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2021年10月 8日 (金)

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 4/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*交通路の整備~銕(てつ)の路
 関係史料で衆知の如く、半島東南部弁辰に鉄山があり、採掘鉄は、楽浪、帯方両郡に納入されたと明記されています。半島東南部から、重量物資が半島中部に納入されたことから、大量輸送に耐える官道整備が見てとれます。

 言うまでもなく、両郡指示で、弁辰から郡への銕街道が整備されていて、對海、一大の市糴は、狗邪で陸揚げ後、銕街道で届けたと想定されます。官道には所定間隔で宿駅があり、寝床と共に、食糧水分補給、代え馬と共に、時に険路もこなす荷運び人夫が(有料で)用意されていたのです。

 あるいは、流れの緩やかな南漢江中流(中游)は、川船移動でしょうか。文書使以外は、日程の範囲内で行程選択の自由があるのです。

 街道宿所、関所は、市糴課税と運賃で運用したとみられます。後世日本であったように宿所が繁栄したかも知れませんが、自然な成り行きは特記していないのです。

*難路でなく、無理の路
 陸路が整備されているのに、遠回りで運航が不安定で力不足の漕運に固執するのは、まことに不合理で不幸な誤解ですが根強く続いています。

 海に路はありませんが、郡東南方の倭に赴くのに、何を思って西の海船に命を預けるのでしょうか。船が沈めば積荷は喪われ船客は溺死します。誰が、乾いて安定した陸路を棄てて、荒海に転げ回るのでしょうか。

*南北市糴の要地
 半島内官道は、對海、一支の南北市糴の延長である民間輸送にも供用されていたので、信頼できる輸送経路が、早々に確立されていたのです。
 因みに、漢江河口付近の扇状地が泥濘軟弱の不可侵状態で、半島中部中国側の海港は、その南、後に唐津(タンジン)と呼ばれたあたりと見えます。

 對海、一大両国は、南北市糴が盛んで、市糴船の寄港から潤沢な収入があり、結構繁栄したのです。半島上陸後は洛東江沿いに北上して小白山地を越え、唐津に出る行程が、もっとも繁盛したものと思われます。一方、両郡に向かう便は、南漢江を北上し、合流する北漢江遡上を利用したと見えます。

 認識不足の例として、倭人領域に「禽鹿径」と評された官道(?)を見つけ、半島内通行不能と言い訳した例に困惑したものです。官道整備は当然で書かないのが常識で、特記の「禽鹿径」は異常事態です。なお、「けものみち」は、狭隘で路面が荒れた「間道」の意が伝わりにくい「誤訳」です。

〇景初遣使の件~「誣告」疑惑
 本件に関して、随分熱弁を振るっていますが、倭人伝現行刊本に、景初三年たるべきが、景初二年に誤記と立証された論拠は、一切ないと見受けます。

 本件は、刑事裁判ではありませんが、それでも、赫々たる文献に現に書かれていることを否定する「異議」は、俎上に載せるまでに相当の物証が必要ではないでしょうか。有効な証拠がなければ門前払いです。

 「推定無罪」ならぬ「推定有効」です。要するに「異議」を提議する前に、「物証」や「証人」を厳格に審査する必要があるのですが、これまで見かける限りでは、有効な根拠無しの言いがかり「誣告」が横行しているのです。

 そもそも、本項目以外でも、悪意による曲解が頻出しています。氏が、そのような風潮に荷担しているのでなければ幸いです。

                                未完

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