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2021年8月

2021年8月21日 (土)

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 1/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*総論
 本記事は、記念論文の使命で、論争史を回顧し今後の展開を想定するのでしょうが、所詮、当論争は、「九州説」「畿内説」に二分され、異なった使命感で熱烈に説かれていて、不倶戴天、何れかの陣営に属すると相手の論理が見えないのです。

 西本氏は、畿内派視点で論じていて、以下示すように、筋立てが無理で。裏付けが追いつかず、ちょっと(つまり、めちゃめちゃの意です)お粗末です。

 ただし、本誌の編集方針で、論拠のあやふやな記事は採用しないので、偏見、曲解の根拠を読み取れるようになっています。

*内藤・白鳥回帰の是非
 ここで、氏は、古典的な内藤湖南、白鳥庫吉両氏(両先達)の論争を回顧し、倭人伝記事の理解を図るという生き方ですが、偉大な先人といえども、前提となる倭人伝記事への先入観が災いして、いきなり、引き返しようのない論説を立ててしまったため、後生に大きな軛(くびき)を遺したように見受けます。(国内史学界は、先達の後追いの隊列を構成しているので、そうなるのです)

 当方は、両氏の深い学識と堂々たる知性を尊敬していますが、前提となる資料把握が整っていなかったという限界は如何ともし難く、今日、倭人伝理解の出発点とすることはできないと考えます。つまり、誌面の無駄なのです。

*方位 苦慮の辻褄合わせ~博物館の名物に
 方位論は、所詮、想定里数で想定比定地に届かせるこじつけであり、いわば、辻褄合わせの屁理屈でしかないのです。もはや、博物館入りの骨董品であり、きれいに言うなら「レジェンド」(歴史遺物)です。

*道里 数字に弱い畿内派~補習必須

 まず、倭人伝里程は地域ごとにバラバラで、「郡から狗邪韓国までは数倍の誇張、渡海旅程はかなりの誇張なのに、九州上陸後は実里程に近い」とする見方が提示されていますが、随分筋の通らない話です。

 帯方郡近くで、「洛陽から指示があれば実測検証すべき旅程を6倍に誇張し、海の果てで、検証困難な旅程を実里数にする」とは理解に苦しみます。そもそも、当時実測困難だった「実里数」は、誰がどうやって測ったのでしょう。(丁寧に言い直すと、古来『困難』とは、「事実上不可能」という意味です。念のため)

 なぜ、当時としては、大変計算が困難な六倍なのでしょうか。「十倍」なら単位を「百里」から「千里」にするだけで、再計算不要。現代風なら、小数点を移動するのですが、倭人伝の一桁概数表示では、単位の書き換えで良いのです。
 五倍なら、単位の書き換えで「十倍」しておいて、数字部分を二で割るだけなので楽勝なのに、なぜ、わざわざ六倍なのか。もちろん、
6.5倍は、当時不可能な計算になります。

 数字に弱い人が、どうして無理な作り話に凝るのか。誰の知恵を借りたのかも不審です。大の大人が、受け売りは、情けないように思うのです。

*無理なこじつけ
 実際の距離と言うなら、郡から狗邪韓国までの七千里と書かれている道里と、末羅国辺りから纏向までの地図上の距離は大差ない
のですから、これを、ほぼ五分の一の千三百里と見るのは、どう考えても無理です(つまり、不可能です)。

 その間は、当時、どう考えても、道路や港湾の整備がなく、騎馬移動ができないのを考えると、所要期間は、倍になりそうです。

 氏は、淀川水系運航は提案しても、そこまでの行程は示さないのですが、いくら魏使が鈍感でも、長期間の移動の方位や所要日数を体感できたはずで、終生、誤解し続けとは信じがたいのです(嘘だろうという趣旨です)

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 2/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*日程 不届きなドタバタ
 日程論も、伊都国以降の里程解釈に依存していて、直線行程と解釈して最終部が否定困難となったために起こる「ドタバタ喜劇」であり、廃棄することはできないにしても、単なる仮説に落とすべきです。

 魏制が求めたのは、郡から王の居処への所要日数であり、これが「日数水行十日に加えて陸行一月」と明記されているのです。何しろ、郡から末羅国の里数は明確なのに、所要日数は明記されていないわけですから、そう理解しなければ、「倭人伝」として必須記事が欠けていると非難していることになります。

*墨守
 そこまで、内藤・白鳥論争を辿って、論争初期の諸論が行き届かないものであったことを示した後、氏は、自身の理解で捌こうとします。(現代「読者」の理解力が、三世紀「読者」の要件を満たしていれば、それが正解への最短の道里ですが、ほぼ間違いなく、理解力の不足、欠格により、題意の理解に失敗して頓挫するのが、多くの、つまり、ほぼ全員の失敗の前例に示されています)

 方位論を云えば、氏は、相変わらず魏使、つまり、倭人伝「錯誤説」を振りかざします。何しろ、倭人伝の方位が正しければ、持論である畿内説は破綻するので、倭人伝「錯誤説」に固執するのです。そのような錯誤はあり得ないと、百人、千人が諄諄と理屈を説いても、「錯誤説」を撤回できないのが、背水の陣というものなのでしょう。
 魏使が、行程上の諸国間の道里、里数を提供したという誤解は置くとしても、伊都国記事に付された各国への道里行程の方位に間違いがある途方もない言いがかりが蔓延しているために、諸兄の誤解に論拠を与えているように見えるのが、深刻なのです。

 道里論で云えば、畿内説諸兄の例に漏れず、氏は随分「数字に弱い」と思われます。短里説を認めると、畿内説は破綻するので、変則理解に固執するのです。これも、また、不退転、背水の陣でしょう。これでは、論議が収束しません。

 日程論も同様です。水行十日、陸行一月が、(投馬国から)邪馬台国に至る道里として行程最後に来なければ、畿内説は破綻するので、俗説に固執するのです。不退転、背水の陣ばかりです。

 後に、三世紀の中国史書魏志の一記事である「倭人伝」が二千年に近い考証で検証されてきたのに対して現代東夷の勝手な解釈を押しつける目的で、倭人伝と同等の考証を受けていない東夷の『不法な』史料である、四百年後の七世紀書紀記事(隋使裴世清来俀とこじつけられているもの)を動員しての畿内説墨守は、学術的論議の手順を踏み外していて、感心しないのです。(それでは駄目ですよの意です。そもそも、中華に服属するのに、自前の天子を掲げる「正史」など、自国年号共々「論外」であり、下手をすると討伐されるのです。)

 三世紀中国史書は、三世紀に書かれた文化背景、先行史書の視点で解釈しなければ、編纂者の真意と当時読書人の理解を追体験することができないのです。つまり、浅慮に基づく勝手な誤解、極論すれば史料改竄になるのです。

 学術的な論議の前提として「書記」の史料批判が不可欠なのですが、この不可欠な手順を飛ばして、国内基準の読解が超法規的に投入されるのは、問答無用の最終兵器ということなのでしょうか。

 それでは、論証として、不備が満載で、後世の批判に耐えることができません。勿体ないことです。

*数字嫌いの食わず嫌い
 氏は、この蒸し返しで、最終行程の一千三百里が、長里なのか短里なのか比較検討ができないようです。
 短里制に大きな疑問がある」と嘆じていますが、疑問があるなら、ご自身の脳内の混乱を放置せず「聞くは一時の恥」と言う至言に従うべきです。このままでは、氏の不明が歴然と残され、末代の恥で、まことにもったいないのです。
 
 理解が困難なら、当方が好むきりの良い数字で、概数が自明として、「約」抜きの短里七十五㍍、長里(普通里)四百五十㍍と「仮置き」して場合分けして評価したらいいのですが、氏は、思考が混乱して文末まで動揺し続けたようです。
 
 わかりやすく言うと、一千三百里は、長里とすると五百八十五㌖、短里とすると三十五㌖で、それぞれ、諸々の誤差、不確かさを考えれば、一応、畿内説、九州説に適した数字と見えます。

 それが、自説にとってどういう意味を持つのかは、ご自分で考えていただきたいものです。

*里程論の突き当たり
 郡から末羅国までの里数を考え合わせると、倭人伝の短里/長里判断で、短里はそのまま理解できるのに対して、長里は不合理な「誇張」が必要です。後で蒸し返しが来ますが、理屈を整理すれはそれだけです。
 
 因みに、先ほど提示したように、測定不能な海上里程や測定困難な倭地里程を、どの程度の精度のものと評価するか、掘り下げが必要でしょう。
 
 この程度の理屈が聞き分けできなければ、全て一緒くたにして排斥し、短里説全面否定となるのも無理からぬ所です。

 そもそも、論争で、相手陣営の論理が聞き取れずに、感情/情緒だけで首を振り続けると、子供の口げんかになってしまって、とても、大人の論争などできないのです。
 いたずらに醜態を露呈し続けるのは、勿体ないことです。

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 3/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館       2019/02/20 補充 2021/08/21
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*魏志行程記事と古墳時代開始時期
 当ブログ記事の筆者たる小生は、元々、古代史に関しては「素人」ですが、素人の限界を多少なりとも緩和するために、それなりの勉学を重ねてきましたが、全般的な勉学に手が回らず、国内古代史学については、勉強不足になっていることを申し上げておきます。
 今回も、勉学の立場で読み進めたのですが、小生の乏しい知識でも、同意しがたいご意見が見られるので、素人なりに批判しています。

木津川水系重視の視点賞賛
 当論説で意外だったのは、魏使の河内到着以降の旅程が、淀川~木津川水系にとられていて、それは、流域に散在する初期古墳の時代比定と連動していることです。つまり、淀川~木津川の流域に展開した勢力が、なら山を越えて奈良平野に進出し、平野の中・東部、今日「中和」と呼ばれる纏向で周辺を睥睨したとの設定のようです。淀川~木津川水系 から、奈良平野北部、後の平城京領域に出る移動・輸送経路は、小生がかねてから、西の方から奈良平野への経路として最有力として着目していたので、ここに取り上げられたのを見て、我が意を得たとの感慨があります。(なぜか、無理難題山積の大和川遡行にこだわった先哲が多いのですが、その衣鉢を継ぐ諸氏は、同説に囚われて、自由な視点を取れずにいるようです)

 そのような進出と展開には、最低でも二世代六十年は必要と思われるので、淀川水系の古墳造成が三世紀中頃に一応整ったのであれば、纏向は、遅れて四世紀中期の古墳造成開始となるのではないでしょうか。
 まことに、無理の無い、筋の通った作業仮説ですが、これ以降、あまり見かけないのは、纏向学会で賛同を集められなかったのでしょうか。

*おわり方の問題
 「おわりに」と題して、少し長めの結語が書かれています。
 その一は、中国王朝の記録能力を正視して行程記事を正当に評価するという趣旨です。自戒、自責を込めた言葉として貴重で、同感です。
 その二は、考古学成果をもとに、三世紀当時日本列島を統轄する政治中心がどこにあったか明らかにするという趣旨で、賛成できません。

 古代史用語で「日本列島」は、概ね、今日の近畿以西の西日本ですが、そもそも、三世紀当時、この広大な地域を統轄する政治中心があったとは、作業仮説、要は、単なる思い付きに過ぎないと思量します。ないものの所在地を明らかにするのは、できない話です。氏は、素人ではないのですから、学者らしく、もっと手前から、丁寧に検証を一段一段重ねるべきです。
 
 また、『「古墳時代」のはじまり』が、「以前より早まった」とは、学説の表現方法としては、ちと稚拙の響きがあります。近年蔓延している若者言葉に染まっているのではないかと憂慮しています。
 そのため、提示された概念は、一段と不可解
です。
 当論説を見る限り、「以前」は、纏向地区の墳丘墓のはじまりが「古墳時代のはじまり」とされていたと思えるのです。不可解な動揺です。
 
 当論説に依れば、淀川水系の墳丘墓の副葬銅鏡が、中国由来で先行していたとの仮説を踏まえた考古学的見解のようですが、他分野に影響するので、「考古学学界内の台所事情による辻褄合わせの作業仮説」では済まないのです。纏向を中心とした奈良平野内の考古学的な研究活動、就中、長年にわたる広範囲の発掘活動は、多額の国費と地元協力者の労苦に支えられているので、厳密な論証と焦点を定めた有力仮説の検証に絞られるべきと考えるのです。
 巨大な計画は、それ自体、自己正当化の本能が発生するため、捏造や虚飾の危険性が高まるのですが、天に恥じない公明正大な活動を貫けているでしょうか。

 諸々のしがらみに連なっていない素人なりの危惧を提示しておきます。

*正当化困難な言い分
 「魏や遼東に発した数百枚の銅鏡が連綿と将来された」という仮説や「魏使が淀川水系を通過した」という仮説は、ベタベタの常套句で「今後の発掘に大いに期待」するとしても、論拠が明確でない以上、氏の思惟にとどまる、単なる作業仮説であり、そのように明記すべきものと理解します。要は、論考に遙かに及ばない、個人的な「思い付き」であり、この場に書き立てる意義が理解できません。氏の周囲には、率直に批判してくれる学友はいないのでしょうか。氏の不快を買うことを怖れず、苦言を吐く人が、真の学友と思うのです。
 
 行間を読むと、氏には、卑弥呼の墓を纏向に誘致するとの使命が課せられたようですが、大黒柱の三角縁神獣鏡魏鏡説が、実質的にほぼ崩壊した今、正当化手段に窮して、引くに引けず、強弁していると見えて、しぶといと云うより、痛々しいのです。

 と言うことで、畿内説に基づく本論説は、倭人伝錯誤説や魏鏡説など、根拠不明で正当化「困難」な作業仮説が、あまりに多く含まれています。因みに、当方が「困難」と言うのは、社交儀礼に従った古風な婉曲表現で、若者言葉で言うと「不可能」なのです。

 今日日の口喧嘩では、「不可能」には「成せばなる」の反論があって、「絶対不可能」と追い打ちする
のですが、普通の日本語では、「困難」と言えば十分強い否定表現なのです。
 真意を誤解されないように、念押しします。

                               完

2021年8月17日 (火)

今日の躓き石 NHKに望まれる「美しい言葉」垂範 「リベンジ」撲滅に力を

                        2021/08/17

 今回の題材は、「スポーツXヒューマン」「”誓い”のメダル………」と題するオリンピック体操競技に関するドキュメンタリーの再放送である。

 ここで讃えたいのは、選手達の努力の尊さとともに、それを冷静に報道するNHKの心意気である。選手は、目指すのは、技術の完璧さだけで無く、「美しさ」だと聞こえた。

 ところが、それを、視聴者に伝えるはずの大事な番組で、選手が漏らした「リベンジ」のこの上なく汚い失言を、そのまま取り上げているのは、まことに勿体ないと思うのである。これでは、選手個人の暴言の記録を「永久保存」、「無限拡散」してしまうのである。
 選手達は、目前の体操演技の向上に専心していて、口に出している言葉が世間にどう受け止められるか、考えが行き届いていなくて、周辺の指導者も、気づかないのは無理の無いことだが、世界一の日本語を持ち合わせているNHK関係者が、何も選手の言葉の「美しさ」の向上に寄与していないのは、困ったものである。

 NHKの番組の言葉遣いは、全国民のお手本であり、はるか後の世代まで影響を残すのである。公共放送としてのNHKには、そこに出てはならない言葉があると理解いただき、世間の忌まわしい流れ、病害蔓延を堰き止めて欲しいのである。

 毎回繰り返すので、あごがくたびれるのだが、「リベンジ」なるカタカナ語は、英語に根ざしていて、英語では、血なまぐさい復讐を意味し、世界に渦巻くテロリズムの根強い源泉になっているのである。そして、報復、復讐のくり返しは、世界に悲惨な出来事を繰り広げ、繰り返すから、「リベンジ」は神の手に委ねて人は恨みを晴らすな、と言うのが、古代オリエント、メソポタミア文明に元を見いだせる世界宗教の根本的な戒律である。

 どうか、NHKの番組から「リベンジ」が絶滅し、番組の取材過程で、NHK関係者が、これほど大事なことを習っていない人々の心に、「リベンジ」を口にしない「美しい」心を広げるように望みたいのである。

 後世に「美しい」言葉が残るように望むものである。

以上

2021年8月15日 (日)

今日の躓き石 無責任な毎日新聞の高校野球報道 「リベンジ」クラスター発生か

                         2021/08/15

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面、高校野球選手権大会報道の囲み記事である。

 まず、「因縁の対決」とは、恐れ入った。この場所に、深遠な仏教用語を持ち出すのは、どんな神経なのだろうか。高校野球の対戦は、「前世からの因果の報い」という主旨なのか。今回の記事で言うと、両校の対戦と勝敗は、仏の計らいで運命づけられているとでも言うようである。一度、どんな思いで書いているのか、説明戴きたいものである。記者は、仏僧として得度しているというのだろうか。それにしては、後が続かない。普通は、「偶然の一致」と、宗教色を避けて笑い飛ばすはずである。

 そして、ひょっこり、選手談話として、再戦は偶然ではないと信念が吐露され、続いて忌まわしい「リベンジ」が飛びだし、記者は、堂々と宗旨違いのコメントを取り上げているのである。別に、選手には、仏の計らいに恨みはないだろうし、まして、ここにキリスト教で禁じられている復讐を持ち出されても、仏様には、何ともできないのである。
 もちろん、高校野球で、個人的な復讐心で、相手をぶっ殺すなど、言うものではないのである。

 毎日新聞には、全国紙としての品格はないのだろうか。

 どうして、「リベンジ」のような汚い言葉を聞き咎めもせず、モロ出しで報道して、蔓延、拡散に尽くすのだろうか。選手も、何も知らずに口走った汚い「禁句」を、このように全国報道されてはたまるまいと思うのである。

 一読者として、毎日新聞には、世の悪しき言葉、悪しき妄想を滅ぼすことに尽力してもらいたいのであるが、記者諸氏は、「リベンジ」クラスター振興に力を尽くしているのだろうか。

 死ぬだの、殺すだの、やられたらやり返すだの、暴力志向の言葉は、昭和で、いや、せめて平成で終わりにして、遠慮無く絶滅させて欲しいものである。いや、スポーツ界だけでも良いのだが。

以上

 

2021年8月10日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞が暴く野球界の米国蔑視「リベンジ」押しつけ

                                2021/08/10

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面の野球金メダル賞賛記事である。『64年の「侍」』云々と題されている。つまり、記事の視点は、64年東京五輪の公開競技で、来日チームとダブルヘッダーを戦った証人が、力及ばなかった敗戦と今回の金メダルに至る精進を対比しているのであるが、当然、傲慢な勝利者談話ではない。

 野球は、「日本の風土で生まれて、日本で発達し、それを日本人指導者が世界に広げた」のではなく、正岡子規の逸話で示されているように、明治時代に米国人から習ったものであり、以来、一世紀にわたって、米国に勝つことを目標としていたように思う。遙かに高嶺を仰いで、目標としていたと思うのである。
 今回の記事も、自分たちが及ばなかった境地に遂に達した後輩の栄光に感動しているものであり、決して、勝って当然とは思っていないのである。まずは、そう思って読み進むのである。

 しかし、当記事は、最後に大きく暗転して、そこまでに醸し出した「美談」を泥沼に突き落とすのである。別に、物知り、訳知りの毎日新聞社記者に、こんな無法なオチを付けて貰いたくて、毎日新聞を購読しているのではないのである。

 思うに、米国チームメンバーは、大半が、敬虔なキリスト教徒である。子供の時から教え込まれた世界観では、「リベンジ」は、神に逆らう罰当たりな言葉である。米国チームに、キリスト教徒が口にしない罰当たりな言葉の汚名を着せるのは、許しがたい暴言ではないか。一度、毎日新聞社の校閲部門には、よく考えて欲しいものである。

 要は、「リベンジ」暴言であるが、今回は、一段と深刻である。今後のオリンピックで、野球が復活したとき、敵は、仕返しを企むから、返り討ちにしてやれとけしかけているのである。いや、それを、日本語で言うならともかく、英語由来のカナカナ語で「リベンジ」と言うから、事態は深刻なのである。まず、知る限り、明治時代に「リベンジ」のように、意味の通じないカタカナ言葉を持てはやす蕃習はなかったから、当時、米国人から習った言葉ではないはずである。

 むしろ、今回の米チームは、メジャーリーグ選抜ではないから「本気」ではない、次は、「ドリームチーム」で金メダルを奪還すると見ているのであり、勝った気になって気を緩めるな、と言うことのようであるが、日本チームだって、メジャーリーグに属している名選手は参加していない。お互い様と、素人は思うのである。また、勝った相手に、おまえ達は、遊び半分の二流だと言い放つのも、大人げないと思うのである。毎日新聞記者の誘導尋問に引っかかって、暴言を漏らしたようにも見えるのである。

 つまり、これは、事実の報道を離れ、ジャーナリズムが勝手にこね上げて、64年の侍に塗りつけた傲慢な世界観を、このような形で全国紙紙面に書き立てているように見えるのである。
 少なくとも、未来ある若い読者に、このような形で、忌まわしいことこの上ない暴言の悪疫を蔓延させるのは、全国紙の務めを果たしていないのではないか。
 いや、いくら全世界を「滅菌」して暴言の撲滅を図っても、一個の菌が生きのびて世に出れば、たちまち増殖して、全世界に蔓延するのである。毎日新聞の威力である。

 いつまでたっても、気を緩められないのである。

以上

 

2021年8月 7日 (土)

今日の躓き石 野球金メダルに泥を塗ったNHKアナの米チーム侮辱の「リベンジ失敗」発言

                          2021/08/07

 今回の題材は、NHKGの実況放送で、ケームセットの後のNHKアナウンサーの暴言である。

 相手チームが『準決勝で負けた「リベンジ」もできなかった』と手ひどい侮辱を浴びせたのである。この発言を英訳して相手にぶつけたら、憤激を買ったと思うのである。アメリカ人は野獣ではないし、大半は敬虔なキリスト教徒である。子供時代から、リベンジ(revenge)は、神の固く禁ずるところだと教えられているから、不信心者の日本人に言われたら怒り心頭の筈である。

 負けたときに、下手とか弱虫とか根性無しとか、侮辱する言葉はあるが、今回は、徹底的である。言葉のプロであるNHKアナが、公共の電波でそのような「放送事故」もの発言をしたのは、まこと嘆かわしい。

 もちろん、折角の勝利に、味方からどっぷりの泥を浴びせられた日本チームメンバーの気持ちも、傷ましいのである。

以上 

 

今日の躓き石 女子バスケ アシスト一位の失言「リベンジ」~民放で晒し者

                       2021/08/07

 今回の題材は、オリンピック番組でも、NHKではなく民放の報道であるから、言っても「ぬか釘」で仕方ないのかも知れないが、言うべきことは言って置く。

 とにかく、アシストの大活躍でも決勝進出を祝うはずのインタビューで、そうと知らずに、どぎたないカタカナ語「リベンジ」発言を、ことさら取り出されて、でかでかと晒し者にされて気の毒である。確かに、そう口にしたのに間違いはないが、何で、これほど恥知らずな報道ができるのか、まことに困ったものである。

 どうか、報道人の良心に目覚めて欲しいものである。(因みに、犯人は、読売テレビの午前0時からの番組である)

以上

2021年8月 6日 (金)

今日の躓き石 NHKアナウンサーの暴言 また一つ 「パターが入る」ホール

                       2021/08/06

 オリンピックのおかげで、珍しく、女性ゴルファーのインタビューが耳に入ったが、相変わらず、「パターが入った」と聞こえてがっかりした。

 パターは、軽く打つクラブなので、ドライバーのようにすっぽ抜けて飛んで行くことは絶対無いとは言えないにしても、パターがすっ飛んでいってホールに入ることはあり得ない。暗闇に閉ざされていたゴルフの暗黒時代、こうした間違った言い回しがトッププロまで浸透していた時代の名残が、令和の時代にまで蔓延っているのを見ると、なされないのである。
 早々に、いや、いくら遅くなっても、未来の方が長いのだから、まだ遅くはないから、ゴルフ界の「真っ黒」レジェンド語として埋葬した方が良いと思うのである。
 それにしても、若手が忌まわしい言葉を誰から仕込まれたのか、いたましい物があるように見える。と言って、別に、天下の笑いものとして晒し者にしなくても良いのでは無いか。公共放送のあり方に、疑問を感じる。

 そして、入念に訓練されている、言葉のプロであるべきNHKアナウンサーが鸚鵡返しして、業界の因習を「遺産」としての保存・継承に助力しているのは、まことに情けないものがある。「受信料返せ」である。

以上

 

今日の躓き石 卓球メダリストに不吉な「継承」 指導者の自覚と猛省は?

                                 2021/08/06

 本日の題材は、NHKで、たった今まで実況放送されていた男子卓球団体三位決定戦である。と言っても、選手が、勝利に酔いしれて無思慮な暴言を吐いたのではない。冷静たるべき、NHKアナウンサーと解説者の不都合な口ぶりである。といっても、解説者は、台本を演じたわけでもないし、実況だから修正不可能である。それでも、不都合だと指摘するのは、関係者にご自分の責任を理解いただきたいのである。

*「リベンジ」継承の不吉さ~指導者の責任
 卓球団体戦、銅メダル獲得は喜ばしい限りだが、最終に近づいて、解説者の口から、金メダリストが国内試合で「リベンジした」との汚らわしい言葉が出て、金メダリストの暴言は、先輩の指導の成果かと思うのである。もちろん、大人は、自分の言葉遣いに責任を持つものであり、先輩に付け回しなどできないのであるが。

 とは言え、指導者の立場の方は、どうか、今日から悔い改めて、汚い言葉を滅ぼすことに晩節を献げて欲しいものである。
 言葉の口移しは、一瞬で脳裏に刻み込まれて消えないが、それを消せるのは、身近の「レジェンド」、神棚の御札しかないと思うのである。

 NHKが、現行回の朝ドラで堂々と「リベンジ」を唱えるほどだから、指導者も犠牲者でしか無いのではないかと思うが、取り敢えず、「大人は」と申し上げておく。

 是非とも、是非とも、ご一考いただきたい。

 おかげで、勝者インタビューがドキドキものであった。勝つつもりで試合したはずだから、勝ったときの言葉は用意できていたのではないかと思うのであるが、三人ともまことに謙虚で、尊敬に値する言葉であった。個人の感情的な思い入れは、当然溢れるほどにあったと思うのだが、何とか抑えて頂いて、世界に向けてナマの感情をブチまけるのは、今後ともご勘弁頂きたいのである。

*「レジェンド」の不安~NHKの務め
 因みに、NHKアナウンサーが連呼していた「レジェンド」は、誤用がのさばって大変耳障りなのだが、Legendは、「過去の遺物」と理解されることが多いので、ご注意いただきたいものである。
 生ける骨董品と思っていた老雄が活躍するから、面白おかしく報道されているのである。要は、異様だからニュースになるのであり、それを、外国人が真似すると、これまた、面白がられるのである。
 それとも、NHKは、卓球界には世界の用語を改革する力があると思っているのだろうか。一度、みんなで相談いただきたいものである。

 

 以上、全国がよろこびに「どよめいて」いるときに、率直、無遠慮に不吉なことを言うのは、当ブログの務めと思うのである。

以上

 

2021年8月 2日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞五輪報道の汚点 ゴルフ敗者のリベンジ願望拡散

                          2021/08/02

 本日の題材は、大変残念なことに、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面の「東京2020+1」と題した第十日報道のメイン、ゴルフ競技報道の一部である。連日の大量の五輪報道で、順調に節度のある報道を重ねている毎日新聞の大変残念な報道である。ほんの一コマなのだが、全紙面に泥を塗る失態である。

 但し、銅メダルを逸した名選手の報道ではない。当然、悔しさの塊だったろうが、つまらない発言をしなかった、となっている。適切な報道である。また、マスターズで惜敗した金メダリストの報道にも、特に批判することはない。もちろん、「これでオーガスタの借りを返した」とも一切言っていない。個人的な感情の発露の場でないことは、わかっているのである。

 当紙面で問題にしたいのは、38位に敗れた選手の談話が、「リベンジしたい」と大恥を曝していることである。
 ここまでの「不成績」だから、勝者に対して根に持って仕返ししてやろうなどは、大変な筋違いである。それとも、上にたった37人に対して、一人ずつぶちのめしてやりたいということだろうか。しかも、「してやる」、今に見ておれ、ではなく、「したい」と軟弱な願望表明では、重ねて不名誉である。オリンピックは、選手に選ばれて、国の名誉を背負って出場することに、最大の意義があるのではないか。
 いや、発言全体の流れからすると、選手の勘違いが漏れ出したのかも知れないが、この記事のたてかたでは、つまり、毎日新聞の書き方では、選手が本音を漏らしたことになっている。
 少なくとも、この発言は、当人の業績として末永く語り継ぐべきものではない。不名誉そのものである。

 一国民、一読者としては、負けたときに、このような不都合な発言をする選手が、選ばれるべきではなかったという気になるし、このような不名誉な記事で晒し者にすべきではなかったという気にもなる。いや、たった一語のために、大変、後味の悪い記事である。まして、不都合な言葉を見出しにする毎日新聞記者の感覚が、大変不吉である。

 いや、選手談話の報道だから、毎日新聞の責任ではない、選手の責任だというのだろうが、全国紙が、わざわざ、このようにでかでかと報道したのは、選手の恥を全世界に拡散するのが目的ではないと思うので、これは、毎日新聞の絶大な不手際と言わざるをえない。

 毎度のことだが、毎日新聞は、担当記者の書いた記事を無校閲で掲載していて、署名記者の責任と逃げるのだろうか。
 ここにこのようなお手本を示したら、多くのこどもたちが、負けたときには、このように悪態をつくものだと思うのである。

 全天に広がる晴天に、この一点の暗雲が不吉さを広げていることに、毎日新聞が気づいてくれるのを望むだけである。

以上 

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