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2021年12月

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年12月28日 (火)

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』 1/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆乱調紹介文でぶち壊し   2021/12/28, 31

〇はじめに
 当書評は、課題の新潮選書の書評でなく、掲題サイトの紹介文に対するものです。(「デイリー新潮」編集部の署名記事。冒頭に、「新潮選書」編集部と署名)自社出版物の販促(販売促進 プロモーション)ですから、最善の努力で、本書の内容を紹介する記事を書いたものとして批判しています。
 著者は、『「古事記」研究の泰斗であり、また「出雲神話論」等の著書でも知られる』との紹介ですが、取り敢えず「日本書紀」不見識の自認でしょうか。目次の紹介を見ても、本書で中国史書の考証を試みた形跡はありません。爪を隠していたのでしょうか。

▢著作権問題
 案ずるに、当記事で紹介されている氏の所見は受け売りです。いや、何れか識者の意見に基づく提言であれば、出典が示されるはずですが、ここには注記がないので、記事全体が氏の新説となってしまいます。まことに大胆です。著作権「デイリー新潮編集部」とあるが真に受けて良いのでしょうか。
 もし、三浦氏が、他人の著作物を引用してその旨表記していないとしたら、「デイリー新潮」編集部は、第三者の著作物を、勝手に自身の著作物扱いしたことになります。是非、公式見解をお伺いしたいものです。

*「倭人伝」解釈について
 当記事は、主として、「倭人伝」道里行程記事に関して、一説を採用して、強引に拡張していますが、どんな資料をもとに議論しているのでしょうか。論ずる以上は、原文に触れるか、誰かの日本語訳の依存かとなります。
 どちらも書いていないという事は、「受け売り」となります。「倭人伝」原文に著作権は存在しませんが、近年の「日本語訳」なら、著作権が存在するはずです。まして、第三者の「倭人伝論」著作を丸写し、受け売りして、その出典に触れないというのは、もっての外です。

〇原典逸脱の罪~時代錯誤「新語」の罪
 ということで、ようやく本題に入ると、「倭人伝」に一切書かれていない「邪馬台国」を当然として進めている事に深刻な疑念がかけられます。確認すると、現存「倭人伝」では、全て一度限りの言及とは言え、「邪馬壹国」であり、「邪馬台国」は影も形もありません。そのような決め込みで本書を書くのは、まこと大胆な「創作」です。そのような「決め込み」を採用した際に依存著作があれば、その著者に責任を転嫁できるのですが、このままでは、氏が一身に原文詐称の罪を負うことになるのです。

 他にも、インチキ時代考証があって、「海の道」とか「海路」、果ては、「日本」、「ヤポネシア」など、三世紀当時に存在しない言葉が跋扈しています。というか、八世紀冒頭に成立した「日本」は別として、他の新語は、氏の造語なのか、誰かの遺言(いごん)なのか不明です。

*「助言」無批判追従の罪
 要は、氏は、「倭人伝」を正しく解釈するために不可欠な素養に根本的に欠けていて、誰か、「中国史に不自由な助言者」の不出来な提言を「受け売り」した為、このような悲惨な事態を招いたと見えます。勿体ないことです。

 氏ほど、権威を持っていると見える著者が、不確かな出典の「新説」を、無批判に担いで共倒れになっているのは、もったいない話ですが、そのような著作を買わされる一般読者には、大変迷惑な話です。いや、二千年近い古代史料に解釈について語っているから、百年前だろうが、二百年前だろうと「新説」なのです。

 選書の目次では「倭人伝」ネタは見えませんから、本書を購入して参考にするつもりはありませんが、堂々と掲示された当記事は、当ブログで解読を進めている信念と真っ向から衝突しますので、「倭人伝」解釈に於いて無謀な「新説」を唱えていると見て、全力批判するしかないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』  2/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆ 乱調紹介文でぶち壊し      2021/12/28, 31

*「倭人伝」道里記事
 ようやく本来の批判に入りますが、氏の読みは、過去百年余り、誤読者の山を築いてきた「魏使進路説」「直進解読説」を頑固に踏襲し、読み解き失敗が当然です。勝手読みのこじつけも、最初は「創意」の産物というにしても、前例通りの踏襲では、いつまで経っても「誤読」症状は治癒しないのです。

 氏は、前例、つまり、相談相手の意見を踏襲するしかできないようですが、それでも、巧妙に投馬国里程を切り離して、最終目的地を何がかんでも畿内に持っていこうとするのです。課題先送り手法は、今後、はやりそうです。

 氏は、独自の「解」を踏まえて「日本海」論を持ち出しますが、仮に、魏使来訪行程と見ても、狗邪韓国まで安全、安心な内陸行程で到着した上で、数百㌔㌘級の荷物と百人級の人員を抱えているのであり、後は、「日常の交易船として手慣れた「渡海」の繰り返しで、難なく既知の「大海」を越えて、揺るぎない大地を踏まえられる末羅国に着くとわかっている」のに、厖大な重荷を背負って、何の情報も無い前途を思い、頼りない小船で、いつ着くとも知れない試練を経て、魔物の住む(と見える)「海」を越えて、帯方郡の官人すら聞いたこともない山陰海岸に向かう気が知れないのです。因みに、山陰海岸に上陸しても、重荷を抱えて中国山地を越えるとびきりの難路が控えています。

 そのような事態は、倭人伝に一切書かれていないのです。いや、氏は、「倭人伝」が読めないのだから、言っても仕方ないのかも知れません。
 「倭人伝」の「魏使」往路としたいとの頑迷な固執さえ棄てれば、つまり、小舟で少量の荷を運ぶというのであれば、できない船旅ではないのです。

*「魏の使者は日本海側を通った?」
 これは、纏向説の悪足掻きを助ける意図でこじつけられたのでしょうが、無駄な努力と見えます。
 倭人伝道里行程記事の正確な解釈では、伊都国以降とみえる投馬国行程は、参考に過ぎず、実行程は、伊都国で終結しているから、大した勘違いです。
 まあ、聞く人を間違ったのですが、道里行程記事の決算「水行十日、陸行一月」の誤解も、一向に正されず深刻です。百年河清を待つのでしょうか。
 因みに、氏はしきりに「対馬海流」の後押しを言うのでが、巻向に行くのに好都合としても帰途は逆行であり海流の恩恵は重荷に変わります。その程度のことに気づかないとは、説得がむつかしいのです。

*論争の鏡像~情緒的自損発言
 氏は、賢そうに、『「邪馬台国」は、ヤマトに決まっているから九州説論者は、「邪馬台国」誘致など考えずに、古代史論に戻りなさい』と教授いただいていますが、当方の言い分と基本的に同趣旨で感謝します。
 つまり、『「倭人伝」の正確な解釈から出発すると、卑弥呼の居処は九州北部を出ないので、「纏向論」者は、早々に悪足掻きを止めた方がいいよ』と言うものです。
 要は、論理の裏付けのない情緒的発言を繰り返しても、鏡に映った自画像を泣き落としに掛けているようなもので、鏡に映った相手から反射的な反応があって尽きることがないので、論争解決手段として役に立たないのです。

 もちろん、氏が、「とどめの一撃」のつもりで追加されている「邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないか」という空想譚は、氏の脳内で滔々と響(どよ)めいているものですが、他人の知るところではないので、受け取るものもなく、闇の奥に消えていくだけであり、何の効力もありません。

 以上、ここまであからさまに無法でなければ、面倒な書評などしませんが、Googleニュースで紹介される著名記事は、釘を刺さざるを得ないのです。

 「新潮選書」は、無責任な与太話など刊行しないので、不審に思うものです。
                                以上

2021年12月27日 (月)

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 1/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、倭人伝に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

「唐六典」とは~Wikipediaによる (斜体は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、倭人伝時代(三世紀)から五世紀程後世であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。

*「普通里」ということ
 採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」(普[あまね]く通用する里)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺であり、当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、正確と言うものではありません。
 実務上、数百里に及ぶ測量は極めて困難(不可能)なので、今日の感覚では大雑把と思われます。また、基本の「尺」が変動しても里数は一定と見えます。土地台帳などに起用されていたので、更新しようがなかったからです。

*「水行」の意義
 ここで言う「水行」は、海岸を発する「渡海」を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り、「河川航行」であり翻訳に注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」によって、全国制度が改定されたものではないのです。
 ここで規定されているのは、整備の進んだ大河の上り下り(溯/沿流)であり、「河」は河水、つまり、黄河、「江」は江水、つまり、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、日本の大半の河川の渓流めいた流れと異なり、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い川舟も航行できるのです。

*「水行」の前提
 大河には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら、川を上下するのです。また、荒天時は、随時寄港して退避するのです。
 「水行」では、大手槽運業者の所有する大船が多数あり、地域ごとに水運業者の組合(幇 ぱん)が強力だったのです。かくして、日々の領域内の船舶の運行予定が十分徹底されていて、事故や紛争を防いでいたのです。
 そうして、川舟の一日の航行には、条件ごとに運送料が決まっていたのです。槽運業者は、船腹と船員を確保し、船荷の安全と日程を保証しましたが、船荷補償制度や遅延償金を請け負ったはずです。

*規定の起源
 「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。少なくとも、王朝の変転を越えて、少なくとも、数世紀にわたって運用されていたはずです。
 五世紀遡った未開の倭領域のように、諸制度が不備で、運行に責任を持つ水運業者も適用法もない背景で、しかも、早瀬が多く増渇水の激しい「小川」の河川水運には、適用できないものと見られます。そもそも、倭の河川に水運なるものが成立していたとは思えませんから、運賃、里数の規定はなかったのです。韓国については、帯方郡管内では、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、水運が利用されていたとしても、郡として統御していたという文献は、見当たらないのです。

*「水行」規定は、「海運」と無関係
 この唐六典規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です。数字には前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定だけですが、安定した運行が可能な河川水運と、干満などにより、寄港地ごとに中断が予想される沿岸航行は、全く異質であり、まして、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しがたかったと見えます。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、一千里と里数が明示されていて、三度の渡海は、乗り継ぎを含め予備日を設定して、十日と明記されているので、「水行」と書いても、唐六典に見られる河川水運の「水行」とは、別の独自の規定が通用していたことが明記されています。陳寿が、倭人伝道里行程記事策定にあたって、「唐六典」「水行」規定との関連を配慮していたことは確実であり、混同されないよう明記していたと思われます。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 2/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

*「唐六典」趣旨
 規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑えるため、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。
 ただし、このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、このような全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。

 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、意味の通らない「ジャンク」とされますが、実際は、随分古くから、沿岸や川筋を帆走したでしょうが、ここに規定されているような大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」<による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 なお、川船の海船転用は、安全面の要素も関係して、困難(不可能)ですが、ここでは論議しません。

 ちなみに、これら大河の中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世になっても、橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)で渡船に乗り渡河するのです。ただし、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼っていたというのは、現代になって自動車交通が普及しても、各地に残っていたのであり、例えば、オーストラリアのシドニーでは、長く渡船(フェリー)による連絡交通が残っていました。

*時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」の規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明の域外である「外国」、魏志倭人伝の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝関係者からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のものであり、参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情が違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。

 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外すのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。前期の遣唐使は、「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後は、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など、海上を行くのは極めて短期間で、したがって、荒天も避けられた行程だったので、随分、随分危険が少なかったのです。安全な「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、倭人伝専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
29(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢 」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは荷車が重いためでしょう。特に、登り坂になると、負荷が途端に大きくなるためでしょう。
 「」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、疾駆させる軍用に貴重なので、荷役用には、専ら「驢」を利用したのです。いや、荷役は、ほぼ、大人しい驢馬の担当に決まっていたのです。
 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)ないしは「驢」の荷は、二人で分けていたようです。
 最後に、例外規定として「小舡」が書かれています。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。
 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。何しろ、全国制度から見たら、はしたのはしたですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」には、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然必要不可欠だったのですが、はしたなので、里数には数えなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 3/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢倭人伝解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、倭人伝解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に、「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。同時代に存在しない概念に基づいて同時代を語るのは、個人的空想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。
 また、官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。

 沿岸航行が、安全、安心だと思う人は、一度、生まれなおしたつもりで考え直してほしいものです。

 当然の結論として、三世紀、官道に「海路」はあり得ないので、後世の「唐六典」に規定がないのです。(正史記事にも、そのような記事は無いのです)

*半島内陸行の話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」と書いたのは、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」しているのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。
 この間の空白を、現代日本人だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが、過去の里程論の大半です。
 素人考えでは、里制論の混迷の主因は、そこにあると見るのです。

*あり得ない沿岸の旅
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間の「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な規定となり、倭人伝道里記事の用をなさないのです。況んや、空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったのなら、陳寿が、異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地なので、陸行しかできないのです。実行不能です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、倭人伝記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。
 苦心が凝縮された定義の真意を見落として、「沿」海岸水行と読み替えているのが、通例の誤解です。

*「従郡至倭」の深意
 そういえば、素人目には、書き出しで「自郡至倭」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」との形容にあると見えるのですが、これも、しばしば見過ごされています。
 後段で「自郡至女王國」萬二千餘里と書いているので、違う形容を採用した、「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点を書いているだけではないと見るものです。
 史官の寸鉄表現を、はるか後世の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。
 素人考えの結論として、倭人伝は半島半周を謳ってないと見えるのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、倭人伝限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で、説明不要と言う趣旨です。

 後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。
 決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度陸地の形状を認識していたとしても、それは、中原知識人の認識の限界を超えているので、陳寿が書き上げた倭人地理観には入っていないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭」万二千里道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した実務本位の記事です。
 
しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。

 古代の史官は、古代史官にとっての常識に従っているのであり、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。

                               以上

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 1/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。
出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

「NHKオンデマンドで配信中」

*追記:
 当番組は、2021年12月27日に再放送されたので、再確認の上で、「異論」編を補充とし、「新総集」として公開しました。

*はじめに~重複御免
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人風で、加えて素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の番組が、広く取材し<司会者のコメントに含蓄し感心した出来映えに感心したものです。一方、同番組は、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、このたび、ようやく新作にお目にかかりました。

 今回の番組も、毎度ながら、背景に倭人伝刊本を見せつつ、「邪馬壹国」、「壹与」を「邪馬台国」、「台与」とほぼ無断で決め付ける手口に幻滅します。また、魏使来訪が海上大迂回で、時代考証は大丈夫かと思うのです。基礎固めが疎かで脚もと乱雑では多難です。

 番組は、こうした不吉な序奏から意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 と言いつつ、別稿の記事と、かなり重複してしまったのは、反省していますが、今となっては、改善しようがないので記事重複は、ご勘弁ください。

*総評
 纏向論への異論の大方は、誇大で独善的な纏向論がそう言わせるのです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、ゆったり無理なく紹介されていて、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。

 これに対して、纏向論者は、前作を越えた強引な論法で、そんなに無理するなよと言う感じでした。論者の提言に噛みついて、(私見に過ぎない)「卑弥呼」、「箸墓」、「台与」の年代比定は既に確立されているとの高言は、むしろ滑稽でした。そもそも、「卑弥呼」はともかくとして、「箸墓」は、「倭人伝」に於いて、何ら特定されていない「亡霊」であり、「台与」は、「邪馬臺国」にこじつけて、勝手に改竄した人名でしかありません。纏向説論者は、そのように、手前勝手に書き換えた「倭人伝」を奉じているから、そう言い切れるのでしょうが、それは、史学の道を外れています。それにしても、纏向論が学術的に確立されていたら、この場で今さら高言する必要はないのです。

 考古学で言うと、その財産は、遺物、遺跡の考証に基づく堅実な考察であり、対象時代は、遺跡、遺物に文字記録を伴わないから、時代比定は不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと学術考証に歪みが生じるというのが、先賢の戒めと思うのですが、ここは、「自説絶対で、外野の干渉は許さない」という体では、論争にならずバトルです。何しろ、同時代唯一の文書記録「倭人伝」を、纏向説に合うように、自在に書き換えているのですから、天下無敵の革新で強弁できるというものです。

 素人目には、「我田引水」の「倭人伝」解釈に引き摺られて、考古学の考察を撓めている感じが拭えません。「纏向風倭人伝」は、かつては、古代史学界の先哲の気づいた基礎に、選りすぐりの英傑が築き上げた楼閣だったのですが、今や、転進を許さない頑迷な道標と化しているようです。

*高価なイリュージョン展開
 今回、NHKご自慢の子供だましの「ビジュアル」は控え目で、填め込まれた纏向遺跡の「再現」動画を見ましたが、伝統的画餅、「イリュージョン」(詐話)と見えます。自説の図式を押し通すに急で、背景考証なしに眩術を駆使するのに、納税者としては賛成できないのです。そんな費用があったら、地道な時代考証に努めてほしいものです。

*運河曳き船の戯画
 例えば、堂々たる運河で両岸から荷船を曳く図は、実質のない画餅です。海岸からここまでの長い道中、船体もろとも、大量の船荷をどうやって運び上げたのか、どのように船荷を捌いたのか、帰り船には何を積んだのか、実質を語る丁寧な考察の裏付けが無ければ、結局、児戯、画餅です。多額の国費を費やして、虚構を捏造して、誰に何を訴えないのでしょうか。大して貢献できていない少額納税者ですが、この有り様を見ると、勿体ない出費と歎くのです。
 丁寧に言うと、河内湾岸から纏向まで、描かれたような荷船を乗り入れる術はなかったと思われます。特に、大和川の蛇行した急流を、どんな手立てで漕ぎ上がったのか、実質のある動画で拝見したいものです。あえていうと、河内湾岸に、どこから、どんな手段で、船荷が届いたのかも不審です。最後に、傾斜地に「運河」を引いて、水流を確保しつつ、川船が上下するのも、極めて高度な土木技術の産物と見えるのですが、これらの爪がされていないままに、「絵」を公開するのは、見当違いの技術投資でしょう。

*「都会」幻想
 言い方を少し変えると、ある程度、文書行政が確立され、徐々に構築された街道網が成立した七,八世紀の古代国家ならともかく、三世紀当時、市糴、交易で移動していたとすると、どんな仕掛けで海港から山中まで運ばせたのでしょうか。古代とは言え、「経済的」に、物流、交通の要(かなめ)で無ければ、国の市は繁栄しないのです。
 中国でも、繁栄した市(都会)は、河川、海岸沿いか、陸上交通の要路か、さらには、両者の得失を兼ね備えた土地です。

 漢書で言う「一都会」は、一つに「都」(すべて)「会」するとの趣旨ですが、山間の壺中天であった纏向は、交通の要路ではないので、「一都会 」として栄えたと聞いたことはありません。大量の物資が集散したのなら、大量の遺物が残っているはずであり、そもそも、そのような運河まで敷いた「一都會」を棄てて、船便の成立していない飛鳥や平城宮に、王の居所が移動するはずがないのです。
 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 2/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*「自虐論」始末記
 「自虐」論は、纏向論者が、纏向絶倫と認めない九州論者に浴びせた罵倒、自爆です。というものの、挑発し泥仕合の罵り合いに持ち込む子供の口喧嘩戦法に、大人は乗らないのです。「自爆」は、論議に窮した焦りを暴露するのです。箴言をもじると「暴言は無能な論者の最後の隠れ家」。自滅の手前と言えます。
 視聴者が、このような乱暴な決めつけに賛成すると見くびっているのでしょうか。

*文学表現の曲解
 続いて提出された、乱暴でくたびれた俗説「白髪三千里」は、無風流な浅知恵です。
 李白は、漢詩三千年の史上最高の詩人であり、気宇壮大な比喩は、現実を大きく離れ、感動を誘うのです。白髪三丈などと、陳腐な戯言と次元が違うのです。それとも、評者は李白の上を行く芸術家でしょうか。奇特です。
 普通、そのような芸術性を「誇張」と感じるのは、感性の貧困です。李白と現代の俗物の背比べなど、見たくもありません。

 いや、どんな俗物でも、この表現は明らかに詩的比喩であり史学的発言でない位は理解できるはずです。とことん場違いでしょう。古代史学の先賢が、中国文化蔑視のために言い出したことでも、無批判に追従しない方が良いでしょう。先賢の恥を蒸し返すのは、勿体ないと見えます。

*軍人功名談の愚例
 「戦果十倍誇張」は史書表現ですが、史書では、論外の愚行としてあげられていて、参考にも何にもなりません。これは、皇帝の警鐘であって、「軍人の手柄話では騙されないぞ」と釘を刺しているのです。

 軍功はクビの数ですから、十倍誇張で十倍の褒賞が帰ってきますが、新来蛮夷に関して、道里、戸数を誇張して、何の報いがあるのでしょうか。直にばれるウソなど、悪くすると、虚言の廉で(本当に)首が飛ぶのです。軍人は、多くの試練を経て将たる地位を得るから安直な誇張はしないのです。まして、魏使は戦果を求められていないから、この手の誇張はあり得ないのです。
 特に、曹丕、曹叡は、曹操の布いた厳格な軍規を継いでいて、なまくらな皇帝ではありませんから、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは通用しないのです。あるいは、論者は、遼東公孫氏を、郡高官もろとも殺戮した司馬懿に筆誅を加えているつもりかも知れませんが、司馬懿は、現地に、遼東郡の死者の「京観」を築いて軍功を公開したのですから、方向違いと言うべきでしょう。

*くたびれた「定番」の去るべき時
 この二件は、纏向説論者の好む、「定番」の古典的罵倒表現でしょうが、外界で通用するものではないので、何れかの世代で棄却すべき負の遺産でしょう。同学の先師の旧説の中で、安直な比喩(大抵は誤解)余談は、学問の世界では進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので更新されるべきです。
 当番組では、新証拠が展開されるはずでしたが、使い古した年代物の詭弁連発でした。今回の纏向論は、先進の気概の乏しい人材で随分損をした感じです。こうした前世紀定番の蒸し直ししか出せないのであれば、番組の時間の浪費でと思うのです。
 早急に「纏向邪馬台国」の存亡をかけて、世に問うべき「新説」を創出すべきではないでしょうか。それが、「纏向邪馬台国」の晩節を飾るものと思います。

 因みに、当ブログ筆者は、倭人伝が正確無比な記録文書だと言っているのではないのです。むしろ、入念極まる推敲を重ねた高度な「創作」文書であると信じています。
 この点は、登場した渡邉氏の表現が正鵠を得ています。陳寿は、読者たる西晋皇帝などの当代知識人に理解できる用語、表現を凝らして「倭人」伝を書き上げたのであり、そのために現代人には理解できない婉曲な表現になっても、それは「倭人伝」の本質なので、現代人が文句を言っても仕方ないのです。陳寿の綴った「設問」の真意を理解できない「落第者」が、門前山を成しているようですが、このように簡単に「降参」して、二千年を経た「問題集」を臥竜で書き換えるのでは、視聴者に醜態をさらしていることになるのです。何とか、「思い込み」を棄て虚心で「倭人伝」世界に入門してほしいものです。

*闇談合露呈
 まして、収録終了後「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、闇談合で抱き込もうとの、さもしい根性でもないのでしょうが、歴史を夜作るのは、良い加減にしてもらいたいものです。視聴者が見ているのです。

 それにしても、「爆問」が最後に小声で漏らした総括は「史料の原文に戻って、最初から丁寧に考えなおした方が良い」という趣旨のようで、冷静で控え目でした。それが、入門を目指す「倭人伝素人」の採るべき(唯一の)道なのです。

 纏向論者は豊富な学識を駆使して、陳寿が「倭人伝」で描いた「倭人」世界像の理解に勉めるのが本務であり、視聴者、納税者に対する義務のように思うのです。



                              未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 3/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*殿、ご乱心~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学首魁渡邊義浩氏の「暴挙とも見える」「ご教授」です。折角、新説の疎漏を指摘する至言があったのに、このたびは、愚劣な発言になっています。勿体ないことです。
 倭人伝考証で「翰苑」を持ち出すのは、場違いですが、対照された「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印が、出所不明で投げ出されたのです。
 紹興本、紹熙本、汲古閣本、武英殿本、さらには、書陵部所蔵本まで見て、各資料を確認しても、「会稽東冶」と書いた魏志刊本は存在しないのです。それぞれ、刊本、つまり、それぞれ木版印刷本(刊本)ですから、個体差はなく、全て「東治」です。氏の提示史料は、どこで見つけたのか、その場では不明です。(不意打ち、闇討ちという事です)
 もっとも、このような異論の持ち出しは、「爆笑問題」ならぬ、古田武彦氏ばりの渡邊義浩氏「爆弾発言」で、これはまことに勿体ないことです。

*「中華書局本」の闇討ち
 散々調べた後で、『諸刊本で「東治」と一致して明示されている「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」された』らしいとわかったのです。しかし、現代新作の異本ですから、それ以前は誰も知らないのです。
 また、部分拡大されると、何のことかわからないのです。たかが一史料にその通り書かれているというのは、このような低次元の提示を頂かなくても、氏がそのように主張すれば十分なのです。

 ともあれ、素人論者は、番組の流れで、不意打ちで表示されたら、史料出所には、気づかないのです。それにしても、史料の選択、表示に関する渡邉氏の判断は、どうなっているのでしょうか。そして、NHKの制作方針も、一段と不審です。出演者の発言は、「ファクトチェック」無しで、言いたい放題にさせるのでしょうか。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 私見では、当時存在の「魏志」写本に会稽「東治」と明記されたものを、「翰苑」編者が単に「会稽」としたのは、世上、「東冶」に誤解する読者があって、無用な誤解を排除するため「東治」を削除したとも見えます。いや、単に、「翰苑」編者の手元に、誤写された所引が届いた可能性が濃厚です。また、「翰苑」現存写本が、どの程度、「翰苑」原本を再現しているのかも、不明です。何しろ古代史学界で蔓延している「戯言」に追従すると、『「翰苑」原本は現存せず、「翰苑」原本を見た人間も、現存していない』のです。 

 「東治之山」の由来と見える「水経注」などの記事でも、禹后が会稽した山である会稽「東治之山」が、しばしば「東冶之山」と誤記されている史料があるから、古来、誤解の的です。

 ということで、「翰苑」は「東冶」「東治」のいずれを正当化する史料でもありません。氏は、現代史料である「中華書局本」を持ち出して南宋刊本に反する「東冶」を正当化するのです。本件は、史料に基づく倭人伝考証としては、とびきりの愚行と思われます。
 氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外の史書は、本気で読み込んでいないのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は、軽薄で的外れと見えます。「黥面」「文身」は、それぞれ、切り分けて慎重に考証する必要があります。図版の無い倭人伝の解釈に対して、出所不明の図版や年代、地域で繋がらない遺物を起用するのは不審です。
 当ブログ筆者は、一次資料に基づく仮説は、それなりに尊重しますが、出所、根拠不明の風説資料に基づく思い付きには、疑問を呈するものです。
 氏が堂々とぶち上げる論議が、不審を感じさせます。例えば、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことでしょうか。因みに、中国で、顔面に黥するのは、罪人の徴とされていたのです。

 何れかの時点で、制度が変わったのなら、旧制の貴人が罪人となるので、歴史的画期的大事件ですが、そのような記録は残っているのでしょうか。まことに、不審です。

 また、倭人伝記事にある黥面文身の「水人」は、纏向では存在し得ないと思います。内陸の奈良盆地で、大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか。いや、別に、氏が畿内説と決め付けてはありませんが、それほど力を入れるのであれば、説明が必要と思うのです。

 それとも、氏は、中国史書専任で、国内史書には一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

 と言うことで、氏の問題発言としては、「史官嫌い」の次は、「お手盛り史料」ですが、世人が、渡邉氏に求めているのは、「香具師」紛いのはったりではないのです。視聴者は、氏ほどの学識・知識は持っていませんが、素人を侮るのは感心しないのです。

〇お仕舞い
 今回の「バトル」に直接関係はしないのですが、論争に適確な審判役がいないのも、この分野に泥沼の「バトル」が持続する原因と思えるのです。

*悔いのない報道
 それにしても、NHKがなぜ当番組を「サミット」と呼んだのかも不審です。素人目には、「倭人伝」に関しては、「原典派」と「改竄派」の二派しかないように見えるのです。「改竄派」は、『「邪馬臺国」と書かれた「倭人伝」が絶無である』という負の物証が、鉄壁のように聳えているものを、変則的な文献史料考証という「超絶技巧」で迂回してみせる必要があるのですが、「原典派」は、確たる史料である「倭人伝」に立脚しているから、特に「超絶技巧」は必要ないのです。
 NHKは、長年、「変則的な」「超絶技巧」に荷担していますが、それで報道機関として、何の悔いもないのでしょうか。

                             この項完

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*序章 「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英治氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。

 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

                                                               2017/10/29
*局地里制の先人
 古田武彦氏を始め多くの論者が主張している「短里説」だが、論拠は三国志内里制表記であり、倭人伝が「独自基準」の局地里制を宣言、採用していることを根拠とした説は記憶にないので、先例をあげることができない。

*図形表示技法の提案
 あえて言うならば、安本美典氏が、地図上で、帯方郡起点で狗邪韓国まで七千里ととしたとき、狗邪韓国起点で五千里の円を描いて大体の範囲を示していたのが想起される。
 補追:この「想起」は不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。
 安本氏は、藤井滋氏の提唱を引用して、帯方郡基点で万里となる末羅国を起点として、二千里の範囲にあるという指摘であった。(2021/12/26)

*倭人伝里数考察 明解な読解き
 一方、里数に対する後世史家の見解だが、衆知の如く、倭人伝の里数に修正を加えて書いた倭人伝修正版というのはついぞ見かけない。いや、近現代国内での論説は別としての意味である。
 それは、中国側により現地踏査が行われたであろう後も変わっていないように見受けられる。 隋、唐、北宋などは、倭人伝里数の現地検証は可能であったと思われる。
 特に、隋唐時代に、数度の使節来訪があり、随行書記官により、現地調査での里数検証の機会はあったと思うが、魏志里数記事が修正された、あるいは、付注されたと言うことは聞かない。
 つまり、倭人伝の里数表示は、帯方郡から狗邪韓国の間が基準として示されているから、資料として正確であると見たと思われるのである。
 そのような考察を怠って、「過大」の一言で切り捨てるのは乱暴に過ぎるのである。
 補追:この「考証」は、不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。 (2021/12/26)
 中国正史で、先行史書の訂正は、極めて希である。訂正しても、正史として、歴代王朝に公認された史書を訂正するのは、禁止事項であったのである。許容されているのは、裴松之の付注で見られるような「補注」であり、本文と区別の付く形で追加するものである。中国では、写本継承は、極めて厳格に精査されたので、補注が原文に紛れ込む異常事態は、稀少である。

*戸数について
 岡田氏が、倭人伝の戸数を過大とみた理由は、里数ほど明確でないので、以下当て推量を試みる。
 女王国(壹臺論回避策)の戸数が七万戸と書かれていて、先行する諸国戸数を合計するとすでに七万戸であるから、三十国の総戸数は(書き漏らしているが)十四万戸を越え、当時の情勢から見て過大という論理と思われる。
 以下、これが、必ずしも確実な議論でないことを、追々説明する。

                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 4/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*総戸数説
 これは、女王国の戸数七万戸が、三十余国の集合である倭国全国の戸数の内数であるという推定から出ているが、これは、一案であり、氏の議論は全て一案に立脚すると見るのである。
 因みに、晋書「倭人伝」によれば、七万戸は、「倭人」の総戸数であり、奴国二万戸、投馬国五万戸は、内数となる。全体に通じる「余」は、程度にあたる概数表現であるので、全国戸数の積算は、七万戸に収束すると見て良いということである。詳しくは、長くなるので、後記する。

*「倭国伝」の試み
 倭人伝は、帯方郡使の書記役が記録したと見られるが、定説は、帯方郡から女王国への行程総里数は必須として記録されても、同様に重大な総所要日数は書かれていないと見ているようである。同様に、全三十国の総戸数は書かれていないと見ているようである。読者が計算担当に見える。
 これに対して、本論は、倭人伝は「倭国伝」を目指して書かれたと見ているので、総日数と総戸数の記録が無いのは体裁不備と見る。
 そうでなくても、倭人伝が、読者たる皇帝を初めとする知識人に、煩雑な加算計算を敷いたと見るのは、何かの勘違いであろう。漢数字の加算は、そう簡単ではないのである。

 私見であるが、倭人伝は「伝」の要件を意識して書かれたと見るものである。これが、本論の一つの提案である。

*戸数論再訪 明解な読解き
 女王国七万餘戸は各国戸数の合算を下回るので倭国総戸数と見ることができないというのは、概数合算算術の理解不足が一因と思われる。

*帯方流「餘」の解釈
 倭人伝で、里数、戸数ほぼ全ての「餘」が切り捨てと見るのは読み違いであり、四捨五入的概数「略」(ほぼ)と読むべきではないかと見ている。
 略二万戸と略五万戸を足せば略七万戸であるが、それは、六万戸程度から八万戸程度の範囲内のどこかであって、七万戸を上回るとは限らない。

*概数計算の妙味(ほめ言葉)
 次に、大国の万台の戸数に千台の中小国の個別戸数を足す計算であるが、概数計算では、桁の異なるが概数の漢数字を、多桁の算用数字に「翻訳」した足算計算は勘定が合わないことか少なくない。

                                         未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 5/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*戸数の意義
 それ以外に考慮すべき要素として、女王国の中の女王直轄地たる居処地域が、千戸台の戸数しか備えていないと思われることが挙げられる。
 すでに、政治経済の中心として重要な伊都国の戸数が、少ないことが話題に上っているが、それは、戸数の意義を理解していないからである。
 戸数は、戸籍上のものであり、壮丁の人数、つまり、軍人として召集可能な人数の計算根拠である。
 伊都国のような経済活動区や王都は、まず、農業人口が少なく、また、後世の国家公務員に相当する首都圏居住者は、多くの場合、税務、軍務、役務が免除ないしは軽減されるので、戸数として計上しないことがあるようである。
 論拠は明示できないが、妥当ではないかと見る。

 補追:倭人伝冒頭に「国邑」と書かれているように、対海、一大、末羅、伊都の諸国は、太古の中原諸国のように、王の居処を隔壁が取り囲んでいる聚落「国家」であり、広く領域を確保した「古代国家」ではないと見られる。従って、戸数は、せいぜい千戸台であり、山島、洲島を占めているので、隔壁を持たないとしても、周囲は「大海」で囲まれていることになる。(2021/12/26)

*戸数の精度
 三国志全体を検証したわけでないが、諸史の郡国志などに従うと、戸籍制度が徹底した地域の戸数集計は一戸単位の正確さであった
 つまり、帝国の全国を網羅する戸籍が整っていて、戸籍台帳に記載された数値を集計しているから、正確な計数が可能であり、それを正確に集計するから一戸単位なのである。
 戸数、口数は、帝国経営の基本であり、税務、軍務、そして役務の根拠であるから、正確でなければならない。戸籍制度維持、管理は、同じく、国政の基である。決してゆるがせにできないのである。
 従って、戸数計算では、当然、部分の総計が全体となり、倭人伝にあるような、戸籍もない未開の土地の戸数計算の参考にならない。

*倭人伝は概数世界
 このように、魏志の他の部分では、精緻に戸数計算されているから、「三国志全体」を読んだうえで「倭人伝」を読むと誤解しても無理はない。「倭人伝」は、おおざっぱな数が横行する概数世界に適した用語、文体を取っているのである。

 物事を緻密に調べれば調べるほど、真実から遠ざかるという事例もあるのである。  

                                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 6/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*未開の国の未開のデータ
 戸籍がない国の戸数の出所は、大抵、国主の「やまかん」であり、戸籍データの裏付け、根拠はないから、当然、概数、それも、荒っぽい概数である。
 その証拠に、表示数字は、一から九まで揃ってなくて離散している。
 
七と八の共存例は見つからず、一,二,五,七または八と進んで桁上がりし、一万の次は一万二千、一万五千と飛ぶようである。小林行雄氏の言う「おおざっぱ」である。
 元に戻って、帯方郡は正確な戸数の得られない実情がわかっているからおおざっぱな戸数を計上したのであろう。

*先人の足跡
 晋書倭人伝では、女王国戸数七万餘戸が倭国三十余国の戸数総計であると明記されている。これが、倭人伝戸数の順当な読み方である。
 『邪馬台国の全解決』(六興出版)孫栄健著で発表され、榎一雄氏が紹介、批判している。
 「邪馬台国に関する孫栄健氏の新説について」初出 季刊邪馬台国。榎一雄全集第八巻収録。
 榎氏の批判は、孫氏のその他の諸提言もろとも、大変手厳しく、ほぼ全面棄却となったようである。

 榎氏は、「晋書倭人伝は、全体として魏志倭人伝の不出来な要約であり、戸数論議も依拠すべきでない」と批判しているが、悪例で全体を処断する論法は、榎氏自身が、かねてから囚われるべきでない論法と戒めていて、その現れで、戸数表記自体は、さほど批判されていない。
 つまり、女王国、即ち倭国三十国、総戸数七万戸説自体は、榎氏によって否定はされていないとみる。

*戸数論の定説への影響
 現時点で、以上の戸数解釈は、定説を損なうので採用されないものと思う。遺憾である。
 因みに、当方は、当該論説を知らずに「郡国志」論から独自に思いついたことを申し上げておく。

*里数計算再び
 文書通信を最重視した曹操を例として、道里、即ち、街道里数、所要日数は帝国経営の基本であり、街道と宿駅の維持は責務である。
 さすれば里数計算で部分総計が全体となるが、倭国は未測量で街道未整備の未開地であるから援用できない。

                                                    未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*岡田氏の限界
 以上の観点に立てば、倭人伝の戸数、里数は、決して過大でない。それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。

*古田説批判
 「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では無効である。
 たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。
 概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工は必要ない。史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
 このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。

*古田氏の限界
 古田氏が、東夷伝、倭人伝独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
 いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである。

*倭人伝道里事情
 帯方郡は、倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであり、全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都―倭の最終道里を書かなかったと見る。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
 先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
 それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。

*放射道里説
 榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
 伊都国が実質上の首都であり、そこから各国に至る里数が知られていたという提案には、重大な意義があると思う。

                                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 8/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*伊都国首都論批判
 榎氏が創唱したと見える「放射道里説」に対する主たる批判は、中国史料で「放射道里」が書かれているのは、起点が王治所など地域中心の場合だけと頑強であるが、それは、「倭人伝」が、そのような厳格な基準に基づいて書かれたという前提に基づいたものであり、「倭人伝」のその部分が、「倭人伝」独自筆法で書かれたとすれば、当てはまるとは限らない。「倭人伝」解釈で、「思い込み」は、しばしば「曲解」につながるのである。

*全ての道の通じるところ~補充 2021/12/26
 いつの間にか、伊都国が実質的な首都かどうかとの議論となったが、海峡交易の要(かなめ)であった伊都国は、交易中心にして物資集散地であり、実務上、各国への里数が知られていたと考える。
 漢書では、地域の交通の要は、すべての人と物資が会する処であることから、「一都會」、「一に都(すべ)て会す」と評していたが、陳寿は、ここでは、そのような迷走は避けている。そもそも、中国語に於いて、「都」に「みやこ」の意味が付託されたのは、「王」が、交通の要に治所を定め、市(いち)を開設したためであり、本来は、すべてが集うという意味であり、多くの場合、今日に到るまでその意味が貫かれているのである。これは、日本語での「都」の意味と随分異なるので、史書の解釈で、「思い込み」に惑わされないように注意する必要がある。

 余談ながら、現代人が、これを漢書の新語「都會」と曲解しているが、何とも珍妙な時代錯誤である。漢書の編者班固は、史官の伝統を堅持していたから、そのような生煮えの新語は採用しないのであって。単に、文字の連なりに過ぎないのである。とかく、「都」は、後世人に誤解されやすいのである。

*倭人伝の主題
 ともかく、「従郡至倭」、つまり、公式史書の作法に従って、帯方郡起点で書かれている、内陸の帯方郡を発して一路南下して「女王之所」に至る行程と里数、日数記録が「倭人伝」の主題である以上、伊都国から女王国直行であり、他国経由の道草行程は書かれてないと思うのである。
 念のため言うと、世上で「定説」とされている「魏使訪倭経路」説は、場違いであり、また、倭人伝道里の書かれた時点と齟齬しているので、一言で言うと「大きな勘違い」である。多くの先賢が、この「定説」に合わせて、倭人伝道里記事を「曲解」しているのは、勿体ないことである。要は、陳寿の筆の運びに合わない見方は、いかに現代風の精緻な論理に裏付けられていても、陳寿の真意を見損ねていて、単なる「誤解」、「曲解」と言わざるを得ないのである。

*結末 明解な読解き
 岡田氏の言説に対する反論が大きく膨れあがったが、端的に言うと、この程度の考察を踏み台としない、性急な断定は、大抵の場合、軽率の誹りを免れないのである。
 威勢の良い発言で、異論を一蹴、排除するのは、俗受けするので止められないのであろうが、論理が主役であるべき学問の世界では、的外れ、心得違いというものである。

 当ブログ筆者は、太古の賢人「墨子」にならって、なろう事なら「尚賢」でありたいと思うのである。

                                                                      以上

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 1/3

    1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

〇はじめに
 藤井氏の本論は、『東アジアの古代文化』各号影印版(テキストデータ無し)で有料公開の電子版を200円でダウンロード、閲覧できます。

*隠された珠玉の道里論

 倭人伝に書かれた「邪馬壹国」がどこにあったか探るとき、まずは道里論と思います。

 ただし、史料に忠実に議論すると、畿内説が成立しないのが明解なので、畿内派は道里論に正面から取り組まず、決定的議論の困難な誤記、誤解の水掛け論に逃げ込んで、そのため、早々に切りを付けるべき論点が持ち越しの繰り返しで押し入れの肥やしになり、数十年空転しています。

 当方は、別に生活がかかっていないので、正直な意見を以下に述べます。

 なお、自明ながら、里数などの各種数字は、概数です。

*支持者
 邪馬台国の会主催者である安本美典氏は、藤井氏の論考を折に触れ引用し、「邪馬台国」九州説のなかでも、末羅から二千里程度離れた朝倉にあったとする安本氏の「朝倉」説の裏付けとしています。藤井氏の主張が決定的なので、安本氏は賢明にも強弁の上塗りはしません。

*感慨
 当方は、ここまでほぼ独力で、倭人伝諸数字の意義を読解こうとしてきましたが、四十年前の先人を知って、自分の見識が裏付けられてうれしいと思うと共に、これほど明確に論証しても、古代史学界でほとんど顧みられていないことに、正直慄然たる思いになったのです。「ほとんど顧みられていない」と感じるのは、当論文を引用参照した論考がほとんど見られないからです。(安本氏は例外です)

 藤井氏が挑戦的に述べているように、本論は道里論解釈で群を抜いて決定的であり、それ故に、本論で否定されている畿内説支持者が賢明にも論議を避けて風化を図ったと思われます。三十六計逃げるにしかずです。学術的な議論は、論争を経て前進するのですから、議論回避は保守どころが退化なのです。
 これでは、当方の議論も埋没の運命にあるようで、暗澹としてくるのです。

*議論の核心
 それはさておき、本論文の核心部分について、以下批判します。
 藤井氏は、倭人伝の数字から、次の見解を示していると見えます。

  1. これらの数字、道里や戸数の統計値は、概して、有効数字一桁であり、現代的な算用数字の多桁表記は避けねばならない。
  2. これらの数字は、したがって、厳密なものではなく「誤差」をたっぷり含んでいるから、そのように扱わなければならない。
  3. これらの数字に付されている「餘」は、端数切り捨てでなく、「約」に相当する中心値表現である。

*応用数学実践
 以上の見解は、いずれも、工学分野、「応用数学」の概数論に即したものと思われます。当方が学んだ電気工学は、厖大な厳密計算より、端的な実務計算を重んじていて、当方は、電気工学の徒として同感するものです。

 

                                未完

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 2/3

     1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

*数学観の時代錯誤指摘
 さて、続いて展開される「倭人伝」解釈では、遺憾ながら後世や他文明の数学観が過剰に語られ、読者の誤解を誘うと見えます。中国では、後々まで零や多桁計算の思想が備わらなかったため、「原始的」、不正確との誤解を与えます。むしろ、それより、中国古代の精緻な数学を語るべきでした。

*倭人伝の「余」 復誦
 当方が悪戦苦闘した「余」は、藤井氏により難なく展開され、心強くもあり、落胆でもあり複雑です。一介の素人が思い至る概念が、長年の論争で先例が見つからず言及もなかったので、これは独創かと思いかけたのです。
 念のため復誦すると、倭人伝の数字の大半、ほぼ全部に付く「余」は「約」であり、「端数切り捨て」でない概数だから単純に加算できるとの意見です。

*全桁計算の偉業
 全桁計算では、多桁に加え繰り上げが多発し、さすがに「大巾に」手間取ります。と言っても、後漢書で両郡戸数などは一の桁まであり、厖大な統計計算と思わせます。経理計算も一の桁まで計算します。算木の広がりを思わせます。

*はしたの省略
 氏は明言していませんが、「千里」単位の計算で、百里単位は、桁違いと無視できるのです。つまり、里単位で、7000、500と計算したのではないのです。(算用数字はなかったし、小数もなかったのです)

*有効数字の起源
 氏が言う有効数字一桁は算木計算のためです。ただし、氏が、一万二千を有効数字二桁と見るのは、現代人の勘違いで、当時は、あくまで、「一万二千」でなく「十二」千で千の桁にとどまっているのです。

*奇数愛好説の慧眼
 更に言うなら、不確かな元資料による計算で、有効数字が一桁に及ばない1,3,5,7,10,12の飛び飛びの丸め方が見て取れます。
 松本清張氏が、倭人伝の数字に奇数が多いと見てとったのは慧眼であり、実は、有効数字0.5桁と言うべき大まかな概数処理のため、偶数の出番が少なくなったためです。中国人が「奇」数を高貴な数と見たのは、おっしゃるとおりでしょうが、概数が奇数に集まるのは、そのためだけではないのです。
 因みに、「奇」は、本来「奇蹟」に残っているように、尊いものの形容だったのですが、今や、「奇妙」もろとも、誤用の泥沼に沈んでいるのです。
                               未完

 

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 3/3

    1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

*倭人伝里数観
 氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭の王治までの行程を、郡~末羅行程と末羅~倭都行程に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快であり、倭の王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上と図示しています。
 また、「従郡至倭」の目的地である倭の王治は、帯方郡治から東南方向であり、円弧上に具体的に限定できます。
 いずれにしろ、倭の王治の所在を、九州島北部の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると、立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を回避、黙殺したのです。

*精密な地図の弊害 私見
 苦言をお許しいただけるなら、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。

*概数計算の復習  私見
 以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。
 全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は大幅に絞られて、二千里に一千里を増減する程度と見えます。
 それにしても、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、現代人が慣れているのに比べて、かなり大きなばらつきが想定されます。
 また、この区間が二千里であれば、末羅~伊都間の里数五百里は、計算上無視できず、伊都~倭間を直行と見ると、五百里から二千五百里の間という見かけ上、大変大きな範囲内であり、世上言われるように、倭人伝記事だけで精密に特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。

 このような現象は、最初に全区間里数を設定し、そこから、大きな区間里数を弾くという「概数計算」に避けられない、いわば当然の現象ですが、皇帝以下の同時代教養人に理解困難であるどころか、現代人でも「概数計算」の基本をしっかり身につけていない人には、理解困難と思量します。

 いうまでもなく、陳寿を含め、里数記事を書き上げる史官や書記官には、このような帳尻合わせを最初に済ませるのが当然の注意事項ですが、倭人伝の場合、先に全体里数を決め、次いで、大きな区間の里数を一千里単位の切りの良い数字にしたので、後に、現地の国内小国間の里数が提出されたとき、うまく整合できなかったようです。

*道里、戸数の由来~私見
 いや、全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。帯方郡は、公孫氏の出先に過ぎなかった体制から、皇帝傘下の「郡」に昇格したばかりでした。ということで、公孫氏時代の資料を整理して東夷管理体制を構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても仕方ないところだったのでしょう。
 そのようにして提出された粗雑な「台帳」であっても、皇帝の御覧を得たからには、後日の改竄・訂正はできなかったのです。また、陳寿の史官としての業務倫理から、現に公文書に書かれている倭人伝の里数や戸数を改竄することもできなかったのです。

 このように最終行程の帳尻が合わないので、整合を断念して伊都~倭間里数の記載を割愛したと個人的に思量します。何も証拠はありませんが、倭人傳の書き方から見て、そのような経緯があったと理解するのです。そう、陳寿ほどの史官がそのような省略記法を採用したからには、正当な理由があったのです。

*論争の深い闇
 余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。
 よく、邪馬台国論争は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、論争などではなく、単なる水掛け論に終始している感があるのです。

〇まとめ
 氏は、結語で当時「季刊邪馬台国」連載張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝解釈は中国人まかせが一番と、ここでは軽率です。
 倭人伝漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の古典教養が求められます。延々たる連載記事迷走を見ると張氏の欠格は自明ですが、藤井氏には見て取れなかったようです。あるいは、氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうか。

 もちろん、「語学」の視点で倭人伝が解釈できていないのに、できているように錯覚して論じている見当違いの論者は、論外であることは言うまでもありません。

*実論追求
 聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは迷惑です。

 本論のように論理的な解釈で、問題点を絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、倭人伝論の深い闇、泥沼を思わされるのです。

 安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は、世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。

                               以上

2021年12月25日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 1/8

 「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 「邪馬台国と日本書紀の界隈」M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記 2021/12/25
 
〇はじめに
 氏のブログ、著書について、既に当ブログで批判を公開していますが、単純な蒸し返しではありません。今回は、氏の最新記事への異論です。氏が論拠を明示しているので、本来、個人名義のブログ記事への批判は避けたいのですが、折角ですから以下の見解をまとめたのです。

1 道里論
 第一の「道里」の語義解釈には、大いに異議があります。と言うか、個人的な意見の相違などではなく、素人目にも、まるっきり間違えていると思います。
 まずは、「道里」は、二字単語として、道のり、道程の意味であることが、衆知です。(氏がたまたま知らなくても「衆知」論に影響はありません) そして、敢えてその「普通」の解釈を覆す意義が理解できません。陳壽は、古典書に始まる「普通」の辞書を具備していて、それは、当時の知識人に共通ですから、陳壽の辞書にない「新語」をも公式史書に書き込むことはないのです。

 中国哲学書電子化計劃により「先秦両漢」で「道里」を検索すると48用例、単語として49個の先例があり、大概は、「道里遠近」に類する文脈を形成しています。よって、「道里」は、現代語で距離、みちのりに相当する概念と見るのが、古典書籍、特に史書の文章解釈の「常道」でしょう。

 「道」と「里」は、太古以来独立した単語ですが、「道」と「里」を連ねた場合は二字単語となって、「里」の語義の中でも、「道」の「里」を表す言葉と考えるのが順当です。(本項の末尾で辞典を参照します)

 このように衆知極まる言葉に、後世人が別義を託した意図が理解できないのです。このような唐突な新定義は、普通の定義を打ち消すことはなく、無教養な誤用と棄却されるので、史官の職にあり古典的な用語に縛られている陳寿が、三国志に採用したと見えないのです。
 衆知の用語に新たな意義をあてる必要があったら、陳寿は、堂々と例外用法を明言したはずです。

 案ずるに、「道里」は、あくまで「里」ですが、「里」は、古来数十家規模の集落であり、土地制度では一里角の面積なので、誤解を避けるために、敢えて、「道の里」としての「里」を明記したかも知れません。

 因みに、「歩」も、道の単位と同時に面積単位でもあり、「九章算術」計算例題集では、面積の「歩」を「積歩」として混同を避けていますが、大抵の場合、文脈で区別できるから、単に「里」、「歩」と書いたようです。といっても、これは、そのような教養が引き継がれていた時代であり、戦乱などで、継承の鎖が壊れたときは、字面に囚われた「名解釈」がはびこるのです。

 本題に還ると、漢字辞典として有力な白川静氏「字通」、藤堂明保氏「漢字源」共に、「道里」は、道のり、距離との語義を掲載していて、氏の新説は、ほぼ棄却できます。

 それにしても、本項の強引とも見える書きぶりは、後出「周旋」の周到な論証に似合わない不首尾なものと見て取れるのです。何か、急かれいる思いがあったのでしょうか。

2 東治論
 本件、当ブログで、議論を重ねましたが、俗説の渦に埋もれているので、再説をかねて、氏の議論の紹介方々異論を述べます。と言っても、氏に、大略同感です。
 「東治」が、禹后による治の場所と解されましたが、禹が会稽で統治した記録はありません。単に、諸侯を集めて功績評価、会稽したというだけです。
 水経注の郡名由来記事に、会稽郡の由来として、秦始皇帝の重臣李斯が、「禹后が東治之山(会稽山)で会稽した」ので、当該地域を会稽郡と命名したとされています。他の郡名と異筋ですが、教養人に衆知だったようです。
 史実かどうかは別として、その由来が、後世まで継承され、陳寿の西晋代にも、東治由来談が伝わっていたのでしょう。西晋亡国の混乱で多くの伝承や記録が失われていて、「後漢書」編者笵曄は、会稽付近に生まれたのですが、却って、古典教養を要する由来談を知らなかった可能性があります。陳壽と范曄の間には、一つには、西晋崩壊時の洛陽文化圏の崩壊があり、かつ、笵曄は、史観の職業的な訓練を受けていない文筆家、趣味の人なので、それぞれの世界観には、大きな相違点があるのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 2/8

「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記2020/04/19 追記 2021/12/25

3 「周旋」論
 氏の解説は、常道に従った古典書用例参照が雑駁と見えても、全体として、まことに堅実です。国内史書が起点の先賢は、先入観で「周旋」を誤解しましたが、漢字辞典を参照すれば、「周旋」の「周」は、「ぐるっと周回」だけでなく、「周(あまね)く」の意味、「旋」も「ぐるっと回転」だけでなく、「経路の終端から戻る」との意味があると知ったはずです。(白川静/藤堂明保両氏の辞典による)
 余り参照されていないようですが、東晋代に編纂された袁宏「後漢紀」の献帝建安年間の記事(孔融小伝)でも、「周旋」は「二者の間を往来する」意味で使われています。
 文頭の「參問」倭地は、狗邪~倭都「歴訪」、「周旋」は、終点終端まで進む「巡訪」と重複気味ながら、文脈により陳寿の真意に辿り着いたはずです。
 因みに、成語「周旋」は、対立当事者、大抵は二者の間を往来して斡旋するのであり、あたりをぐるぐる巡るのではないのです。

*測量不能な図形
 俗解した「領域周回」が、不正解と見えるのは、千里はあろうという領域外周の野山や河川、海浜を「測量して巡る」のは、途方もなく不可能であり、その経路長を測量無しに推定するのも、同様に不可能です。まして、狗邪~末羅の渡海/水行行程は、海峡越えであることから、測量は、重ね重ね不可能です。
 有力算書「九章算術」の「方田」例題には、円形の土地の外周計算方法が書かれていますが、当然、その土地がほぼ円形であり、その土地の径(直径)が知られている場合だけ実行可能です。つまり、外周を実測しなくても、直径の測量で、全周長を推定できるわけです。要は、円形領域の外周周回長は直径の三倍強、という幾何学原理の利用に過ぎません。

 懸案に戻ると、異郷の異国の領域外形は知るすべがないし、海上洲島領域の南北は、道里行程記事から推定できても、東西はどうにも測りようがなく、結局、元に戻って国間道里しかわからないのです。この点は、列挙されている各国のどこが西端でどこが東端か書かれていないのでも明らかです。現代人は、手元の地図に、各国をばらまいて、広がりを当て込んでいますが、倭人伝の視点では、末羅国に始まる「洲島」の広がりは知るすべがなく、伊都国以南が、また一つの大海なのか陸続きなのかも、その時点では、不明だったのです。

 因みに、「九章算術」は、史官を含め、教養人の必須課題であり、陳寿も、当然、こうした原理は知悉していたのです。

*周旋の意義
 「周旋」は、狗邪~倭都直行道里のみが妥当であり、氏が現代仕様の地図上に図示した円弧は、時代錯誤の虚構です。
 郡~倭都全道里が東南方向に万二千里、郡~狗邪部分道里が同じく東南方向 に七千里は明解ですが、狗邪~倭都経路記事は、傍路と輻輳して見えるので、この間の倭地道里を、ことさら五千里と明記したのですが、進行方向は、概して同じく東南方向です。
 どうしても図示したいのなら、読者に誤解を与えないように配慮して、「円弧」範囲を絞るべきでしょう。

 思うに、単純に道里を書き足すと、わかりきったことを書くとは見くびられたものだとの「読者」のお怒りが怖いので、表現を捻ったのでしょう。

〇道里論の失着
 こうしてみると第一項「道里」の見当違いの解釈は、先入観に災いされたのか、説得力を自失していて、まことにもったいないのです。

*用語の錯誤
 見当違いと言えば、見出しで、古代史論を期待している読者を惑わす、場違いなカタカナ語「ワード」です。
 高名なマイクロソフト「ワード」のことではないでしょうし、かといって、次に想起されるコンピューターデータの単位でもないでしょう。いずれにしろ、古代世界に「カタカナ語」はありません。

 唐突に異世界新語を持ち込まれても、善良な読者には不可解至極で、意味が定まらないのです。これでは、いきなり、無用の反発を買うだけです。曰わく、まともな日本語文が書けないのに、生かじりのカタカナ語を持ってくるな、というものです。

 このような飛び入り言葉を、用語考証という厳密な場に持ち出すのは、まことにもったいないのです。普通は、直後に定義を付して不可解の誹りを免れるのです。但し、当記事の中で意義のある場合だけの言い逃れです。
 因みに、CPU命令のWordはCPUビット数なので今日の64 Bit CPUで1ワードは64ビットです。いや、益体もない余談です。

*カタカナ語排斥論再燃
 古代史用語が不可解なのは読者、自分自身の不勉強故と我慢できても、現代人が現代人に対して不可解な用語を振り回すのは不可解そのものです。先賢がおっしゃるように、古代史に関する論議で、古代人が理解しようのない概念や言葉は避けるべきと信じる次第です。

【追記開始】(2020/04/19, 12/25)新書二冊の職業筆者に相応しい「キーワード」(カタカナ言葉の先住民で、一応気に留めてもらえるかも知れないもの)と見出しを付け直したら、粗雑と見くびられることはありません。粗雑は、決して、褒め言葉ではありません。念のため。「ワード」は、単なるはやり言葉で、何年生き続けるか不明なので、本題のような長期戦には、全く不向きなのです。
【追記終了】
                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 3/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29

〇コメント~三部作の口切り
 タイトルで予定されるのは「放射説」考察ですが、実は、主として名を挙げられている榎氏提言に対する伊藤氏のグチです。「放射説」と無造作に括っていますが「伊都放射説」でしょう。因みに、「なかった」古田武彦氏は、第一書で「不弥放射説」でした。「考える」際に榎説の「引用」、ないしは、文献参照はなく、個人的解釈を掲げる「独り相撲」が、氏のほぼ一貫した芸風なのです。

〇倭人伝基準論~私見の展開
 文献史料「倭人伝」は、三世紀、権威ある史官が公文書を基に編纂し、当時の権威の承認のもとに魏志に収録されたから、史書として何の問題もなかったと見るものではないでしょうか。以下、その視点で述べますが、私見は私見なりの根拠があると理解の上でご批判いただきたいものです。

〇放射説の由来
 「伊都放射説」の道里は、後に補充された榎氏の論述によれば、伊都国が、現代風に言うと、政治、経済(商業、貿易)交通の要であったことに由来していて、「倭人伝」にも、倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査されるとあり、妥当と思われます。つまり、国王居処と別に国の中心地があったとも解釈できます。ここで、口に出たがる「首都」は、時代錯誤なので自粛しました。特に、当時、蕃王の治所、王城を「都」と書くことはなかったのです。

 因みに、過去先賢が議論したように、例えば、漢書「西域伝」は、夷蛮の国への道里として、帝都(長安)、ないしは、最寄りの「幕府」(西域都護)から蛮王居処への官道道里を示します。これは、漢からの文書通達と回答が届く日数を知るものであり、次いで、兵の動員時の所要日数を知るものですが、後者は、道中の食料、水の補給も関係し、あくまで参考ですが、西域都護の幕府を道里の拠点とする意義は大きいのです。道里の出発点を「郡」とするのは、決して、不当では無いのです。
 古来、皇帝は、蕃夷の末梢まですべて外臣とするものではなく、各方面の対外拠点が適確と認めたものだけを相手にしていたのですから、すべての道里を、管理部門である「鴻廬」の台帳に登録するものではないのです。何しろ「外臣」と認めたら、その王治の遠さに応じて何年かに一度の来貢を予定して、応対の費用を予定し、土産物を用意し、来訪者には、上下の人員に数々の印綬を制作して与えなければならないので、「外臣」は、少ないに越したことはないのです。

 大きい「国」では、王の居処から、国内主要国への方位、道里を示して、王の権威の及ぶ範囲を示しています。国によって、領域概要が述べられますが、国力は戸数で明示されるので、「方里」はあくまで子供だましの「イメージ」(あやかし)に過ぎません。何しろ、収穫高や兵数把握は極めて重要ですが、夷蛮の国の荒れ地の広がりは、知ってもしょうがないので、測量も表示もしないのです。
 つまり、「方里」は、領域面積を示すものではないのです。

*「方里」幻想の正体
 別稿で考証しましたが、「方里」は、対象地域内の耕作地、農地の面積を、例えば、一里四方の方形単位で数えたものであり、現代風に言えば、平方里に相当します。但し、耕作地面積は、個別の農地の登録面積、つまり、管理台帳に書き込まれた歩数を机上で合計したものです。それぞれ、耕作者の「戸」が固定しているので、「戸数」と相関関係があるのですが、一戸あたりの農地割り当ては、地域により、作付け穀物によって異なるので、あくまで地域の「国力」の目安なのです。
 現代風に言う地図上の領域面積は、何千年と思われる歴史を歴て農地開発が進んだ中原諸国ならともかく、未開の山野が続く東夷では、ごく一部が耕作されるに過ぎないので、「国力」の目安にはなりませんから、わざわざ測量することもなければ、表明することもないのです。
 もし、「方里」が、公式の面積単位として運用されていたのなら、史書に満載のはずですが、実際は、確実な記事としては、このように東夷伝に数例あるのに過ぎないのです。恐らく、遼東郡太守が、管内の各国の国力把握のために、特に施行し、皇帝にあてて報告していた「報告書」の名残と見えるのです。
 とは言え、陳寿が採用した以上は、手元に未開の荒れ地を含んだ高句麗、韓国などの国力表示に「方里」を記載した資料が齎されていたのであり、同じ「方里」が、対海国、一大国に限ってとはいえ、倭人に関する資料として記録されている以上、魏志「東夷伝」としては、忠実に掲載しなければならないと感じたはずです。
 思うに、陳壽が「倭人伝」編纂した際には、そのような背景を証する雑資料が少なからず手に入っていたでしょうが、正史には、そのような資料は割愛したものと見えるのです。
 東夷伝に散在する「方里」の意味は、そのような背景を推定すれば、筋が通るように見えるのです。

〇王の居処と伊都国~スープの冷めない近しさか
 当ブログ筆者は、伊都放射説に無批判に追従する者ではなく、伊都以降は、王の居処に直行したとの説です。つまり、奴国、不弥国、投馬国の行程道里は、最終目的地である「倭」への行程の一部ではなく、事のついでに貼り付けられた参考行程と見ています。よく聞き分けていただければ幸いです。
 ここで大事なのは、要点である伊都国と「倭」、つまり王の居処の間が、里程を書くほどもない短距離と事実上明記している点にあります。何しろ、倭人伝の主要行程道里は、千里単位で書かれていますから、百里単位の道里は、末羅~伊都間の繋ぎの部分を除けば、脇道であり、全体道里に関係しないのです。下手に明記すると読者の勘違いを誘うので、避けるのです。
 もう一つの目安は、行程の様子や「至る/到る」国の様子が書かれているかどうかです。「投馬国」は、自称大体五万戸程度の「大国」ですが、行程の内容は書かれていないし、同国の様子は、何も書かれていません。
 また、伊都国に到る行程と伊都国の様子は書かれていても、そこから先は、ここには書かれていないのです。

〇概数道里の道理~夷蕃伝の要件
 古田武彦氏は、概数計算を失念していたためでしょうが、百里単位の整合にとらわれて、対海国、一大国行程に、島巡りの辻褄合わせを述べ、最終行程は「零里」としました。倭人伝は、あえて端(はした)の道里を省いたと思われます。
 「国邑」の本質から、各国の本拠は、領域の一部に過ぎず、伊都国の王処と女王国の王処が共通でない限り、行程道里はゼロではないので、それは、書かずに済ませる理由にはならないのです。古田氏が、結論を焦って、場当たりな論理に陥っている一例です。

 概数計算では、端(はした)を入れて計算すると、大抵の場合帳尻が合わないのです。それは、正確、不正確の問題ではなく、概数計算の持つ宿命なのです。また、末羅~伊都間も百里単位ですが、史官は、現地地理に関心はなく、所詮「余」付千里概数の大局道里と整合しないので、参考として書いてあるに過ぎないのです。

*「従郡至倭」の由来と結末
 倭人伝の「郡から到る」里数は、まだ、倭人の成り行きがわからないうちに、帝都から、最も遠い辺境の地という主旨で書かれたものであり、その時点で、実際の道里など知るはずもなく、まして、精緻に書こうとしたわけでないと思われます。その万二千里で、もっと大事、つまり肝心なのは、郡から到る所要日数と想定すると、伊都国からの道里も方角も、大局に関係しない現地事情に過ぎず「倭人伝」では、細瑾として省いたのでしょう。それぞれの行程は、街道として整備されていたので、「道なり」に進めば目的地に着くのです。また、普段街道を往来している者達は、別に、地図も、道案内も必要としないのです。

*「倭人伝」の必須要件
 つまり、「倭」の王治、王の居処は「帯方郡の東南方」にあり、行程道里は「万二千里」、所要日数は、「水行十日、陸行三十日の計四十日」で、戸数は「七万戸」、諸国は三十国あるので、城数は「三十城」が、必須要目であり、以上で、夷蕃伝の要件を満たしていたのです。
 ここにある「城数」は、倭の国内に、「国邑」と呼べる隔壁集落が、それだけあったと言う事であり、それぞれ、木なのか土なのか石なのかは別として、国主の住まいが千戸台の集落であって、周囲の住民の住まいや農地から隔離されていたという意味です。現地の実情はどうであれ。中原の「国」は、隔壁集落だったので、それに合わせて書かれたのです。

*所在地論の要点/終点
 後は、倭人」の国名が「邪馬壹国」でも「邪馬臺国」でも良く、所在が、筑紫でも纏向でも、帯方郡と四十日で連絡できれば良かったのですが、その要件を復習すると「邪馬壹国」 は、倭人の首長の住まう集落であり、九州北部から海峡を越えて半島に至る交易経路の南にあって、交易を統御していたから、丁寧に考えると、所在地は限られているのです。 後は、時代時代の形勢で、あちこち移動したかも知れないと言うだけですが、「倭人伝」には、卑弥呼時代が語られているだけであり、先立つ、范曄「後漢書」倭伝の書く、後漢桓帝、霊帝、そして献帝時代のことは、范曄自身すらわからないまま、風聞を書き残したと見えるのです。

 と言う事で、倭人伝」は 「伝」の体裁を完備した、一級史料なのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 4/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇根拠不明の直線行程説~余談
 氏の俗耳を染めている根拠不明の直線行程説によれば、文書等は、一旦伊都国で止められた後、期間を置いて王の居処に送られたことになっています。ただし、郡と文書通信していても、国内に文書通信は存在しないのです。つまり、三世紀時点、公的文書がないから、広域国家は無意味な推定になっています。以上の考証の否定には、当時の文書通信遺物が不可欠です。

〇「古代国家」と言う画餅~余談
 俗に伝えられる三世紀広域「古代国家」説は、文書通信、輸送、交通という基盤を欠き、「画餅」の誹りを免れません。つまり、直線行程説は、三世紀「古代国家」説の付属品、巨大な画餅で、世人の好む大変壮大な図式ですが、この「イメージ」(幻夢)は、誰にも食べられないのです。

 以上は、漢書以来の西域諸国列傳を参考にした意見であり、単なる個人的感想ではありません。また、氏のように三世紀史官の「作文」技法について講釈する趣味もありません。何しろ、氏の語彙は「違和感」、「イメージ」など、現代の流行語を無造作に採り入れているように、史学の常道を外れているのです。

〇「個人的感想」の怪
 氏は、ここまでは「個人的な感想」であったと仕切りますが、どこからここまで個人的感想なのか、始点が不明です。というものの、個人ブログの記事は、何も書かなければ、口調に関係無く持論なのは、ほぼ自明です。

 と言っておいて、続く論議は同様に古代史学に通じていない現代人の「個人的感想」です。ついでながら、そちこちで、出所不明、検証不明の世評を無批判で受け入れる意義が不明です。まあ、当人が、拾い食いして平気なら、それまでですが。

 因みに、氏の関知しない古田氏は、ここまでに書いたように、女王居処は伊都国から至近で道里略との見方で、ただし、古田氏は、魏使は女王と会見したとみています。伊藤氏の個人的意見「当然」は、同時代の当然かどうか疑問ですから、書くだけ字数の無駄です。主張には、論証を必要とします。

 氏は、冒頭に書いた「オーソドックス」に示される時代、環境錯誤に耽っていて、当記事を通じて、何も学んでないのです。

〇総論
 当ブログでは、書評の際に、著者の持論を批判することは、極力避けています。直線行程説を批判しても、氏が持論としていること事態は、批判対象ではないのです。(時に筆が滑るのは、素人の限界としてご容赦いただきたい)

 大事なのは、著者が、持論の「根拠」として、個人的感想や根拠不明な風聞を翳していることです諸説に、適切な紹介と批判が加えられていないのも「問題」です。いや、別に解答を工夫せよと言っているのではありません。
 氏は、第三者の要約らしい風評を早のみこみで採用しますが、根拠を示していただけないので、確認しようがないのです。

〇「失われた放射行程説」
 当記事では、氏の持論に対抗する「放射行程」説について、提唱者榎一雄氏の説を提示し、否定しているのですが、榎氏の説がどう書かれていたか、その主張の根拠が何であったか、不得要領で論議になっていないのです。
 また、榎氏の主張に批判を加えた古田武彦氏の主張は、はなから失われているのです。
 いくら、個人的な趣味、嗜好であっても、何か根拠がほしいものです。

 榎、古田両氏に限らず、凡そ古代史論者たるものが何らかの「説」を主張するからには、先行所説を論理的に咀嚼、批判、克服しているのですが、どうも、氏は、そのような素養のない野次馬論者のようです。

 慌てて、普通の言い方で総括すると、氏の持論には適確な裏付けはなく、異論を適確に克服してないので、氏の持論は大いに疑わしい(普通に云うと、全く信じられない)ことになりますが、それは、当記事の圏外です。氏が、放射説だろうが、螺旋説だろうと、当人が納得している分には、傍からとやかく言えないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                               以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 5/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇はじめに~批判しようのない落輪調
 先だって、氏の最近のブログ記事二件について批判しましたが、合わせて、これら記事の先行記事の批判が必要と見て遡行し記事をまとめました。と言っても、当時批判記事を書いたものの、「記事」の批判としてまとまりの付けようがないので放置していたのですが、結局、月遅れ記事にしました。

 端的に言うと氏の記事は、正体不明の「説」を、文字引用して批判するのでなく、いわば、氏の見立てた「説」の「ポンチ絵」を「斬られ役」にして斬りまくっているので、読者に見えるのは氏独自の「ポンチ絵」が、紙吹雪となって風に散る様であって、誰のどの論文に何を異議申し立てしているのか、わからないのです。いわば、路面を走らずに、いきなり落輪して、しきりにエンジンを吹かすものの、ごうごうたる空転で、批判論議になっていないのです。
 ただし、氏は短絡的でないので、謹んで理路の瑕瑾を批判しているのです。

〇斬られ役の弁
 「斬られ役」と称したのは、本来の論拠が戯画化されているからです。舞台劇の「斬られ役」は、振り付けに従い、易々と主役に切られます。
 氏が個人的な愛憎からか「好意」を再度表しているので躊躇しますが、仕方ないので余言を連ねます。「イメージ」なるポンチ絵の原文不明に加えて、伊都基点放射説を無視した不出来な展開に批判を加えます。

◆図表3「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図(別解釈案) 引用省略
 一見、これなら整合性がとれているのではと思ってしまいそうです。
 しかし、よく見ると齟齬が生じているのがわかります。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への距離が書かれていないのです。そうすると、肝心の位置関係がわからないということになります。100里なのか1000里なのかで邪馬台国の位置は大きく変わります。これでは邪馬台国までの行程を報告したことにはなりません。

〇不都合な表現 世にあふれる時代錯誤
 余談の前振りを入れると、読者に0の数で百里と千里を判別させるような不合理で時代錯誤の算用数字多桁表示は悪習と理解いただいて、文献解釈の大原則に従い、時代相応に「百」「千」と書く事をお勧めします。

 また、「倭人伝」が記載不備で拙劣と罵倒されていますが、お説のように必須事項に欠けた報告書だったとしたら、それが正史に収録されたのはどういうことか不審です。氏が、ご自身の迷走に自暴自棄で、相手を間違えて自嘲したのが誤記されたのでしょうか。

〇「絵」のない絵解き 無理な読み解き
 倭人伝には、読者次第で解釈が分かれる「概念図」(ビクチャー)は無いので、氏のお手盛りの子供じみたポンチ絵(イメージ)を、正史はかくあるべしと見立てた論理的な文章に戻し明快にします。(当ブログは、この読みを支持していません)

 不彌国から南に行くと投馬国に着く。
 (郡から投馬国まで)水行二十日である。
 投馬国から南に行くと女王の居処に着く。
 (郡に従し倭に至るに)水行十日及び陸行三十日である。

 寡聞にして、倭人伝道里に、このような前例を見ないのです。日本語は明快でも意味は支離滅裂です。路上の「落とし物」を盛り付けて供するなど、関わり合いになるのは時間の無駄です。もっとも、「倭人伝」現代語訳は、みんな似たようなもので、各人の手前味噌ですから、口に合わないと文句を言ってもしょうがないのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 6/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇引用再開
[中略]帯方郡から邪馬台国までの全行程に要した日数が、水行で合計10日、陸行で1か月だとします。すると、なぜその行程上にある投馬国に陸行の期間がないのでしょうか。明らかに末盧国から不彌国までは陸行しています。合計700里です。それが入っていないということは、やはり「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の読み方は成立しないということだと思います。帯方郡から邪馬台国までの全行程の水行「10日」より、帯方郡から投馬国への水行「20日」の方が長いというのも明らかに説の破綻を物語っています。

〇「も明らかに破綻を物語」るという怪
 以上は、一見して明らかなように、先人諸賢の論考を無視した独り相撲で児戯です。僅かな行数、字数なのに、文意が動揺していて、本来支離滅裂な「説」の論破は一言で足りるのに、無駄に深入りして、うろ覚えの論理に囚われるのは自業自得で勿体ないことです。

 同時代論者が、「倭人伝」をてんでに、つまり、百人百様に解釈した俗説が通用していて、百人全員が、正史として二千年近く読み解いている「倭人伝解釈」は、百人百様なのか、同様なのか、とにかく間違っているという事ですが、自分一人は凡百の一人ではない」という事なのでしょうか。古人曰く、倭人伝」読みの「倭人伝」知らず、ということで、学会一括の罵倒は、一般人の任に余ると思います。

 独り相撲(ワンマンショー)を仕舞い、具体的に証明願いたいものです。

〇まとまりの付かない総評
 異説を強引に自身の絵解き、基本的に「直線経路読み」にはめ込んで、その図式上で批判するのは「恣意」(「的」抜き)そのものです。

 ここでやり玉に挙げている批判対象文献が明示されていないのも、困ったものです。主張者が、氏の図式と同一の「イメージ」(偶像、ポンチ絵)で主張したのなら論理的思考のできない人との欠席裁判になっています。
 そうでないなら、氏は、別の人が言葉で描いた主張を自己流に図示、つまり、書き崩した上で、それは間違っていると主張していることになります。ひょっとして、氏は、論敵の主張の原文が明解に解釈できないので逃げているのでしょうか。不可解、つまり、主旨が理解できない「説」の「批判」とは、どういうことなのでしょうか。
 と言う事で、氏は、論者の主張を明確に理解できず、意図的な曲解(撓め)に持ち込んでいる嫌疑が濃厚です。いくら個人的に好意を持っていても、それはそれ、これはこれでしょう。
 思うに、氏は、前方の不可解な「イメージ」を自分の認識で不合理だと称して攻撃しているので、いわば自業自得で見苦しいのです。
 それにしても、同時代の日本人が普通の言葉で書いた論考を読解できないのに、三世紀の中国人の漢文の解読などできるはずがないのです。

〇本論 単なる形式不備
 最後に、当記事タイトルに示された論説を批判することにします。
 「説」批判で示された氏の「持論」に同意できない点を上げるとすれば、最終道里を、伊都国から「投馬国を歴て」邪馬壹国に至ると決め付けた点です。この議論の到達点が、「荒れ地」であるのは、既に語られていることですから、失敗必至の旅立ちには、同意できないのですが、各人各様の持論は、極力論じない方針ので、ここでは深入りしません。

 結局、氏は、論文作法(作成手法)の基本にあたると思われる、自説提示の際の根拠提示方法も、論評時の論点提示方法も理解できないまま、字数を費やしていると思えます。論文審査の初歩であり、修行が足りないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 7/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26    付記 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇前置き
 伊藤雅文氏の二回に亘る記事は、素人の「日誌」(ログ)でなく商用書著者の論考と思うので、誠意をもって辛口批判します。先行する「現代訳」なる連載記事で頻出する難点に消耗したので、一点に絞ります。氏の考察の基本的な欠点が見えると思うので、以下同様と理解いただきたいものです。

 批判の前提は、考察と見て取れるにもかかわらず、正史解釈が粗雑(杜撰)であり、また、三世紀に即した、あるいは、適した考証がされていなくて、現代に流布する風聞、俗説による思いつきの憶測で、考察と言えないのです。

 氏のいきかたは、ぱっと見、現代風の合理性を備えて俗耳に訴えることから、新書で刊行されていて、目下、大勢を占める俗説に随時追従しているようですが、それが的確かどうか疑問であり、以下、批判するのです。

〇踏み台とされた労作
 なお、氏が基調とした訳文は、原文に密着した最善の好訳であり、書き下し文に等しいものです。用字、用語の置き換えは最低限であるから、巻き込まれて脱線する危険は少ないのです。文献解釈は、かくあるべきです。倭人伝を論ずるなら、後は、自力で説きほぐすものであり、責任の分水嶺です。

〇一文解釈集中批判
[原文]從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
[訳]郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三冊』岩波文庫)

 ここで、氏は、突如、基調を踏み台に浮揚して架空の創作に耽ります。

 帯方郡から倭に至るには、海岸にそって水行し、南進・東行しながら韓国を経ていく(*)。すると、7000余里で倭の北岸にある狗邪韓国(くやかんこく)に到達する。
(*)帯方郡から狗邪韓国への行程については、朝鮮半島の西岸・南岸を海岸にそって航行したとする説と、半島内の水路・陸路を行ったとする説があります。私にはどちらが正しいか断言できませんが、この行程についてはあくまでも「倭人条」の中の韓国記事であり、副次的なものです。[以下略]

 『狗邪韓国までの韓地内行程は「観念的」』とする発想は、慧眼というか、妥当ですが、「従郡至倭」で書き出された道里が魏使の往還記に基づくとの誤謬が邪魔して後が続きません。

〇道里記事の始点
 この間の道里は、「倭人伝」の冒頭に必要な道里、所要日数の申告、開示であって、倭使参上以前に皇帝に上申され、公文書に書かれていたので、後日の改竄、改訂は不可能だったのです。そして、陳壽は、史官の責務として、既存の公式史料を正確に収録する責務を負っていたので、編纂時点の考証や新情報によって改訂することは許されなかったのです。陳壽にできたのは、記事の是正が読み取れる追加記事の書き込みだったのです。

 原文で、「到」は、明確に「其の北岸」つまり、陸上の境地であり船着き場の桟橋などではなく、その場は、狗邪韓「国」とされています。つまり、少なくとも「歴韓国」の一国の国名は明記されているのですから、空文、冗語ではないのです。

 念押しすると、同区間は三世紀読者にとって既知、自明の「街道」道里です。それに反して、海岸に沿いに船で行く異説は、無視も何も古典に存在しない無法な用語概念ですから、よほど念入りに事前解説を加えない限り、編者(陳寿)は非常識な用語の咎で更迭され職を失いかねないのです。史官は、「読者」によって、随時試されていたのです。

 従って、古典書に典拠のない、読者の教養に輻輳する用語は、読者の誤解を誘い、恥をかかせるものとして厳重に忌避されるので、勝手な造語やにわか作りの新語の導入は、固く、固く戒められたのです。こうした理屈が理解されてないのは、何ともお粗末です。

〇解釈でなく改竄
 「従郡」を「帯方郡から」と単純に読むとか、「七千」里を「7000」里に化けさせる「定番誤釈」,「曲解」は別に置くとして、海岸に「循(そ)って」の原文漢字を「そって」とかな表記に「改竄」したのは、なんとも杜撰で不穏です。これでは、石原氏の労作は「バイブル」どころか踏みつけです。

 石原氏は、訳者の誇りにかけても、「循(そ)って」を「沿(そ)って」と意訳しないのです。海岸基準の移動は、字面を無視して「沿(そ)って」なのか、字面に忠実に「循(そ)って」(盾して行き沖に出る)なのか、いずれかですが、「そって」のかな書きは意味不明で、二重に無責任です。さらに念押しすると、「沿岸航行」は、古典書読者に未知の用語であり当然不可解です。同時代人に不可解なことを、勝手に取り込んではなりません。

 一読してわかるように、「海岸」は、海を前にした崖に似た陸地ですから、これに沿う経路は海岸の陸地を言うのであり、海に入るものではありません。つまり、中原読書人の知る語彙では、「海岸に沿って」進むのは、陸行しか無いのです。従って、続けて「水行」と書いているのは、本来、不可解であり無意味です。そこは陸地なので河川行は不可能です。そもそも、郡の東南方にあると書いたばかりの「倭人」のお家に向かうのに、内陸の帯方郡郡治を出て、なぜ、予告のない西に進んで海岸に着くのか、不可解であり、そのようなことは、一切、明記も示唆もされていないのです。飛んだ冷水の不意打ち「サプライズ」です。

 そのように、「循海岸水行」は、三世紀の読者には、自然に解釈できないので、この「問題」の解を巡って、考察に苦労することになるのです。

 このような初歩的考証が理解できないなら「新説」など唱えないことです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 8/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26   付記 2020/08/29 補追 2021/12/25


〇格式に従う「定義」
 端的に原文を見れば、「循海岸水行」は、「歴韓國」から「七千余里」に至る道里でなく、「始度一海」などと書かれた「渡海」の意義を説いた前置きと思えます。街道道里に前例のない格式外れの「水行」概念を導入するにあたって、読者を不意打ちして混乱させるのを予防した定義文と見ます。

〇無知による誤解、誤記
 氏は、自認するように、沿岸航行」を考証する知識に欠け、資料調査もしてないので、はなから欠格ですが、なぜか沿岸航行を選択します。陸路が危険で時間がかかるとは、風評とも云えない稚拙な憶測で非科学的な見解です。

 氏は、先例引用で「半島内の水路・陸路を行った」などと、時代錯誤の乱れた用語を駆使しますが、これは、原意攪乱だけで紹介になっていません。「南進・東行」しながら「韓国を経ていく」などと、訳文が堅持した用語、記法を棄てて迷走しますが、そのような無理難題は、「倭人伝」には書かれていません。

 一方、どこに寄港し、どこで転じるか、航行上の必須事項が、「倭人伝」に一切書かれていないのは、実際に航行してないと見えます。何を見て思いついたのでしょうか。(よく理解できない方は、隋書俀国伝を一読戴きたいものです)

〇癒やしがたい非常識
 案ずるに、氏は、帯方郡から狗邪韓国までの行程が、官道として整備され、常用されていたとの「基本常識」、教養を持たず、逆に、当時の船舶を知らないのに、記録にない海上行程を想像だけでイメージ(餅の画)し、考察でなく古代史譚を創造した上で、勝手な推測を積み重ねていますから、他愛のないホラ話に過ぎません。

〇先行諸説の理解欠如と現場逃避
 正史解釈と云っても、正史の文字を一切離れないでは理解できないのは明らかですが、正史が確たる文献史料である以上、これを離れるには、同様に確たる史料なり自然科学的考察が必要です。かえりみれば、先行諸説紹介が粗雑であり、基調訳文を離れて勝手に憶測、暴走していると見えます。郡を出て、いきなり「道」を外れているので、以下、行けば行くほど「道」を外れて荒れ地に入るのです。「道」を見失ったときは、出発点に戻るのが、常道であり、目下の最善策でしょう。

 新説提示には先行諸説克服が必須であり、「韓国内陸行説」、「内陸水行説」は、堂々と提唱された仮説なので、論評、棄却するには提唱者と引用元を明示すべきです。また、棄却の根拠となる「沿岸航行説」の検証を行うべきです。調べようとしないで、紛争の現場から逃げてはいけません。そのように努めれば、何が根拠とされているか、目にとまるはずです。

〇歴韓国考察
 長年、弁辰の鉄が楽浪帯方両郡に貢納された以上、帯方郡から狗邪韓国まで、各国関所を歴る官道が輸送路として諸駅が確立、運用されていたのです。漢、魏が、中原の国家制度を、世界の果てである半島南端までの東夷に徹底させたのが遼東郡による東夷支配です。

 古代韓国の諸国は、相互の間で大量貨物の海上輸送がほぼ不可能であったため、基本的に内陸国であり、漢城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)、慶州(キョンジュ)などのような王治は別として、概して山城を置いていたようです。後世、統一新羅時代、黄海沿岸の海港唐津(タンジン)に山城が設けられた記録があります。「津」であるので、山東半島、つまり、唐本土に渡海する船着き場が主目的であり、沿岸海港ではなかったのです。総じて、三世紀当時、韓地各国の山城は、沿岸移動では歴訪できないのです。

〇総評
 いや、古代史分野では、当ブログ筆者が勝手に言う浪漫派の牙城である史譚分野があり、論拠不十分に、勇ましいお話を書き上げる例がありますが、業界相場として、いくら作業仮説であっても、単なる夢物語でないのなら、何らかの実証的考察をこめるものであり、今回はひどい」というのが、当記事執筆の動機です。非常識を「自曝」するつもりはないでしょうから、推敲した上で、カテゴリー/タイトルに「根拠のない空想」(ファンタジー)と明記すべきでしょう。

 いや、二回で、何度か、(古代史論では)当然、自明、初歩的と書きましたが、どうも、浪漫派諸兄には、三世紀に唯一存在した古代史史料の意義を軽視、ないしは、無視して、数世紀後の「日本」成立後の国内史書を至上とする向きが多いので、念入りに明示したものです。「古代史」上級者には、見くびられたような不快感があるでしょうが、よろしくご了解戴きたいものです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

2021年12月24日 (金)

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 1/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

〇はじめに~「勝手に査読」の弁
 本記事は、先に公開した小澤氏の講演とほぼ重複していますが、目下天下に唯一の古代史論専門誌「邪馬台国」掲載論文として、いわば、座り直して批判するものです。
 このたび、読みなおして、補充しましたが、論旨は変わっていません。

 前稿は、既に、講演批判として行きすぎの感があったと思いますが、本論は、氏を倭人伝論において素人の論客と見立てて、査読紛いの論文審査をしてみました。失礼を顧みずに言うべきことを言うには、そうするしかないので、一種座興として聞き流していただいても結構です。

〇様式不備/用語齟齬
 当記事でも、記事タイトルに書かれている「魏志」を、広く知られている「倭人伝」の言い換えとして進めるのは、二つの意味で不法です。

 まずは、目次に明記の「魏志」のすり替えはだまし討ちです。
 先賢は、倭人伝に限定された論議を評して、「それでは、深意から遠ざかる一方である。三国志全巻を通読玩味して、三国志の書法を熟知するのが先決である。」と貴重な訓戒を垂れているので、氏ほどの高名な論者が、魏志全篇を参照した倭人伝論を展開していただけるものと、大いに期待し、拝聴、ないしは、拝読したものと思うのですが、実は、実は、では、騙されたと感じると思うのです。

 次に、臨時の言い換えで、「魏志」なる高名な史料名を、その本体部分を差し置いて、全三十巻の最終巻の末尾にある、一部と言うのが言い過ぎになるような細部である「倭人伝」に限定使用するのは、許容される論文作法の手口を、大きく外れています。読者は、ここで「魏志」を目にする度に困惑するのです。講演ならぬ本誌では、戻って読み返すことができますが、それでも、意義のない言い換えと考えます。
 これでは、論争史を通じて山積している先行論文を引用するとき、用語が輻輳します。また、当論文を引用する論者は、引用文に、都度注釈を加えなければなりません。これは、論文作法を知らない初心者の手口です。

 この手順が、古代史の先賢が、特に根拠を示さないままに、「倭人伝」なる用語を否定している言いがかりへの対応とすれば、回避でなく克服すべきと見ます。本記事で克服できないのなら、臨時に宣言すれば良いのです。混乱を助長しては、論外です。

*史料錯誤
 普通、当論文は『倭人伝から「邪馬台国」の位置を語る』論考と思われますが、原史料である倭人伝に「邪馬台国」と書かれてないという衆知で未解決の難点を克服しなければなりません。本記事で克服できないなら、臨時に宣言すべきです。基礎部分に穴が空いたままで、放置されていては、粗相の感があります。

 いや、本誌は、「邪馬台国」と銘打っているので、読者は、古代史に十分通じていて、かつ、国名問題に関して、とうに意志決定済み、解答醸成済みと速断したのかも知れませんが、それは、唯一の古代史専門誌の読者に対して、重大な先入観を持って臨んでいるのであり、まことに失礼な態度と言わねばなりません。言うまでもありませんが、いかなる分野でも、初心者、初級者は、絶えず参集しているのであり、長い学びの道のりを歩み出すときに、未検証の、根拠の無い一説を先入観として植え付けるのは、避けるべきと考える次第です。

 本論文のタイトルでもわかるように、看板は尊重すべきであり、安直な塗り替えは禁じ手ですが、だからといって、学術的な手順は見過ごすべきではないのです。読者の賢察もまた尊重すべきです。

*史料改竄
 因みに、講演では「本稿では」と前振りして、倭人伝刊本に明記されている一部用語を、氏自身が信ずるに足りないとする後世史料に従って言い換えていますが、ここでは「本稿では」が、削除され勝手な定説としています。

 学問の世界では、原史料を改竄するのは、厳に戒めるべきものと信じるので、本記事は、厳格な「ファクトチェック」のされていない風説によって原史料を改竄した「風説論文」と解されます。差異は些細ですが重大です。基礎部分に穴が空いたままで放置されていては、粗相の感があります。
 当記事をわざわざ書き上げた理由の一つが、この無造作な改編です。

 史料の校訂は「厳格に確証されない限り行うべきではない」とは、「釈迦に説法」と思えるのですが、氏は、中国古代史史料の考証においては、修行が足りないと感じ、率直に指摘するものです。他意はありません。

〇無礼御免
 以下、本誌記事に相応しい批判を展開します。前稿に比べて論調が厳しいのは、本記事が、編集部の論文審査を経た「一級論文」と見ているからです。
 言外の示唆では、読み取れないのかも知れないので、「改」公開では、子供相手のような言い方をしますが、要は、雑誌編集部/出版社校閲部門の怠慢、ないしは、失態を指摘しているのです。当分野唯一、天下最高の専門誌に対する批判は、厳しいものになるのです。

                                未完

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 2/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

1.1 はじめに
 氏は、倭人伝を「第一級史料」と見つつ「当時の日本列島のようす」を伝えていると評しますが誤解と思われます。冷静に読みなおしていただければわかるように、「ようす」、つまり、風俗や地理が書かれているのは、「従郡至倭」の示すとおり、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都の行程の通過、経由地であり、特に、狗邪の大海北岸を発して以後の行程です。
 つまり、日本列島どころか、行程上の数カ国のようすに過ぎないのですが、それが『倭』の枢要部なのです。

 「倭人」伝は「倭人」領域に限られますから、郡と狗邪のようすは書いていないのです。
 かたや、奴國、不彌國、投馬國は、「倭人」領域であっても、行程道里主要国ではないので、「略記」にとどまっているのです。
 なお、伊都国、女王国は、行程の目的地なので、詳細後記として、ここには詳しく書いていないのです。

 以上は、倭人伝を虚心に読めば、自然に読み取れるはずです。

 世上、このような当然、自明の議論を封じるために、「文法」論などの口説が動員されますが、目前の史書記事を無視/軽視するのはいかがなものでしょうか。以上の素人考えは、別に、中国人学者に頼まなくても普通に読み取れるはずです。倭人伝は、中国古代人の教養と理解力に合わせて書かれていて、現代中国人にとっても理解困難な高度な古文史料ですから、よくよく、その理解力を測ってから、ご意見を拝聴するのであり、無批判な追従は、禁物です。

  そのような自然な読みをどう理解されたのか、余り通用していないと思われる古代史用語である「日本列島」、つまり、九州北部から東方までの領域の「ようす」が書かれていると、一種の思い込みで断じるのは、氏の信条を外しているように感じます。倭人伝を基礎資料として解読するなら、外部資料は後回しにすべきと感じる次第です。

 また、邪馬台(やまと)の書き方は、同様に、不本意というか、不手際です。仮に、倭人伝に書かれていない「邪馬臺」を原表記と仮定しても、「やまと」と発音したことを裏付ける一級史料は絶無です。倭人伝執筆時点で、影も形も無かった世界の「ようす」が、倭人伝に影響するはずもなく、時代倒錯と見えます。

 氏に、初学者に向かって言うように言い立てるのもどうかと思いますが、「臺」は「台」とは、根っから別の字であり、発音も意味も別物なのです。大事な点をすっ飛ばしては、不都合です。

*中国史書視点の見当違い
 冷静に考えればおわかりいただけると思いますが、魏志編者は、天下国家の正史を志したのであり、いかに魏志全三十巻の掉尾を飾る勲功としても、あらたに参詣した東夷伝の小伝である「倭人伝」を諸史料から結集するに際して、東夷の国内の小国の配置に、特別の関心を持ったわけではなく、また、各国の里程方位を題材に、読者に対して、高度な読解と解答を要求する「問題」を工夫したとも思えないのです。

 氏の言い分は、国内史料から築き上げた蒼々たる国内歴史解釈に従うように、氏の専門とされる考古学成果を積み上げたのに続いて、中国史料を読み従えようとしているように見えます。いや、それは、多くの先賢が挑んで、登攀路を見出していない高嶺に、虚心に挑もうとしている氏の所信に反しているように見えるのです。
 かくの如く出発点で誤解した以上、論考の迷走は不可避と見られます。氏が、恐らく承知の上で「定説」に流されるのは、何とも勿体ないところです。
 この後、氏の論理は、信条と定説を交えて大きく動揺します。

*二級史料の暴走
 定番とは言え、後世史書、類書、雑書を無批判で満載で、「相互の比較をつうじて、現行刊本の『魏志』の文字を校訂する」と述べます。遺稿上申とはいえ、晋帝嘉納以来、二千年近く継承された「一級史料」(依拠刊本不明)を、後世、速成抄写を重ねた「二級史料」で否定するのは見当外れです。

 後手で「二級史料」と査定し、史料として格段に低い位置付けを施すのは、逆順でちぐはぐです。それなら、前段で、倭人伝を改竄した「一刀両断」を正当化できないのです。自己矛盾が露呈していて、不思議な眺めです。
 大学教授の玉稿は、編集部査読外なのでしょうが、共々、不手際露呈で随分損をしています。

1.2 邪馬台国の位置
位置推定の材料  『魏志』に登場する国々の所在を推定するうえで最大の指標となるのは、里程記事である。当然、地理や現地の地形との対比も必要となるが、それにくわえて、地名も重要な手がかりを与えてくれる。

 ここで、二級史料はまだしも、東夷の国で、数百年語り継がれたあげくの「地名」国内史料を「重要な手がかり」と採用するのは、同意しがたいのです。
 また、事のついでのように書かれる「考古学成果」は、重要な手がかりなので、無文字の限界を明記した上で、この場で要点を紹介すべきと思われます。
 一級史料の記事を改竄するなら、ご自身の著作物として公表すべきであり、原典と異なる「史料」について論じるのは「贋作」行為です。

 ついでに言うと、俗に言う渡海の「実距離」は一切測定不可能で、誇張の基準にならないから、「水増し」は理屈の通らない単なる言いがかりなのです。どなたの口ぶりかわかりませんが、子供じみた口まねは、感心しません。
 また、数学用語が誤用された「実数」の不意打ちは、不当でしょう。まあ、合わせて、先人の科(とが)でしょうが、無批判追従は氏の沽券に関わるのではないでしょうか。

 このように念押しするのは、氏の論旨展開が、氏の信条に反して、先例の多い「推定、憶測により断定を押しつける」粗雑な暴論に陥っているからです。とかく定説に多い錯覚に染まっているのではないかと懸念しています。

 「普通」に考えれば、日数は、日常往来から検証できるので、架空のものではなく、十分信を置けます。氏の割り切りは、先賢が大きく躓いた「名所」を忠実に辿るようで、考察に掘り下げを欠き、考えの浅い見当違いとみえてしまいます。

1.3 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」
 「邪馬台国の所在」と掲題の「位置」を外して論じていますが、「所在」は「不在」を含む主旨なのでしょうか。論考では、一語一義としたいものです。これは、編集後世段階で、真っ先に検出すべき瑕瑾です。

 いずれにしろ、本稿は、掲題にない余談には関与しません。

〇まとめ
 結局、氏の本記事は、一級史料そのものでなく、「国内史料に基づき一新された倭人伝」に基づくものであり、正直にそう書かれた方が良いのです。折角、実直な所信を打ち出しても、史料自身の考察より失敗事例の追従を優先するのは、不徹底と見えます。恐らく、先賢や助言者の提言を排除すると、無礼だと非難を浴びるので、色々忖度したのでしょうが、勿体ないことです。「木は、芽ぐむ土地を選べないが、鳥は、宿る木を選ぶ」というのが、古来の箴言です。

 率直なところ、倭人伝に関する史論は倭人伝記事に基づき展開するとの抱負から、まずは、初心者の目で史料自身の考察に取り組むべきだと思うのです。確実な一歩を踏み出すことが必要と感じます。
 「後生」の務めは、「先生」の至言と言えども、糺すべき過ちは糺し、質すべきは質し、その精髄を継ぐべきと思うのです。

〇謝辞

 以上、氏の宣言につけ込んで、無遠慮に素人扱いした無礼をお詫びします。なお、安本美典氏が本誌編集長就任時に、論文審査を編集の基幹とする旨宣言されたのと同じ方針によって、勝手に論文審査したものとご理解いただきたいものです。
                                以上

2021年12月23日 (木)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  1/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

〇総論~「窮鼠」徘徊
 本書は、一応、公平な見地から取り纏めた「邪馬台国論争」全集版との執筆姿勢であり、出版社を含め、本書を企画したと言うことは、乱世に統一をもたらす道標を築き上げるという絶大な責務を課せられたと感じたはずです。
 と言いつつ、著者は、不退転、と言うか、退路を断った背水の陣の畿内説陣営の走狗、つまり、窮鼠であり、至る所にその分厚い先入観が露呈していて、執筆の際にそのような高邁な責務は念頭から去っていたように思われます。

〇書誌論の沈没~意図不明な紹興本高揚
 取っつきとして、刊本書誌を論じていて、著者は、世評の高い紹熙本だけでなく、紹興本も咸平本に基づく刊本と主張しています。その意見に反論している内に、以下のように長い道草になりましたが、場の勢いで刊本論を続けます。

 紹興本は、本来、紹熙本と同じ字面のはずですが、両者は、あちこちで異なっているのです。一番目立つのは、紹熙本が東夷傳の各小伝に「傳」と小見出しを付しているのに対して、紹興本では、これが削られていることです。
 これは、小伝小見出しが、陳壽原本に記載されていたと言うほどのものではなく、おそらく、歴代写本では、上部欄外に手書きで注記されていたものが、咸平本刊行の際に、労を厭わぬ官製刊本の特例として、本文に取り入れられたと思われます。
 何しろ、小見出しの数文字で一行、繰り返していくとページ送りになりかねないので、このようなレイアウトを採用するのは、大変な贅沢なのです。
 もちろん、万事推測ですが、紹興本は、咸平本刊本が原本でなく、少なくとも一度は写本して通用していた刊本写本ではなかったかと思われます。もちろん、紹熙本も同様です。刊本は、すべて同一内容ですから、官辺本が生存していたなら、何の論議も必要なかったのです。

*北宋刊本の興亡
 咸平本が木版出版されても、部数は少なく、高官に限定されていたと思われます。そこから、通用する写本が分岐したと思われます。
 何しろ、北宋期は、中国市場、それまで王侯貴族や(旧)軍閥に集中していた文化経済活動が広く民間に拡大された革新的な時代であり、清明上河図に見られるように市民階級の経済力が興隆し、且つ、宋王朝は、政府機能を複数の陪都に分散していたので、自宅に書庫を備え、その書庫に正史写本を備えたいとする蔵書需要が、各地で高まったと思えるのです。あるいは、呉蜀の旧地の蔵書家が、財貨を傾けて、魏志、呉志の最善写本の収集にあたったとも見えます。紙製本時代になって、正史全刊の輸送も、汗牛充棟の大事業ではなくなっていたのです。

 北宋が外敵の侵入で突然崩壊し、逃避した皇族が江南の地で国家再建を図ったとき、咸平刊本を三国志翻刻の基礎とすべく探したものの入手できなかったので、最善の写本を翻刻して紹興本が刊行されたものと思われます。
 最善の写本というものの、厳格に管理された正規の写本工程で作成したものではなく、そのために誤写が散在していたのでしょう。その兆しが、小伝の小見出し省略に現れているように思われます。民間の手になるものであれば、伝統的に必須でない小伝小見出しは、省力化の対象となったのでしょう。

*紹熙本の由来推定
 紹凞本刊行の背景として、紹興本の刊行後、数十年して、忽然と咸平本写本の善本が得られたことによると見たのですが、どうでしょうか。
 紹興本が最善であれば、紹熙本の出る幕は無かったのです。恐らく、紹興本の編纂にあたった学者達が、紹熙本に不満を抱いていたが、その時点で最善だったので、妥協したものが、紹熙本原本が発見されて、「最善」の称号が移転したのでしょう。

 当然、紹興本刊行の費用と労力を無にする、不遜な重複とそしられたでしょうが、刑死の危険も厭わぬ決意を以て推進して、万難を排して刊本として翻刻し、更に咸平本帳票復刻を添付したのは、念願の善本を入手した関係者の無上の喜びの表現であったのでしょう。
 

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  2/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*紹熙本降臨
 以下、あくまで小説的な推測ですが、このような異例の事業が実行できたのは、紹凞年間、上皇として実権を把握していた南宋第二代孝宗の強い支援を受けたためではないかと推測します。

 孝宗は、宋朝皇族とは言え、皇位継承に無縁の太祖趙匡胤系子孫でした。北宋皇帝の系譜は、創業者である太祖の逝去の際に、弟である太宗趙炅が、太祖の息子である皇太子を押しのけて皇位を嗣いだことにより、以後太宗系が正統となり、太祖系の子孫は長く傍系に追いやられ、冷遇されていました。
 北宋亡国の中、有力皇族男子でただ一人江南に逃れ、南宋を再建した初代高帝趙構も太宗系でしたが、いろいろな事情があって、あえて、太祖系の趙趙昚を養子に迎えて後継者としたのです。いや、太祖京皇族は、中央から遠ざけられていて、しかも、皇族名簿に載っていなかったので、異民族軍の皇族狩りを逃れたと見えるのです。
 かくして、紹興三十二年(1162)に、南宋皇帝位は、高帝から新帝趙昚に譲位され、翌隆興元年(1163)に、ほぼ二百年ぶりに太祖の正統を承けた皇帝として就位したのです。

*考宗の野心
 このようにして皇帝となった孝宗は、宋王朝正統の復活を世に知らしめる野心を持ってして、万事に先代皇帝の単なる継承を超えた意欲的な統治を行いましたが、その一環として、高帝の事業とした紹興年間の三國志復刊、「紹興本」が、最善の写本を基礎と志したものの不完全であり、言わば誤って刊行された正史三國志であることから、これを咸平本原本により近い善本に基づく正しい刊本を刊行する事業に対して決裁を下したのではないでしょうか。
 国家事業を行うためには、臣下の稟申に対して皇帝の裁可を得る必要がありますが、紹凞年間は、上皇が最終決裁権を持っていたので、まずは、上皇の内諾を得てから正式に稟申し、無事上皇の裁可を得たはずです。
 関係者は、刑死も恐れぬ上申への上皇の支持に篤く感謝したはずです。

*考宗没後の展開
 ところが、刊行を目前に控えた紹凞五年(1194)に孝宗が急逝し、権臣が病弱を理由に第三代光宗を退位させて寧宗趙炅を擁立し建元となりました。
 このような事態の急変はあったものの、孝宗が強く支持した三國志刊本は、あくまで、孝宗の偉功として、紹凞年間に決裁が下りたことを込めて、「紹凞本」の名目で刊行されたように見えます。
 以上、空想も交えて推定した経緯のほかに、紹興本に続いて紹凞本が刊行された合理的な理由が考えられないのです。

 南宋により刊行された三國志紹凞本刊本(印刷原本)は、南宋統治下の江南各地に流通し、原本散逸の可能性は大幅に低下したのですが、それでも、今日、紹熙本善本は、元、明、清の歴代王朝の興亡に伴う大陸の動乱から隔離された日本での蔵書を利用しなければならなかったのです。

〇道里論~早々の自沈
 以下、著者の見識(の狭隘さ)をうかがわせるのが倭人伝道里論です。著者は、賛否の表明以前に、道里の合理的な把握はできていないようです。

 その証拠に、反対論として「数学的なトリック」、「欺瞞(錯覚)」、「不確定」、「誇大化」、「孫悟空の如意棒」と耳慣れない、痛々しい言葉を募らせて、敵を罵倒するだけで、倭人伝道里が、精々、一里100㍍に及ばない程度の「短里」で書かれているという「短里説」が不合理であるとする論拠は一切示されていないのです。これは、論理的ではありません。むしろ、窮鼠の悪足掻きを思わせます。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  3/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*「イメージ」戦略の怪
 また、「日本列島の正確なイメージ」を論じて趣旨不明な「大局的な視野」を誇示しますが、ここで問われるのは、移動経路沿いの北九州の土地勘であり、「日本全図」を書くのではないことが見失われているのです。
 三世紀当時に、列島の全貌を詳細に採り入れた「絵姿」(イメージ)なと、到底あるはずがないのに、得々と述べているのは、個人の幻覚を言いふらしているだけであり、読者にとって大変な迷惑です。
 要は、魏志倭人傳で書かれているのは、九州北部だけで、残りの日本列島は、陳壽が関知していないという倭人傳の基礎視点が欠けています。

 それにしても、魏使/帯方郡使が、現地の土地勘を書き出せないとしたら、軍事使節として不適格な「方向音痴」になるので不合理なのです。

*誤解による冤罪
 著者が非難する「短里論者が、陳壽の道里記事が正確であると決め込んでいる」という指摘が、認識不足の冤罪であることは自明です。普通に原文を読解すれば、倭人伝道里記事は、整然精密で首尾一貫しているのでなく、記事の出典に応じて整備されたものとわかるはずです。つまり、陳壽は、資料全体を通観した上で、時に推測を交えて、(微視的には不統一な)記事の大局を整合させています氏の断定は、対象資料を読解できない、「落第者」の詭弁であって、よく言って、負け惜しみと見えます。

 ご自身、地理的な事項を適確に認識する能力が欠けていて、勝手な幻想を思い描くしかできないのに、陳壽が、時代最高の叡知を注いだ記事の片鱗すらできない醜態であり、いかに強い口調で主張されても、あくまで「仮説」であり、検討の出発点として利用しているに過ぎないのです。

*また一つの誤解
 著者は、「魏志の記載に不正確な点があることが判明すれば、その時点で短里説が瓦解する」と自分勝手に見ているようですが、それは、偏狭な独善に過ぎません。いつから、氏は、神の立場に立ったのでしょうか。互いに六倍の差がある道里論で、里が60㍍でも100㍍でも、大局的に議論を左右するものではないのです。正確、不正確の視点が、「とっぱずれ」、「失当」になっているようです。

 史学は、些細な論点に囚われて、大局を見失ってはならないとするのが、正論と思います。まして、自分で理解できない論点に、勝手に重大な意義を持ち出すのは粗雑です。
 とくに、「魏志の記載」を理解する素養、不可欠な知識に欠けているのに、同時代唯一の資料を攻撃するのは、身の程知らずと言うべきでしょう。

*自覚のない見識不足
 どうも、筆者は、中等教育(中高)程度で習得すべき合理的、かつ計数的な見当識が備わっていないように思われます。

*見当違いの強弁
 それにしても、著者のように、ここぞと言うときに、俗説や勘違いも含めて、多彩な言葉の雨で根拠不明の意見を通そうとするのでは「論争」にならないと思います。「論争」に饒舌も絶叫する強弁も不要であり、寸鉄の論理の一言で議論は終結するものです。

〇改装のおことわり
 初稿は、ここまで一㌻、残り一ページの二分割でしたが、加筆の結果肥大して、現在の基準では、長すぎる体裁になったので、分割再掲載しました。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  4/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

○遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)の距離にある。魏晋の尺度(一尺約二四・一センチ)からすれば、約650㌔㍍(565㌔㍍)の距離である。これを額面どおり受けとめれば、邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持することになる。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。

*コメント
 誤解を自覚せず、一陣営をトリック(悪意による欺瞞)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。

 いままで、1300里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞(錯覚)がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。

*コメント
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は、全く別概念である。、「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との自覚の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。

 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化(意識的・無意識的を問わず)されたり、錯覚があったり、先入観によってデフォルメされたり、もしくは端から歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、当の倭人を含めて何人も持ち合わせていなかったのだから、ありうることだ)―、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  5/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 著者は、文献解釈、土地勘に優れていると自負しているようですが、「地理観が、誇大化」とは、乱れた日本語です。ここは、「陳寿や当時の中国人の地理観」など特定困難なものではなく、現地と交渉のある帯方郡官人の地理観、魏使の一員で、現に、方角や道里を記録していたと思われる書記官(軍事探偵。おそらく、半島に土地勘のある帯方郡官吏)の地理観、いわば、地域専門家の見識であり、頭から馬鹿にしたものではないのです。書記官は、日誌上に現場の方角、方位、歩測を日々記録し、書斎暮らしの井蛙が数字遊びの空論をもてあそんでいる「安楽椅子探偵」とは違うのです。

 ここで、誰も主張していない「ピンポイントの正確さ」(意味不明瞭なカタカナ語)を揶揄しても、犬が自身の水鏡に吠えかかっているようなものです。最大の注意を払っても、当然、歩測、目測の誤差や誤記は自明です。

 まして、「アバウト」などは、程度の低い記者用語(意味不明瞭なカタカナ語)であり、ここで古代史論に持ち出すとは、愚劣の極みです。

*「アバウト」の怪談
 著者は、突如「あのアバウトな 日本列島図」などと勝手な言い方と「日本列島の正確なイメージ」と茫漠たる巨大概念で敵方の撹乱を計っていますが、目くらましにも何にも、具体的に何を指しているのか趣旨不明で、読者に伝わらないのは、いかにも拙劣です。三世記に列島図などあったはずがないのです。

*語彙の混乱、概念の混乱
 たとえば、全国歩測で描き出した伊能忠敬の日本全図のようなものが、三世紀当時に存在しなかったことは明確ですが、倭人傳冒頭に書かれている「倭人は帯方郡の東南方にいる」(倭人在帶方東南)とした倭人に対する「イメージ」(漠たる地勢観か)は、実用上十分なだけ正確であったと理解できます。
 少なくとも、本書著者のように、錯乱した地理観念を前にして書いたとは見えないのです。陳寿の歴年の考察の成果も、神のごとき著者の自負する明智にかかると、児戯に等しいものと見くびられたようです。

 この漠たる「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)に対する確たる反証の「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)はあるのでしょうか。それにしても、「イメージ」とか「アバウト」とか、ガキ言葉連発は、著者が論争を維持する集中力の喪失を思わせ、痛々しいものがあります。

 北部九州説では、
・邪馬台国は、伊都国から約1300里、つまり、わずか「末盧―伊都国間500里」の2.6倍の距離にある
・ 2000里    >    1300里     >   1000里
 (対馬―末盧間)  (不弥―邪馬台間)  (壱岐―末盧間)
 だから、(不弥―)邪馬台国は末盧―対馬間を半径とする円周内に含まれる。
 これらの点から、九州論者は白鳥庫吉いらい、「北部九州内(せいぜい中部九州以北)に邪馬台国はある」としてきた。
 一見、もっともらしい論理だ。まるで孫悟空の如意棒のように、1300里が100㌔㍍前後に縮んだ。しかし、先の前提が崩れれば、たちまち瓦解するほかない。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  6/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 「れば」は、仮定に基づく所感であり、学術の論には無用の言葉遣いです。「先の前提」の当否は、懸案となっていて、この後も論破されていないのです。つまり、単なる冗語です。また、信用をなくしています。
 「わずか」は、「」を飛び越えて「2.6倍」にかかるのでしょうが、これが「わずか」に見えると言うことは、よほど巨大な距離を先入観として持っていることになります。ともあれ、子供じみた乱文です。また、書かれている里数は、出典不明、根拠不明の数字の遊びであり、何の根拠にもなりません。またまた…また、信用をなくしています。

 それが、「孫悟空の如意棒」という、学術用語でなく「かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがない」比喩で不意打ちする動機になったのでしょう。著者の脳内は、奔放なイメージが乱舞しているのでしょうが、それを無分別にばらまくのは、大変迷惑です。

 言うまでもなく、「如意棒」は空想譚上の遊び道具であり、誰も実体を見ていないので引き合いに出すこと自体、ご当人の知性を疑わせるものです。

 脚もとをまさぐって手応えのあったものを、確かめもせずに相手に投げつけるのでは、投げるものがなくなったら「糞」を投げつける類人猿なみと見られても仕方ないでしょう。ご自愛いただきたいものです。

*反射的な言説動揺
 著者は、自説に基づく先入観を基準としているから、事態が紛糾して言い分に窮すると、感情が刺激されて劇的な(不法な)暴言を吐くようであり、著者と先入観を共有していない読者にしてみると、著者は、100㌔㍍(現代中国語で言う100公里)の距離を、自説に整合するように500㌔㍍以上に無理矢理引き延ばしていると見るものと思います。なにしろ、論議している千三百「里」を勝手に百㌔㍍と見立てて、論敵の取り付きようのない足場にしているので、論議にならないのです。
 論議の大半は、そうした思い入れのすれ違いから来るものです

 論争の際は、先入観に起因する感情的な意見/表現を抑えて、中立的な見解に言い換えないと、罵倒競争、子供の口げんかになってしまいます。こども返りとは、痛々しいものです。ここでも、痛々しいのです。

 しかも、直木孝次郎(「国家の発生」旧岩波講座『日本歴史』1 1962』や山尾幸久(「魏志倭人伝の史料批判」1967)が指摘するとおり、1500里を比例値(最大150キロ)とする場合、一日行程50里(漢魏里で21キロ前後)で計算すると、せいぜい五日もあれば十分だ。

*コメント
 「一日行程50里」(普通里で25㌔㍍)の前提は、道路整備と宿所の整備ですが、倭人傳は、倭地街道の整備は語っていないのです。
 途中に補給拠点(宿駅)がない場合、大量の食料と水を抱えて進むことになり毎夜野宿になります。それだけの重荷を抱えて、野宿明けを、歩調を落とすことなく、淡々と歩いていけるものかどうか。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  7/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*合わない勘定
 更に深刻なのは、一日21キロなら五日で150キロ」とおっしゃいますが、これでは算数の勘定が合わないので、筆者の感覚はどうなっているのだろうかと不審に駆られます。ここでも、痛々しいのです。

 もっと肝心なのは、それがどうした、と言う素朴な反問に対して、答えに窮するのです。「倭」は、最大でも末羅国から徒歩五日程度、つまり、手近に在るというのは、文書交信できなかった古代の世界観で言えば当然です。
 この間に一ヵ月かかるようでは、国が成り立たないのです。自滅発言です。

*引用の不備
 因みに、直木、山尾両氏は、古代史学界でも、群を抜く知性、学識の持ち主であり、そのような暴言は吐いていないはずです。おそらく、はっきりした前提があってのことであり、両氏の著書に示された潤沢な論考のごくごく一部、自分好みの数字だけ取り出すような勝手な引用は、そもそも不適切でしょう。御両所の名声に、勝手に泥を塗っているのではないかと危惧します。

*不手際の是正待望
 案ずるに、筆者は、上位職種で、周囲に相談相手もご意見番もいないように思われます。数字に弱い人は強い人の助言を仰げば良いのであり、自分がよくわからない事項をわからないままにして、読者に錯乱状態をさらけ出す書物を出版してしまうのは、高名な著者の晩節を汚すものでしょう。
 こうしてみると、著者が、独力でできる最善最強の策は、不得意な算数論理に深入りせず、「短里が施行された証拠は一切なく、そのような架空の短里説に依拠した比定もまた架空である」と単刀直入に指摘する高度な戦略であったように思われます。

*講談ネタの乱入
 他の不適切な論証の例で言えば、130ページで、筆者は、卑弥呼の第一回の遣使を景初二年でない根拠の一つとして、「明智光秀の毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだ故事と同様の間違いを起こしかねない」と揶揄していますが、挙げている故事は講談ネタであって、史実でなければ学術用語でもなく、かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがないと思います。

 手短に言うと、秀吉は、西方の毛利高松城を包囲布陣していたので、京都方面から西進すると、まず秀吉陣にぶつかることは、子供でもわかることです。知将光秀が、毛利に密使を派遣する時、秀吉陣の迂回を厳命するはずです。講談ネタが広がったとすると、それは、秀吉が、自分の間者の通報を合理化した宣伝工作となります。

*両郡調略の知略
 魏が遼東公孫氏を攻略するために、半島中南部や倭国にどのような宣撫工作を行ったかは、正史に明記されていないのですが、兵法常識として、遼東に派兵したときに、半島中南部や倭国からの公孫氏支援軍に攻撃されると、上陸軍が窮地に陥ることは明白であり、物の道理からして、事前に、両郡を勅命によって血を見ることなく皇帝傘下とし、両郡管轄下の東夷に対して、相当念入りに宣撫工作したことは明らかであると思います。
 このあたりは、当然自明なので、正史は省略しているのでしょう。明記されていなくても、自明と示唆されているのは、明記に等しいのです。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  8/8

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私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*両郡調略の知略(承前)
 因みに、両郡調略は、戦後処理において、両郡の東夷管理体制を活用する主旨であり、事後、海上交易に活用可能な大量の兵船造船と相俟って入念な地域振興策構想を思わせます。
 これは、司馬懿が、遼東郡攻撃で、軍功と事後の昇進を掲げて猛攻し、公孫氏だけでなく配下の郡高官まで殲滅して、以後の高句麗等の統御を困難(事実上不可能 )にした武断の愚行とは、明らかに、別系統の遠大な戦略であり、恐らく、明帝と腹心の毋丘儉の合議によるものと思われます。明帝がこれほど早死にしなければ、東夷は、ゆるやかに、両郡の支配下に確保されたものと思われますが、実際は、以後、魏晋朝の東夷戦略は、ひたすら退潮の一途を辿ったのです。つまり、「親魏倭王」は、百年を経ずして「空手形」に帰したのです。

*景初遣使の急迫
 景初時点、そのような帯方郡の宣撫を承けて、「唇亡びて歯寒し」、次は、我が身かとあわてふためいた倭人が急遽遣使したとしても、まことに不思議はないし、魏朝が、宣撫に対する応答として好ましいから、最恵待遇でこれを迎え入れたとしても、むしろ当然の対応と思われるのですが、いかがでしょうか。
 一年遅れて、万事形勢が定まってからの遣使では、むしろ、太公望の宣言ではないですが、「遅れて至るものは斬る」で討伐の対象になりかねないのが歴史のならいです。それにしても、世上の諸兄姉は、倭人が、どんな神がかりで、公孫氏の滅亡を知り、どんな計算で、僅かな手土産で帯方詣でを決意したのか、納得できるお話を提示して戴いたでしょうか。
 素人考えでは、召集されたから、急遽参照したと考えるしかないように思うのです。

 虚心で史料に向かえば、このような推測ができるのですが、著者の目は、先入観で曇ってはいないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」、とは孔子の言です。まさか、先行する各書籍から、「コピー」「ペースト」して、一丁上がりだったのでしょうか。手頃な情報に飛びついて、「裏」を取らないのでは、著者の報道人としての名声が泣こうというものです。

*講談ネタ謝絶宣言
 それにしても、安直に「講談ネタ」を本件の引き合いに出したのは、誠に学問の道を外れていて、著者への信頼を大きく損なうもので、痛々しいのです。それにしても、一流の出版社には、練達の校正担当者がいて、こうした筋違いの記述にだめ出しするはずなのですが、本書に限っては、記事校正を省略したのでしょうか。

*失われた理念~敗れ去った虚説
 関係者打ち揃って、本書を企画したときに、自らに負託した責務を失念したようです。また、別途付託されたと見える「密命」も、これでは、未達成に終わり、「虚説」として低落し続けているようです。

 それにしても、本項で指摘したのは、倭人伝の史料解釈のつたなさであり、氏の本領では無いのかも知れませんが、聞く相手を選ぶのも器量なのです。
 専門分野別に、執筆を分担するのも醜態を避ける一案です。

*直言宣言
 さて、以上、ずいぶん失礼な言い方だと思われる方もあるでしょうが、当方は、無位無冠無職なので、学会で地位を高めたいという野心もなく功名心もなく、ただひたすらに率直な意見を述べることを趣旨としているので、行きがかり上、無遠慮で手痛い言い回しがあっても、個人攻撃の趣旨は毛頭ないことをご理解いただきたいと思う次第です。

 むしろ、学界の大家と目される方たちには、わざわざ苦言を届けてくれる率直(馬鹿正直)な取り巻きはいないと思うので、意を決して、一連の苦言としての書評の提供を開始した次第です。

                                以上

2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞夕刊「今どきの歴史」 2019年4月 歴博記事の怪 再掲

                      2019/04/22 2021/12/22

*厄介な提灯持ち
 今回の題材は、配達されたばかりの毎日新聞大阪3版夕刊文化面に記載されているかこみ記事である。旧聞であるが、深刻な問題を含んでいるので、再掲した。
 歴博「先史・古代」展示を一新  新年代が変える定説
 と、厄介な意見を書き立てている。

 当たり前と思うのだが、歴博が展示を一新したとして、それで「定説」を変えることなどできるはずがない。定説は、例えば、学界の大勢が支持するから定説であり、特定の一機関が、途方もない大声を上げたからと言って、それだけで「定説」が変わるものではないと思う。
 それとも、毎日新聞には、定説を変える権威でもあるのだろうか。

 そもそも、そんな雄図があるのであれば、堂々と記者会見の場で発表して、資料公開すべきであるが、ここに掲載されているのは、担当記者の見学記であり、歴博が責任を持った発表資料が引用されていないし、公式見解に対する責任者の表明もない。国立機関の情報公開として適法かどうか疑わしい。

 担当記者は、「日本列島の人々の暮らしの様相」が一新されたと言う。多分、現代でなく古代の「人」々のことだろうがどんな手段を使おうと、過去の人々の暮らしの様相を「一新」させることなどできるはずがない。
 あくまで、歴博の孤独な仮説が、展示物として表現されているだけであろう。記者は「刺激的だ」とグルメリポーターばりに絶叫しているが、何がどうなっているのか読者に伝わらない。これでは、個人的な感想ばかりであり、新聞報道として無意味である。

 続いて、素人目には、歴博の近年の研究予算(ヒト、モノ、カネ)、つまり、国費の大半が、極めて多額の費用を要するC14年代測定(ずり上げ)に投入されていると見えて、その成果と見える大胆な研究発表で学会の反対論を浴びていると書かれているように見えるが、それによって「定説」がどう変化したと書かれていないから、素人目には、当然出て来る反対論を、適確に克服できていない、つまり、孤立していると見えるのである。もちろん、部外者の推定であるから、見当違いであれば幸いである。

 その後も、降りかかる火の粉ならぬ、許多の反対論を無視/黙殺して同様の趣旨のデータ蓄積を進め、定説と異なる年代区分を形成したあげく、今回、手厚く正当化した独自の主張が展示されたらしいと見えるのである。(歴博発表資料が見えないので、記者の感想に過ぎないとも言える。それとも、読者は勝手に、歴博サイトを見に行けというのだろうか)

 記者は、無頓着に、歴博の提示した年代区分から、多くの興味深い「事実」が浮かび上がるというが、歴博が展示で表現した作業仮説から「事実」が浮かび上がるはずはないので、これは、記者の錯誤というか白日夢なのだろう。まさか、歴博が、これが「事実」です、と言ったはずはないと思う、いや、確証はないから憶測する、のである。

 手っ取り早く言うと、ふと現実に立ち返った記者は、これでは、歴史考証で想定する「定説」と食い違うので、別のストーリーを創出しなければならないという感想のようである。いや、繰り返すが、これは記者の個人的な感想であって歴博の公式見解ではないと思われる。歴博は、文学者ではないので、いくら経費がかからないとしても、新たな創作活動に耽るはずはないのである。

 歴博は、稲作の伝搬を、定説がもたらしていた神がかった速度でなく、人間業として解釈できる緩やかさであったと提唱しているようである。但し、記者の引用を信じるなら、九州北部に紀元前10世紀後半頃に海を越えて伝搬した稲作が、近畿に伝搬するのに300年程度、関東南部に伝搬するのに、さらに、300~400年程度要したということらしい。この推定自体は、あくまで仮説であり、批判したくても、元データも何も見えないから、個人的な感想を持ち出すことになる。ご勘弁いただきたい。

 個人的には、紀元前10世紀後半とは、黄河文明では周王朝の時代であり、どのような時代背景で稲作集団が乗り込んできたのかと思うものであるが、凡人にはどんな「事実」も浮かんでこない。

 一方、稲作前線が緩やかに東進したと想定されていて、当然の帰結として、日本列島内で地域地域の独自の文化展開があったという、これまた、人間くさい様相が想定されていて、ほっとするものがある。

 そこで、記者はまたも、白日夢に陥って、日本列島の先史・古代の「実像」を実見したらしいが、映じられているのは、どうやら記者の脳内だけなので、凡人には窺うことができない。それとも、歴博はVRでも導入しているのだろうか。華麗なイリュージョンは、国立研究機関の税金の無駄使いなので、ご勘弁いただきたい。

 ここで、記者は現実に立ち返ったか、今回の歴博展示は、博物館の大勢に逆らう異端なものと示唆しているが、記者が認めるように「過渡期」の異端説は定着するかどうか不明だし、測定結果の信頼性も検証されていないように見える。そのようなリスクを抱えた異説に大金を投じてもっともらしく展示することを、歴博はどのように正当化しているのだろうか。一度、業務監査いただきたいものである。

 最後に、歴博責任者でなく、展示リニューアルの指揮者として教授が登場するから、以上の記者感想が、歴博の支持するものかどうか不明である。監督官庁を巻き込んで、展示リニューアルへの大金投資を承認させた説得力は、相当なものと推定するしかない。

 その教授の発言として、「弥生時代に限れば、開始が何百年も遡るのは間違いない」としている。「間違いない」は、各界の承認を得た定説ではなく、個人の感想と見るしかないのだが、要は、稲作の開始を500年遡らしたため、それに引きずられて、稲作前線の展開に500年余計にかかったと見えるだけである。それもこれも、C14年代測定がそのように出てしまった辻褄合わせとも見える。この部分は、教授の発言が忠実に引用されたと見えるので、きっちり批判するものである。

 総体的に、本連載の担当記者は、脳内に独自の仮想空間を形成して、そこに形成された「実像」を見ているので、客観的事実の報道と受け取ることはできないと見るのである。
 記事全体に教授談話を引用しているのなら、教授を的に記事の当否を議論できるのだが、当記事の書き方では、ほぼ全てが記者の感想であり、議論のしようがないのである。

 以上の通り、当方は、担当記者に対して批判を述べているが、それは、このようにお先棒担ぎの無批判な報道は、毎日新聞の品格に相応しくないと信じるからである。記者が、ブログででも、個人名で意見公開するならここまでは言わないが、毎日新聞夕刊文化面に堂々掲載されているから、物差しかきついだけである。

以上

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 1/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22

■おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」は、夷人の国、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、匈奴は、「敵国」、対等の交渉相手と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」は、漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。

 ただし、そのような蕃人扱いは民族差別と直接関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。

〇その壹 滞在中日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように、不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し、王の指示を仰ぎます。当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道も航路も未整備なので、急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ発進しても、難波到着は八月以降と思われます。長距離を、一応半分この理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録があれば、そのまま書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(公里)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里程度)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。して見ると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。
 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できそうな漢使移動日程を推定すると、難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて千人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(夷蛮の国に「都」を許しているのは安息国だけです)時に、漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする思い付きが語られることがありますが、どんな国家であろうと、武官を国内縦断の途に遇するのは、問題外です。安息国は、かって、東方からの侵略者に国土を蹂躙されけているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。ついでながら、当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。ますます、東方の夷蕃のものを王都に招聘することなどなかったのです。いや、これは、世上にある、ローマ-漢の交流という空想譚に対する反論であって、目下の、漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、名代を立てるなり、あるいは、国都から行幸するなりして、短期間で引見するのは、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて往復移動させるのは大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 2/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、「史記」、次いで「漢書」、最後が「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志倭人伝」が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、慶州(キョンジュ)から俀都までは倭人伝「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三千里に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、千里概数で、「五」千里に届かない範囲なので、四千五百里程度まで見込めるからですが、そうした議論は、見たことがありません。

 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この倭人伝道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 「後漢書」、「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないないから、百済王治泗比に立ち寄った後、西岸を南し竹島を経て耽羅で東に進路を転じて対馬を目指す道程が「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*後漢書の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。

 因みに、魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国まで、対馬、壱岐だけで、倭人伝で、道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。倭人伝に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書には渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、東方各地に立ち寄った記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があると確認しただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀にあるように、長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海に触れていて、俀国の西に海があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、『休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない』のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。隋書」が、蛮夷文書である「日本書紀」に合わせたはずはないので、「隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。

 そもそも、蛮夷が史書を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣隋使、遣唐使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 3/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09

〇その参 掌客の怪 その1
 以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。

*鴻廬掌客の誤解
 書記記事を読む限り、この時の献使と来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、大和側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。

*三名の絶大な使命
 まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は高官です)等三名の掌客任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。前例のない掌客の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。

 つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、掌客自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる交信を介した遠隔指導などできないのです。

 この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。

*「掌客」語義考
 ということで、新任された「掌客」を復習しますが、鴻廬なしのただの「掌客」であり、常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて担当官を速成したようです。
 「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
 つまり、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
 もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)

 なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪との勝手な表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。

 こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。

*漢制掌客
 かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。

 「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです

 太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。

*鴻廬寺来歴
 高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に、そのような不法な名称は、あってはならないのです。

 隋唐制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。
 夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。

 但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
 つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 4/6

 隋書俀国伝考察付き                   2020/02/28 追記2021/02/09, 12/22

〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
 隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。

 皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
 これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。

 しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。

 鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、各地の反乱を上奏する者は斬罪に処すという命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。

*僭称の動機推定
 思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は北狄であり、「南朝を征服して武力で天下を取っても蛮夷に変わりはない」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。

 裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えますが、これに対する報奨は記録されていません。諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。

*文林郎紹介
 裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の掌客とは教養が違うのです。

 案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、「鴻臚寺掌客裴清」は、あくまで当記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ個人官職を自称するはずはないのです。

 また、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参した国書は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
 魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
 つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
 そもそも、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。

*誤解の起源
 ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。
 挿話筆者は、与えられた素材を書紀に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても資料の整合が取れなかったようです。
 皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。

 以上、第三の難点への解です。

〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
 ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。

 日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)

 書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。

〇参考資料
 古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊
 
 ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので詳細には触れません。
                              本論完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 5/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09. 12/22

〇日本書紀 推古紀(出典:維基文庫。随時改行を追加)
 十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
 六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。
 是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。
 爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。
 於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。
 時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
 秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。
 是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
 壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。
 其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。
 時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
 丙辰。饗唐客等於朝。
 九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
 辛巳。唐客裴世清罷歸。
 則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。
 爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。
 是歳。新羅人多化來。

                        書紀史料完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 6/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09, 12/22

〇隋書 俀國伝
 (出典:維基文庫。但し、倭を俀に復元訂正。随時改行追加)
 俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。
 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
 安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。
 桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。
 有女子名卑彌呼,能以鬼道惑眾,於是國人共立為王。有男弟,佐卑彌理國。
其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衞,為法甚嚴。
 自魏至于齊、梁,代與中國相通。
 開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。
 高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
*中略*
 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
*中略*
 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,
 又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
 俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,
 其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」
 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
 其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」
 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

                             隋書史料完

〇補足~私見   2021/02/12
 「海西」とは、漢書/後漢書西域伝に書かれた西方の大海カスピ海の西岸「海西」であり、普通に考えると西戎「條支」(アルメニア王国)の天子と嘲ったことになります。
 「日沒處」とは、西王母の住まう西の果てであり、仏教思想で言うと「彼岸」の人ということになります。
 中国正史の語法から、そのように読めるはずなのですが、余り、見たことがないので、ここに付記しました。

以上

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 1/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

〇前置き
 当記事は、以前、単独記事の批判を掲示した論客の以後のブログ記事を、同様の見地で批判したものです。前掲記事がご不快であれば、重ねてご不快を求めることは無いと思うので、特に重複を避けずにたたみかけています。
 因みに、氏は、実名を表記していないので、ハンドル名で失礼します。

*記事前置き(2014年現在)
 去る7月19日に久留米大学公開講座で、表題の講演を行なった。
 これは魏志倭人伝のテキストクリティーク(本文批判)を発表したものであり、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を全面否定する論証である。つまり、「邪馬壱国博多湾岸説」を完全否定するものでもある。

コメント:堂々と、「魏志倭人伝」の「テキストクリティーク」と称していますが、以下、「倭人伝」の「テキスト」について、丁寧に論じられてないのは不思議です。また、提示される諸史料の「テキストクリティーク」が皆無に近いのは、不審極まりないのです。
 特に、「倭人伝」に現に明記されてい「邪馬壹国」を、「完全否定」するなど、不可能の最たるものです。
 古田氏の第一書(正しくは、『「邪馬台国」はなかった』であり、論敵の著書名を誤記するのは、まことに無様です)全面否定絶対不可能です。一書に書き詰められた諸提言を、一つ残らず「バッサリと」否定することなど、誰にもできないのです。何か、スイカ割りのような外し具合です。

 一転局限した「邪馬壱国博多湾岸説」は、湾岸説否定だけならほんの数行で足りますが、それすら安直に「完全否定」などできるものではありません。論議の大小見境なしということでしょう。いい加減に目隠しを外して、世界に目を開くべきでしょう。
 いずれにしても、いくら、個人が全面・完全「否定」しても、理屈が通らなければ世界は耳を貸さないのです。これでは、読者にそっぽを向かれるのが、むしろ「自然」、「普通」と言うものです。

 このような「罵詈雑言」は、氏の思考乱脈を想到させるものであり、世間で酷評されても不思議はありません。おつりで、誹謗中傷されても、不思議は無いのです。自説で世間を説得したいのであれば、初心に復って、修行し直すべきだと思うのです。

 いや、氏は、定期的に講演会を開いて、その際は、熱心な支持者が席を埋め、満場一致で賛辞を呈しているので、氏にとって、何の助けにもなっていないのです。ということで、見解の相違を明示し、具体的な批判に入ります。

*陳寿の見ていた「後漢書」
コメント:氏の理解がどこまでのものかわからないので、一応のツッコミを入れます。
 呉主孫権の最大の任務は会稽有力者と会盟することであり、その手立ては、有力者の「有力な女子」を娶ることです。
 「有力な女子」とは、生まれながらに「家」を背負って嫁することを目的として育てられ、孫家に於いて権力の一角を担うと共に、正夫人として嫡子を成せば、世代交代後、孫家の「皇太后」、最高権力者として実家傘下に組み込むことすら想定しています。従って、正夫人の地位を奪われることは、女子として生きる意味を無くすことを意味するのです。また、不満を言い立てて決裂すると、実家との盟約が破壊されるから、それは、できないのです。

 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に至った。

コメント唐突な観点展開ですが、意図不明、根拠不明です。
 また、裴注は、三国志の一部ではないので、何をどうひねくり回しても、考察しても、倭人伝の原文テキストを改竄する理由にならないのです。
 孤独な魂の遍歴で道しるべを求めても、個人の想念の世界は、誰にも見てとることはできないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 2/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承「後漢書」と范曄「後漢書」の関係
 魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。

コメント:記事は部分に分かれていますが、東鯷人風聞に続いて、突然、夷州、澶州の登場です。蓬莱伝説まで動員した上で、最後に、会稽東冶が出て来ます。
 結局、伝聞、風評の寄せ集めの類いであり、そのような記事は、范曄が最も嫌悪したはずなのですが、なぜここで採用されたのでしょうか。地の果てだから、どうでも良いというものでも無いでしょうに。

 「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。

コメント:三世紀当時、「イデオロギー」などという概念は無かったから、陳寿はじめとする関係者がそのような時代錯誤の「妄想」を抱いていたことはあり得ません。時代が変わっているので、現代人にとっても、古代にどんな「イデオロギー」が存在したのか、わかるはずがありません。併せて愚劣です。なぜ、誰でもわかる「普通の」言葉で言わないのでしょうか。

 原文にない東鯷「国」は、史料に書かれていないから、言うならば、氏の「妄想の産物」であり、呉の史官が編纂し、亡国の際に晋帝に献上された「呉書」を元に「呉国志」を編纂した陳寿が「三国志」に記録しなかったのも、当然です。存在しない国に「王」を見るのも妄想であり、いなかった王が「反魏倭王」として、呉と同盟して魏を挟撃するなど、とんでもない無理「推し」です。(三国志には、「呉書」、「呉志」など、紛らわしく交錯するので、時に「呉国志」、「魏国志」、「蜀国志」と書くことがあります)

 「呉主」孫権伝でわかるように、三国志には、「呉皇帝」どころか、「呉王」も存在しません。一方、夷州、亶州は、堂々と書かれています。因みに、亶州は、海中とされていますが、夷州は、どうなのでしょうか。

 それにしても、史書に無い勝手な思い付きを振り回されては、迷惑です。

 陳寿の「呉国志」編纂の三世紀当時、これら記事は「現代」記事であり、資料は豊富に入手できたはずです。このような、意味不明の記事が残ったのは不可解で、当時不可解だった記事をものを知らない東夷の末裔が解読できるというのは、どういうことか、まことに不思議です。

 右の記事の並列から知られるのは、成立順序のみを問題として、陳寿の表記が仮に「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする仮説がいかに詭弁を弄し牽強付会で固めたものであったかということであろう。

コメント:あたかも、確実な史料のように論じられていますが、諸史料の「テキストクリティーク」は、どうなっているのでしょうか。不確かな史料の不確かな憶測で、現にそこにある刊本紙面の文字を否定するのは無茶です。

 簡単な理屈ですが、論拠にあげる多様な史料がすべて信頼に足りるものである確率は皆無に近く、折角羅列しても、話半ばで論理が破綻するのは明らかです。「少数精鋭」が鉄則であり、一件論拠を増やすごとに、論考が、脚もとから瓦解していくものです。ご自愛いただきたいものです。

 陳寿三国志が、著者確定稿陳寿原本が西晋皇帝に上程され、直ちに帝室書庫に収蔵されて、以後、厳重に管理されていたと、確実に推定できるのに対して、范曄「後漢書」は、范曄父子処刑による家系断絶の後、章懐太子が付注して、帝室書庫に収納されるまでの在野の写本継承が、まことに不確かです。三国志の官製写本すら、疑念を投げかけられるのであれば、范曄「後漢書」は、苛烈な試練に曝されるべきです。

 因みに、略同期の袁宏「後漢紀」は、記事には見当たりませんが、概ねテキストが健在であるのに対して、散佚して影も形もなくなった謝承「後漢書」を、佚文、つまり飛び散った破片から、全貌と細部を復元した気で論じるのはどうでしょうか。して見ると、幻の「レジェンド」でなく、現に確認できる袁宏「後漢紀」で、范曄「後漢書」を批判することは、当然でしょう。誰が呼んだか「三国志の権威」とされている渡邉義浩氏は、袁宏「後漢紀」の研究者として知られているので、相談されたらいかがでしょうか。「聞くは一時の恥」というものです。

 さらには、史書と違い厳格な引用参照をしていない類書の一例である「翰苑」の粗雑な残簡記事を、原テキストそのもののように扱うのはどうでしょうか。

 「詭弁」、「牽強付会」とは、まるで、氏自身が、この論考を「自画自賛」しているようです。因みに、「自賛」とは、自作を褒める後世誤用でなく、評のない「画」の真髄を「賛」形式で評するとの原義に戻っているのです。
                               未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 3/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承後漢書の行方
 (范曄「後漢書」)李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が見られる。その量から推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は相当の部分が残っていたようである。

コメント:「量」、つまり、漠たる印象でなく、数字で明示いただきたいものです。印象批評で良いのなら、素人目には、壮大な「後漢書」でそのような注はないのも同然で、目にとまりません。
 まして、そのような計量されていない散在を漠然と見て、謝承後漢書が大量に(ふんだんに)残っていた証拠と断定するのか、不審なのです。帝紀無しで百三十巻という膨大な史料を「ふんだん」とか「相当の部分」などと簡単に言われては、善良な読者には、大変な迷惑です。

 唐李賢太子の命で、范曄「後漢書」の付注のために、世にある謝承「後漢書」善本は、ことごとく徴発されたと見えます。市井の写本が希少になり散佚したとも見えます。あるいは、謝承「後漢書」の有用な部分は、全部李賢注に吸収保存されたから、もはや、「汗牛充棟」、場所塞ぎで厄介な胡散臭い写本は、李賢太子主催の史学者一同の高度な判断で、不要と見限られたのかも知れません。
 素人の憶測ですが、隋帝国が南朝陳の亡国の際に入手したのか、あるいは、それ以前の、北周、北斉の東西対立時代に関東を支配していた北斉が引き継いでいた西晋洛陽書庫が、北周による統一時に引き継がれたのか、いずれにしろ、中原帝国の正統性の裏付けとして持ち越していた大量の簡牘巻物を、全国統一の機会に棚卸しして、これら諸家後漢書は、紙写本への転写の価値無しと断じて、在庫一掃したのではないかと見えます。
 何の裏付けもありませんが、誰かを罵倒するものでなく、つまり誰にも迷惑がかからない限り、素人の推定は自由です。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文は、ほぼ同時代の成立である。

コメント:史書ならぬ「幼学書」翰苑の「本文」と雍公叡付注の区別はどうしているのでしょうか。「対句」が本文で、割注が付注、別物と見えるのです。それにしても、四六駢儷文 に合わせて、改変、短縮されている対句練習用の「問題集」が、なぜ、誤字満載もお構いなしに、史書の校訂に利用されるのでしょうか。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
① 東觀漢記 一百四十三卷 起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
② 後漢書  一百三十卷 無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
③ 後漢記   六十五卷本一百卷, 梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
④ 續漢書   八十三卷 晉祕書監司馬彪撰.
⑤ 後漢書   十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
⑥ 後漢書  八十五卷本一百二十二卷, 晉祠部郎謝沈撰.
⑦ 後漢南記 四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
⑧ 後漢書  九十五卷本 一百卷

コメント:玉石混淆で、まことに無意味な例示です。史書評価は深遠です、

*袁宏「後漢紀」の真価
 袁宏「後漢紀」が漏れているのも、氏の考察の粗雑を示して疑問です。因みに、袁宏は、東晋の人であり、劉宋の人、范曄に半世紀先行しています。
 袁宏は、数種の後漢書が周知ながら「後漢紀」新規編纂に着手した動機として、「諸後漢書は散漫で、信頼できない史料を採り入れ、いたずらに厖大で座右書たり得ない」と見たのです。屋上屋を架するのではないのです。
 後漢朝は二百年になんなんとし、しかも、偉人の後裔が現世を徘徊していて、列伝の短縮、割愛は至難ですが、袁宏は「本紀」相当部分に絞り、全三十巻にまとめて、大幅な合理化に成功しています。不朽の偉業と言うべきです。因みに、袁宏は、区切り毎に「所感」を付していて、単なる切り貼り細工ではないのです。
 袁宏には、西漢、前漢二百四十年の治世を三十巻にまとめた荀悦「漢紀」なるお手本があったのです。漢紀(前漢紀)は、後漢献帝が、建安年間、曹操の仕切る仮の帝都、鄴での無聊の日々、班固「漢書」が厖大で持て余していたのを正す三十巻正史の新規編纂を指示したのであり、現存している前後両漢紀六十巻は献帝の偉業と見るべきでしょう。他の諸家後漢書と異なり、袁宏「後漢紀」は、ほぼ完全な形で現存しているのです。
 因みに、「後漢」献帝の観点では、高祖劉邦が創業した漢帝国は、謀反人王莽によって揺らいだだけであり、程なく光武帝が再開したので社稷は継承されていて、「前漢」「後漢」など、存在しなかったのです。

 因みに、諸家後漢書が、軒並み桁はずれて冗長であることは巻数から見て明らかです。恐らく、巻数、字数を稼ぐために、お構いなしに雑史料を盛り込んだのでしょうが、ほぼ全散佚している状態から見て、同時代、後世の史家の評価は明らかです。見捨てられたのは、厖大な労力を費やして写本継承する価値がないからであり、謝承「後漢書」など、類書引用の佚文しか残っていないのは、大著としての存在価値が見られないから、見捨てられたのです。

*陳壽の真意と裴松之の本意
 陳寿は、「魏志」の構想にあたり、厖大な「漢書」でなく、荀悦「漢紀」三十巻を参考に、治世の短い魏の国志三十巻に本紀、列伝を緊密に収める減縮が至当と見たようです。だれぞの虚飾のために、空疎な西域伝を付け足すようなことは、もとより念頭に無かったのです。
 裴注が追加され、大量の蛇足のために陳寿の望んだ緊密さは損なわれましたが、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」でしょう。裴注は、陳寿の知らない世界です。
 また、裴松之が蛇足を承知で補追したのは、陳壽の真意に背くと知りつつ、君命に迫られた不本意なものと見えます。いや、裴注は、読者が無視できるので、陳壽「三国志」の精髄は、損なわれていないのです。裴松之、もって瞑すべきです。


〇最後に
 素人考えを振り回して恐縮ですが、別に、先賢の意見を「完全否定」したり、意味なく罵倒したりするものではないので、ご一考いただければ幸いです。

                               以上

2021年12月11日 (土)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 1/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19

〇はじめに
 冒頭に「帯方郡から邪馬台国までの行程と里程の概要」と明記し、「魏志倭人伝に言う一里は現代で言う何㌔㍍かという問題を解決しておきたい」と端的です。「業界」風習に安住せず、課題(問題)を課題として取り上げ、明解な「解」を提示する困難に挑む気概は「優秀賞」の誉れを得ています。
 この姿勢に共鳴した上で、敢えて、手厳しい異論が多いのは、基本姿勢への共感の表れと見ていただきたいのです。
 改訂後の更に手厳しい批判は、投馬国道里行程論に、幻滅したからです。

*冒頭提言の空転
 先の端的な宣言は、反面、本論文の弱点を示しています。凡そ、論文は、先行諸論文を理解し克服しなければ意義がありません。つまり、長年にわたり諸兄が明解な「解」を与えられなかった未解決課題の挫折の原因を摘発、解決しなければ、また一つの誤解と解されます。工学分野では先行技術の克服が必須であり、それに馴染んだ当方は、この切り出しに賛同できません。

 そもそも、本論は、出所不明の行程文で始まっています。後になって、石原道夫編訳の岩波文庫版の文章とわかりますが、引用典拠の後出しは(著作権視点から)不法行為です。また、追って異論と対比するように(「郡から倭に至る」を置き忘れた)冒頭の狗邪韓国までの七千里の文は、同資料の解釈に無批判に追従しています。

*換算表の誤謬
 氏は、引き続いて、奥野正男氏が2010年の著書に提示した数表「里・㌔㍍換算表」の一里89㍍に独自の意見を加えたのですが、まずは、奥野氏の論考が適確に検証、批判されていないのが怪訝です。
 とは言え、掲載しているということは、趣旨賛成と見るもので、以下、その賛成票に異議を唱えるものです。

*里数談義
 素人考えでは、例示里数は、算用数字4,5桁で「余」有無もありますが、これら数字の根拠というか編者の真意を理解しないまま、「素直に」現代知識で計算するのは錯誤重積です。

 原史料の漢数字道里は、大半が千里単位と見えても、由来が異なっていて、安易に計算できないのです。まずは、松本清張氏も指摘しているように「奇数偏重」であり、その背景として、数学で言う有効数字一桁も怪しいと見て取れるのです。

 「余」と概数表明してない「里」は当然概数ですが、それでいて一律と見える「余」が、敢えて省かれているのは、別種の「里」だからでしょう。例えば、韓の「方四千里」は実測等でなく、郡が他領域と比較して、漠然と見なしたと見るのです。

 他で欠かさず「余」里とあるのは、道の「里」、つまり「道里」であり、移動所要期間に結びつくので、加算時の誤差累積を避けて中心値としたと言うことでしょう。大抵の人は早合点していますが、餘は、端数を切り捨てたという事ではないのです。

 このあたり、陳寿は、平静に、慎重に表現を選んでいるのです。現代人が、これをして、陳寿が数字に弱いというのは、物知らずの独りよがりです。結局、そんなことを書き散らすご当人が、古代数字にめっぽう弱いのを自覚していないだけです。
 古代に関すると知識に欠ける「無知」「無教養」の現代人が、古代史の世界観について陳寿と知性を競うのは、蟻が富士山と背比べしているようなもので、ご当人は勝っていると思っても、実はべらぼうな勘違いなのです。
 いや、ご当人以外の諸兄には、釈迦に説法ですが、現代は、誰でも、一人前に意見をぶてるので、こうした「屑意見」がのさばるのです。
 耳障りな余談をお詫びします。

*端数の意義 訂正追記
 当時の大抵の概数計算は、千里単位などの一桁算木計算で、平易で高速であり、桁違いの端数は無視してよいのです。また、十進法であったというものの、算用数字も0も存在しないの、横書き多桁表示は存在しないのです。

 一方、戸籍集計による戸数計算は、後漢書の楽浪郡戸数のように、何百万(口/戸)あっても、一の桁まで計算しますが、これは、多数の専門官が大変な労力を要する一大事業でした。後の「晋書」地理志では、両郡の統制が衰えたため、そのような集計が不可能となり、概数になっています。

 訂正:倭人伝の戸は、各国に戸籍があっての集計でなく、概算見積もりとみるべきです。何しろ、文字記録のない時代ですから、戸籍は未整備であり、郡から要求されたら、管内戸数を見繕いするしかなかったのです。
 因みに、戸数は、各戸の農地に直結していて、管内の収穫量を申告しているものです。つまり、戸数に応じて徴税されるのです。また、各戸に複数の想定がいるとの解釈となるので、管内で動員可能な兵数の表れともなるのです。因みに、今日言う「人口」は、特に重大な意味はなかったのです。年少者や老人、婦人の数を数えても、意味がないのです。

 末羅以降の百里単位の里数は、郡や倭人には大事であっても、全体の万二千里や、先立つ七千里、三千里から見れば、端数であり、些細なのです。

 諸兄の中には、ご不快に思われる方も多いでしょうが、倭人伝は、これら余傍の国の精密な位置付けのために書かれたものではなく、また、郡から倭に至る行程記事は、当時の中原人が読めば、すらすらと読解できるように書かれたものですから、現代でも、すらすらと正解に収束するはずなのです)

*論外の「方」表示 不可思議な島巡り 訂正追記
 さて、両島の「方」表示は、韓半島との大小比較目安なので、道里計算から外すべきです。また、「方…里」は、道里と異なる面積単位との説もあり、奥野氏は、不正確らしい数字を排除して計算精度を保持したと見えます。

 古代中国で、「方…里」は、地形を表明したものではなく、管内の耕地面積の総計を示したもので、収穫量に連動しています。つまり、この際の「里」は、領域の地形、大小を示すものでなく、まして、領域を方形で近似したものでもないのです。古代の計算方法では、農地が、正方形、長方形、台形、平行四辺形、円形、半月状など、いずれの形状であっても、計算方法が明確なので、それぞれ「方里」が計算できたのです。
 管内の集計は、各戸の「方里」を足していくので、管内の農地全体がどのような形状になるか不明であっても、徴税上、農地の形状は関係無いのです。もちろん、領域内の耕作不能な荒れ地や河川流域などは、集計から除外されています。

 對馬国、一大国は、「良田」、つまり、「徴税するのに相応しい収穫の得られる農地」が少ないという泣き言を入れていて、減税ないし免税をたくらんだものと見えます。従って、戸数を規準にした課税はご勘弁いただきたい」という事です。倭人伝に掲載された趣旨は不明ですが、一応趣旨を認めたということなのでしょう。。
 因みに、「田」は、倭地では「水田」の可能性が高いのですが、本来、中原の農地は、乾田が大勢で「水田」は、例外と見られます。要は、水田田作りするにも、水を通しやすい土質と降雨量の乏しい気候が災いして、成り立たないのです。そのため、中原農家と倭地の農家では、一戸あたりの「収量」が大きく異なりますが、その辺りの補正計算は、別儀とします。言うまでもないと思うのですが、水田稲作地帯の日射量、気温、降水量から得られる収量は、中原での穀物収量に比して、隔絶して多いのです。
 いずれにしろ、積載量の限られた渡船で、大量の米俵を運ぶのは、限りなく困難なので、郡として、両国からの徴税にこだわることはないと見えます。(韓、倭には、銭がないので、中原諸国のように、農民が産米を地域の商人に売り渡して穴あき銅銭に換金し、銭綛を納めることもできないのです)

 念のため付言すると、食糧の自給自足ができない状態では、食料輸入しない限り対海国は「持続」不可能です。実際は、対海国は、南北市糴の唯一無二の寄港地であり、当然、漕ぎ手を確保した市糴船を多数所有して運行していたので、通過する貨物から運賃なり、入出港の経費をたっぷり徴収して繁栄していたのであり、例えば、一船ごとに[米俵]を献上するようにしておけば、食料は、いつも潤沢なのです。

*市糴の話~余談 2021/12/19
 そもそも、対海国は、倭の国境であり、韓国領に荷物を売るときには、一大国のような同国人との取引で買い叩かずに手加減するのとは別で、好きなだけ値付けできるので、[国際交易]の利益は潤沢であったはずです。そのような商売をするためには、半島側の港に[上屋]海港商品倉庫を持ち、市を主催して、参集した半島内各地の買い手をあしらう、対海事務所のようなものを確立し派遣した監督者が警備の兵を雇っていたはずです。(当然、買付もしていますが、「当然」なので詳しく書きません)
 倭人伝には、対海国人は、「乗船して南北市糴する」と、要点だけを書いています、国として、市糴の利益を確保するためには、そのような組織が必須であり、それは、当然自明なので、要点のみにとどめているのです。この点、余り、倭人伝「對海国条」論議で聞かないので、素人考えを書き残すことにしました。

 また、古田氏提唱の「不思議」な島巡りの数百里は、勘定に入ってないのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 2/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*狗邪韓国まで七千里
 素人考えでは、途方もない前世紀の怪物が史学界を徘徊しています。
 郡から狗邪韓国までの「街道」、つまり、中国制度で定めた連絡路が真一文字に東南に通じているのに、大きく迂回して、官制にない、危険この上ない海上を行く想定は、あり得ない、一種の怪談です。法制は別としても、魏使、郡使は皇帝下賜物を抱え、剣呑な海上を行くはずはないのです。
 郡の定例文書便は、普段は日程計算できる徒歩行、ないしは騎馬行で、時に緊急便として騎馬疾駆するものです。いずれも、中継駅で人馬交代する駅伝を採用して日程厳守です。当てにならない船便を起用するわけがありません。はなから、無法な論外なので、倭人伝に、いきなり出て来ることはないのです。

 海上経路を仮想すると、漕ぎ手も水先案内も屡々交代しますが、郡から僻遠の馬韓南部の、物資の流通は希薄なので、そのような体制は、到底維持できないのです。加えて、南岸多島海は難破必至で、とても生きて完漕できないのです。

 韓伝も倭人伝も、そうした難関に言及してないのは、「海上経路など無かった」からです。

 いや、この「水行」行程は、妖怪が不吉なら見事な画餅です。更に言うと、南下から東進に転ずる展開点が不明では、道中案内として大変な不備です。

*最初の暗転
 氏は、そのような「あり得ない」「水行七千里」を無批判に採用します。
 異論に挙げた古田、中島両氏の論は、眼をつむっても歩ける大地の「道」を通行するので、優に百年の実績があり、宿駅整備、所要日数も郡規になっているはずです。氏は、「石橋を叩いて渡る」の故事を失念して、石橋どころか、揺らぎ続ける木船に命を預けるというのです。

 氏も引用する帯方郡下の弁辰産鉄は、所定の運送手段、最短経路で両郡に運ばれ、日限のある輸送は、不安定な海上「迂回」路でないのは明白でしょう。

 郡~狗邪陸路ですが、郡治から概して東、南に下り、途中、竹嶺(チュンニョン)の険で小白山地を越える経路は、地図上の直線と大差なく、里数は概数に紛れるはずです。(峠道と言いたいところですが、「峠」は、中国語にない「国字」なので、不適切なのです)

*水行と渡海
 それぞれ千里の渡しですが、実測は無意味です。一日がかりの長丁場に過ぎず、千里に距離としての意義はないので、現代人が地図上の「距離」なり想定航路長と対照した数字に意味はなく、郡~狗邪間の街道とと同列に論ずべきではありません。

*里程論に提言
 あえて、郡~狗邪行程を元に倭人伝「里」を推定すれば八十㍍程度で、氏の言う九十㍍と大差ないのですが、郡が「実際に」、つまり、後漢~魏の機関として、そのような「普通里」に反する里を敷いたとの根拠はないのです。
 素人考えでは、陳寿が、魏史編纂段階で、恐らく公孫氏時代に提出された原資料の「万二千里」に妥協して、特に宣言した倭人伝「里」と見えるのです。いくら不合理でも、既に皇帝の閲覧/印璽を得た公文書は、改訂できないのです。そうでもなければ、正史としてのけじめがつかないのです。

 氏が何気なく書いた道里論を考察するには、以上のような厖大な論議をたて、更に論議を重ねる必要があります。追試のない無批判な追従は、不用意で不信を招くだけです。ちなみに、当方は、倭人伝戸数里数談義に挑んだものの、諸兄諸論の検証に、多大な消耗を重ねたものです。

 諸兄が各国比定を論じる場合は、郡~狗邪行程に両論ありと流して、取っつきに『倭人伝里は、百㍍より短い八十㍍程度と見られるので、以下、この「倭里」を規準とします。』との臨時定義」が賢明でしょう。臨時定義」 は、ある意味「地域定義」(local)であり、定義位置から、倭人伝結尾までに限定して有効です。 あるいは、提示された「倭人」世界に専用です。

 本論以前に、中途半端な口説で躓き石をまかないことです。

〇端的でない路程
 氏は、続いて、「2 帯方郡から狗邪韓国まで」と題して、行程を論じますが、倭人伝に関して、解釈に異論が絶えない、そして、異論が克服さてれいない岩波文庫の現代語訳をもとに解釈して、先に参照した奥野氏の解読などの有力な異論を参照しないのは不審です。以下、同様です。

 当記事と違って、紙数があるので、依拠資料は丁寧に明示すべきでしょう。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 3/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
 私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、この間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の異論を紹介していますが、「歴韓国」の歴の解釈だけを掘り下げて、異論不採用の弁としているは不審です。両氏は、実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて、「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。

 古田氏は、今や古典となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時水行南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里行程を提示しています。素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に至る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない行程とするには、賛同しがたいのですが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 それぞれ、誰の口から出た学説であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすとこはできないのです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを河川沿いの「陸行」に止めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄後漢書再評価
 氏は、素人目には魏代史料として二流の范曄後漢書が「国々皆王と称す」と倭人伝を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。

 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。

 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。

 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。
 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。

 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

*異論
 対馬陸行について、榊原氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは、「渡船」の任務を食みだし、回航は、漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 人と物を端的に陸峡越えさせて、南東側から対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などで滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地 内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。
 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて、船体を運ぶ必要がないことから、「船越」は、船荷の峠越えと見る方が理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないので、連年実施できる合理的な輸送法なのです。
 陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 ここで、塩田氏は険路数百里の移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、極めつきの激流とされていて、それなら最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。倭人伝で言う「瀚海」は、やはり、特別の意味を持つと見えるのですが、詳しくはわかりません。ということで、問題提起だけしておきます。

 渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。倭人伝も、区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。

 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。

 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 4/5

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*「禽鹿徑」談義

 「禽鹿徑」は、道里行程用語ではなく、つまり、「径」は、「道」「路」と異なり、官制外であって、路面整備も宿駅もないのです。
 倭地に「道」や「路」が一切ないわけはありません。「市糴」は大小軽重交易物の搬送で道路が必須です。ここは、例外特記なのです。何しろ、対海国は、渡海して至り渡海して去るので、陸上行程は官道ではなく、道里もないのです。

 つまり、「禽鹿徑」は、恐らく峠越えの近道、間道で、例外的に路面が荒れた坂道であり、二本脚の「痩せ馬」が喘ぐような隘路との趣旨でしょう。「市糴路」とすれば、ほんの一部としか思えないのです。
 因みに、某サイトで、「けものみち」と称する写真が、無造作に掲示されていましたが、何も「みち」らしいものは映っていないので、困りました。いくらけものでも、藪が踏み分けられていなければ、通れないのです。まして、人馬といいながら、馬や騾馬の力を借りられないのでは、「痩せ馬」のお世話にならざるを得ないのです。(峠は、「漢字」ではないのですが、適当な中国語が無いの、代えられないのです)

 これまでに出てきた郡~狗邪の長途は、通い慣れた、人馬の通行を前提に整備された街道筋であり、概して「陸道」です。半島中央の小白山地の竹嶺(チュンニョン)越だけは、鹿数頭が並べる程度の山道(three deer abreast?)と見えるので、一見「禽鹿徑」のようですが、傾斜を緩和するつづら折れは人馬の路ならではの整備された姿です。と言うことで、寸鉄人を刺す史官の筆を見くびるのは損です。

 因みに、後に、末羅国でことさら「陸行」と書いたのは、そこまでの「道」のない不正規の渡海「水行」が、正規の「陸道」に戻ったと確認しているのです。別に、一貫して、渡船に乗り続けたものではないのです。(以下、「女王居処」までの行程道里で、陳寿の辞書による「水行」はないのです。つまり、投馬国への水行は別儀なのです

▢一大条~余談あり
 氏は、榊原氏の言う「一大島内陸行」を否定する論拠として、倭人伝に記述がないことを挙げますが、書記役や史官が自明と見た記事は割愛されるのです。氏は、他にも、一国で特筆されている事項は、他国でも共通と談じていますが、無断で省略して良いのは、古典、史書で自明とされた事項であり、他は、明記して省略しなければならないのです。

 一部論者は、倭人伝の悪路を、倭地の普遍的なものと見ただけでは収まらず、韓地内の状態も同様であった、即ち、韓地内の陸上移動は、危険であったと言い立てていますが、根拠のない暴論に過ぎません。韓地には、つづら折れの山道は会っても、蜀の桟道のような崖に貼り付いた官道などないのです。

 確認すると、対海条で「禽鹿径」と書かれているのは、その区間の特定の部分を述べているに過ぎないのです。また、一大国に陸上行程があったとしても、官道ではなく道里もないのです。

 倭人伝には、「南北市糴」と書かれていますから、相当量の荷物が往来していたのであり、人が背負って運ぶにしろ、ある程度の整備はされていたとみるべきです。根拠なく倭人の知恵を見くびってはなりません。

 市糴の陸上搬送は、小分けして担ぐので担い手に事欠かず、また、日程厳守の文書使等と違い、寸秒を争わないでよいので、万事ゆるゆるです。そもそも、東夷の市糴は、量が知れているのです。むしろ、弁辰産鉄の両郡納入がお荷物でしょうが、その分報われるのです。
 それにしても、一部杞憂を示されている向きがありますが、倭地を往還する魏使は士人ですから、自ら荷運びの労を担うことはないのです。正史、副使には、輿などの便が供されたはずであり、士人が、蛮地の泥に足士を置いたとは、書かれていません。

 こうした点を見過ごした論議は、「非常識」で難物です。

▢末羅条
 素人考えですが、渡船は元来直行のみであり、市糴の荷物を運ぶためには、船を大型化するのでなく、数で稼いだのです。つまり、極力便数を増やしたものと見ます。
 渡船が着くと、手近の「臨海倉庫」に荷揚げして陸送に委ね、新たに荷を積み漕ぎ手を代えて、手早く折り返しの帰り船としたと見ます。

 深入りして、他にも輸送手段のある陸地に上陸できるのに、いたずらに航路を延ばすと、漕ぎ手が多く必要となり、そんなことでは、積み荷を大して積み込めない渡船の槽運収益は出ないのです。現代風に言うと、難所の漕ぎ手という専門職、高給取りの人件費がどんどん募るのです。
 まして、荒海を漕ぎ渡るために頑丈に作られた渡海船で、内陸河川を漕ぎ上るなど無謀そのものです。まして、渡海船の山越えなど、無謀の極みです。漕ぎ手込みの全重量の大半は、船隊であり、遡行するだけでも、無謀です。非常識は、時代を越えて非常識なのです。

*草木繁茂
 書かれている「草木繁茂」ですが、酷評だけではないのです。
 各国は、市糴の運送、通行に支障ない程度に公道を整備していたはずです。それでも、ちょっと油断する目と草木が繁るのは、温暖湿潤な倭地ならではの現象です。稲作の繁盛が想定されていたのかも知れません。これは、乾燥した黄土地帯ではあり得ない景色を特筆(誇張)した賛辞かも知れないのです。

 末羅国は、山の迫った海辺ということですが、戸数から見て、結構、農地があり、農耕に勤しむ住民がいて、道路整備に人手不足は無かったはずです。古来、勤労動員は税の要素であり、荷運びにも動員できたのです。後世、律令制度で定めた租庸調と並べた税務三要素の一件なのです。

▢伊都条
*戸数談義
 翰苑所引 魚豢「魏略」引用による万戸想定は、子供じみた錯誤でしょう。

 「魏略」は、魏朝史官の手になる同時代一級史料ですが、魏志裴注での「西戎伝」全文引用が、魏志同等の最上の継承がされているのに対して、残る諸書所引の佚文は、書印された時点から史料として粗雑であり、それも、子引き、孫引きのうろ覚えと推定されます。
 就中、「翰苑」残簡に引用された魚豢「魏略」佚文は、筆写継承の過程で累積したと思われる誤記、誤写が多発していて、厳格な史料批判無しに、文献史料として依拠すべきではないのです。伊都国戸数の史料と見ると、信頼すべき史料と検証されている倭人伝に、千戸単位で書かれている以上、信頼性を検証されていない「万戸」は、誤記とみて排除すべきなのです。この点、本末転倒の議論が徘徊するのは、当分野独特なのか。国内史学会の遺風なのか、不明ですが、場外に排除すべきです。

 史料評価て言えば、「翰苑」残簡は、魚豢が責任を持った「魏略」原著の適確な引用とは見えず、そのようないい加減な資料に依存する論理のすすめ方は、粗暴、乱雑です。当ブログ筆者は、入念に「翰苑」残簡の影印本の諸処を点検した上で、史料として信ずるべきでないと提言しているのであり、勝手な印象批評で述べているのではないのです。

 それとも、諸兄の手元には、「千」と「万」とを誤写した正史異本史料が山とあるのでしょうか。

 正史を訂正するには、参照資料を厳密に史料批判するのが先決です。文献解釈を、見くびっているのではないでしょうか。

 史料としての信頼の置けない、「ごみ同然の佚文」で、正史として編纂され継承された大部の倭人伝を改竄するのは、度外れた不当な処理です。

 伊都国戸数を言うならば、倭人伝の千餘戸を断固維持するのが正論でしょう。

 それにしても、信頼性が不確かなほど、記事が極端なほど、史料として厚く信用されるというのは、どのような妖怪の仕業なのか、いや、別に取り憑かれたいというわけではないのですが。

 因みに、「戸」は、耕作地割り当て、課税、徴兵、労務動員の際の規準であり、必ずしも、成人人口の要素ではありません。

 例えば、王の居処が、国家の中枢として機能するには、多数の官奴、公務員を要し、また、公費で雇っている公務員に課税するのは無意味であり、また、公務員を勤労動員したり派兵したりすると、国家の機構が機能しなくなるから、官奴の戸を、一般世帯並みに戸数に計上して、課税、徴兵、労務動員 の義務を課してはならないのです。

 また、王の居処は、農民比率が低いので、各戸に耕作地を割り当てないかも知れないのです。と言っても、全ての官奴が、専業だったかどうかは、わかりません。

 と言うことで、伊都国は、農戸千戸程度であっても、大国、ここでは人口規模の大きい国だった可能性が、十分にあるのです。

*国邑談義~再訪
 倭人伝冒頭で予告されているのは、以下の郡倭行程上の各国は、「国邑」、つまり、殷代に中原で展開していたような隔壁集落という確認であり、伊都国は、後代の「国」としては、小規模であった可能性もあるのです。少なくとも、倭人伝は、行程上の各国、對海國、一大国、末羅国、伊都国は、せいぜい数千戸規模の国邑と統一されていて、そのような世界観に従うべきです。
 因みに、倭人伝の行程記事から見ると、奴国、不弥国、投馬国は、余傍の国であり、行程上ではないので、無造作に、数万戸と書かれているものと思われます。あるいは、風聞でしかない「レジェンド」、つまり、雲の上の「国」として書かれているのかも知れないのです。

 倭人伝の語法、世界観が理解できないために、自説となっている「思い込み」に合うように、不合理な「原典改竄」に走るのであり、虚飾を棄て、わからないことはわからないと認めるべきであり、自己中心の尺度で塗り込めるべきではないのです。

 伊都の「津」、船着場に文書や使者が来たとは、身軽な文書便等は、渡船と別仕立ての便船で脚を伸ばしたとの趣旨でしょう。道里談義は、よくよく考えれば明解ですが、現代人の勘で安直に理解できるほど単純ではありません。

▢諸国条
 以下、氏は、奴国、不彌、投馬を有力国と見て、国内後世資料や考古学所見、現代地図まで援用して滔々と論じますが、当方は、伊都~倭直行道里専攻で絞り込んでいるので、「有力国」論は圏外、無縁としていて、地理、風土、地名論、国内史料論共々、謹んで読み飛ばしました。おかげで、万事明解です。
 そもそも、これら「有力国」が、倭人伝にとって重要と見ていれば、このような書き飛ばしでは済まないのです。倭人伝が主題としている諸国は、行程上の諸国であり、他は、あくまでも余傍のなかば無名の「レジェンド」に過ぎないのです。

▢最後の道里論~根拠を隠した異様な提示
 氏の諸国道里論は、世上流布している直線行路を採らず、古田氏創唱と思われる不彌起点放射状行路に見えますが、所要期間は郡基点としています
 どうも、ぽっと出の生煮え新説に無批判に飛びついてさっさと書き抜けたのは、巷間、異議轟々予想され、論文として不用意と見えます。

 いや、文意を察するに、氏の支持する河村哲夫氏の指導に従ったものでしょうが、肝心の河村説は、どこにも示されていません。参考資料に掲載はされているのは、一般に流通していない、カルチャーセンターの講義資料であり、席上配布を受けていない、不参加の一般人には、その内容を知ることはできません。ということで、氏の帯方郡起点説提示は、大変無責任なものになっています。

 これでは、河村氏の史学者としての名声に泥を塗る形になっています。もっとも、このような大胆な論断を、川村氏自身が、参照可能な論考の形で発表していない点が事の起こりなので、河村氏は、史学者を自認していないのかも知れませんが、何しろ、氏の講義録の原文を目にしていないので、勝手な推定に過ぎません。
 いや、後日、史料を取り寄せたのですが、典拠となる記述は見当たらないので困惑しています。

 ただし、道里記事が冒頭「従郡至倭」で開始し、諸国を経た後、「女王の居処(都する)ところ」が結末となって、その後に、全行程の水行陸行期間が続いたとの解釈なら、大局的には同感できます。たたし、真理は細部に宿るので、別に大した同感ではないのかも知れません。

*「国邑」道里観~2021/12/11, 19
 私見では、倭人伝の世界観に従うと、伊都国の王城である「国邑」と女王居所の王城である「国邑」は、中国古代の聚落の定型として、共通した外部隔壁に囲まれ、同一聚落に包含されていたとも見えます。
 であれば、伊都国から先の道里は存在しないのです。この見方は、古田氏の見解と似ていますが、古田氏は、両国とも、王城はそれぞれの「広がりを持つ」支配領域内にあって、王城同士は直接隣接していないが支配領域が接しているので、道里を計上しなかったというものであり、中国古代の常識として、国間道里は、王城間の道里とすると言う定則に反していて、世界観が異なります。
 なお、千里単位の道里表記では、十里代の道里は書きようがないし、郡倭道里は里単位のものなので、本来百里単位の道里は、積算計算に乗らず、まして、十里単位の短道里は、計算に弱い読者を混乱させるので、このあたりの道里は、表記を避けているものと思われます。
 以上、この場では説明しきれないので、店仕舞いします。 

▢異様な投馬国道里
 細かく言うと、氏による有力国でありながら道里不明の傍路で済まされている投馬国行程の扱いが何とも面妖で、良くこのような形式不備の論文が、季刊「邪馬台国」誌の懸賞論文審査を通過したかと不思議です。

 氏の主張する内容は、氏の考察の結果、氏の見識の反映ですから、尊重するものですが、論文としての形式不備は、それ以前の低次元の欠点なので、ことさら「非難」するものです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 5/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*「異論」の究明
 あわてて取り上げたのは、ある程度通じた作業仮説なのでしょうが、提言された「郡~投馬」行程の後半は傍路であり、傍路諸国は不詳といいながら、わざわざこう書いたと見る理由が不可解です。陳寿は、確固たる編纂方針を貫けない、魯鈍なのでしょうか。ことは、倭人伝の冒頭、せいぜい五百字程度なのです。

 内容を見ると、郡からの「七千里」沿岸航行に続き三度の渡海、計「三千里」で「計一万里」となり、郡から末羅までの途方もなく遠大な行程を「水行一日千里」で「十日」行程とした上で、残る末羅から陸行(二千里)一ヵ月(一日七十里で三十日)で、王の居処に着くものと見ていますが、それ自体は明快です。

 ただし、投馬行程に明記された水行「二十日」は、郡から末羅国に至る水行「一万里」、「十日」に対して、残る「十日」の行程が続いているとの解釈は、氏の所説としての筋が通らず、持って回ったこじつけで、根拠不明です。
 仕方が無いので、一読者として検算します。

〇万里の彼方の投馬国
 すると、郡~末羅の水行十日は、万里十日、一日千里の速度となり、一里90㍍なら一日90㌔㍍ です。中原官道では、騎馬も想定した上で一日25㌔㍍ 程度と設定されていますが、これはその四倍近い快速であり、とんでもない齟齬です。
 一方、末羅から陸上移動一ヵ月は、一日10㌔㍍程度と見ても、行程道里が300㌔㍍になんなんとして九州に収まらず、別の齟齬です。

 また、投馬国への残りの水行十日は、道里として一万里となってしまいます。要は、氏の言い分では、半島を通過した上に海峡を渡るのに匹敵する「水行」が必要という事です。どこまで行きたいのでしょうか。

 当論文には、こうした初歩的な検算すら書いていないのです。

〇もう一つの異論
 当方は、郡~狗邪の半島内行程は、「当然、自明」の「陸行」と見ます。古来、公式道里、行程は、陸上の街道行程であり、従って、殊更、「陸行」とは書いてはならないのです。何しろ、行程の出発点は、帯方郡の郡治、つまり、内陸の一点であり、当然、陸上を行くのです。具体的には、東に進んで北漢江の流域に下り、以下、流路沿いに南下すれば、確実に、南漢江との合流点に到着し、そこから、さらに流路沿いに南下すれば、順調に、小白山地の麓に到着するのです。
 既に、百年以上運用され、弁辰鉄山の産鉄が両郡に納入された公道でもあります。

 記事で直後の「循海岸水行」は、後出の渡海を「水行」と呼ぶと予告するものであって、世上誤解されているように、行程の成り行きを書いたものではありません。
 郡から「東南」方の倭に向かうのに、いきなり、大きな迂回となる海岸に向かうはずはなく、街道は半島内を「南下」するのですが、「当然、自明」なので書いていないのです。倭人伝の道里行程記事の意味を理解すれば、「道里」の測れない、日程の確定できない不規則な移動が予定されていると想定するのは、大間違いとわかるはずです。

 倭人伝独自で官制に無い新規の「水行」十日は、狗邪~末羅間の三度の渡海、計三千里に限定であり、一日三百里、25㌔㍍と見ます。海上に「道」は無く、また、行程の途上で船中泊するものでもないので、一日三百里と称するのは無意味なのですが、「水行」「陸行」と並記するので、一日あたりの行程を計算してしまうのです。

 「陸行」の大半七千里は郡街道であり、一日三百里で二十日強と見て、残る末羅から十日行程は道路事情不明ですが、そこそこの市糴道と推定しますが、未開地なので、実情はわかりません。陸行一月で「確定申告」しているので、多少の支障・遅延は、想定済みというものでしょう。

 以上、文献上の論拠は乏しいものの「論」の筋は通ると見るのです。

〇論文審査の不備
 当論文で、この点のダメ出しがされてないから、本誌は、論文査読で簡単な検算をしないのかと見るのです。これは、文系、理系の問題ではありません。新米社員でもできる、単純な検算です。率直に言うと、怠慢です。

 生身の人間には、時に勘違いはありますが、最後に控えた編集部査読は、いわばサッカーのゴールキーパーであり、取りこぼしは即失点です。おかげで、氏は、簡単な検算もできない欠陥論者として記録に残るのです。

〇是正~ダブルチェック
 やるべきことは簡単です。暗算とは言わないまでも、筆算ででも検算するのです。検算は、一回でなく、縦横を変えて二回行うのです。そして、計算が合わなければ、入れた数字が間違っているか、計算が間違っているかです。是正とは、誤りを見つけて適確に正すことです。それが、実務の形です。

 今回の事例で言うと、投馬道里が帯方郡基点との見方も、郡~狗邪を海上七千里との解釈も、揃って間違い」であり、とすれば、堂々と再考できます。お手数ではありますが、そのような面倒な検算で間違いを発見した後、誤入力、誤算を是正すれば、順当な正解に至るのです。結果だけ見れば、すらすらと行ったように見えるかも知れませんが、そのように見せるためには、検算、推敲が欠かせないのです。

 具体的に言うと、投馬国行程を郡起点から外し、狗邪までを「水行」から外せば、「水行、陸行」は、明解です。
 この場合、大局を正せば細部は付いてきます。大事な所論の足場は、灼いて槌打ちし水中に投じて鋭鋒とすべきです。不愉快でも、論文は火と水の試錬で確立するのです。時には自分自身でです。

〇まとめ
 当方は、善良な読者ですから、季刊「邪馬台国誌」の課題論文優秀賞作の書評に取り組みました。冒頭提言での落胆に続く、締めくくり部の落とし穴に憤慨したのですが、今さら棄却できないので公開しています。

 いくら新鮮な取り組みの意気込みは壮と見えても、論文の本分である正確な考察と闊達な論考が、提示から結論に至るまで、適確な手順で展開、論述されていなければ、冷静な読者の信を得て、動かすことはないのです。

                               以上

2021年12月 9日 (木)

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 1/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読       2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09

□総評
 広く衆知を集め、かつ、編集部の交通整理が添えられて、見事なパノラマを成しています。各論は論文審査で体裁が整っていて学術雑誌としての品格が見事です。倭人伝里程論は、当誌の記事を踏襲することが必須なのです。

□序論~芳醇な前菜
 と言いつつ、編集部の「里程論入門 諸説を整理する」なる序論は、序論の域を超えて、以下の諸論の核心にも言及し、ここだけで満腹になる芳醇、潤沢な前菜です。例えば、茂在氏論文は、かなりの部分が紹介の分を越えて、先触れされています。

 全体の味付けが、おそらく九州濃厚風なのは、本誌の持ち味であり、こてこての畿内論者は不満たらたらでしょう。核心の短里論も、「史料で解釈すれば短里に決まり」に近くて「誇張説」論者は、歯ぎしりしつつ座視しているようです。

 埋め合わせに、当特集に論考を寄せてない榎一雄氏、安本美典氏、古田武彦氏の先賢の里程論に加えて、当分野で新進気鋭の森繁弘氏の方位論が紹介されていて、その意味でも、さらに混ぜっ返しただけで、交通整理などと言うものではないようです。

 特に、森繁弘氏著作は、旧肥前国松浦郡の東西、南北地名が、地図上の東西南北と対比して、西方、つまり反時計回りに九十度回転と見える(仮設のタネとなる思い付き)ことを根拠に、これが、「(魏の使いの)張昭」の方位観を曲げたと推定していますが、張昭は、魏使でなく、後年、女王国の難局に派遣された郡武官の実務家で、蛮地の未整備漢字地名で方位感覚を崩されたとは思えないのです。
 と言うことで、苦心の奇想(「奇」は、古典的な褒め言葉です。念のため)も、水没しかけた畿内説を浮上させるとは思えないのです。

 但し、記事中の里数表が、「後世に害毒を流している」とわかったので、学術的な批判を補充しました。

*目次 全十六篇 附番は当ブログのもの
 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程           茂在 寅男
 2 魏使は、遠賀川を遡った                松井 芳明
 3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程         西岡 光
 4 邪馬台国への道のり                  山田 平
 5 里程から見た邪馬台国                 船迫 弘
 6 「方」について                                                 米田 実
 7 三国志の「里」について                小坂 良彦
 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位               藤原 俊治
 9 「魏晋朝短里説」について               後藤 義乗
10 「周髀算経」の里程について              谷本 茂
11 末羅国放射式批判                   川谷 真
12 「水行」の速さと「陸行」の速さ            中村 武久
13 「黄道修正説」は誤りである              道家 康之助
14 「魏志」「倭人伝」の方位                   早川 清治
15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程      山田 平
16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観             謝 銘仁

                             未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 2/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読            2019/07/16 補充 2021/12/09

*表2「魏志」「倭人伝」の1里は何メートルか
       「魏志倭人伝」の記述    実際の距離(中数)  一里は何㍍か
帯方郡→狗邪韓国  7000余里     630-710km(670km)     96m弱 
狗邪韓国→対馬国  1000余里      64-120km(92km)      92m弱
対馬国→壱岐国   1000余里       53-138km(98km)       98m弱
壱岐国→末廬国   1000余里        33-  68km(51km)       51m弱 
末廬国→伊都国    500里         32-  47km(40km)     80m
伊都国→奴国     100里          23-  30km(26.5km)   265m
奴国→不弥国     100里         6-  24km(15km)     150m 
合計        10700余里      912.5km             93m 
 これは、記事内の作表を若干加工して引用したものです。念のため補足すると、「合計」は、記述されていません。
 率直なところ、数字表記が時代錯誤で古代人には理解不可能だから、史学上の考察に不適当なので、まずは、擬古代式にしてみます。(公里 ㌔㍍  公尺 ㍍)

*「魏志 倭人伝」の一里は何公尺(㍍)か 
 区   間      記述里数    推定路程(道のり)     一里の公尺     
帯方郡~狗邪韓国  七千里     六百 ~ 七百 公里   九十~百公尺    
狗邪韓国~對海国   千里     六十 ~ 百二十公里   六十~百二十公尺
對海国~一大国    千里     五十 ~ 百四十公里   五十~百四十公尺
一大国~末廬国    千里     三十 ~  七十公里   三十~七十公尺   
末廬国~伊都国    五百里    三十 ~  五十公里   六十~百公尺
伊都国~奴国     百里     二十 ~  三十公里   二百~三百公尺
奴国~不弥国     百里      五 ~  二十公里   五十~二百公尺    
合計 (無意味)  一万里     八百 ~  千百公里   九十~百十公尺    

*問題点山積
 第一歩として、算用数字は、古代史に根本的に無意味なので漢数字で書いて評価すべきです。古代史学のイロハのイですが、不都合に気づかない先覚者に、何も考えずに追随していることが多いのです。

 一見、よくわからないのは、古代記法のせいもありますが、元々、幾つかの素性の異なる項が並んでいるからであり、もともと込み入っているのです。

 表形式で枠に収まっていたとき明快と感じたのは、結果だけ眺めたからであり、かくの如く図表はごまかしの道具立てにされやすいのです。
 全て嘘と言わないものの演出です。きれいな図表を見たら、ともあれ眉唾です。
 
古代人が図表なしで文章説明したのだから、現代人も、図表なしに理解し表現できる筈だと思うからです。
 改訂表の抹消項目が棄却された理由は、追って説明します。

*概数表記の確認
 なお、倭人伝の「余」は、はした切り捨てでなく概数の中心値表示であり、当方は、概数は自明ということで省略すると決めています。
 漢数字の良いところは、全て、一の桁まででなく上位の一桁だけが「実」とわかることです。算用数字では、どこまでが「実」で、どこからが、「体裁」なのか、見えないのです。

 どちらも、誤解されて議論を曲げている例を散見するので、念押しです。

                               未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 3/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読            2019/07/16  2020/05/06 補充 2021/12/09

*悪表の祟り
 自分で筆算計算して作表したら、五㌔㍍~七百㌔㍍の大小バラバラの数字を縦に並べる集計表の無意味さがわかったはずです。
 区間によって実質の大きく異なる数字を、お構いなしに並べて、単純に足し算し、平均しているからですが、この点にこだわっても無意味なので深入りせず両断します。「実際の距離」は虚辞です。実際がわかれば苦労しません。

 こうしてみれば、計算結果は別として、全て、一桁概数の世界であることがわかります。これが、古代人の見た数字なのです。

*反則退場連発
 千里単位の概数里数に、百の位の里数を足すのは、概数計算の反則であり、また、路程の根拠も不明で、データとして無意味です。
 渡海里数は測定不能で、陳寿は「概念」を書いたのだから、データとして無意味です。


 無意味なデータを足し加えて平均するのは、愚行なのでゴミとして抹消します。
 データ紛いのゴミを持ち込むのは、史学論として自滅行為です。

 かくして、辛うじて郡~狗邪間が生き残っていますが、実際は経路審議中で、路程は不明ですから、概数以前の問題で計算が無意味です。ただし、この項を棄てると何も残らないので、計算の問題点を示すために、棄てるのを暫しとどめます。

*味噌こしの底~辛うじてデータの片鱗
 帯方郡~狗邪韓国 七千(余)里 六百 ~ 七百公里 九十 ~ 百公尺
 と書いたものの、区間里数は六千~八千里程度の幅は覚悟すべきです。根拠なしにこの間を六百~七百公里と見る不具合に眼をつむると、一里は、七十五~百二十公尺と広がります。
 こうして、現代人感覚で見ると途方もなく見えるほど幅が広がることを見て頂くために、あえて、不確かなデータを評価したのです。それにしても、とかく誤用される「中心値」は、時代錯誤の場違いなものなので、有害なものでしかないのです。


 ひいき目に見て幅を狭めてもこの程度です。但し、これほどおおざっぱに見ても、「普通里」の四百五十公尺とは格段に違って混同の可能性はなく、倭人伝の「従郡至倭」行程の道里が、「普通里」の数分の一の「里」で書かれているのは明白です。

 議論の核心は正鵠を得ているので、当初、この不都合には眼をつむったのです。欠点の無いものは無いのです。


*謙虚な推定~エレガントな解答例
 以上のように、整然として見える計算表が、実は意味の無い「想像の産物」と気づけば、つまり、なんでもお見通しという後世人の傲慢な視点を棄てて謙虚に読めば、これだけの記事すら史料として読めてないとわかるのです。

 立ち待ちでなく、しゃがんで地べたを見れば、うっすらと進むべき道が見えるはずです。まず成すべきは、倭人伝記事から陳寿の深意を知ることであり、陳寿すら把握できてなかった史実を知ることではないのです。

 中国では、太古以来、無批判追随の危険は知られていて、「前車の轍」という比喩が戒めです。自分の目で前途を見定めることです。

*まとめ
 引用表は、季刊 「邪馬台国」 第35号に掲載されましたが、三十年余を歴て、長く広く参照され、追随、踏襲されていることに、一面、深甚の敬意を覚えると共に、その罪の深さを歎くのです。

 安本美典氏の表明された編集方針を見るに、願わくば、掲載論文の原器となり得る矍鑠たる存在であって欲しいと思うものです。何しろ、この世に、同誌ほど学術論文の原点を守っている商業誌、軽出版物は存在しないからです。

                               完

新・私の本棚 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1 1/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
  私の見立て ★★★★★ 必読                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で、「九州説」に立っています。また、倭人伝に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ「問題」は「解明」できるいう冷静で知的な立場に同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論
 続く、三度の渡海について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千余里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。
 多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が批判したいのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です

 参照された海図は、現代のものであり、当時は、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な航程で六百五十㌔㍍ なら、当時の船でも大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話ですが。

 但し、この間の行程長の評価で、海図を採用しているのは、同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、話が早いのです。
                                未完

新・私の本棚 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1 2/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
                                                    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11
〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に、波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は、不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が、悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船を徴発しても半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。
 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が、実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。
 訓練不十分な一般人に唐代史料の軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 倭人伝で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。
 いずれにしろ、官道は往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。

*韓地官道論
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に開通していました。つまり、魏の官制に基づき、道路としての整備はもとより、所定の「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、余裕を見るものです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数で、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、倭人伝原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 論者による本稿は、そのような凡愚の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになってるいると見るからです。
 妄言多謝。 
                             この項完

新・私の本棚 松井 芳明 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2 1/1

 2 魏使は、遠賀川を遡った        松井芳明
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積                2019/01/28 追記 2020/10/07  補充 2021/12/09

*前置き
 当論文は、里程論と言うより人口論のおまけであり、その点で、同誌特集の趣旨を外れかけているとともに、当方の守備範囲を外れています。
 当然、行程記事は順行型解釈であり、投馬国から南水行十日、陸行一月で王城に到る」と解釈しているので、当方の仮説とは別次元となっています。つまり、重ね重ね批判の対象外です。 
 と言うものの、不審な点は率直に指摘します。

*「母なる淀川」賛
 当方としては、実見したことのない遠賀川が緩やかな流れであることにとやかく言う資格はないので、論評はご遠慮します。但し、いかなる河勢であろうと、たっぷり荷を積んだ荷船を、流れに逆らって漕ぎ上がるのは、大変な重労働であり、この点を考慮しない「水行」論は、ただの思い付きに過ぎません。と言っても、川岸から、人海戦術で曳き船するのも、所詮、船体を引き摺っているのに等しく、労力の大半は空費されることになります。
 
 引き合いに出された二大河川の一つ、淀川は、太古以来、上流に安定した水源とした琵琶湖があり、途中に大規模な調整池、巨椋池もあったので、豊富で安定した水量、しかも緩やかな流れであったであろうとの推定には同感です。
 古代に於いて、淀川水系は、河内の大動脈だけでなく、伏見から琵琶湖への流れと、南流木津川の中流で下船して、南のなら山を越えて奈良盆地に入る流れと、二大「幹線」を擁していました。偉大な、母なる大河と言うべきです。

*あて違いな大和川
 ここで、随分不審なのは、大和川は太古以来、緩やかな流れであったとの評価です。何か、具体的な根拠をお持ちなのでしょうか。
 
 大和川は、今日の川筋と異なり、江戸時代に大規模な付け替えで河内平野南部を西に一直線に流れる天井川に改造される以前の旧大和川は、奈良盆地から奔流となって下っていて、南河内から合流する石川と共に、河内平野に土砂をまき散らす急流だったのです。つまり、河内平野は、その堆積の大半が、渇水期はあっても雨期の急流を齎した大和川の賜物と思うです。そんな途方もない暴れ川が、「緩やかな流れ」で河内奈良間の水運を支えていたとは、何かの勘違いだと思うのです。

 ちなみに、入念な治水工事が施された現代に於いても、水源地帯で広く豪雨に見舞われるなど、歴史的な出水時には、広域で氾濫する暴れ川であることは変わっていません。

 重ねて言いますが、琵琶湖という水瓶を水源とする淀川は、水量豊富で安定しているという点で、他に例を見ない大河なのです。この点の認識が甘ければ、机上の曲芸で無理な類推を捻り出していることになります。

 この部分の展開は、論考全体の信頼性を損なっているので、一度、情報源を確認いただきたいのです。

*遠すぎる回り道
 また、遠賀川上流の投馬国から王城へどう行くにしても、伊都国から南に直行すれば、僅かな、あるいは、そこそこの日数で到着するのに、わざわざ漕ぎ手に負担のかかる河川遡行で、延々と道草を食うのか、同感しがたいのです。いや、これは、氏以外の巡行方行程説に共通するのですが、ここでも持ち出すことにしました。

 図示された鉄道路線比喩は、氏ほどの見識の持ち主にしては大変不出来です。(友人に言うとしたら、「アホか」です)ご自身は納得しているのでしょうが、古代人の目で見た時どう感じられるかのだめ出しが欠けているように思えます。

 使節視点で言うと、鹿児島(?)から、百人になりそうな大勢で、大層な重荷を引っ提げて、延々人力車輌(鉄道比喩です。念のため)で長旅し、疲労困憊で東京目前の品川に着いたのに、なぜ、その上に何日も掛けて渋谷、新宿、池袋、上野、秋葉原と大迂回するのかという事です。
 使節団自身の辛苦に加えて、現地採用の荷運び人夫は嵩むし、人力車輌の運行もあって労力は厖大、各駅一泊で地元は負担厖大です。


 図示したのは、古代の難業を意識の外に追いやり、今日の電車移動並の楽勝との見せかけ(イリュージョン)でしょうか。電車でも、電気無しの手押しとなれば、車体重量が厖大で、楽勝とはほど遠いので、妥当な比喩としては、トロッコ押しでも想定するのでしょうか。

 また、大量の下賜物を抱えた使節団の行程に限るとしても、普段は官道として使用していないはずの山越えの裏街道を、なぜ長々と道中するのか。大変、大変不思議です。

 これは、当方が、放射行程、即ち、伊都国から王城の軽快な行程解釈に荷担して、道草論に荷担しない理由でもあります。

 人口論にも、行程道草論の本体にも深入りしませんが、よほど丁寧に、真剣に説き聞かせていただかないと、時代錯誤、世界観錯誤の重層で、不審感の重ね塗りになります。

                              この項完

新・私の本棚 西岡 光 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 3 1/1

 3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程 西岡光
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*前置き
 「はじめに」として、「『魏志』「倭人伝」が、日本古代史を考える際の客観性をもつ有力な史料」と書き起こしていますが、何やら不吉な煙が立ち上っています。どうも、倭人伝考証は、「日本古代史」の辺境題材と見くびっているようです。視点倒錯、夜郎自大史観と言うべきですが、これは、氏の個人的な感慨ではないので、まことに勿体ないとだけ言い置きます。

 それは、初心者の自己陶酔のように思うます。率直に、倭人伝に関する知識と経験の不足を自覚して、初心者宣言すべきではないでしょうか。

 三世紀、日本は影も形もなかったのに、書かれている国が、後の日本の祖型である、もし、不都合な記事があったら、それは、中国人が史実の認識を誤ったためである、との大前提では、本論は史料批判ではなく自己批判となります。

 
自己批判は流し読みし、不審な点だけの指摘に止めます。倭人伝談義で、「日本古代史」など、禁句に等しいとお考えいただきたいのです。

*勘違い宣言

 まず、初心者と自覚していない論者の倭人伝認識、つまり、鏡に映った自己の認識が4項目に亘って宣言されていて、まことに非論理的で粗雑なものだと感じます。

⑴ 三世紀前半のわが国土に、邪馬台国が存在していたこと。
⑵ 当時の倭人部族統制の権威には、男王による政治力を上回る、女性シャーマンのシンボル推戴が必要であったこと。
⑶ 部族集合体である複数小国家に共立された祭政の権力者(女王)として、卑弥呼が君臨し、後継者が壱与(台与)であったということ。
⑷ 邪馬台国の卑弥呼が、遠く中国の政治中枢部に認知されていたことは、当然国内各地域にもよく知られていたと考えられるということ。

 ⑴は、「わが国土」へのただならぬ思い入れが感じられますが、当方の理解の「圏外」です。まさか、「国土」が市の私物だという主旨ではないでしょうが、四畳半住まいの小雀には、賛同はできません。

 ⑵は、現代の一部でだけ通じる符牒が満載で、素人には理解できません。
 
倭人部族」が何者なのか、何が「統制」なのか、「政治力」とは何なのか、「女性シャーマン」は、「シャーマン」など存在しない当時の何を言うのか、「シンボル推戴」は、「シンボル」など存在しない当時、何の意味なのか。それは、シンボルを推戴するのか、シンボルが推戴するのか、なぜそれが「政治力」を上回るのか。
 倭人伝に、一切出てこない、手前味噌で時代錯誤の言葉と概念を、ご大層にぶちまけても、善良な読者には意味が通じないのです。
 つまり、質問されても、無視するとかないのです。


 ⑶は、用語が、前項と特に意味なく大きくずれているので、論者の意図を訴えるのに役に立たない不具合は置くとして、後半は、当たり前の読みであり、それが倭人伝里程論にどう関係するのか、論理はどうしたの、と言うことです。
 
また、「複数」と言うのは、二国、またはそれを越える数の国、の意味であり、ここで強弁する意図が不明です。
 古代史で「小国」というのは、国の大小を言うのでなく、個々の國という意味であることは、聞き分けていらっしゃるようでほっとします。少し戻ると。「祭政の権力者」は、中国古代史に無縁の概念であり、つまり、言葉になっていないのです。

 倭人伝論の世界で通じない言葉づかいは、半人前呼ばわりされても、仕方ないでしょう。何しろ、ここは、「里程の謎」とテーマ指定されている場なのです。編集部が、没にしなかったのは、後難を怖れた「遠慮」でしょうか。

 ⑷は、さらに一段と理解困難です。
 「政治中枢部」は意味不明ですが、天子たる魏帝は、倭の国中に告げよといいますが、ここで言う「国内各地域」とは「日本列島」のどの範囲を言うのでしょうか。意味不明で困ります。倭人伝里程論との関連は見当たりません。

 折角力んでも、一向に、四大原則として殊更ぶち上げる意義が伝わってこないのは残念です。読者との提携を拒否していて、物書きとして修行不足です。

 続いて、突然、「海人」が登場し「国際陰謀」が起動しますが、「国際陰謀」が古代離れしていて根拠不明で、それが、万里の果ての陳寿が、魏志編纂の貴重な原史料記録を、天命に背いて捏造した動機とは同意できません。

 続いて意図不明の人口論が続き、里数論が始まらないのです。
 意図不明というのは、倭人伝には、有効数字一桁未満と思われる不確かな里数や戸数が出ているだけであり、憶測を重ねて漠たる推計を巡らしても、いくら数字計算が多桁に亘って正確でも、見た目にきれいな数字が並ぶだけで、意味も意義もない数遊びであり、三世紀当時の国家像と結びつかないのです。何か、考え違いされているようで、勿体ないことです。


 論者は、工業系の教養を有し、それを活かす実務に従事したはずなので、文系論者に比べて数字に強く、意味の無い多桁数字の害は熟知していると思うのですから、ひょっとして、古代史ファンの浪漫性に訴える詐話を試みているのでしょうか。

 肝心の里程論ですが、受け売りで倭人伝短里を認識していながら、それは陳寿が根拠無しに五倍の里数、距離にしたもので、日数なども五倍にしたと決めつけます。しかし、ご本尊がそうした意見に同意する根拠は、何も見られません。陳寿が耳にしたら、「ものを知らないのはお互い様ではないか、自分は、ちゃんと知らないものとして書いているぞ」と言うところでしょうか。

 つまり、どこをどう叩いたら、ここまで、何故倭人伝の里数が誇張と言い切れるのか、論理的に正当化することを期待して読み進めている読者に対して、裏切りとしか言えません。


 重症なのは、里数の五倍と実距離とが交錯して、倭人伝里数は「虚数」としていることですが、ここでは、数学の「虚数」、つまり、重大な意義と実態のある数でないのは自明ですが、勝手放題に造語されても、何の意味か、一考に理解できないのです。
 案ずるに、論者は、
倭人伝里数を実態のある数字だと気づかないまま、延々と誇張だと論じているのが、この一語に露呈していて、まことに錯綜しています。

 とてもとても、「里程論」「誇張論」とは言えません。場違いで無意味です。

                             この項完

新・私の本棚 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 4 1/1

 4 邪馬台国への道のり          山田平
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 「1『魏志』「倭人伝」の旅程」の劈頭、「旅程」記事を「そのまま図にしてみると図1のようになる」と断言します。論者の「そのまま」が、そもそも里程論の混乱の原因なので、ここを無造作に踏み越えるのは、大変不吉ですが、ここは、我慢して読み過ごしておきます。

 無駄なので引用しませんが、要するに、図と称していても、論理の筋道を図形化した「構想図」などではなく、倭人伝里程論に良くある(混乱した)旅程表であり、上から下に通過点を列記して、その間の里数、日数をかき、後は、矢印の追加程度だけで、説明図ではないので、読者にしたら、数字の校正くらいしかできないと思うのです。

 併せて、当方は、無造作な算用数字多桁記法を見て、この論者は、数字のイロハが、まるでわかっていないと評価するだけです。
 要は、この「図」は、氏の史学論者としての限界を露呈しているのであって。自身の解釈を的確に読者に伝える使命を果たしていないと見るのです。所詮は、対象を指示する指かも知れませんが、指が指に見えなくては、その指し示す先は理解できないのです。

 これに対して、論者は、『「図」を一見して、「一里の長さが異常に短い」、あるいは、「旅程が誇張されている」とみてとれると自身の早見えを誇示していますが、単に、論者が作図の際に諸資料を参照していて、この「図」の一里が百㍍に満たないとあらかじめ知っているから、そのように見て取れるだけです。普通の常識人は、何も感じとれず何も思わないはずです。

 まして、「異常に短い」という評価の基準(正常、あるいは尋常の基準)は。一般読者には不明です。むしろ、論者に対して、倭人伝という小宇宙、小天地では、これが正常だよ、と逆に教え諭したくなるところです。

 さらに、旅程の「誇張」はどんな現象を言うのか、論者に示して貰わなければわかるはずがないのです。誇張と判断する規準となる「誇張無しの旅程」は、「対象史料である倭人伝のどこから見て取れる」のでしょうか。論者の脳内には、ここで読者の拍手がどよめいているのでしょうが、それは、氏の脳内小宇宙だけで聞こえる独善(独りよがり)というものです。

 斯くの如き、ベタベタの独善で開始するのは客が逃げそうで不吉です。

*二種類の情報
 話の続きを読むと、どうやら、論者は、人伝に続けて書かれている「旅程」が、「実際は」二度に分けて中国側に齎されたものであり、その二度の間に、女王国が東方に「お引っ越し」した「東遷」があったと見ているようです。読者には、初耳であり、そのような卓見を、予知することはできません。
 そのような天下混乱は、国内史料を含めて、いっさい記録されていない
のが衆知の事項です。また、そのような突飛な認識が、読者が期待している倭人伝里程論に何を齎すのか、すぐにはわからないので、ますます不吉です。
 
*曲芸解釈

 辛抱して読み継いでいくと、論者は、先ずは、倭人伝の旅程記事の「南、投馬国に至る水行二十日」と「南、邪馬台国に至る水行十日陸行一月」とを伊都国以降の旅程に直線状に積み上げると決め込んでいますが、それは、(論証を要する)一解釈として知られています。
王城が九州島内に収まらない
と見て、この二項は里数で書かれた旅程とは別儀、女王国お引っ越し後に魏朝に報告されたと見たようです。自作自演の好例です。一種の改竄説で、言いたい放題になっています。

 しかし、衆知の如く、三世紀後半、後見役の帯方郡が健在で、頻繁に倭人と交信していたから、帯方郡はもとより、魏朝に遷都を知られないでは済みません。つまり、他ならぬ倭人伝に明記されねばならないのです。

 史料にない、と言うより真っ向から反した創作であり、それを正当化するために、行間を読んだり、南を東に字句改訂したりしての労作に感心しますが、どうしてそう思うのか不思議です

 書く方はいかようにも曲芸を試みて、成功した試技を公示すればいいものの、読む方はその思考を追試できないのです。いくら優れた発見でも、第三者が追試して確認できなければ、単なる法螺です。(立証に成功すれば、画期的な新説と評価されるのですが、百の思い付きの内、新説として生き残れるのは、一件あるかどうかです)

 続いて展開するのは、遙か後世の戸籍資料などに基ずく人口論で、「当方好みの時代錯誤」の暴論、無理筋の勝手読みであって、曲芸の美技ではないのです
 多項目計算が必要以上の五桁と「正確」な計算を行っていても、その間の歴史の流れが不連続、非線形なのは自明なので、安易な類推は全く無意味です。
 不連続、非線形というのは、国の「お引っ越し」が、健全な国の行いなのか、亡国の報いなのかすら不明であり、かつ、それがどのような人口移動を招き、両地域にどのような社会、経済的な異変をもたらしたか、到底推察できないのです。単なる「絵空事」としか見えません。

*結論
 と言うことで、本論考も審議以前であり、当方理解圏外に去りました。

 途方もなく常識外の主張をするなら、枕の部分で、とにかく丁寧に、丁寧に説き起こすべきです。そうでないと、まじめな客は、本題を切り出す前にさっさと逃げてしまうものです。

                             この項完

新・私の本棚 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 5  1/3

 5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

〇序論
 編集部の惹き句とは言え、「豊富な資料」の触れ込みで、実際、二十㌻の大論文ですが、論理交錯で難儀します。原点たる倭人伝から読みなおす趣旨と見えますが、それにしては、東治」を「東冶」と「改訂」するなど、未検証の原文改訂行為は不首尾です。(当世流行りの改竄説に似ていますが、原著作者の意に反した改訂は、改竄に等しいのです)
 古代の説客が、論法の常道とした、「出会い頭のはったり」のように見え、学術の世界には似合いません。
 また、本稿では、論者の里制観が動揺し、読者の筋の通った理解を困難にしています。

 またまた、図1と作図された労作の「倭国の概観」は、「普通里」に従って韓国、倭国を大きく描いていて、いかにも、論者の歪んだ世界観を可視化して見え、それを期待してか、「倭人伝里は誇張」としています。
 要は、氏の個人的な理解を、錯誤、錯視かどうかの検証抜きに、いきなり図示しているのであって、陳寿が、倭人伝として提示した「文章問題」の解として、意義のある図解ではありません。結局、氏の抱負にかかわらず、氏の理解を評価する手段にしかならないのです。
 またまたまた、事のついでに、「会稽東冶」が妥当としています。当然ながら九州島内に女王国との表現です。

〇多桁算用数字の不滅の迷妄
 論議の絶えない帯方郡~狗邪韓国間の「郡狗行程」は、なぜか沖合遥かの無寄港と図示されていて、それを七千余里ならぬ7,000里としています。そのような行程は、ある程度大型の帆船でなければ実行不可能ですが、そのような帆船と、それを支える海図、水先案内などの存在も問われていません。未検証どころか、検証不能の思い込みに過ぎないのですから、氏ほどの論者にしては、不用意です。
 「海岸にしたがって」と俗解されるのに反した、沖合遥かの無寄港航海の超絶技巧の無法解釈は別として、ここ以外も、現代人には当然とは言え、古代史学では「非常識」で誤解を招く算用数字多桁表示で、文献解釈に際して、的外れが露呈していて残念です。
 古代人の世界観の中で、概数を取り扱う数字計算は、里程、行程道里の理解の根幹であり、見過ごされているのは、毎度の事ながら大変残念です。

〇一里推定の徒労
 論者の倭人伝里の考察では、ほぼ一貫して、倭人伝の一里は百㍍程度、韓伝の「方四千里」も同様としつつ、頑として「誇張」と見ています。何に対して誇張なのか、根拠不明、意味不明です。 

 帯方郡官吏たる魏使が、自郡里制はもとより、海を隔てた倭国里制も知らぬはずはなく、まして、使節として現地視察の後には、現地を実見して正確な認識をしたはずです。ただし、そのような里制は、魏朝の公式記録である倭人伝には、一切明記されていないのですから、史料の根拠は無く、倭人伝の里程、つまり、行程道里には、そのような「里制」は、比較参照できないのです。
 またね論者が、倭人伝里制が、一里 百㍍程度と納得したら、倭地の里制も、また適確な里数と納得でき、つまり「誇張」など存在しない事になるはずです。

 にもかかわらず、論者が、氏の誤解を露呈した冒頭図に固執し、撤回しないのは、合理的ではなく、また、ご自身の方針に反するのです。

〇還らざる分水嶺
 ここで回心するなら、冒頭図は自身の錯誤を露呈していると気づいて、撤回するでしょう。古来、「過ちを改まるに憚るなかれ」と言いならわしています。まして、推敲段階の改稿に憚ることなどまるでないのですが。

 引き返せなくなる前に、経過を総括して、行程続行の当否を自問すべきなのですが、そのような「先見の妙」と「引き返す勇気」を持つ人は、ごく希です。

                               未完

新・私の本棚 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 5  2/3

 5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

〇野性の呼び声
 続いて、倭人伝の水行、陸行基準を論じますが、現代事例の「野性号」を史料批判無しに持ち出しているのは、まことに不出来です。

 確かに、同プロジェクトは、貴重な「実験」として大いに参考にすべきですが、倭人伝に提示された行程道里は、同時代の公的記録が基準であり、一方、当実験には、海図、コンパスがあり、難航時は支援部隊が助力しました。
 一度限りの試行は、寄港状態、採用航路を厳重に時代考証した上で、読者に誤解させないように、その「限界」を明記した上で利用しなければなりません。

〇官道としての資格審査
 当方は、大局観として「危なっかしい船便は官道たり得ない、断固陸を行く」との意見を固持します。
 このような危なっかしい輸送/交通手段は、国家制度として採用されないのです。無作法を承知で言わせて頂くと、この海上行程が極めて危険で通行困難(実際上不可能)であることは、ほぼ常識であり、それは、実験するまでもなく、思考実験、当世風「シミュレーション」だけで明らかなのですが、冒険試行され、その結果が実用に適していることの証左と誤解されているのは、まことに不幸な成り行きです。

 冒険は、困難を超えて一度完漕すれば成功ですが、国家の制度として運用するには、確実でなければならず、不時の事態が発生しないような万全の備えが必要なのです。船が沖合で難船すれば、当時の沿岸の体制では救助は不可能であり、まさしく、海のモズクならぬもくずと消えるのです。

*「ハードル」談義~余談
 陸上競技の「ハードル」は、学校の体育の時間で習ったことを大きく外れた巷間の風聞/迷信と異なって、競技者を「阻止」するものではなく、難なく飛び越えられる高さで、しかも一定していて配置されています。何なら、ハードルを残らず突き倒しても、何の罰則もないのですが、それでは速度が落ちるので、ハードル勝者となるには、全数を飛び越えるのです。周知のように、何も無い走路の所要時間と、大差ない快速の競争なのです。ハードルは、試錬ですが、壁とか難関と言うべきものではないのです。
 この理解しやすい比喩に対して、古代の海上航行は、数千里の航路の一箇所でも船が沈めば万事休すです。競技者が挫折して水死する前提の競技など、絶対にあり得ないのです。

〇新羅遣唐使の道里
 後世新羅遣唐使が、「半島東南の王城慶州(キョンジュ)を発して北行して官道を一貫陸行し、小白山地を、二世紀に官道として確立された竹嶺(チュンニョン)の険で越えて西に転じ、海港唐津(タンジン)から山東半島に渡海した」ことも、この意見の裏付けと言えます。
 新羅が、高句麗と百済の係争地であった、漢城付近の要地を、精鋭の急襲で確保し、以後両国の回復を許さなかったのも、官道が軍道としての用に耐える確実な交通、輸送経路であったことを語っています。

〇理性的な解法
 また、倭人伝の言う「水行」が、沿岸行、渡海、河川行のどの主旨で書かれたか、倭人伝二千字では不明瞭ですが、当方は、大局的な分類を求めて、水行は、三度の渡海、つまり千里渡海の一日行程の三回と見るので、「上陸後の水行はなかった」(投馬国は傍路)と割り切っていて細かい理屈づけは無縁なのです。

 見解の相違ですから、論者に同意できないと言うだけで排除しているのではありません。また、国家制度に拘束されない市糴の槽船が、ある程度の危険を承知で、徐行した可能性を否定しているものでもありません。例えば、日帰り近隣の海市まで、地勢ならぬ海勢を熟知した村人の操る荷船が往き来するのは、むしろ、健全な姿であり、そのような往来を連ねれば、遠隔地まで、指摘の鎖が通じていたものと見えます。
 ここでは、当時、帯方郡に於いて、漢城付近と慶州付近を結ぶ官道が制定されていたと主張しているのです。

 と言うものの、一般人といえども、生命の危険は、そうそう犯さないものです。海域の天候、干満、潮流、浅瀬や岩礁の所在など、知り尽くした上で進んだはずですが、よそ者は、そのようなことを知るはずがないので、容易に多島海の寄港地に近づけないのです。

〇隋使の絶海行程踏破
 後世、隋煬帝の使者裴世清は、明らかに、山東半島からの海船で来訪していますが、関係部署に保存されていたはずの魏使行程を踏襲したのではなく、記録のない未踏の海域を開拓したような書きぶりです。是非参考にしていただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 5  3/3

 5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

〇水行陸行の世界観転換
 長々と行程道里記事の「水行十日陸行一月」の位置付けを模索していますが、当方は、古田氏に倣って、倭人伝に不可欠な総所要日数と見ているので、放射状行程の起点議論は、無関係です。

〇卓見の理解/誤解
 論者が、高橋善太郎氏の新旧唐書地理志の用例批判を引用していて、二重引用の批判は好ましくないのですが、大要「中国史書の用例を元に倭人伝記事を解釈しようとしても、多くの”自己撞着”に直面して頓挫するので、”無理”である。よって、"状況判断"せざるを得ない。」との啓示を受けたと見えます。独特の用語で訓示いただいても、標準的な用語に「通訳」しないと、適確な理解はできないと思いますが、仕様がないので、お伺いするしかないのです。

 その啓示の理路を素人なりに整理すると、『倭人伝を「正史語法」で読み解こうとしても、厳密に一致しない「倭伝語法」で書かれているため、正解は、「倭伝語法」を体得して解釈するしかない』との卓見に見えます。同時代随一の史観と評価されていた陳寿が全霊を傾けて編纂し、同時代の知識人が評価し、当代皇帝が嘉納した著作が、二千字の倭人伝に多くの自己撞着を 孕んでいるというのは、理解を超えた「超能力」の発言と見えます。同時代の知識人と同等の知識を有しているという自負心は、どこから舞い降りたのでしょうか。
 冷静に見ると、この表現は、ご自身の無力、無知を天下に曝しているものと見えます。まことに勿体ないところです。

 論者が、当方同様に、卓見の無法さを自覚し、感じ取って、”無理”を放棄し、解釈の起点を、中国史書に移し、さらに、現場、現物である倭人伝の「倭伝語法」解釈に転換したかどうかは、当論説から読み取れません。

〇史料理解力への疑問
 同時代論者の日本語の文章を適確に理解されているかどうか不明では、三世紀漢字史料の解釈が適確かどうか不明です。何しろ、倭人伝原文を引用した上での議論ではないので、正体不明の翻訳者の掌の上での議論であり、大変不安なのです。

〇合わない靴の山
 案ずるに、合わない靴をいくら試してもしょうがないので、先ずは、状況に適した視点、感覚で、「合う靴」を見つけるべきです。論者は合う靴を選択肢から外してそっぽを探し、手の届く範囲のものが、ことごとく「合わない」ことを証左としているので、一向に解答に近づけていないように、素人目に映るのです。

〇考古学頼み、神頼み
 以下、「十一 邪馬台国への道」なる図版入り六㌻の大作で、国内後世資料と多彩な考古学成果をもとに女王国の所在地検証の考察を深めていますが、国内後世資料は、同時代同地域の記録が適確に継承された確証に乏しく、考古学遺物には年代が書いていないので、倭人伝解釈に於いては、共に参考資料の域を出ず、論考の決定打にならないのです。
 先に挙げた倭人伝に対する暴言は、国内後世史料やそれに基づいた考古学遺物解釈を「金科玉条」としているところから発しているものと見えますので、まずは、「金科玉条」の検証が先決と見るのです。

 「一部の考古学界先哲は、望む発掘成果が出るまで、対象地域は、何年かかろうと悉く掘り尽くす」と豪語しています。また、一部では、所望の試験結果が得られない試験方法は、「基本データを造作してでも、所望の検査結果が出るように誘導する」と受け取れかねない態度で豪語しています。そのようなカツと是右派、公的資金の援護がなくては持続できず、公的資金は、担当省庁の承認あっての予算支出であり、これを持続させるためには、学問の正義は脇に押しやって、自己顕示せざるを得ないと見えるのです。
 それが、考古学界の神頼みとしたら、神様」は使い走りの小僧同然であり、随分見くびられたものです。

 氏の場違いなぼやきは、そのような極端な動きに繋がるものであったのではないかと危惧するのです。そして、発掘物による所在地検証は、問われている、倭人伝里程の謎の解明と対極にあるものと見られるのです。勿体ないことです。
 それにしても、氏の属すると思われる学派は、倭人伝に「邪馬台国」の文字がないのを度外視して、書かれていない「邪馬台国」の所在地を決め込むのは、筋違いと見えます。そのためには、倭人伝は、肝心の国名が誤伝されるような不正確な伝承文献であると言わざるを得ず、従って、方位や里数も、誤伝しているに違いないと言わざるを得ず、言わば、不退転の決意で、倭人伝、ひいては、編者である陳寿を罵倒している始末です。
 氏が、どこまで、そのような「陰謀」に加担しているのか不明ですが、素人目には、何とも擁護しかねるのです。

〇まとめ
 氏は、高度な推論力を有しているとしても、史料自体を把握できていないことから来る不安定感があり、足元の論理を固めてのち見聞を広げるべきで、「里程論」に挑むと大言壮語する前に倭人伝の堅実な理解が先決です。

 倭人伝里程論議は、倭人伝に書かれている漢字文章の解釈から出発するしかないのであり、誰もが初学者の謙虚な姿勢を持たなければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 米田 実 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 6 改訂 1/1

 6 「方」について    米田実        
私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠無き憶測    2019/01/29 改訂 2021/01/21 補充 2021/12/09

*序論
 論者米田氏が、正史といえども、個別の史書特有の言葉遣いがあるとの前提の元に論考している点は支持します。

*「方里」四倍誇張説~根拠の無い思い付き
 提示されているのは、倭人伝に登場する海国「方四百里」、一大国「方三百里」が、方形一辺でなく周回里数「周方里」との「思い付き」であり、これを採用すれば、一里百㍍程度の「短里」でなく一里四百㍍程度の魏晋里「長里」(普通里)でも、面積が四分の一なので辻褄が合うというものです。
 これは、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』で提示し、広く支持を得た「短里」説への「異議」ですが、その論証は空を切っています。

*ダメ出し~「周方里」はなかった
 「思い付き」を作業仮説とするには、要件が欠落しています。つまり、「周方里」記法の「典拠」がないことから、ご都合主義のこじつけと見られるのです。史官が、古典書ないしは周知の文書に典拠のない表記を採用することは、あり得ません。無法な表記に対して、高官の非難を浴びて職を失うからです。

 はなから不適格と判断される「思い付き」の具体的な内容批判は、言いがかりを買う可能性が高いので禁物ですが、ここでは、素人なりにダメ出ししてみます。

 当時、大海中の未踏の海島の外形を知るのは不可能です。また、大海、一大両国には、そのような不可能任務を果たす義務はないのです。

 氏の言う「周方里」は、全て、後世人の夢想、憶測であって、一切実在せず、古代史学を議論する場に取り上げるべきではないのです。

*散漫な考察~徒労の蓄積
 氏は、「史記」、「後漢書」、「魏書」(北魏「後魏書」)に考察を広げますが、全て地上でありながら、地名比定等が憶測で一向に定まらず、更に、「方里」の意味は、時代、地域によって不確定と見られますから、さながら、底なしの泥沼に岩盤基礎を求めるようなものです。
 確たる論拠は、一件で足るのですが、憶測を無数に積み上げ、紙数、字数を費やしても論拠にはならないので、持論弁護の議論は収束しません。
 ということで、この部分は、いくら身を入れようとしても、つかみ所がなく意図不明です。

 比較的評判の良い三国志等の孫氏記事「江東方数千里」ですが、長江下流域らしい「江東」が定まらない上に「方数千里」が具体的にどんな数値なのか、皆目不明ですから、何の支えにもならないのです。単なる風評の類いですから、「数千里」という慣用表現を、無理矢理概数表現に落とし込むという誤解の是正にまで、当方の筆が及ばないのです。「つけるクスリがない」というわけではないのですが、同意も助言もできないのです。

*結論~また一つの甲斐なき労苦
 と言うことで、丁寧に読ましていただきましたが、氏の「思い付き」論証は全面的に無効です。当分野で大変ありふれた「泥こね」による理論構築ですが、不在の方を名指しで批判することもできないので、ここは、目前の方を批判するしかないです。

*方里の目的~私見
 倭人伝に関する論証では、当の「倭人伝」を優先精査すべきです。文献考察では、まず、文献に明記されていることと示唆されていることを確定してから、先に進むべきです。

 別記事のように、遅くとも漢代以来官人教養とされた「九章算術」が明記した通り「方里」の「里」は、道里の「里」と異なり、面積単位です。集計された農地は、面積こそ確たるものですが、その存在する場所は不確かであり、散在しているので、寄せ集めた形などわかるはずがありません。

 一大国記事の「方可三百里」は、漠たる推定と明記した上での一大国総農地面積表記であり、明示されている三百「平方里」は、十七普通里(8㌔㍍)角ですから、三千許家でも農地が閑散なのは、記事と符合します。對海国も大差なく、記事は、両島の貧困を明記しているのです。
 東夷列伝で、「方二千里」などと書かれた諸国で、比較的近隣の高句麗、韓国などの蕃国の領地外形には、全く意味が無いので、誤解してはならないのです。また、当然、對海国、一大国を含めた各国に於いて、精密な実測(実地測量)が行われたはずもなく、元々存在しなかった実測値を憶測するのは、重ねて無意味です。

倭人伝抜粋
始度一海千餘里至對海國。其大官曰卑狗副曰卑奴母離。所居絕㠀方可四百餘里、土地山險多深林道路如禽鹿徑。有千餘戶無良田食海物自活乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國。官亦曰卑狗副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴。
                               以上

                              この項完
追記 2020/10/07
〇常識と非常識 
 氏の論考は、「九章算術」に示されている古代中国の幾何学教程に気づいていないので、『倭人伝に登場する対海国「方四百里」、一大国「方三百里」の形容が、方形一辺でなく方形周回の里数か』二者択一の作業仮説を提示していますが、残念ながら、肝心の「時代常識」を取りこぼしていています。
 肝心の、正当な仮説が選択肢から漏れている二者択一では、いくら熱を入れても、論議が空転します。何か大事なことを忘れていませんか、というところです。
 いや、当ブログ筆者も「九章算術」「方田」「里田」の深意をある程度察することができたのは最近なので、氏共々、中国史料解釈の落第生ということになります。

以上

新・私の本棚 小坂 良彦 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 7 新考 1/2

 7 三国志の「里」について 「従」と「方」の読み方 
私の見立て ★★★☆☆疑問山積 2019/01/30 追記 2020/10/07 再訂 2021/01/13 補充 2021/12/09

○全面改定の弁
 初稿では、本論考に関する批判は、議論の隅つつきにとどまっていましたが、以来、「九章算術」などの学習を経て、氏の見解を掘り下げて批判することになったので、ここに全面改定して公開します。

*序論
 タイトルの「読み方」は、漢字の発音問題ではないようです。
 氏は、倭人伝里百㍍弱の短里「定説」化を不当と見て異を唱えましたが、多大な論考の労に拘わらず、当方として同意できないままに終わりました。
 とはいえ、豊穣であった里程論が、十分展開されていないのは残念です。

▢「従」の部~「従郡至倭」談義
 まずは、「従」の字の解釈にこだわっています。氏の提唱する作業仮説は、『「従郡至倭」直後の狗邪韓国までの里程、つまり「従郡至狗」の七千里の起点は、「従」と書く以上、定説の帯方郡でなく帝都洛陽であり、七千里は短里ではない』というものです。

 単なる思い付きで無く、部分的には筋の通った見方にも見えますが、諸史料中に論者を支持する用例が存在しても、倭人伝里程がそう書かれる理由が提示されてないので、世上の諸説を覆す説得力は見いだせないのです。

 倭人伝で「従郡至狗」七千里の終点狗邪韓国は、帯方郡の管理下の行程通過点でした。また、帯方郡は、景初以前は遼東郡傘下であって、皇帝直轄でなかったので、帝都洛陽からの距離を報告する理由が見えないのです。

 加えて、倭人伝里が、短里の六倍の「普通里」では、狗邪~対海|一大~末羅間、「狗対一末」の三度の渡海各千里の説明がつかないのです。

 短里説は、論議を重ねて整合性を得ていて、安易に棄却できないのです。

 また、氏の提言では、洛陽から帯方郡までの経路は不明瞭です。洛陽からの里程が不安定では信頼が置けないのです。公孫氏健在時、帯方郡は遼東郡傘下なので、行程は洛陽~遼東~帯方だったでしょうが、公孫氏滅亡後は、遼東郡経由か、山東半島莱州から渡海するか、不確かなのです。私見では、街道は遼東郡から南下していたと見るのです>少なくとも、正史に「倭人伝」として記録する以上、征氏の郡国誌などに記録されている、遼東郡までの道里が前提であることは言うまでもないと思います。自明、当然なので書いていませんが、「従郡至倭」の起点は、遼東郡発の官道が、帯方郡治に達した地点から始まるのであり、それに続いたと言うことは、半島内陸の郡治から、官道が真一文字に東南方に続いていて、これを行程を重ねて辿ると、「倭」、つまり、「倭人」の王城に至るというのが、以下の道里行程記事の前提と見るのです。

*概念里程の基点
 但し、氏の説から感じとれるように、洛陽から「郡を経て倭に至る」万二千里が、倭の概念的な遠隔観・架空里を定義するものであれば、行程は無関係と思うのですが、同意しきれないと見ます。倭人伝に、「倭」に到達できる航程と所要期間が書かれていなければ、それは、皇帝に上申する以前に却下されるからです。
 ただし、街道道里の基点が、当時東方管理拠点であった遼東郡であれば、難点の大半は解決します。所詮、蕃王は、遼東太守の臣下だったのです。因みに、西域諸国の行程道里は、西域都護治所が起点となっています。
 ということで、まだ検討課題が残っています。

*「従」の幾何学的用法
 因みに当ブログ筆者は、「九章算術」で課題図形の奥行きを「従」で示すことから、ここは、郡の南境から東南方向に直行する行程を示すと見ています。
 氏と異なる視点から、「自郡」でなく「従郡」と書いた意味を求めたのです。僅か、一文字の解釈でも、論議の奥は深いのです。

*小論
 ということで、「従」の「読み方」に関する氏の論考に。深甚の敬意は表しますが、同意はいたしかねます。

                               未完

新・私の本棚 小坂 良彦 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 7 新考 2/2

 7 三国志の「里」について 「従」と「方」の読み方 
私の見立て ★★★☆☆疑問山積 2019/01/30 追記 2020/10/07 再訂 2021/01/13

▢「方」の部~方里の模索
 氏自身が、文中で示されているように、魏志で「方里」が示されるのは、烏丸東夷伝諸国記事のみであり、魏朝が地形に関する測量を確保していない(と推定される)境地に限られています。

 氏は、九章算術の「方田」に始まる農地面積の幾何計算例題を通読した上で、大半は、「歩、畝、頃」の計算例であって、里の計算例は二題にとどまるとして、里の用例が不足との量的評価のようですが、これには同意できません。事は、用例の数の多少で判断するものではないのです。

 里の用例が少ないのは、農地面積は、全て「歩、畝、頃」で測量、検地されるためです。これは、実際の農耕は、農夫が犂鍬で耕作できる、区分された「歩」単位の農地であり、「里」は、個々の農地面積を計測する「検地」の実務には、全く関係ないからです。その代わり、「方田」に始まる例題は、四角形に始まり、円形などの変則的な形状の農地の面積を計算する方法、計算公式を述べています。

 これに対して、面積単位「方里」は、郡、県の下部にある郷、亭の行政区分の農地面積を統計する際に、「検地」によって記帳した戸別の土地面積を足して、領域の農地総面積を得る際の換算に使用され、要は、一里三百歩の確認のための例題なのです。(ここでは、具体的な換算手順や計数は省略します)

○方里の意義確認
 「方里」は、道里単位の「里」と次元の異なる「面積単位」であり、加減算も比較もできないのです。魏朝は、農地面積を要求しているのであり、地形や領域面積は不要です。
 因みに、魏朝直轄地では、戸籍制度、土地制度が完備していて、戸数だけでも収穫高は明確に把握できるのですが、辺境は戸籍,地籍が未整備なので、農地面積を要求したのです。
 中原では、土地面積から穀物の収量を求める手順が完備していましたが、それは、農地の灌漑が確保され、犂鍬で耕作され、種蒔きや収穫が集団で統制されていて、言わば、計算通りの終了が想定できる状態を想定しているのであり、戸数を言うだけで終了が推定できると言う、計画的な農政なのです。これに対して、未開の地では、そのような計画的な農政は、限定的であり、言わば、想定困難なのです。
 推定ですが、公孫氏は、東夷の状況に適した国力評価指標として、戸籍に登録された農地の面積を集計、計上させる手段に出たものと見えます。そのため、陳寿の手元に届いた東夷の史料は、異例の数値が記入されていたものと見えますが、史官の立場として、この「方里」を、東夷相互の比較指標として残したとも見えます。
 わかっているのは、「方…里」が、正方形領域の一辺を「道里」の「里」で記したものではないということです。

*地図の亡霊
 氏は、倭人伝論をさまよう「精密地図の幻」を信じて、近代的「地図」を見ていますが、当時、「地図」は不要で概念図で十分だったのです。
 倭人伝に続いて記事第三十巻に補注されている魚豢「魏略」西戎伝は、後漢代の西域都護の活動を語っていますが、西域都護は、管轄地域内の各国勢力と行程を示す「西域図」をしつけの場に掲げていたとされています。いや、書かれているのは「西域旧圖」があったと言う事だけですが、当然、「旧圖」を更新した「西域圖」が掲げられていたと見るものです。
 因みに、図が描かれていたのは、絹布でしょうが、別に衣装用の良品でなくてもいいし、何しろ、西域都護の命で献上するので、十分妥当な滞貨で得られていたはずです。
 いや、肝心なのは、そこに描かれていたのは、概念図であって、精密な「地図」などではなかったのです。

 地図測量がいかに大事業であるか、江戸時代の伊能忠敬の偉業で偲ぶとして、伊能図は、方位磁石と光学機器と三角関数を含む高等算術が前提であり、三世紀には到底なしえない事です。ということで、氏の地図観は、確固たるものとは言えないのです。
 付け足すと、伊能図の海岸線は、全て、踏破して書いたものです。つまり、未踏の地は「地図」にできないのです。

▢誤差論再点検 
 理性的な「誤差」考慮は、氏の冷静な態度を偲ばせるものであり、全論者が、この「誤差」の見方を採り入れて欲しいと思うものです。

 但し、氏の例示された「誤差」の「最大四十㌫程度」という見方は、随分楽観的なものと見ます。倭人伝の里数は、実測値に基づく概数ではないので「誤差」を出しようがないのです。三世紀当時の関係者は、そのような不確かさは、承知していたはずで、「実測値」にもとづく推計に依存していたとは思えないのです。

 ということで、倭人伝の紙面に書かれている「数字」は、実測の裏付けのありそうなものと「見立て」による仮想のものが混在しているので、一律に誤差範囲を想定して「実際の里数」を想定するのは、「数字」にとらわれて解釈を誤っているのではないかと懸念されます。これは、氏だけの事情ではないので、丁寧に説いているものです。

 そのように、氏の誤差観は理性的ですが、個別の「数字」の実質に関して、よほど注意して適用しないと、倭人伝の諸数値は霧消し、氏の展開する論理の根底を揺さぶっているように見えます。

○短里説否定論の不確かさ
 氏は、慎重に推論を運んだ上に、氏の提言する両論を適用すれば、「倭人伝の里程は、短里ではないとの主張を否定できない」としています。

 但し、氏の論証をもって、氏の二重仮説を有意のものと見なし、短里制という、単純な仮説を棄却するという提言は、無理なものと考えます。不確かな根拠を積み重ねて、排他的な仮説を構築するのは、本来、不可能なのです。いや、これは、氏だけに向かって指摘しているのでは無いのです。

○付言
 当方は、別に氏の倭人伝解釈の個人的仮説を排除しているのではないので、不同意の物証を提示するつもりは、全くありません。

 「問題」が解けないのは、独解力を含めた知識が不足しているのであって、出題者を貶すのは、まだまだ早いのです。

                              以上

新・私の本棚 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 8 1/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作               2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、60ページ近い労作ですが、専門学術誌「計量史研究」の連載記事(1979,80)に加筆訂正を加えたものです。
 初出時の批判、応答を承けて熟成している点が感じ取れます。学術誌掲載ということで、関連史料とそれに関する先賢所説総覧が充実し、百五十件を越える付注も貴重です

 また、冒頭に、過去の邪馬台国論争における諸論輻輳を鎮めるべく核心を提示し、それに即した論考としていて、読者として安心して後を慕うことができます。総合的な論考とは、かくありたいものです。

 氏は、煩雑を厭わず邪馬「台」国論争と書いて、この国名が依然審議中であることを、初心の読者に無用の刷り込みを避けたのは、まことに賢明です。

 当方としては、氏の論文作法に異論は無く、採用史料もところを得ているので、大部の割には短評に止めることができたのです。

*論点の明示
Ⅰ 里(歩)程論争をめぐって
 「はじめに」と総序があり、以下、「従郡至倭」万二千里程の議論です。

*倭人伝里程由来
 「長里説」「短里説」、そして、「地域短里」「魏晋朝短里」は、「里程の謎」に注目している本誌読者諸兄に周知と見て、説明を略します。

 当部分で、当方が参考としたのは、秦漢魏里制は、秦始皇帝の布令に基づくもので、具体的には、戦国諸国を滅ぼして天下を統一した秦が、六尺を一歩(ぶ)とし、(結果として)三百歩を一里とするという単位系徹底宣言であったという主張です。
 時に言うように、秦が普通の周制を廃したものと限らず、「同文同軌」の一環として、秦度量衡により諸国度量衡を全廃、統一したものです。
 つまり、秦支配下の諸地は悉く秦制を敷いたのです。法治主義により、全国に官吏を派遣して苛政を押しつけ徹底させた秦ですから、間違いないところです。

*「魏晋朝短里」説の非道
 当説は、古田武彦氏が、安本美典氏提唱の倭人伝短里を採用する際に、そのような「里」は、三国志編者陳寿の編纂方針によるものとの理解から、「魏志の里制が短里」と確信したことから生まれ、論証課題として、三国志の里制記事検証という壮図が生じたものと見えます
 
 
古田氏は、当初、魏朝創業の文帝曹丕が、秦漢旧弊を廃する目的で里制改訂したと推定したのですが、特に史料に根拠はなく、また、三国志全本文の各用例の検証は、労苦を厭わぬ壮挙と賞賛を惜しまないものの、素人目には不調に終わったと見えます。東呉孫氏政権は、後漢を尊崇していたし、蜀漢の劉氏政権は、両漢の正統な継承者を名乗っていたので、それぞれ、後漢制度を廃して、曹魏の制度に替えることはあり得ないのです。

 文帝曹丕も、後漢献帝からの禅譲を奉じていて、つまり、漢制の堅持を至上の使命と見ていたものであり、戦時の国内に大混乱必至の里制変更を施行するとは、到底考えられないと見えます。ただし、後継明帝が、先帝の「漢制堅持」の遺訓を覆して、景初改暦、祭礼変更と共に「里制改訂」を布令した(と見える)などの反論mありますが、切りがつかないので、以下別義とします。
 
冷静に見れば、三国志も、晋書も、この大事件に一切言及していません。つまり、論拠となる文献資料が、皆無なのです。
 
 
私見では、本説は、とうに使命を終え、廃却するべき時が来たと感じるものです。言わば、現役を離れ、殿堂入りする花道が求められているように感じますが、当事者ではないので、何とも申し上げられません。

                               未完

新・私の本棚 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 8 2/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*里制再確認

 本論諸例でも明らかなように、秦制の六尺一歩、三百歩一里の関係の間に、十歩ー一畝、一里ー三十畝があり、畝は、農耕地の地券台帳などに多用されているので、里と歩だけを独立して動かせないのです。

*始皇帝不改訂の弁
 始皇帝は、諸国の行政機構を全壊させ、いわば更地に秦の法体系の機構を適用するので、大抵の新制度は実施できたのですが、周制と異なる独自里制は敷いていなかったので里制変更は実施しなかったのです。つまり、秦里は周里だったのです。そもそも、秦は、西戎、つまり、西域の蕃夷だったものが、周の指導によって、中原文化に属したので、諸制度は、周に従ったのです。以後、中原諸国から、指導者を招いたので、文明に浴していたのです。

 私見では、秦始皇帝が周里を温存したのは、土地管理、税制の根幹を揺るがすような里制改訂に、絶大な「経済効果」でもあれば別として、本意である精度の高い土地管理、徴税漏れや偏重のない適正課税に何ら寄与しない、どころか、全土に大混乱を招くのが必死だったので、重ねて秦初の里制改訂はなかったのです。何より、自身の国内土地制度を破綻させるような「里制」改訂に取り組むはずがないのです。

 記録にない「幻の周制」に基づいて里制改訂するとは、後世の魏朝皇帝は、とてもとても思いつかず、臣下も奏上しなかったのは、魏志によって明らかです。また、後年編纂された晋書地理志の記事から見ても、秦 漢 魏 晋を通じて、里制の変更はなかったのが明確です。

 魏晋朝短里説は、無理に無理の重なった仮説であり、早々に博物館に引退いただくべき至宝です。

*倭人伝短里説の是非
 以上のように、中原全土に及ぶ里制改訂は「意味なき夢想」ですが、それなら、なぜ倭人伝に短里が成立するのかということです。

 なぜなら、当時そう書いた、と言うしかありません。西域辺境は、中原領域と活発な往き来があり、時に西域都護府がおかれ、中原との交信していたので、里制も同化していたのですが、半島以南の東夷は、中原との交流が困難で、中原側も、現地の抵抗の多い里制改訂を強行しなかったのではないかと思われます。いやも、何も文献史料がないので、その辺りの事情は不明です。

*短里の由来談義
 周制にない短里は、前世(商殷)里制の形骸とも思われ、井田制以前の小規模集落時代のもので、古風として周朝近畿に生きたかとは、勝手な随想です。倭人伝行程道里記事を見ると、その時代その地域に短里が生きていたかのように見えますが、実は、これを証する記事は無いのです。書かれているのは、倭人伝の記事として「郡から狗邪韓国まで七千里と見立てる」との宣言だけなのです。

Ⅱ 中国本土の里数値
 後半は、「魏晋朝短里説」の当否検証ですが、前項批判で論じたように、当方は、全土里制の改訂は不可能と判断し、介入を避けます。

 長里は短里の五ないし六倍であるため、史料での判定が容易と見えますが、時代により、地名や地域観が大きく変わるための曖昧さと、原資料の厳密性の不足とが重なり、断定しがたいものとなって「百年河清無し」に見えます。(「河」は、年中濁流の「河水」つまり、大河「黄河の」ことです)お付き合いせず、申し訳ありません。
 また、その記事の里長が確定できたとしても、それは、その時代その地域で、道里測定がそのようであったと言うだけであり、全国制度を証するものではないのです。あくまで、得意な例外であって、それが、「普通」であったことを証する効力はないのです。そして、そのような例外が、手に余る数に上っても、無効であることに変わりはないのです。全国制度として実施されたことを証するには、帝詔などの公文書が必要であり、あるいは、後世史書や類書に収録されるものでなければならないのです。

*歩制の積み残し
 女王の冢の径百歩の歩数論は、ついにきっちりと語られていないのです。
 何しろ、「歩」が、尺から発した尺度単位なのか、土地制度に発した測量単位なのか、確定した意見が見られないので、論者の意見は動揺しているのです。国家制度の一環である以上、誤解しようのない明快な提議があるはずなのですが、里制論義に伴う泥沼に埋もれているのは、勿体ないところです。

                              この項完

新・私の本棚 後藤義乗 季刊「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 9  1/1

 9 「「魏晋朝短里説」について 赤壁の戦いの用例の検討 後藤義乗
  私の見立て ★☆☆☆☆ 的外れの力作               2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論文は、極めて限定されていて、古田武彦氏が、倭人伝里程の「短里」が当時魏朝の公式里制であったと提言した論拠に、陳寿「三国志」の記事を提示したのに対する反論であり、当方が無理と見る「魏晋朝短里説」対象であり、論破すべき敵は、実はあやふやな史料で、それ自体、棄却に足りるのですが、折角の労を尊重して確認したところ、それ故に反論も不明確と言わざるを得なかったのです

*「問題の所在」
 普通、「問題」とは、解答の用意された試験問題のようなものと思いますが、ここでは、古田氏の提言が否定さるべき根拠を言うようです。現代人の書いた文章を現代人が、普通に、すらすらと理解できないというのも、困ったものです。

 氏は、シェークスピアのハムレットばりに、「それは問題だ」と目を剥いているのですが、原文に書かれているのは、questionに過ぎないのです。要は、設問が解けないと言っているのであって、難点を上げている目のではないのです。
 あるいは、中高生の参考書、問題集を見て頂いたらわかるように、「問題」は、自身の知識と理解力を駆使して、読み解いて回答すべきものなのです。いつの頃からか、「問題」の二つの意味が混在して、行き違いを招いていますが、唐使に論考を掲載するほどの方は、そのような両義のある表現は避けるか、その場で補足して、混乱を避けるものと考えます。

*史料批判

 本論に還ると、ここで古田氏によって論拠とされたのは、陳寿「三国志」「魏志」の陳寿原文ではなく、東呉関係者が編纂した「呉書」に準拠の「呉志」本文でなく、「周瑜伝」への裴松之付注(裴注)の「江表伝」であって、陳寿は一切関与してない記事であり、裴松之も、校訂していないのですから、ここで説かれているように、古田氏が自説の論拠としたこと自体、まことに不適当です。

 まして、古田氏が、情熱をこめて、軍談中の「里」表示にこだわるのも面妖です。何しろ江水を軽舟で走っているのに、誰が彼我の感覚を測量したというのでしょうか。

*「赤壁の戦い」はなかった
~余談長文御免
 三国志は、曹魏、蜀漢、東呉の三国それぞれが、自国の国志を編纂していた原稿を、陳寿が集成したものであり、用語、視点ともに、必ずしも統一されていません。
 特に、いわゆる「赤壁の戦い」の取扱いは、三国志の各国志で異なり、「魏志」武帝紀には、赤壁の船戦で大敗したと書かれてないのです。

 時は、後漢末期とは言え、献帝の君臨していた建安年間ですから、曹操は、後漢丞相として「官軍」を率いて、長江(揚子江)中流の荊州に、後漢朝に対して不服従の刺史劉表討伐に向かい、劉表没後降伏した劉氏水軍を率いて下流南岸の孫権に接近し、穏やかに、曹操の陣に参上して、皇帝への忠誠を求めたところでした。言わば、投降降伏勧告であり、孫権が応じていれば、曹操は、一兵も損ずることなく、曹操麾下の兵力を傘下に収め、南北平定を成し遂げていたところです。
 因みに、降服した孫権は、いずれかの僻地に左遷され、歴史の闇に埋もれるところでしたが、配下の諸公は、所領を安堵され、地方領主として、安楽な余生を送ることができたはずです。
 ただ、当時、孫権に寄留していた劉備は、後漢の朝敵だったので、旧孫権将兵に討伐され、江南の地で、消滅していた可能性が高いのですから、孫権が降服しないように、説得したに違いありません。
 三国志は、魏に主点が置かれていますから、劉備陣営の画策は、大きく取り上げられていませんが、形勢から見て、そのような流れが想定されます。

 周知の通り、孫堅は応じず、その水軍との対峙していたところ、自軍内の悪質な病気蔓延のため帰郷した
との趣旨です。それまでの曹操の敗戦につきものだった、勇将の戦死は見られません。別に、関羽をはじめとする猛将の追撃を辛うじてかわして、命からがら、官道を逃走したわけではないのです。
 曹操は、後漢丞相として、勅命で荊州討伐とともに逆臣劉備を攻撃しただけで、勅命にない孫権との「戦い」はできなかったのです。

 違勅も大敗も、親族連座の誅殺に値する極めつきの大罪であり、呉が吹聴するような大敗が皇帝の元に報じられれば、曹操はもとより、曹丕、曹植、正夫人など、近親は残らず斬首でした。

*いくさ自慢のほら話~「江表伝」史料批判
 孫権側は、荊州水軍艦船を悪質な威嚇と見て断固攻撃し、大破して、大軍を撃退したと自慢ですが、めざましい陸戦はき無しであり、落ち武者狩りにも失敗したようなので、どの程度事実を反映したか不確かです。
 つまり、挙げられているのは、孫権麾下の水軍の手柄話であり、通例に漏れず、ほら話で論外なので、本論は、名刀で幻を斬る態です。
 因みに、陳寿は、当然、東呉滅亡時に提出され、西晋帝室書庫に保管されていた「呉書」を通読した上で、呉志に採用したのですが、「江表伝」に描かれているような芝居がかった軍談は、採用しなかったのです。裴松之は、劉宋皇帝周辺の意を拝して、あえて、「江表伝」を補追したのですが、恐らく、不本意だったものと考えますし、その成り行きは、陳寿の知ったことではなかったのです。

*まとめ
 折角の論文ですが、丁寧に説きほぐしてみると、古代史論、特に、陳寿「三国志」の魏志の陳寿原本にない記事であり、従って、「倭人伝里程論」に場違いと考えます。いえ、ここで批判しているのは、ほら話や「演義」由来の余談を持ち出した古田氏の無法な提言であり、後藤氏は、言わば、軽率な対応でとばっちりを食ったのかも知れないのです。

                              この項完

新・私の本棚 谷本 茂 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 10 1/1

10 「周髀算経」の里単位について      谷本茂
  私の見立て ★★★★☆ 議論明快 関連不明             2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 冒頭の断定は、丁寧に言うと二段階に別れています。(丁寧に言うしかないように思うのですが、他人の趣味には干渉しません)
 ⑴「周髀算経」に記されている一里は、七十六㍍から七十七㍍である。
 ⑵ 倭人伝に記されている一里は、これとほぼ同じ七十六㍍から七十七㍍である。
 して見ると、一括して断定するのでなく、それぞれ独立して提唱された⑴,⑵の仮説が必然的に連動していると論証するか、それぞれの仮説、特に後者が自立して論証できるかの何れかが急務と思われます。

*結論

 途中の学術的議論は、当方の手の届くところではなく、推論過程に口を挟めるものではないので、本項は、大変簡潔にとどめます。

 率直なところ、本論は、倭人伝里程論とは別世界のものであり、氏が文献から算定した仮称「周里」と古田武彦氏が提言した倭人伝短里が、ほぼ同一長であっても、両者の間に論理的な連続性が見られない以上、そのような関連性が論証されるまでは、偶然の一致とするしかないものと思われます。

 論理的には、まずは、「周髀算経」 は計算問題として明解にたどれるような数字や計算式を設定したのであり、実際実施されていた里を保証するものではないと思われます。そして、魏晋朝代に、同等の「里」が。国家制度として寛く行われていたことを語るものではないのです。
 後者を言い換えると、「魏晋朝短里説」の論拠は何も得られていないことがわかるのです。

 氏には、周朝に於いて、そのような短里が、どのように成文化定義され、各国に徹底されていたものか、また、晋書「地理志」に代表される史書に見られる「周制」に定義された「普通里」といかなる関係があって、あるいは、両者併存していたと仮定できるのか、丁寧に究明する必要/責務があると考えます。

                          この項完

新・私の本棚 川谷 真 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 11 1/1

11 「末羅国放射式」批判           川谷真
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 未完成、不完全           2019/01/31 2019/02/08 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 論者は高校一年生。見聞が熟していないまま、軽率な屈託を進めています。

 書き出しで、謝銘仁氏と張明澄氏が、ともに中国人ながら解釈が一致していないとしていて、「中国人」は、同一の古文解釈力を有すると大々的に誤解しています。留学生や観光客に聞けば誤解とわかります。
 中国人にも広大な個性があり、特に、張氏は「普通」でないので、謝氏と同列評価できないのです。

 張明澄氏は、日本統治下の台湾で生まれ、12歳まで戦前の日本式教育、つまり、日本語教育を受けています。それ以降、中華民国の教育を受け、社会主義政権下の中国本土の中国人とは、言語教養が大きく異なります。そして、古文解釈能力は、個人の資質、教育、教養に帰すべきものであり、一括りに論じるのは余りに乱暴です。

 因みに、中国本土の中国人は、現代の日本を侵略国家として敵愾心を抱く教育を受けているので、古代史料である倭人伝などの冷静な考察が困難という事も無視してはなりません。
 いや、中国古典の教育は、反社会主義的な保守思想なので、そのような「文化」を棄却して、新時代の「文化」を採用せよという「文化大革命」の嵐が吹き荒れた時代、古典書の学習は反社会的とされたのです。ここに名の出たお二人は、「文化大革命」の濁流に呑まれなかったと思いますが、中国古典書の解釈に「中国人」が最適という保証はないのです。

 現代日本人にとって、解釈は「語学」問題、つまり、正答の用意された試験問題などではなく、歴史文献の解釈という実戦の世界ですが、国内史料に基づく頑固な意見(思い込み、ないしは、勘違い)が災いして中国史料解釈の方途を見失っている方が大変多く、多年に亘り混乱を極めている影響で、提示される論議は、堂々たる論理を失ったもので、発言者当人の感性、知性次第であり、まことに個性的です。後世の方は、真似しないでほしいものです。

 「語学的に決着がつけにくい」と言いますが、論者が「語学」に何を求めているのか不明であり、案ずるに、議論の出発点が全く間違っていますから、いくら考えても、「語学」から適確な回答は得られないものと思います。見当違いもいいところです。

*批判の提示
 続いて、批判と言えない誤解満載の(若者に似合わない)「グチ」が述べられています。

「遠い国を先に書くのは普通ではない」と断定しますが、「普通」の意味が不明です。同様に「道理はない」も意味の無い断言です。倭人伝の時代の史官にとって、何が「普通」、「道理」か、現代、蛮夷の素人論者が知るはずはないのです。

奴国記事が「簡単」で「差別」』とは、ものを知らない論者の偏見です。
    倭人伝に、奴国の詳細記事のない理由は不明で「差別」非難は不都合です。直線式なら奴国を「差別」しても良いとする意味が不明です。
 要するに、「従郡至倭」と書き下した倭人伝道里行程記事に、行程順路を外れた奴国の紹介は、必要ないのです。このあたり、相談する相手を後岸手、迷路にはまっている感じで、勿体ないところです。

奴国が博多付近との「通説」は「漢文に弱い」日本人の勝手な解釈であり、加えて、国名と後世国内史料を安直に結びつけるのは不都合です。」
 陳寿は、「国内史料」を一切目にしていないし、「日本人」に読みやすいように筆を矯めることはなかったのです。

『太平御覧「魏志」の「又」表現を信用すると放射式には「絶対」読めない』とするのは、史料批判不備の素人判断で「絶対」不都合です。
 「すると」と言うのは、そのように言い立てている人の見識不足の産物、つまり、誤釈であって、大変な誤解の可能性があるのです。
丁寧に分析すると、御覧編者は史家でなく、編纂時に「普通」の古代知識不備で、誤引用史料で魏志を曲解した可能性が無視できず、太平御覧所引魏志は、魏志「邪馬壹国」を「耶馬臺國」と誤記したように誤記多発の可能性があります。(引用する度に誤記、誤写が存在する可能性があることは常識です)信頼できない史料に無批判に寄り添うのは、論理的な自滅行為です。

 三木太郎氏の「倭人伝より古形をとどめたもの」発言が正確な引用とすると、氏は秘法で倭人伝紙背に古形を見出したようであり、不思議な発言です。史学は、神がかりの世界なのでしょうか。

 そのようなことは勿体ぶって発言するような人に、相談するのが間違っていたのです。


*不都合な指導助言

 伊都国放射式について、誰の意見か根拠を示さずに「語学的に無理」と決め込んでいますが、ここでも相談する相手を間違えたようです。

 既に、氏は、「語学的」な判断で正確な解釈ができないと断定しているのですが、この発言は「中学生でもわかる」自己矛盾です。自分で書いたことを忘れるのなら、読み返すか、信頼できる方に読んで貰うか、何れかです。それができないなら、顔を洗って出直すべきです。

 また、当特集で論じられるのは、文献解釈による「里程」論であって、「語学」、つまり、漢文の文法について審議したいのではありません。どうしてもと言う事であれば、意見を公開する前に「語学」的な判断を文献批判して、適確な発言だと確証する必要があります
 不勉強な個人の私見を無造作に持ち込まれても、相手をしていられないのです。

 本論文について誰かの指導、助言を仰いでいるとしたら、それは、相談する相手を間違えたと言うべきで、本誌に寄稿するなら、安易な受け売りや思いつきでなく、自前の判断力と論考力の整備も必要不可欠と思います。

*課題論文の不出来~編集の不備

 結局、当方は、ここでも、論文としての体裁を備えない、論証のない、随想風の選外佳作論文を添削指導させられ、編集姿勢に疑問が募ります。安本氏の示した編集方針は、ご当人の目前で、風化崩壊していたのでしょうか。

 論文の校閲を怠り、不出来な文章を掲載しては、署名した当人の不名誉が、長く保存されるのです。担当編集者の氏名は、誰も伝えないのです。
 
                             この項完

新・私の本棚 中村 武久 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 12 1/1

12 「水行」の速さと「陸行」の速さ    中村武久
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 論考途絶、結論暴走        2019/01/31  2019/02/08 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 『「唐六典」をはじめ(とする)諸文献によって考える』との触れ込みで、興味深いのは、「水行」を河川航行とみて推定を始めることです。
 であれば、船速に河川流速が重畳され、流速の遅い江水、つまり長江(揚子江)の場合と流速の速い河水(黄河)のそれぞれで、遡行順行の差が異なるのも当然です。

 「唐六典」 は、公的な漕運の一日行程と運賃の協定内容を定めたものであり、自ずと、苛酷でも怠惰でもない妥当な範囲に落ち着いていたはずです。 他の文献も、同様に、文献としての目的があって規定するなり、記録するなりしているのです。史料として参照する際には、数字の意味を解した上で論議すべきです。文献として、特に目的を持たないとしたら、そのような落書きを参照すべきでありません。

 論者は、流速の影響を中和した船速で、静水に近いとみた海上水行は陸行五十里に近い速度としますが、驚いたことにそれが結論ではないのです。

*論考展開の無理
 氏の論考は、取り敢えずの所、一見、確たる史料に準拠した適確な推定と見えますが、八世紀の六典の河川水行規定を、三世紀の海上運行の基準とするのは、元々、無謀な時代錯誤です。

 詳細は具体的に論議するとしても、船舶の形状、重量、漕ぎ船と帆船の差、淡水と
塩水の違いなど、諸々の差異が、一切考証・評価できていないので、無理無体な暴論と考えます。

 まして、河川の場合は、並行する陸道の測量で、道里を設定できますが、海上運行では、それ大変困難です。特に、倭人伝記事にある「渡海」は、並行陸道がないので、道里の測りようがなく、従って、「唐六典」には、参照項目がないのです。

 甲板と船室のある大型帆船で、航路の確定した河川を行くなら、無寄港、一定行程で連日運航できても、甲板も船室もない小型漕ぎ船は、晴天日の日中だけの運行であり、日を重ねると漕ぎ手の疲労が激しく、とても長丁場の定速運航はできないのは自明です。しばしば、寄港して休息する必要があります。河流の帆走で、人馬を労賛意、つまり、労力(費用)の要らない河川航行とは、根本的に道理が違います。

 また、航路不定ないしは不明では、難船を怖れる手探りの水面下確認で、更に低速となり、ますます唐六典の規定は適用できないのです。

 更に重大なのは、唐六典は、明らかに「普通里」に基づくもので、倭人伝道里に対して時代錯誤となっています。

*河川水行と「海岸沿い水行」(??)の混同・錯誤
 合わせて、河川と海面の航行の違いについて明快な考察がされていないと思われます。
 そもそも、河川上の運送規定用語である「水行」は、海上運送には適用できないことを理解しなければなりません。「海」は「水」ではないのです。全て、古代の公式文書に、「海上を行く水行はない」とするところから始まるのです。ここまで、漢文解釈の規律から外れていたら、以後、倭人伝解釈は、迷走の一途を辿るのです。

 具体的には、狗邪韓国―末羅国間の「狗末」行程は、海上ながら、河川水流並み、ないしはそれ以上の激流海流を側面から受け、題材の河川遡行順行とは異なります。そのため、陳寿は、倭人伝行程は、中原の規定では律しきれないので、『海上運送だが、実態は渡し舟なので「水行」として扱う』と、倭人伝限定で提言しているのです。

 氏の論議は、万事、架空の当て推量で、実態と遊離しているので、忽ち、論理が崩れます。

*どんでん返し
 以上、善良な読者は、懸命に読解こうとしたのですが、氏は、最後近く、日程記事を里数に換算したとき、(結果が)短里との「保証はない」と突如逃げます。取り残された読者は、短里に換算すれば短里が出るだけ、と解するので、突然の敵前逃亡を奇っ怪と歎くだけです。別に、氏に、短里制を「保証」してくれと懇願したわけではないのです。むしろ、こうした浅薄で勘違いだらけの「保証」は、ない方がましです。

 続いて、突然、正史「晋書」ならぬ、その存在すら不確実な佚文資料「晋紀」の漠たる表現を根拠に、冒頭提言に反して魏晋代一日行程を長里四十里として脱線し、勝手読みで伊都国~邪馬台国区間を陸行一月としておいて、実距離百㌖に一月は不合理とその場で転倒します。根拠不明。論理不明の衝動的見解は、読者の頭から泥水をぶっかけるような「サブライズ」であり、論考として無茶です。

 このように、筋を通そうとしていたと見える論考を、いわばちゃぶ台返しして、いたずらに混沌を掻き立て、倭人伝記事の目的は所要日数であり、里数・方位は虚飾と放言します。このどんでん返しは、まじめな読者を愚弄するものです。なぜ、一発退場にできなかったのか、不審です。

 これでは、まじめに、倭人伝の行程道里の意義を論じているものは、みんな、氏と同類のペテン師と見なされては、溜まりません。そうでなくても、歴史学の研究者は、みんな嘘つきだという趣旨の放言が出回っていて、迷惑しているのです。

*結論
 氏の論考は、具体的な史料に基づいて開始しながら、中原大河から海面、さらには、実情不明の国内河川にと、適用対象が動揺して不確かであるために、論理が錯綜したことに自身が耐えられず、破綻と感じた着実な論考を無残に放棄して、独断に堕しているのは、読者として耐えがたい乱行です。

 とても、学問の道とは思えません。
                             この項完

新・私の本棚 道家 康之助 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 13  1/1

13 「黄道修正説」は誤りである      道家康之助
  私の見立て ★★★★☆ 堅実、確実な論考            2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 一読理解しがたいタイトルですが、我慢して読むと、本論は、一部「トンデモ」倭人伝論ですが、
 『古代人は、太陽観測によって方位測定し、地軸の傾きの角度だけ「黄道」の修正を行っていたため、倭人伝の「東」は、現在言う東北東の方位だったとする理不尽な「黄道修正説」』
 への反論です。ついつい、氏の論旨を誤解させてしまいそうで、恐縮です。

*結論
 当方も時々力説するように、正確な方位は、簡単な太陽観測により容易に検出でき、太古、稲作集団の君主の任務として、春分、秋分を含む二十四節気の精度高い宣言が求められていたことから、当然、日々の太陽南中を観測し、南北方向の劃定、付随して東西方向の劃定を行っていたのです。

 太陽観測というと大層に思えますが、少し噛み砕いて言い直すと、日時計を立てて、影を見るだけでも「南中」が観測できて、南北が確定し、後は、南北線に垂線を立てれば、東西が得られるのです。別に、壮大な石造建築は不要であり、また、高度な科学技術も不要なので特に高度な技術を要せず実現できたのです。
 精度を高めるために、大規模にするとか、長期間の記録を残すとか、状況に応じた努力が注がれていたはずですが、日常の用に適した程度であれば、一㍍程度の棒があれば良く、周辺の建物に、東西南北の表示を木札などで示せば、十分なのです。もちろん、それは、首長の所在でしか示せないのですが、方法さえ呑み込めば、どんな遠隔地でも実施できる物なのです。
 例えば、遠来の使節であっても、滞在地で、木の棒を入手すれば、たちどころに方位を知ることができるのです。初見の地ですから、随員が、たちどころに四方方位を確定したでしょう。
 因みに、手っ取り早い方法としては、日の出~日の入りの方角を直結すれば、それが、東西線であり、東西線に直行する線を引けば、それが南北線なので、大まかに四方を知ることができるのです。大まかというのは、その地で、地平線、水平線が見えないときは、山並みに接する方角しかわからないと言うことですが、それで十分であれば、そのような四方を知ることができるのです。

 つまり、天動説を知らなくても、日時計のある場所の東西南北は明白だったのであり、「黄道修正説」など無用なのです。

 それにしても、理不尽な一説にも理路整然たる反論を行うというのは、素人には徒労と見えるのですが、本論は、労を厭っていないので絶賛するのです。これで、とどめが刺せているものと信じます。
                             この項完

新・私の本棚 早川 清治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 14  1/1

14 「魏志」「倭人伝」の方位        早川清治
  私の見立て ★☆☆☆☆ 論考不在、疑問山積         2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、「人は、自身のいる地点での正確な方位を知ることが困難だという非科学的、かつ情緒的で理不尽な見解を読者に押しつけている」ものであり、そのために、倭人伝方位は、時に大きく錯誤しているという説です。さすがに、郡から狗邪韓国までは、郡に既知の行程であったから、その間の方位は正確として、それ以後は、魏使の誤解が連発していたと言うものです。

 そのような理不尽な見解を学問的仮説と言うには、確実な論証が論者のけじめというものです。これでは、論者が合理的な思考ができず、検証努力を怠って、思い付きを言い散らす悪癖の持ち主だと語っている(自嘲している)ことになります。まことに、勿体ないことです。

 なぜ、誰も、自滅的発言をやめるように忠告しないのでしょうか。

*方位混乱説の背景
 要は、氏が倭人伝を解釈したところでは、九州島到着後の行程の方位が、氏が比定した諸国間の方位に合わないとして、そのような無理を唱えるのです。その根拠として、論者は、自身の体験と称して、半ば自罰的に方向音痴を語ったのですが、それが、古代人に通用しないことは自明であるから紙数の無駄です。氏の倭人伝解釈、氏の諸国比定と方位解釈のそれぞれが、適確なものだという検証が抜けていますから、無意味な発言です。
 要は、自分が正しいに決まっているから、陳寿が間違っているに決まっているという論理ですが、勝手なものです。

 古来、現代の素人のうろ覚えの知識や体験をもとに、古代人の錯誤を論ずる例が多々見られますが、それは、現代人のいい加減さを語っているだけであって、古代人の見識を見くびった愚考に過ぎません。現代の読者や聴衆を騙せても、学問の徒は騙せないのです。

 いや、堂々と、「狗邪韓国から末羅国は、東南であって南でない」と頑張っていますが、これは、別の意味で錯誤です。
 倭人伝冒頭で「倭人は帯方郡の東南」としていますが、これは、帯方郡治から倭人の王治を見たとの想定で、八分方位で書いていて、行程に際しては、八分方位で言うほど厳密な方位観が得られないのを想定して、概ね南とか言っているのです。

 又、陸上行程では、追分でどの道を行くべきか指示するもので、後は道なりに進めば良いから、書かれているのは出発点の道しるべに書くような方位でよいのです。

 それぞれの方位には、それ自体の意義と有効性が付いているので、大人は大人の読み方をすべきです。まして、知的な嬰児は、言うまでもないでしょう。そうした解釈を経て、やはり、古代人が方向音痴だったと主張するのなら、それなりの信を置くことができますが、本論の目的は、里程説の解釈であって、古代人の方向音痴の立証ではないのを忘れています。 

 場違いな方位観、綿密すぎる照合・校正は、古代人には無関係で、かたや、魏使随行の専門家集団は、現地の情報提供がなかったとしても、少なくとも、毎宿泊地での(数日どころではない)天測で正確な、つまり、かなりおおざっぱとしても、実用になる程度の確かさを得ていた方位を得ていたでしょうから、論考に書き足されているような時代錯誤の余談は無用なのです。
 それとも、当時の関係者全員が方向音痴で、それが、洛陽の陳寿に伝染したというのでしょうか。大胆な思い付きですが、検証可能でしょうか。

*結論

 当論文を通読して感じるのは、魏志の行程道里を勝手に解釈して展開し、それでは、「実際」、つまり、氏の思い付きである勝手な「比定地」 と「行程道里」に合わないから、辻褄の合うような方位間違いを主張するという本末転倒の展開です。
 このように手ぶらでできる難詰は、言う方だけ気楽な混ぜっ返しに過ぎません。無責任なヤジは厳禁です。

 ここまで出てきたように、それは足に合う靴を探すのでなく、手に触れた靴に足を削って合わせる愚なのです。それでも、自分の足を削っても痛くも痒くもない人は、なんの苦痛もないのでしょうが、一般の人は、身を削る痛みには耐えられないのです。

 そろそろ、勝手読みの行程道里解釈で方位読替えすることに、学問的に意義があるどうか、必要かどうか、まじめな論考を聞きたいものです。

                              この項完

新・私の本棚 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 15 1/1

15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程 山田平
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 疑問山積、無意味な展開     2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 正直言って、国内史書は、当方の「圏外」なので、論議を避けたいところです。氏は、日本書紀(書紀)の不可解な点を一つでも減らそうと、一大仮説を提示しています。但し、倭人伝の書かれた時点で、「日本書紀」は、影も形もないので、倭人伝解釈の根拠を求めても無意味です。

*倒錯旅程の謎
 書紀の編者は、乏しい史料記事を素材とした「フィクション」の構築、つまり、史書の編纂にあたって、書庫の魏志史料の記事を参照して、まずは、神功皇后の所伝の基礎として、卑弥呼と壱与の遣使記事を、晋起居註まで取り入れて利用し、さらには、倭人伝の旅程記事を倒錯して焼き直し、神功皇后の新羅侵攻記事の旅程に利用したとしているのです。まことに、持って回った手前味噌ですが、それが、倭人伝里程論に何の関係があるのか、ついていけません。

 議論が倒錯しているのか、転覆しているのか、素人には、見当もつきません。ここでは、倭人伝里程の議論が求められているのであり、書紀の辻褄合わせ論議を求めているのではないのです。

*結論
 いやはや、大変な大事業ですが、何のためにそこまで無理に無理を重ねて、書紀の再解釈に努めるのかわかりません。

 無資格の門外漢とも見られかねない方が、堂々と私見をここに公開する気が知れません。

 素人考えで恐縮ですが、倭人伝談義に、何らかの外部資料を持ち込むなら、『当該資料の依拠資料、編纂過程、編纂者の身元/素行調査、原本の現時点での所在、現存写本の信頼性、各刻本の実態など、三国志に対して要求されたと同様の大量の身元資料を提出するのが「常識」ではないでしょうか。そこから、はじめて、倭人伝規準で言う外部資料/外国資料の史料批判ができるわけです。
 そこまでの試練を経ても、史料自体と対等の立場ではないのです。

 議論は、起点の確立が必要です。別世界、外国の視点を無造作に持ち込むのは、学問の道を外れています。
 精神論のように聞こえるかも知れませんが、科学的な観測/測定 では、観測/測定に使用する機器、依拠する原器/物差の校正が最初に成すべき事なのです。
 物差が違っていては
、議論が成り立たないと言うだけです。

                              この項完

新・私の本棚 謝 銘仁 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 16 1/1

16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観        謝銘仁
  私の見立て ★☆☆☆☆ 発見無し                2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論文で説かれるのは、「倭人」の地理観であり里程論ではありません。つまり、課題を見失った場違いなのです。
 倭地が、漢書地理志で紹介された海南島、朱崖、儋耳と対比されていると見えることの背景を述べていても、だからといって格別に斬新でないように思います。別に謎でもない話題に、別に斬新でもない解を与えているのに、掲載する価値はあったのでしょうか。
 いえ、謝銘仁氏に求められているのは、長年の論争のほんの一部でもいいから、闇に一条の光を当てる論文と思うのです。

*倭人伝史料批判
 倭人伝の中で、倭地の風土、風俗を、海南島、朱崖、儋耳のものと対比しているのは、明らかに洛陽人の意見であり、最終的には、陳寿の見識と見なすべきだという事に異論はありません。但し、そのように概観した背景は、論ずる余地があると思います。

 まずは、倭人伝里程記事を当時の里長で絵解きすると、倭地は海南島にも及ぶ南方に展開しているから、引き合いに出したという理解です。この解釈を言い立てるのは、畿内論者が多いようです。魏志行程を、何か何でも、わが地に引きつけようとしているようです。

 あるいは、当時の中原人の地理認識で、漢書地理志によって海島として、ほぼ唯一知られていた海南島と、倭人伝で初めて対比例として紹介された東夷倭人の住む海島とが、「世界にただ二つ、海島という点で共通している」との視点から、ここに海南島の海島風俗を取り上げたという理解です。

 当方の意見では、陳寿は、倭人伝の里程、方位が、正確、厳密なものでなく、むしろ、不確かなものであると認識していたのであり、倭地がどの程度の南方か確言できないと見て、漠然と比較したと見るものです。

 当方は、陳寿の倭地地理観をそのように見て、その主旨から理解しているものであり、前者の理解に立つ論に対して、一考に値する、言下に棄却すべきでないと信ずる異説を立てるものです。

 さいわい、氏は、文献解釈の大家であるので、このような異説を無下に廃却しないものと信じて、ここに提言します。

*結論
 謝氏ほどの権威から、中国人ならではの語学解釈が聞けないのは残念です。また、氏ほど博学なかたが、裸国・黒歯国記事解釈で足元が乱れるのは残念です。
 一旦、「また裸国・黒歯国ありて、さらにその東南にあり」と書いておいて、ただちに「裸国・黒歯国は、さらにその東南にあり」と言葉を変えるのは不可解です。そもそも、見るからに字数稼ぎ、不体裁で、この程度の不体裁は、編集部で校正してほしいものです。

 「船行一年」を、そのような「航路」と論じていますが、そもそも、倭人伝時代に「航路」なる言葉は「ありえない」のに、根拠不明で両断するのも不可解です。

 とは言え、「航路」、あえて解釈すると、「一種の街道」が確立されたほど往来があれば、一年の航行の間の停泊地が必須です。中国古代文に堪能なはずのかたですから、倭人伝にとどまらず三国志にも用例のない「航路」の意味、とくに「路」の意義は承知と思いますから、出し惜しみせずにご教示いただきたいのです。
 手の内を見せないために、高校生に揶揄されるようなはめに落ちているのではないかと危惧します。

 と言うことで、本誌の特集に、この程度の随想しか寄稿されなかったことに、大変失望しているのです。まさか、早々に、殿堂入りして「レジェント」扱いで、神棚に登って満足されたのかとも思えないのですが。

                             この項完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 17 まとめ 1/1

                      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09
〇総評に代えて

 以上の通り、一介の私人としての全力を振るって、全論文の書評を試みましたが、ここまでのブログ記事で、独自見解と示唆して公開している私見で、知らないうちに先人の見解を勝手に下敷きにしていたものは無いようで、ほっとしています。

 編集部の総括を参考に読解を試みたのですが、ここに総力特集を提示したにも拘わらず、依然として混沌たる状況に見えて不満があります。
 特に難があるのは、「里程の謎」と題して、「謎」の解法を募ったはずなのに、見当違いな論説を寄せている論者が、結構多いのである。特に問題なのは、「倭人伝」の文献解釈をはなから放棄して、つまり、難題に降参して、「思い付き」を展開している例が少なくないのです。
 結果として、ここに衆知を集めたにも拘わらず、「謎」の解明か進まなかったということです。

〇方位感の確立について

 一つには、倭人伝の里程方位は、魏使が日の出方位を真東と誤解したために方位記録を間違えたという、低級な愚説が廃却されていないことです。

 古代人は、方位を非常に重視していて、国王居所は、当然、正確な方位感で建てられていたので、訪問者は、方位を聞く必要がなかったのです。そのような方位感の確認は、交流の大前提であり、訪問者が日の出方位で勝手に方位感を更新するなどあり得ないことです。

 無駄覚悟で深追いすると、帯方郡民の魏使は、郡地の日の出が、季節によって真東から外れることは、承知していて、倭地に赴いても、季節による方位認識の誤解は、あり得ないのです。俗説は、随分、古代人の知性を見くびっているのに驚きます。

 当時の方位認識は、太陽観測から得られていたのは明らかですが、その観測精度は、小振りな日時計程度から、夏至冬至を確定するための高度観測も可能な大規模施設まで種々考えられます。観測点での測定精度確立は、国王威信の根拠であるため優先的に施設整備し、広く誇示されていたのです。
 ただし、里程の方位の目的は、道案内であり、方位精度は大まかで十分だったのです。

 以上、ものの道理を尽くした個人的な最善の考察であり、軽薄な現代人感覚を強く打ち消すために、強い表現をとっていますが、別に、史料、遺跡、遺物を得ているわけではないので、漠たる思索との批判は甘受します。

〇誇張説の廃却
 今となっては意義の無い「誇張説」は、廃却されるべきと考えます。
 誇張の根拠である実態里長論は地名比定の余燼として「誇張」と切り離し、時代錯誤で非科学的な「陰謀」説は、史学論争から排除すべきでしょう。

〇魏晋朝短里説の廃却~「倭人伝道里」待望
 本説は、編集部が総括したように、本質的に無効な主張であり意義の無い一説に過ぎないのです。そして、魏晋朝短里説を廃却しても、地域短里説は微動だにしないのです。
 丁寧に言うと、郡から狗邪韓国まで七千里、全行程一万二千里との二点が比定されない限り、これらの「道里」は、四百五十㍍でなく、七十五㍍でしかないのです。
 いや、それは、当時の漢魏帯方郡管内で、一里七十五㍍が制度として施行されていたと主張しているのではないのです。倭人伝の道里が、七十五㍍基準で書かれていると言うだけなのです。帯方郡地域短里説と区別するとすれば、「倭人伝道里」説と呼ぶべきものです。

 無効な主張の細部に対して反論すると、本説は有効と見なされて、論争の収束に逆行するので、曖昧な反論はすべきでないのです。
 
〇まとめ
 本号の絶大な努力に拘わらず、里程説の「謎」は、原初の混沌が、一向に晴れないことから、古代史論争の決着は、今後とも、永遠、遼遠と見るものです。

                             書評完

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