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2021年11月

2021年11月28日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞に巣食う前世紀の遺物 「ナイター」の醜態

                       2021/11/28

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面である。二面続きの日本シリーズ第6戦戦評であるが、この面は、そっくり「オリックスブレーブス」の敢闘評だと思う。但し、今回は、とんでもない祝福を被っていた。

 「ほっとじゃない」と小見出しを付けているのは、折角の冠スポンサーを揶揄して、既に無礼なのだが、いきなり「晩秋の屋外」『ナイター』とは、「ほっともっとフィールド神戸」を侮辱しているものと見える。担当記者の無神経さに恐れ入るが、署名入りとは言え、そのような記事が堂々と全国紙「毎日新聞」の紙面を飾るというのは、どうかと思う。

 多分、公表されていないと思うのだが、野球界は、先輩達が持ち込んだ「ナイター」と言う二十世紀の遺物「インチキカタカナ語」の野球界内での蔓延、さらには、他分野への拡散、ひいては、「日本」文化を汚染したという過去を恥じて、当用語の使用禁止を誓っているように見えるのだが、公言すると、野球界先覚者の名声に泥を塗るので、「黙殺」を図っているように見える。
 そのせいか、長く「ナイター」を聞かず、目にしなかったと思うのである。そのような対応は、事を荒立てるのを好まない「日本」の言葉の浄化活動として、もっともと思う。

 それが、今回の事例では、この「レジェンド」≒「博物館入りの錆び付いた骨董品」を堂々と持ち出す担当記者がいるのに呆れた。
 毎度の事だが、毎日新聞社は、用語基準を徹底していないのだろうか。(用語基準が無いと言うつもりはない)
 以下、止めどない愚痴は、過去記事と重複するので略する。

 以上で、「ナイター」排斥論を久しぶりにぶった。

*余談~「メンタル」の亡霊徘徊
 たまたまであるが、その左隣の記事が、「平常心」のでかい見出しで切り出していて、以下、具体的に試合進行と選手のコメントを綴っているのは堂々たる書きぶりで、まことに感心したのだが、末尾の締めで、「メンタルを整えて」としているのに、大いに落胆した。
 衆知の如く「メンタル」なるさらなる「インチキカタカナ語」 は、スポーツ面のあちこちに蔓延していて、特に名詞としての用法は、関係者の無頓着さを反映して、まことに胡散臭いことになっているのだが、ここで、全国紙の格調高い名記事の締めを穢すとは残念であった。

 「メンタル」なる「わけのわからないもの」は、「フィジカル」な実態のある存在ではない、ある意味、「幻想」なので、当人にしかわからないものであり、「整える」、「乱れる」、「強化する」などいっても、形で示せないから、他人には感じ取れない。

 記事は、選手の挙動と発言から練達の記者が察知したようであり、普通の言葉で語られているので、読者が共感する事ができるが、「メンタル」は、読者との心の連携を断ち切る、異様な概念であり、ここに持ち出すのは、何とも場違いである。

 練達の記者は、選手と接していたために、自身の中に「メンタル」が整う様を「イメージ」≒『おどろおどろしい「絵姿」』として思い描いたかも知れないし、それは、記者の心の眼には、眼前の光景と見えたのかも知れないが、読者は、何も見ていない。
 ご高説の押しつけは、「イメージ」共々、御免被りたい。

以上

2021年11月27日 (土)

今日の躓き石 NHKの自覚を促す~無残な「リベンジ消費」連呼 「放送事故」か

                        2021/11/27

 今回は、大変残念な事であるが、NHKGの19時の全国ニュースで、再度の「リベンジ消費」悪乗りが、画面と声で届いてしまった。

 「いわゆる」付きで責任逃れしているのだが、公共放送が自局の全国ニュースで流した以上、責任なしでは済まないのである。これは、「報道の自由」などと言う上等な話ではない。単なる、言葉のテロである。それにしても、由来を語れない罰当たりな言葉を、わざわざNHKの顔に当たる全国ニュースで使う気が知れないのである。いや、関係者は、恥を知るべきである。

 NHKには、公共放送としての良心が無いのだろうか。

 全国ニュースは、担当者が思いついてそのまま流すのではなく、何度も用語チェックを受けているはずなのである。単純な「放送事故」では無いのである。という事は、NHKは、公共放送として、「リベンジ消費」なる忌まわしい言葉の普及に肩入れしているのだろうか。

 インタビューには、「ずいぶん長い間辛抱したから、ショッピングを愉しみたい」という、庶民のささやかな感慨が述べられていて、どこにも、「リベンジ」などと言う忌まわしい、呪うべき、滅ぼすべき言葉の出てくる余地はないように思うのである。報道機関として、言葉遣いを間違えているのではないだろうか。
 もし、NHKがこのような姿勢で「リベンジ」を使い立てるなら、そのような言葉の暴力から未来を託した若者達を守るために、それこそ「天誅」(revenge)が下る気がするのである。いや、復讐は、天の裁きに委ねよというのが、良識ある意見なのである。

 まさかとは思うが、目下の消費動向を「自爆テロ消費」と揶揄しているのだろうか。

 それにしても、NHKは、なぜ「テロリストの血の復讐」に加担するような、血なまぐさい言葉を好むのだろうか。

以上

 

2021年11月26日 (金)

今日の躓き石 毎日新聞の自覚を促す~「リベンジ」蔓延防止の願い

                          2021/11/26

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版第四面「総合」の「ひと」欄に掲載されたインタビューである。

*前書き
 本題に入る前に、この記事の論調に不満がある。
 まずは、「書の甲子園」なる低俗な命名である。いや、これは、毎日新聞社に責任ではないのだろうが、「書道」という伝統的な芸術分野に、高校野球をパクった命名は、相応しくないのである。関係する若者達に、うまく立ち回れけばパクリ放題という最悪お手本を示すものである。

 まして、「団体優勝」だの「強豪校」だの「勝負」だの、場違いな体育会系「根性」用語を持ち込んだのは誰かしらないが、全体として誠にお粗末な命名、というか、創造性のまるでない、「パクリ」となっていると思うのである。芸術の世界には無用のごみではないか。当事者には、誰も、まともな分別を持った良識の人はいなかったのだろうか。

 「名は体を表す」と言うが、言わば、教育の世界に間違った「商業主義」を持ち込んだバチものと高々と宣言していると見るものである。「商業」世界に、商標権侵害は、あってはならないと信ずるものである。

 因みに、手っ取り早く調べた限りでは、この命名が誰の起案で、いつ「甲子園」の権利者の了解を取ったのか、書かれている記事は見当たらないようである。恐らく、当大会は、毎日新聞社が、主催ないしは後援しているのだろうが、それも、明記された記事は見当たらないようである。うさん臭い話しである。従って、ここで、毎日新聞に批判を加えているのは、この記事で感じた内容にほぼ限定されている。

 書道が絶滅危惧種並に保護の対象となったとしても、だからといって、何をしてもいいということにはならないと信じるものである。

*本題
 この記事の末尾に置かれたのは、記者の筆になるものと思うが、来年の大会には「リベンジする気持ちで臨む」と記者に書かせたような、元々の発言の獣性を想像させるのである。
 指導者として名声を馳せたのに物足りず、「復讐の牙を研いで、来年の大会に血の雨を降らせる」意気込みは、教育分野に相応しくないのだが、毎日新聞は、お先棒担ぎで、語り手の漏らしたと思われる獣性に輪をかけているのである。毎日新聞社は、スポーツ/武道担当者に指示して、ここにけしかけるような記事を書かせたのだろうか。
 「リベンジ」の一語は「頭を血まみれにする」、強力な暴言である。全国紙が、そのような汚染された言葉を紙面に掲載して、一般読者に害毒を流している事態に、強く異議を唱えるのである。

*後書き  
 この記事で知らされた高校「書道」の商業主義汚染を深く歎き、是非、現下の失態の責任の一端を担うと思われる毎日新聞社には、是正を図って欲しいと思うものである。
 端緒として、「書の甲子園」なる悪名を廃し、当たり前の命名をされる事を願うものである。まずは、一歩踏み出して欲しいものである。

以上

2021年11月25日 (木)

今日の躓き石 NHKの自覚を促す~「リベンジ」絶滅の願い

                      2021/11/25

 今回、題材となったNHKBS深夜の報道番組「BSニュース4K+ふるさと」は、毎定時直前のBSニュースと共に、全国各地の地方局が取材した各地の話題を取り上げている。ローカル放送のないBSでは、大変実に貴重な番組である。

 今回、大変残念なのは、NHKとして守って欲しい「美しい日本語」が、地方局まで行き渡っていない事である。

 地方の若者は、SNSなどの不規則メディアを通じて蔓延する「悪い言葉」に染まっていて、誰もそれを良くない言葉だと教えていないのがわかるからである。折角、スポーツの世界で懸命に努力しているのに、NHKインタビューに応えて、詰まらない言葉を吐いて、それがNHKによって全国に報道されるのは、まことに勿体ないと思うのである。

 後世に残るのは、当人の顔と言葉であり、取材したNHK担当者は、「山田の案山子」同然で、顔も名前も出ないのである。これは、誠に不公平である。

 見ていると、前回の大会では、なにか巡り合わせが悪くて負けてしまい、今度は勝つぞと闘志を掻き立てているのは、別に悪くはないのだが、それを「リベンジ」というと、何か、恨みを持っていて、負けた相手をぶっ倒してやると言っているように受け取る人が多いのである。いや、スポーツは、負けた相手に仕返しするものだと思っている人が結構多いのだが、それは、スポーツ精神に反しているのである。そして、そのような「曲がった根性」が、言葉に出ていると思う人が多いのである。「リベンジ」は、どす黒い意味を秘めた、言ってはいけない言葉なのである。

 そうした事を丁寧に言い聞かせて、「リベンジ」発言を報道しないのが、公共放送の務めだと思うのである。そうした「ルール」を全国隅々まで行き届かせるのには、努力が必要だろうが、決めた「ルール」を行き届かせるのが、公共放送の務めの根幹だと思うのである。

 今回のように、罪のない若者を晒し者にするのは、ご勘弁いただきたいと思うのである。今日正しい言葉遣いを学んだら、それは、当人にとって、一生ものの財産なのである。

以上

2021年11月18日 (木)

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 1/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18

○はじめに
 当記事は、当ブログで展開している「倭人伝」解釈において、その冒頭を占めている道里行程記事に対して、原文から逐条解釈を試みるものである。世にあふれている「邪馬台国比定」論議に参加しようというのではない。
 但し、世上で誤解の山が堆い(うずたかい)のに対して、その誤解の部分を是正して、せめてはっきりした思い違いは直していただきたい望んでいるのである。少なくとも、「思い込み」が、倭人伝に根拠を持たない事に気づいていただければ幸いである。

 一方、史学界の常識として、史料解釈の範囲を限定する議論は好ましくないのは承知しているが、個人の努力で検討するには、対象範囲を限定するのはやむを得ない事であり、いつの日にか、本検討がまとまった折には、さらに、検討範囲を広め、倭人伝二千字の考査に至りたいものだと思っている。

 ともあれ、範囲を絞ってその範囲で全力を尽くす行き方と、そこから生まれる幾つかの提言は、ご一考の価値あるものと自負しているのである。そうでなければ、この形で発表しないのである。

○先行論考の確認
 手短に言うと、従来の倭人伝考察は、国内古代史の見地での史料批判から開始していて、すでに刷り込まれた歴史観、世界観に基づく「思い込み」が横行しているため、中国史料の考察として不適切な部分が多い(ほぼ全て)と見られる。

*「国内古代史視点」の「失念」
 従来視点に対する具体的な異議と異論については、膨大な論議につながり、しかも、大勢に対して孤軍奮闘する形勢で、議論が成り立ちがたいから、ここでは、むしろ史学の常道に立ち返って史料原文から出発する史料考察を試みたのである。
 国内で、倭人伝解釈を中国視点で説くものは少ない(ほとんどない)と思う。「倭人伝は、当時最高級の古代中国人が、最善を尽くして、古代中国人の理解できるように書き上げたものである」と考えて、読解に挑まなければその真意に至らないと思うのだが、中々、実行されているのを見かけないのである。

 この立場には、世上異議が多いのは自明であるが、視点、論点の妥当性を論議すると、肝心の話が先に進まないので、当ブログの「ポリシー」、論議無用とさせていただく。また、この場で「国内古代史視点」は「失念」させていただく。くり返しになるが、世間には、国内史の視点で、倭人伝を責め苛む論義は山積しているので、ここに取り込むつもりは無いのである。

*原史料の確認
 圏外史料「持ち込み」禁止、「思い込み」謝絶の方針を理解いただきたい。(世間には、そうした史料、思い込みで論義できる場所は山ほどあるので、ここは、例外とさせていただきたい)

*本論の出発点
 本論の考察対象たる「倭人伝」は、陳寿編纂史書に、後世の裴松之が注釈を加えた「三国志」の「魏志」第三十巻の末尾に当たる「倭人伝」の冒頭五百五十字余りであり、現在、史料として信頼されている南宋初、紹凞年間編纂「紹凞本」に、ほぼ準拠している。同様に有力な紹興年間編纂「紹興本」は、対海/一大国国名などに差異があるが、書誌学論議の場でないから同一視して、以下の「テキスト」に基づき議論するので、ここに「ない」字句の「持ち込み」は、くれぐれもご勘弁いただきたい。

 テキストは「中國哲學書電子化計劃」から引用したが、「三国志」は各「正史」と比較すると、二千年近い期間、大変良好に保存され、史料間の異同が希である。三国志の史料としての特徴を、よろしく認識いただきたいものである。
 ここで余談であるが、世上、「正史三国志」と書かれることが多いのは、別に、「正確な」歴史書と自負しているわけではなく、世上溢れている「三国志」書籍が、大抵は、「三国志演義」を土台にした浪漫溢れる時代劇小説であるのに対して、中国で、伝統的に「正史」と呼ばれている「史書」であることを明言しているものであり、『「三国志演義」に類する血湧き肉躍る「読み物」を買ったはずなのに、面白くもない記録書を掴まされた。けしからん」と、返品、返金を持ち込まれるのを怖れて、内容表示しているものなのである。
 言うまでもないが、中国基準では、「正史」は、中国史に限るので、他の東夷諸国の国史が正史を名乗るのは、僭称、誇大表示なのである。

 「三国志」テキストには、時代柄、国内出版物で常用されない文字があり、当記事の他の部分と用字か一致しない事もあるが、現在、UniCode体系が各種情報端末に「普通」なので、史料の範囲では表示に問題はなく誤解は生じないものと考える。

*「句読点なし、改行のみ追加」
 原資料に一歩近づくために、句読点のない原テキストに改行を加えたが、論拠を明快にする目的であって原文は改竄してはいない。かくして、倭人伝の1/4、五百五十二字をきりのよい五百五十字と表記したが、概数は自明なので「約」、「余」は割愛した。以下、同様の割愛をご了解いただきたい。

 なお、当記事では、冒頭の「倭人傳」に従い、後続部分を含め(魏志)「倭人伝」と言うことにしている。当記事筆者の無教養は、ご辛抱いただきたい。

 ちなみに、各項は、過去の記事の「無批判な引き写し」でなく、概ね、新たな文脈で書き起こしている。主旨は変わったものも有れば変わっていないものも有るが、大目に見て頂きたい。

 参考文献は、身辺に山積しているが、参照先は膨大なので、ここでは割愛御免である。署名、著者だけあげても、参考部が不明では、お役に立たないと思うのである。もし、書籍化することがあれば、その点で、出版社編集者のご指導の下、整備したいと考えている。

                                未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 2/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18

*本文テキスト
 対象テキストを表示する。世の「現代語訳」は、原文改竄があまりに多く、不用意に参照すると議論がずれるので、この段階では敬遠させていただいた。
□倭人傳:
①倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
②舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
③從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
④始度一海千餘里至對海國
⑤其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里
⑥土地山險多深林道路如禽鹿徑
⑦有千餘戶
⑧無良田食海物自活乖船南北巿糴
⑨又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
⑩官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
⑪多竹木叢林
⑫有三千許家
⑬差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
⑭又渡一海千餘里至末盧國
⑮有四千餘戶
⑯濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
⑰東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
⑱有千餘戶
⑲世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
⑳東南至奴國百里
㉑官曰兕馬觚副曰卑奴母離
㉒有二萬餘戶
㉓東行至不彌國百里
㉔官曰多模副曰卑奴母離
㉕有千餘家
㉖南至投馬國水行二十日
㉗官曰彌彌副曰彌彌那利
㉘可五萬餘戶
㉙南至邪馬壹國女王之所
㉚都水行十日陸行一月
㉛官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
㉜可七萬餘戶
㉝自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
㉞次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
㉟其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
㊱自郡至女王國萬二千餘里
 以上、三十六項目が検討対象である。

                               未完

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 3/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

①倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
 古来、中国人の地理観は、「世界」の四方には、幽冥境である「海」があり、その四海に囲まれて、広大な中原世界があると見ていたものである。殷周代に始まり、秦漢時代の話なので、「世界観」の「世界」、あるいは「天下」は、三国鼎立時代の東呉、蜀漢の長江(揚子江)流域は、半ば圏外であり、河水(黄河)中下流域が対象だったのである。(居住困難な河口部は除く)
 従って、ここで言う「国邑」は、せいぜい東周春秋時代に中原を埋めていた諸国の国家形態でなく、中原に、隔壁で野獣や侵略者から防衛した農村聚落が点在していた時代を想起させるものなのである。中国古代史で、そうした国家形態を、ギリシャ古代史の用語を流用して、「都市」国家と呼び習わしているが、それでは、後世の戦国諸国を想起させそうなので、個人的には、「国邑」は、「農村隔壁聚落」と呼びたいのである。(全体を書き上げて気づいたので、ここにお断りしておく)ちなみに、「都市」は、倭人伝では倭人大夫の役職、ないしは、苗字と見えるので、注意して使う必要がある。

*西域の果て~余談  
 その「四海」の中で、早々に踏査が及んだのは「西海」であるが、周知の通り、その西の果ての実態は知られる事がなかった。
 次第に到達範囲が伸びるにつれて、「西域」が広がって、漢武帝代には、一行百人とされる使節団が、長安から万二千里の果ての「大海」カスピ海に臨み、同地を支配していた「安息国」から、大海の対岸を越えた、更なる西方世界の風評を耳にしたのである。
 「安息」(Partia)は、当然、中国の「文化」に浴していなかったが、中国文化の根幹となっていた簡牘縦書きの文字とは別に、皮革紙に横書きする文字を有し、文書統治による「法と秩序」を確立し、金銀銅貨の通用する広域経済体制を持ち、その「王都」は、荒れ地を含む高原地帯を経た西方数千里の彼方にありながら、宿場の整備された街道網でつながっていて、王に対する書面報告に対して、たちどころに指示が下る文明大国だったのである。
 つまり、漢武帝の使者は、西域の更に西の果てには、漢帝国に匹敵する威容を誇る王国が存在するのを知ったのである。その認識から、西域諸国に許さなかった「王都」の尊称を与えたのである。
 何しろ、安息は、東方国境に二万の守備兵を常備した大要塞都市を構え、獰猛な大月氏を迎えた貴霜(クシャン)騎馬兵団の奇襲再来に備えていたのである。
 このあたりは、陳寿の参照した司馬遷「史記」大宛伝、及び班固「漢書」西域伝記事の要約であるから、やや道草であるのをご容赦頂きたい。

 因みに、漢武帝の国使は、安息国の王都を訪問せずに、つまり、国王と面談せずに帰投しているのである。但し、不定施設と言っても、恐らく、西域都護に相当する高官が渡西しているのであり、言わば、「全権大使」なので、安息長老という「全権大使」と面談し、「国交」を築いたのだから、別に不法な対応では無いのである。ちなみに、漢書「西域伝」は、安息国に「国都」を認めているので、いわば、「敵国」(漢と匹敵する大国との時代表現)扱いで、格別に尊重しているので、他の諸蕃夷と異なり、「国交」と呼ぶに値するのである。

*東海未踏~余談
 当時、「大海」は、内陸塩水湖である。ただし、存在したのは、もっぱら西域である。(長江流域に存在する湖水は、全て淡水湖であった)
 比較的早期に知られていたのが、当時、楼蘭王国が湖畔に佇んでいた「ロプノール」である。「ロプノール」の遥か西、「カスピ海」に臨む安息を漢使節が始めて訪問したのは、漢武帝代であり、以後、後漢代史料に散見されるだけだから、具体的な地理知識は、長安ならぬ洛陽の官人には、さほど伝わっていなかったと思われるし、まして、東夷と接する遼東郡関係者の知るところではなかったように思われる。

 とは言え、倭人伝の「大海」は、裏海(カスピ海)の「風評」を参照して書いているものと見える。長年、会稽東方に広がる「海」に阻まれて、その東方の世界の実態を知る事が無かったのに対して、倭人伝は、青洲対岸海中の山島、韓国を経由して、其の南の絶島に「倭人」を「発見」し、意気揚々と洛陽に報告した史上空前の夷蕃伝だったのである。

 そのように推定すると、「郡から万二千里」の表記は、西域諸国の「長安から万二千里」が途上諸国への道里を積算した、言わば、実測値を踏まえたものであったのに対して、単に、「絶海の孤島」観を示したものであり、それが、当時の皇帝に上申され、皇帝の御覧を得たので、以後、神聖不可侵文書になってしまったようである。

*地理観の確認
 本題、つまり、倭人伝の文書考証に戻ると、倭人伝の地理観では、この「大海」は、中原人にとって既知の韓国西の「黄海」の一部ではない。つまり、当記事が書かれた前提は、韓国東西の「海」と韓国の南の「大海」が海続きとの認識はなく、廻船往来は予定されていないと解釈される。
 ここまで短い行文であるが、史官の躍動する筆により、脇道に逸れない歯止めが、がっちり打ち込まれているのである。

 因みに、東夷伝には、半島の東方に「大海」ありとの記事が見られるが、倭人伝は、帯方郡の地理観、つまり、「韓国」を越えた南方に「大海」があるとしていて、韓国の東の「海」と区別しているので、両者には関係無しと見るべきである。

②舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
 「倭人」が、全くの野蛮人でなく楽浪郡と交信があったと紹介している。それ以外にも、後漢初期の来貢記事もあるから、倭人伝が初見に近い書き方をしているのは、後漢代公文書から、「倭人」に関する予備知識は引き継がれていなかったという事だろう。
 念を押すと、笵曄「後漢書」の後漢初期の「倭」記事は、洛陽の帝国書庫に保管されていた後漢公文書に由来していて、陳寿も、関連文書を参照しているので、笵曄「後漢書」とほぼ情報源が共通しているはずである。

③從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
 七千里に始まる千里単位の概算道里の趣旨は判然としない事を、先ほど述べたが、深入りすると余談が際限なく長くなるので、当記事では触れない。(すでに「短里制度はなかった」と別稿で断じている)判然としない事を、個人的な見解で判然とさせるのは、史料解釈でなく、二次創作なのである。
 慎重に読めば、馴染みのない「循海岸水行」は、字義からも、「海岸」海の岸辺から「水行」すると見えるが、当然、一路沖に行くのであり岸辺を陸に沿いに行くのではない。この点は、常識的事項なので、深入りしない。

 ゆっくり読み解いていくと、「到其北岸」の「其」は、中原人常識の川岸でなく直前の「海岸」を示すものであり、当然、「海」は、韓伝に戻った西の「海」でなく、その手前、倭人伝冒頭に書いた「大海」を示すものである。外部資料、古典書を参照しなくても、「従郡至倭」行程が、郡を発した後、「一路」街道を進み「大海」北岸、「狗邪」の岸辺に着いた、と迷わず読み取れる仕掛けである。

 以上は、これまでの諸兄の論考に余り見かけないが、別に、本稿は、奇をてらって新解釈を述べているものでなく、これまで見過ごされていた、中国古文書に「普通」の解釈を提起しているだけである。

*国境の邑~余談
 以下、推測にわたるが、常識的には、交易船が対海から北上上陸する海港には、対海の倉庫や漕手宿舎があり、財貨保全のため、武装兵士が詰めたはずである。
 同様に、常識的には、狗邪韓国は、帯方郡要地であって吏人と兵士が常駐し、通行許可のない者の侵入を阻止し、通商者から関税を取り立てたはずである。
 つまり、狗邪韓国統治者は、対海国と深い連携を確立していたはずである。

 ここまでの勢いに任せて、狗邪韓国は倭の北限と見たいところであるが、狗邪が倭王に臣従、服属していたら、対海国以降の四カ国と同様に、戸数や官名、風土が書かれていたはずであり、また、韓国領域南端の国が明記されるべきである。やはり、狗邪韓国は、弁辰の一員「弁辰狗邪国」である。

*弁辰鉄山考察
 帯方郡は、倭韓穢の郡内鉄山採掘を許し、また、産鉄を両郡に納入させた。詳しく言うと、郡が置いた鉄山監督者が、近隣の三勢力に指示して採掘と輸送を運用したのだろう。東夷には、漢銭が通用しなかったから、採掘料は労力奉仕と現物納入で「徴収」していたのだろう。

 言うまでもないが、鉄山から両郡に至る「道路」は、帯方郡が設け、韓の諸国が維持した「官道」であり、人馬の列を擁する如く、宿駅、関所を備えていたのである。かつ、運送の手段であるから、当然、陸上街道によって、最短経路、最短日程を確立していたのである。

*韓地陸行の話~余談
 もし、両地の間を、長江のような大河が滔々と流れていて、大した傾斜が無いのであれば、川船に帆を立て、人馬を労せずにゆるゆると「水行」したと思われるが、両地の間には、山地が介在していて、河川は、水源に近い上流(上游)では、渓谷を蛇行する激流となり、川船の運用ができないし、山地の鞍部を越える際には、多数の人馬を動員する事から、「水行」扱いはできないのである。こうした上游の形勢は、日本列島の河川でよく見かけるものであるから、半島の形勢は、別に現地を実見しなくても、容易に推察できるのである。

 因みに、今日、広く参照されている「Google Map」の3D表示を利用すれば、現在の現地形勢を見る事ができ、「推察」がほぼ的を射ていることがわかるのである。

*不朽の新羅道~余談
 「圏外」資料による余談であるが、唐代に半島を統一した新羅(シラ)は、王城「慶州」(キョンジュ)を発した国使が大唐長安に詣でる経路を整備していたが、それは、半島東南部から北上し、小白(ソベク)山地の難関を竹嶺(チュンニョン)で峠越えした後、下山して西に唐津(タンジン)に出て、山東半島青州に「新羅船」で渡っていたのである。この経路は、新羅が国威をかけて整備したものであるが、もともと、新羅が半島西岸に進出した際にも重用された軍道であり、慶州から漢城(ソウル)に至る官道でもあったのである。

④始度一海千餘里至對海國
 最前、倭人伝は、「渡海」を「水行」と言うと宣言したとしたが、狗邪にいたって、始めて「大海」の海岸に出て船旅に直面し、対海国に至るのに際して「始めて海を渡る」と明記しているので、話の筋が明快である。
 「一海」としているのは、洛陽人が、報告された現地形勢を読んで、三度の渡海の「大海」が、一つの「大海」なのか、別の「大海」なのか、確定できなかったもののようにも見える。

 もちろん、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、公式道里として千里で十分だったのである。
 何しろ、万二千里の全体道里の一部である千里単位の概数であるから、適用できる里数は、千里、二千里と飛んでいて、千里に決まったも同然なのである。言うまでもないが、万二千里の中で、百里単位は桁違いで不適当なのである。

⑤其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里
 「絶島」は、海中山島でも、中原で常識の「半島」でなく、四方を海に囲まれていると明示しているのである。
 ちなみに、朝鮮/韓国が、遼東から南下している半島であることは、太古以来知られていたが、山東青州の春秋戦国斉国人や魯国人は、朝鮮/韓国を、目前の海中山島にあり、筏で気軽に渡れる対岸の東夷と見たようである。

*「方里」の闇
 「方四百里」は東夷伝独特表現で、他史書にないのは無論として、三国志全体でも、特定政権領域の地理情報を特定する表現ではない。先の高句麗、韓国で突然起用されたが、由来も意味も不明である。
 案ずるに、この「里」は、「道里」と連携していない別種の単位であり、趣旨不明では、いくら願っても論拠とできない。当面、これで十分として、論議から除外するのである。
 いや、別史書に、東西、南北、それぞれ四百里と書いていたら、これは、「道里」の「里」で、余計な解釈の余地はないのである。ただし、万二千里の全体道里の説明で、部分道里に百里単位の里数は、本来、場違いなのである。 

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⑥土地山險多深林道路如禽鹿徑
 高句麗傳と同様、農業適地が乏しい、税を緩和してほしいと切実である。
 「道路如禽鹿徑」とは、整備され幅員があって牛馬運送ができる「道路」と異なり、この径(みち)は、急峻で狭く牛馬通行困難な抜け道で、対海国中央の峠越えの間道と見るべきである。ただし、ここ以外の街道は、全体として市糴のみちで「道路」要件を満たすべく整備されていたのである。東夷の辺境であるから、馬車が対向できる官道であったとは思えないが、ここに書かれているのは、最低限度を示したとみるべきだろう。

*「禽鹿径」談義
 倭人伝は、中原人視点であり、当然の事項は書かないが、「禽鹿径」が「けものみち」かどうか、当然の評価か誇張か、よくよく調べなければ、趣旨不明と言うべきである。
 この表現(片言)から、韓地街道がすべて「けものみち」と短絡的に即断した論者がいる。郡管轄下、国主が労役動員し、宿賃関税で道路整備するから中国文明は侮れない。まして、野獣跳梁が放置されるものではない。

 宿場を備えた街道は、文明の証しである。

*地域輸送事情の示唆
 当時、倭地、つまり、末羅国以降の地続きの領域といえども、牛馬による運送はなかったから、荷運びは、頭の黒い「痩せ馬」が、背負ったのであろう。大抵の荷は、小分けできるようになっていたから、近郊の農民まで呼集した人海戦術で運んだものだろう。米何合かを渡せば、みんな喜んで運んだろうから、別に「銭」も要らなければ、強制労働も要らないのである。

 中原では、恐らく、秦始皇帝の統一行政以来、全国で官命による荷運びが規定されていて、宿場間の里程と標準日程を基準とした運賃が制定、公布されていたが、それは、街道沿いに輸送業者が組織されていたから、運賃協定が締結できたと言う事であり、街道輸送は、牛馬や車輌を随時駆使し、また、宿場ごとに担い手(牛馬と人)が交代したから、千里の輸送も所要日数が保証されたが、倭地は、魏制で統治されていなかったから、魏の国家制度は通用しないのは当然である。

*「インフラストラクチャー」談義~余談
 国家制度の前提、基礎となる要素を確認すると、道路整備のような物理的なものや輸送業者組織のような社会的なもの、つまり、合わせて、 社会の基本構造となっていた「インフラストラクチャー」が存在しないから、中原の常識は、全く通用しない。陳寿は、そのような机上の空論が起こらないように、ここでも、慎重、端的に布石したのである。

 因みに、「インフラストラクチャー」の概念は、当時、西の大国「ローマ」で常識だったという事なので、それほど時代錯誤でもないと理解いただきたい。この点は、塩野七生氏の「ローマ人の物語」で学んだものである。

 広域行政の前提として、文書管理も必須であるが、ここでは深入りしない。

⑦有千餘戶
 千戸が戸籍登録され、戸籍と土地台帳に従って耕地をあてがわれ、収穫物を税衲し、労力奉仕し、兵役に応じ、対海国を支えていたのである。
 戸数を提出するとこは、服属の証しであるから、本来、憶測で数字を述べるものではないが、千戸程度ですと概数を述べておけば、大けがはしないだろうという思惑のように見える。この際の個数は、戸籍から実数を積算したものでなく、概数で国力を申告したのであるから、千戸単位なのである。

⑧無良田食海物自活乖船南北巿糴
 「良田」は、灌漑の行き届いた農業適地(水田と限らないのが、中国語である)で課税対象である。千戸には千戸分の収穫が必須だが、「税衲どころか生存困難で、餓死者続出のところを海産物で食いつなぎ、交易で、細々と食い扶持を稼ぐ」と「泣き」である。

 実際は、一大国は、海産が豊穣であり、對海國と違っても四方の海上交通の要地を占めていたから、交易収益も潤沢だった筈である。「泣き」は、前段同様免税狙いの誇張作戦である。

⑨又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
 この渡海を「瀚海」と銘打っているが、既に述べたように、洛陽人は、三度の渡海で越えた「大海」が一続きではないのかも知れないとこの部分で疑問を感じたものと思われるのである。
 私見では、この命名は、西域の広大な砂漠の眺めになぞらえたものと思われる。要は、海面が綾織りに見えたと言う事ではないか。
 既に述べたように、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、概数申告としては、千里で十分だったのである。

⑩官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
 官は、女王直属の「置官」とも思われる。

*「方里」の闇 ふたたび
 何度でも言うが、「方里」は意味不明である。道里ではないので、農地面積の表現ではないかというのが、当ブログ筆者の意見である。但し、用例が乏しいので、どんな出旬で推定したのか不明なのである。
 まことに不思議なのだが、以後、「方里」表現は出てこない。投馬国あたりで国勢の指標として起用されそうなものなのだが何もない。

⑪多竹木叢林
 中原と比して、温暖多雨で植生が豊かで、熱帯性の竹林もあると明記している。

⑫有三千許家
 戸でないのは、服属したが戸籍未提出のためと思われる。女王統治不備である。

⑬差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
 食料談義は、多少農地(田地は、水田とは限らない)があっても、山島の宿命で、対海国同様、食に不自由しているからとの「節税」意図に基づくものと思われる。当時の両島の食糧事情は、知るすべがない。

⑭又渡一海千餘里至末盧國
 渡し船の経路を測量するはずはなく、一日を渡海に当てる趣旨で、百里の道里と見立てたのである。実測に基づく概算ではないので、現代の地図上で絵解きしても、何の役にも立たないのである。

⑮有四千餘戶
 単なる上陸地にしては国主居所たる国邑の戸数が多いが、冒頭の国邑仮説は綻びていたかもしれない。あるいは、一カ所百戸の国邑が四カ所あったと言う事かも知れない。わからないことはわからない。

⑯濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
 街道は、草木が通行の妨げにならないように頻繁に手を入れるが、温暖多雨で、切っても切っても生える草木は、魏使にはむしろ感動的だったと見える。それにしても、この風景も、たまたまであることは言うまでもない。未開とは、文字がないことを言うのである。

*沈没談義~余談
 「海」を「水」と誤記したのは、帯方郡語法と見える。「沉沒」は古代中国語なので、上半身まで浸かる意味と思われる。当時も、「泳」で泳ぐことを言った可能性はあるが、潜水がどうだったか調べが付いていない。ただし、中原人は「金槌」で水を避けた筈であるし、もちろん、公用の官吏が、街道を行かずに、橋も渡しもない川を泳いで渡ることは、あり得ない。

⑰東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
 ことさらの「陸行」は、限定的「水行」が完了した念押しと見える。末羅国以降の百里単位の里数は、全行程万二千里をはじめとする一千里単位の概数表記と桁違いの端(はした)である。千里単位で、しかも、大まかで、千里と七千里しかない飛び飛びの概数里数に、百里単位の里数は大勢に影響しないから、数合わせの些事にはこだわらない事である。

 因みに、この五百里は、主要行程の記事を完稿した後、つまり、後日の書き足しと思われる。書かれているのは、恐らく実測だろうが、それが「行程」里数に見合う「短い」里であったとしても、官制で定まった「普通里」(450㍍)でない里を、あえて使用した由来も趣旨も不明で参考にしかならない。

 方位共々、当記事では深入りしない。

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⑱有千餘戶
 伊都国は、ここまでの行程諸国と同様、冒頭の「国邑」定義に従った小規模な隔壁集落が王城であり、その意味では、千戸単位の戸数は妥当である。「国邑」は、古典的二重隔壁集落であり、外周隔壁内は戸数が多く、また、外周隔壁外の伊都領域は、さらに繁栄していたはずであるが、陳寿は、古代中原の「国邑」を描いているので、古典的構想に忠実であり、これを、万戸の誤写と解したのは、後世の素人考えである。

⑲世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
 今回の仮説では、伊都国の外周隔壁内に「女王国」、つまり、倭人盟主の居所を収容していたと推定している。帯方郡の見解では、倭女王との交信の宛先は、伊都国で十分と見ていたようである。両者の主従関係は、両論あり、不鮮明である。

⑳東南至奴國百里
 本論では、これは、伊都国の王城の道標に「東南 奴国~百里」と書いていただけで実測かどうかは不明であり、交易荷物運搬や使者の往来で把握されていた道里が、後日追記されたと思われるが、委細不明である。

㉑官曰兕馬觚副曰卑奴母離
㉒有二萬餘戶
 伊都国の近隣であるから、戸籍制度の整備は進んでいるものと思われる。二万戸と表記して済んでいるのは、遠隔で事情の通じていない投馬国が、「可五万余戸」と生返事で漠然たる概数を報告しているからである。

㉓東行至不彌國百里
 本論では、これは、伊都国の王城の道標に、「東 不彌国~百里」と書いていただけで、実測かどうかは不明であり、交易荷物運搬や使者の往来で把握されていた道里が、後日追記されたと思われるが、委細不明である。

㉔官曰多模副曰卑奴母離
㉕有千餘家
 戸表記でないのは、服属だけで戸籍不明と思われる。

㉖南至投馬國水行二十日
 「従郡至倭」の本筋は、既に末羅から陸行専行で水行はなく、よって、脇道と見ざるを得ない。
 渡船は大抵半日仕事で、甲板も、船室も、食事煮炊きも、寝床もない「軽舟」であり、二十日は論外というか、問題外で無茶である。つまり、投馬国記事「投馬条」は最有力国にしては粗略であり、自己申告なら深謀遠慮なしに提出され確認されなかったと見える。何しろ、水行二十日は、全行程四十日の内訳に収まらないのに関わらず風評並に放置されていると見える。

 「従郡至倭」行程は、郡との文書交信や士人往来の期限を定めるもので、慎重に書かれているが、余傍の投馬国は、成り行き任せと見えるのである。奴国、不彌国道里共々、余傍国は、後日の追記なのだろうか。
 奴国共々、万戸の国が国邑集落の筈がないのも、放置されている。

㉗官曰彌彌副曰彌彌那利
㉘可五萬餘戶
 傍路遠隔の国は事情不詳と逃げても、有力国が一万戸単位の大きな国なのに五万戸「らしい」とは不首尾である。全国七万戸中五万が不確かでは、郡も困るのである。というものの、これだけ遠隔では、納税、徴兵、労役いずれも、到達圏外であるから放置したのだろう。なお、台帳の積算に労力を費やせば、一戸単位の集計が可能なのは、史書の示すところである。
 何しろ、銭が存在しないから、投馬国から五万戸分の納税となると、大量の穀物を長期間かけて運送・納付する事になり、その間、船腹が占拠されるから、交易が停止し、一大事である。

*根拠の無い古代国家像「倭人」世界~ 余談
 中国では、秦始皇帝の創始した全国統一通貨、輸送制度のおかげで、数千里の果てから、秦都「咸陽」に銅銭の山で納税が届き、日数はかかっても長距離大量の穀物輸送が可能であったから、中央集権国家を統治できたが、倭人世界では、そのような広域統治「古代国家」は、成立不能だったのである。

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㉙南至邪馬壹國女王之所
 「女王之所都」は「邪馬壹国」を王都としたも読めるが、難がある。太古以来、天子居城を「都」と称したのは、周代の「宗周」、「成周」の二例しかない。西周末、「宗周」から「成周」に遷都したが、東周は無力で、諸「王」が「王都」と称した混乱は、秦始皇帝の統一で「王都」が消失し、解消した。以後、漢代に一時「国」が復活したが、「郡」と同様皇帝の臣下であり、ただ、皇帝の親族の支配する領域と言うだけであるから、「王都」などという事はないのである。
 魏都洛陽は、天子居城「京都」と呼ばれた。一方、「王」ならぬ蛮王の居所を「都」と称するのは不遜で「邪馬壹国女王之所都」は、法外であった。
 史官たる陳寿は、そのような不遜な命名は念頭になく、いわんや、「邪馬臺国女王之所都」と二重に不遜な意識は、あり得なかったのである。
 ということで、次項冒頭の「都」を切り離す解釈を取るものである。

 ちなみに、班固「漢書」西域伝で、数ある西域諸国の中で、唯一、安息国に「王都」の栄誉を与えた点は、既に述べた。例外があるから、通則が証されるのである。

㉚都水行十日陸行一月
 この「区切り」は、見慣れないかもしれない。権威ある中国史書は、前文を「都」まで続け、しかして区切っているからである。しかし、当ブログ筆者は、提案の区切りを妥当と見たのである。これは古賀達也氏の提言によるが、氏自身は作業仮説にとどめている。一方、筆者は、前項解釈が至当と見たので、僭越にも「所説」としたのである。
 ここを「伊都~倭」行程道里で締めたと解されると、編者の本意に外れるので、あえて「都」(すべて)を前置きして、解釈を定めたというのは誠に至当である。

 史学界の至高の権威であった上田正昭氏は、古田武彦氏の提唱した説とは言わないまま、『「水行十日陸行一月」を総所要日数と解釈する』説に対して、そのような書法に前例がない、と難色を示したが、「都」を前置きとすれば、中国語で、古来「すべて」の意味で常用された、誠に普通の解釈であり、「普通の書法に前例は要しない」のである。

 これまでの句読点は、このような普通の解釈を見損ねたものであり、句読点の打ち違いによって史家を迷わせたのは罪深いのである。句読点の打ち間違いは、滅多に、本当に滅多に、滅多にないが、絶無ではないということである。(古田氏が一例指摘しているが、ここでは深入りしない)
 そうした「新解釈」を待たなくても、倭人傳の要件である「従郡至倭」所要期間というが明記されているとの解釈は、最も妥当なのである。

㉛官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
㉜可七萬餘戶
 倭人伝に、全戸数は必須である。

*戸数談義
 奴二万、投馬五万を足すと七万になり、他国の戸数を足すと七万を越える」とは、戸数は、千戸単位以上の桁の概数である事を忘れた錯覚である。倭人傳概数で、二、五、七、十、十二万の「大まかな」感覚に、現代の精密を押しつけてはならない。また、千戸単位の諸国戸数や、戸数表示のない群小国の戸数が、計算に影響するというのは、ちょっとした勘違いである。倭人伝で肝要なのは、全国戸数は、七万戸であり、うち、奴国に二万戸、投馬国に七万戸があるという概要報告であり、それ以外は、些事であって、本来触れないのである。

 倭人伝の用語と世界観に従うと、女王居所たる王城「国邑」は、せいぜい千家の隔壁集落であり、国王と親族以外の住人は、公務員と奴婢従僕ばかりで、当然、課役も労役も兵役もないから、戸数は無意味である。

 時に、戸数を現代の核家族になぞらえたり、人口直結の数字と見る向きがあるが、それは、「戸数」の意義を理解していない錯誤である。それは、古代における人口の意義を理解していないという事でもある。ここに、少し丁寧に説明したが、それ以前の知識が欠けていたら、修行する資格に欠けているのである。

㉝自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
 「自女王國以北」は、「従郡至倭」の主行程上の対海、一大、末羅、伊都の「行程国」四カ国であり、まずは、倭人伝に「略載」されているのであり、以外諸国は、主行程外の「余傍国」、つまり、参考に載せているに過ぎないのである。従って、戸数、道里、国情は、時に大まかで、時に不詳と位置付けが「明快」である。あるいは、諸国記事を「条」として列記し、「条」ごとに「行程国」と「余傍国」に色分けしたら、直感的に明快になるかも知れない。

*投馬国遠絶の由来推定~余談
 因みに、五万戸の投馬国の詳細を「不可得詳 」で済ませているのを言い訳するために、官道がなく不法な「水行」の二十日を要する「遠絶」としたものであり、実際は、官道が通じていて往来に十日を要しないが、事ごとに指示に応答しないので、「余傍国」に押しやったとも見えるのである。

*刺史重用の統治形態
 「自女王國以北」の「行程国」に刺史(のようなもの)を置き、月に三度の旬報による文書交換などで女王の指示を受けた刺史が、置官と組んだ持続可能な統治形態と思われる。倭人伝には、郡が文書で通達したとあり、通達に応答できたという事は、紙墨硯を使いこなす書記がいたのだろう。恐らく、結構以前から、郡は、倭人を指導していたのだろう。
 そのような成り行きは、記事の字面には明記されていないが、記事から読み取れるように示唆されているからには、明記されているのと同様に「明快」である

㉞次有斯馬國……次有奴國此女王境界所盡  ~ 中略御免
㉟其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
 ここに言う「女王」は、「女王国」の意である。あちこちに見る語法である。

㊱自郡至女王國萬二千餘里
 列島西部の地理から見て、「従郡至倭」道里総計として「普通里」(四百五十㍍)は過大と即断したのが、古来、性急な倭人伝論氾濫の由来と思われる。

▢倭人伝問題に明快な解を
 素人の素朴な意見を述べさせて頂くと、倭人伝「問題」は、編者が作成した「文章題」であり、題意が理解できなければ解を得る事はできない。まことに当然である。

 そもそも、二千年近い以前に著述された「倭人伝」に対して、同時代に記述が混乱して解けないという「文句」をほとんど見かけない以上、論義が騒がしくなった一千年以上「後世」の読者が、題意理解力不足で、肝心の出題意図を読み取り損ねている可能性が高いと見るのである。

 「後世」というのは、現代の中国人も含んでいるのである。これまで、「中国人」による適確な読解がほとんど無いのは、倭人伝を読み解く教養が継承されていないためであって、その点では日本人研究者と「大差ない」からであろうと見るのである。

 以上の論義は、貝塚茂樹師、宮崎市定師、平勢隆郎師、そして、白川静師のように、厖大な中国太古、古代の文字史料を読み解いた先達の瞠目すべき諸著作に、ひたすら依存しているのであって、全てを自力で解したものではない。個人的「修行」の成果と言いたいところである。

 以上でおわかりのように、現代人が一読しただけで、非常識だとか、理解に苦しむとか、声高に主張する前に読まなければならない資料が山積していると見える。

                                以上

2021年11月15日 (月)

今日の躓き石 三菱UFJの汚れた言葉 「リベンジ消費」賛美で国民を汚名に導く暴挙

                            2021/11/15

 別に要望したわけではないのだが、NHKGの「NHKニュース7」で、サブキャスターらしい女性が、「リベンジ消費」なる汚い言葉を連発しているのに気づいて、画面に注意すると、突然、「三菱UFJ」なる権威筋らしい方が「リベンジ消費」とわめいていた。

 ネットで検索すると「リベンジ消費」のはびこっている場所の一つが、「三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社」(以下、勝手にMURCと略称する)の各種リポートなので、ご当人は、社内用語でなじんでいて、真っ当な日本語と思ってすらすらしゃべっているのだろうが、単なる独りよがりな業界用語に過ぎないのである。もし、真っ当な日本語としたいのであれば、当ブログで攻撃している「リベンジ」の蛮語疑惑を克服する努力が必要なのである。

 それにしても、MURC内部の荒廃した言葉遣いは、もはや癒やしがたいのかもしれないが、それは、どこかの会社の「プライベート」な世界のことなので、ここでどうこう言えるものではない。大事なのは、この方がNHKの知恵袋(シンクタンク)で、公共放送が一私企業に依存しているので、この方が、不適切な言葉を言いたい放題わめいても、公共放送の権威筋には、どうにも止められないようである。
 しかし、当方は、一回の素人で、何も遠慮する必要はないので、言うべきと感じたことをいうだけである。

 それにしても、この方の経済関係の知識、見識は、追随を許さないものと思うが、人として何より大事な言葉遣いの感覚が(キリスト教徒の)子供以下では、発言全体が聞くに堪えない独善に聞こえてしまう。ご本人は、自分の口にしている言葉が、国外でどのように受け止められるか、まるで、気が行かないのだろう。そして、周囲の誰も、聞きとがめないのだろう。自浄機能がない組織は、いずれ腐敗する。

 丁寧に言うと、リスト教徒であるアメリカ人が、子供時代からの日曜ごとの教会通いで、「revengeは、神が固く禁じる」ところだという刷り込みを受けていのに対して、日本人は、不信心で、そのような刷り込みがないし聖書も読んでいないとしても、国際舞台で活動する一流の教養人が、これほど肝心なことを知らないではすまないのである。英語に通じているというのは、単語やイディオムを山ほど知っているというのでは足りないのである。

 もちろん、「リベンジ消費」が、若者中心に出回っている、従って、権威ある辞書に載っていない「大輔リベンジ」と混同されることも、考えていないのだろう。それにしても、国民は、何かに/誰かに仕返しする気にならないと、消費活動に出られないのだろうか。見くびられたものである。当今の経済学者の言い回しは、素人の考えをとうに飛び抜けて、未踏の荒野を駆けているようであるが、とても、ついて行けないのである。

 ということで、とりあえず、当ブログは、MURCを糾弾するのである。同氏の属する業界は、新語を使うときに、用語審議はしないのだろうか。もったいないことである。

 勝手に言わしていただくなら、「リベンジ消費」は、さらに忌まわしい「リベンジポルノ」の兄弟分として、ともに、下水に流していただきたいのである。

以上

今日の躓き石 NHKの堕落-3 愚劣な「リベンジ消費」蔓延旗振りの堕落

                      2021/11/15

 今回の題材は、NHKGの昼の全国ニュースであるから、言葉遣いに関して、これ以上ないお手本の筈なのだが、堂々と「リベンジ消費」と怒鳴っているのは、まさしく、公共放送としての堕落以外の何物でもない。受信料返せどころではないのである。

 一応、「いわゆる」などと前振りしているが、このように低俗でパチものの言葉は「報道しない義務」があるように思うのである。一視聴者の意見では、この言葉は、NHKが言い出しっぺで、昼のニュースで言い立てることで、せっせと世に広めていると見えるのである。

 それにしても、NHKは、報道倫理を持っていないのであろうか。恥を知るべきである。

追記:
 0時50分からのBSニュースも、同様に、「いわゆる」表現をとっているが、公共放送であるNHKが、このような、無様で不適切な新語が、定着したと確信した根拠は示されていない、つまり、誰か言い出して誰が指示しているのかわからない、単なる風評を高々と言い立てているので、言い出しっぺを非難することは「不可能」である。従って、NHKを非難することしかできない。
 ちなみに、引き続き報道された「ナウキャスト」「JCB」の報告は、消費動向について、つまらない、下品で、しかも、無用の失言/発言をしていないのである。当然である。
 NHKは、情報源の品格を確かめて、新語をまねるべきではないのだろうか。拾い食いはお粗末である。「石橋をたたく」ということは、常識ではないか。

 また、一般大衆が「リベンジ」感覚で買い物に励んでいるというのは、発言者が、一般大衆を理性に欠ける「衆愚」と見下しているのが真意であり、それを、恥知らずにも取り次いでいるのが今回の報道とみられても仕方ないと思うのである。
 初稿では、大の大人をそこまで怒鳴りつける事もないと思ったのだが、「言わなくてもわかる」分別があれば、今回のような失態は露呈しないのである。という事で、今回の追記は、子供扱いさせていただいた。悔しければ、「昼の全国ニュース」で、不適切極まりない言い回しについて、丁寧に弁明いただきたいのである。

 ちなみに、当ブログで、「リベンジ」に対して厳しい姿勢をとり続けているのは、この言葉が、中東を震源として展開されている「血の報復」、「自爆テロ」などを正当化する忌まわしい言葉だからである。西洋、キリスト教文明からは、日本人は、仇討ちや自己犠牲を正当化している(無法な国民)と(一部の厳格な紳士、淑女に)みられているだけに、意味のわからない聞きかじりの言葉を使って、無用な誤解を広げないように、この言葉の絶息を図っているのである。この記事だけ見たら、無用の言葉狩りと見えるかもしれないが、それだけの根拠があるということを追記した。

 一を聞いて十を知る知性の持ち主には、さぞかしご不快であろうと思うが、世間は広いので、もっと下に降りて書かざるを得ないのである。

以上

2021年11月 6日 (土)

今日の躓き石 NHKの堕落-2 「リベンジ」蔓延防止に無策(セリーグCS報道)

                      2021/11/06

 本日の題材は、NHK BSで実況中継されているセリーグクライマックスシリーズ第一戦である。

 実は、アナウンサーで解説者でもないファン取材の報告なのだが、何もご存じない太平楽な巨人ファン、つまり、ただの一般人が自分の喋っていることの意味も知らずに「菅野リベンジ」との暴言を言い立てた(らしい)のを、そのまま、鸚鵡返しに、つまり、忠実に報道していた(らしい)のが情けないのである。
 その際に、アナウンサーが軽くコメントを入れたら、それだけでも視聴者に広く主旨を伝えることができたのに、そのまま流したと言うことは、NHKは、無法な言い草を公認して蔓延させたと言うことなのである。まあ、一部解説者には『「リベンジ」は、松坂大輔の流した罰当たりな言葉だ』とコメントする良識の人もいるのに、本職のNHKアナウンサーが聞き咎めしないのは、困ったものなのである。公共放送の報道の良心は、どこに行ったのだろうか。もちろん、素人コメンテーターの失言なら、もう少し点が甘いのである。

 NHKアナウンサーは、「セットアッパー」とか「ナイター」とか、不適切な発言をしないので、規律が行き届いているとして、かねがね尊敬しているのだが、今回は、飛んだ失策であったと思うのである。こうした批判を飛ばすのは、NHKの規律を信頼しているから、特に失策に点が辛いからである。

以上

 

 

2021年11月 4日 (木)

今日の躓き石 NHKの堕落~ニュース報道で「リベンジ消費」礼賛

                      2021/11/04

 本日の題材は、NHKの誇る定時ニュースである。画面表示はないから、うっかりすると聞き逃しそうであるが、ちゃんと聞き咎めないと、NHK内に蔓延が広がるので、あえて、警鐘を鳴らすのである。
 後刻確かめると、「関西ローカル」だったらしいので、他地域の方には失礼したことになる。と言っても、NHK全体の「倫理・品格」問題であることには変わりはない。そうそう、でかでかと画面表示していたのは、毒くらわば皿までの逆ギレ、開き直りなのだろうか。

 デパートの売り上げ回復を報道する際に、これは「リベンジ消費」と呼ばれている、ととんでもない報道で、嘆かわしい限りである。何とも、「受信料返せ」である。あるいは、デパート業界が、「神がかり」として悪乗りした発言がここに迷い込んだのだろうか。それなら、儲かれば何でもいいという体質と邪推されるので、デパート業界の恥をさらしたことになる。

 公共放送たるNHK報道の使命は、世間に溢れている「ダイスケリベンジ」(松坂大輔が全国放送に載せたバチもの)の普及に貢献することでは無いと思うのである。せめて、黙殺することで、この「極悪語」の普及の押し戻し、自然衰退に助力いただきたかったものである。

 世間で、「極悪語」が発生するのは避けられないし、SNSでの罵詈雑言の嵐を思うと、NHKの力で死語にするのはできないだろうが、せめて、この「ダイスケリベンジ」を知らない無防備な人たちに、NHK公認の言葉として押しつけないで欲しいものである。

 それにしても、NHKのニュース報道には、校閲も何もないのだろうか。困ったものである。

 これでは、松坂大輔の「野球人生」以外の「人としての生き様」、普通言う「人生」の汚点が、永久保存されてしまうのである。

以上

2021年11月 1日 (月)

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 1/16 前置き

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。別の批判記事では、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのですが、本件は、敬意を抱きつつ、批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。

 塚田氏は、「魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していく」のに際して、造詣の深い国内史料に基づく上古史論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点とずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりのずれが避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、倭人伝の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、背景説明に手間を惜しんでいません。

 どんな人でも、知らないことは知らないのであり、自分自身で考えても、倭人伝の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を倭人伝に限り、範囲を道里里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。
 批判するだけで、失礼、冒瀆と憤慨する向きには、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は「三顧の礼」なのです。

 また、氏の倭人伝道里説考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、倭人伝の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、三世紀に「日本」は存在しないとの仕分けを図っています。

 そのように、論義の有効範囲を明確にしていますので、異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。
 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい。)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。

 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完           

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 2/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、倭人伝冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、日本語とは全く異なる意味を持つ場合があって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、自明の真理であり、俗説を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、おしなべて言えることです。
 ここでも、「国邑」、「山島」の解釈が「甘い」と見えます。氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と全く異なっているので、確証がない限り、意味が異なる可能性があると見るべきです。
 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「神経」がなければ何も変わらないのです。大抵の論者は「鮎鮭」問題など意識せず、「自然に」、「すらすら」と解釈できると錯覚して論義しているのです。

コメント:倭人伝に「日本」はなかった
 自明のことですが、当時、「日本」は存在しません。当然、洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝は「日本」と全く無関係です。無造作に押しつけている帯方郡最寄りの日本は日本列島を思い起こさせますが、倭人伝誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、楽浪郡の手の及んでいない「荒地」、郡に服属していなかった蕃夷領域を統治すべく新たな「郡」を設けたのです。「郡」は、郡太守が住まう聚落、郡治であって、支配地域の広がりを言うものではないのです。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、倭人伝の視点、感覚は、中原人のものです。「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。
 因みに、なぜか、ここで、「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。

 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 3/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*「日本」錯誤ふたたび
 中原人の認識には、当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り、「女王之所」のある九州島すら、その全貌は知られていなくて、壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在するものと見られていたようです。少なくとも、冒頭の文は、冷静に読むと、そのように書かれています。
 まだ「倭人」世界が見えてなかった、帯方郡の初期認識では、「日本」、ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が、末羅と地続きらしいと見てはいても、その他の国は、不確かであり、要は、全体として海中に散在する小島だろうと見ていたのです。
 傍路の諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、史官として筋を通したに過ぎないので、ここに精密な道里を想定するのは、勝手な思い込みの押しつけに過ぎないのです。
 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の混濁した倭人伝道里行程観は、霧散するでしょう。もちろん、ここにあげた提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」に展開する広大な古代国家を想定していては、倭人伝記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては、言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が、今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸の泥世界で、人の住む土地でなかったし、当時は、「福岡」は存在しなかったので、時代違いです。今日、福岡市内各所での遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく、倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。

コメント:国数談義
 漢書の天子は、遙か西方の関中の長安であり、とても、手軽に行き着くものではないのです。後漢書の天子の住まう洛陽すら、洛陽/帯方両郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、遼東公孫氏の元に行っただけでしょう。

 因みに、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の法と秩序を侮ってはなりません。

 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里
コメント:従郡至倭~水行談義
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って倭人伝の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。題意を誤解して解答をこじつけては、正解にたどり着けないのは、当然です。

 倭人伝記事は、「循海岸水行」であり、「沖合に出て、海岸に沿って行く」との解釈は陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地で、解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。

 さらなる誤解を正すと、中原教養人の用語で「水行」は、江水(長江、揚子江)など大河を荷船が行くのであり、古典書は、海を進むことを一切想定していないのです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、不法な船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者が「危険」かどうかという判断は、一切関係ないのです。

 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。使者が生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるので、自分一人の命より「もの」が大事なのです。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 4/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*重大な使命
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。

 「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。

 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を数千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事に過ごしても落命するのです。ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず、難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。

 これに対して、海峡渡海は、一目散に陸地を離れるのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も、潮の具合もわかっていて、しかも、日常、渡船が往来している便船の使い込んだ船腹を利用するので、危険は限られているのです。その上、大事なことは、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でもできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には、橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。東夷で海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)

 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに限り使う限りは、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、倭人伝道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の裴松之も、道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 倭人伝で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」、「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていないのです。

 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、時に進行方向が東寄りになったり、南寄りになったりしていると言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ俗説を、理性的に否定していて、好感が持てます。文献解釈は、かくの如く合理的でありたいものです。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 5/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる『七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。』との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先プレなのでしょうか。

 それにしても、郡~狗邪は郡官道で、地を這ってでも測量できるのです。とは言え、倭人伝など中国史料で道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、魏志で六倍近い間違いが「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が検証なくして皇帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録が、辻褄合わせしたと見ます。心理的な距離など、関係はないのです。

*御覧原本不可侵
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。
 原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の後漢書でしょう。

*文化遺産継承
 それはさておき、倭人伝道里記事の万二千里あたりは、後漢公文書を根底に書き上げられたので最初に書かれたままに残っているのです。
 陳寿は、魏志を編纂したので創作したのではないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、倭人伝道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、海底深となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。

 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例があるのです。(班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます。)

 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も万二千里を不合理と指摘していないのです。

*「里」「歩」「尺」の鉄壁
 ついでながら、「里」に連なる測量の精度が現実味を帯びるのは、各戸に付与された耕地の測量/検地です。この測量は、耕地に課せられる税額に結びついているので、精度を要求されます。

 基本的に、耕地測量の単位は、「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)であり、「歩」は、「尺度」の基本単位であって原器が遺されている固定の「尺」の六倍に固定されているので「歩」は六尺で固定だったのです。固定の「歩」の三百倍の「里」も、「尺」の一千八百倍であって固定だったのです。因みに、ここで言う「歩」は、耕作地の測量単位であって人の歩幅とは連動していないのです。

 どこにも、一時的な「短里」制など介入する余地がありません。耕作地の測量単位が、六分の一や六倍に変われば、帝国の土地制度は壊滅し、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない、暴挙だったのです。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら暴挙に挑んでも、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。

                                未完

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里四百三十㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、五十㍍刻みの四百五十㍍程度とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩は百五十㌢㍍程度、一尺は二十五㌢㍍程度で、暗算かどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。

《原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説であり、同意できません。「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。
 また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業~陳寿復権

 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか。倭人伝は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤ったと決め付けた例もあります。当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されているのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を里数で書いているとみた誤解が、無理な「決め付け」を読んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里と書くしかないのです。

 陳寿は、当代随一の物知りで、早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、史官の替わりはいくらでもいたのです。

コメント:對海国談義
 暢気に、『「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がない』とおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」であり「見なれない」文字です。
 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。「大海」も、大抵誤解されています。西域に散在の内陸塩水湖と見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖カスピ海、裏海も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。

*「方里」談義
 なお、氏は、ご多分に漏れず、「方四百里」を一辺四百里の方形と見た上で、それでは現地地形とそぐわないと不信を感じていますが、まことに至当です。要は、魏志東夷伝に登場する当表現の解釈は、大抵誤解されていることを直感されているのです。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 7/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*「方里」「道里」の不整合
 詳細は略しますが、この表現は、その国の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように、適切な解に落ち着くのです。解釈に抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。
 想定されている「方里」理解だと、一里百㍍程度となり「短里説」論者に好都合なので、文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*倭人伝再評価
 倭人伝は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです。」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身が、その陥穽に落ちていると見えます。

そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭
コメント:産鉄談義
 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、漢、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ銭がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で農民達は税を銅銭で納め、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成して、使い切れずに眠っていたと書かれています。諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って、皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させたことを示しています。農作物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は、米俵の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ、食糧輸送は、帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して、統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されけています)

 それはさておき、通貨がなければ、市での取引は物々交換の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは、大変不便です。
 それでも、東夷で市が運用できたのは、東夷では商いの量が少なかったという趣旨です。商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないのです。いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量穴あき銭が必要であり、それが、大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家
コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、倭人伝原本には、宋代以来「邪馬壹国」と書かれていてどこにも「邪馬台国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない、直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想であり、現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑
 当節、「架空地理論」というか、衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、地図データの提供者にすると、保証外のデータ利用方法であり、どう考えても、地図データの利用許諾されている用法を逸脱していると思われますから、権利侵害であるのは明らかです。
 塚田氏は、「架空地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように、「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、「壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です。」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように、「原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。

                                未完

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*對海國談義
 ついでに言うと、對海國方里談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方里」表現するのは、對海國の国力を表現する手段として、重ね重ね不合理です。帯方郡が、皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が見られないのです。
 そうでなくても、山林ばかりで農地として開発困難(不可能)な土地の広さを示して、何になるのでしょうか。對海國の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。
 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、なぜ、山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。東夷傳に記載されているということは、何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、東夷伝原資料に書き込まれていたものと見えます。といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。

 さらに言うと、郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、無意味なのです。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 誤解は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。

 そのように誤解すると、一部史学者が因縁を付けたように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して、米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから、結構な収益があったはずです。

*免税志願
 確かに、つまり標準的な税率を適用されると農地に対してが不足しているのは明らかであり、戸数に比して、良田とされる標準的のうちの不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 「倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのです。」と見事な洞察です。
 私見では、倭人伝道里記事は、魏使の実地行程そのものでなく、帯方郡志に記載し、皇帝にも届けた街道明細の公式日程と道里と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので、道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は、魏使が奈良盆地まで足を伸ばしたと、ほぼ決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を、通過経路外とできないので、割り切れていないようです。
 この点は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し、圏外として除外します。
 倭人伝道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

                                未完

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私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、倭人伝記事は、通過した国々を紹介した記録と代表的な諸国を列記した記録が融合したと見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので棄てがたかったのかも知れませんが、行程外の国は余傍で概略に留めた事を冷静に受け止めるべきでしょう。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を廃棄すべきです。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 魏志で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が、現地から報告されていることを示します。
 本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、郡は、交通不便な遠隔余傍の国は、責任持てないと明言しています。

 となると、「可七万余戸」が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、倭人伝の用いた太古基準では、「国邑」に七万戸はあり得ないのです。殷周代、国邑は、数千戸止まりの隔壁聚落なのです。秦代には広域単位として「邦」が使われたようですが、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。倭人では、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。

*「数千」の追求
 因みに、倭人伝も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と零の間に位置する二千五百であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。とかく、大雑把に過ぎると非難される倭人伝の数字ですが、史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしているのです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。

 そうなっていないということは、倭人伝に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を足した諸国総計と見るべきなのです。

*「余戸」の追求
 塚田氏が、適確に理解されているように、「余戸」というのは、約とか程度の概数表現とみられます。
 つまり、五万余と二万余を足せば七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に適応していないので、全国戸数には、一切反映されないと決まっているのです。

 俗説では、横は、端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝内の数字加算が、端数累積で成り立たなくなるのです。

 また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、単なる誤解という事です。

*明らかな不合理
 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、この明白な不合理が放置されているのは不審です。

 案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が「定説」にこだわるからで、これは学術論でなく、子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。

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d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められていましたが、当方の議論で、取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。

 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、最終行程が「水行十日、陸行三十日」、「水陸四十日」行程と認めている点であり、ここまで、着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱した状態で、異論を裁いているので、傾いているのは、異論の論点かご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて、伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく、高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。そのような巨大な不合理をよそごとにして、諸兄が倭人伝解釈をねじ曲げるのは痛々しいものがあります。

 明解な解釈の第一段階として、水陸四十」日は、郡からの総日程と見るべきです。そして、「女王之居所」は、伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。
 そう、中国太古では、各国邑は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷に、臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」が完結していたと見られるのです。

 要するに、倭人伝で、伊都は中国太古の国邑の形態をとっていて、したがって、千戸単位の戸数が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の国邑で海を外郭としていて、それが山島に国邑を有していると形容されていたのですが、それは、伊都にも、女王国にも及んでいるのです。それに対して、余傍の国は、国の形が不明で、国邑と呼ぶに及ばず、数も、大雑把になっていると見えるのです。
 と言うように話の筋が通るので、遙か後世の倭人末裔が、中国史書の文法がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。
 それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。

 氏は、突如論鋒を転換して、『「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。』と述べられたのは、意図不明です。
 作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは、取捨して編纂することにより倭人伝に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する読者に深意を伝えたものなのです。

*先入観が災いした速断
 『放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。』というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。

 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。遥か後世人が、そのような深謀遠慮察することは不可能ではないでしょうか。多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから混乱しているのではないでしょうか。
                                未完

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私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*自縄自縛
 「先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは。その言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓めるものであり、それに気づくのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。

 「放射行程説の自己流解釈の破綻」については、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。
 素人目には、倭人伝記事は、魏使の実行程と見立てた上で、魏使は投馬国経由との決め込みが、明察の破綻の原因と見えます。
 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、洛陽人にとって、明らかに到達不能に近い遠隔三角形で、非常識で実現不能と見えるように書いているわけはないのです。

 すべて、この良識に基づく『結論』を、踏まえて、必要であれば乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆すものの重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしかないというのは、思い込みというものです。

 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、細かく書いていないというのが、倭人伝道里記事の古来の解釈であり、この直線的な解釈は、一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、魏使が女王国に至っていないとの論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、奴国から投馬国までの国に行っていないように読めるというのに過ぎないのです。

 これを放射行程説なる論義と組み合わせると、実は、伊都国以降は直線行程であって、しかも、伊都国と女王国は、道里不要の至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。予告したように、一つの外郭の中に、二つの「国邑」が同居していた可能性もあります。

*「時の氏神」
 私見では、倭人は、もともと、氏神、つまり、祖先を共有する、一つの集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在したものと見ています。本来、各国間の諍いは、総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を保たない女王が起用されたものと見るのです。
 一度、思い込みを脇にどけて一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
《原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。「九州北部説」によれば、後世史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。

 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの、『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と明言されているにも拘わらず、「定則」を「定説」と速断して、自説の補強に導入した例があるので、念には念を入れているものです。現代人同士で、文意誤解が出回っているというのも、困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、事実上不可能に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」と解される可能性があり、国際文書の飜訳には、要注意です。
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が、「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、不快な驚きであり、現代日本語語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。うれしい驚きは、誤解されないように「プレゼントサプライズ」とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。他にも、同様の誤用は、多々ありますが、ここでは、一例に留めます。

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*更なる余傍の国
 なお、里程記事で言う女王国以北というのは、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の諸国に限定されていることは自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。

 ということで、名前だけ出て来るその他の諸国は、単に添え物に過ぎないのです。その証拠に、道里も戸数も国情も書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役、「国主」はいても、「国王」はいないのです。「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として固く約束しても、個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、帯方郡から見ると、水面に浮かぶ泡沫ということになります。
 倭人伝では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。倭人伝では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを、中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希では、大した権威は発揚できず、「王位」が戦乱で争奪されるとは見えないのです。
 倭人は、恐らく、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあいであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても、小さいなりに纏まっていたものと見えます。

 因みに、後ほど、女王は、狗奴国王と不和と書かれていますが、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国にいる行程諸国であり、他は余傍でいいのです。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王 自郡至女王国 萬二千余里

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫

コメント:大夫論
 官位や爵位は、秦代になって大きく変わり、漢、魏代の大夫は、漢から帝位を奪い周制復帰を行った新朝王莽の一時期を除いて一貫していて、大夫は庶民の受ける低位の階位であって高官ではないのです。

 だから、東夷が勝手に名乗って官位詐称で処罰されなかったのです。万事、思い込みや受け売りの誘惑にまけず、よく調べてからにしてほしいものです。

《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差
コメント:更なる小論
 甲骨文字は「発見」されたのではなく、商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の出現以前、文字が一切用いられていなかったとは断定できません。甲骨文字のような、厖大で複雑な形状の文字が、体系化されて採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、公文書の一部に使用されていたと思われるのです。

 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。箕田は、当時の教養人の常識であり、常識に解説はないのです。

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*沈没論義
 「沈没」は、腰から上まで水に浸かるのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥の汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」、「没」の恥辱は断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が金槌で、「泳」するのは自死です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」、「沈」、「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東
コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の大半は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、洛陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、帯方の冬の寒さは格別でしょうが、奈良県吉野の寒さはかなり厳しいのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の一千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行もできますが、日本人は、命が惜しいので夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る羅針盤もありません。また、三世記の半島以南に、まともな帆船もなかったのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は、高位の士人なので、「野宿」とか軍人並の「キャンプ」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので外交官は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役だけです。
 つまり、魏使一行が、延々と東に移動することなど、あり得ないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、小数の魏使だけに絞れるはずがないのです。
 因みに、中国の史料で、実測万里というのは登場しません。中国文化を侮っていますが、魏使には、書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は、一日あればできるので、間違うことはないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖
 引き続き、とんだ茶番です。現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、ここでは触れないことにします。
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。
 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見ている方がいて、冬の最中に平城京から吉野の高地に、大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 14/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

コメント:無意味にごみ資料斟酌
 氏は、意味不明「固定観念」で想像を巡らしていますが同感できません。
 顕著な例として、原史料に明記されている「東治」を「東冶」に改竄するのは、文献考証として不用意で論外です。まして、原文記事を改竄して「思い込み」に沿えさすのは、百撓不折とは言え、重ねて論外です。
 この部分の地理考証は、素人目には、無意味な茶番です。

コメント:地理感覚迷走
 氏は、随分誤解していますが、当時の「中国」は現代のベトナムまで伸びていたので、中国東南海岸部は、会稽郡の南部を遙かに超えています。また、会稽郡の東冶県を含む南部は分郡して会稽郡から分離しました。
 ここで言う「会稽」は、郡領域全体を指すものではなく、郡治を言うものです。古代中国の常識を無視してはなりません。

*使節団方向感喪失の怪
 また、当時の魏使が、揃って、容易に確認できる現地「方位」を誤解したとは、大した創作です。まず、魏使というものの、実態は、帯方郡官人であり、中には、狗邪韓国から参加した、通詞、案内人も含まれていたはずですから、四季を通じた太陽移動の変化など承知していて、子供みたいに誤解はしないのです。
 いや、現地の太陽の移動から、方位を知ることは、小学校理科程度の常識なので、「子供みたい」とは、子供を侮っていることになります。

 書かれているような誤解をするのは、小学校時代の知識を忘れ、野天で過ごしたことのない、現代文明人でしょう。

 ついでながら、当記事では、伊都国以降の余傍の国は、除外していますので、議論する必要はないのです。

*「食卓」の振る舞い
 当時の中国では、食卓はあったものの、まだ、手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

コメント:邪馬壹国を九州に置く

 曲がりくねった言い回しで、氏は、何を言ったのでしょうか。
 参照している「混一彊理図」は文化財として美術的な意義はあっても史料価値のないバチものであり、遙か後世の産物なので、倭人伝考証に無用の「ごみ」(ジャンク)であり、さっさと却下すべきです。
 とうに博物館入りの「レジェンド」(骨董品)と思うのですが、なぜ、実戦に担ぎ出されるのか、気の毒に思います。

*風評混入
 ついでに評された流着異国人が、どのような地理認識をしていたか、地名認識の検証も何もされていないので、風評以下の確かさすら怪しいのです。また、南方と見える「出羽」が、実際はどこにあったのか、全く不明です

 氏は「史料批判」、「証人審査」を一切せず、言いなりに、いいように受け取っているのでしょうか。食品見本の偽物食品にかぶりつくような蛮勇は、真似したくてもできません。不審です。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 15/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

b、倭人の南方的風俗とその文化
《原文…其風俗不淫……貫頭衣之種禾稲紵麻……其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾……竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同……穿中央為貫頭 男子耕農……山多麖麈……食飲用籩豆 手食

コメント:幻の食卓
 氏は、隋書俀国伝の風俗記事を、あたかも、7世紀初めの飛鳥時代の飛鳥風俗と思い込んでいるようですが、圏外なので論評しません。

 当時の中国では、食卓はあったものの、一般的には手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。
 「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

《原文…其死有棺無槨 封土作冢……挙家詣水中澡浴 以如練沐

コメント:封土作冢
 ここは、後出の卑弥呼葬送の段取りと重なるのですが、無造作に飛ばしています。「封土作冢」とは、棺を地中に収めた後、土で覆い、盛り土の「冢」とするとの意味であり、墓誌もなく石塚ともせず、簡素なものとわかります。

《原文…其行来渡海詣中国……謂其持衰不勤 出真珠青玉……有獼猴黒雉
《原文…其俗挙事行来…… 視火坼占兆 其会同 …… 人性嗜酒
 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
《原文…見大人所敬 …… 其人寿考或百年或八九十年

コメント:加齢談義
 「暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげた」とありますが、時に、弁舌力が余ってか、古代人の心理を深読みする例がままありますが、素人としては、遺された史料から、よく、裴松之の意見がわかるものと感心しています。
 私見では、陳寿が史料とした採用しなかった魏略にこのような表現があるから、補追した方が良いのではないかとの提言のように見えます。

 古来、毎年元日に全員揃って加齢する習わしであり、別に年齢を数えることに不思議はなく、文字がなく記録文書がなくても、何か目印でも遺していれば、自身や肉親の年齢はわかるのです。

 これは、春秋の農事祝祭に因んで、それぞれ加齢したとしても同様です。そのような習慣があれば、そのように記憶されるまでです。

*識字力、計数力~地域住民管理
 但し、百に近い数字まで適確に認識するには、当時としては大変高度な教育訓練が必要です。一般住人が、幾つまで数えられたか不明ですが、三、五、十までが精々というものが大半の可能性があります。氏の示唆に拘わらず、各人が自身の年齢をちゃんと数えられたという保証はありません。
 恐らく、聚落の首長が、「住民台帳」めいた心覚えを所持していて、その内容を参照して、世間話として回答したのでしょう。戸籍調べは、徴兵、徴税の前提であり、容易に本音を漏らすものではないのです。

*戸籍を偽る
 例えば、戸籍上に老人が多く若者が少ないとすれば、戸数に比べて動員可能人員が随分少なく担税能力が低いことになり、徴兵、徴税が緩和されます。ます。未開、無文と言っても、無知ではないので、首長を侮ってはなりません。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 2 サイト記事批判 16/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28

*誰の報告
 言うまでもないですが、ここで言うのは、言葉が通じる者達であり、当時、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの年齢は、当然わかるはずがありません。当時は、幼児や小児のなくなる例が多かったので、現代風の寿命観は、無効と思うのです。

*場違いな引き合い
 倭人は、アンデスやコーカサスは知らないので、持ち出されても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので、倭人伝の深意に取り込まれているはずはないのです。
 私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に、最小限に留めるべきと信じているものです。そうでなくても、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで躓いて転んでも、当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、長く貴重な史書として珍重されていたのですが、完本は現存せず、諸史料への引用が残っています。ただし、魏略「西戎伝」が、陳寿が、意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」の代用として丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として完全に近い形で現存しています。魏略を侮ってはなりません。

 因みに、魏略「西戎伝」は、実質的に後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に幕府を開いた西域都護の活動を記録しています。後漢西域都護は、最盛期には前漢武帝時に到達した西域極限の安息国東部都督(に等しいもの)に大使節団を派遣しています。

 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞に常設していましたから、西域都護は、しばしば反抗する大月氏(貴霜国)を、共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。但し、安息国は、対外戦争を自制していたので、同盟は、成立しなかったようです。

 因みに、安息国は、西方の「王都」「パルティア」がメソポタミアで繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、四万の常備軍をおき、侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方で、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。安息国は、商業立国であったので、周辺諸国は顧客であり、軍備を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、ギリシャに度々侵攻したのと、「国是」が、異なっていたのです。
 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*魏志西域伝割愛の背景
 このように、遥かな大海カスピ海岸まで達した後、後漢西域都護は、名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略の目立つ、范曄「後漢書」西域伝を越えて、同時代西域事情の最高資料とされています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。恐らく、後漢撤退後の西域は、貴霜の掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は、一切記録していないのです。
 ということで、結論として、魏志西域伝は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく、建設的な提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、倭人伝は中国正史であり、中でも、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、国内古代史論の邪魔になるからと言って、根拠の無い誹謗を大量に浴びて、汚名を背負い込まされ、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ柄杓を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。

 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると、「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。

 倭人伝には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書いていないわけですから、人は、自身の思いを仮託しているのです。

 本論著者は、論者の思いには入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 1/5 前置き

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05            2021/11/01

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。別の批判記事では、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのですが、本件は、敬意を抱きつつ、批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。

 塚田氏は、「魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していく」のに際して、造詣の深い国内史料に基づく上古史論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点とずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりのずれが避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、倭人伝の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、背景説明に手間を惜しんでいません。

 どんな人でも、知らないことは知らないのであり、自分自身で考えても、倭人伝の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を倭人伝に限り、範囲を道里里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。
 批判するだけで、失礼、冒瀆と憤慨する向きには、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は「三顧の礼」なのです。

 また、氏の倭人伝道里説考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、倭人伝の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、三世紀に「日本」は存在しないとの仕分けを図っています。

 そのように、論義の有効範囲を明確にしていますので、異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。
 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

*批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2  第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ一万字の力作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい。)

*免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。

 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                        未完

 

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 2/5

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05            2021/11/01

弥生の興亡、1 第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
  1、はじめに 2、邪馬台国か邪馬壱国か 3、漢音か呉音か   
 
1、はじめに
*コメント~倭人伝復権
 「倭人伝」は、日本の古代史分野では「大変」付きで著名ですが、中国文明圏で著名だったとは言えないはずです。むしろ、中国で「正史」の格段の地位にある魏志の一部というのが合理的ではないでしょうか。倭人伝論のあちこちで見かける「曲筆」に加担されているのでなければ幸いです。

*范曄「後漢書」談義
 また、直接、間接の贔屓の引き倒しにも気をつけたいものです。今日言われる「後漢書」は、史料評価の際には、范曄「後漢書」と特定して呼ぶべきもので、南北朝「劉宋」代に范曄によって編纂されたものですが、当然ながら、范曄「後漢書」は、後漢朝で保管されていた古文書に基づく一次編纂でなく、先行する「後漢書」類の上に立った総集編纂だったのです。

*先行史書~袁宏「後漢紀」
 先行史書の中で、高評価を得て温存されたのは、比較的早期、東晋代に、に上申された袁宏「後漢紀」であり、後漢献帝が編纂を命じた「前漢紀」の簡潔、精選の方針を継いで、質実剛健の史書として、合わせて「両漢紀」とされ、范曄「後漢書」と併存し、かなり良好な状態で全巻健在です。
 ということで、早くは魏代に編纂された七家とも八家とも言われる先行「後漢書」を、集約、整備したのが范曄なのですから、魏志と異なり、洛陽の公文書庫が健在な時代にそこから取り出した史料でないのです。
*不明な范曄「後漢書」東夷列伝出典
 但し、豊富な記録が残っていた西域伝は別として、東夷伝素材は量的に乏しく、後漢末期、東夷管理不調と見られる桓霊献帝時代史料は、元文書、楽浪帯方両郡の報告が洛陽鴻臚にとどいていなかったらしく、先行後漢書類に東夷列伝は、類書所存の断片のみで、信じられないものです。
 ということで、東夷伝の元史料としては、魏代に現地、遼東郡や楽浪、帯方両郡から接収された現地資料を、魏代に史官を務めたと思われる魚豢が、公務の一環として私撰した魏書稿「魏略」にしか残らなかったようです。
 冷静に考えればわかるように、范曄の「東夷列傳」は、出所不明の史料に基づいて編纂した模様であり、魏志を利用したと見るのは、早計です。後世人の盗用糾弾も確証なしでは、誣告に過ぎず、断罪は不適切なのです。
 一度、情報源を再確認することをお勧めします。
*コメント~「ふるさと」邪馬臺国
 氏は、非正統的な呼称を起用しますが、普通、「北九州」は、現存政令都市を連想させるので、古代史論者は避けているものです。また、「大和」は、後世行政区画なので奈良盆地全域と見られるので避けられているものです。氏が、特異な印象付与が目的でない限り、「九州北部」、「畿内」と称して、余計な連想を避けるべきです。
 ついでながら、「日本古代史」談義ならぬ三世紀談義に、後世地名や政治概念を持ち込むのは、読者に誤解を植え付けかねないので、心ある論者は、時に、あえて直感的に理解されないように懸命に言葉を選んでいるのです。

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 3/5

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05            2021/11/01

*奈良県と大和
 塚田氏の郷土愛は尊重しますが、現実の奈良県は、奈良盆地が北の半分で、南半分は広大な山林であり、「大和」と「奈良県」を同一視するのは、無理のように思うのです。塚田氏の地名感覚の曖昧さを憂うのです。

 郷土愛の口を挟まれてご不快ではありましょうが、用語の選択にご再考を望む次第です。

2、邪馬台国か邪馬壱国か
*コメント~文書形式論義
 まず、倭人伝ダメ出しの定番を言うと、「倭人伝」は、中国で言う「書」、現代風の「本」ではなく、古代史で言う「条」、つまり、単なる一部分に過ぎないのです。用語の混乱を戒める苦言であり、謙虚に受け止めるべきです。

 現存史料の小見出しについての論義で、「古く」は、と言うのは、恐らく紙以前、短冊状の簡牘条を革紐で連ねて、巻物にした形態が念頭にあるのでしょうが、その場合、小見出し行は一条占拠するので、厳に避けたでしょう。

 元々は、巻物減量のために、小見出し以前に、改行も極力控えていたのです。魏志巻物は現存していませんが、各種遺物の有り様を見、実際の巻物製作の手順を想定すると、そのように考えるのが、合理的と思えるのです。

 魏志に「倭人伝」のような小見出しが付いたのは、恐らく、簡牘巻物から紙巻物に、そして巻物を解して冊子とした時代を歴た「北宋」代でしょう。

 伝統的に重厚な巻物を廃して、歴年の耐久性に疑問のある紙冊子にしたのは、ページ単位で木版印刷する「製本」工程に合わせたのでしょうか。

*冊子形態の発祥
 北宋代に初めて木版印刷された「刊本」魏志は、持ちごたえのある簡牘巻物三十巻から、薄手の冊子三十冊となり、倭人伝は第三十巻末尾に位置する数ページに収まったのです。

 巻末は、裴注補追の魚豢「魏略」西戎伝であり、魏志「西域伝」は空席なので、「魏略」西戎伝は、魏志「東夷伝」~「倭人伝」の末尾と言わざるを得ないのです。

*北宋刊本の意義
 北宋代の印刷本「北宋刊本」は、帝室所蔵の原本の忠実な複製、つまり、完全に同一の魏志が、数量限定、配布先厳選とは言え、全国に配布・支給されたという画期的なものであり、各地では、配布された完本をタネに、多数の写本が起こされ、それまでの「野良」写本が駆逐されたのです。

 さて、現存有力史料「紹熙本」と呼ばれる、現代風に言う「版」は、恐らく、旧蜀漢領 成都近郊の蔵書家が、北宋「刊本」から独自写本を行う行程で、恐らく分担写本の手違いを防ぐために、タネ本の上部空白部に朱記したものが、本文に取り込まれたもののように思います。実は、南宋刊本のもう一つの「紹興本」には、小見出しはないので、小見出しは、特別な例外とみるのです。

*「紹熙本」の意義
 因みに、「紹熙本」の印刷本が「出版」できたのは、皇帝の代替わり改元後で「紹熙」刊本ではないとの異議がありますが、「紹熙本」は、紹熙年間で原稿校正が完了した確定稿を指すのであり、紹熙年間に確定した「版」として、「紹熙本」と呼ぶのが適正と見る提言があり、過去、「紹熙本」と言い慣わされていた由来と思われるので、場違いな異議は却下した方が良いようです。

                                未完

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05            2021/11/01

*「倭人伝」の意義
 最後に念押しすると、「倭人伝」談義は、現代人が論じているものなので、「倭人伝」を「倭人伝」と呼ぶことに罪悪感は必要ないのです。「倭人伝」を「倭人伝」と呼ばないで、「三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」と「正確」を記するのは、素人目にも見当違いと見えます。素人目には、何が「正確」なのか、とんとわからないのです。

*コメント~時代観への異議
 氏の「三国志」観には、「俗説」に影響された勘違いがあるように思います。

 まずは、陳寿が編纂したのは、表向きは魏の歴史であり、漢の正統を継ぐ天子に叛旗を翻した勢力の歴史を収容したとの建前です。東呉と蜀漢には、皇帝はなく、皇帝本紀もないから、魏の歴史しかないのです。
 後年、曹魏が漢を継承したとの見方が退潮して、「三国志」は、魏呉蜀三国国志が併存しているとの見方が台頭し、遂に、「三国志」に、魏国志、呉国志、蜀国志が併存している見方になったのです。陳寿が編纂したのは、晋に先行した魏の国史とされ、陳寿の目論見は表面化していなかったのです。

 蜀は「漢」と称し、漢の正統を継いで北の反乱分子を制圧する「北伐」を企て、西方の関中に「官軍」を送り込んだので、魏軍の戦死者は多く、曹魏で諸葛亮は極悪人として恨まれました。そのような視点は、魏の官僚であった魚豢の編纂・著述した「魏略」の佚文に認められるそうです。

*蜀志、蜀書の由来
 陳寿は、曹魏以来、蜀を反乱分子と見た晋朝で蜀志を遺したのです。

 国史「呉書」が整った東呉と違い、蜀には、国史が編纂されていなくて、公文書にも脱落が多く、陳寿が蜀書を実質的に編纂した深意は明白です。

 先に触れたように、それぞれの国史は、それぞれの史官が公文書を集成/編纂した国史稿があれば採用しましたが、蜀史稿は未整備であったため、遺臣を糾合して蜀志稿の編纂を進め、多大な労力を費やしたことは想像できます。

*史官の務め
 氏も誤解していますが、三国史編纂は、史官なる記録者の職業倫理を遵守して、公文書史料をもとに編纂するのであり、野史の類いは、史料批判によって確認した上でなければ採用しなかったのです。また、史官は、文筆家ではないので、自身の個性は廃したのです。ご理解頂くようお願いします。

*陳寿像の再構成
 世の中には、史官には、職業としての倫理も信条もない、気の向いたように書いていただけだと、とんでもない断言をしている方もありますが、そういう方は、中国文明を甘く見ているとしか言いようがないのですから、ご自身の器で、見繕わないようにお願いしたいものです。
 よく言えば、そのような史官像は、実は、論者の自画像です。

 つまり、陳寿の信条は、勝手な想像力を排し、史料をもって語らせる、述べて作らずという鉄則に従っていたのです。思うに、陳寿は、献帝が、厖大な班固「漢書」に不満を持ち、国史としての核心に絞った、「春秋」回帰を試みた編纂を命じた荀悦「漢紀」に範を得ていたのかも知れません。

*免責のお願い
 ご多分に漏れず、二部にわたる塚田氏のサイト記事「批判」は、「批判」を口実に、個人的な感想を気ままに述懐したものであり、別に読者に押しつけるものではないので、一読後、シュレッダーにかけても、何も問題はありません。(童謡の「ヤギ」さんのように、このお便りを「読まずに食べ」られては淋しいのです)

                                未完

新・私の本棚 新版 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 サイト記事批判 5/5

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第一章、邪馬台国か邪馬壱国か
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05            2021/11/01

*引用
 岩波文庫「魏志倭人伝」所載の、「後漢書倭伝」(范曄撰。唐章懐太子賢注)原文影印には、次の文があります。(百衲本)
   大倭王居邪馬臺国 (案今名邪摩惟音之訛也)

*コメント 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論
 以下、氏の展開される「邪馬臺国」「邪馬壹国」論は、後世人の好む「こじつけ」が見られず貴重ですが、やはり、確証の乏しい「作業仮説」と見られます。

*范曄「後漢書」批判
 史官でなかった笵曄の職業倫理は不明ですから、先行後漢書に見られない「東夷列伝」に、風評や民撰史料、野史を採用した可能性があります。
 稀代の「秀才」(後漢代は、光武帝劉秀に遠慮して、「茂才」と僻諱したもの)文筆家故に、資料の不備を、創作で補う誘惑に勝てなかったのかと見られます。とかく、范曄「後漢書」は、当時として新味のある流麗な筆致と評価されますが、反面、史料の史学的解釈には難があったと見えます。笵曄は、史官として訓練を受けていないため古典書素養が不足した可能性もあります。

 そのような弱点は、范曄後漢書に先行する袁宏「後漢紀」や魏志に補追された魚豢「魏略」西戎伝と比較校正すれば、ある程度明らかになります。

*後漢書誤写説
 いや、当業界で定番の「誤写」必然説に従えば、「だれも見たことのない」范曄「後漢書」に「邪馬壹国」と書いていなかったと断言はできないのです。
 范曄「後漢書」は、編者が大逆罪で斬首刑にあった後、完成/所蔵していた確定稿がどのように継承されたのか不詳です。衆知の如く、三国志は、陳寿没後、確定稿が皇帝に上申され、以後、帝室書庫に厳重に保管されて、改竄/差し替えは不可能ですが、潜伏時代の後漢書稿の保全状態は不明です。
 三国志に改竄、誤写疑惑を投げつけるなら范曄「後漢書」も同様でしょう。

*コメント~事実誤認と史料批判の手違い
 古田氏所説の批判に関する事実誤認は明確なので書き付けますが、古田武彦氏の著書は『「邪馬台国」はなかった』です。書名は、魏志に「邪馬台国」はなかったとの主旨で、范曄「後漢書」には言及していません。氏が自認されるように、うろ覚えで当否を論じて読者に伝えるのは罪なことです。

 また、氏も認めている確たる「東夷伝」に対して、相対的に不確かな范曄「後漢書」の片言を持ち込んで論じているのは、史料考証の段取りとして疑問です。

*圏外資料除外の弁
 以下、豊富な国内史料を導入して、幅広く論じられていますが、素人目にも信を置けると立証されていない「後世資料」は、論義を限定する目的で、当方の「倭人伝」考証の立場では「門前払い」ですので、ここでは論じません。

《原文…立卑弥呼宗女壹與年十三、為王。国中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫……送政等還。因詣臺献上…
《范曄後漢書… 其大倭王居邪馬臺国(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里
 以下、「圏外」議事省略。
 詳しくは、第二章批判を確認ください。

                                完

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