作られたか         ー 惑わされない鍵18
 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない           ー 惑わされない鍵19
 魏の薄葬と大形前方後円墳とは結びつかない     ー 惑わされない鍵20
 纏向古墳群は邪馬臺国ではない           ー 惑わされない鍵21

〇目次評
 21の鍵が、無造作に羅列されているのは無策に過ぎます。明らかに、脇道、道草と見える「鍵」が多く、氏が、全体像を適確に描けていないと思いやられます。余傍の路で力尽きては、目的地に着けません。
 本筋を見出すには、安本美典氏著作に見かける「絵解き」(ビクチャー)が必要でしょう。
 明解な道程を発見するためには、「鍵」を差すべき扉に、妥当な順序があるはずであり、大事な問題が後々で浮上するのは不出来に過ぎます。
 因みに、小生は、倭人伝二千字全体を噛み砕くのは終生無理として、冒頭の行程道里記事の追求に専心しているものです。

*余談
 懸案の景初遣使が帯方郡に着いたのは景初二年六月と魏志に明記されていますが、これでは、「物理的に」間に合うのは九州倭人だけで、郡から狗邪韓国まで船旅では、ますます間に合わないので、反対論者は、必死で「誤字」、「誤記」、「陳寿曲筆」、「史料改竄」と力説するのです。「二」を「三」の誤記だと必死でこだわるのは、「纏向」説の生死に関わる一大事とみているからです。巻き込まれてはなりません。

 これは、古来、論争敗勢時の常套戦術の「焦土作戦」であり、とにかく、敗勢にあると自覚してるいので、あることないこと山ほど言い立てていますが、こんな「些細なこと」に大騒動を巻き起こす相手とは、かかずり合いたくないものです。

 諸兄は、いらぬ巻き添えを食わないよう、ご注意下さい。本件は、学問の核心ではないのです。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 4/12 里制論

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

〇見過ごされた課題
 本項は、ちと問題が大きいので、改ページしました。以下、……記号は[中略]とし、短縮を図りました。
    (「てにをは」書き替えあり)文責当記事筆者

 ⑶三国志里制論 惑わされない鍵 4
*明解な結論 無用の短里論
 議論を絞ると、秦以降、秦が提示した450㍍*程度の「普通里」以外の「里」制度史料は存在しません。(*計算の便に50㍍単位で丸めたものであり、当時の実施と無関係です。一尺25㌢㍍、一歩6尺150㌢㍍一里三百歩の体系です)

 「里」は、国家制度の基幹である土地制度に直結しているので、「里」を数倍ないしは数分の一に改変すると国家体制崩壊に繋がります。従って、「普通里」は、遙か後世まで維持され、激甚事項は、もしあれば、正史に記録されます。

 「晋書地理志」では、周代以来晋代の「里」制は、一貫して「普通里」です。周「普通里」に従った秦は、自国の「普通里」を全国里制としたのです。戦国諸国里制は、順当には周「普通里」と見えますが、秦始皇帝が各国制度を破壊したので、絶対確実というわけではありません。
 つまり、秦始皇帝は、全国度量衡を統一するに際して、日常生活に密着した「度量衡」は、物差、升、錘の原器を配布しましたが、里は含まなかったと見えます。「普通里」は、「尺度」や度量衡には属さないものです。

 各国土地制度は、検地が根幹と思われ、「普通里」が各国「里」と異なれば、検地、土地台帳新製が必要ですが、物理的、心理的に大事業です。秦が、各国の制度の破壊をためらわなかったとすると、いずれ、農民反乱を招くものですが、秦始皇帝は、皇帝の強権を持ってすれば、平定可能とみて強行した可能性が濃厚です。

*魏晋朝短里制はなかった
 史料を総合的に判断して、短里制施行仮説は、明確な短里制布令の証拠を欠き、里制変更に伴う、全国的な社会混乱が記録されていないので、本件は棄却されます。

*個別記事検証は不要
 また、三国志に「普通里」と異なる里長記事を見る提議は、当記事の検証にとどまり、国家制度を論証する効力は有しえないので、棄却すべきです。
 里制は国家制度であり、土地制度の根幹であるので、辺境といえども郡管内に徹底されたものと思われます。

 また、各拠点間の行程道里は、精度を期しがたいので、公式記事の字面から、制度を推定すべきではありません。つまり、いくら事例を数多く集めても、不確かな数字の収集に過ぎず、国家制度を証する効力は無いのです。

*限定的に有効な「地区里」宣言 (private, local)
 倭人伝道里行程記事の冒頭で、「郡から狗邪韓国まで七千里」と書かれているのがこの際の「里長原器」であり、同記事は、普通里と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、倭人伝は別世界なのです。それが、この際の史実です。言葉の綾ですが、地区里とは、全国制度や郡制度でなく、倭人伝が臨時に採用している「里」という意味です。魏志三十巻の末尾で適用されていても、それ以降の適用はありません。
 「従郡至倭」全区間万二千里は、そのような「地区里」とみるべきです。肝心なのは、倭人伝として首尾一貫していて、二千字資料だけで、読者が資料内の「道里」を検算できるということです。

*異次元排除
 因みに、「道里」は、文字通り「道のり」です。
 面積単位「方四千里」等の「方里」は、別次元単位なので流用は禁物です。「地区里宣言」以前の高句麗、韓記事で導入され、宣言後の對海国、一大国記事のみに表れる、さらに特異な「里」ですから、道里とは別義です。
 ちなみにも「道里」が、古典用語の流用として当時の流行概念として通用していて、それが、予告無しに倭人伝で採用されたというのは、意味不明の混乱に過ぎません。倭人伝は、史記、漢書を継ぐ「正史」として書かれたものであり、最終的には、皇帝の御覧を得て採用されるものですから、春秋を含めた古典書に前例のない流用など、許されるものではありません。

 そうそう、別次元というと、並行世界とか連想が湧きそうですが、「道里」は、尺、上、寸と同様、一次元単位であり、「方里」は、土地制度に由来する二次元単位(面積)ですから、足し算、引き算はできないという意味です。単に「里」でも前後関係で判断する必要があります。

*「歩」と言う面積単位
 古代史料の「歩」(ぶ)は、農地面積測量で多用される「方歩」であり、歩(ほ)幅と無縁ですが、「俗論」では、誤解している方が通例です。

                             この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 5/12 臺論1

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

第四章邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった 惑わされない鍵14
 陳寿も范曄も裴松之も李賢も「謝承後漢書」を見ていた
 さて「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあります。……邪馬台国……は「三国志」……全版本で「邪馬壹国」と記載されています。……しかしながら、「後漢書」では「邪馬臺国」……、隋書では都を「邪靡堆」と表記し……中国史書の中では三国志だけが「邪馬壹国」……でした。

 この鍵は、重大な位置を占めていますが、氏の提言は、根拠薄弱、論理混迷で、説得力がなく、言葉を飾り立てるに過ぎません。いくら飾り立てても、肝心の論証が不調では、虚飾の誹りを免れません。まず、史料批判ですが、史料は、一山いくらの目方評価でなく、文献として、一件ごとに信頼性評価すべきです。倭人伝は重鎮であり、ごみの山にはごみの価値しかありません。

 丁寧に見ると、隋書は「俀国」で「倭」ではありません。国名を信用して良いのでしょうか。「靡」、「堆」は、何と読むのでしょうか。

 ……福永晋三氏は……元々は「邪馬臺国」と書かれていたことを見いだされ、九州古代史の会において「邪馬壹国こそなかった」と題して講演されました。その論旨を要約してご紹介します。 (講演会発表依拠で、原資料の確認ができないいい加減な引用で矢面に立たせては、福永氏に失礼です)
 ……「後漢書」は范曄……ですが、……謝承……「後漢書」があり……「謝承後漢書」は……残っていませんが、……范曄も参照したと見られ……ます。

 口頭発言の書き下ろしで、筆が曲がっていますが、范曄「後漢書」原本は現存しません。「現存後漢書」は、范曄編纂史書そのものでありません。正史に不可欠な地理志などの資料部分「志」が欠け、李賢太子が、先行司馬彪「続漢書」の「志」を足して正史の体裁を整えたものですが、李賢太子等の補注共々、笵曄の知らないことです。真っ直ぐに書いてほしいものです。
 それにしても、福永氏は、どこから「元々」を見出されたのでしょうか。神がかりでもしたのでしょうか。不適当な引用です。

 笵曄は、南朝宋、劉宋高官で、裴松之同時代人ですが、陰謀に連座して嫡子と共に斬首され、笵家は断絶しています。どんな経緯で大罪人の遺著が継承されたか不明です。劉宋が南齊に代わった時、名誉回復されたでしょうが、既に袁宏「後漢紀」等があり、直ちに正史扱いされず写本継承経緯は不詳です。
 因みに、范曄「後漢書」の李賢補注記事は、范曄が、編纂時に棄てた記事断片に過ぎません。高官笵曄は激務の中、後漢書編纂に着手した動機として、先行書の風聞、俗説を是正し、品格ある史書を残したようです。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 「謝承後漢書」は、散佚して現存していません。佚文があっても、当然、原本にその通りの記事があったと信じることはできません。因みに、後漢書に次ぐ史書として、袁宏「後漢紀」があり、こちらは、良好な形で現存していますから、信じることができます。ともあれ、長年検証された正史に対抗するには、同等以上の検証を経た史料でなければなりません。

 因みに、掲題の諸先哲は、当然、「謝承後漢書」の良好な写本を所持していたのであり、採否はいずれかとして「見た」などと侮るべきではありません。

 近来疎かとは言え、「史料批判」は、太古以来行われていたのです。

 これに対して、近年は、ごみ同然の佚文を、長年検証された正史と同等に見て正史を改竄する「奇矯」軽薄な議論が正史考証の基本を外しています。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 6/12 臺論2

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 ……陳寿も范曄も斐松之も李賢も……「謝承後漢書」を見たと思います。

 裴松之が付注に参照した史料は明記されています。裴松之補注は、陳寿が割愛した諸史料を蒸し返した例が多く、後世の東夷が安易に論じるべきではありません。裴松之は、謝承後漢書から好んで補追したとは見えません。また、「陳寿が不勉強で謝承後漢書を知らなかった」と速断しては、軽率と言われるでしょう。福永氏は、随分尊大不謹慎と見えますが、高柴氏の引用錯誤も想定されるので、原文要確認です。

 なお、四先哲は、同時代人でなく、陳寿と裴松之、笵曄は、百年以上離れて、同時に読むだはずはありません。まして、李賢太子は唐代で別時代です。それぞれ、見たからどうだというのかと、反発必至です。

 福永氏は「翰苑」高麗条に引用された雍公叡註三種の後漢書の内、最初のものは……「魏牧魏後漢書」で、次が……「苑嘩後漢書」、三番目の無名の「後漢書」が「謝承後漢書」である可能性を……見出され、「翰苑」の史料としての価値……を指摘しておられます。

 翰苑「高麗」(高句麗)記事は、「魏牧魏後漢書曰」と書き出しますが、単なる誤字を超えた深刻な問題をはらんでいます。本来は、「魏収」(人名)編纂「後魏書」(南北朝 北魏史書)で、誤記連発、混乱多発です。つまり、原本の「魏収後魏書曰」を粗忽な(素人か)写本工は、「魏牧」と誤記したのに続いて「魏」と書いて「後」を飛ばしたのに気づき、付記の後、書き癖で「後漢書」と書いたのでしょうか。高貴な書物の筆写で弁明不可能な不手際の弁明できない連発です。

 写本工には「魏収」が人名との認識はなく、「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったのでしょうか。この写本工は、誤記に気づいても、修正も目印付けもせず、出来上がった写本には、校正がされていないのです。

 「翰苑」断簡は、文書の格式が乱れていて、一行当たりの文字数は成り行き任せであり、本来格式の定まった原本を参照して写本していないためでしょう、諸所に齟齬を生じています。粗忽な走り書きの連鎖とも見えます。
 つまり、「翰苑」断簡は、書家が珍重する「国宝」文化財であっても、文書史料として全く信頼できない文字資料で、魏志現存刊本倭人伝に明記されている「壹」を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たないのです。

 それ以外で、単に「後漢書」とあるのが、謝承、笵曄いずれの欠落なのか不明ですが、常識的には高名な范曄後漢書と見るものでしょう。「翰苑」は、文筆家のために文例集であることから、編者は、文筆家として高く評価された范曄の美文を優先したと思われますが、確認してないのでしょうか。

 いずれにしろ、このように不注意な誤記が放置され信頼できない史料の無批判な考察を根拠に、信頼すべき史料の誤記を主張するのは虚妄の極みです。
 そのような史料錯誤に気づかないのは福永氏の粗忽に過ぎません。「翰苑」転けて、「福永氏」転けて、そして、と言う誤解の連鎖は、いつ停まるのでしょうか。小生が、ことさら指摘する意味は、おわかりいただけるでしょう。

もとの三国志では「邪馬臺国」となっていた
 以上を踏まえて問題の「邪馬壹国」の部分を見ればどのようなことが判明するのでしょうか。

 以上のような「地雷」を踏んでも平気だというのでしょうか。勿体ないことです。何しろ、簡単な事柄に対して筆が泳ぐのは困ったものです。
 この鍵は、既に無効と判断されていますが、事のついでに追いかけます。
                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 7/12 臺論3

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 謝承後漢書」では「邪馬壹国」……范曄も「邪馬臺国」と記した可能性が……あります。……斐松之が、「邪馬壹国」の部分だけは見過ごしたとは考え難いと思います。と見れば斐松之が見た「三国志」では「邪馬臺国」となっていた可能性が……浮上します。

 「謝承後漢書」に東夷列伝・倭伝を「見る」のは、根拠の無い幻想です。一方、三国志で東夷国名は些事です。裴松之が特段の関心を持ったとは思えません。論議に値しない「可能性」は、さっさと廃棄すべきです。

 ……「三国志」……原本は残っておらず、「三国志」が……刊行された……北宋……南宋となった以降にも……刊行されています。後の時代に……「邪馬壹国」と書き換えられた可能性があるのでしょうか。その場合、……意図があって書き換えられた……ように思われます。

 「何らかの意図」は、不思議です。「印刷工房」所蔵の版木を改竄しても流通刊本は手つかずで早晩露見します。正史改竄は、本当に命がけで、露見すれば(英語で言えば、仮定の問題である、IFでなく、その時どうするというWHENです)、共犯一同斬首で首が飛び、連座妻子は、首が繋がっても、奴隷、宮刑、果ては娼家に売られ「ただでは済まない」のです。誰がそんなことをするのでしょうか。

 近年、強引な説法として、「陳寿原本が、本来自説通りだったのが、後世、原本改竄されて今の刊本になった」とのホラ話がありますが、工程蔵書をどのようにして改竄するのかという疑問を置いたとしても、「どの史書のどの文字も改竄可能」とは、底なしの泥沼論です。氏が、無根拠、無法の「思い付き」株に感染していなければ幸いです。

 これからは推測になりますが、一つの可能性として考えられるのが中央公論社「歴史と人物」昭和五十年九月号に掲載された薮田嘉一郎氏の「『邪馬台国』と『邪馬壹国』」と題する一文です。……三国志の校定者が「邪馬臺」や「臺與」の「臺」という文字を似たような字画(字形)である「壹」と書き改めた可能性があると……述べておられます。

 僻諱で、似た字形の代字を選んだとは、安直な素人考えの与太話です。因みに、正史筆頭三史「後漢書」の「臺」は、なぜ見過ごされたのでしょうか。まことに不思議極まりないホラ話を信じる方も信じる方です。後世正史の「臺」も、残らず生き延びています。
 とは言え、ことの責任を薮田氏に押しつけて済む問題ではないでしょう。誰でも、何か「妄想の虫」に取り付かれる事はあったとしても、評価されれば却下です。「可能性」など無意味です。
 このように著書に書き込むには、証人審査した上で取り上げるべきです。

 ……南宋の時代に……帝の居所を意味する……「臺」の字を東夷の国名に使うことは許されないとする考え方があったとする……、薮田氏の推測は正鵠を射ているように思われます。……はじめに倭人伝の間違いは多くないとしましたが、「臺」の字だけは「壹」と書改められたと見た方が良いようです。

三国志改竄論とは「世も末」です。南宋刊本は、多数の学者が議論して校勘したのであり、版木改竄の大罪を犯すことはあり得ないのです。
 無知な方は妄想を逞しくできてうらやましい限りですが、後世東夷蛮人の推測するように、魏志の「臺」の「筆禍」で、宋代の誰かが処刑されることはないのです。「筆禍」は、あくまで当代王朝、今上帝に対する大逆罪です。

 無学、無知な現代人(東夷蛮人)の無責任な(妻子や両親の「首」のかかっていない)発言は、無視すべきです。「正鵠」は、物知らずの物言いです。
 倭人伝に誤字は希としながら、一字の誤記にこだわるのは、不合理です。

*史家の気骨
 再確認ですが、笵曄は、皇帝退位陰謀を聞かされて、不同意でも密告せず、陰謀加担と見なされ、連座した嫡子共々斬首されました。密告して免罪を避けなかったのは、士人の志を堅持したのです。笵曄は、史記「司馬遷」はもとより、漢書「班固」、三国志「陳寿」も、厚遇どころか、迫害された先例は承知していたのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 8/12 臺論4

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 以上のことから、……、原文で「邪馬臺国」である[あった]ことは疑い難い……ので、本書では以後「邪馬台国」は原文を参照する場合は「邪馬壹国」とし、それ以外の場合は「邪馬臺国」と……します。

 粗雑な論拠に依拠して、原典改竄を確信するのは合理的ではありません。
 歴代皇帝の宝物として継承された正史を、命がけで書き換えるということ自体あり得ないので、暴挙の動機、理由を詮索するのは、時間のむだです。
 そもそも、正史(三国志)の一隅のその又一隅に過ぎない東夷の国名を命がけで書き換える意味が不明です。自国を過大視する自大錯視でしょうか。
 因みに「台」(たい)は、「臺」(だい)とは別の字であり、便宜的に代用されただけです。もともと、「やまだい」だったのです。

何故「南」は「東」の間違いなのか
 さて、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」の部分も読み方の論が分かれる所です。……陳寿は三国志で里程については途中の里程を示しながら最後に合計としての総里程を示し、併せて所要総日程を示……しているのです。……つまり、倭人伝の行程記事は前半は里程で書いてあり、後半は日程で書いてあるとして、最後の「水行十日・陸行一月」を読み解くことが鍵だとされます。……全体の行程を里程と日程の両方を書いて確認するのであれば理解できますが(三国志はその書き方です)、前半と後半を里程と日程に分けて書いて、里程と日程という全く別のものを合わせることで目的地を示す事ができるとするのが通説……と思います。

 比喩が的外れで、足を引っ張っています。真っ直ぐ書けない理由がわかりません。そもそも、道里行程記事の解釈は、倭人伝論冒頭に論じ尽くすべきであり、このような場であたふたと論ずべきことではありません。

 ……「郡より女王国に至る、萬二千余里」と書いてあるのですから、これが帯方郡から女王国までの総里程であることは疑問の余地はありません。不弥国までで、既に総里程一万二千余里の内一万七百余里が消化されています。残りは千三百余里しかありません。……残った里程に「水行十日・陸行一月」も掛かる理由が説明されることも無いようです。……倭人伝……[を素直/普通に]読んだのでは……[必達目標である]「邪馬臺國」にたどり着かないので、前半は里程で後半は日程として全体を引き延ばし、それだけでも納まらないので南は東の間違いと修正する、ということだと思われます。

 直感[思い付き]……は検証して立証することが求められます。……[直感]が結論に直結するのでは学問の看板が泣くのではないでしょうか。
 必要な見識のあるものの「直感」には、価値がある可能性がありますが、無知な素人の「直感」は、「蓋然性」どころか、考えるだけ時間の無駄です。
 但し、そのような評価は、凡人の埒外です。およそ、諸兄の所説は、「直感」に始まっても、検証、考察の果てに世に問うものです。

 因みに、氏は、他人の提言を「直感」と排斥しますが、発表に先立ち、どれだけ知恵を絞ったか、とか、「直感」を契機にどれだけ汗をかいて思案したか、とか、ご自分の行程を振り返って、何か感慨はないのでしょうか。 相手は、背中を振り返って何の看板も背負っていないと歎くでしょう。

 肝心なのは、「敵を作って攻撃して納得させられる」かどうかでしょう。論争は、論敵を説得するものなのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 9/12 臺論5

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 前にも述べましたように魏使は魏帝の命令により女王に贈物を届けにやって来て、その役目を果たし、女王の礼状を預かって帰ったのです。……女王の礼状が都に届いたことは倭人伝に「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」とあることから明らかです。陳寿……は簡潔……、キッチリと行程を述べています。……途中に経過する主な地点を示し、……所要日数[里数か]を書き、最後に合計日数を示すのが今まで見て来た陳寿のやり方です。……つまり、「女王の都する所」で一旦文は終わり、続けて所要総日数が「水行十日・陸行一月」であると述べているのです。

 折角の卓見が伊都国以降「奴国、不弥国、投馬国」は、通過国か脇道国かの岐路が未解決のため、各論輻輳、喧々囂々と見えます。
 陳寿は、泥沼史書を上申稿としたのでしょうか。ここでは、総日数を確定し、その裏付けとなる行程諸国を列記したのではないでしょうか。通過国以外(余傍)は略記、狗邪韓国-倭は(周旋=往来)五千里との注記は無視するのでしょうか。

 初めに述べましたように東夷伝の序文で陳寿は、今まで良く知られていなかったが、東夷の国々はきちんと先祖の祭りを行っている礼儀正しい国で、中国で礼儀が失われた時には見習う事がある……国々であり、今まで……知られていなかったそれらの(礼儀正しい)国々を(初めて)順次紹介する……東夷伝を書き、その締めくくりとして倭人伝を記述しているのです。

 原文の文意を誤解していますが、そもそも「国々」(複数?)と解するのは、勘違いです。ここで礼賛されているのは、ただ一つの「倭人」です。高句麗、韓は、反乱を起こして討伐されていて、賞賛されるはずがありません。ここぞとばかり「自大」論をぶつべきです。

「不弥国」の南にあった「邪馬壹国」
 さて、倭人伝では「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあることで、「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」……と述べました。……「邪馬壹国」の所在地探求は……分かり易いものだと思っております。それを難しくしているのは予定(想定)した場所にたどり着かないと考える人達によって、ねじ曲げた解釈が繰り返されて複雑な様相を示し、それをそのまま受けて、岨噌せずに流すメディアによって拡散されたからだと言わざるを得ないのです。

 メディアは、「鵜」の親戚で、早のみこみの拡散が商売で、歯が無いので咀嚼できないのです。批判すべきは、未検証の「新説」をばらまいて餌付けしている一部研究機関です。見当違いなところにつけを回さない方が無難です。

 「不弥国」に続く「南、投馬国に至ること水行二十日」の一文の解釈に論の余地があることは述べました。しかしながら、今まで見て来た通り、「至」には方向だけを示す場合と実際にそちらに行く場合とがあることがあり、実際に行く場合は始めに進みだす方向を示し……たと思っております。

 素人目には、原文の文意を適確に理解したとの「思い込み」が、本来明解な文意を撓めていると見えます。文意は、まずは、文書自体に聞くべきです。

 奴国、不弥国、投馬国記事は、伊都国起点の道案内だけで、倭人伝行程に関係無いとする「明解な」見方が一顧だにされてないのは残念です。行程道里は、郡文書使の周旋行程の所要日数と初見以前に提出された概念的道里が要点とご留意いただきたい。
 魏使の行程、場違いな時代錯誤の観光案内は、書かれてないのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」10/12 臺論6

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 この書き方から見れば「南、投馬国に至る」……は行ったのではなく、……方向を示し……、「南、投馬国に至ること水行二十日」……は「邪馬壹国」への道筋……に必ずしも必要ない……のです。……この一文を除いても「邪馬壹国」への道筋に……影響が無いことになります。従って、この部分を除いて……みれば「東行不弥国に至ること百里。南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」となります。……「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」がある事が明確ではないでしょうか。……距離が書いてないのは……五百里、百里、百里と来て最後はゼロだ、と……なると思います。そうして女王国の所在を示した後に、所要総日程は水行十日・陸行一月であると述べて……います。そして……郡治からの総里程が万二千余里……です。……実に簡潔で分かり易いのです。

 ここまで、東夷蛮人の理解で文章を組み立て直し、解釈の視点をひねくり回しておいて、恐れ入谷ですが、氏の解釈のどこが「簡潔」なのか不明です。
 最後に、「ユーレカ」ばりに、天啓を得て、文章解釈が完成したと言いますが、素人には、何も見えてきません。
 このような隅っこで、事のついでに延々と論じる話題ではないのです。

不足の里程はどこにあるのか
 ……「不弥国」までで合計一万七百余里でした。……「郡より女王国に至る、萬二千余里」とは差があるではないか、とする疑間が生じます。この疑問は古田氏の解読で解決することになりました。氏は魏志の行路を丹念に読む中で、陳寿が行路の途中にある「對馬国」を「方可四百除里」、「一大国」を「方可三百里」と記述している所に着目されました。陳寿は島を点としては見ずに面積を持った広がりがある所という捉え方をしており、従って理屈の上では島に上陸して島を半周して反対側に抜けたと考えたのではないかと推測されたのです。

 この部分は、古田氏の解釈に、ほぼ無批判で追随して、批判が困難ですが、率直に言うと、古田氏の里数計算は、概数の理屈を放念して失当であり、高柴氏が、それを根拠に、端数里数をこじつけて勿体ないところです。別記事で丁寧に批判したので、ここでは結論だけですが、意見は明記しておきます。
 それにしても、陳寿が、島の「国邑に広がりがあると捉えた」とは、奇想天外です。

 そうすると、「對馬国」を半周して八百里、「一大国」を半周して六百里、合計千四百里になります。……海も島も見たことが無いと思われる陳寿のことですからやむを得ないのではないでしょうか。先の合計に千四百里を加えると一万二千百余里になります。元々余里という概数を含んだ計算ですから最後の百は省略、或は切り捨てて万二千余里としたのでしょう。……史書として……は正確な記述となっています。……陳寿は魏使の報告書等を……三国志に反映したことが伝わって来ます。惜しむらくは、陳寿が「邪馬壹国」がかなり南方にあると思い込んでいたと見られることです。

 史書の書法は理解したとの自負心で、陳寿の勘違いと付け回ししています。同時代随一の史官が、長年推敲した記事を、現代の素人夷人が、速断の高みから講評するのは僭越です。それにしても、「惜しむらく」は、どう評すればいいのでしょうか。さりげなく、蟻が富士山と相撲して、勝った勝ったと言っているとみるものでしょうか。

 初学者、夷人は、分を弁え、謙虚に語るべきです。幾千万の石つぶてが還って来そうですが、数が勝つものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」11/12 臺論7

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

〇陳寿誹謗の悪習
 陳寿に、海も島も知らない無知、無学と謂れのない非難を浴びせていますが、引き合いに出した海南島は、海島ですから、認識不足です。うろ覚えの聞きかじりで、陳寿の知識を限定するのは不合理です。なぜ、陳寿の無知を確信できるのか、不思議です。

 概数について、百里程度は、無視してよいとするのは、鄙には希な見識ですが、実際は、千里単位でなく、千,三千,七千,一万二千ととんでいる目の粗い概数なので、「一千里に届かない程度は無視してよい」というものです。
 「理屈の上では正確」などと呪文に頼らず、同時代常識で丁寧に見極めて欲しいものです。そこまで踏み込めば半周航行などと意味不明な思い込みは必要ないのです。

 丁寧に言うと、「国邑」から「国邑」までの道里は、それぞれの国主居所という「点」が起点/終点であり、半周航行は織り込み済みです。それが合理的というものではありませんか。古田氏に何か遠慮しているのでしょうか。
 いずれにしろ、史官は、その叡知で全行程四十日と明記しているので、氏の想定する「思い込み」は、専ら氏の「思い込み」に過ぎません。

 また、古田氏について惜しむらくは、「奴国」の場所を示されず、「奴国」は通過していないとされたことです。地形を踏まえた倭人伝の読み方において、今一歩の踏み込みがあればもう少し明確な論となっていたと思われます。

 以下の須玖・岡本論は、ほぼ、古田氏の第一書の提言であり、何も批判するものではありません。

*筑前須玖史前遺跡の研究
 京大文学部が昭和初頭に行った須玖・岡本遺跡発掘の報告書*は、小生の十年来の愛読書であり、遺跡後方高台の熊野神社こそ卑弥呼の墓所というのが、小生の初期提言です(2013年)。(*「筑前須玖史前遺跡の研究」京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷(昭和三年~昭和五年))
 因みに、発掘時の現地取材で、それまで、農地耕作の際に露呈した甕棺は、たたき割り、粉砕した人骨と共に人知れず処分したとなっていて、江戸時代以来の伝承でしょうが、隔世の感を禁じ得ないものです。
 要するに、小生の初期の愛読書が、京大文学部の須玖岡本遺跡報告書であり、そこに示された遺跡後方の丘の上の熊野神社が、往年の卑弥呼の居所であり、後の墓所となった(のではないか)というのが、2013年当ブログ発表記事です。

 「邪馬壹国」の中心地は現在の「奴国の丘歴史公園」
 「戸」と「家」
 倭人伝では「不弥国」は「千余家有り」……「邪馬壹国」は「七万余戸なる可し」……です。「家」と「戸」が区別して書かれている意味はよく解りません……対馬国(千余戸)、一大国(三千余家)、末慮国(四千余戸)、伊都国(千余戸)、奴国(二万余戸)、不弥国(千余家)、投馬国(五万余戸)、邪馬壹国(七万余戸)です。……「邪馬臺國」と投馬国が……大国……です。また、一大国と不弥国だけが「家」……で、ほかは「戸」……です。

 「戸」は、古代国家の根幹で、隅っこで論じる事項ではありません。基本の基本が頭にないのは、中国史に無知と公言しているのであり、不勉強です。

*中国古代史知識の泉
 情報源として、貝塚茂樹、宮崎市定両師の著書は必読です。漢字の意味は、白川静師の著書に頼るべきです。無知を誇ってはならないのです。
 いや、これは、高柴氏独創の誤謬でなく、おしなべて、俗説論客に「普通」の見当違いですが、中国史書を、現代東夷の常識で解釈して、見識を広げようとしないのは、勿体ないことです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」12/12 臺論8

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

*長口説承前
 現代夷人の人生観に根ざした、歴史的な根拠の無い先入観は、本来、論証には百害あって一利ないのですが、史書理解に基礎知識は不可欠です。「戸」は、戸籍制度に基づく数字で、当然、帯方郡が要求した物です。

 千戸の国と万戸の国は別物で、単純に戸数の多少ではないのです。
 千戸程度であれば、王の居所、氏神鳥居を取り巻いて、農家や市(いち)を囲む隔壁/環濠集落であり、中国古代以来の聚落国家とわかります。つまり、あれこれ説明がなくても、中原人に理解できる「国邑」なのです。

 つまり、倭人伝冒頭、郡から倭への行程諸国は、山島に「国邑」を成していると紹介したのは、それぞれ、千戸単位の集落国家ということです。行程上最有力な伊都国が(僅か)千戸なのは、むしろ当然です。この点を読み過ごすと文意が読めず失格です。

 万戸は、千戸単位の隔壁/環濠集落の集合体と解されますが、文字の無い時代、どのようにして統制、王統を採ったかわかりません。所詮、周旋五千里行程上の主要六国以外は「余傍」に過ぎないので、説明せずに放置したのです。

 ……徴税や労働力の徴発あるいは徴兵……を支える仕組みが「戸」または「家」であったと思われます。それが、異なる表記が使われていることは、女王国と言いながら制度的には必ずしも統一されたものではなく、従来からの経緯等で異なる単位(制度)が使われていたことの現れと見ることも出来るかもしれません。残念ながら、これ以上のことはわからないと言わざるを得ません。

 お説の通り、歴代の制度では、一戸に一定の農地(良田)が与えられて、一定の税務、軍務、労役が課せられたと見るべきです。もちろん、文字の無い倭では、戸籍管理は困難ですが、それでも、先進国で千戸程度の戸籍が導入され始めていたと見るべきです。何しろ、郡の要求は、戸数を明確にせよというものですから、早急に戸籍を整備しなければならないのです。
 もっとも、数万戸の国に戸籍があったはずはなく、正確な戸数は出せないが、「大国」(大きな国)として責めを負ったものと理解すべきです。そのような戸籍制度の早期導入を図るために、巡回指導者として刺史を置いたのでしょう。何しろ、文字の書ける、計算のできる小役人が大勢必要だし、木簡にしろ何にしろ、戸籍を書くための筆、硯は必要です。

 ただし、女王の「居所」は、倭人伝冒頭で明記されているように、山島の「国邑」、つまり、環濠、隔壁で囲まれた聚落であるから、精々、千戸止まりであり、女王に仕える「公務員」に課税したり、労役や兵役を課することはないので、戸数を書くことは無意味なのです。
 つまり、女王の直轄「国邑」が、七万戸の筈がないのです。
 と言うことで、倭人伝で喧伝される「可七万余戸」は、全「倭人」戸数、つまり、各国戸数の計算上の総計とみるべきです。楽浪郡/帯方郡記録にあるような一戸単位で戸数計上するには、国内全域に戸籍整備が必須ですが、当面は、投馬国というでかい国が、戸数不明で、明記できないのです。

 このあたり、冒頭で道里行程問題と共に戸数問題を解明しておかないために、遡って読みなおす必要が出るのです。「問題」の解は先送りしないのです。

 氏の周辺には、適切な学識を有して、助言、指導する方がいなかったと見受けますが。著書出版以前に解決すべきと思われます。

 「不弥国」は「投馬国」との交通の基点であることから考えて、博多湾に面した玄関口的な国で、博多湾に面して東西方向に広がっていると考えました。それに続く遺跡群の多くは「邪馬臺國」の範囲になるのではないでしょうか。その中心部が須玖・岡本遺跡群で、ここが「女王の都」と考えてみました。「邪馬臺国」の中に女王が直轄する特別な地域があるという意味だと考えましたが、他の考え方もあると思われますので、ご意見等いただければ幸甚です。

「邪馬臺国」は先進技術の集積地
 以下略

 当区分は、氏の意見の提示であり、批判対象でないので、省略します。
                                完

2021年8月15日 (日)

今日の躓き石 無責任な毎日新聞の高校野球報道 「リベンジ」クラスター発生か

                         2021/08/15

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面、高校野球選手権大会報道の囲み記事である。

 まず、「因縁の対決」とは、恐れ入った。この場所に、深遠な仏教用語を持ち出すのは、どんな神経なのだろうか。高校野球の対戦は、「前世からの因果の報い」という主旨なのか。今回の記事で言うと、両校の対戦と勝敗は、仏の計らいで運命づけられているとでも言うようである。一度、どんな思いで書いているのか、説明戴きたいものである。記者は、仏僧として得度しているというのだろうか。それにしては、後が続かない。普通は、「偶然の一致」と、宗教色を避けて笑い飛ばすはずである。

 そして、ひょっこり、選手談話として、再戦は偶然ではないと信念が吐露され、続いて忌まわしい「リベンジ」が飛びだし、記者は、堂々と宗旨違いのコメントを取り上げているのである。別に、選手には、仏の計らいに恨みはないだろうし、まして、ここにキリスト教で禁じられている復讐を持ち出されても、仏様には、何ともできないのである。
 もちろん、高校野球で、個人的な復讐心で、相手をぶっ殺すなど、言うものではないのである。

 毎日新聞には、全国紙としての品格はないのだろうか。

 どうして、「リベンジ」のような汚い言葉を聞き咎めもせず、モロ出しで報道して、蔓延、拡散に尽くすのだろうか。選手も、何も知らずに口走った汚い「禁句」を、このように全国報道されてはたまるまいと思うのである。

 一読者として、毎日新聞には、世の悪しき言葉、悪しき妄想を滅ぼすことに尽力してもらいたいのであるが、記者諸氏は、「リベンジ」クラスター振興に力を尽くしているのだろうか。

 死ぬだの、殺すだの、やられたらやり返すだの、暴力志向の言葉は、昭和で、いや、せめて平成で終わりにして、遠慮無く絶滅させて欲しいものである。いや、スポーツ界だけでも良いのだが。

以上

 

2021年8月10日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞が暴く野球界の米国蔑視「リベンジ」押しつけ

                                2021/08/10

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面の野球金メダル賞賛記事である。『64年の「侍」』云々と題されている。つまり、記事の視点は、64年東京五輪の公開競技で、来日チームとダブルヘッダーを戦った証人が、力及ばなかった敗戦と今回の金メダルに至る精進を対比しているのであるが、当然、傲慢な勝利者談話ではない。

 野球は、「日本の風土で生まれて、日本で発達し、それを日本人指導者が世界に広げた」のではなく、正岡子規の逸話で示されているように、明治時代に米国人から習ったものであり、以来、一世紀にわたって、米国に勝つことを目標としていたように思う。遙かに高嶺を仰いで、目標としていたと思うのである。
 今回の記事も、自分たちが及ばなかった境地に遂に達した後輩の栄光に感動しているものであり、決して、勝って当然とは思っていないのである。まずは、そう思って読み進むのである。

 しかし、当記事は、最後に大きく暗転して、そこまでに醸し出した「美談」を泥沼に突き落とすのである。別に、物知り、訳知りの毎日新聞社記者に、こんな無法なオチを付けて貰いたくて、毎日新聞を購読しているのではないのである。

 思うに、米国チームメンバーは、大半が、敬虔なキリスト教徒である。子供の時から教え込まれた世界観では、「リベンジ」は、神に逆らう罰当たりな言葉である。米国チームに、キリスト教徒が口にしない罰当たりな言葉の汚名を着せるのは、許しがたい暴言ではないか。一度、毎日新聞社の校閲部門には、よく考えて欲しいものである。

 要は、「リベンジ」暴言であるが、今回は、一段と深刻である。今後のオリンピックで、野球が復活したとき、敵は、仕返しを企むから、返り討ちにしてやれとけしかけているのである。いや、それを、日本語で言うならともかく、英語由来のカナカナ語で「リベンジ」と言うから、事態は深刻なのである。まず、知る限り、明治時代に「リベンジ」のように、意味の通じないカタカナ言葉を持てはやす蕃習はなかったから、当時、米国人から習った言葉ではないはずである。

 むしろ、今回の米チームは、メジャーリーグ選抜ではないから「本気」ではない、次は、「ドリームチーム」で金メダルを奪還すると見ているのであり、勝った気になって気を緩めるな、と言うことのようであるが、日本チームだって、メジャーリーグに属している名選手は参加していない。お互い様と、素人は思うのである。また、勝った相手に、おまえ達は、遊び半分の二流だと言い放つのも、大人げないと思うのである。毎日新聞記者の誘導尋問に引っかかって、暴言を漏らしたようにも見えるのである。

 つまり、これは、事実の報道を離れ、ジャーナリズムが勝手にこね上げて、64年の侍に塗りつけた傲慢な世界観を、このような形で全国紙紙面に書き立てているように見えるのである。
 少なくとも、未来ある若い読者に、このような形で、忌まわしいことこの上ない暴言の悪疫を蔓延させるのは、全国紙の務めを果たしていないのではないか。
 いや、いくら全世界を「滅菌」して暴言の撲滅を図っても、一個の菌が生きのびて世に出れば、たちまち増殖して、全世界に蔓延するのである。毎日新聞の威力である。

 いつまでたっても、気を緩められないのである。

以上

 

2021年8月 7日 (土)

今日の躓き石 野球金メダルに泥を塗ったNHKアナの米チーム侮辱の「リベンジ失敗」発言

                          2021/08/07

 今回の題材は、NHKGの実況放送で、ケームセットの後のNHKアナウンサーの暴言である。

 相手チームが『準決勝で負けた「リベンジ」もできなかった』と手ひどい侮辱を浴びせたのである。この発言を英訳して相手にぶつけたら、憤激を買ったと思うのである。アメリカ人は野獣ではないし、大半は敬虔なキリスト教徒である。子供時代から、リベンジ(revenge)は、神の固く禁ずるところだと教えられているから、不信心者の日本人に言われたら怒り心頭の筈である。

 負けたときに、下手とか弱虫とか根性無しとか、侮辱する言葉はあるが、今回は、徹底的である。言葉のプロであるNHKアナが、公共の電波でそのような「放送事故」もの発言をしたのは、まこと嘆かわしい。

 もちろん、折角の勝利に、味方からどっぷりの泥を浴びせられた日本チームメンバーの気持ちも、傷ましいのである。

以上 

 

今日の躓き石 女子バスケ アシスト一位の失言「リベンジ」~民放で晒し者

                       2021/08/07

 今回の題材は、オリンピック番組でも、NHKではなく民放の報道であるから、言っても「ぬか釘」で仕方ないのかも知れないが、言うべきことは言って置く。

 とにかく、アシストの大活躍でも決勝進出を祝うはずのインタビューで、そうと知らずに、どぎたないカタカナ語「リベンジ」発言を、ことさら取り出されて、でかでかと晒し者にされて気の毒である。確かに、そう口にしたのに間違いはないが、何で、これほど恥知らずな報道ができるのか、まことに困ったものである。

 どうか、報道人の良心に目覚めて欲しいものである。(因みに、犯人は、読売テレビの午前0時からの番組である)

以上

2021年8月 6日 (金)

今日の躓き石 NHKアナウンサーの暴言 また一つ 「パターが入る」ホール

                       2021/08/06

 オリンピックのおかげで、珍しく、女性ゴルファーのインタビューが耳に入ったが、相変わらず、「パターが入った」と聞こえてがっかりした。

 パターは、軽く打つクラブなので、ドライバーのようにすっぽ抜けて飛んで行くことは絶対無いとは言えないにしても、パターがすっ飛んでいってホールに入ることはあり得ない。暗闇に閉ざされていたゴルフの暗黒時代、こうした間違った言い回しがトッププロまで浸透していた時代の名残が、令和の時代にまで蔓延っているのを見ると、なされないのである。
 早々に、いや、いくら遅くなっても、未来の方が長いのだから、まだ遅くはないから、ゴルフ界の「真っ黒」レジェンド語として埋葬した方が良いと思うのである。
 それにしても、若手が忌まわしい言葉を誰から仕込まれたのか、いたましい物があるように見える。と言って、別に、天下の笑いものとして晒し者にしなくても良いのでは無いか。公共放送のあり方に、疑問を感じる。

 そして、入念に訓練されている、言葉のプロであるべきNHKアナウンサーが鸚鵡返しして、業界の因習を「遺産」としての保存・継承に助力しているのは、まことに情けないものがある。「受信料返せ」である。

以上

 

今日の躓き石 卓球メダリストに不吉な「継承」 指導者の自覚と猛省は?

                                 2021/08/06

 本日の題材は、NHKで、たった今まで実況放送されていた男子卓球団体三位決定戦である。と言っても、選手が、勝利に酔いしれて無思慮な暴言を吐いたのではない。冷静たるべき、NHKアナウンサーと解説者の不都合な口ぶりである。といっても、解説者は、台本を演じたわけでもないし、実況だから修正不可能である。それでも、不都合だと指摘するのは、関係者にご自分の責任を理解いただきたいのである。

*「リベンジ」継承の不吉さ~指導者の責任
 卓球団体戦、銅メダル獲得は喜ばしい限りだが、最終に近づいて、解説者の口から、金メダリストが国内試合で「リベンジした」との汚らわしい言葉が出て、金メダリストの暴言は、先輩の指導の成果かと思うのである。もちろん、大人は、自分の言葉遣いに責任を持つものであり、先輩に付け回しなどできないのであるが。

 とは言え、指導者の立場の方は、どうか、今日から悔い改めて、汚い言葉を滅ぼすことに晩節を献げて欲しいものである。
 言葉の口移しは、一瞬で脳裏に刻み込まれて消えないが、それを消せるのは、身近の「レジェンド」、神棚の御札しかないと思うのである。

 NHKが、現行回の朝ドラで堂々と「リベンジ」を唱えるほどだから、指導者も犠牲者でしか無いのではないかと思うが、取り敢えず、「大人は」と申し上げておく。

 是非とも、是非とも、ご一考いただきたい。

 おかげで、勝者インタビューがドキドキものであった。勝つつもりで試合したはずだから、勝ったときの言葉は用意できていたのではないかと思うのであるが、三人ともまことに謙虚で、尊敬に値する言葉であった。個人の感情的な思い入れは、当然溢れるほどにあったと思うのだが、何とか抑えて頂いて、世界に向けてナマの感情をブチまけるのは、今後ともご勘弁頂きたいのである。

*「レジェンド」の不安~NHKの務め
 因みに、NHKアナウンサーが連呼していた「レジェンド」は、誤用がのさばって大変耳障りなのだが、Legendは、「過去の遺物」と理解されることが多いので、ご注意いただきたいものである。
 生ける骨董品と思っていた老雄が活躍するから、面白おかしく報道されているのである。要は、異様だからニュースになるのであり、それを、外国人が真似すると、これまた、面白がられるのである。
 それとも、NHKは、卓球界には世界の用語を改革する力があると思っているのだろうか。一度、みんなで相談いただきたいものである。

 

 以上、全国がよろこびに「どよめいて」いるときに、率直、無遠慮に不吉なことを言うのは、当ブログの務めと思うのである。

以上

 

2021年8月 2日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞五輪報道の汚点 ゴルフ敗者のリベンジ願望拡散

                          2021/08/02

 本日の題材は、大変残念なことに、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面の「東京2020+1」と題した第十日報道のメイン、ゴルフ競技報道の一部である。連日の大量の五輪報道で、順調に節度のある報道を重ねている毎日新聞の大変残念な報道である。ほんの一コマなのだが、全紙面に泥を塗る失態である。

 但し、銅メダルを逸した名選手の報道ではない。当然、悔しさの塊だったろうが、つまらない発言をしなかった、となっている。適切な報道である。また、マスターズで惜敗した金メダリストの報道にも、特に批判することはない。もちろん、「これでオーガスタの借りを返した」とも一切言っていない。個人的な感情の発露の場でないことは、わかっているのである。

 当紙面で問題にしたいのは、38位に敗れた選手の談話が、「リベンジしたい」と大恥を曝していることである。
 ここまでの「不成績」だから、勝者に対して根に持って仕返ししてやろうなどは、大変な筋違いである。それとも、上にたった37人に対して、一人ずつぶちのめしてやりたいということだろうか。しかも、「してやる」、今に見ておれ、ではなく、「したい」と軟弱な願望表明では、重ねて不名誉である。オリンピックは、選手に選ばれて、国の名誉を背負って出場することに、最大の意義があるのではないか。
 いや、発言全体の流れからすると、選手の勘違いが漏れ出したのかも知れないが、この記事のたてかたでは、つまり、毎日新聞の書き方では、選手が本音を漏らしたことになっている。
 少なくとも、この発言は、当人の業績として末永く語り継ぐべきものではない。不名誉そのものである。

 一国民、一読者としては、負けたときに、このような不都合な発言をする選手が、選ばれるべきではなかったという気になるし、このような不名誉な記事で晒し者にすべきではなかったという気にもなる。いや、たった一語のために、大変、後味の悪い記事である。まして、不都合な言葉を見出しにする毎日新聞記者の感覚が、大変不吉である。

 いや、選手談話の報道だから、毎日新聞の責任ではない、選手の責任だというのだろうが、全国紙が、わざわざ、このようにでかでかと報道したのは、選手の恥を全世界に拡散するのが目的ではないと思うので、これは、毎日新聞の絶大な不手際と言わざるをえない。

 毎度のことだが、毎日新聞は、担当記者の書いた記事を無校閲で掲載していて、署名記者の責任と逃げるのだろうか。
 ここにこのようなお手本を示したら、多くのこどもたちが、負けたときには、このように悪態をつくものだと思うのである。

 全天に広がる晴天に、この一点の暗雲が不吉さを広げていることに、毎日新聞が気づいてくれるのを望むだけである。

以上 

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