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2021年9月

2021年9月26日 (日)

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                              補充 2021/09/26      

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭の王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無い、不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」かと思えるのです。つまり、茫々たる砂の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると、「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況を、じっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたいと思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

以上

今日の躓き石 「引きこもり」を内輪から責める「社会的距離症候群」の迷妄

                              2021/09/26

 今回の題材は、NHK定時ニュースなどで報道されている、その道の「権威」のトンデモ発言である。以下、この記事は、「権威」と「世間の人」の隔絶を歎くのである。

 まずは、素人目にも、権威が、世間の人が心の中でその言葉に対して抱いている「イメージ」なるもの(やや言葉の意味が不確かだが、漠然たる「印象」のことか)を、なぜ正確に把握できたのか不思議である。権威の使命は、「引きこもり」と捉えられている人たちの心を確かめるのが、本来の道ではないのだろうか。ここでは、世間の人の誤解を調査し、病根を摘出したことになる。的外れではないだろうか。
 あえていうなら、権威は、そのような堅固な見解を固めるまでに、全国調査でもしたのだろうか。何人に聞いて何人がそう答えたのだろうか。今回の発言には、そのような見解に至った根拠(データ)が示されていない。

 次は、「引きこもり」と言う平易な日本語すら(権威によると)「誤解」してしまう世間の人に、長々と漢字が続く新語を提案して、正確に、つまり、権威の思っている意味と同じ意味で覚えてもらえると思っているのかという疑問である。
 世間の人は、権威を基準にすると、当然、教養のほどが違うので、同じ理解ができないのではないかと懸念するのである。言葉が通じなければ、何を語っても伝わらないのではないか。誤解以前の問題である。

 そう思う背景は、権威が回天の妙策と言うつもりで持ち出したのか、「ソーシャルディスタンス」なる、世に蔓延るにわか作りのカタカナ語の剽窃である。

 また、「社会的距離症候群」なる解決策は、劣悪この上ないのである。以下説くように、「社会的距離」なるにわか作りの造語は、劣悪な産物であり、そうした言葉と「症候群」を繋いで、何を言いたいのか不明である。

 正直言って、COVIT-19(「コロナ」は、トヨタ自動車の主力車の商標であり、病原体の愛称として口に出すのは恥ずかしい)蔓延防止ということで、一部の高名な提唱者が間違って唱えたカタカナ語「ソーシャルディスタンス」が、定説となって出回っているが、これは、ある種の「距離」を言っているだけで、そうした距離を「置きなさい」と言うメッセージは、一切こめられていないので、明らかな誤用なのだが、引っ込みがつかなくなったせいか、強引に意味をこじつけて出回っているのである。いや、これは、一部政治家や都道府県知事の浅薄なぶち上げのせいであって、権威に責めはない。

 と言うことで、権威は、にわかに、「社会的距離症候群」なる熟語を持ち出して、先に挙げたはやり言葉と大変紛らわしい「ソーシャルディスタンシング」なる、正しいが、まず世間の人に理解されない言葉を持ち出している。
 また、ここまで紛らわしいと、商品名だったら、商標権侵害、文学作品であれば、剽窃、パクリである。世間の人の信用を無くすことは、間違いない。用語の権利関係の確認はともかくとして、だれも、この言葉の「パブリシティ」効果について、まじめに考えなかったのだろうか。一度世間に出てしまうと、取り消せないし、訂正も効かないのである。仲間内でダメ出ししないのは、良くない習慣である。誰かが、率直に意見すべきではなかったかと思えて、まことに、勿体ないのである。

 それはともかくとして、ここまでの流れでは、世間の人が、ご高説の漢字熟語を見ても、カタカナ発音を聞いても、英語を見ても、権威の思いは、何も伝わらないのである。覚えてもらえなくては、泡沫(うたかた)となるだけである。

 正直なところ、「引きこもり」現象を誤解しているのは、NHKの諸番組を含めたメディア側の諸兄の短絡的理解である。家庭内にありながら、ドアに鍵をかけて、家族にすら替えを見せない、いわば、極端な事例を番組で取り上げるから、世間の人に定説となっているように、権威に誤解されるのである。いや、今回のNHKの報道は淡々としていて、当事者意識は見られないが、普通に読めば、誰が責められているのか、うっすらわかるのではないか。

 それはそれとして、話題の原点に戻ると、「引きこもり」は「閉じこもり」でないことは、世間の方はご存じの筈である。
 だって、昔から、「没交渉」と言うように、そうした生き方はあったのである。

 例えば「引きこもりがち」とでも言えば、世間の方に、たやすく理解されると思うのである。そうした核心に向かって、若者言葉で言えば、「ガチ」勝負すべきなのである。物事の核心から目を背けて、自分独特の言語宇宙に逃げてはいけない。自己陶酔してはいけない。
 どうか、権威には、自分で作った金剛石の「から」を出て、世間に出て世間の人の言葉を聞いて、その思いを察して欲しいものである。
 そうしなれけば、権威の高邁な思いは俗耳に伝わらないのである。

以上

 

 

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2021年9月22日 (水)

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 1/6  序論 

                   2018/05/12 追記 2021/09/22
〇序論
 中国の古都・長安で見つかった、唐時代の高官祢軍(禰軍)の墓誌(故人の事跡を刻んで墓に叹めた石板)の拓本が1911年に公開されたが、「唐時代678年10月制作と思われる墓誌に「日本」と読める文字がある」と見て、従来、701年大宝律令公布に際して制定・公布されたとされていた「日本」国号が、先だって中国で知られていた証拠ではないかと、議論を呼んでいるものである。

 本件は、当ブログの専攻範囲(倭人伝)外だが、本件報道に疑問があり、素人考えで口を挟むものである。

*日本列島回帰
 今回記事では、「倭」「日本」が混在する微妙な記事で、思うところがあって、中国、三国(朝鮮)と対比される地域を「日本列島」と呼ぶことにした。実際は、列島西部だけが対比されるのだが、適当な表現がないので困っていた。

 今回、上田正昭氏の提言に従い、とりあえず、当記事では「日本列島」と呼ぶことにしたのである。「地域限定」とご理解いただきたい。

 従来、古代史論で「日本列島」を見たときは反発したが、そういう趣旨であれば同感である。不本意な反応が返ってくるのは、説明不足なのである。大事なのは、趣旨を正しく伝えることである。

*禰軍墓誌の「日本」
 当プログでの検討の皮切りは、NHK BSの特別番組の付けたりで、唐代墓跡の大規模盗掘事件に絡む取材として、現地西安博物館秘蔵の禰軍墓誌の撮影が許可され、手早くまとめたと思われる15分ほどの挿話が、番組告知の紹介も無く、まことの不意打ちで番組の中程に追加されていたのに触発されたのである。いや、これほど貴重な資料に通りががりにぶつかって、躓かせるというのは、どういう神経なのか、理解に苦しむのである。

 これまで、当史料に関する論考を見かけてはいたが、史料の出所、由緒が不確かで、興が乗らなかったので、真剣に見たのは初めてのことある。不勉強の言い訳はさておき、慌てて確認すると、例えば「古田史学」誌第16集で三氏が論考を重ねている。

 但し、当初の朝日新聞記事で、多少謙虚な言い方、つまり、「拓本が本物であれば」と前提付きであるものの「定説が書き替えられる」との報道以来、墓誌に「日本」と書かれているとの認識のようであった。今回、実物がNHK番組で紹介され、始めて「墓誌偽造」説は棄却されたようである。

*結論予告
 と言うことで、誌文について、すでに定説めいたものが形成されているようであるが、当方は、史料解釈の見過ごされた第一歩が見て取れるので、ここに考察を加えたものである。

 タイトルに示したように、当記事の結論は、墓誌誌文を読み取ると、そこに「日本国号」は書かれていない、と考えるものである。定説は、まず、「日本」を見て取って、それに合わせて、誌文を読み替えるものであり、本末転倒と思うものである。まあ、当世、定説は書き換えられるためにあるようで、何が「定」なのかと、苦笑するものである。

 なお、碑文読み取りについては、基本的に、テレビ画面で確認した該当部分の映像のテキストを利用しているが、当方の読解力を越えた、難解、と言うか、理解不能な美文なので、諸兄の論説を参考にしたことは言うまでもない。

 適切な扱いをしたものと思うが、失礼があれば、ご容赦頂きたい。

                           未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 2/6 日本國王并妻

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22

*日本國王并妻還蕃(舊唐書綺譚)
 当該部分の解釈で、参考となるのが、古田武彦氏が、中華書局本舊唐書(旧唐書)の表点本の句点違い事例として紹介している旧唐書順宗紀の「日本記事」である。太字は、当ブログ筆者のもの。

 新・古代学 第三集 歴史ビッグバン 古田武彦 1998
 昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか」との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。

「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》

 確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。

 つまり、権威ある中華書局、表点本も、「日本」なる二文字にとらわれて史料読解を誤ることがあるという事例である。」

*引用終わり

 古田氏は、本件解釈に際して、舊唐書を広く検索し、吐蕃伝に頻出する「本国」の用例では「本国」が吐蕃をさしていると指摘されている。

 データを根拠にした提言であるので尊重するものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 3/6 本藩の由来

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*本藩の由来
 当方も、中国哲学書電子化計劃データベースのテキスト検索を利用しようとしたが、残念ながら、舊唐書のデータベース収録は完了していなくて、維基文庫の全文テキスト検索を利用せざるを得なかった。(注 どうも、勘違いしたようである)

 と言うものの、舊唐書で「日本」を検索した際にヒットする「日本?」(?は、任意の一文字)の、「本?」の各種用例を確かめたところ、以下のように感じた。

  1. 「本国」とは、中国王朝に臣従する諸国王が、自領を語るときに用いられる用語である。
  2. 「本州」とは、中国王朝内、諸国王の所領、ないしは、刺史などの統轄する州を言うとき用いられる用語である。
  3. 「本藩」とは、これらの用例に類する用語である。
  4. 「藩」は、元来植え込みの垣根であり、「藩屏」とは、小国が、塀となって帝都を囲んで外敵から守る姿を現している。「藩」は公式用語でなく、それ故、正史には僅かな使用例しか出現しない。
     但し、実務上、極めてありふれた用語であり、これにならって、江戸時代、家康による幕府開闢以来、各国の大名所領は、しばしば「藩」と呼ばれていたのである。

*日本余譙は、場違い
 もし、ここに「日本余譙」と書かれていたとすると、ここまで碑文に「日本」とは何者か前触れがないから、唐突であり、読者は、一読して理解できないと予想されるのである。よく言う、「不意打ち」である。

 つまり、当該詩文の読者は、「日本」を全く知らないから、碑文に示されたような書法は、不適切極まりないなのである。詩文作者が祭祀者に提示したら。一発却下であることは間違いない。

 もし、ここに書かれているのが、「日本列島からの援軍」残党とすると、当然の疑問は、肝心の「百済」残党はどうした、というところである。

 「本藩」と書かれているのは、墓誌の主人公が仕えたが、亡国の憂き目に遭った旧「百済」であり、従って、後出の「本余譙」は、本藩「百済」の余譙と解釈するのが順当と思う。

 ここまでに「本藩」が二度書かれていて、読者は、短縮表現を理解する準備ができているのである。

*本余譙とは?
 ようやく、核心に辿り着いた。

 結局、「(于時)日夲餘噍」の六文字句は場違いで、「(于時日)夲餘噍」と解すべきなのである。

 ここでは、「本藩余譙」が、「本余譙」と省略されたと想定しているが、誌文では、しばしば字数を揃えることが要求されるので、時に短縮、時に延伸されるのである。

 こうして、「于時、夲藩餘噍」と二+四文字では、対句となっている「據扶桑以逋誅」と合わないので「于時日、夲餘噍」と三+三文字としたと見るのである。
                          未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 4/6 先行論考

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*先賢の論考
 この点、墓誌に関する考察として、すでに、次の論考に於いて深い考察が行われていたので、勉強させていただいた。

 『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇 2012年3月
 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報6号掲載 

 本論文の史学論文として適切な構成にも敬服する。長い実証的論考の果てに、堅実な結論が明記されている。データを根拠にした考察と提言は、尊重すべきである。

「おわりに
 以上のように、『祢軍墓誌』について、⑴祢軍墓誌の形態、⑵中国で出土した唐代百済人墓誌、⑶祢軍の出身と官品・勲位、⑷『祢軍墓誌』に見える地名と歴史典拠、という四節に分けて考察してみた。
 ⑴では、『祢軍墓誌』の史料性について、(中略)ほかの唐人墓誌や在唐百済人の墓誌との比較を行って、(中略)検討したうえで、祢軍墓誌の信憑性が高いと指摘した。 ⑵ 、⑶ 略
 ⑷ では、(中略)また、祢軍の才能を褒める語句として使われるもので、かなり文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の功績を顕せる銘文を作ったと述べてみた。」

 結論として適確に総括され、まことに論文としての形式が整っていて、浅学のものとしてお手本としたいものである。

*中間報告
 遡ると、次のような貴重な見解が述べられている。太字、当ブログ筆者。

 「そして、「於(于)時、日夲餘噍、據(拠)扶桑以逋誅。風谷遺甿、負盤桃而阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日夲」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011年)。けれども「日夲」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日夲」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。」

 「無理があろう」は、端的に言うと「不可能」、「あり得ない」との断言だろう。

 つまり、墓誌作家として当代随一と思われる文筆家が、故人を顕彰する墓誌に於いて、古典書籍に範を得て、典雅な文言で、歴史典故をモチーフとした極上の言葉を選びに選んだのに、百済亡国の際に介入した東夷の国名を上げたとしたら、それは、不躾でぶち壊しであるから、その意味でも、「日本」国号が書かれるのは、あり得ないのである。

 これは、まことに論理的な意見であり、当方は、誰にも異論を挟むことはできないと考える。いや、謙虚な言い方に変えると、一考に値すると考えるのである。
                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6  祢軍小史

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
 祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地に本拠を置く百済に移住して高級官僚として遇されたのである。

 つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。

 官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。

*流亡の終わり
 その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。

*降伏の功
 かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
 
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。

 墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。

 なお、日本書紀には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。
 その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の白村江の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がない
のである。

 ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する、新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。

 このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。

 そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 6/6 結論

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*結論
 以上のブログ記事をまとめると、以下のようになる。

  1. 「日本」は、墓誌作文時点では、最新情報の東夷国号であり、故人を顕彰する墓誌の文として不適切である。従って、国号と見るべきではない。
  2. 「日本」は、国号でなく詩的字句として考えても、「扶桑」、「風谷」、「盤桃」と比肩できる典故を持たないので、墓誌の文として不適切である。従って、詩的字句と見るべきではない。
  3. 「本余譙」は、本藩たる百済の余譙(残党)と解されるべきである。
    扶桑を「日本列島」と解すると、百済亡国の際に、多数が亡命渡来した史実にも符合する。

 従って、ここに提唱する、この部分を「于時日、夲餘噍」と解する仮説は、一考に値すると思われる。
                       以上

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私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 1 再掲 墓誌の姿形

                         2018/05/08 再掲 2020/06/20 2021/09/22
〇はじめに
 本資料は、NHK BSプレミアム番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」の部分紹介です。

 番組は、中国の古都で、漢以降だけを見ても、前漢、隋、唐の帝都であった長安、現在の西安の郊外で、唐代墓跡の盗掘が発見され、追究された経過のドキュメンタリーです。

 付け足しのようになっているのが、百済「祢軍墓誌」の話題なのです。2011年頃に、七世紀後半制作の墓碑銘の拓本が公開され、誌文に「日本」の国号が発見されたとして、考古学界に話題を投げかけたのですが、これまで拓本だけで議論していたのです。

 今回の番組で、所在不明だった墓誌の実物が西安博物院に所蔵されていることが明らかになったものです。

◯画面コピー紹介 墓誌全体→該当部分を指摘 (NHK番組の部分引用です)

  • Neguntomb_20210922220201
 碑文で、「日」の右下で耳の字のように伸びていますが、これは、「曰」(いわく)と区別するものです。また、「本」が、「夲」(大の下に十)となっていますが、これは、中国では普通の書き方で、別に間違って書いたわけではありません。と言うことで、優れた職人の技が見てとれます。

*補追

 と一旦褒めたのですが、拓本で確認すると、は、「曰」(いわく)と似た「日」があったり、手偏と木偏が見分けにくいのがあったりして、仕事ぶりにムラがあるのが見て取れるのが、ご愛敬です。

以上

 

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 2  再掲 誌文私見

                        2018/05/10 再掲 2021/09/22

〇お断り
 以下は、『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇
に印刷された誌文を参考にテキスト入力したものであり、誤解、誤字などは、当ブログ筆者が責めを負うものである。
 参照した拓本は、資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序掲示のもの。

 但し、翻案文は不使用。(全文入力後に見つけたため)

    1. 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘
    2. 公諱軍字温熊津嶠夷人也其先与華同祖永嘉末避乱適東因遂家焉若夫
    3. 巍巍鯨山跨青丘以東峙淼淼熊水臨丹渚以南流浸煙雲以擒英降之
    4. 沃照日月而榳惁秀之蔽虧霊文逸文高前芳七子汗馬雄武擅後異于
    5. 三韓華構增輝英材継響綿図不絶帟代有声曾祖福祖譽父善皆是夲藩
    6. 品官号佐平並緝地義以光身佩天爵而勤国忠侔鉄石操持松筠範物者道
    7. 徳有成則士者文武不墜公狼輝襲祉藤頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
    8. 之逸気芒照星中搏羊角之英風影征雲外去顕慶五年官軍平夲藩日見機
    9. 識変杖剣知帰似由余之出戎如金碟之入漢__聖上嘉歎擢以栄班授右
    10. 武衛漉川府折衝都尉于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
    11. 固万騎亘野与盖馬以驚塵千艘橫波援原蛇而縱祢以公格謨海左亀鏡瀛
    12. 東特在簡帝往尸招慰公佝臣節而投命歌__皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
    13. 翥凌山之赤雀決河訾而天具靜鑑風隧而雲路通驚鳧失侶済不終夕遂能
    14. 説暢__天威喩以驅福千秋僭帝一旦称臣仍領大首望数十人将入朝謁
    15. 特蒙__恩詔授左戎衛郎将少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府
    16. 司馬材光千里之足仁副百城之心挙燭霊台器標於芄械懸月神府芳掩於
    17. 桂苻衣錦昼行富貴無革翟蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
    18. 詔授右威衛将軍局影__彤闕飾躬紫陛亟蒙栄晋驟歴便繁方謂克壮清
    19. 猷永綏多祐豈置曦馳易往霜凋馬陵之樹川閲難留風驚龍骧之水以儀鳳
    20. 三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安県之延寿里第
    21. 春秋六十有六__皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百研葬
    22. 事所須並令官給仍使弘文館学士兼検校夲衛長史王行夲監護惟公雅識
    23. 淹通温儀韶峻明珠不顏白珪無玷十歩之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
    24. 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
    25. 於雍州乾封県之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
    26. 山兮草色寒風度原兮松声響陟文榭兮可通随武山兮安仰愴清風之歇滅
    27. 樹芳名於寿像其詞曰
    28. 胄胤青丘芳基華麗脈遠遐邈会逄時済茂族淳秀帟葉相継献款夙彰隆恩
    29. 無替一其惟公苗裔桂馥蘭芬緒栄七貴乃子伝孫流芳後代播美来昆英声雖
    30. 歇令範猶存二其牖箭驚秋隙駒遄暮名将日遠徳随年故慘松吟於夜風悲薤
    31. 哥於朝露霊轜兮遽転嘶驂兮跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡三其

校注:(原注)
   3行の「青」は、王連龍氏が「清」。「擒」は、王連竜氏が「樆」。
 4行の「扌庭 悊」は、王連龍氏が「榳惁」。
 21行の「研」は、王連龍氏が「升」。

追記:本記事の追記、校正項目
 _は、僻諱による空格
 4行の「榳惁」は、葛継勇氏が「扌庭 悊」としたものを復原。
 3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
 但し、拓本に「於」とあるものは、そのまま。
 竜、龍の混在はそのまま。
以上

 

2021年9月21日 (火)

日本文化の誤解を歎く 将棋の「クイーン」談義に苦言 再掲

                       2019/05/21 補充 2021/09/21

 本稿は、毎日新聞デジタルサイトの連載コラムに関する意見です。時折参照されることがあるので、少し書き足してみました。

 日本文化をハザマで考える  第4回 変わりゆくチェスと将棋の「クイーン」
          2019年5月21日 11時52分 Texts by ダミアン・フラナガン

 当該コラムの位置付けについて考えましたが、いろいろ誤解されている点について、率直に異議を呈するのが誠意の表れとみて、以下のように、苦言を申し上げるのです。

□「日本」に国王なし
 まず、「日本」には、古来、国王はないので、「国王」の配偶者としての「女王」はなかったのです。ないものが、広く通じることはないのです。

 「日本」は、国名が成立した八世紀以降であり、それ以前、「日本」の無い時代、文書記録の整っていない三世紀の中国の歴史書によると、男性の国王を女性が継いだ時、「女王」と呼ばれたようですが、それにしても男性の国王の配偶者を「女王」と呼んだ形跡はありません。

 因みに、「日本」が文字「文化」を学んだ中国では、女性が君主となることはなく、また、君主は、歴代「皇帝」だったので、国王の配偶者を「女王」ということもなく、「女王」と言う漢字言葉の理解には、難点がつきまといます。(唯一の例外は、唐代の「武則天」ですが、例外があるということは、通則の邪魔にはならないのです)

 ご承知のように、古代、「日本」の君主は、「天皇」であり、配偶者は「皇后」であって「女王」ではなく、皇太子以外の男性王族を「王」と呼んだ際、女性王族を「女王」(じょうおう)と呼んだようです。これは、本来、「娘王」(じょうおう)だったのかも知れません。現代語でも、「女王」の発音は、「じょうおう」であって、「じょおう」ではありません。よく聞いてほしいものです。

 して見ると、「日本」には、「クイーン」に相当する呼称は、一切なかったようです。たまたま、漢字で、「女王」と書かれても、その時、女性君主を想定した可能性は、まずないということです。

□将棋の素性
 以上、筋の通った説明を試みましたが、世間に通用している理解とは異なるとしても、世間の大勢の誤解、勘違いを放置していると、このようになるという見本にもなっているように思います。その点で、この記事が何かの警鐘になれば幸いです。

 将棋は、遅くとも、12世紀の鎌倉時代には到来していたようですから、その時点で、今回のコラムにあるように、元になる「チェス」類似の競技に、クイーンは成立していなかったということで、クイーンは来日していなかったのです。

*中将棋にクイーンなし
 今回念を入れて調べたところでは、中将棋には、「クイーン」の、日本語で、国王の配偶者なる意味を書いたコマはないのです。確かに、チェスのクイーンの動きに相当する「奔王」という駒はありますが、とても女王とは見えません。

*将棋に王将なし
 そもそも、先ほど上げたように、日本には、王を君主とする制度がなかったので、「キング」を「王将」とすることはないのです。

 大事なことは、王は君主であって将ではないので、王将は、君主の部下になります。女王なる駒を王将と共に並べたら、王将は女王の臣下、女王が盤上の君主となり、理屈に合わないこととなります。

 少し丁寧に説明すると、俗に「王将」と言いならわしているものの、これは誤解の産物であり、本来、中国で「金」(将)「銀」(将)と並べた財宝の中央に鎮座する至上の財宝を「玉」(将)と考える方が、筋が通るのです。
 かくして、将棋の配置を見ると、香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香と高貴な財宝を並べているのです。

 つまり、将棋は、チェスと異なり、財宝を取り合う知恵比べであって、戦争ゲームではなかったと見えます。戦後、皇室で将棋が愛好されていたことからも、そのように思うのです。

 と言うことで、将棋には、本来、男王も女王もないので、ないものが浮上することはないのです。

□生き続ける中将棋
 それにしても、1930年代、京都で中将棋の伝統が絶えたというのも、関係者には気の毒な誤解で、実際は、大阪中心に連綿として継承されているのです。Wikipediaによれば、将棋界のレジェンド 故大山康晴氏(15世永世名人)が、数少ない継承者だったとされています。

 いや、英文には、単にwasと書いているので、その時点で中将棋があったと言うだけで、伝統の終焉を意識させる「までは」は、軽率な誤訳かも知れないのです。「伝統が絶えた」のなら、had beenと書くものであり、多分、余り英語に通じていない人の仕業でしょうか。

□無形文化遺産の維持
 最後に、伝統的なゲームの勝手なルール変更について異議を申し述べます。

 将棋は、少なくとも、十七世紀初頭以来伝統を受け継いでいるものであり、今日も、多数の人々によって愛好されています。将棋とは、ゲームであり、それを愛好する人々の共通の財産なのです。

 それは、ゲームのルール、駒の名称にも及んでいて、
個人が勝手に変えることは許されないのです。それは、チェスでも同様と思います。

□「不法」の意義
 書かれているように、チェスと違うルールのゲームを作ってチェスだと言ったら、それは、チェスではイリーガル(Illegal)、つまり、「違法」なのです。現代に到っても、チェスのインターナショナルマッチは、国と国の威信をかけた争いであり、それこそ、細かい振る舞いまで厳重に規制されるものなのです。気ままなルール変更など、もってのほかです。

 当コラムの著者は、タイトル付けの無神経さに加えて、こうした大事な点が理解できていないようなので、きつく釘を打たせていただきます。
 それにしても、「変わりゆく」と決め付けられている「チェス」と「将棋」からは、当記事以外、反論はないのでしょうか。

 この世界には、個人の我が儘で壊してはならないものが、沢山あるのです。

 因みに、将棋が「本将棋」と呼ばれるのでわかるように、将棋の駒を使った挟み将棋や山崩しに始まり、衝立将棋などの変則ルールの将棋が多く知られていて、また、興味深い新種が生み出されていますが、「本将棋」は不変なのです。

 よろしくご理解の上、賛同いただけたら継承いただきたいのです。


 以上、特に参考文献は挙げませんが、それは、このような断定的な意見を公開する際に、ご当人がなすべき義務と思うからです。いい加減な思い付きを叱責するのに、労力を費やすだけでも十分なので、後は、ご当人が調べるべきものです。もっとも、特にコメントも質問もないので、全国紙に載った記事は、そのまま定着するということなのでしょうか。

以上

2021年9月18日 (土)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記
私の見立て ★★★★★ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むが、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。ようは、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込みが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が隋国「大使」に抜擢されたと明確である。
 書紀所引隋帝国書には、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。また、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、氏はその点に、無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を採用しようとするするのは、中国史料の解釈として不合理である。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、蕃客接待専門職で傍路である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点では、大いに異なる。つまり、文林郎として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

                               以上

2021年9月15日 (水)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版

                             2021/03/08 補充2021/09/15
〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。
 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、孔融が著名人であったが、伝を立てるに及ばないと見たものと思われる。これに対して、裴松之は、崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。つまり、南朝劉宋の時代、魏志に孔融伝が欠落していると見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、魏志に孔融伝を追加すると原著を改竄したことになるので、崔琰伝に補注する形式を採用したとみられる。つまり、魏志は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 因みに、范曄「後漢書」編纂時に司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人が、周秦漢の古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、「十余歳」を「十歳」としている。

 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、成数ないしは所数で、十歳とした方が字面が滑らかである。
 太古以来、戸籍は整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。

 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢で言うと、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」で、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、魏志倭人伝にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。

 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、権力者曹操に楯突いてきつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 「太祖本紀」では、時に、高官としての行状が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺の憂き目に遭っている。孔子の子孫という事もあって、随分高名でありながら、魏志に列伝はない。
 魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように敢えて孔融伝を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、魏志崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、後漢紀、後漢書と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、魏志に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。孔融伝を収録するとしたら、裴注で補充されているような、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
 と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、續漢書と後漢紀の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。

 そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 再掲

                              2021/03/08 確認 2021/09/15

〇史料対照篇 後漢書に「孔融列伝」あり。續漢書は、魏志崔琰伝裴注
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし
                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 再掲

                             2021/03/08 確認2021/09/15

〇原典史料 出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

魏志崔琰傳 裴松之付注
司馬彪「續漢書」:

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2021年9月14日 (火)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判

2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、個人攻撃でないと了解いただきたい。
 最近閲覧件数が伸びているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、日本書紀は検証を要する外部文献です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来変遷を重ねています。
 「都」は、本来、「すべて」、「つどう」の意味です。転じて、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所を示す意味で使われることはあったのです。

 但し、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して意味が異なるので、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の俀国伝で「都於邪靡堆」と書いた趣旨は、時代、状況不明の最たるものです。

*日本語に残る古代語
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。

*無理な造語
 氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効であり、疑問点を克服し、考え直して頂く方が良いでしょう。

 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 2/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*竹斯俀国説~竹斯放射行程説
 まず、隋使は、最終目的地として竹斯國に安着、滞在したと見えるのです。倭人伝の伊都国に相当するものと見受けます。

 つまり、俀国王治(王の居所、ないしは居城)は、竹斯国そのものか、近傍と示唆されています。倭人伝では、伊都国を扇の要とした中心の放射行程解釈が有力ですが、それに追随していると見えます。俀国伝に言う「達於海岸」とは、街道行程で陸地を進んで海岸に至り、その向こうは海という程度でしょう。

 因みに、倭人伝の文書としての深意が、郡から倭に向かう端的な行程に、余傍の国に関する追記が付されているとみれば、「放射行程説」は、諸国を対等に取り上げていると文意を取り違いしているとみられるのです。このあたり、かなり深く文意を読み解かないと、文法解釈、先例踏襲に囚われて、深意を見失うことが多いようです。

 元に戻って、俀国伝の行程の意味をゆっくり考えると、隋使滞在地の東に秦王国があって、同様に東に向かって進めば、十余国を経て海岸に着く(達於海岸)とみられるのです。

 海岸の向こうは海だから国はないのです。そうした、東方の諸国十余国(十余国に秦王国を一国足しても同じく十余国)が、皆竹斯國に附庸しているというのは、倭人伝に順当に追記していることになり「明快」です。

*隋使竹斯滞在説の掘り下げ
 つまり、隋使は、到着以来竹斯国に滞在したのであって、一路東に旅したわけではないと見られるのです。

 仮に、遠路東に向かったのであれば、「循海岸水行」、海岸の港から沖に出たと書くでしょう。あるいは、「浮海」、海をゆるゆる漂ったと書くものでしょう。中原人にとって、陸路を行かない移動は想定外なので、もし、未知の国で、そのような前例のない移動をせざるを得ないとしたら、克明に書き遺すものでしょう。

 復習すると、隋書俀国伝は、正史の東夷伝として、三世紀に書かれた倭人伝に依拠しているからこそ、後世正史としては、重複して書く必要はなく、かくも簡略な記事で済むのです。

 言い換えると、倭人伝にも中原官制にもない、異例極まりない命がけの東方船舶航行が数十日に亘り続いたなら、省略が許されなかったでしょうし、初めてその境地を書いたという誇りが文面に表れたでしょう。

 以上は、ただ史料の字面を追うだけで済まない、かなり高度な文章読解になりますが、落ち着いて考えれば、以上のような堅実な読みに至るはずです。要は、史料に書かれていない、明示も示唆もされていないことは、史料には書かれていないのです。

 かくして、しばらく「客館」に滞在いただいた上で、迎えを送って隋使を歓待したものでしょう。全て、竹斯国とその周辺の出来事と見ると、記事が簡潔なことに符合します。

                               未完

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 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判

2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*客館掌客の深意
 因みに、中国古代語法で、「客館」は、「客」と美称を得ているものの、文意としては「蛮人のねぐら」です。
 北朝が天下を取り、北狄鮮卑の血を引く皇帝が、隋唐の帝位に就いて「中世」が開幕したから、蛮夷を「客」と呼ぶ官制は変わりそうなものですが、煬帝は、鴻廬寺の「典客」を「典蕃」に改称したように、むしろ「天子」の意識が強く、裴世清も東夷を見おろす意識を堅持していたでしょう。
 と言う事で、書紀に書かれた、あっけらかんとした「掌客」任命には、曰わく言いがたい不審を感じるのです。高官から下っ端まで同格の「掌客」とは、何をお手本にした創作なのか、不可解です。

*明快な一解の提示
 以上に例示した「読み」は、言うならば、誠に端的明快ですが、氏の奉じる古代「浪漫」に整合しないので、同意はいただけないでしょう。それはそれとして、倭人伝解釈に連動した史料解釈として、意義あるものと考えます。

 以下、氏の紹介に従い隋使来訪事件の顛末を読み進めますが、真剣な提言に真剣な批判を加えるのは最高の讃辞と思い、しつこく批判する次第です。

*国内史料依存の隋書解釈
 引き続き、氏が滔々と提示する、隋書の倭国(四庫全書版隋書に従ったと言うものの、実は、日本書紀に大部分を依拠)記事に関する考察を通じて、先に提示した当ブログ提示の解釈と異なる点を指摘したいところです。

 「つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは魏志倭人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも明快な行路記事である。」

 「凡庸な論客は、自信のないときは、ことさら断言する、自信の全くないときは、断然断言する」という経験則に従うと、氏は、この部分に大分疑いを抱いているようです。そのせいか、筆の滑りも不都合になっています。
 隋使一行は、魔法の絨毯か、孫悟空の觔斗雲にでも乗ったように、「秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸」 に着いています。
 
*待てば海路の日和
 冗談口を叩かれるのを望んだわけでもないのでしょうが、難所続きで、とても安楽に通過できたとは思えない「瀬戸内海」を一気に過ぎているのです。瀬戸内海を船で通るには、既に、各地に寄港地が整備され、難所には、場合によっては迂回路を提供して、一貫した帆船航行ができたとしても、寄港地ごとの潮待ち、風待ちで、まあ、悲惨な船酔いは緩和されたでしょうが、「海路の日和」を待ち続けて、どう思ったのでしょうか。

*見えない墳丘墓の景観
 「大阪湾岸」と言っても、いつ、河内平野北部が乾いて、平地に隋使を迎えられる宿舎や馬車で移動できる街道が整備されたのか、それとも、湿地帯を避けて、南の古墳地帯の丘陵部から、二上山の鞍部を越えたのか。これも不明です。

 河内湾の船上から見えるように殊更に基礎を持ち上げたという古墳群の勇姿/絶景が、隋書に書かれていないのは、不思議です。

                               未完

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*接待、慰労、そして検疫
 好意的に見るならば、隋使に限らず、大陸や朝鮮半島からの来訪者は、長期の航海で、船酔いしなくても、疲労していたと思われます。当然、九州島に到着したら、なによりも上陸して、くつろいだと思うのです。また、ここまで隋使をもたらした外洋船も、食料や水の補給は当然として、長期の係留には、川港の汽水層に占めて、船腹を保護しなくてはなりません。

 受け入れる倭も、素通りさせられないはずです。海の向こうからの来訪者は、悪疫を運ぶことが想定され、接待慰労とともに検疫隔離したはずです。

*越せない難所連発
 念を押すと、筑紫を出た隋使の船が、遠路遙か、未知なる大阪湾まで航行するのであれば、いかに大型で頑丈であろうと、多島海の航路と寄港地を熟知した水先案内人の乗船が不可欠です。
 現地海況に通じた案内人がいても、別に、外洋航行の大型の船の舵取りを経験はないので、どのような大技で、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡とある極めつきの難所を、無事通り抜けられたのか、そして、何の報告もないのは不可解です。
 隋煬帝が、不遜な蛮夷を討伐するために、大兵を乗せた海船を送ったとしても、難所突破の策がなければ、討伐どころか難船してしまうのです。

 遠路、超大国の使節が来たのに九州北部から大阪湾までの、隋使にとって未知の、しかも、長期長距離の行程を、自力で来いとはおかしな話です。書紀に従い隋使に小野妹子一行が随行しても、出迎え必須でしょう。
 筑紫から大阪湾岸に連絡があって、一方では接待の体制を作りつつ、一方では出迎えの一同を送里出したのでしょう。日帰り範囲に来たのに対して船団で出迎えているようですが、それまで放置していたのでしょうか。

*筑紫鴻廬館談義(?)
 筑紫に後年の「鴻臚館」相当の施設があったかどうかは不明ですが、順当に考えれば、どこか、適切な宿舎で待機している隋使到着の知らせを「大阪湾岸」まで伝えて、出迎えの高官を派遣するものではないでしょうか。

 「鴻臚館」は、蛮人の滞在先という意味であり、鴻臚「掌客」は野蛮人の接待役という役所(やくどころ)の最下級の役人なので、隋使が聞いたら、下っ端しか出てこないのかと憤激することでしょうが、書紀の関連記事では、そのような「賓客」の意義は全く意識されていないのです。
 そもそも鴻臚寺を誤解しているので、間違いだらけになったのでしょう。

 恐らく、鴻臚の組織、分掌など知らなかったのでしょう。何しろ、隋が、大使節団を送り込んでくるのだから、隋使は、高官と決め込んだのでしょうか。何しろ、中国の国家制度は、厖大な官職組織ですから、文林郎など聞いたこともなかったのでしょう。

 待機期間は、「大和」に至る遠距離との連絡往復であれば、文書交信の期間も含めて数ヵ月に及ぶ可能性があります。随分長期間の待機滞在だったはずなのに、何も書いていないから何もわからないのです。だからといって明解と言うことではないのです。謎を呼ぶのです。

 それにしても、隋書は、なぜ、肝心な事項を書き漏らしたのでしょうか。

                               未完

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 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*謁見の場
 さて、書紀を援用する氏の解釈に従うと、隋使は、恐らく半年近くたって、遠路遙か「大阪湾岸」に上陸して、宿舎で接待され、更に日を経て大和に招かれ、倭王と会見したらしいのです。

*知られざる交流史~放念された伝統
 隋書にある俀王の言葉は、「中国に大隋のあることは知っていたが、これまで、(山中に)引きこもっていたので、使いを出せなかった。専念、使節を送ったのは、大隋の恩恵に浴したいためであった」とあります。

 そもそも、隋以前、歴代王朝への長年の遣使があったのです。隋書に書かれている遣使の歴史は、俀王が、歴代蕃王の伝統の継承者であると宣言しているものであり、隋朝文林郎たる裴世清には、すべて既知であったはずです。
 長安の鴻廬には、れっきとした公文書が保管されていたのです。もちろん、「皇帝御覧」の神聖不可侵の文書記録ですから、改竄、差替は不可能の極みです。また、各文書の上申部門には、全て控えがあり、皇帝に上申した内容は、部門公文書に所蔵されています。中国史料は、そのように、改竄、変造に対して、絶大な抵抗力を持っているのです。

 隋使来訪は、二回目の遣隋使派遣に対する応答です。

 初回遣使で、使人は、国書での提示ともに、鴻臚の審問に応えて、口頭で国情、風俗を述べています。なかには、俀王の政事について述べた下りがあって、皇帝隋文帝は、これを「道里」に反するものとして叱責し、改めるように厳命しています。何しろ、俀国使人は、自国が勝手に制定している官制など、「礼」に外れた蕃制を得々と語っているのです。これも、南朝と称した「賊」の認めた無礼なのかと、怒りを覚えたはずです。
 皇帝の叱責を受けた使人は、当然、帰国次第、俀王に皇帝の指示を伝え、改めさせると約束したものと思われます。

 ところが、八年後の遣使の献じた国書には、大隋の仏教興隆に感銘を受け、仏僧を留学させたいと述べていますが、俀王の政事をどのように改めたか明言がないように見えます。煬帝は、先帝の指示に対する応答がないのは、無礼と感じたものと思われます。

 また、しきりに、隋帝を、「海西」の君主と称しています。つまり、西域の萬二千里の蕃国安息国の更に西、大海の向こう岸にある海西、幽冥の地に擬しているものと思われますが、東夷の蕃王天子と西戎(蕃王)天子と対等の位置付けに擬されて、無礼この上なしと怒気を発したものと思われます。周が殷(商)を打倒したのは、天下に天命を受けた天子は唯一であり、天命を喪った天子は、直ちに撲滅しなければならない、としたものであり、東夷の天子は、西戎の天子を滅ぼすと挑戦したものと解されるのです。
 
 以上のような背景を見ると、隋使にして見れば、皇帝が使人に与えた指示が、代々の蕃王に継承されず、無礼の罪すら謝罪しないとしたら、互いに取り決めすることは無意味になるのです。
 礼を知らないという煬帝の非難の中には、その場の取り決めが維持されないのは無礼である、と言う主旨も含まれていたのではないでしょうか。蛮人は物の道理を知らないから、無知による無礼の失言は直ちに咎めるべきではないという天子の寛容性は、限度に達したと見るものでしょうか。
 「礼」の中には、約束を守るという大原則が含まれているように思います。もちろん、国内史料には、そのような究極の「無礼」の自覚も反省もないのです。

*倭国紀年
 ここで、氏は、日本書紀記事の信頼性の裏付けとして、隋書と書紀の紀年の整合を言い立てます。
・部分引用(…は中略記号)
 「しかも…「明年」とは、直前(中略)に大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、…中国の使者裴世清…が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。」

 後年の書紀編纂時に、編纂部門全体としては、史記、漢書、三國志から隋書に至る正史や晋起居註などの中国史料を参照できたのは、明らかですから、書紀の史料批判に載しては、隋書記事に合うように、紀年を操作したのではないかという素朴な議論(異論)克服の「試錬」が必要でしょう。
 「何の矛盾もないように見える」などと温厚な断定表現ですが、見てくれで安心してはならないのです。
 素人考えですが、隋初まで中国と交流が無かった「ヤマト」が神功皇后紀に魏志記事を挿入したように、大変「巧妙に」紀年を中国暦と整合させたと見て取れます。素人が感じる疑念を解消していただかなくては困るのです。とは言え、(中国)史官の史書編纂は、「述べて作らず」が厳命されているので、「書紀」の度を過ごした創作志向には、(中国)「正史」に寄せる信頼と同等の信頼は置けないのです。

未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 6/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*書紀史料批判~初回遣使記事の欠落
 俀国伝には「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とあり、「俀国」遣隋使は、魏代以来の交流の歴史を裏付けたことは明らかです。大業四年(608CE)の隋使来訪に先立ち、隋文帝の開皇二十年(600CE)に遣使して、独自の官位制など、国政概要を滔々と申告していますが、書紀には、この際の交流は何も書かれず、大業遣隋(唐)使が、初お目見えと書かれています。
 書紀編者は、俀国伝との食い違いに気づかなかったのでしょうか。気づいていれば、辻褄合わせは、「さほど」困難でなかったと見えるのです。
 何しろ、前例がないから、漢使接待儀礼は未整備で、漢語を話す公式通詞もいないはずですから、ちょっとした見物(みもの)だったはずです。
 そして、文明国家は、克明な記録が必要と厳格に訓練されたはずです。
 遠隔地に報告するとしても、日々、早馬で急報したはずです。いや、船便しか無いのであれば、急使は、甲板を馬で駆けた事になります(冗談御免)。
 このように、書紀は、隋との交流に関して確認しただけでも、欠落が多く史料として信頼性を損じていることが明らかです。と言う事で、提示された隋使来訪記事は、史実の適確な反映かどうか疑問が生じます。
 この点だけに絞っても、書紀編纂時、紀年を中国史書と整合させる高度な努力を払ったから、隋使来訪の画期的事件の紀年が整合するのは当然です。そして、更なる整合がとれていないのに、疑問を呈しているのです。
 紀年整合は、ほんの初歩であり、ことさら「合致」と言い立てるものではないと思うのです。八世紀創建の「日本」側では原記録不明、継承不確実とあっては、正史史料批判に採用できないのが「普通」の考えでしょう。

*こよみの始まりと遡行
 丁寧に言うと、推古12年(604CE)、最初の暦が開始されたと伝えられますが、要は中国暦が開始したのであり、それ以前は暦が無いのです。
 暦では、日日、甲子、乙丑、丙寅と六十日周期の干支が充てられますが、暦の無い時代に干支を遡行させるには、月の大小に合わせた日数調整と閏月計算が必要です。隋開皇20年は4年前ですが、高度な演算が必要です。
 つまり、書紀記事の六世紀までの記事の紀日、紀月、紀年の干支は、編纂関係者の労苦の産物であり、誤算や疎漏があっても責められないのです。
 川村氏ほど、造詣の深い方であれば、素人読者を置き去りにせずに、少なくとも、本件に関する素人の不審感を振り払っていただければ幸いです。
*書紀史料批判~誤記、誤引用放置  追記 2021/09/12
 書紀記事の欠点は諸所に露呈し、改めて指摘するのも失礼なのですが、中国の正史史料「隋書俀国伝」と対照すると、次の謬りが歴然としています。
1.国名誤認
 まず、遣使先の国名を誤記しています。「大唐」は、遣使時点で存在していなかった後継帝国の尊称であり、書紀の原典史料にそう書かれていたはずはないのです。根拠史料は逸失していて、書紀編者の捏造と見ざるを得ません。
 なぜ、「大隋」と書かなかったのでしょうか。なぜ、国名誤認に気づいて訂正しなかったのでしょうか。隋書「俀国伝」は、国名蔑称とみて、忌避していたのでしょうか。まことに不可解ですが、それは、別儀です。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 7/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

2.職分誤認
 隋使裴世清は「文林郎」でしたが、書紀は「鴻臚寺掌客」と誤記しています。
 あえて、論外な書紀記事の不規則発言を許すと、どちらも、官位の下辺で略同格ですが、「文林郎」は文書管理部局の散官で教養を有し、「掌客」は、蕃客接待専任部署の実務担当で、権能が異なります。書紀記事は、官制や「客」の意義に無知な者の憶測と見られます。

 書紀記事をあえて信じると、裴世清は、国書で鴻臚の蕃客接待の下級官人と紹介され、返書では、鴻臚寺掌客の使人派遣と感謝されたことになり、極端な事実誤認が浮き彫りになります。まことに不合理です。

 隋使は特任外交官、行人、使人です。原職では随行官が服従しませんから、臨時に、高官に擬されていたことになります。蛮人への「大使」は、大抵、臨時の高官なのです。

3.国書捏造
 また、隋帝は、無礼、無作法で、服属を認めていない蕃夷に国書を呈するものではなく、単に、正使が口頭で非礼を叱責し、改悛を求めた筈です。初回の無作法に続く再犯であり、重罪と悟らせる必要があったのです。当然、そのような応酬は、国史に残せません。工程に大変な不面目を浴びせるからです。

 書紀は、「存在しない国書」の物々しい文言を滔々と述べ、後世に国書の継承がないのを言い訳してか、こともあろうに、裴世清大使と同行した正使が百済訪問時に国書を「盗まれた」と詐称しています。(存在しなかった)国書喪失という国家重大事件は、明らかに無残な捏造で、遣隋使が親族連座の重罪を犯し、流罪に値すると裁定した上で、君主が正使を免罪したなど、無法な事態収拾に苦闘したと見受けます。

 書紀の記録を見る限り、正使は、隋使に国書喪失を知られたら不名誉との理由で寛大に赦免され、後に正使に起用されています。まことに不合理です。
 隋使は、国書を携えて来訪したのであれば、会見の際に授けたはずであり、例えば、正使に渡した国書を仮のものとして、正式国書と入れ替えに回収するなどと言い出せば、応答に窮するのです。
 そもそも、百済は、長年中国政権と交信しているから、このような際に、隋と俀のやりとりを妨害したら、とんでもない懲罰を受けるのは自明であり、また、隋国書を奪っても、実質的に得るものはないことも自明であり、して見ると、国書掠奪などは意味不明な一大事なのです。

 とは言え、書紀の記録に依れば、正使は流罪に値する罪科を犯したのであり、免罪されても、正使一族は消しようのない汚名を曝しています。

 綜合して評価すると、国書事件は、史実に反する、誤解に基づく捏造であり、書紀記事の信頼性を大いに損ねています。

 案ずるに、隋使来訪、応接の文書記録が一切継承されていないため、正史編纂の際に、何らかの文書をたたき台に、一連の事情を創作したと見えます。その際、「俀国伝」が参照できていたら、隋使の官位取り違いなど、低次元の錯誤は是正できたはずですが、編者の手元には、隋使のそちこちの走り書きの抜き書きだけで、貴重書「俀国伝」全文は、深く秘蔵されていて、容易に参照できなかったと見えます。

◯まとめ
 日本書紀には、隋使が竹斯で何をしたか、皆目書かれていないのです。隋書で目を引く阿蘇山や有明海らしき紹介記事は、初回遣隋使の提出資料に基づくようですが、だからといって、初見の東方往還記がないのは、まこと不可解です。何のために、煬帝が、巨費を投じて、不遜な蕃王の領分を探索させたか、まことに不可解です。

 「普通に」考えると、朝鮮半島や中国大陸との交信、文物交換には、九州北部に外交権限と武力、経済力を持った高官/長老が常駐していたはずです。「武力」は、外敵侵攻を阻止する兵力と推定できますが、兵力推定できる戸数、口数は提出されていないのです。つまり、使人の往き来はあっても、俀国は、隋に臣従しなかったと見えます。

 竹斯が、「単なる出先」に過ぎなかったとするのなら、急遽、「ヤマト」から、接待にふさわしい高官と実務担当者の一行を、大量の資材、機材と共に派遣したはずです。また、隋使一行(十人程度でなく、百人規模とされる)を歓待するには、恰幅の良い迎賓館の急遽新造が必要だったはずです。

*筑紫幕府説/筑紫都督説
 結局、地方拠点には、兵力を備え、そのために、周辺諸国から税の取り立て、兵士召集の大権と、外敵侵攻に王命を待たずして即座に反撃できる特権が必要であり、要するに、一種「幕府」(中国史用語)を開設したと見ます。
 別の言い方で「総督」に準じる「都督」なる地方官がありますが、「都」はすべての意で「郡太守」が地域の諸事を委任したので強力ではありません。
 以上は、王に諸事を報告するのに数か月を要する体制に必要なのであり、竹斯に王城があれば、王に速報でき、「幕府」、「都督」は必要ないのです。このあたり、小手先の韜晦ではやり過ごせないのではないでしょうか。

 「単なる出先」では無かったら、渉外活動の記録があるはずですが、国内史料は、竹斯での歓迎、渉外について沈黙していると見え、不可解です。記録がなければ、後代の漢使来貢に対応する際に、より所がないという不都合な事態になるのです。いや、竹斯に「鴻臚寺」組織を設けて、国家としての対応を制度化したのなら別ですが、どうなのでしょうか。
 ちなみに、大唐の律令には、四夷の蕃使、典蕃/典客を掌客する組織規定はあっても、皇帝を上回る至高の天子の使節は、もとより対等の「敵国」(匹敵、同格の国)使節を接待する規定などないのです。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 8/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
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*「九州王朝説」の成り行き~難波東都論
 因みに、ご参考までに申し上げると、氏が否定する「九州王朝説」論は、近来、筑紫京都~難波東都論の首都~副都仮説が提言されています。
 つまり、タイトルに関して難詰した「都」の時代混乱は、川村氏独自の錯覚ではなく、国内古代史学界に普遍的なのですが、ここに説明無しに掲題している以上、用語の不見識は、氏の責任とみたのです。

 ちなみに、氏の動機は、古田武彦氏なる個人論調への攻撃なので当人がいなくなれば空振りですが、論敵は論旨を後継者に託して続いているのです。

 そう力まなくても、隋書には、俀国は、漢魏晋以来南朝の宋、斉、梁を経て、統一後の隋まで一貫して貢献していたとあり、これに耳を貸せば良いでしょう。

*避けられない時代錯誤
 氏の「浪漫」派史観の弱点は、「時代錯誤」でしょう。特に七世紀初頭の「中国人が中国人である皇帝に上申した古代史書」の実務的記事を、はるか後世、古代中国語の読み書きを知らないで育った「現代人」が、すらすら明快に読めるという決め込みに、何の抵抗も感じないところに疑問があります。

*幻の瀬戸内海一貫帆走
 ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による輸送経路が繋がっていただけで、「ヤマト」は交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、漢倭交流から隔離されていたと見えるのです。そのため、筑紫での貴重な記録が継承できなかったのでしょう。
 言うまでもなく、隋使乗船は、百済人の助言で竹斯まで到達しても、大型の帆船の案内人がない状態で、序の口の関門海峡すら越せなかったでしょう。

*竹斯国東岸海港
 竹斯国から東に向かって海港に出るというものの、東方の芸予諸島、備讃瀬戸の多島海、明石/鳴門海峡の難関は、帆船では越せなかったでしょう。いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓したとしても、元来難業なのです。

 隋使は、生還を期せない冒険航海など考えなかったという事です。使節自身はもとより、家族の生死に関わるので、殊更命を惜しんだのです。
 因みに、当記事筆者は、先の背景から、「倭の五王」の南朝遣使はもとより、後の初期遣唐使船まで、帆船航行に不安のない九州母港とみているのです。

*倭人伝解釈の確認~三世紀古代国家の構想
 ここまで書き進んで、川村氏は、倭人伝解釈に於いて「畿内説」を採用しているように見えてきました。

 私見によれば、「畿内説」は、単に「邪馬台国」比定地の一説ではなく、三世紀時点、九州北部を遠隔支配する古代国家が成立していて、当然、文書行政国家の統制を保つために、街道網が整備され、国の礎が築かれていたという壮大な巨像を、築き上げているものであり、倭人伝を根拠史料とするために、随分強引な二次創作で、お手盛りの「倭人伝」を創造しているように見えるのです。

 そのように早々に古代国家が形成されていたら、当然、東西の二大要地を周旋/往来する街道交通、文書連絡は確立済みであり、また、必然的に文書国家であったから、それから四世紀を経た七世紀には、当然、楽々、東西連携して隋使の受入ができたというお考えなのでしょうが、ここまで当記事で随時触れたように、そのような古代国家の形成は尚早と見えるのです。

 考古学の見地でいくと、国内に文書連絡があれば、それぞれの要地に厖大な文書、文書稿が生成、廃棄されねばならず、当時、木簡と帛書に頼っていたとすれば、少なくとも、厖大な木簡文書遺物が出土するはずです。であれば、不確かな推量に頼らずとも、遺物に依拠した考察が展開できるはずですが、そのような成果発表は、ほとんど見かけません。

 いや、遣唐使が、美しい紙質の手帳を駆使していたと伝えられているので、何れかの時期に、各地に製紙工房が林立したのではないでしょうか。何しろ、文書行政は、戸籍を国政の基礎としているので、萬戸の国は萬戸分、十萬戸の国は十萬戸分の戸籍を記帳、保管、集計しなければならなかったのです。

 と言うものの、それは、各人の構想の問題であり、確たる信念があっての七世紀論であれば、当記事は、単なるアラ探しにとどまるかも知れません。

 それはそれとして、ご一考頂ければ幸いと思い、自説を述べているのです。

                               未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 9/9

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◯夢物語 2020/10/28 補充
 以下、裴清滞在記を考察する際に、正史前例から辻褄合わせを考えます。
*王城不到達の言い分
 漢使(魏使、隋使の総称)が王城に至らなくても違命にならない事例として、范曄「後漢書」西域伝を前例として、「裴世清は、高官(長老)に伴われて竹斯から東の海岸に着いたが、竹斯からそこに到る海峡の危険と東方遥かな目的地まで連続する岩礁が波を噛む荒海の様を聞いた上で、『風待ち、潮待ちで、半年を経てようやく安着するが、それは、幸運にも難船を免れたものに過ぎない、難所では、難破船の残骸が船人を呼んでいる』などと聞いて、恐れを成して竹斯に引き返した」とでも書けば良かったように見えます。

 隋使としては裴世清であった文林郎は、行人なる文官であって武官でなく、国王接見を厳命されていたわけで無いので申し開きはできたでしょう。

 帝国の威信をかけた使節派遣は、巨費を投じている事もあり、一介の下級官吏が、無謀な行程を採用する事は許されなかったと見るのです。

*武帝使節安息国訪問記の先例
 漢代皇帝の任じた漢使が、相手国の国王と会見せずに、萬餘の兵と共に国境防塞を与る「長老」に国書を渡して帰国した例もあるのです。
 前例があれば、使命不達成で処刑される事は無いのです。(その際、文書使が、西方数千里の国都までの街道を短期間で疾駆往復し、国王の親書を持ち帰ったと記録されています)(漢書西域伝・安息国伝)

 裴世清来訪の際に、(実行不可能な)大移動が無かったものとすると、以上の成り行きが浮かんできました。そのような苦肉の策が、書紀編者に一切伝えられなかったため、今見て取れるような、不自然な推古紀記事になったものと見えるのです。素人考えで恐縮ですが、ここに異議として提示します。

*下級官人派遣の背景
 漢使として、最下級に近い官人が任用された背景として、蛮夷の国への漢使が、しばしば殺害されたことも関係しているようです。武帝時代に、西域諸国に初回漢使として派遣された百人規模の大人数の使節団は、潤沢な宝物を携えていたのですが、時には、問答無用で使者の首を切って宝物を奪い、地の果ての漢帝国に挑戦した例もあるのです。それも一度ならず。
 俀国の場合は、それに加えて、中原の官人が荒海を不慣れな海船で越える難儀もあり、とても、初回使節に高位の官人を起用できなかったのです。要は、とても確実な生還を期せない「必死」の渡海行と思われます。

〇最後の締めくくり
 以上の締めくくりは、諸論者に、魏晋代にとどまらず、隋代に到る期間の瀬戸内海海上移動のとてつもない危険を伝えられていない事を反省して、多少、メリハリをつけたまでです。
 私見としての「裴世清は、終始竹斯にとどまった」のではないかという論議は、変わっていません。

 念のため言い添えると、氏の好まれない「九州王朝説」を押しつける趣旨ではないので、ご不快であれば、ご容赦いただきたい。

                               完

2021年9月 8日 (水)

今日の躓き石 パラ閉幕、続く毎日新聞「リベンジ」蔓延の負の遺産

                            2021/09/08

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版スポーツ面の輝かしかるべき記事であるが、乱暴な大見出しで、大変残念、と言うか、選手の顔に泥を振る無残な記事になっている。でかでかと、「リベンジ」宣言して賛美しているのは、何とも、血なまぐさいのである。

 本来、毎日新聞の良心が、このような無残な報道を抑えるはずなのだが、当記事では選手が晒し者になっている。恐らく、年若い、世間知らずの選手が漏らした談話を、未熟な記者が勘違いして見出しにしたのだろうが、なぜ、誰も止めなかったのだろうか。全国紙編集部に、良識ある校閲者がいないはずはないと思うのである。

 日本のスポーツ界では、負けを屈辱とし、復讐を誓う汚らわしい言葉を美談に勘違いする悪しき習慣が蔓延しているように思う。つまり、一部指導者が、そのようにけしかけているのである。
 だから、個々の選手が、何も知らずに忌まわしい言葉を口にすることはあるだろうが、良識ある毎日新聞が、悪しき言葉を蔓延させて、後世に伝えるのは、何としても、避けて欲しかったものである。

 少なくとも、毎日新聞には、随一の全国紙としての品位があると信じているのだが、こう取りこぼしが多いと、次第に信頼が失われるのである。校閲しない紙面など、届けて欲しくないものである。

 わかりきったことだが、「リベンジ」は、血なまぐさい報復であり、太古以来、各宗教の教えで厳重に禁じられている。ところが、背教者が蔓延させ、継承しているのである。世に絶えないテロは、報復の連鎖である。少なくとも、毎日新聞社が気づいていないはずはないのだが、なぜ、紙面から消えないのだろうか。これでは、日本人は、復習賛美者の集団になるのである。

 今回、未来あるアスリートの業績と今後の努力に、泥と血糊を塗りたくった報道は、何とも、おぞましいのである。毎日新聞は恥を知るべきである。

 是非とも、少なくとも、毎日新聞の紙面から「リベンジ」が永遠に消え、その背景として、一人一人の記者が報道現場で、選手達に親身になって、この呪わしい禁句の撲滅を指導する姿を見たいものである。言葉は、どの時代にも本来の意味を知らないものが、無残に乱していくものであるが、全国紙は「言葉の護り人」となって、悪質な言葉の蔓延を防止して欲しいものである。

 このブログの一連の記事は、燃えさかる山火事に、柄杓で手桶の水を振りまくにも及ばない無力なものかも知れないが、それでも、言わずにいられないのである。

以上

2021年9月 4日 (土)

Windows 11 Insider Previewのアップデートで一部に不具合 解決策記事訂正あり

                         2021/09/04
 本件は、Windows 11 Insider Preview利用者の一部の問題に過ぎないので、大半の読者には関係無いと思うが、まあ、当ブログ筆者のような該当者には、主力機が操作不能、回復策不明という大変困った事態なので、何かの参考になればと言うことで、ご報告する次第である。

 本件は、当家で、YouTube動画の処理を任せている主力機2台が同時に発症して、何もできない事態になり、大変困った、迷惑な、実害のあるトラブルであるが、数日とたたない間にWindows Insider Blogに実行可能な対策が掲示されているのに気づいて、なんとか回復できたのである。

 但し、タスクバーが表示されず動作が不安定な状態では、ブラウザーの呼び出しも操作も不安定、同記事が呼び出せず、コピーペーストができないために、誤入力の訂正を繰り返したので、レジストリーエディターを起用する方法を模索したのであった。因みに、当対策は、タスクマネージャーからCmdを呼び出すので、タスクバーが不安定でも確実に操作できた。

 続いて、国内サイトITmedia PC USERに、掲題記事が掲示されたのであるが、Windows Insider Blog記事の翻訳紹介に加えて、レジストリーエディターを起用する対策が掲示され、当方の考えに図星だったので、サブ機に適用し回復したが、記事に誤記があったので、下記指摘しておく。

Windows 11 Insider Previewのアップデートで一部に不具合
 タスクバーが「無応答」に(解決策あり)

 まず、最初の下記1-8は、Windows Insider Blog記事の翻訳紹介である。

**引用/訂正**

  1. キーボードのCtrl+Alt+Deleteキーを押す
  2. 出てきた画面で「タスク マネージャー」をクリックする
  3. 「詳細」ボタンをクリックする(簡易表示の場合)
  4. 「ファイル」をクリックする
  5. 「新しいタスクの実行」をクリックする
  6. テキストボックスに「cmd」と入力して「OK」をクリックする
  7. コマンドプロンプトが表示されたら「reg delete HKCU\SOFTWARE\Microsoft\Windows\CurrentVersion\IrisService /f && shutdown -r -t 0」と入力してEnterキーを押す(コピーアンドペースト可)
  8. 再起動したら再度ログインする

 コマンドプロンプトが苦手(不安)な人は、5番目の手順まで進んだら以下の手順を試してみてほしい。

  1. 「このタスクに管理者特権を付与して作成します。」にチェックを入れる
  2. テキストボックスに「regedit」と入力して「OK」をクリックする
  3. 「HKEY_CURRENT_USER」フォルダを展開する
  4. 「Software」フォルダをクリックして展開する
  5. 「Microsoft」フォルダをクリックして展開する
  6. 「Windows」フォルダをクリックして展開する
  7. 「Microsoft」フォルダをクリックして展開する
  8. 「CurrentVersion」フォルダをクリックして展開する
  9. 「IrisService」フォルダを右クリックする
  10. 「削除」を選択する
  11. 削除に関するダイアログボックスが出たら「はい」をクリックする
  12. ウィンドウを閉じる
  13. PCを再起動して再度ログインする

**引用/訂正終わり** 

 一行入力で処理完了する対策は、明快であるが、当のPCのブラウザーで所定の記事を簡単に表示できない、つまり、コピー/ペーストできないときは、今回対応したように、別の被害を免れたPCで表示した文字を長々と書き写すので誤記が出る。どこが間違っているか、指摘がないのでよくよく照合するしかない。

 代案のレジストリーエディター操作で危険と感じるのは、10で結構登録項目の多い「IrisService」フォルダーを全削除する所で、ほんとに良いのかと、一瞬思うだけである。

 と言うことで、7の処理は勘違いで紛れ込んでいるが、項目が見当たらないので実行できず、仕方なく、『レジストリの「HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\IrisService」フォルダを削除 』するから、この一行は余計であるとわかるのである。
 指定項目が無いとわかったら、一行命令を確認の上、8を実行すれば良い。

 これまで、WindowsUpdateの不調の際は、最悪、Updateを取り消して、対策が出るまで待てば良かったのであるが、今回は、立ち往生という新手のトラブルで、誠に難儀したのである。

以上

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