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2021年11月 1日 (月)

新・私の本棚 新々 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 サイト記事 16/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10

*誰の報告
 言うまでもないですが、ここで言うのは、言葉が通じる者達であり、当時、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの年齢は、当然わかるはずがありません。当時は、幼児や小児のなくなる例が多かったので、現代風の寿命観は、無効と思うのです。

*場違いな引き合い
 倭人は、アンデスやコーカサスを知らないので、不意打ちで持ち出されても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので、倭人伝の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。

 私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に、最小限に留めるべきと信じているものです。
 そうでなくても、世上、俗耳に訴える新書類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで躓いて転んでも、書いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、長く貴重な史書として珍重されていたのですが、完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用が残っています。
 ただし、魏略「西戎伝」は、全くの例外です。陳寿が、意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」の代用として、注釈無しに、丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完璧な状態で、完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 因みに、魏略「西戎伝」は、実質的に後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に幕府を開いた西域都護の活動を記録しています。後漢西域都護は、最盛期には、都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の安息国東部都督(に等しいもの)に、副官甘英を使節として、百人規模の大使節団を派遣しています。

 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞に常設していましたから、西域都護は、しばしば反抗する大月氏(貴霜国)を、共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は、成立しなかったようです。

 因みに、安息国は、西方の「王都」「パルティア」がメソポタミアで繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、四万の常備軍をおき、侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方で、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国は、商業国であり、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、ギリシャに度々侵攻したのと、「国是」が異なっていたのです。
 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*魏志西域伝割愛の背景
 このように、遥かな大海カスピ海岸まで達した後、後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略の目立つ、范曄「後漢書」西域伝を越えて、同時代西域事情の最高資料とされています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、大月氏の遺産である騎馬兵団を駆使する、貴霜の掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は一切記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、西域伝は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。要するに、西域伝を書くと、曹魏の無策を書き出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく、建設的な提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、倭人伝は中国正史の一部であり、中でも、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、国内古代史論の邪魔になるからと言って、根拠の無い誹謗を大量に浴びて、汚名を背負い込まされ、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ柄杓を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。

 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると、「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。

 倭人伝には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを仮託しているのです。

 本論著者は、論者の思いには入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

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