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2021年9月

2021年9月26日 (日)

今日の躓き石 「引きこもり」を内輪から責める「社会的距離症候群」の迷妄

                              2021/09/26

 今回の題材は、NHK定時ニュースなどで報道されている、その道の「権威」のトンデモ発言である。以下、この記事は、「権威」と「世間の人」の隔絶を歎くのである。

 まずは、素人目にも、権威が、世間の人が心の中でその言葉に対して抱いている「イメージ」なるもの(やや言葉の意味が不確かだが、漠然たる「印象」のことか)を、なぜ正確に把握できたのか不思議である。権威の使命は、「引きこもり」と捉えられている人たちの心を確かめるのが、本来の道ではないのだろうか。ここでは、世間の人の誤解を調査し、病根を摘出したことになる。的外れではないだろうか。
 あえていうなら、権威は、そのような堅固な見解を固めるまでに、全国調査でもしたのだろうか。何人に聞いて何人がそう答えたのだろうか。今回の発言には、そのような見解に至った根拠(データ)が示されていない。

 次は、「引きこもり」と言う平易な日本語すら(権威によると)「誤解」してしまう世間の人に、長々と漢字が続く新語を提案して、正確に、つまり、権威の思っている意味と同じ意味で覚えてもらえると思っているのかという疑問である。
 世間の人は、権威を基準にすると、当然、教養のほどが違うので、同じ理解ができないのではないかと懸念するのである。言葉が通じなければ、何を語っても伝わらないのではないか。誤解以前の問題である。

 そう思う背景は、権威が回天の妙策と言うつもりで持ち出したのか、「ソーシャルディスタンス」なる、世に蔓延るにわか作りのカタカナ語の剽窃である。

 また、「社会的距離症候群」なる解決策は、劣悪この上ないのである。以下説くように、「社会的距離」なるにわか作りの造語は、劣悪な産物であり、そうした言葉と「症候群」を繋いで、何を言いたいのか不明である。

 正直言って、COVIT-19(「コロナ」は、トヨタ自動車の主力車の商標であり、病原体の愛称として口に出すのは恥ずかしい)蔓延防止ということで、一部の高名な提唱者が間違って唱えたカタカナ語「ソーシャルディスタンス」が、定説となって出回っているが、これは、ある種の「距離」を言っているだけで、そうした距離を「置きなさい」と言うメッセージは、一切こめられていないので、明らかな誤用なのだが、引っ込みがつかなくなったせいか、強引に意味をこじつけて出回っているのである。いや、これは、一部政治家や都道府県知事の浅薄なぶち上げのせいであって、権威に責めはない。

 と言うことで、権威は、にわかに、「社会的距離症候群」なる熟語を持ち出して、先に挙げたはやり言葉と大変紛らわしい「ソーシャルディスタンシング」なる、正しいが、まず世間の人に理解されない言葉を持ち出している。
 また、ここまで紛らわしいと、商品名だったら、商標権侵害、文学作品であれば、剽窃、パクリである。世間の人の信用を無くすことは、間違いない。用語の権利関係の確認はともかくとして、だれも、この言葉の「パブリシティ」効果について、まじめに考えなかったのだろうか。一度世間に出てしまうと、取り消せないし、訂正も効かないのである。仲間内でダメ出ししないのは、良くない習慣である。誰かが、率直に意見すべきではなかったかと思えて、まことに、勿体ないのである。

 それはともかくとして、ここまでの流れでは、世間の人が、ご高説の漢字熟語を見ても、カタカナ発音を聞いても、英語を見ても、権威の思いは、何も伝わらないのである。覚えてもらえなくては、泡沫(うたかた)となるだけである。

 正直なところ、「引きこもり」現象を誤解しているのは、NHKの諸番組を含めたメディア側の諸兄の短絡的理解である。家庭内にありながら、ドアに鍵をかけて、家族にすら替えを見せない、いわば、極端な事例を番組で取り上げるから、世間の人に定説となっているように、権威に誤解されるのである。いや、今回のNHKの報道は淡々としていて、当事者意識は見られないが、普通に読めば、誰が責められているのか、うっすらわかるのではないか。

 それはそれとして、話題の原点に戻ると、「引きこもり」は「閉じこもり」でないことは、世間の方はご存じの筈である。
 だって、昔から、「没交渉」と言うように、そうした生き方はあったのである。

 例えば「引きこもりがち」とでも言えば、世間の方に、たやすく理解されると思うのである。そうした核心に向かって、若者言葉で言えば、「ガチ」勝負すべきなのである。物事の核心から目を背けて、自分独特の言語宇宙に逃げてはいけない。自己陶酔してはいけない。
 どうか、権威には、自分で作った金剛石の「から」を出て、世間に出て世間の人の言葉を聞いて、その思いを察して欲しいものである。
 そうしなれけば、権威の高邁な思いは俗耳に伝わらないのである。

以上

 

 

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2021年9月22日 (水)

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 1/6 序論 

                   2018/05/12 追記 2021/09/22
〇序論
 中国の古都・長安で見つかった、唐時代の高官祢軍(禰軍)の墓誌(故人の事跡を刻んで墓に叹めた石板)の拓本が1911年に公開されたが、「唐時代678年10月制作と思われる墓誌に「日本」と読める文字がある」と見て、従来、701年大宝律令公布に際して制定・公布されたとされていた「日本」国号が、先だって中国で知られていた証拠ではないかと、議論を呼んでいるものである。

 本件は、当ブログの専攻範囲(倭人伝)外だが、本件報道に疑問があり、素人考えで口を挟むものである。

*日本列島回帰
 今回記事では、「倭」「日本」が混在する微妙な記事で、思うところがあって、中国、三国(朝鮮)と対比される地域を「日本列島」と呼ぶことにした。実際は、列島西部だけが対比されるのだが、適当な表現がないので困っていた。
 今回、上田正昭氏の提言に従い、とりあえず、当記事では「日本列島」と呼ぶことにしたのである。「地域限定」とご理解いただきたい。

 従来、古代史論で「日本列島」を見たときは反発したが、そういう趣旨であれば同感である。不本意な反応が返ってくるのは、説明不足なのである。大事なのは、趣旨を正しく伝えることである。

*禰軍墓誌の「日本」
 当プログでの検討の皮切りは、NHK BSの特別番組の付けたりであって、唐代墓跡の大規模盗掘事件に絡む取材として、現地西安博物館秘蔵の禰軍墓誌の撮影が許可され、手早くまとめたと思われる15分ほどの挿話が、番組告知の紹介も無く、まことの不意打ちで番組の中程に追加されていたのに触発されたのである。いや、これほど貴重な資料に通りががりにぶつかって、躓かせるというのは、どういう神経なのか、NHK古代番組の姿勢として、まことに理解に苦しむのである。

 と言うのも、これまで、当史料に関する論考を見かけてはいたが、史料の出所、由緒が不確かで、興が乗らなかったので、真剣に見たのは初めてのことある。不勉強の言い訳はさておき、慌てて確認すると、例えば「古田史学」誌第16集で三氏が論考を重ねている。

 但し、当初の朝日新聞記事で、多少謙虚な言い方、つまり、「拓本が本物であれば」と前提付きであるものの「定説が書き替えられる」との報道以来、『墓誌に「日本」と書かれている』との認識のようであった。今回、実物がNHK番組で紹介され、始めて「墓誌偽造」説は棄却されたようである。

*結論予告
 と言うことで、墓誌誌文について、すでに定説めいたものが形成されているようであるが、当方は、史料解釈の見過ごされた第一歩が見て取れるので、ここに考察を加えたものである。

 タイトルに示したように、当記事の結論は、墓誌誌文を読み取ると、そこに「日本国号」は書かれていない、と考えるものである。定説は、まず、「日本」を見て取って、それに合わせて、誌文を読み替えるものであり、「本末」転倒と思うものである。まあ、当世、定説は書き換えられるためにあるようで、何が「定」なのかと、苦笑するものである。

 なお、碑文読み取りについては、基本的に、テレビ画面で確認した該当部分の映像のテキストを利用しているが、当方の読解力を越えた、難解、と言うか、理解不能な美文なので、諸兄の論説を参考にしたことは言うまでもない。

 適切な扱いをしたものと思うが、失礼があれば、ご容赦頂きたい。

                           未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 2/6 日本國王并妻

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22

*日本國王并妻還蕃(舊唐書綺譚)
 当該部分の解釈で、参考となるのが、古田武彦氏が、中華書局本舊唐書(旧唐書)の表点本の句点違い事例として紹介している旧唐書順宗紀の「日本記事」である。太字は、当ブログ筆者のもの。

 新・古代学 第三集 歴史ビッグバン 古田武彦 1998
 昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか」との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。

「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》

 確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。

 つまり、権威ある中華書局、表点本も、「日本」なる二文字にとらわれて史料読解を誤ることがあるという事例である。」

*引用終わり

 古田氏は、本件解釈に際して、舊唐書を広く検索し、吐蕃伝に頻出する「本国」の用例では「本国」が吐蕃をさしていると指摘されている。

 データを根拠にした提言であるので尊重するものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 3/6 本藩の由来

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*「本藩」の由来
 当方も、「中国哲学書電子化計劃」データベースのテキスト検索を利用しようとしたが、残念ながら、舊唐書のデータベース収録は完了していなくて、維基文庫の全文テキスト検索を利用せざるを得なかった。(注 どうも、この点は、勘違いしたようである)

 と言うものの、舊唐書で「日本」を検索した際にヒットする「日本?」(?は、任意の一文字)の、「本?」の各種用例を確かめたところ、以下のように感じた。

  1. 「本国」とは、中国王朝に臣従する諸国王が、自領を語るときに用いられる用語である。
  2. 「本州」とは、中国王朝内、諸国王の所領、ないしは、刺史などの統轄する州を言うとき用いられる用語である。
  3. 「本藩」とは、これらの用例に類する用語である。
  4. 「藩」は、元来植え込みの垣根であり、「藩屏」とは、小国が、塀となって帝都を囲んで外敵から守る姿を現している。「藩」は公式用語でなく、それ故、正史には僅かな使用例しか出現しない。
    但し、実務上、極めてありふれた用語であり、これにならって、江戸時代、家康による幕府開闢以来、各国の大名所領は、しばしば「藩」と呼ばれていたのである。

*「日本余譙」は場違い
 もし、ここに「日本余譙」と書かれていたとすると、ここまで碑文に「日本」とは何者か前触れがないから、唐突であり、読者は、一読して理解できないと予想されるのである。よく言う「不意打ち」で、無作法である。現今言われる、冷水を浴びせるような「サプライズ」で、不愉快なものである。

 つまり、当該詩文の読者は、「日本」を全く知らないから、碑文に示されたような書法は、不適切極まりないのである。詩文作者が祭祀者に提示したら、一発却下、解雇は間違いない。

 もし、つまり、英語の[If]のように、無理に仮定して、ここに書かれているのが、「日本列島からの援軍」残党とすると、当然の疑問は、肝心の「百済」残党はどうした、というところである。

 「本藩」と書かれているのは、墓誌の主人公が仕えたが、亡国の憂き目に遭った旧「百済」であり、従って、後出の「本余譙」は、本藩「百済」の余譙と解釈するのが順当と思う。

 誌文では、ここまでに「本藩」が二度書かれていて、読者は、短縮表現を理解する準備ができているのである。

*「本余譙」とは?
 ようやく、核心に辿り着いた。ついでに、用字を訂正する。

 結局、「(于時)日夲餘噍」の六文字句と解釈するのは、場違いであり、「(于時日)夲餘噍」と解すべきなのである。

 ここでは、「夲藩余譙」が、「夲余譙」と省略されたと想定しているが、誌文では、しばしば字数を揃えることが、厳しく要求されるので、時に短縮、時に延伸されるのである。

 こうして「于時、夲藩餘噍」と二+四文字では、対句となっている「據扶桑 以逋誅」と合わないので「于時日、夲餘噍」と三+三文字としたと見るのである。
                          未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 4/6 先行論考

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*先賢の論考
 この点、墓誌に関する考察として、すでに、次の論考に於いて深い考察が行われていたので、勉強させていただいた。

 『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇 2012年3月
 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報6号掲載 

 本論文の史学論文として適切な構成にも敬服する。長い実証的論考の果てに、堅実な結論が明記されている。データを根拠にした考察と提言は、尊重すべきである。

「おわりに
 以上のように、『祢軍墓誌』について、⑴祢軍墓誌の形態、⑵中国で出土した唐代百済人墓誌、⑶祢軍の出身と官品・勲位、⑷『祢軍墓誌』に見える地名と歴史典拠、という四節に分けて考察してみた。
 ⑴では、『祢軍墓誌』の史料性について、(中略)ほかの唐人墓誌や在唐百済人の墓誌との比較を行って、(中略)検討したうえで、祢軍墓誌の信憑性が高いと指摘した。 ⑵ 、⑶ 略
 ⑷ では、(中略)また、祢軍の才能を褒める語句として使われるもので、かなり文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の功績を顕せる銘文を作ったと述べてみた。」

 結論として適確に総括され、まことに論文としての形式が整っていて、浅学のものとしてお手本としたいものである。

*中間報告
 遡ると、次のような貴重な見解が述べられている。太字、当ブログ筆者。

「そして、「於(于)時、日夲餘噍、據(拠)扶桑以逋誅。風谷遺甿、負盤桃而阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日夲」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011年)。けれども「日夲」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日夲」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。」

 「無理があろう」は、端的に言うと「不可能」、「あり得ない」との断言だろう。

 つまり、墓誌作家として当代随一と思われる文筆家が、故人を顕彰する墓誌に於いて、古典書籍に範を得て、典雅な文言で、歴史典故をモチーフとした極上の言葉を選びに選んだのに、百済亡国の際に介入した東夷の国名を上げたとしたら、それは、不躾でぶち壊しであるから、その意味でも、「日本」国号が書かれるのは、あり得ないのである。

 これは、まことに論理的な意見であり、当方は、誰にも異論を挟むことはできないと考える。いや、謙虚な言い方に変えると、一考に値すると考えるのである。
                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6 祢軍小史

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
 祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地付近に本拠を置く「百済」に移住して、高級官僚として遇されたのである。

 つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。

 官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。

*流亡の終わり
 その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。

*降伏の功
 かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
 
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。

 墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。

 なお、「日本書紀」には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の「白村江」の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がないのである。

 ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。

 このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。

 そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 6/6 結論

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*結論
 以上のブログ記事をまとめると、以下のようになる。

  1. 「日本」は、墓誌作文時点では、最新情報の東夷国号であり、故人を顕彰する墓誌の文として不適切である。従って、国号と見るべきではない。
  2. 「日本」は、国号でなく詩的字句として考えても、「扶桑」、「風谷」、「盤桃」と比肩できる典故を持たないので、墓誌の文として不適切である。従って、詩的字句と見るべきではない。
  3. 「本余譙」は、本藩たる百済の余譙(残党)と解されるべきである。
    扶桑を「日本列島」と解すると、百済亡国の際に、多数が亡命渡来した史実にも符合する。

 従って、ここに提唱する、この部分を「于時日、夲餘噍」と解する仮説は、諸兄姉の一考に値すると思われる。

                       以上

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私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 1 再掲 墓誌の姿形

                         2018/05/08 再掲 2020/06/20 2021/09/22
〇はじめに
 本資料は、NHK BSプレミアム番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」の部分紹介です。
 (2024/02/11現在 NHKオンデマンドで視聴可能(有料))

 番組は、中国の古都で、漢以降だけを見ても、前漢、後漢(董卓遷都時)、隋、唐の帝都であった長安、現在の西安の郊外で、唐代墓跡の盗掘が発見され、追究された経過のドキュメンタリーです。

 付け足しのようになっているのが、百済「祢軍墓誌」の話題なのです。2011年頃に、七世紀後半制作の墓碑銘の拓本が公開され、誌文に「日本」の国号が発見されたとして、考古学界に話題を投げかけたのですが、これまで拓本だけで議論していたのです。

 今回の番組で、唐突、不意打ちで、所在不明だった墓誌の実物が西安博物院に所蔵されていることが明らかになったものです。まことに、「うれしい サプライズ」(Pleasant surprise)であり、冷水シャワーの「ドッキリ サプライズ」(Surprise!)ではないのです。

◯画面コピー紹介 墓誌全体→該当部分を指摘 (NHK番組の部分引用です)
 Neguntomb_20240211172001  

 碑文で、「日」の右下で耳の字のように伸びていますが、これは、「曰」(いわく)と区別するものです。また、「本」が、「夲」(大の下に十)となっていますが、これは、中国では、現代に至るまで「普通」の書き方で、別に間違って書いたわけではありません。と言うことで、優れた職人の技が見てとれます。

*補追

 と一旦褒めたのですが、拓本で確認すると、「曰」(いわく)と似た「日」があったり、手偏と木偏が見分けにくいのがあったりして、石工の仕事ぶりにムラがあり、職人は、教養人でなかったことが見て取れるのが、ご愛敬です。

以上

 

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 2 再掲 誌文私見

                        2018/05/10 再掲 2021/09/22
〇お断り
 以下は、『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇
に印刷された誌文を参考にテキスト入力したものであり、誤解、誤字などは、当ブログ筆者が責めを負うものである。
 参照した拓本は、資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序掲示のもの。

 但し、翻案文は不使用。(全文入力後に見つけたため)

    1. 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘
    2. 公諱軍字温熊津嶠夷人也其先与華同祖永嘉末避乱適東因遂家焉若夫
    3. 巍巍鯨山跨青丘以東峙淼淼熊水臨丹渚以南流浸煙雲以擒英降之
    4. 沃照日月而榳惁秀之蔽虧霊文逸文高前芳七子汗馬雄武擅後異于
    5. 三韓華構增輝英材継響綿図不絶帟代有声曾祖福祖譽父善皆是夲藩
    6. 品官号佐平並緝地義以光身佩天爵而勤国忠侔鉄石操持松筠範物者道
    7. 徳有成則士者文武不墜公狼輝襲祉藤頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
    8. 之逸気芒照星中搏羊角之英風影征雲外去顕慶五年官軍平夲藩日見機
    9. 識変杖剣知帰似由余之出戎如金碟之入漢__聖上嘉歎擢以栄班授右
    10. 武衛漉川府折衝都尉于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
    11. 固万騎亘野与盖馬以驚塵千艘橫波援原蛇而縱祢以公格謨海左亀鏡瀛
    12. 東特在簡帝往尸招慰公佝臣節而投命歌__皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
    13. 翥凌山之赤雀決河訾而天具靜鑑風隧而雲路通驚鳧失侶済不終夕遂能
    14. 説暢__天威喩以驅福千秋僭帝一旦称臣仍領大首望数十人将入朝謁
    15. 特蒙__恩詔授左戎衛郎将少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府
    16. 司馬材光千里之足仁副百城之心挙燭霊台器標於芄械懸月神府芳掩於
    17. 桂苻衣錦昼行富貴無革翟蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
    18. 詔授右威衛将軍局影__彤闕飾躬紫陛亟蒙栄晋驟歴便繁方謂克壮清
    19. 猷永綏多祐豈置曦馳易往霜凋馬陵之樹川閲難留風驚龍骧之水以儀鳳
    20. 三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安県之延寿里第
    21. 春秋六十有六__皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百研葬
    22. 事所須並令官給仍使弘文館学士兼検校夲衛長史王行夲監護惟公雅識
    23. 淹通温儀韶峻明珠不顏白珪無玷十歩之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
    24. 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
    25. 於雍州乾封県之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
    26. 山兮草色寒風度原兮松声響陟文榭兮可通随武山兮安仰愴清風之歇滅
    27. 樹芳名於寿像其詞曰
    28. 胄胤青丘芳基華麗脈遠遐邈会逄時済茂族淳秀帟葉相継献款夙彰隆恩
    29. 無替一其惟公苗裔桂馥蘭芬緒栄七貴乃子伝孫流芳後代播美来昆英声雖
    30. 歇令範猶存二其牖箭驚秋隙駒遄暮名将日遠徳随年故慘松吟於夜風悲薤
    31. 哥於朝露霊轜兮遽転嘶驂兮跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡三其

校注:(原注)
  3行の「青」は、王連龍氏が「清」。「擒」は、王連竜氏が「樆」。
 4行の「扌庭 悊」は、王連龍氏が「榳惁」。
 21行の「研」は、王連龍氏が「升」。

追記:本記事の追記、校正項目
 _は、僻諱による空格
 4行の「榳惁」は、葛継勇氏が「扌庭 悊」としたものを復原。
 3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
 但し、拓本に「於」とあるものは、そのまま。
 竜、龍の混在はそのまま。
以上

 

2021年9月21日 (火)

日本文化の誤解を歎く 将棋の「クイーン」談義に苦言 再々掲

                       2019/05/21 補充 2021/09/21 2022/09/21

 本稿は、毎日新聞デジタルサイトの連載コラムに関する意見です。時折参照されることがあるので、少し書き足してみました。

 日本文化をハザマで考える  第4回 変わりゆくチェスと将棋の「クイーン」
          2019年5月21日 11時52分 Texts by ダミアン・フラナガン

 当該コラムの位置付けについて考えましたが、いろいろ誤解されている点について、率直に異議を呈するのが誠意の最上の表れと考えて、以下のように、「苦言」を申し上げるのです。

□「日本」に国王なし
 まず、「日本」には、古来、国王はないので、「国王」の配偶者としての「女王」はなかったのです。ないものが、広く通じることは「絶対に」ないのです。一言で言うとしたら、それでおわりです。

 「日本」は、国名が成立した八世紀以降であり、それ以前、「日本」の無い、そして、文書記録の存在しなかった時代、三世紀の中国の歴史書によると、男性の国王(「男王」)を女性が継いだ時「女王」と呼ばれたようですが、中国にない「女王」を、どんなつもりで書き残したのか、知ることはできません。いずれにしても男性の国王の配偶者を「女王」と呼んだ形跡はありません。もちろん、「男王」と書かれるのは、例外中の例外です。

 因みに、「日本」が文字「文化」を学んだ中国では、女性が君主となることはなく、また、君主は、古代以来、歴代「皇帝」だったのであり、国王の配偶者を「女王」ということもなく、「女王」と言う漢字言葉の理解には、難点がつきまといます。唯一の例外は、唐代の「武則天」ですが、例外があるということは、通則を証明するものであって、通則の邪魔にはならないのです)

 ご承知のように、古代、「日本」の君主は「天皇」、配偶者は「皇后」であって「女王」ではなく、皇太子以外の男性王族を「王」と呼んだ際、女性王族を「女王」(じょうおう)と呼んだようです。これは、本来、「娘王」(じょうおう)だったのかも知れません。現代語でも、「女王」の発音は、「じょうおう」であって、「じょおう」ではありません。よく聞いてほしいものです。

 して見ると、「日本」には、「クイーン」に相当する君主は一切なかったようです。たまたま、漢字で「女王」と書かれても、その時、女性君主を想定した可能性は、まずないということです。

□将棋の素性
 以上、筋の通った説明を試みましたが、世間に通用している理解とは異なるとしても、世間の大勢の誤解、勘違いを放置していると、このようになるという見本にもなっているように思います。その点で、この記事が何かの警鐘になれば幸いです。

 将棋は、遅くとも、12世紀の鎌倉時代には到来していたようですから、その時点で、今回のコラムにあるように、元になる「チェス」類似の競技に、「クイーン」は成立していなかったということで、クイーン」は来日していなかったのです。

*中将棋にクイーンなし
 今回念を入れて調べたところでは、中将棋には、「クイーン」に相当する、日本語で、国王の配偶者なる意味を書いたコマはないのです。確かに、チェスのクイーンの動きに相当する「奔王」という駒はありますが、とても女王とは見えません。どうでしょうか。

*将棋に王将なし
 そもそも、先ほど上げたように、「日本」には、王を君主とする制度がなかったので、「キング」を「王将」とすることはないのです。

 大事なことは、王は君主であって将ではないので、「王将」は、文字通りに解釈すると君主の部下になります。「女王」なる駒を「王将」と共に並べたら、「王将」は「女王」の臣下、「女王」が盤上の君主となり理屈に合わないこととなります。

 少し丁寧に説明すると、俗に「王将」と言いならわしているものの、これは、普通に考えると誤解の産物であり、本来、中国で「金」(将)「銀」(将)と並べた財宝の中央に鎮座する至上の財宝を「玉」(将)と考える方が、筋が通るのです。
 かくして、将棋の駒の配置を見ると、一番手前に、香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香と高貴な財宝を並べているのです。

 つまり、将棋は、チェスと異なり、財宝を取り合う知恵比べであって、戦争ゲームではなかったと見えます。皇室で将棋が愛好されていたことからも、そのように思うのです。

 と言うことで、将棋には、本来、「男王」も「女王」もないので、ないものが浮上することはないのです。いや、歴史上でも、恐らく「男王」はいなかったので、特に「女王」にこだわる意味がわからないのです

□生き続ける中将棋
 それにしても、1930年代、つまり、昭和初期に京都で中将棋の伝統が絶えたと決定的に断言するのも、関係者には気の毒な誤解で、実際は、大阪中心に連綿として継承されているのです。Wikipediaによれば、将棋界のレジェンド 故大山康晴氏(15世永世名人)が、「数少ない」(全人口に比べれば絶対的に数が少ないのは自明なので、何をわざわざ「少ない」と言うのか、意味/意図不明です。普通、「貴重な」という筈です)継承者だったとされています。

 いや、英文には、単にwasと書いているので、その時点で中将棋があったと言うだけで、伝統の終焉を意識させる「までは」は、軽率な誤訳かも知れないのです。「伝統が絶えた」のなら、had beenと書くものであり、多分、余り英語に通じていない人の仕業でしょうか。

□無形文化遺産の維持
 最後に、伝統的なゲームの勝手なルール変更について異議を申し述べます。

 「将棋」は、少なくとも、十七世紀初頭以来、連綿たる伝統を受け継いでいるものであり、今日も、多数の人々によって愛好されています。「将棋」は、「ゲーム」であり、かつ、それを愛好する人々の共通の財産なのです。

 それは、「ゲーム」のルール、駒の名称にも及んでいて、個人が勝手に変えることは許されない
のです。それは、「チェス」でも同様と思います。

□「不法」の意義
 書かれているように、「チェス」と違うルールのゲームを作って「チェス」だと言ったら、それは、「チェス」ではイリーガル(Illegal)、つまり、「違法」なのです。現代に到っても、「チェス」の「インターナショナルマッチ」は、国の威信をかけた争いであり、それこそ、細かい振る舞いまで厳重に規制されるものなのです。気ままなルール変更など、もってのほかです。

 当コラムの著者は、タイトル付けの無神経さに加えて、こうした大事な点が理解できていないようなので、きつく釘を打たせていただきます。
 それにしても、「変わりゆく」と決め付けられている「チェス」と「将棋」からは、当記事以外、反論はないのでしょうか。

 この世界には、個人の我が儘で壊してはならないものが、沢山あるのです。

 因みに、将棋が「本将棋」と呼ばれるのでわかるように、将棋の駒を使った挟み将棋や山崩しに始まり、衝立将棋などの変則ルールの将棋が多く知られていて、また、興味深い新種が生み出されていますが、「本将棋」は不変なのです。

 よろしくご理解の上、賛同いただけたら継承いただきたいのです。


 以上、特に参考文献は挙げませんが、それは、このような断定的な意見を公開する際に、ご当人がなすべき義務と思うからです。いい加減な思い付きを叱責するのに、労力を費やすだけでも十分なので、後は、ご当人が調べるべきものです。
 もっとも、以後、特にコメントも質問もないようなので、全国紙に載った記事は、そのまま定着するということなのでしょうか。全国紙の権威は、時代とともに、風化夢散しているのでしょうか。

以上

2021年9月18日 (土)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記
私の見立て ★★★★★ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むが、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。ようは、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込みが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が隋国「大使」に抜擢されたと明確である。
 書紀所引隋帝国書には、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。また、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、氏はその点に、無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を採用しようとするするのは、中国史料の解釈として不合理である。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、蕃客接待専門職で傍路である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点では、大いに異なる。つまり、文林郎として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

                               以上

2021年9月 8日 (水)

今日の躓き石 パラ閉幕、続く毎日新聞「リベンジ」蔓延の負の遺産

                            2021/09/08

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版スポーツ面の輝かしかるべき記事であるが、乱暴な大見出しで、大変残念、と言うか、選手の顔に泥を振る無残な記事になっている。でかでかと、「リベンジ」宣言して賛美しているのは、何とも、血なまぐさいのである。

 本来、毎日新聞の良心が、このような無残な報道を抑えるはずなのだが、当記事では選手が晒し者になっている。恐らく、年若い、世間知らずの選手が漏らした談話を、未熟な記者が勘違いして見出しにしたのだろうが、なぜ、誰も止めなかったのだろうか。全国紙編集部に、良識ある校閲者がいないはずはないと思うのである。

 日本のスポーツ界では、負けを屈辱とし、復讐を誓う汚らわしい言葉を美談に勘違いする悪しき習慣が蔓延しているように思う。つまり、一部指導者が、そのようにけしかけているのである。
 だから、個々の選手が、何も知らずに忌まわしい言葉を口にすることはあるだろうが、良識ある毎日新聞が、悪しき言葉を蔓延させて、後世に伝えるのは、何としても、避けて欲しかったものである。

 少なくとも、毎日新聞には、随一の全国紙としての品位があると信じているのだが、こう取りこぼしが多いと、次第に信頼が失われるのである。校閲しない紙面など、届けて欲しくないものである。

 わかりきったことだが、「リベンジ」は、血なまぐさい報復であり、太古以来、各宗教の教えで厳重に禁じられている。ところが、背教者が蔓延させ、継承しているのである。世に絶えないテロは、報復の連鎖である。少なくとも、毎日新聞社が気づいていないはずはないのだが、なぜ、紙面から消えないのだろうか。これでは、日本人は、復習賛美者の集団になるのである。

 今回、未来あるアスリートの業績と今後の努力に、泥と血糊を塗りたくった報道は、何とも、おぞましいのである。毎日新聞は恥を知るべきである。

 是非とも、少なくとも、毎日新聞の紙面から「リベンジ」が永遠に消え、その背景として、一人一人の記者が報道現場で、選手達に親身になって、この呪わしい禁句の撲滅を指導する姿を見たいものである。言葉は、どの時代にも本来の意味を知らないものが、無残に乱していくものであるが、全国紙は「言葉の護り人」となって、悪質な言葉の蔓延を防止して欲しいものである。

 このブログの一連の記事は、燃えさかる山火事に、柄杓で手桶の水を振りまくにも及ばない無力なものかも知れないが、それでも、言わずにいられないのである。

以上

2021年9月 4日 (土)

Windows 11 Insider Previewのアップデートで一部に不具合 解決策記事訂正あり

                         2021/09/04
 本件は、Windows 11 Insider Preview利用者の一部の問題に過ぎないので、大半の読者には関係無いと思うが、まあ、当ブログ筆者のような該当者には、主力機が操作不能、回復策不明という大変困った事態なので、何かの参考になればと言うことで、ご報告する次第である。

 本件は、当家で、YouTube動画の処理を任せている主力機2台が同時に発症して、何もできない事態になり、大変困った、迷惑な、実害のあるトラブルであるが、数日とたたない間にWindows Insider Blogに実行可能な対策が掲示されているのに気づいて、なんとか回復できたのである。

 但し、タスクバーが表示されず動作が不安定な状態では、ブラウザーの呼び出しも操作も不安定、同記事が呼び出せず、コピーペーストができないために、誤入力の訂正を繰り返したので、レジストリーエディターを起用する方法を模索したのであった。因みに、当対策は、タスクマネージャーからCmdを呼び出すので、タスクバーが不安定でも確実に操作できた。

 続いて、国内サイトITmedia PC USERに、掲題記事が掲示されたのであるが、Windows Insider Blog記事の翻訳紹介に加えて、レジストリーエディターを起用する対策が掲示され、当方の考えに図星だったので、サブ機に適用し回復したが、記事に誤記があったので、下記指摘しておく。

Windows 11 Insider Previewのアップデートで一部に不具合
 タスクバーが「無応答」に(解決策あり)

 まず、最初の下記1-8は、Windows Insider Blog記事の翻訳紹介である。

**引用/訂正**

  1. キーボードのCtrl+Alt+Deleteキーを押す
  2. 出てきた画面で「タスク マネージャー」をクリックする
  3. 「詳細」ボタンをクリックする(簡易表示の場合)
  4. 「ファイル」をクリックする
  5. 「新しいタスクの実行」をクリックする
  6. テキストボックスに「cmd」と入力して「OK」をクリックする
  7. コマンドプロンプトが表示されたら「reg delete HKCU\SOFTWARE\Microsoft\Windows\CurrentVersion\IrisService /f && shutdown -r -t 0」と入力してEnterキーを押す(コピーアンドペースト可)
  8. 再起動したら再度ログインする

 コマンドプロンプトが苦手(不安)な人は、5番目の手順まで進んだら以下の手順を試してみてほしい。

  1. 「このタスクに管理者特権を付与して作成します。」にチェックを入れる
  2. テキストボックスに「regedit」と入力して「OK」をクリックする
  3. 「HKEY_CURRENT_USER」フォルダを展開する
  4. 「Software」フォルダをクリックして展開する
  5. 「Microsoft」フォルダをクリックして展開する
  6. 「Windows」フォルダをクリックして展開する
  7. 「Microsoft」フォルダをクリックして展開する
  8. 「CurrentVersion」フォルダをクリックして展開する
  9. 「IrisService」フォルダを右クリックする
  10. 「削除」を選択する
  11. 削除に関するダイアログボックスが出たら「はい」をクリックする
  12. ウィンドウを閉じる
  13. PCを再起動して再度ログインする

**引用/訂正終わり** 

 一行入力で処理完了する対策は、明快であるが、当のPCのブラウザーで所定の記事を簡単に表示できない、つまり、コピー/ペーストできないときは、今回対応したように、別の被害を免れたPCで表示した文字を長々と書き写すので誤記が出る。どこが間違っているか、指摘がないのでよくよく照合するしかない。

 代案のレジストリーエディター操作で危険と感じるのは、10で結構登録項目の多い「IrisService」フォルダーを全削除する所で、ほんとに良いのかと、一瞬思うだけである。

 と言うことで、7の処理は勘違いで紛れ込んでいるが、項目が見当たらないので実行できず、仕方なく、『レジストリの「HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\IrisService」フォルダを削除 』するから、この一行は余計であるとわかるのである。
 指定項目が無いとわかったら、一行命令を確認の上、8を実行すれば良い。

 これまで、WindowsUpdateの不調の際は、最悪、Updateを取り消して、対策が出るまで待てば良かったのであるが、今回は、立ち往生という新手のトラブルで、誠に難儀したのである。

以上

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