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2021年10月24日 (日)

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 1/3

                      2020/01/31 2021/10/24

▢お断り 2021/10/24
 当記事は、魏使が、皇帝の下賜した宝物を、倭人のもとに運んだ行程を想定して、掲題の実証航海の意義を考証したものです。
 当ブログでは、倭人伝冒頭の道里行程記事は、中国王朝の公式記録に「公式」に記録されるのは、街道を使用した道里と所要日程であって、魏使の実際に通過した道程の記録ではないと見ているので、以下、論外と弾いてします。
 ここで、「野性号」を取り上げるのは、「野性号」が、「想定した沿岸航行」を「想定復元した漕ぎ船で実行可能であった」という「実証実験」なので、果たして、実現性は証されたのか、いや、そもそも、妥当な前提かという論点から批判したものです。

 おわかりのように、早々にはじいて議論から外さないで、道草を食っていると、これだけ頑張らないといけないのです。
 しかも、都合の悪いことに、このように戦線拡大して、字数を使って面倒見ると、その拡大した部分に対して批判が沸いて、また対応を迫られる悪循環が想定されるのです。正直言って、個人のできることには限界があるので、当ブログの記事は次第に道を絞らざるを得ないと感じる次第です。くれぐれも、このような余談にかかずり合わないでいいように願いたいものです。

 それにしても、当実験は、素人目には、随分飛躍した前提から取り組んでいるように見えるのです。厳しい指摘とも見えるかも知れませんが、当時、色々演出しなければ示現できなかったことは理解しているので、その点を非難しているのではないことをご理解いただきたいものです。もう、「実証航海」以来二十五年たっているので、率直な批判は許されると見たのです。

 以上、単独記事として閲覧いただく際には、多少の前置きが必要とみて追加したものです。

〇「従郡至倭」水行~神話の起源
 倭人伝冒頭の解釈で、郡からいきなり黄海に出て、以下、海岸沿いに南下、半島南端に達して東転する(とは、書いていないのだが)と決め込んだ勝手読みが天下独裁で、一切異説に耳を貸さないのが「定説」という名の嘆かわしい「神話」になっているようです。

*神話不可侵の軌跡
 この背景を調べていたのですが、やはり、一つの「神話」が根づいています。
 末尾の資料を拝読した感想ですが、要は、多くの人々の支援と資金援助で実現した実証計画が、率直なところ、仮想航路の実証が不首尾なのですが、色々背景があって、結果を糊塗しているようです。
 当方が、安楽椅子探偵ばりに、現地を見ない思考実験で、野性号の実験は「実証失敗」と見なす理由は次の通りです。

⑴ 同一漕ぎ船の一貫した航行、一貫漕行は、断然維持困難(不可能)です
 漕行は一定の難業でなく、壱岐-対馬間の急流が図抜けています。一貫漕行なら、この区間を越えられる船体、漕ぎ手の船となり、例えば三十人漕ぎの特製船体となります。
 最難所にあわせた重装備の船は、他区間では大変な重荷です。船体は、漕ぎ手の体重を加えて大変な重荷ですが、運賃は払いません。沿岸航路の漕行には、一切代船はないので、何か支障が生じて頓挫したとき一切回復手段がないので、一巻の終わりです。 

⑵ 漕ぎ船の継続漕行は、相当維持維持困難(不可能) です
 前項の不合理を排除するには、まずは、狗邪~末羅間の海峡部、特に壱岐~対馬間の便船を別誂えにすることです。
 そうすれば、他区間は、軽量、軽装備の船体と少ない漕ぎ手で運行できます。どの区間も、複数船体運用であり、代船も常備の筈です。要は、半ば消耗品扱いで、航海から帰還したとき点検して、痛みがあれば、適宜、代船に差し替えて、修理にかけていたはずです。

 継続漕行を避け、毎回乗り換えとすれば、南北に長く海流が厳しい対馬の「半周島巡り」が避けられます。別便船仕立てなら、乗客と荷物の短距離陸送で良いのです。壱岐でも、操船も漕ぎも大変困難な沿岸漕行の「半周島巡り」が避けられて、大変有用です。

 三度の渡海は、それぞれの区間の海流の厳しさに応じた特製便船、漕ぎ手体制で、伝馬の如き乗り継ぎになります。それなら、一日毎の渡海運用もできたでしょう。また、海上運行に付きものの難航も、馴染んだ行程の往復なら安心です。そうした説明が、何やら疑わしいと感じるとしたら、それは、時代感覚がずれているのです。

*余談
 江戸時代の渡船は、大抵、十人ほどの乗り合いで、漕ぎ手は、せいぜい二人、船賃は手頃で、しかも、武士は公務という解釈で無料だったのです。いや、現代になっても、渡し舟は、手軽な乗り物で、手漕ぎではないものの、都市近郊にも大事な交通機関として生き残っています。
 つまり、船体は、船室も甲板もなく、厨房もお手洗いもなく、とにかく、乗客を向こう岸に運ぶ手軽な下駄代わりだったのです。

 話題に上っている長距離航行の漕ぎ船は、外洋航行で、風波が激しく、舷側を高めてもしぶきがかかります。と言うことで、荷物の傷むのを防ぐためには、甲板ないしは帆布などで覆った「船室」が必要です。そうでなくても、海水の侵入も避けられなかったでしょう。つまり、都市近郊の渡し舟に比べて、大きくて頑丈、当然、数人から十数人の漕ぎ手が必要です。

 そのような大型の船は、空船でも重量が大きく、単に漕ぎ進めるにしても、多大な労力が必要です。想定されているように、釜山(プーサン)から仁川(インチョン)あたりまで、漕ぎづめに進むというのは、漕ぎ手/水手(かこ)の酷使と言うより使い潰しに近いものであり、事業として継続できるものではありません。あり得る姿が、伝馬形式の繋ぎです。

 因みに、ここで言う大型というのは、一人や二人漕ぎの河船の渡し舟や沖合の漁を想定した漁師の舟と比較して、大型という意味で、近来報道されているようなクルーズ船のような「大型客船」を言うものではありません。ここで例示されている野性号は、ここで言う「大型の船」ですが、当時実用とされていた船と似ているのか、似ていないのか実際の所は不明です。

*沿岸漕行の難儀
 と言うわけで、半島沿岸漕行の長丁場には格別の配慮が必要です。日々の槽運は、漕ぎ手に大変な負荷をかけるので、連日槽運(連漕)は実際上不可能です。事業を持続するには漕ぎ手の休養が必須で、更に言うと、随時漕ぎ手交替が必要です。一度限りの冒険航海なら連漕後に、漕ぎ手全員が疲弊困憊でも長期休養できますが、継続運行には過度の負担は避けねばなりません。大体、地元を離れた連漕などの苛酷さでは、いかに厚く報いても、漕ぎ手のなり手がいなくなります。

 それにしても、以前から不思議に思っているのですが、想定されている魏使用船は、末羅国で一旦お役御免になった後、帰途に備えるとして、その場待機なのでしょうか。狗邪韓国まで、空船で帰って、待機するのでしょうか。大変不審です。
 行ったのはいいが、一体いつ帰るかわからないのでは、船員を待機させるとしても、処遇に困るしょう。また、順調に使命を果たせば、荷物はほとんどなくなるでしょうから、大半は、山東半島の母港に返すのでしょうか。余計なお世話と言われそうですが、用船を一貫航行させるのは、そのような成り行きを覚悟してのことになるのです。

 実際の行程を想定しても、漢蕃使節は、最低五十人、通常百人とまとまるのが定例で、大層な荷物を考慮しなくても、想定の漕ぎ船で十便ないし二十便が必要です。今回限りの雇いきり、借り切りとしても大変なものです。東夷の辺境の往来ですから、いくら市糴が鄙にも希で盛況でも、多数の船が、遊休状態にあるとは信じがたいのです。

 その際、先に説いた区間ごとの乗り継ぎであれば、便船を借り切りにして往復航行するので、多数の船も、帰途待ちの待機策も要らないのです。

*魏使行程の「否」選択肢~「なかった」世界
 前項の片道数十日連続漕行の想定なら、最後尾が追いつくのに数ヵ月、ないし、一年以上かかりそうです。説明の段取りで遅ればせに成りましたが、一貫漕行が実現不可能と考える主要因でもあります。

 本項の短区間乗り継ぎなら、数船を並行運行して、一ヵ月程度で最後尾が追いつくかとも思われますが、それでも、前例のない、絶大な繁忙なので、文書通達する程度では不確かで、何ヵ月も前に各港に担当官が赴いて細かく指示しないと、手配漏れなど手抜かりが出そうです。また、多数の船腹、漕ぎ手を動員するということは、いずれ、何らかの不測の事態で、混乱しそうです。郡関係者も、よく、このような尋常ならざる事態に対応する運用を構想できたものです。
 いや、当方の深意は、そんなことは実際上できなかった、と言うか、帯方郡太守は、そんな無謀な策は一切やろうとしなかったという意見なのです。と言うか、太守の選択肢には、幻の沿岸航行などなく半島陸行しかなかったということでしょう。

*伝馬体制の必要性
 以上述べ立てた伝馬体制は、この際に思いついた異様な運用ではありません。陸上街道では、輸送従事の人馬は一貫したものでなく、適宜、駅伝で交替するのです。つまり、沿岸航路の運用には、地元漁民の案内と漕ぎ手を備えた海の駅伝が必須なのです。

 余得として、漕ぎ手は、近隣一日行程程度の漕ぎ慣れた区間の往復になり、自港では自宅でくつろげるから、短期休養でも長続きするのです。

 とても、当時実用に供されていたとは思えませんが、どうしても実用に移すとしたら、ここに述べたような事項は、全て克服しなければならないということです。ことは、「むつかしい」とか「やればできる」とかの空疎な思い入れでは、解決しない、厖大な難題を抱えているのです。

 諸兄に於いては、時代離れした先入観で、前車に無批判に追従して、ぞろぞろと陥穽なる「ブラックホール」にはまり込み、雑駁な沿岸航行の戯画を描き継ぐのでなく、原資料に基づき、ご自身の健全な思考に基づく、実現、維持可能な業態の生きた時代考証を試みることが必要ではないでしょうか。

                               以上

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