私の意見 「倭人伝」~最初の五百五十字、最初の修行 4/6
先を急がずに、最初に読んでいただきたい「おはなし」 2021/11/18 補記 2021/11/30
⑥土地山險多深林道路如禽鹿徑
高句麗傳と同様、農業適地が乏しい、税を緩和してほしいと切実である。
「道路如禽鹿徑」とは、整備され幅員があって牛馬運送ができる「道路」と異なり、この径(みち)は、急峻で狭く牛馬通行困難な抜け道で、対海国中央の峠越えの間道と見るべきである。ただし、ここ以外の街道は、全体として市糴のみちで「道路」要件を満たすべく整備されていたのである。東夷の辺境であるから、馬車が対向できる官道であったとは思えないが、ここに書かれているのは、最低限度を示したとみるべきだろう。
*「禽鹿径」談義
倭人伝は、中原人視点であり、当然の事項は書かないが、「禽鹿径」が「けものみち」かどうか、当然の評価か誇張か、よくよく調べなければ、趣旨不明と言うべきである。
この表現(片言)から、韓地街道がすべて「けものみち」と短絡的に即断した論者がいる。郡管轄下、国主が労役動員し、宿賃関税で道路整備するから中国文明は侮れない。まして、野獣跳梁が放置されるものではない。
宿場を備えた街道は、文明の証しである。
*地域輸送事情の示唆
当時、倭地、つまり、末羅国以降の地続きの領域といえども、牛馬による運送はなかったから、荷運びは、頭の黒い「痩せ馬」が、背負ったのであろう。大抵の荷は、小分けできるようになっていたから、近郊の農民まで呼集した人海戦術で運んだものだろう。米何合かを渡せば、みんな喜んで運んだろうから、別に「銭」も要らなければ、強制労働も要らないのである。
中原では、恐らく、秦始皇帝の統一行政以来、全国で官命による荷運びが規定されていて、宿場間の里程と標準日程を基準とした運賃が制定、公布されていたが、それは、街道沿いに輸送業者が組織されていたから、運賃協定が締結できたと言う事であり、街道輸送は、牛馬や車輌を随時駆使し、また、宿場ごとに担い手(牛馬と人)が交代したから、千里の輸送も所要日数が保証されたが、倭地は、魏制で統治されていなかったから、魏の国家制度は通用しないのは当然である。
*「インフラストラクチャー」談義~余談
国家制度の前提、基礎となる要素を確認すると、道路整備のような物理的なものや輸送業者組織のような社会的なもの、つまり、合わせて、 社会の基本構造となっていた「インフラストラクチャー」が存在しないから、中原の常識は、全く通用しない。陳寿は、そのような机上の空論が起こらないように、ここでも、慎重、端的に布石したのである。
因みに、「インフラストラクチャー」の概念は、当時、西の大国「ローマ」で常識だったという事なので、それほど時代錯誤でもないと理解いただきたい。この点は、塩野七生氏の「ローマ人の物語」で学んだものである。
広域行政の前提として、文書管理も必須であるが、ここでは深入りしない。
⑦有千餘戶
千戸が戸籍登録され、戸籍と土地台帳に従って耕地をあてがわれ、収穫物を税衲し、労力奉仕し、兵役に応じ、対海国を支えていたのである。
戸数を提出するとこは、服属の証しであるから、本来、憶測で数字を述べるものではないが、千戸程度ですと概数を述べておけば、大けがはしないだろうという思惑のように見える。この際の個数は、戸籍から実数を積算したものでなく、概数で国力を申告したのであるから、千戸単位なのである。
⑧無良田食海物自活乖船南北巿糴
「良田」は、灌漑の行き届いた農業適地(水田と限らないのが、中国語である)で課税対象である。千戸には千戸分の収穫が必須だが、「税衲どころか生存困難で、餓死者続出のところを海産物で食いつなぎ、交易で、細々と食い扶持を稼ぐ」と「泣き」である。
実際は、一大国は、海産が豊穣であり、對海國と違っても四方の海上交通の要地を占めていたから、交易収益も潤沢だった筈である。「泣き」は、前段同様免税狙いの誇張作戦である。
⑨又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
この渡海を「瀚海」と銘打っているが、既に述べたように、洛陽人は、三度の渡海で越えた「大海」が一続きではないのかも知れないとこの部分で疑問を感じたものと思われるのである。
私見では、この命名は、西域の広大な砂漠の眺めになぞらえたものと思われる。要は、海面が綾織りに見えたと言う事ではないか。
既に述べたように、渡し船の経路は測量できないが、一日を渡海に当てるので、概数申告としては、千里で十分だったのである。
⑩官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
官は、女王直属の「置官」とも思われる。
*「方里」の闇 ふたたび
何度でも言うが、「方里」は意味不明である。道里ではないので、農地面積の表現ではないかというのが、当ブログ筆者の意見である。但し、用例が乏しいので、どんな出旬で推定したのか不明なのである。
まことに不思議なのだが、以後、「方里」表現は出てこない。投馬国あたりで国勢の指標として起用されそうなものなのだが何もない。
⑪多竹木叢林
中原と比して、温暖多雨で植生が豊かで、熱帯性の竹林もあると明記している。
⑫有三千許家
戸でないのは、服属したが戸籍未提出のためと思われる。女王統治不備である。
⑬差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
食料談義は、多少農地(田地は、水田とは限らない)があっても、山島の宿命で、対海国同様、食に不自由しているからとの「節税」意図に基づくものと思われる。当時の両島の食糧事情は、知るすべがない。
⑭又渡一海千餘里至末盧國
渡し船の経路を測量するはずはなく、一日を渡海に当てる趣旨で、百里の道里と見立てたのである。実測に基づく概算ではないので、現代の地図上で絵解きしても、何の役にも立たないのである。
⑮有四千餘戶
単なる上陸地にしては国主居所たる国邑の戸数が多いが、冒頭の国邑仮説は綻びていたかもしれない。あるいは、一カ所百戸の国邑が四カ所あったと言う事かも知れない。わからないことはわからない。
⑯濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
街道は、草木が通行の妨げにならないように頻繁に手を入れるが、温暖多雨で、切っても切っても生える草木は、魏使にはむしろ感動的だったと見える。それにしても、この風景も、たまたまであることは言うまでもない。未開とは、文字がないことを言うのである。
*沈没談義~余談
「海」を「水」と誤記したのは、帯方郡語法と見える。「沉沒」は古代中国語なので、上半身まで浸かる意味と思われる。当時も、「泳」で泳ぐことを言った可能性はあるが、潜水がどうだったか調べが付いていない。ただし、中原人は「金槌」で水を避けた筈であるし、もちろん、公用の官吏が、街道を行かずに、橋も渡しもない川を泳いで渡ることは、あり得ない。
⑰東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚
ことさらの「陸行」は、限定的「水行」が完了した念押しと見える。末羅国以降の百里単位の里数は、全行程万二千里をはじめとする一千里単位の概数表記と桁違いの端(はした)である。千里単位で、しかも、大まかで、千里と七千里しかない飛び飛びの概数里数に、百里単位の里数は大勢に影響しないから、数合わせの些事にはこだわらない事である。
因みに、この五百里は、主要行程の記事を完稿した後、つまり、後日の書き足しと思われる。書かれているのは、恐らく実測だろうが、それが「行程」里数に見合う「短い」里であったとしても、官制で定まった「普通里」(450㍍)でない里を、あえて使用した由来も趣旨も不明で参考にしかならない。
方位共々、当記事では深入りしない。
未完
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