私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 2 再掲 誌文私見
2018/05/10 再掲 2021/09/22
〇お断り
以下は、『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇
に印刷された誌文を参考にテキスト入力したものであり、誤解、誤字などは、当ブログ筆者が責めを負うものである。
参照した拓本は、資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序掲示のもの。
但し、翻案文は不使用。(全文入力後に見つけたため)
- 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘
- 公諱軍字温熊津嶠夷人也其先与華同祖永嘉末避乱適東因遂家焉若夫
- 巍巍鯨山跨青丘以東峙淼淼熊水臨丹渚以南流浸煙雲以擒英降之于蕩
- 沃照日月而榳惁秀之于蔽虧霊文逸文高前芳于七子汗馬雄武擅後異于
- 三韓華構增輝英材継響綿図不絶帟代有声曾祖福祖譽父善皆是夲藩一
- 品官号佐平並緝地義以光身佩天爵而勤国忠侔鉄石操持松筠範物者道
- 徳有成則士者文武不墜公狼輝襲祉藤頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
- 之逸気芒照星中搏羊角之英風影征雲外去顕慶五年官軍平夲藩日見機
- 識変杖剣知帰似由余之出戎如金碟之入漢__聖上嘉歎擢以栄班授右
- 武衛漉川府折衝都尉于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
- 固万騎亘野与盖馬以驚塵千艘橫波援原蛇而縱祢以公格謨海左亀鏡瀛
- 東特在簡帝往尸招慰公佝臣節而投命歌__皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
- 翥凌山之赤雀決河訾而天具靜鑑風隧而雲路通驚鳧失侶済不終夕遂能
- 説暢__天威喩以驅福千秋僭帝一旦称臣仍領大首望数十人将入朝謁
- 特蒙__恩詔授左戎衛郎将少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府
- 司馬材光千里之足仁副百城之心挙燭霊台器標於芄械懸月神府芳掩於
- 桂苻衣錦昼行富貴無革翟蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
- 詔授右威衛将軍局影__彤闕飾躬紫陛亟蒙栄晋驟歴便繁方謂克壮清
- 猷永綏多祐豈置曦馳易往霜凋馬陵之樹川閲難留風驚龍骧之水以儀鳳
- 三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安県之延寿里第
- 春秋六十有六__皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百研葬
- 事所須並令官給仍使弘文館学士兼検校夲衛長史王行夲監護惟公雅識
- 淹通温儀韶峻明珠不顏白珪無玷十歩之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
- 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
- 於雍州乾封県之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
- 山兮草色寒風度原兮松声響陟文榭兮可通随武山兮安仰愴清風之歇滅
- 樹芳名於寿像其詞曰
- 胄胤青丘芳基華麗脈遠遐邈会逄時済茂族淳秀帟葉相継献款夙彰隆恩
- 無替一其惟公苗裔桂馥蘭芬緒栄七貴乃子伝孫流芳後代播美来昆英声雖
- 歇令範猶存二其牖箭驚秋隙駒遄暮名将日遠徳随年故慘松吟於夜風悲薤
- 哥於朝露霊轜兮遽転嘶驂兮跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡三其
校注:(原注)
3行の「青」は、王連龍氏が「清」。「擒」は、王連竜氏が「樆」。
4行の「扌庭 悊」は、王連龍氏が「榳惁」。
21行の「研」は、王連龍氏が「升」。
追記:本記事の追記、校正項目
_は、僻諱による空格
4行の「榳惁」は、葛継勇氏が「扌庭 悊」としたものを復原。
3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
但し、拓本に「於」とあるものは、そのまま。
竜、龍の混在はそのまま。
以上
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