私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版
2021/03/08 補充2021/09/15
〇はじめに
当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。
孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。
范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。
一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、孔融が著名人であったが、伝を立てるに及ばないと見たものと思われる。これに対して、裴松之は、崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。つまり、南朝劉宋の時代、魏志に孔融伝が欠落していると見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、魏志に孔融伝を追加すると原著を改竄したことになるので、崔琰伝に補注する形式を採用したとみられる。つまり、魏志は改変されていないのである。
言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
因みに、范曄「後漢書」編纂時に司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。
素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人が、周秦漢の古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。
以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。
〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
范曄「後漢書」は、まずは、「十余歳」を「十歳」としている。
つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。
十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、成数ないしは所数で、十歳とした方が字面が滑らかである。
太古以来、戸籍は整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。
言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢で言うと、一,二歳若くなるのである。
当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生という程度である。
*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)
李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。
ここで、「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。
*長大~(言い換え放棄)
「高明長大、必為偉器」で、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
因みに、魏志倭人伝にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。
また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。
*早熟談義~笵曄の本領
笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。
先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。
本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。
孔融は、晩年、権力者曹操に楯突いてきつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。
笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。
*陳寿の孔融観
因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
「太祖本紀」では、時に、高官としての行状が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺の憂き目に遭っている。孔子の子孫という事もあって、随分高名でありながら、魏志に列伝はない。
魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように敢えて孔融伝を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。
孔融十歳時の逸話は、魏志崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、後漢紀、後漢書と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
むしろ、陳寿が、魏志に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。
このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。孔融伝を収録するとしたら、裴注で補充されているような、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。
*不本意な引用
結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。
*范曄の「脱史官」宣言
総じて、續漢書と後漢紀の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。
未完
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