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2021年11月18日 (木)

私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 3/6

 先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」    2021/11/18 補記 2021/11/30

①倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
 古来、中国人の地理観は、「世界」の四方には、幽冥境である「海」があり、その四海に囲まれて、広大な中原世界があると見ていたものである。殷周代に始まり、秦漢時代の話なので、「世界観」の「世界」、あるいは「天下」は、三国鼎立時代の東呉、蜀漢の長江(揚子江)流域は、半ば圏外であり、河水(黄河)中下流域が対象だったのである。(居住困難な河口部は除く)
 従って、ここで言う「国邑」は、せいぜい東周春秋時代に中原を埋めていた諸国の国家形態でなく、中原に、隔壁で野獣や侵略者から防衛した農村聚落が点在していた時代を想起させるものなのである。中国古代史で、そうした国家形態を、ギリシャ古代史の用語を流用して、「都市」国家と呼び習わしているが、それでは、後世の戦国諸国を想起させそうなので、個人的には、「国邑」は、「農村隔壁聚落」と呼びたいのである。(全体を書き上げて気づいたので、ここにお断りしておく)ちなみに、「都市」は、倭人伝では倭人大夫の役職、ないしは、苗字と見えるので、注意して使う必要がある。

*西域の果て~余談  
 その「四海」の中で、早々に踏査が及んだのは「西海」であるが、周知の通り、その西の果ての実態は知られる事がなかった。
 次第に到達範囲が伸びるにつれて、「西域」が広がって、漢武帝代には、一行百人とされる使節団が、長安から万二千里の果ての「大海」カスピ海に臨み、同地を支配していた「安息国」から、大海の対岸を越えた、更なる西方世界の風評を耳にしたのである。
 「安息」(Partia)は、当然、中国の「文化」に浴していなかったが、中国文化の根幹となっていた簡牘縦書きの文字とは別に、皮革紙に横書きする文字を有し、文書統治による「法と秩序」を確立し、金銀銅貨の通用する広域経済体制を持ち、その「王都」は、荒れ地を含む高原地帯を経た西方数千里の彼方にありながら、宿場の整備された街道網でつながっていて、王に対する書面報告に対して、たちどころに指示が下る文明大国だったのである。
 つまり、漢武帝の使者は、西域の更に西の果てには、漢帝国に匹敵する威容を誇る王国が存在するのを知ったのである。その認識から、西域諸国に許さなかった「王都」の尊称を与えたのである。
 何しろ、安息は、東方国境に二万の守備兵を常備した大要塞都市を構え、獰猛な大月氏を迎えた貴霜(クシャン)騎馬兵団の奇襲再来に備えていたのである。
 このあたりは、陳寿の参照した司馬遷「史記」大宛伝、及び班固「漢書」西域伝記事の要約であるから、やや道草であるのをご容赦頂きたい。

 因みに、漢武帝の国使は、安息国の王都を訪問せずに、つまり、国王と面談せずに帰投しているのである。但し、不定施設と言っても、恐らく、西域都護に相当する高官が渡西しているのであり、言わば、「全権大使」なので、安息長老という「全権大使」と面談し、「国交」を築いたのだから、別に不法な対応では無いのである。ちなみに、漢書「西域伝」は、安息国に「国都」を認めているので、いわば、「敵国」(漢と匹敵する大国との時代表現)扱いで、格別に尊重しているので、他の諸蕃夷と異なり、「国交」と呼ぶに値するのである。

*東海未踏~余談
 当時、「大海」は、内陸塩水湖である。ただし、存在したのは、もっぱら西域である。(長江流域に存在する湖水は、全て淡水湖であった)
 比較的早期に知られていたのが、当時、楼蘭王国が湖畔に佇んでいた「ロプノール」である。「ロプノール」の遥か西、「カスピ海」に臨む安息を漢使節が始めて訪問したのは、漢武帝代であり、以後、後漢代史料に散見されるだけだから、具体的な地理知識は、長安ならぬ洛陽の官人には、さほど伝わっていなかったと思われるし、まして、東夷と接する遼東郡関係者の知るところではなかったように思われる。

 とは言え、倭人伝の「大海」は、裏海(カスピ海)の「風評」を参照して書いているものと見える。長年、会稽東方に広がる「海」に阻まれて、その東方の世界の実態を知る事が無かったのに対して、倭人伝は、青洲対岸海中の山島、韓国を経由して、其の南の絶島に「倭人」を「発見」し、意気揚々と洛陽に報告した史上空前の夷蕃伝だったのである。

 そのように推定すると、「郡から万二千里」の表記は、西域諸国の「長安から万二千里」が途上諸国への道里を積算した、言わば、実測値を踏まえたものであったのに対して、単に、「絶海の孤島」観を示したものであり、それが、当時の皇帝に上申され、皇帝の御覧を得たので、以後、神聖不可侵文書になってしまったようである。

*地理観の確認
 本題、つまり、倭人伝の文書考証に戻ると、倭人伝の地理観では、この「大海」は、中原人にとって既知の韓国西の「黄海」の一部ではない。つまり、当記事が書かれた前提は、韓国東西の「海」と韓国の南の「大海」が海続きとの認識はなく、廻船往来は予定されていないと解釈される。
 ここまで短い行文であるが、史官の躍動する筆により、脇道に逸れない歯止めが、がっちり打ち込まれているのである。

 因みに、東夷伝には、半島の東方に「大海」ありとの記事が見られるが、倭人伝は、帯方郡の地理観、つまり、「韓国」を越えた南方に「大海」があるとしていて、韓国の東の「海」と区別しているので、両者には関係無しと見るべきである。

②舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
 「倭人」が、全くの野蛮人でなく楽浪郡と交信があったと紹介している。それ以外にも、後漢初期の来貢記事もあるから、倭人伝が初見に近い書き方をしているのは、後漢代公文書から、「倭人」に関する予備知識は引き継がれていなかったという事だろう。
 念を押すと、笵曄「後漢書」の後漢初期の「倭」記事は、洛陽の帝国書庫に保管されていた後漢公文書に由来していて、陳寿も、関連文書を参照しているので、笵曄「後漢書」とほぼ情報源が共通しているはずである。

③從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
 七千里に始まる千里単位の概算道里の趣旨は判然としない事を、先ほど述べたが、深入りすると余談が際限なく長くなるので、当記事では触れない。(すでに「短里制度はなかった」と別稿で断じている)判然としない事を、個人的な見解で判然とさせるのは、史料解釈でなく、二次創作なのである。
 慎重に読めば、馴染みのない「循海岸水行」は、字義からも、「海岸」海の岸辺から「水行」すると見えるが、当然、一路沖に行くのであり岸辺を陸に沿いに行くのではない。この点は、常識的事項なので、深入りしない。

 ゆっくり読み解いていくと、「到其北岸」の「其」は、中原人常識の川岸でなく直前の「海岸」を示すものであり、当然、「海」は、韓伝に戻った西の「海」でなく、その手前、倭人伝冒頭に書いた「大海」を示すものである。外部資料、古典書を参照しなくても、「従郡至倭」行程が、郡を発した後、「一路」街道を進み「大海」北岸、「狗邪」の岸辺に着いた、と迷わず読み取れる仕掛けである。

 以上は、これまでの諸兄の論考に余り見かけないが、別に、本稿は、奇をてらって新解釈を述べているものでなく、これまで見過ごされていた、中国古文書に「普通」の解釈を提起しているだけである。

*国境の邑~余談
 以下、推測にわたるが、常識的には、交易船が対海から北上上陸する海港には、対海の倉庫や漕手宿舎があり、財貨保全のため、武装兵士が詰めたはずである。
 同様に、常識的には、狗邪韓国は、帯方郡要地であって吏人と兵士が常駐し、通行許可のない者の侵入を阻止し、通商者から関税を取り立てたはずである。
 つまり、狗邪韓国統治者は、対海国と深い連携を確立していたはずである。

 ここまでの勢いに任せて、狗邪韓国は倭の北限と見たいところであるが、狗邪が倭王に臣従、服属していたら、対海国以降の四カ国と同様に、戸数や官名、風土が書かれていたはずであり、また、韓国領域南端の国が明記されるべきである。やはり、狗邪韓国は、弁辰の一員「弁辰狗邪国」である。

*弁辰鉄山考察
 帯方郡は、倭韓穢の郡内鉄山採掘を許し、また、産鉄を両郡に納入させた。詳しく言うと、郡が置いた鉄山監督者が、近隣の三勢力に指示して採掘と輸送を運用したのだろう。東夷には、漢銭が通用しなかったから、採掘料は労力奉仕と現物納入で「徴収」していたのだろう。

 言うまでもないが、鉄山から両郡に至る「道路」は、帯方郡が設け、韓の諸国が維持した「官道」であり、人馬の列を擁する如く、宿駅、関所を備えていたのである。かつ、運送の手段であるから、当然、陸上街道によって、最短経路、最短日程を確立していたのである。

*韓地陸行の話~余談
 もし、両地の間を、長江のような大河が滔々と流れていて、大した傾斜が無いのであれば、川船に帆を立て、人馬を労せずにゆるゆると「水行」したと思われるが、両地の間には、山地が介在していて、河川は、水源に近い上流(上游)では、渓谷を蛇行する激流となり、川船の運用ができないし、山地の鞍部を越える際には、多数の人馬を動員する事から、「水行」扱いはできないのである。こうした上游の形勢は、日本列島の河川でよく見かけるものであるから、半島の形勢は、別に現地を実見しなくても、容易に推察できるのである。

 因みに、今日、広く参照されている「Google Map」の3D表示を利用すれば、現在の現地形勢を見る事ができ、「推察」がほぼ的を射ていることがわかるのである。

*不朽の新羅道~余談
 「圏外」資料による余談であるが、唐代に半島を統一した新羅(シラ)は、王城「慶州」(キョンジュ)を発した国使が大唐長安に詣でる経路を整備していたが、それは、半島東南部から北上し、小白(ソベク)山地の難関を竹嶺(チュンニョン)で峠越えした後、下山して西に唐津(タンジン)に出て、山東半島青州に「新羅船」で渡っていたのである。この経路は、新羅が国威をかけて整備したものであるが、もともと、新羅が半島西岸に進出した際にも重用された軍道であり、慶州から漢城(ソウル)に至る官道でもあったのである。

④始度一海千餘里至對海國
 最前、倭人伝は、「渡海」を「水行」と言うと宣言したとしたが、狗邪にいたって、始めて「大海」の海岸に出て船旅に直面し、対海国に至るのに際して「始めて海を渡る」と明記しているので、話の筋が明快である。
 「一海」としているのは、洛陽人が、報告された現地形勢を読んで、三度の渡海の「大海」が、一つの「大海」なのか、別の「大海」なのか、確定できなかったもののようにも見える。

 もちろん、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、公式道里として千里で十分だったのである。
 何しろ、万二千里の全体道里の一部である千里単位の概数であるから、適用できる里数は、千里、二千里と飛んでいて、千里に決まったも同然なのである。言うまでもないが、万二千里の中で、百里単位は桁違いで不適当なのである。

⑤其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里
 「絶島」は、海中山島でも、中原で常識の「半島」でなく、四方を海に囲まれていると明示しているのである。
 ちなみに、朝鮮/韓国が、遼東から南下している半島であることは、太古以来知られていたが、山東青州の春秋戦国斉国人や魯国人は、朝鮮/韓国を、目前の海中山島にあり、筏で気軽に渡れる対岸の東夷と見たようである。

*「方里」の闇
 「方四百里」は東夷伝独特表現で、他史書にないのは無論として、三国志全体でも、特定政権領域の地理情報を特定する表現ではない。先の高句麗、韓国で突然起用されたが、由来も意味も不明である。
 案ずるに、この「里」は、「道里」と連携していない別種の単位であり、趣旨不明では、いくら願っても論拠とできない。当面、これで十分として、論議から除外するのである。
 いや、別史書に、東西、南北、それぞれ四百里と書いていたら、これは、「道里」の「里」で、余計な解釈の余地はないのである。ただし、万二千里の全体道里の説明で、部分道里に百里単位の里数は、本来、場違いなのである。 

                                未完

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