私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6 祢軍小史
2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地付近に本拠を置く「百済」に移住して、高級官僚として遇されたのである。
つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。
官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。
*流亡の終わり
その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。
*降伏の功
かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。
墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。
なお、「日本書紀」には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の「白村江」の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がないのである。
ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。
このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。
そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。
未完
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