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2021年10月

2021年10月29日 (金)

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 1/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29

〇番外書評の弁
 本記事は、古代史関係書籍の批評を多数公開されている棟上寅七氏の最新書評について所感を述べたものです。題材は、倭人伝の行路に関して木佐敬久氏の『かくも明快な魏志倭人伝』の「古代史本批評」です。
 但し、文中で、生野真好氏の著書に言及しているので込み入っています。

 当記事は、棟上寅七氏の威を借りて、倭人伝冒頭の道里行程記事に関する施策を試みていますが、古来、「騎虎(寅)の勢い」では、寅の背から落ちると、たちまち、虎の餌食になってしまうので、身震いしながら書いたものです。

*ご託宣
 『私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。』とあり、主として、倭人伝冒頭の「従郡至倭」行程の道里、特に、半島行程について、木佐氏の船舶移動説を(完全)否定したものであり、ブログ筆者たる小生も同意見です。

 小生であれば「従郡至倭」に続く「循海岸水行」なる語法の「海岸に沿って水行する」への読替えが、正史語法として不法として「一発退場」とするのですが、氏は丁寧に面倒をみています。
 つまり、原文解釈を曲げて「沿岸でなくかなり沖を航海した」ことはやり過ごして、狗邪韓国に寄ってから対海国へ行くのに、長い船旅の後、「はじめて海を渡る」という表現はありえないと痛打しています。

 それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明(沖合通過では不歴の非礼となる)を無視している点にも切り込んでいます。

 棟上氏は、近代の大型客船でもこの半島西岸の多島海で沈没事故を起こすので、当時の海域を夜間停泊せずに無装備で航海する危険性を舶の専門家に聞くべきだとしています。かたや、木佐氏は、当時の帆船を復元して実験航海したいなどと戯言をものしていますが、単に、無謀を否定するのでなく、専門家の意見を聞くべきだとの教育的指導は、さすがの卓見です。

*論争の経歴
 棟上氏は、半島西海岸南下説を唱えた生野真好氏と論争した経験を述べています。二重引用になりますが、行数が十分あるので、曲解はないものと思い、ここに再録します。御両所に無断で恐縮ですが、建設的な批判を心がけているので、ご容赦いただきたいものです。

*生野氏著書引用
 『生野真好氏は次のように書きます。
【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
 また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。

                                未完

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 2/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29

*生野氏著書引用 続き
 それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。

 その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。

 以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】』
*生野氏著書引用終わり

*コメント
 棟上氏の見解を差し置いて、史料考証からみたコメントは以下の通りです。
 生野氏著書引用が正確と仮定し、読み取れる限りの不備を指摘します。

 まず、陳寿「呉志」に「江表伝」なる列傳はなく、「呉志」に裴松之が付注した「江表伝」を誤解したものと思われます。

 Wikipedia記事を参考にすると、【『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋虞溥編纂の呉史書である。晋室南渡の後、虞溥の子の虞勃が東晋元帝に『江表伝』を献上し、詔して秘書に蔵したという。孫呉事績を、編年体「伝」形式を念頭にしつつ、記述したものと思われる。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とあり、五代の乱世を経た北宋期には散佚して、書物の全容は全く不明である。】(要約、補追は筆者の責に帰すものである)

 当記事は、用語から魏晋視点で書かれたと速断していますが、用語は、晋代に是正された可能性が高いとみえます。後出のように「江表伝」は魏武曹操敗北を東呉視点で「粉飾」した東呉寄り史書とみるのが順当と思われます。

 「江表伝」の散佚ですが、「三国志」、特に「呉志」の裴注に「江表伝」の独自記事が引用され、当該部分は現在も健在です。但し、陳寿が検証して採用したものではないので、「三国志」本文と同様に扱うことはできません。

*裴注「江表伝」補追の意義
 「江表伝」上梓は陳寿没後なので、陳寿は内容を知らなかったのは、明白であり、東呉史官は、「呉書」編纂時に、史官の見識で相当する史料を採用しなかったから、東呉史官が編纂し、東呉滅亡時に晋に提出された「呉書」が、「三国志」「呉志」に充当されても「江表伝」相当記事は不在だったようです。そのため、裴松之は、皇帝の嗜好に応じて「江表伝」から他の史書にない東呉寄りの視点の記事を補追したようです。

 なお、世に言う裴注の評価は割り引く必要があります。要するに、裴注は、大半が蛇足で、三国志本文の充実には寄与していないと思われます。

                                未完

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 3/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29

*コメント 続き
 このように、史料評価は、用語を浚えるだけでなく、内容を熟読、吟味した後に提示すべきです。これは、Wikipediaの情報源としての限界です。
 これは、後漢末期の献帝建安年間、宰相曹操が、荊州討伐後に巡行し東呉に服属を促したときの「赤壁」での対決で、東呉の偽降による火攻めで大敗したという「江表伝」独自記事が裴注で補追されたために、「呉志」が「江表伝」依存の東呉自慢話に堕したと見えて、史書としては、はなから信用できない状態になっているのと同様です。
 ついでながら、船体の大小は、時代と報告者の世界観で大きく変動し、現代読者の世界観も不確かなので、史学論では厳として避けるべき冗句です。
コメント終わり

 棟上氏は、生野氏の数字頼みの論証が、現代の帆船の航行速度を3世紀の船にあてはめる不都合を指摘していますが、これは、生野氏が、適切な専門家に適切な相談をしていないことを指摘しているものと見えます。

 続いて、棟上氏は、「野性号」実験航海情報を点検していますが、残念ながら、同航海が学術的なものでなく、客観的な最終評価がされていないことを見過ごされたように見えます。要は本筋の議論ではないのです。

 続いて、氏は本記事の核心と言える至言を提示されています。
 「海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。」

コメント
 生野氏記事の引用は、棟上氏の文責ですが、造船は地場の船大工が行うから、造船業のない土地で、いくら号令をかけても造船は不可能です。勿論、船材大量調達も大問題です。魏の造船、呉の造船など、言うのも無駄です。長江河口部には、海水淡水両者の造船業があっても、それ以外は、魏志に登場する長江支流漢水の川船、山東半島など渤海岸の海船造船でしょうか。

 ちなみに、棟上氏の裁断は明解で、皇帝の命令で貴重な贈り物を大量に抱えた魏使が、剣呑な海船で行くわけはない、堅固な陸路に決まっているとの趣旨は、まさしく、一刀両断の「名刀」です。

 おっしゃるように、野獣の危険などは、兵士が護衛すれば良いのであり、仮に野獣の被害を受けても、人馬補充すればいいから陸路が当然です、
コメント終わり

 以下、木佐氏の諸国比定論批判になりますが、「圏外」なので割愛します。

*棟上氏の総括~引用
 根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
 折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。  以上

*棟上氏の総括~引用終わり
 「書き止め」の上、謹んで公開します。

 誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言
                                完

2021年10月27日 (水)

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』1/2

 産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27

▢お断り
 以下は、産経新聞電子版近刊署名記事に対する批判である。
 まずは、批判対象を明確にするための適法の引用で、以下、逐条めいた批判、つまり、個人の所見であり、読者諸兄の意見は諸兄の自由で、当ブログが参照先と明記の上、諸兄の記事に引用、論評されても、それは諸兄の権利範囲であるが、当記事は、当記事筆者が著作権を有しない産経新聞記事を含んでいるので、適法な処理をしていただくことをお願いする。産経新聞記事閲読もお願いしたい。(全文ないしは相当部分の引用は、著作権侵害)

*産経新聞電子版記事の部分引用
箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00小畑 三秋」【邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。

*批判本文~「提灯担ぎ」宣言
 冒頭で要約予告する手法は新聞報道の王道であるが、実質は纏向説プロパガンダ(販売促進活動)であり、全国紙の批判精神はどこにあるのか。「提灯担ぎ」であり、ほぼ、文ごとに異議噴出であり、これでは、以下の記事は、「眉唾」ものである。

 「邪馬台国」の当否は別儀として、『魏志倭人伝という確たる史料に明記された「邪馬台国」の時代は三世紀後半である』と文献解釈を特定の仮説に固定した上で、そこに、『「箸墓古墳」なる墳丘墓の建造』という、考古学視点では年代不詳とせざるを得ない大事業をくくりつけているのは、有り体に言えば個人的な「思いつき」、丁寧に言うと、(種々の仮説の結構の上に成された)作業仮説に過ぎない。

 論証がされないままに、全国紙が無批判に追従してこのような記事を書くのは、全国紙の見識を疑わせるものである。「提灯担ぎ」という由縁である。

*無造作な用語すり替え
 簡単に「当時」というが、先の時代比定が仮説で、比較対象がどの「墳丘墓」か不明では、時代で最大と言われても、異議の唱えようすらない。あきれかえって、声も出ない感じである。
 被葬者が、「倭国(日本列島)」を統治したというのは、一般読者の誤解を誘う(いかがわしい)ものである。全国紙の取るべき態度ではない。
 「当時」、つまり、「箸墓古墳」の建造時が不確定であるから、当時の「倭国」は、どのようなものか、霧の中で雲を掴んでいるようなものであり、それを、古代史用語である「日本列島」とくくりつけるのは無法である。これでは、一般読者は、これは、北海道から九州の四大島嶼と受け止めるはずであるが、実際は、近畿以西の西日本に過ぎないのである。
 三世紀の「倭国」は、倭人伝にしか書かれていないから、順当に解釈すれば、北部九州にしか当てはまらないのだが、これには、纏向視点の異論があるので、当記事では不確定でしょうというしかない。
 とにかく、何と断言されても、対象地域が不明では、関心も反発もしようがない。

 素人騙しというか、専門家が入念に解説している内容の用語を十分説明しないまま、現代日常語として書き付けて、読者が(勝手に)誤解するのを想定するのは、詐話的手口であり、全国紙の権威を裏切るものであって、まことに感心しない。ただし、筆者は、産経新聞の購読者でないので「金返せ」とは言えない。

                               未完

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』2/2

 産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27

*創作史観の悪乗り
 「纏向に君臨した統治者が、日本列島を統御していた」というのは、素人考えの時代錯誤の思い付きであり、産経新聞独自の新説発掘/創作と見える。
 遠慮なく言うと、「ファクトチェック」無しの「フェイクニュース」とされても仕方ない記事である。倭人伝に「大王」はなく勝手な造語と見られる。
 かなり専門的になるが、『「大王」の「都」』も勝手な造語である。当時、中国の厳格な規則で、文化に属しない蛮夷に「都」を許してないと見られるからである。いや、後に自称したかも知れないが、三世紀後半概念では不用意と言える。要は、日本語の「都」は、中国制度の「都」と食い違っているのである。時代の異なる言葉をまぜこぜにして読者を煙に巻くのは悪質である。

 もちろん、担当記者の自作自演とは思えないが、誰の知恵かは知らないが、聞きかじりの話を、無批判に物々しく取り上げるのは、報道陣として、およそ、最低の罰当たりのように見える。記者の評判を地に落としているようで、もったいない話である。

*斜陽の焦り
 直後に、産経新聞としての報道が続く。『この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。」全国紙の(無言の)批判だろうか。

 同記事末の総括とは裏腹に、狭い地域に投入された多大な費用と労力を支えてきた集中力に敬服するものの、そのためにかくの如く非学術的なプロパガンダを必要とする「王者」の悲哀を感じる。発掘指揮者の「成果が出るまでは、全域を掘り尽くす」意気に、全国紙が無批判に唱和するのは感心しない。
 学術分野でも、国家事業は成果主義を避けられないが、そのために、虚構と見える(未だに実証されていない)「古代国家」像を担いでいるのは、傷ましいのである。

 近来、大相撲の世界で長く頂点を占めた不世出の大横綱が、頽勢に逆らって勝つために品格放棄の悪足掻きした例があるが、素人は、至高の地位に相応しい成果が示せないなら、潔く譲位するべきものと思う。「日本列島」には、意義深いが資金の乏しい発掘活動が多い。資金と人材を蟻地獄の如く吸い寄せる「纏向一点集中」に、いさぎよく幕を引くべきではないだろうか。
 横綱には、厳格なご意見番があるが、発掘事業には、止め役がいないのだろうか。

 要するに、公的な資金で運営される公的研究機関は、研究成果を、すべて国民に還元する義務を負っている。」大学は、私学といえども、「義務 」を負っている。
 各機関の役職員の給金は、銀行口座への振り込みだろうが、それは国民の税金であり、銀行や機関首長が払っているのではない。
 関係諸兄は、誰が真の顧客であるか、よくよく噛みしめるべきではないか。

*東京と比すべき大都会
 段落批評の後、『東京のような大都市だった」には唖然とした。担当記者が東京を知らないわけはないから、地方在住の読者を見くびってはないだろうか。この比喩は、奇妙奇天烈で当て外れである。纏向遺跡に推定される人口、面積などのどこが『東京のような』だろうか。どうか、窓を開けて、窓の外に広がる現実世界に目覚めて欲しいのである。産経新聞に編集部や校閲部はないのだろうか。

*まとめ
 当記事が担いでいるのは、当該組織の生存をかけた渾身の「古代浪漫」著作物だろう。古代史に個人的浪漫の晩節を求めて、見果てぬ一攫千金を追う姿を、率直かつ適確に批判して覚醒を促すのが、全国紙の報道の本分ではないだろうか。

 それとも、産経新聞は、俗耳に受ければそれで良しとする「報道商売」なる浪漫を追いかけているのだろうか。

                                以上

2021年10月24日 (日)

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 1/3

                      2020/01/31 2021/10/24

▢お断り 2021/10/24
 当記事は、魏使が、皇帝の下賜した宝物を、倭人のもとに運んだ行程を想定して、掲題の実証航海の意義を考証したものです。
 当ブログでは、倭人伝冒頭の道里行程記事は、中国王朝の公式記録に「公式」に記録されるのは、街道を使用した道里と所要日程であって、魏使の実際に通過した道程の記録ではないと見ているので、以下、論外と弾いてします。
 ここで、「野性号」を取り上げるのは、「野性号」が、「想定した沿岸航行」を「想定復元した漕ぎ船で実行可能であった」という「実証実験」なので、果たして、実現性は証されたのか、いや、そもそも、妥当な前提かという論点から批判したものです。

 おわかりのように、早々にはじいて議論から外さないで、道草を食っていると、これだけ頑張らないといけないのです。
 しかも、都合の悪いことに、このように戦線拡大して、字数を使って面倒見ると、その拡大した部分に対して批判が沸いて、また対応を迫られる悪循環が想定されるのです。正直言って、個人のできることには限界があるので、当ブログの記事は次第に道を絞らざるを得ないと感じる次第です。くれぐれも、このような余談にかかずり合わないでいいように願いたいものです。

 それにしても、当実験は、素人目には、随分飛躍した前提から取り組んでいるように見えるのです。厳しい指摘とも見えるかも知れませんが、当時、色々演出しなければ示現できなかったことは理解しているので、その点を非難しているのではないことをご理解いただきたいものです。もう、「実証航海」以来二十五年たっているので、率直な批判は許されると見たのです。

 以上、単独記事として閲覧いただく際には、多少の前置きが必要とみて追加したものです。

〇「従郡至倭」水行~神話の起源
 倭人伝冒頭の解釈で、郡からいきなり黄海に出て、以下、海岸沿いに南下、半島南端に達して東転する(とは、書いていないのだが)と決め込んだ勝手読みが天下独裁で、一切異説に耳を貸さないのが「定説」という名の嘆かわしい「神話」になっているようです。

*神話不可侵の軌跡
 この背景を調べていたのですが、やはり、一つの「神話」が根づいています。
 末尾の資料を拝読した感想ですが、要は、多くの人々の支援と資金援助で実現した実証計画が、率直なところ、仮想航路の実証が不首尾なのですが、色々背景があって、結果を糊塗しているようです。
 当方が、安楽椅子探偵ばりに、現地を見ない思考実験で、野性号の実験は「実証失敗」と見なす理由は次の通りです。

⑴ 同一漕ぎ船の一貫した航行、一貫漕行は、断然維持困難(不可能)です
 漕行は一定の難業でなく、壱岐-対馬間の急流が図抜けています。一貫漕行なら、この区間を越えられる船体、漕ぎ手の船となり、例えば三十人漕ぎの特製船体となります。
 最難所にあわせた重装備の船は、他区間では大変な重荷です。船体は、漕ぎ手の体重を加えて大変な重荷ですが、運賃は払いません。沿岸航路の漕行には、一切代船はないので、何か支障が生じて頓挫したとき一切回復手段がないので、一巻の終わりです。 

⑵ 漕ぎ船の継続漕行は、相当維持維持困難(不可能) です
 前項の不合理を排除するには、まずは、狗邪~末羅間の海峡部、特に壱岐~対馬間の便船を別誂えにすることです。
 そうすれば、他区間は、軽量、軽装備の船体と少ない漕ぎ手で運行できます。どの区間も、複数船体運用であり、代船も常備の筈です。要は、半ば消耗品扱いで、航海から帰還したとき点検して、痛みがあれば、適宜、代船に差し替えて、修理にかけていたはずです。

 継続漕行を避け、毎回乗り換えとすれば、南北に長く海流が厳しい対馬の「半周島巡り」が避けられます。別便船仕立てなら、乗客と荷物の短距離陸送で良いのです。壱岐でも、操船も漕ぎも大変困難な沿岸漕行の「半周島巡り」が避けられて、大変有用です。

 三度の渡海は、それぞれの区間の海流の厳しさに応じた特製便船、漕ぎ手体制で、伝馬の如き乗り継ぎになります。それなら、一日毎の渡海運用もできたでしょう。また、海上運行に付きものの難航も、馴染んだ行程の往復なら安心です。そうした説明が、何やら疑わしいと感じるとしたら、それは、時代感覚がずれているのです。

*余談
 江戸時代の渡船は、大抵、十人ほどの乗り合いで、漕ぎ手は、せいぜい二人、船賃は手頃で、しかも、武士は公務という解釈で無料だったのです。いや、現代になっても、渡し舟は、手軽な乗り物で、手漕ぎではないものの、都市近郊にも大事な交通機関として生き残っています。
 つまり、船体は、船室も甲板もなく、厨房もお手洗いもなく、とにかく、乗客を向こう岸に運ぶ手軽な下駄代わりだったのです。

 話題に上っている長距離航行の漕ぎ船は、外洋航行で、風波が激しく、舷側を高めてもしぶきがかかります。と言うことで、荷物の傷むのを防ぐためには、甲板ないしは帆布などで覆った「船室」が必要です。そうでなくても、海水の侵入も避けられなかったでしょう。つまり、都市近郊の渡し舟に比べて、大きくて頑丈、当然、数人から十数人の漕ぎ手が必要です。

 そのような大型の船は、空船でも重量が大きく、単に漕ぎ進めるにしても、多大な労力が必要です。想定されているように、釜山(プーサン)から仁川(インチョン)あたりまで、漕ぎづめに進むというのは、漕ぎ手/水手(かこ)の酷使と言うより使い潰しに近いものであり、事業として継続できるものではありません。あり得る姿が、伝馬形式の繋ぎです。

 因みに、ここで言う大型というのは、一人や二人漕ぎの河船の渡し舟や沖合の漁を想定した漁師の舟と比較して、大型という意味で、近来報道されているようなクルーズ船のような「大型客船」を言うものではありません。ここで例示されている野性号は、ここで言う「大型の船」ですが、当時実用とされていた船と似ているのか、似ていないのか実際の所は不明です。

*沿岸漕行の難儀
 と言うわけで、半島沿岸漕行の長丁場には格別の配慮が必要です。日々の槽運は、漕ぎ手に大変な負荷をかけるので、連日槽運(連漕)は実際上不可能です。事業を持続するには漕ぎ手の休養が必須で、更に言うと、随時漕ぎ手交替が必要です。一度限りの冒険航海なら連漕後に、漕ぎ手全員が疲弊困憊でも長期休養できますが、継続運行には過度の負担は避けねばなりません。大体、地元を離れた連漕などの苛酷さでは、いかに厚く報いても、漕ぎ手のなり手がいなくなります。

 それにしても、以前から不思議に思っているのですが、想定されている魏使用船は、末羅国で一旦お役御免になった後、帰途に備えるとして、その場待機なのでしょうか。狗邪韓国まで、空船で帰って、待機するのでしょうか。大変不審です。
 行ったのはいいが、一体いつ帰るかわからないのでは、船員を待機させるとしても、処遇に困るしょう。また、順調に使命を果たせば、荷物はほとんどなくなるでしょうから、大半は、山東半島の母港に返すのでしょうか。余計なお世話と言われそうですが、用船を一貫航行させるのは、そのような成り行きを覚悟してのことになるのです。

 実際の行程を想定しても、漢蕃使節は、最低五十人、通常百人とまとまるのが定例で、大層な荷物を考慮しなくても、想定の漕ぎ船で十便ないし二十便が必要です。今回限りの雇いきり、借り切りとしても大変なものです。東夷の辺境の往来ですから、いくら市糴が鄙にも希で盛況でも、多数の船が、遊休状態にあるとは信じがたいのです。

 その際、先に説いた区間ごとの乗り継ぎであれば、便船を借り切りにして往復航行するので、多数の船も、帰途待ちの待機策も要らないのです。

*魏使行程の「否」選択肢~「なかった」世界
 前項の片道数十日連続漕行の想定なら、最後尾が追いつくのに数ヵ月、ないし、一年以上かかりそうです。説明の段取りで遅ればせに成りましたが、一貫漕行が実現不可能と考える主要因でもあります。

 本項の短区間乗り継ぎなら、数船を並行運行して、一ヵ月程度で最後尾が追いつくかとも思われますが、それでも、前例のない、絶大な繁忙なので、文書通達する程度では不確かで、何ヵ月も前に各港に担当官が赴いて細かく指示しないと、手配漏れなど手抜かりが出そうです。また、多数の船腹、漕ぎ手を動員するということは、いずれ、何らかの不測の事態で、混乱しそうです。郡関係者も、よく、このような尋常ならざる事態に対応する運用を構想できたものです。
 いや、当方の深意は、そんなことは実際上できなかった、と言うか、帯方郡太守は、そんな無謀な策は一切やろうとしなかったという意見なのです。と言うか、太守の選択肢には、幻の沿岸航行などなく半島陸行しかなかったということでしょう。

*伝馬体制の必要性
 以上述べ立てた伝馬体制は、この際に思いついた異様な運用ではありません。陸上街道では、輸送従事の人馬は一貫したものでなく、適宜、駅伝で交替するのです。つまり、沿岸航路の運用には、地元漁民の案内と漕ぎ手を備えた海の駅伝が必須なのです。

 余得として、漕ぎ手は、近隣一日行程程度の漕ぎ慣れた区間の往復になり、自港では自宅でくつろげるから、短期休養でも長続きするのです。

 とても、当時実用に供されていたとは思えませんが、どうしても実用に移すとしたら、ここに述べたような事項は、全て克服しなければならないということです。ことは、「むつかしい」とか「やればできる」とかの空疎な思い入れでは、解決しない、厖大な難題を抱えているのです。

 諸兄に於いては、時代離れした先入観で、前車に無批判に追従して、ぞろぞろと陥穽なる「ブラックホール」にはまり込み、雑駁な沿岸航行の戯画を描き継ぐのでなく、原資料に基づき、ご自身の健全な思考に基づく、実現、維持可能な業態の生きた時代考証を試みることが必要ではないでしょうか。

                               以上

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 2/3

                     2020/01/31 2021/10/24

⑶ 漕行路は、重荷を運べないと運用不可能です
 「野性号」の積荷想定は不明ですが、二十人漕ぎで、荷物を百㌔㌘程度、乗客を五人から十人程度運ばないと分が悪いでしょう。
 して見ると、最低五百㌔㌘程度の有効荷重があって「業」として維持できるのでしょう。漕ぎ手二十人で、客五人は相当なものですが、どうも、商用の貨客船には見えないのです。といって、漕ぎ手二十人が、空荷の船を目的地に届けても、一切実入りはないのです。「実証」するには、船荷と乗客を乗せた航海が必要だったでしょう。

*漕行の非効率
 世の中には、古代の運送では「比重」が大きいものを水上便にするというご託宣を垂れるかたがあります。多分、「質量」(目方)のつもりでしょうが、大変な心得違いです。純金は、比重20に近い「重さ」ですが、極めて高価で、少量軽量で流通したのです。今日日(きょうび)の商用出版物には、編集チェックがないのでしょう。

 漕ぎ船は、荷が重いと推進力が負けてしまいます。水上なら荷が軽いと思いそうですが、船体と漕ぎ手はまことに重いのです。漕ぎ手の奮闘も、推進力となるのは一部だけで、大概はひたすら波を起こすのです。水上便は負荷が軽くて効率的だと思い込んでいる向きが多いようですが、それは、川下りの様子を見ているのであって、例えて言うなら、海はすべて追い風の航行であれば軽いものでしょうが、世の中には、追い風と同じだけの向かい風があるので、港で何日でも風待ちするのは、手漕ぎ時代でも同じだったのです。水流の助けは片道だけで、かならず逆行があるので、帳消しどころでなくなります。

 総じて、漕ぎ船の推進力は、人馬が地面を踏みしめて荷物の正味を進める力に、遠く及ばないのです。船が、人馬を労せずして荷を運ぶのは帆船が定着してからです。

*陸道~駄馬と痩せ馬が共有する重荷
 陸では、荷物を適宜小分けし、人馬の数をそれに合わせて無理なく担える程度にすればよく、後は、規定の日数でゆるゆる行くのです。
 税の一部である労役に動員可能な日数は限られていても、小遣い銭程度で追加労役に動員できるのです。いや、世に駄馬という荷役専門の馬は数が限られていて大変貴重ですから「痩せ馬」と称して人を増やすのです。倭人伝によれば荷役駄馬はいなかったので、万事、背負子だったかも知れません。広く人馬を募れば、重荷の峠越えも、難なくこなせるのです。いや、そのために、郡から鉄山まで、街道整備し、維持したのです。

*滔々たる七千里の官道
 ということで、弁辰産鉄の郡納入を目的に整備された筈の半島中央の官道七千里、随一の難所、小白山地竹嶺越えも、近郷農民に手当をばらまけば、痩せ馬背負子が、働き蟻の如く集い寄ってつづら折れを行く「数」の力で大役をこなせるのです。(冬季は、積雪、路面凍結の難がありますが)

 動員される農民達も、農作業は家族に任せて、出稼ぎ代わりに参集したでしょう。当時の世相はわかりませんが、経済活動が発展途上のため、そんなに苛酷な労役は無かったように感じます。

 交通量が増えたら、街道に茶店でも出たかも知れません。腰弁当にせずとも、茶店で食が補えるなら、安いものと思う程度の手当は出ていたはずです。

*渡海事情と実現性の考察
 と言うものの、三度の海峡渡海には、陸送の選択肢はなく独占です。

 倭人伝には、対馬と壱岐の食糧事情に続いて交易船運用が書かれていても、末羅と狗邪韓国には無いので、海峡便船は両島がほぼ独占し、頻繁に運送したように見えます。両島は往来する交易船から、入出港料、関税として、最低限、饑餓が発生しない程度の食糧を徴収できたと見えます。

 それにしても、文書便は文箱だけですが、米俵など重量物は、漕ぎ船には荷が重いので、極力、軽量高貴品に専念したでしょう。つまり、海峡渡船は、確実に稼げる事業形態になっていた筈です。その視点で、沿岸航行の実現性を時代考証していただきたいものです。

*人身売買の暴言
 先ほど食糧充足にこだわったのは、古代史学界には「人身売買」など、ご自身の無知に由来する冤罪を唱えて誣告し、現代両島住民に罵声を浴びせる妄言派がいるからです。講演に出かけて謝礼を受け取っておいて、自身の妄想を言い立てて、現地の先人を非人道的だと罵倒するとは、論外だと思うのです。と指弾されても、古代住民は、立ち上がって名誉毀損を唱えられないので、一介の素人がここに書き残すのです。

                                未完

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 3/3

                     2020/01/31 2021/10/24
⑷ 漕行は「海の駅」なしに運用不可能です
 衆知のように、現地水先案内なしに多島海航行は不可能です。進路案内とともに、岩礁や浅瀬の案内が航行に不可欠です。

 大型の帆船なら、備え付けの艀(はしけ)を下ろして、泳ぎの達者な海辺育ちの水夫(かこ)に偵察させる手もあったでしょうが、便船は、元々小舟だから瀬踏みのしようがありません。海を読み誤って、座礁、沈没すれば、乗員、乗客、積荷、全てが海のもずく、いや、もくずです。

 つまり、漕行運用には、要所で入港し、漕ぎ手を変え、土地勘のある案内人を載せるためにも街道宿「駅」並の宿泊施設と食糧供給体制が必須ですが、三世紀時点、半島西岸、南岸に、そのような連綿とした港運体制が存在したという証拠はあるでしょうか。

*無類空前の「海路」はあったか
 気軽に「海行」、「海道」、「海路」と無邪気に書き飛ばす人がいますが、官道なら、さらに港ごとに差配役を置き郡との文書交信が必須です。魏武曹操が、帝国に文書交信を再構築した魏制下の帯方郡を見くびってはなりません。

 そもそも、韓国領域に海の官道体制があれば、韓伝に記録される筈です。天下無類、空前の「海道」は、魏朝の画期的業績として残されるはずです。
 そのような「海道」が半島内の「陸道」より物資運送に優れていたなら、後世の新羅は、高句麗、百済の西岸角逐の漁夫の利とは言え、国富を傾け、多大な犠牲を要した軍事行動で漢城獲得の挙に出なかったはずです。

〇総括
 要するに、三世記、洛陽を発した魏使一行は、山東半島から、易々と渡海して、帯方郡に荷物陸揚げ、引き継ぎ方々、魏使の任務を郡官人に委嘱し、郡が、陸送手順を整えているのを確認した上で、帰途に就いたと見るものです。くれぐれも、以上の論義を聞き分けていただいて、後世の学習者に、とんでもない重荷を押しつけないことです。誤解の申し送りは、ご勘弁いただきたいのです。

 それにしても、冷静に考えれば海峡漕行は史実であり、実証は不要です。沿岸航行すら、数世紀後には実現していますから、喫緊の課題は、沿岸漕行の「同時代での実現性」なのです。くれぐれも、「問題」を勘違いしてはなりません。
 そのためには、「海道」体制の考古学的実証、つまり、遺跡、遺物、文献による確認があって、初めてさらなる考察ができるのです。

*遠慮のかたまり
 ところが、当時の「実証」は、「やればできる」の信条表明(Credo)であり、運用の「実証」に欠けていて、むしろ失敗事例と見えます。
 いや、文章読解は人によって異なり、成功と解した方も多いでしょうが、理詰めで追いかけるとそう見えないのです。かなり苦しい実証試験故に、関係者の絶大な努力が結集され、それ故に、関係者が不愉快になりかねない、否定的意見を含む率直な総括ができなかったと思われます。
 今回、もはや遠慮は時効と批判稿を上げたのです。もっとも、関係者の方々は、現場も報告書も見てない素人のたわごととして一蹴できるでしょう。

〇参照資料
日本の古代 3 海を越えての交流 9 古代朝鮮との交易と文物交流~海峡を越える実験航海[東 潮]中央公論社 1986(昭和61)年4月刊
 1975年の仁川(インチョン)~博多港「野性号」実験航海概要です。仁川~釜山(プーサン)は漁師十人交替八丁櫓漕ぎとした一方で、核心の釜山~博多「海峡越え」は、大学カッター部員二十人交替の十四丁オール(Oar)漕ぎで、釜山までの航海術本位の構成と隔絶した「力業」本位が見て取れます。
 但し、乗船待機の屈強なアスリート6名が、仮想乗客/荷物500㌔㌘の想定かどうかは不明ですが、本記事の成り行きとは関係無いので、追求はしません。

                                以上

2021年10月19日 (火)

今日の躓き石 名選手が遺す暴言~「リベンジ」発生源 松坂投手の引退に寄せて

                               2021/10/19

 本日の題材は、当ブログで攻撃し続けている「リベンジ」の発生源、プロ野球名選手の引退に寄せた感慨である

 実は、当方は、随分、随分以前に松坂大輔投手が「リベンジ」などとつまらないセリフを吐いているのを見聞きしていたが、そんな詰まらない言葉が、プロ野球「業界」に限らず、高校野球まで蔓延していることに、大分遅くまで気がつかなかった。
 さる中継放送で、解説者KH氏(引退した一流プレーヤー)から、『「リベンジ」が、大変悪い言葉だと最近知ったが、松坂大輔が言い出したのが、ここまで世間に広がったら、もうなくしようがない』との発言があったので、当ブログの声が届いたかと思いつつ、それなら、もっと気合を入れて撲滅運動しないといけないと思ったものである。
 名選手の発言は、こどもたちが真似るのであるから、大きな負の遺産を残しているのである。
 何を勘違いしてか、目下の中継放送のアナウンサーは、褒め立てるように「リベンジ」の創始者として松坂選手の名をくり返し挙げているのである。それで、別に暴言に対して叱責もなく、それ以外でも、愚問連発で喰っていけるのだから、結構なものである。

 たった一人の慢心から生まれたいい加減ないい草が、誰も止めないままに闇世界に広がるのも困ったものだが、それが大変汚い、罰当たりな言葉だと、誰一人気づかないのは、何とも困ったものなのである。
 いや、およそ、選手は結果が目標の実践派だから、どんな罰当たりな言葉も知らないで言うことはあるだろうが、各球団には選手の暴言が流出するのを身体を張ってでも止める広報担当がいるし、記者やアナウンサーにも、思い付きをいいちらすだけでなく、何を言うか考えて仕込んでいる良心的な勉強家がいるだろうから、どこかで誰かが止めて欲しかったのである。しかし、くだんの引退選手KH氏以外、誰もそんなことを指摘しないのである。いや、止めてくれているのだろうが、湯に垢が浮くように、取りこぼしが紙面や放送を「飾る」のである。いや、別に根比べしているのではない。本当に大事なことは、焦らず挫けず、淡々と続けていくしかないのである。

 と言うことで、後は、マスメディアの中でも、良心的な判断のできる、公共放送NHKと自宅購読している毎日新聞の日々の「発信」内容に対して、無理を承知で、熱弁を振るっているのである。いや、言えば伝わるが、言わないのは伝わらないのだが、教育訓練で徹底して、揃って使わないようにして、時に、ものを知らない選手に指摘すれば、正しい教えは、次第に広がるのである。周知の例では、「ナイター」廃止運動がある。ことさら、キャンペーンを張らなくても、大声で言わなくても、時が行けば静かに「廃語」になるのである。

 かの大投手は、業界では、格別の業績を残したと言うことで、格別の待遇を受けているが、素人目には、高校時代に身体を粗末に扱ったのが災いしたのだろう、名手にしては「故障」が絶えず、勿体ないほどの短命に終わったと、勝手に見ているのである。まことに勿体ないのである。大枚の収入は得られただろうが、「業績」として一流と思えない。
 高校球界の指導者の中には、いくら全国大会優勝のためとは言え、選手の大成を阻む酷使は避けるべきだという意見が増えているように思うのである。その意味では、大きな功績を残したのかも知れない。

 マウンドを降りての発言や行動で、中でも「リベンジ」の暴言は、何を残すのだろうか。勿体ないことだと思うのである。

 選手生活を終えるに当たって、その功罪を総括して上げたいものである。褒める人は、山ほどいるだろうから、ここでは、賛辞の表れとして、率直な苦言を述べるのである。燃え上がるかがり火に、指先から水しぶきを飛ばすのである。

以上

2021年10月14日 (木)

今日の躓き石 「Go To」トラベルの愚劣さ~「ネーミング」が露呈した勘違いの再現か

                             2021/10/14

 今回の題材は、政府関係者諸兄の「言葉」の貧困を歎くのであり、政策としての手違いは「命名」の勘違いに、誰も気づかないことから来ているのではないかと思うのである。ご自愛いただきたいものである。諸兄が躓けば、何千、何万が、ずっこけるのである。

 今回は、再開に先立って、観光地の皆さんが呼びかけている報道を見て、これは、黙っていられないと感じたのである。
 皆さんの気持ちは、「いらっしゃい」と言う趣旨である。言うまでもないが、観光旅行に出かけるには、何ヵ月も前から用意して、予約するものだから、今日発表して明日から観光客がやってくるものではないしそれでは、食材の手配も、何も間に合わないので、政府の公式発表を待たずに、先駆けて呼びかけるしかないのである。

 これに対して、「Go To」は、政府関係者が市民に向かって、どこか「よそ」に行ってしまえと英語の命令文を号令しているのであり、決して「行きましょう」、「行ってください」と言うものではない。ちゃんとPleaseを付けなさいと習わなかったのだろうか。
 因みに、「いらっしゃい」と呼びかけられて応えるのは、「Go」でなく「Come」である。合わせて、英語不勉強の上塗りである。

 昨年7月の個人的経験から行くと、大阪からは、何とか会津に行けたのだが、多数派の東京人は、折角早めに予約を入れて、家族共々楽しみにしていたのに、都知事の突然の「自粛」命令で足止めされ、大量のキャンセルが出て、各地の人々は、とんでもない被害に遭ったようである。誰かが「行け」と命令しておいて、別の誰かが「行くな」とは、困ったものだと感じたものである。

 繰り返して言うと、観光地にとって手痛いのは、時間と手間をかけて、予約を受け、食材や働き手を用意したところへの、どたキャン「土壇場キャンセル」である。これは、一種の社会悪である。個人として、こんな悪事に手を貸すことはできないのである。おかげで、昨年10月以来、ほぼ、キッチリ足止めである。

 以上、政府の施策は、最高学府を最高の成績で修了した秀才軍団の輝く叡知と勤勉な労苦の賜物と思うのだが、今回の「Go To」ドタバタに関しては、落第生の答案を見ているようで痛々しいのである。人は、失敗から学んで「ノウハウ」を画策するのだが、素人の苦言も参考にして欲しいものである。

以上

2021年10月12日 (火)

今日の躓き石 都市対抗二次予選 二枚看板のダブル「リベンジ」の悪習

                           2021/10/12

 本日の題材は、毎日新聞朝刊12版スポーツ面、「10日のスポーツ」ページである。昨日は朝刊のない月曜日で一日遅れの報道である。それはそれとして、紙面ど真ん中に汚い言葉が二度登場して呆れているのである。これなら、この面をちぎり取ってお返ししようかと言うほどである。

 1発目は、選手談話めいた引用符入りで「ちょっとしたリベンジ」と自慢たらたらに言い崩しているが、言葉としては最悪の汚い言葉である。選手の失言を晒し者にして、全読者にぶちまける記者根性は、さもしいと言いたい。記者のいたずら心が紙面に並べた暴言は、決して取り消せないのである。

 2発目は、地の文で、宮城石巻の球場に登場した角高出身投手は、依然として災害復旧途上にある石巻に何の恨みがあってか「リベンジ」宣言したことになり、記者の出身県は知らないが、災害を免れた秋田角館に汚い言葉を塗りつけて、これもさもしい言い方である。
 記者自身に地域偏見がないとしたら、宮城と秋田の間に県対抗の対抗心、差別意識でもあるのだろうか。随分深刻である。選手にカウンセリングは、必要ないのだろうか。いや、記者も抜かさず。

 およそ、国際的な報道などあり得ないと偏見を抱いて、地方予選の記事のチェックに手抜きがあったとしたら、殊更都市対抗野球を侮辱したことになるので、敢然と告発した。どんな面でも、毎日新聞の基準は変わらないと思うからである。

 こうした汚い言葉は、断固撲滅すべきである。野球関係者には、染みついた悪習かも知れないし、地方によっては、口癖になっているのかも知れないが、それなら一段と撲滅しなければならない。次世代に、悪い言葉を押しつけないよう、指導者の皆さんにも、暴言廃止を問いたいところである。

 全国紙には、悪しき言葉を完全に撲滅する使命があると思うのである。

以上

2021年10月 8日 (金)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇始めに~謝辞に代えて
 本書は、しばらく前に購入して、まことに名著であると感心して、どう紹介するか迷っていたものですが、今般、高柴昭氏の好著を批評した勢いで細瑾を率直に指摘し、改善に貢献できそうだと意を決して高嶺に挑んでいます。

〇本著の美点
 本著は、史学を修めた著者が、長年の学究生活で、伊都国歴史博物館館長を務められた期間に「館長講話」として行った講演稿の集成と見受けます。豊かな学識と所蔵品含め多数の遺物の考察を踏まえた確実な内容であり、筆者ご自身の推敲と海鳥社の編集努力が見事に結実していると考えます。
 過去の書評で非難した落第例を引き合いに出しては恐縮ですが、本書は、学術書としての体裁を完備していて、編集担当者の高度な技が偲ばれます。

*構成の芳醇
 本著の趣旨は、副題に書かれているように、「魏志東夷伝」を総覧した上で、その一部である「倭人伝」を合理的に解釈するものであり、「倭人伝」集中を唱える小生には耳が痛いのですが、小生は、国内史料で形成された先入観で「倭人伝」を改竄する風潮が「倭人伝」論混迷の原因とみて、範囲を限定しているだけであり、大局的には、軌を一にしていると見ています。

*一級史料に立脚した堅実な議論
 それはさておき、氏の方針で、本書は、三国志東夷伝の書き下し文を基礎資料として収録し、同資料の考証を起点として議論を進めています。
 とかく、「自説提示を急いで、論理的な筋道が交錯した、まことに多くの失敗例」(倭人伝問題落第者の大群)と大きく異なる展開です。氏の職掌柄、多くの論説を見聞きされているものと推察しますが、本著全体を貫くのは、整然とした論旨展開であり、一介の素人が云々できるものではありません。
 さて、そこまで言った後で、氏の好著に対して率直な批判を寄せるのは、小生の『「門外漢」としての細やかな貢献』と信じて、苦言交じりで以下述べます。
 あるいは、小生の指摘は氏も承知の細瑾ですかさず却下かも知れませんが、小論は、せめて「見解の相違」として許容いただきたいものです。

〇緒論のお断り
 本稿に先立つ単独記事で、「後世概念闖入」を指摘する緒論をあげています。
 話の成り行きで部分的に重複する点は、ご容赦ください。

〇各論巡訪
 早速、表紙に「邪馬台国への径」とされているのが、勿体ないところです。
 「邪馬台国」に関する古典的な議論は別儀として、「径」は、古代中国語では、間道、抜け道、裏街道の意で用いられことが多く、氏の真意が、真摯な小道であれば、せめて「路」と言って頂きたかったところです。(「径」の別義は、後に登場します)

 倭人伝でも現地の「道路」を評して、これでは、公道と言いつつ、まるで裏道、抜け道(禽鹿径)ではないかとする苦言があります。
 恐らく、「道路如禽鹿徑」と評されたのは、狗邪韓国との連絡港と一大国との連絡港が島の東西、あるいは、南北に離れていたため、積み荷を人海戦術で峠越えして陸送していた「路」と見えます。あるいは、島の陸橋部のことかも知れません。当時の経路がはっきり立証されないでも、陸送路は、はるか後年、ひょっとすると明治初頭まで常用されていたものと見られます。

 この点は、些細ですが、「倭人伝」の用語理解には、古代中国書籍の用語の理解が不可欠で、「東夷伝」まで広げても、足りないと見受けます。
 緒論の如く、国内史料世界観を三世紀に持ち込むのも禁物と感じます。むしろ、倭人伝解釈には、中国史書としての定点とし、これに対して、史料批判に耐える国内史料を評価、参照すべきものと考える次第です。

 以下、難癖と嫌われるのを覚悟で、述べていきます。

                               未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 2/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇私撰の誣告
 世上、陳寿を貶めるつもりか魏志私撰説がありますが、公文書を渉猟して史書を私撰するのは「死罪」ですから、無事公認編纂されたものなのです。まして、多くの政府高官が、陳寿の魏国志編纂を知っていて、一切、「私撰」と非難がない以上、天下御免の編纂事業だったことは明解です。
 後漢代の漢書編者班固は、父の代から続けていた史書編纂に於いて、洛陽書庫所蔵の前漢公文書を渉猟したと下獄し、獄死するところを、西域の英傑班超など親族の懇望で死罪を解かれ、漢書編纂を公認されました。

 南朝劉宋の笵曄は、散佚した後漢公文書でなく、公開の先行後漢書所引公文書を採用したので、時代の変遷もあって、私撰の誹りを免れたと見えます。大罪を告発するには、入念な捜査、検証が必要です。現代人が、誣告を重ねても命を落とすことはないのですが、恥を知るべきでしょう。

〇行程道里記事の取り違え
 これは、広く倭人伝論者に共通の「思い込み」ですが、冒頭の道里行程記事は「景初遣使の答礼である正始の魏使訪倭行程記録ではない」のです。
 「倭人伝」は、新参の東夷「伝」であり、魏の公式道里/行程が書かれています。但し、倭人は、郡から王の居処まで万二千里の全体道里が、早々に皇帝裁可された厳重極まりない縛りがあり、陳寿は辻褄合わせに苦慮したと思われます。

*倭人伝道里の成り行き
 公式史書(公史)道里で肝要なのは、太古以来、帝国辺境の地への道里は、官制の街道で「陸行」自明なので書いてないのです。街道未整備の辺境「里」は、当然大雑把ですが、万里道里は精測不要なのです。

*行程明細
 陳寿が、取り組んだのは、狗邪から末羅に至る「狗末」行程です。本来、中原の官道も大河は、渡船なので説明不要ですが、この際の渡海は、順次乗り継げるものでなく行程日数が必要で、それに見合う道里が必要でした。
 郡から狗邪まで「郡狗」は、「郡倭」万二千里を按分して七千里とし、それぞれの渡海は、一千里と「想定」したのです。陸行なら里数概算に批判がありそうですが、難路の渡海行程「三千里」は「水行」十日で収めたのです。
 陳寿は、まさか、海を歩いて行くと言えなかったので、法外の「水行」を。この場限りの異例の用語としましたが、記事の冒頭で明記したので読者を騙してはいないのです。

 「郡狗」七千里は、郡に既知の「郡狗」を倭人伝で七千里とし、全体の万二千里は推して知るべしとなったのです。千里計算で末羅まで一万里、残る「末倭区間」は大雑把な概数で二千里ですが、「常識的」には、「郡狗」の2/7でも、大雑把な概数の積み重ねで不確定です。

〇韓「方四千里可」
 氏は、「方四千里」が一辺四千里の方形と、ほぼ決め込んでいますが、根拠の無い憶測に過ぎません。当時、統一政権の無い韓地の包括地形を、どのようにして知ったのでしょうか。帯方郡が、耕地検地はともかく、厖大な労力と未踏技術を投入して、意味なく全領域面積を測量するはずがありません。

 耕作地は領分の一部に過ぎません。韓地には千㍍を超え冬季冠雪凍結する小白山地が連なり、山川渓谷の荒れ地が多く、領域面積に何の意義もありません。高句麗は、地形がさらに険しく、冬季は寒冷で定住できず、灌漑農地に適しない牧畜地が多いので、事情は同様です。

 「九章算術」等の算術書で個別農地の面積測量法は知られていて、余さず課税台帳に記載していたので、登録農地面積の全国集計は十分可能だったはずです。

 韓地の農業は、中原ほど組織的でなく、高度な検地、土地管理はできなかったとしても、後漢書地理志には、各郡の戸口が、一戸、一口単位で集計されています。耕地面積は国勢指標として、最重要視されていたのです。

 ならば、「方四千里」が、どのような農地面積の形容だったかですが、当記事は、「方四千里」が、一辺四千里の正方形ではないと主張するのが目的なので、「方四千里」の考証は、任にあらずです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*方里と道里
 東夷伝の「方里」は農地面積であり、それを、幾何学図形として現代地図に当てはめて推定した一里八十㍍は確たる根拠が無いのです。「方里」は、面積系単位であり、「道里」とは異次元ですから、流用できないのです。要は、根も葉もない思い付きにかぶりついていて、もっちたいないは無しです。
 因みに、「方千里」などの表記は、扶余、高句麗、韓、對海、一大のように魏志東夷伝固有であり、地形、地理が知られている各郡、各国の公式記録には適用されていないので、背景を知らない現代人に、すんなり理解は困難なのです。

*對海国方四百里
 對海記事で、「方四百里」を国の広さとするのは、同様の思い過ごしです。「對海国」は、国邑、つまり、国王居城を囲む聚落「国家」であり、領域の広さは無意味です。他ならぬ陳寿が、郡から倭に至る諸国は全て「山島国邑」と明記しているので、そう解すべきです。「一大国」も同様です。言い換えると、「方里」は、一辺が道里単位の「道里」の正方形と証されない限り、道里検証に起用できません。つまり、道里の根拠としては、使い物にならないのです。

*投馬国に至る道~倭人伝限定の「水行」
 三国志以前の中国史書道里行程に「水行」は無く、倭人伝にいたって、初めて、必要不可欠な渡海行程を、海岸を背にした「水行」と臨時に定義したというのが、小生の「孤説」です。つまり、末羅以南に「水行」があれば、「渡海」です。
 「実際」は、大分から豊予海峡を越えで三崎半島があり、おいおい漕ぎ継げば、一度は、一日でも、長期渡海も可能でしょう。ただし、玄界灘から関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸は、当時の船体、漕ぎ手で一貫運行できなかったはずです。
 再確認すると、公式史書の構成要素である倭人伝で、「水行」は「渡海」であり、沿岸、河川移動ではない(ありえない)のです。

 して見ると、長期「水行」を要する投馬国が九州島にないのは自明です。いや、「長期」でなくても、渡海して渡る先は、九州島ではないのです。

*周旋五千里ということ~念押しの工夫
 陳寿は、道里を辻褄合わせし読者への手がかりとして、「従郡至倭」と宣言した主要行程の狗邪韓国~倭「狗倭」道里を明記しているのです。但し、道里の最終区間は明記せず、「狗倭」往来を「周旋五千里」と書いたので、読者は、自身の解釈を検算できるのです。

 倭人伝に肝心なのは、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都~倭が要件で、以外は余傍で道里計算外です。陳寿は、倭の主行程国を「(行程上の)女王国以北」、それ以外は行程外「余傍」としたので余計な思案が省けるのです。投馬国のように、人によって方位が読み替えられる遠隔地は、考慮する必要がなく、また、名のみ掲載された諸国の位置も知る必要はないのです。
 「女王国以北」の解釈が色々出回っていますが、ここは、単純明快に読むべきです。郡を発して以来一路南下している行程ですから、倭の「女王国以北」は、誰が読んでも、對海~一大~末羅~伊都~倭なのです。
 ということで、「周旋五千里」は、「周旋」の意味を取り違えさえしなければ、對海~一大~末羅~伊都~倭の直線道里なのです。

*余傍の国~見過ごされた「明記」
 陳寿は、倭人伝道里行程記事で、奴国/不弥/投馬に言及しますが、奴国、不弥道里は、百里単位の「はした」で、投馬に至っては道里不明です。道里記事に載せた三国を「余傍」として道里計算に入れないのは、史書書法に従い、整然と明記したものと理解すれば、「題意」を見失わないのです。

*半島内行程~果てしない迷走の果て
 郡から倭に文書使を送るときに、漕ぎ船乗り継ぎを標準行程とすることは「明らかに」不合理なので説明がないのです。結論を言うと「循海岸水行」「従郡至倭」の「循」「従」の二字に官道施行が「明記」されているのです。

*「短里制」はなかった~明解な中締め
 倭人伝は、万二千里を実行程に当てはめ一里七十五㍍としたものの、そのような里制を、魏朝の国家制度とする重大な主張に、何の証拠もないので「短里制はなかった」と結論します。
 当説では、水行十日三千里、陸行三十日九千里、どちらも、一日三百里と明解です。シンプル、エレガントというカタカナ語で締めて閉店御免です。
 場内非難囂々でしょうが、まずは、話の成り行きを確認してほしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 4/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*交通路の整備~銕(てつ)の路
 関係史料で衆知の如く、半島東南部弁辰に鉄山があり、採掘鉄は、楽浪、帯方両郡に納入されたと明記されています。半島東南部から、重量物資が半島中部に納入されたことから、大量輸送に耐える官道整備が見てとれます。

 言うまでもなく、両郡指示で、弁辰から郡への銕街道が整備されていて、對海、一大の市糴は、狗邪で陸揚げ後、銕街道で届けたと想定されます。官道には所定間隔で宿駅があり、寝床と共に、食糧水分補給、代え馬と共に、時に険路もこなす荷運び人夫が(有料で)用意されていたのです。

 あるいは、流れの緩やかな南漢江中流(中游)は、川船移動でしょうか。文書使以外は、日程の範囲内で行程選択の自由があるのです。

 街道宿所、関所は、市糴課税と運賃で運用したとみられます。後世日本であったように宿所が繁栄したかも知れませんが、自然な成り行きは特記していないのです。

*難路でなく、無理の路
 陸路が整備されているのに、遠回りで運航が不安定で力不足の漕運に固執するのは、まことに不合理で不幸な誤解ですが根強く続いています。

 海に路はありませんが、郡東南方の倭に赴くのに、何を思って西の海船に命を預けるのでしょうか。船が沈めば積荷は喪われ船客は溺死します。誰が、乾いて安定した陸路を棄てて、荒海に転げ回るのでしょうか。

*南北市糴の要地
 半島内官道は、對海、一支の南北市糴の延長である民間輸送にも供用されていたので、信頼できる輸送経路が、早々に確立されていたのです。
 因みに、漢江河口付近の扇状地が泥濘軟弱の不可侵状態で、半島中部中国側の海港は、その南、後に唐津(タンジン)と呼ばれたあたりと見えます。

 對海、一大両国は、南北市糴が盛んで、市糴船の寄港から潤沢な収入があり、結構繁栄したのです。半島上陸後は洛東江沿いに北上して小白山地を竹嶺で越え唐津に出る行程が、もっとも繁盛したものと思われます。一方、両郡に向かう便は、南漢江を北上し、合流する北漢江遡上を利用したと見えます。

 認識不足の例として、倭人領域に「禽鹿径」と評された官道(?)を見つけ、半島内通行不能と言い訳した例に困惑したものです。官道整備は当然で書かないのが常識で、特記の「禽鹿径」は異常事態です。なお、「けものみち」は、狭隘で路面が荒れた「間道」(関所破りの抜け道)の意が伝わりにくい「誤訳」です。

〇景初遣使の件~「誣告」疑惑
 本件に関して、随分熱弁を振るっていますが、倭人伝現行刊本に、景初三年たるべきが景初二年に誤記と立証された論拠は一切ないと見受けます。

 本件は、刑事裁判ではありませんが、それでも、赫々たる文献に現に書かれていることを否定する「異議」は、俎上に載せるまでに相当の物証が必要ではないでしょうか。有効な証拠がなければ門前払いです。

 「推定無罪」ならぬ「推定有効」です。要するに「異議」を提議する前に、「物証」や「証人」を厳格に審査する必要があるのですが、これまで見かける限りでは、有効な根拠無しの言いがかり「誣告」が横行しているのです。

 そもそも、本項目以外でも、悪意による曲解が頻出しています。氏が、そのような風潮に荷担しているのでなければ幸いです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 5/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「卑弥呼伝」(仮称)の面影~女王共立
 倭人伝内に、当時の君主「卑弥呼」の小伝らしい様子が見えます。いや、「条」でも良いのですが。

 女王共立では、記事所引が並んでいますが、なぜか二番目に並んでいる倭人伝記事だけが信ずるに足るものであり、後は、ご多分に漏れず范曄「後漢書」の脚色追従で不都合です。氏は文書考証が不得手なのでしょうか。氏の権威では、受け売りでは済まないと思うのですが。

 後世史家と違い、陳寿は、ほぼ同時代ですから、根も葉もない天下大乱と書かなかったのです。後漢の桓霊献帝期の混乱、楽浪/帯方郡、韓の混乱で、洛陽に定期報告が来なかったと思われます。
 そもそも、遼東太守公孫氏は、小天子気取りで、粉飾報告を洛陽に届けたのでしょう。

 因みに、女王共立に、全国集会総選挙めいた「戯画」が提示されるのは、学問と言えない無責任な思い付き発散に見えます。常識から見て、共立は、恐らく姻戚関係にあった三頭政治の産物でしょう。縁続きだったから、合意が成立したのでしょう。

*長大論
 卑弥呼「已年長大」解釈に後世史書の「後漢書」まで動員し、「整合的に勘案」とおっしゃいますが、「後漢書」追従が災いして時代考証が撓んでいます。私見では、卑弥呼共立年代が無理矢理引きあげられていて、納得できません。

 「後漢書」に義理立てしてか、景初で八十才と比定していますが、ありふれた言葉である「長大」の解釈が非常識なのは本末転倒でしょう。ガラスの靴に合わせて、足を切り刻むような無残さです。「長大」は、中国語の日常表現で、今日も「成人する」、「大人になる」と同義の動詞表現とされています。「大人である」、「いい年」、「年かさ」、「年寄り」とは、誤解、曲解です。

 普通に見ると、当時、巫女は、王族の子女であって、生涯不婚、つまり、生涯独身で、身元は確かであり、したがって、未成年でも女王に推戴されたのです。古来の用語で、「女子」は、男王の親族、爵位身分とも見えます。

 女王共立は、つい先年、数年前ではないでしょうか。「已年長大」は、女王在位で「今や成人した」と読めるのです。

〇径百余歩
 氏自身もタイトルに使っているように、「径」は、こみちです。先賢は、卑弥呼の墓は、壮大であるに違いないとか、いや、それは誇張だとか述べていますが、直径百歩と決めてかかる前に色々調べる必要があるでしょう。

 直径百五十㍍としても、「冢」は東夷伝では「封土」、土饅頭であり、女王埋葬後、前例になく盛大に盛り土したことになります。寿陵、生前造成でない、突発的、未曾有の大工事では、設計施工の全段階で混乱したはずです。

 盛り土だけで石積み無し、そんな百五十㍍墳丘墓は、風雨厳しい風土でね地震に耐えて二千年残るでしょうか。俗説の箸墓は形状が「冢」でなく複雑至極で、土木技術が進歩し石積みが可能で規模拡大できた後世墳墓でしょう。

 魏武曹操以下の歴代皇帝は薄葬で地上に目印を残さなかったとされます。

*「卑弥呼伝」の終わり~私見御免
 陳寿が、あえて史官の信条を越えて「倭人伝卑弥呼条」を「書き上げた」背景を推定すると、年若くして女王になった「卑弥呼」の生涯の主要部を飛ばして老齢に話が及ぶはずはないのです。陳寿は、「伝」を立てるにあたって、入念に取材し、女王を顕彰すべく記述したはずで、不似合いです。むしろ、思いかけない夭折で、諸人に悼まれ、速やかな葬礼が行われたと見えます。

*思い込まれた女王像
 榊原氏は、伊都国博物館館長の立場上、「卑弥呼が、長く権力の座にあって、広く列島の諸国を、神がかりで支配した」と俗耳に馴染んだ「説話」を支持せざるを得ないのでしょうが、それは倭人伝文献解釈を超えた「憶測」、「創作」と見えます。倭人伝には、共立後の威勢は、何も書かれていないのです。
                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 6/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「長大」「周旋」用例検証
 適切な用例は、時代の近い史書である袁宏「後漢紀」献帝紀であり、後漢末建安年間に曹操に誅殺された孔融の早熟逸話が引用され、普通の会話として「この少年(孔融十歳)が、長大の際は(大人になったら)、さぞかし秀才となるだろう」とあります。(明徳出版社刊 訳 中林史朗 渡邉義浩

 ちなみに、当該逸話には「周旋」が両家を往き来する意味で使われています。従来の倭人伝解釈では、「周」「旋」の字義に囚われて、国家領域の周辺を巡る意味と解されているようですが、時代相応の用例では、「往来」に近い意味で「自然に」使用されています。
 目下懸案になっているのは、魏志編纂者の深意ですから、少なくとも、相応(相当)の重みを置いて解すべきではないでしょうか。

 いずれにしろ、本件は、倭人伝解釈に参考になるものです。素人考えに疑問があれば、三国志学で著名な渡邉義浩氏にお問い合わせ下さい。

 基本に還ると、用例は、文の深意を求めて、まずは、編纂者の手近から参照するものではないでしょうか。

〇時代錯誤の誘い
 それにしても、氏ほどの見識の方が、国際情勢とか国内政治情勢とか、時代錯誤の思い込みを、当時の倭人に押しつけるのは、まことに牽強付会です。
 後世概念は、鮮明な理論に裏付けられ、倭人伝問題を一刀両断できそうですが、陳寿は、同時代で、生に近い「問題」を提示し、その「問題」を解いて構成している概念を摂取して欲しいと希望しているので、それを丸ごと解体する「一刀両断」されたら出題意図が台無しなのです。出題者の意識に無い概念では、どんな名答と自認しても正解になるはずがないのです。

*曲解風潮にご注意
 どうしても倭人の社会に広域紛争を起こしたいとの執念が、一部論者に漂っていますが、氏が、その蔓延に巻き込まれていなければ幸いです。

〇「三国史記」~後世史書過大評価
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅記事は、、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク」であり棄却すべきです。要は、統一新羅と敵対した「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。

 倭人伝時代、新羅は、「辰韓斯羅」に過ぎず、倭「国使」を受ける立場になく紀年記録する史官もいません。そのため、同記事の年代比定は不合理で、後世編者が後知恵で半ば捏造したものとして棄却すべきです。

 同時代史でも厳重な資料批判が必要なのに、七世紀を経て、散逸原資料を貼り合わせた史書記事は、でっち上げとみるべきです。それにしても、「正史」は中国史であり、東夷史書を「正史」と呼ぶのは不覚です。

 と言うあたりで、気力が尽きてきたので、添削指導めいた批判は置きます。

〇まとめ
 榊原氏の権威に素人が挑みかかっているとみられたら、それは本意ではありません。堅固な構成と見える本書に、世上の「俗説」が、不用意に採用されているので、あえて苦言したものです。
 特に、中国古代史書解釈に、場違いな後代東夷概念を持ち込む弊風は、御再考いただきたいと望むものです。

                                 完

2021年10月 2日 (土)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、それまで来るなと厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えられると中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

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