« 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文 | トップページ | 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文 »

2021年10月 8日 (金)

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 2/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇私撰の誣告
 世上、陳寿を貶めるつもりか魏志私撰説がありますが、公文書を渉猟して史書を私撰するのは「死罪」ですから、無事公認編纂されたものなのです。
 後漢代の漢書編者班固は、洛陽書庫所蔵の前漢公文書を渉猟したと下獄し、西域の英傑班超など親族の懇望で死罪を解かれ漢書編纂を許可されました。
 南朝劉宋の笵曄は、散佚した後漢公文書でなく、公開の先行後漢書所引公文書を採用したので、時代の変遷もあって、私撰の誹りを免れたと見えます。

〇行程道里記事の取り違え
 これは、広く倭人伝論者に共通の「思い込み」ですが、冒頭の道里行程記事は、「景初遣使の答礼である正始の魏使訪倭行程記録ではない」のです。
 「倭人伝」は、新参の東夷「伝」で魏の公式道里/行程が書かれています。但し、倭人伝には郡から倭まで万二千里の全体道里が、早々に皇帝裁可された厳重極まりない縛りがあり、陳寿は辻褄合わせに苦慮したと思われます。

*倭人伝道里の成り行き
 公式史書(公史)道里で肝要なのは、太古以来、帝国辺境の地への道里は、官制の街道で「陸行」自明なので書いてないのです。街道未整備の辺境「里」は、当然大雑把ですが、万里道里は精測不要なのです。

*行程明細
 陳寿が、取り組んだのは、狗邪から末羅に至る「狗末」行程です。本来、中原の官道も大河は、渡船なので説明不要ですが、この際の渡海は、順次乗り継げるものでなく行程日数が必要で、それに見合う道里が必要でした。
 郡から狗邪まで「郡狗」は、「郡倭」万二千里を按分して七千里とし、それぞれの渡海は、一千里と「想定」したのです。陸行なら里数概算に批判がありそうですが、難路の渡海行程「三千里」は「水行」十日で収めたのです。

 陳寿は、まさか、海を歩いて行くと言えなかったので、「水行」と異例の用語としましたが、記事の冒頭で明記したので読者を騙してはいないのです。

 「郡狗」七千里は、郡に既知の「郡狗」を倭人伝で七千里とし、全体の万二千里は推して知るべしとなったのです。千里計算で末羅まで一万里、残る「末倭区間」は大雑把な概数で二千里ですが、「常識的」には、「郡狗」の2/7でも、大雑把な概数の積み重ねで不確定です。

〇韓「方四千里可」
 氏は、「方四千里」が一辺四千里の方形と、ほぼ決め込んでいますが、根拠の無い憶測に過ぎません。当時、統一政権の無い韓地の包括地形を、どのようにして知ったのでしょうか。帯方郡が、耕地検地はともかく、厖大な労力と未踏技術を投入して、意味なく全領域面積を測量するはずがありません。

 耕作地は領分の一部に過ぎません。韓地には千㍍を超え冬季冠雪凍結する小白山地が連なり、山川渓谷の荒れ地が多く、領域面積に何の意義もありません。高句麗は、地形がさらに険しく、灌漑に適しない牧畜地が多いのです。

 九章算術等の算術書で個別農地の面積測量法は知られていて、余さず課税台帳に記載していたので、全国集計は十分可能だったはずです。

 韓地の農業は、中原ほど組織的でなく、高度な検地、土地管理はできなかったとしても、後漢書地理志には、各郡の戸口が、一戸、一口単位で集計されています。耕地面積は、国勢指標として、最重要視されていたのです。

                                未完

« 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文 | トップページ | 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文 »

倭人伝随想」カテゴリの記事

新・私の本棚」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文 | トップページ | 新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

カテゴリー

無料ブログはココログ