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2021年12月

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年12月28日 (火)

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』 1/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆乱調紹介文でぶち壊し   2021/12/28, 31

〇はじめに
 当書評は、課題の新潮選書の書評でなく、掲題サイトの紹介文に対するものです。(「デイリー新潮」編集部の署名記事。冒頭に、「新潮選書」編集部と署名)自社出版物の販促(販売促進 プロモーション)ですから、最善の努力で、本書の内容を紹介する記事を書いたものとして批判しています。
 著者は、『「古事記」研究の泰斗であり、また「出雲神話論」等の著書でも知られる』との紹介ですが、取り敢えず「日本書紀」不見識の自認でしょうか。目次の紹介を見ても、本書で中国史書の考証を試みた形跡はありません。爪を隠していたのでしょうか。

▢著作権問題
 案ずるに、当記事で紹介されている氏の所見は受け売りです。いや、何れか識者の意見に基づく提言であれば、出典が示されるはずですが、ここには注記がないので、記事全体が氏の新説となってしまいます。まことに大胆です。著作権「デイリー新潮編集部」とあるが真に受けて良いのでしょうか。
 もし、三浦氏が、他人の著作物を引用してその旨表記していないとしたら、「デイリー新潮」編集部は、第三者の著作物を、勝手に自身の著作物扱いしたことになります。是非、公式見解をお伺いしたいものです。

*「倭人伝」解釈について
 当記事は、主として、「倭人伝」道里行程記事に関して、一説を採用して、強引に拡張していますが、どんな資料をもとに議論しているのでしょうか。論ずる以上は、原文に触れるか、誰かの日本語訳の依存かとなります。
 どちらも書いていないという事は、「受け売り」となります。「倭人伝」原文に著作権は存在しませんが、近年の「日本語訳」なら、著作権が存在するはずです。まして、第三者の「倭人伝論」著作を丸写し、受け売りして、その出典に触れないというのは、もっての外です。

〇原典逸脱の罪~時代錯誤「新語」の罪
 ということで、ようやく本題に入ると、「倭人伝」に一切書かれていない「邪馬台国」を当然として進めている事に深刻な疑念がかけられます。確認すると、現存「倭人伝」では、全て一度限りの言及とは言え、「邪馬壹国」であり、「邪馬台国」は影も形もありません。そのような決め込みで本書を書くのは、まこと大胆な「創作」です。そのような「決め込み」を採用した際に依存著作があれば、その著者に責任を転嫁できるのですが、このままでは、氏が一身に原文詐称の罪を負うことになるのです。

 他にも、インチキ時代考証があって、「海の道」とか「海路」、果ては、「日本」、「ヤポネシア」など、三世紀当時に存在しない言葉が跋扈しています。というか、八世紀冒頭に成立した「日本」は別として、他の新語は、氏の造語なのか、誰かの遺言(いごん)なのか不明です。

*「助言」無批判追従の罪
 要は、氏は、「倭人伝」を正しく解釈するために不可欠な素養に根本的に欠けていて、誰か、「中国史に不自由な助言者」の不出来な提言を「受け売り」した為、このような悲惨な事態を招いたと見えます。勿体ないことです。

 氏ほど、権威を持っていると見える著者が、不確かな出典の「新説」を、無批判に担いで共倒れになっているのは、もったいない話ですが、そのような著作を買わされる一般読者には、大変迷惑な話です。いや、二千年近い古代史料に解釈について語っているから、百年前だろうが、二百年前だろうと「新説」なのです。

 選書の目次では「倭人伝」ネタは見えませんから、本書を購入して参考にするつもりはありませんが、堂々と掲示された当記事は、当ブログで解読を進めている信念と真っ向から衝突しますので、「倭人伝」解釈に於いて無謀な「新説」を唱えていると見て、全力批判するしかないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』  2/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆ 乱調紹介文でぶち壊し      2021/12/28, 31

*「倭人伝」道里記事
 ようやく本来の批判に入りますが、氏の読みは、過去百年余り、誤読者の山を築いてきた「魏使進路説」「直進解読説」を頑固に踏襲し、読み解き失敗が当然です。勝手読みのこじつけも、最初は「創意」の産物というにしても、前例通りの踏襲では、いつまで経っても「誤読」症状は治癒しないのです。

 氏は、前例、つまり、相談相手の意見を踏襲するしかできないようですが、それでも、巧妙に投馬国里程を切り離して、最終目的地を何がかんでも畿内に持っていこうとするのです。課題先送り手法は、今後、はやりそうです。

 氏は、独自の「解」を踏まえて「日本海」論を持ち出しますが、仮に、魏使来訪行程と見ても、狗邪韓国まで安全、安心な内陸行程で到着した上で、数百㌔㌘級の荷物と百人級の人員を抱えているのであり、後は、「日常の交易船として手慣れた「渡海」の繰り返しで、難なく既知の「大海」を越えて、揺るぎない大地を踏まえられる末羅国に着くとわかっている」のに、厖大な重荷を背負って、何の情報も無い前途を思い、頼りない小船で、いつ着くとも知れない試練を経て、魔物の住む(と見える)「海」を越えて、帯方郡の官人すら聞いたこともない山陰海岸に向かう気が知れないのです。因みに、山陰海岸に上陸しても、重荷を抱えて中国山地を越えるとびきりの難路が控えています。

 そのような事態は、倭人伝に一切書かれていないのです。いや、氏は、「倭人伝」が読めないのだから、言っても仕方ないのかも知れません。
 「倭人伝」の「魏使」往路としたいとの頑迷な固執さえ棄てれば、つまり、小舟で少量の荷を運ぶというのであれば、できない船旅ではないのです。

*「魏の使者は日本海側を通った?」
 これは、纏向説の悪足掻きを助ける意図でこじつけられたのでしょうが、無駄な努力と見えます。
 倭人伝道里行程記事の正確な解釈では、伊都国以降とみえる投馬国行程は、参考に過ぎず、実行程は、伊都国で終結しているから、大した勘違いです。
 まあ、聞く人を間違ったのですが、道里行程記事の決算「水行十日、陸行一月」の誤解も、一向に正されず深刻です。百年河清を待つのでしょうか。
 因みに、氏はしきりに「対馬海流」の後押しを言うのでが、巻向に行くのに好都合としても帰途は逆行であり海流の恩恵は重荷に変わります。その程度のことに気づかないとは、説得がむつかしいのです。

*論争の鏡像~情緒的自損発言
 氏は、賢そうに、『「邪馬台国」は、ヤマトに決まっているから九州説論者は、「邪馬台国」誘致など考えずに、古代史論に戻りなさい』と教授いただいていますが、当方の言い分と基本的に同趣旨で感謝します。
 つまり、『「倭人伝」の正確な解釈から出発すると、卑弥呼の居処は九州北部を出ないので、「纏向論」者は、早々に悪足掻きを止めた方がいいよ』と言うものです。
 要は、論理の裏付けのない情緒的発言を繰り返しても、鏡に映った自画像を泣き落としに掛けているようなもので、鏡に映った相手から反射的な反応があって尽きることがないので、論争解決手段として役に立たないのです。

 もちろん、氏が、「とどめの一撃」のつもりで追加されている「邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないか」という空想譚は、氏の脳内で滔々と響(どよ)めいているものですが、他人の知るところではないので、受け取るものもなく、闇の奥に消えていくだけであり、何の効力もありません。

 以上、ここまであからさまに無法でなければ、面倒な書評などしませんが、Googleニュースで紹介される著名記事は、釘を刺さざるを得ないのです。

 「新潮選書」は、無責任な与太話など刊行しないので、不審に思うものです。
                                以上

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*序章「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英弘氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。

 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

                                                               2017/10/29
*局地里制の先人
 古田武彦氏を始め多くの論者が主張している「短里説」だが、論拠は三国志内里制表記であり、倭人伝が「独自基準」の局地里制を宣言、採用していることを根拠とした説は記憶にないので、先例をあげることができない。

*図形表示技法の提案
 あえて言うならば、安本美典氏が、地図上で、帯方郡起点で狗邪韓国まで七千里ととしたとき、狗邪韓国起点で五千里の円を描いて大体の範囲を示していたのが想起される。
 補追:この「想起」は不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。
 安本氏は、藤井滋氏の提唱を引用して、帯方郡基点で万里となる末羅国を起点として、二千里の範囲にあるという指摘であった。(2021/12/26)

*倭人伝里数考察 明解な読解き
 一方、里数に対する後世史家の見解だが、衆知の如く、倭人伝の里数に修正を加えて書いた倭人伝修正版というのはついぞ見かけない。いや、近現代国内での論説は別としての意味である。
 それは、中国側により現地踏査が行われたであろう後も変わっていないように見受けられる。 隋、唐、北宋などは、倭人伝里数の現地検証は可能であったと思われる。
 特に、隋唐時代に、数度の使節来訪があり、随行書記官により、現地調査での里数検証の機会はあったと思うが、魏志里数記事が修正された、あるいは、付注されたと言うことは聞かない。
 つまり、倭人伝の里数表示は、帯方郡から狗邪韓国の間が基準として示されているから、資料として正確であると見たと思われるのである。
 そのような考察を怠って、「過大」の一言で切り捨てるのは乱暴に過ぎるのである。
 補追:この「考証」は、不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。 (2021/12/26)
 中国正史で、先行史書の訂正は、極めて希である。訂正しても、正史として、歴代王朝に公認された史書を訂正するのは、禁止事項であったのである。許容されているのは、裴松之の付注で見られるような「補注」であり、本文と区別の付く形で追加するものである。中国では、写本継承は、極めて厳格に精査されたので、補注が原文に紛れ込む異常事態は、稀少である。

*戸数について
 岡田氏が、倭人伝の戸数を過大とみた理由は、里数ほど明確でないので、以下当て推量を試みる。
 女王国(壹臺論回避策)の戸数が七万戸と書かれていて、先行する諸国戸数を合計するとすでに七万戸であるから、三十国の総戸数は(書き漏らしているが)十四万戸を越え、当時の情勢から見て過大という論理と思われる。
 以下、これが、必ずしも確実な議論でないことを、追々説明する。

                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 4/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*総戸数説
 これは、女王国の戸数七万戸が、三十余国の集合である倭国全国の戸数の内数であるという推定から出ているが、これは、あくまで、倭人伝戸数記事解釈の「一案」であり、氏の議論は、全てこの「一案」に立脚すると見るのである。
 因みに、晋書「倭人伝」によれば、七万戸は「倭人」の総戸数であり、奴国二万戸、投馬国五万戸は、内数となる。全体に通じる「余」は、程度にあたる概数表現であるので、全国戸数の積算は、七万戸に収束すると見て良いということである。詳しくは、長くなるので、後記する。

*「倭国伝」の試み
 「倭人伝」のかなりの部分は、帯方郡使の書記役が記録したと見られるが、定説は、帯方郡から女王国への行程総里数は必須として記録されても、同様に重大な総所要日数は書かれていないと見ているようである。同様に、全三十国の総戸数は書かれていないと見ているようである。読者が計算担当に見える。
 これに対して、本論は、倭人伝は「倭国伝」を目指して書かれたと見ているので、総日数と総戸数の記録が無いのは体裁不備と見る。
 そうでなくても、倭人伝が、読者たる皇帝を初めとする知識人に、煩雑な加算計算を敷いたと見るのは、何かの勘違いであろう。漢数字の加算は、そう簡単ではないのである。

 私見であるが、倭人伝は「伝」の要件を意識して書かれたと見るものである。これが、本論の一つの提案である。

*戸数論再訪 明解な読解き
 女王国七万餘戸は各国戸数の合算を下回るので倭国総戸数と見ることができないというのは、概数合算算術の理解不足が一因と思われる。

*帯方流「餘」の解釈
 倭人伝で、里数、戸数ほぼ全ての「餘」が端数の切り捨てと見るのは「読み違い」であり、四捨五入的概数「略」(ほぼ)と読むべきではないかと見ている。
 「略二万戸」と「略五万戸」を足せば「略七万戸」であるが、それは、六万戸程度から八万戸程度の範囲内のどこかであって、七万戸を上回るとは限らない。数学記号で言うと、≒であって=ではない。

*概数計算の妙味(ほめ言葉)
 次に、大国の万戸台の戸数に千戸台の中小国の個別戸数を足す計算であるが、概数計算では、桁の異なる概数の漢数字を、多桁の算用数字に「翻訳」した足算計算は勘定が合わないことか少なくない。

                                         未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 5/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*戸数の意義
 それ以外に考慮すべき要素として、女王国の中の女王直轄地たる居処地域が、千戸台の戸数しか備えていないと思われることが挙げられる。
 すでに、政治経済の中心として重要な伊都国の戸数が、少ないことが話題に上っているが、それは、戸数の意義を理解していないからである。
 戸数は、戸籍上のものであり、壮丁の人数、つまり、軍人として召集可能な人数の計算根拠である。
 伊都国のような経済活動区や王都は、まず、農業人口が少なく、また、後世の国家公務員に相当する首都圏居住者は、多くの場合、税務、軍務、役務が免除ないしは軽減されるので、戸数として計上しないことがあるようである。
 論拠は明示できないが、妥当ではないかと見る。

 補追:倭人伝冒頭に「国邑」と書かれているように、対海、一大、末羅、伊都の諸国は、太古の中原諸国のように、王の居処を隔壁が取り囲んでいる聚落「国家」であり、広く領域を確保した「古代国家」ではないと見られる。従って、戸数は、せいぜい千戸台であり、山島、洲島を占めているので、隔壁を持たないとしても、周囲は「大海」で囲まれていることになるから、国の広がりは、言うだけ無意味なのである。(2021/12/26)

*戸数の精度
 三国志全体を検証したわけでないが、諸史の郡国志などに従うと、戸籍制度が徹底した地域の戸数集計は一戸単位の正確さであった
 つまり、帝国の全国を網羅する戸籍が整っていて、戸籍台帳に記載された数値を集計しているから、正確な計数が可能であり、それを正確に集計するから一戸単位なのである。
 戸数、口数は、帝国経営の基本であり、税務、軍務、そして役務の根拠であるから、正確でなければならない。戸籍制度維持、管理は、同じく、国政の基である。決してゆるがせにできないのである。
 従って、戸数計算では、当然、部分の総計が全体となり、倭人伝にあるような、戸籍もない未開の土地の戸数計算の参考にならない。

*倭人伝は概数世界
 このように、魏志の他の部分では、精緻に戸数計算されているから、「三国志全体」を読んだうえで「倭人伝」を読むと誤解しても無理はない。「倭人伝」は、おおざっぱな数が横行する概数世界に適した用語、文体を取っているのである。

 物事を緻密に調べれば調べるほど、真実から遠ざかるという事例もあるのである。  

                                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 6/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*未開の国の未開のデータ
 戸籍がない国の戸数の出所は、大抵、国主の「やまかん」であり、戸籍データの裏付け、根拠はないから、当然、概数、それも、荒っぽい概数である。
 その証拠に、表示数字は、一から九まで揃ってなくて離散している。
 
七と八の共存例は見つからず、一または二,五,七または八と進んで桁上がりし、一万の次は一万二千、一万五千と飛ぶようである。小林行雄氏の言う「おおざっぱ」である。
 元に戻って、帯方郡ないしは楽浪郡は、正確な戸数の得られない実情がわかっているから、遼東郡太守公孫氏に、おおざっぱな戸数を計上したのであろう。

*先人の足跡
 晋書倭人伝では、女王国戸数七万餘戸が倭国三十余国の戸数総計であると明記されている。これが、倭人伝戸数の順当な読み方である。
 『邪馬台国の全解決』(六興出版)孫栄健著で発表され、榎一雄氏が紹介、批判している。
 「邪馬台国に関する孫栄健氏の新説について」初出 季刊邪馬台国。榎一雄全集第八巻収録。
 榎氏の批判は、孫氏のその他の諸提言もろとも、大変手厳しく、ほぼ全面棄却となったようである。

 榎氏は、『「晋書倭人伝」は、全体として「魏志倭人伝」の不出来な要約であり、戸数論議も依拠すべきでない』と批判しているが、悪例で全体を処断する論法は、榎氏自身が、かねてから囚われるべきでない論法と戒めていて、その現れで、戸数表記自体は、さほど批判されていない。
 つまり、女王国、即ち倭国三十国、総戸数七万戸説自体は、榎氏によって否定はされていないとみる。

*戸数論の定説への影響
 現時点で、以上の戸数解釈は、定説を損なうので採用されないものと思う。遺憾である。
 因みに、当方は、当該論説を知らずに「郡国志」論から独自に思いついたことを申し上げておく。

*里数計算再び
 文書通信を最重視した魏武曹操を例として、道里、即ち、街道里数、所要日数は帝国経営の基本であり、街道と宿駅の維持は責務である
 さすれば、里数計算では、部分総計が即全体となるが、倭国は未測量で、街道未整備の荒地であるから、杓子定規に援用できない。いずれにしろ、倭人は、域外の夷蕃であるから、魏制に従っていなくとも不思議は無いのである。
 因みに、三国鼎立時代、蜀漢、東呉、それぞれの戸籍と土地台帳は、曹魏の圏外だったので、それぞれ、蜀志、呉志に収録されていても、魏志には、収録できなかったのである。それが、三国志の成り立ちである。

                                                    未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*岡田氏の限界
 以上の観点に立てば、倭人伝の戸数、里数は、決して過大でないが、それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので、岡田氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。

*古田説批判
 「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では無効である。
 たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を、倭人伝に一切根拠の無い、「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工の帳尻合わせは必要ない。まして、記事冒頭の架空の「水行」行程の臆測道里を取り込むのも、無意味である。

 史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
 このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。

*古田氏の限界
 古田氏が、東夷伝、倭人伝独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
 いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである

*倭人伝道里事情
 景初年間以降、魏の直轄群となった帯方郡は、文書使の往来を通じて、倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであり、全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都―倭の最終道里を書かなかったとも見える。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
 先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
 それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。

*追記~2023/06/27
 であるが、道里記事が起草され、全体道里が万二千里と記帳されたのは、「後漢建安年間」の公孫氏時代であり、その時点では、伊都国が「倭」であったと推定される。帯方郡創設時点に近くなって、女王を共立し、その居処として「邪馬壹国」が設けられたと「時代考証」すると、「後漢建安年間」には、「邪馬壹国」は存在せず、先に述べた「伊都-倭」道里は、存在しなかったことになる。その後、景初年間に、魏明帝が、帯方郡太守を派遣して、直轄体制にしたときには、女王が君臨し、伊都国を従えた「邪馬壹国」が存在していたが、道里記事に書かれた文書通信所要日数規定は、変わらなかったと見える。

*放射道里説
 榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
 伊都国が実質上の首都であり、そこから各国に至る里数が知られていたという提案には、重大な意義があると思う。

                                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 8/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*伊都国首都論批判~批判
 榎氏が創唱したと見える「放射道里説」に対する主たる批判は、中国史料で「放射道里」が書かれているのは、起点が王治所など地域中心の場合だけと頑強であるが、それは、「倭人伝」が、そのような厳格な基準に基づいて書かれたという前提に基づいたものであり、「倭人伝」の当該部分が、帯方郡の書記官によって、「倭人伝」独自筆法で書かれたとすれば、当てはまるとは限らない。そして、陳寿は、史官の本分に従い、魏代の公文書、つまり、皇帝公認の公式史料に忠実な史官倫理を「旧套墨守」したものと思われる。
 「倭人伝」解釈で、後世東夷の「思い込み」は、しばしば「曲解」につながるのである。

 因みに、「首都」は、恐らく、魏朝初代皇帝曹丕の造語であり、後漢末期の動乱の結果、後漢献帝の流浪により、帝詔が洛陽、長安、鄴、許都などから発せられて混乱しているのに対して、『後漢の天下を継承した以上、総ての「都」は有効であるが、天子の治所雒陽を「首都」とする』と宣告したことから来ている。

*全ての道の通じるところ~補充 2021/12/26
 いつの間にか、伊都国が実質的な首都かどうかとの議論となったが、海峡交易の要(かなめ)であった伊都国は、交易中心にして物資集散地であり、実務上、各国への里数が知られていたと考える。
 漢書では、地域の交通の要は、すべての人と物資が会する処であることから、「一都會」、「一に都(すべ)て会す」と評していたが、陳寿は、ここでは、そのような迷走は避けている。そもそも、中国語に於いて、「都」に「みやこ」の意味が付託されたのは、「王」が、交通の要に治所を定め、市(いち)を開設したためであり、本来は、すべてが集うという意味であり、多くの場合、今日に到るまでその意味が貫かれているのである。これは、日本語での「都」の意味と随分異なるので、史書の解釈で、「思い込み」に惑わされないように注意する必要がある。

 余談ながら、現代人が、これを漢書の新語「都會」と曲解しているが、何とも珍妙な時代錯誤である。漢書の編者班固は、史官の伝統を堅持していたから、そのような生煮えの新語は採用しないのであって。単に、文字の連なりに過ぎないのである。とかく、「都」は、後世人に誤解されやすいのである。

*倭人伝の主題
 ともかく、「従郡至倭」、つまり、公式史書の作法に従って、帯方郡起点で書かれている、内陸の帯方郡を発して一路南下して「女王之所」に至る行程と里数、日数記録「倭人伝」の主題である以上、伊都国から女王国直行であり、他国経由の道草行程は書かれてないと思うのである。
 念のため言うと、世上で「定説」とされている「魏使訪倭経路」説は、大胆な読み替えであり、また、「倭人伝」道里の書かれた時点と齟齬しているので、一言で言うと「大きな勘違い」である。多くの先賢が、この「定説」に合わせて、「倭人伝」道里記事を「曲解」しているのは、勿体ないことである。要は、陳寿の筆の運びに合わない見方は、いかに現代風の精緻な論理に裏付けられていても、陳寿の真意を見損ねていて、単なる「誤解」、「曲解」と言わざるを得ないのである。

*結末 明解な読解き
 岡田氏の言説に対する反論が大きく膨れあがったが、端的に言うと、この程度の考察を踏み台としない、性急な断定は、大抵の場合、軽率の誹りを免れないのである。威勢の良い発言で、異論を一蹴、排除するのは、大いに俗耳に訴え、大いに俗受けするので、止められないのであろうが、論理が主役であるべき学問の世界では、的外れ、心得違いというものである。

 当ブログ筆者は、太古の賢人「墨子」にならって、なろう事なら「尚賢」でありたいと思うのである。

                                                                      以上

2021年12月24日 (金)

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 1/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

〇はじめに~「勝手に査読」の弁
 本記事は、先に公開した小澤氏の講演とほぼ重複していますが、目下天下に唯一の古代史論専門誌「邪馬台国」掲載論文として、いわば、座り直して批判するものです。
 このたび、読みなおして、補充しましたが、論旨は変わっていません。

 前稿は、既に、講演批判として行きすぎの感があったと思いますが、本論は、氏を倭人伝論において素人の論客と見立てて、査読紛いの論文審査をしてみました。失礼を顧みずに言うべきことを言うには、そうするしかないので、一種座興として聞き流していただいても結構です。

〇様式不備/用語齟齬
 当記事でも、記事タイトルに書かれている「魏志」を、広く知られている「倭人伝」の言い換えとして進めるのは、二つの意味で不法です。

 まずは、目次に明記の「魏志」のすり替えはだまし討ちです。
 先賢は、倭人伝に限定された論議を評して、「それでは、深意から遠ざかる一方である。三国志全巻を通読玩味して、三国志の書法を熟知するのが先決である。」と貴重な訓戒を垂れているので、氏ほどの高名な論者が、魏志全篇を参照した倭人伝論を展開していただけるものと、大いに期待し、拝聴、ないしは、拝読したものと思うのですが、実は、実は、では、騙されたと感じると思うのです。

 次に、臨時の言い換えで、「魏志」なる高名な史料名を、その本体部分を差し置いて、全三十巻の最終巻の末尾にある、一部と言うのが言い過ぎになるような細部である「倭人伝」に限定使用するのは、許容される論文作法の手口を、大きく外れています。読者は、ここで「魏志」を目にする度に困惑するのです。講演ならぬ本誌では、戻って読み返すことができますが、それでも、意義のない言い換えと考えます。
 これでは、論争史を通じて山積している先行論文を引用するとき、用語が輻輳します。また、当論文を引用する論者は、引用文に、都度注釈を加えなければなりません。これは、論文作法を知らない初心者の手口です。

 この手順が、古代史の先賢が、特に根拠を示さないままに、「倭人伝」なる用語を否定している言いがかりへの対応とすれば、回避でなく克服すべきと見ます。本記事で克服できないのなら、臨時に宣言すれば良いのです。混乱を助長しては、論外です。

*史料錯誤
 普通、当論文は『倭人伝から「邪馬台国」の位置を語る』論考と思われますが、原史料である倭人伝に「邪馬台国」と書かれてないという衆知で未解決の難点を克服しなければなりません。本記事で克服できないなら、臨時に宣言すべきです。基礎部分に穴が空いたままで、放置されていては、粗相の感があります。

 いや、本誌は、「邪馬台国」と銘打っているので、読者は、古代史に十分通じていて、かつ、国名問題に関して、とうに意志決定済み、解答醸成済みと速断したのかも知れませんが、それは、唯一の古代史専門誌の読者に対して、重大な先入観を持って臨んでいるのであり、まことに失礼な態度と言わねばなりません。言うまでもありませんが、いかなる分野でも、初心者、初級者は、絶えず参集しているのであり、長い学びの道のりを歩み出すときに、未検証の、根拠の無い一説を先入観として植え付けるのは、避けるべきと考える次第です。

 本論文のタイトルでもわかるように、看板は尊重すべきであり、安直な塗り替えは禁じ手ですが、だからといって、学術的な手順は見過ごすべきではないのです。読者の賢察もまた尊重すべきです。

*史料改竄
 因みに、講演では「本稿では」と前振りして、倭人伝刊本に明記されている一部用語を、氏自身が信ずるに足りないとする後世史料に従って言い換えていますが、ここでは「本稿では」が、削除され勝手な定説としています。

 学問の世界では、原史料を改竄するのは、厳に戒めるべきものと信じるので、本記事は、厳格な「ファクトチェック」のされていない風説によって原史料を改竄した「風説論文」と解されます。差異は些細ですが重大です。基礎部分に穴が空いたままで放置されていては、粗相の感があります。
 当記事をわざわざ書き上げた理由の一つが、この無造作な改編です。

 史料の校訂は「厳格に確証されない限り行うべきではない」とは、「釈迦に説法」と思えるのですが、氏は、中国古代史史料の考証においては、修行が足りないと感じ、率直に指摘するものです。他意はありません。

〇無礼御免
 以下、本誌記事に相応しい批判を展開します。前稿に比べて論調が厳しいのは、本記事が、編集部の論文審査を経た「一級論文」と見ているからです。
 言外の示唆では、読み取れないのかも知れないので、「改」公開では、子供相手のような言い方をしますが、要は、雑誌編集部/出版社校閲部門の怠慢、ないしは、失態を指摘しているのです。当分野唯一、天下最高の専門誌に対する批判は、厳しいものになるのです。

                                未完

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 2/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

1.1 はじめに
 氏は、倭人伝を「第一級史料」と見つつ「当時の日本列島のようす」を伝えていると評しますが誤解と思われます。冷静に読みなおしていただければわかるように、「ようす」、つまり、風俗や地理が書かれているのは、「従郡至倭」の示すとおり、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都の行程の通過、経由地であり、特に、狗邪の大海北岸を発して以後の行程です。
 つまり、日本列島どころか、行程上の数カ国のようすに過ぎないのですが、それが『倭』の枢要部なのです。

 「倭人」伝は「倭人」領域に限られますから、郡と狗邪のようすは書いていないのです。
 かたや、奴國、不彌國、投馬國は、「倭人」領域であっても、行程道里主要国ではないので、「略記」にとどまっているのです。
 なお、伊都国、女王国は、行程の目的地なので、詳細後記として、ここには詳しく書いていないのです。

 以上は、倭人伝を虚心に読めば、自然に読み取れるはずです。

 世上、このような当然、自明の議論を封じるために、「文法」論などの口説が動員されますが、目前の史書記事を無視/軽視するのはいかがなものでしょうか。以上の素人考えは、別に、中国人学者に頼まなくても普通に読み取れるはずです。倭人伝は、中国古代人の教養と理解力に合わせて書かれていて、現代中国人にとっても理解困難な高度な古文史料ですから、よくよく、その理解力を測ってから、ご意見を拝聴するのであり、無批判な追従は、禁物です。

  そのような自然な読みをどう理解されたのか、余り通用していないと思われる古代史用語である「日本列島」、つまり、九州北部から東方までの領域の「ようす」が書かれていると、一種の思い込みで断じるのは、氏の信条を外しているように感じます。倭人伝を基礎資料として解読するなら、外部資料は後回しにすべきと感じる次第です。

 また、邪馬台(やまと)の書き方は、同様に、不本意というか、不手際です。仮に、倭人伝に書かれていない「邪馬臺」を原表記と仮定しても、「やまと」と発音したことを裏付ける一級史料は絶無です。倭人伝執筆時点で、影も形も無かった世界の「ようす」が、倭人伝に影響するはずもなく、時代倒錯と見えます。

 氏に、初学者に向かって言うように言い立てるのもどうかと思いますが、「臺」は「台」とは、根っから別の字であり、発音も意味も別物なのです。大事な点をすっ飛ばしては、不都合です。

*中国史書視点の見当違い
 冷静に考えればおわかりいただけると思いますが、魏志編者は、天下国家の正史を志したのであり、いかに魏志全三十巻の掉尾を飾る勲功としても、あらたに参詣した東夷伝の小伝である「倭人伝」を諸史料から結集するに際して、東夷の国内の小国の配置に、特別の関心を持ったわけではなく、また、各国の里程方位を題材に、読者に対して、高度な読解と解答を要求する「問題」を工夫したとも思えないのです。

 氏の言い分は、国内史料から築き上げた蒼々たる国内歴史解釈に従うように、氏の専門とされる考古学成果を積み上げたのに続いて、中国史料を読み従えようとしているように見えます。いや、それは、多くの先賢が挑んで、登攀路を見出していない高嶺に、虚心に挑もうとしている氏の所信に反しているように見えるのです。
 かくの如く出発点で誤解した以上、論考の迷走は不可避と見られます。氏が、恐らく承知の上で「定説」に流されるのは、何とも勿体ないところです。
 この後、氏の論理は、信条と定説を交えて大きく動揺します。

*二級史料の暴走
 定番とは言え、後世史書、類書、雑書を無批判で満載で、「相互の比較をつうじて、現行刊本の『魏志』の文字を校訂する」と述べます。遺稿上申とはいえ、晋帝嘉納以来、二千年近く継承された「一級史料」(依拠刊本不明)を、後世、速成抄写を重ねた「二級史料」で否定するのは見当外れです。

 後手で「二級史料」と査定し、史料として格段に低い位置付けを施すのは、逆順でちぐはぐです。それなら、前段で、倭人伝を改竄した「一刀両断」を正当化できないのです。自己矛盾が露呈していて、不思議な眺めです。
 大学教授の玉稿は、編集部査読外なのでしょうが、共々、不手際露呈で随分損をしています。

1.2 邪馬台国の位置
位置推定の材料  『魏志』に登場する国々の所在を推定するうえで最大の指標となるのは、里程記事である。当然、地理や現地の地形との対比も必要となるが、それにくわえて、地名も重要な手がかりを与えてくれる。

 ここで、二級史料はまだしも、東夷の国で、数百年語り継がれたあげくの「地名」国内史料を「重要な手がかり」と採用するのは、同意しがたいのです。
 また、事のついでのように書かれる「考古学成果」は、重要な手がかりなので、無文字の限界を明記した上で、この場で要点を紹介すべきと思われます。
 一級史料の記事を改竄するなら、ご自身の著作物として公表すべきであり、原典と異なる「史料」について論じるのは「贋作」行為です。

 ついでに言うと、俗に言う渡海の「実距離」は一切測定不可能で、誇張の基準にならないから、「水増し」は理屈の通らない単なる言いがかりなのです。どなたの口ぶりかわかりませんが、子供じみた口まねは、感心しません。
 また、数学用語が誤用された「実数」の不意打ちは、不当でしょう。まあ、合わせて、先人の科(とが)でしょうが、無批判追従は氏の沽券に関わるのではないでしょうか。

 このように念押しするのは、氏の論旨展開が、氏の信条に反して、先例の多い「推定、憶測により断定を押しつける」粗雑な暴論に陥っているからです。とかく定説に多い錯覚に染まっているのではないかと懸念しています。

 「普通」に考えれば、日数は、日常往来から検証できるので、架空のものではなく、十分信を置けます。氏の割り切りは、先賢が大きく躓いた「名所」を忠実に辿るようで、考察に掘り下げを欠き、考えの浅い見当違いとみえてしまいます。

1.3 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」
 「邪馬台国の所在」と掲題の「位置」を外して論じていますが、「所在」は「不在」を含む主旨なのでしょうか。論考では、一語一義としたいものです。これは、編集後世段階で、真っ先に検出すべき瑕瑾です。

 いずれにしろ、本稿は、掲題にない余談には関与しません。

〇まとめ
 結局、氏の本記事は、一級史料そのものでなく、「国内史料に基づき一新された倭人伝」に基づくものであり、正直にそう書かれた方が良いのです。折角、実直な所信を打ち出しても、史料自身の考察より失敗事例の追従を優先するのは、不徹底と見えます。恐らく、先賢や助言者の提言を排除すると、無礼だと非難を浴びるので、色々忖度したのでしょうが、勿体ないことです。「木は、芽ぐむ土地を選べないが、鳥は、宿る木を選ぶ」というのが、古来の箴言です。

 率直なところ、倭人伝に関する史論は倭人伝記事に基づき展開するとの抱負から、まずは、初心者の目で史料自身の考察に取り組むべきだと思うのです。確実な一歩を踏み出すことが必要と感じます。
 「後生」の務めは、「先生」の至言と言えども、糺すべき過ちは糺し、質すべきは質し、その精髄を継ぐべきと思うのです。

〇謝辞

 以上、氏の宣言につけ込んで、無遠慮に素人扱いした無礼をお詫びします。なお、安本美典氏が本誌編集長就任時に、論文審査を編集の基幹とする旨宣言されたのと同じ方針によって、勝手に論文審査したものとご理解いただきたいものです。
                                以上

2021年12月23日 (木)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 1/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

〇総論~「窮鼠」徘徊
 本書は、一応、公平な見地から取り纏めた「邪馬台国論争」全集版との執筆姿勢であり、出版社を含め、本書を企画したと言うことは、乱世に統一をもたらす道標を築き上げるという絶大な責務を課せられたと感じたはずです。
 と言いつつ、著者は、不退転、と言うか、退路を断った背水の陣の畿内説陣営の走狗、つまり、窮鼠であり、至る所にその分厚い先入観が露呈していて、執筆の際にそのような高邁な責務は念頭から去っていたように思われます。

〇書誌論の沈没~意図不明な紹興本高揚
 取っつきとして、刊本書誌を論じていて、著者は、世評の高い紹熙本だけでなく、紹興本も咸平本に基づく刊本と主張しています。その意見に反論している内に、以下のように長い道草になりましたが、場の勢いで刊本論を続けます。

 紹興本は、本来、紹熙本と同じ字面のはずですが、両者は、あちこちで異なっているのです。一番目立つのは、紹熙本が東夷傳の各小伝に「傳」と小見出しを付しているのに対して、紹興本では、これが削られていることです。
 これは、小伝小見出しが、陳壽原本に記載されていたと言うほどのものではなく、おそらく、歴代写本では、上部欄外に手書きで注記されていたものが、咸平本刊行の際に、労を厭わぬ官製刊本の特例として、本文に取り入れられたと思われます。
 何しろ、小見出しの数文字で一行を費やし、これを繰り返していくと、いずれはページ送りになりかねないので、このようなレイアウトを採用するのは、大変な贅沢なのです。(木簡、竹簡などの簡牘本では、あり得ないことであり、蔡侯紙の巻紙などの紙媒体ならではのものです)
 もちろん、万事推測ですが、紹興本は、咸平本刊本を原本として南宋初期に刊行されたものではなく、少なくとも一度は、咸平本から写本して通用していた刊本「写本」をもとにした刊行と思われます。もちろん、紹熙本も同様です。
 刊本は、すべて同一内容ですから、咸平本そのものが完全に継承されていたら、何の論議も必要なかったのです。

*北宋刊本の興亡
 咸平本が木版出版されても、部数は少なく、高官に限定されていたと思われます。そこから、通用する写本が分岐したと思われます。
 何しろ、北宋期は、中国史上、それまで王侯貴族や(旧)軍閥に集中していた文化経済活動が広く民間に拡大された革新的な時代であり、「清明上河図」に見られるように市民階級の経済力が興隆し、且つ、宋王朝は、政府機能を複数の陪都に分散していたので、自宅に書庫を備え、その書庫に正史写本を備えたいとする蔵書需要が、各地で高まったと思えるのです。あるいは、呉、蜀の旧地の蔵書家が、財貨を傾けて、魏志、呉志の最善写本の収集にあたったとも見えます。紙製本時代になって、正史全巻の輸送も、汗牛充棟の大事業ではなくなっていたのです。

 北宋が、徽宗の代に、討滅を企てた北方異民族の侵入で突然崩壊し、逃避した皇族が江南の地で国家再建を図ったとき、四書五経に始まる国書群の回復の一環として、咸平刊本を三国志翻刻の基礎とすべく探したものの、遂に入手できなかったので、最善の写本を翻刻して紹興本が刊行されたものと思われます。
 「最善の写本」というものの、厳格に管理された正規の写本工程で作成したものではなく、そのために誤写が散在していたのでしょう。その兆しが、小伝の小見出し省略/維持の不統一に現れているように思われます。民間の手になるものであれば、伝統的に必須でない小伝小見出しは、省力化の対象となったのでしょう。

*紹熙本の由来推定
 紹凞本刊行の背景として、紹興本の刊行後、数十年して、忽然と咸平本写本の善本が得られたことによると見たのですが、どうでしょうか。
 紹興本が最善であれば、紹熙本の出る幕は無かったのです。恐らく、紹興本の編纂にあたった学者達が、紹熙本に不満を抱いていたが、その時点で最善だったので、妥協したものが、紹熙本原本が発見されて、「最善」の称号が移転したのでしょう。

 当然、紹興本刊行の費用と労力を無にする、不遜な重複と誹られたでしょうが、刑死の危険も厭わぬ決意を以て推進して、万難を排して刊本として翻刻し、更に咸平本帳票復刻を添付したのは、念願の善本を入手した関係者の無上の喜びの表現であったのでしょう。
 

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 2/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*紹熙本降臨
 以下、あくまで小説的な推測ですが、このような異例の事業が実行できたのは、紹凞年間、上皇として実権を把握していた南宋第二代孝宗の強い支援を受けたためではないかと推測します。

 孝宗は、宋朝皇族とは言え、皇位継承に無縁の太祖趙匡胤系子孫でした。北宋皇帝の系譜は、創業者である太祖の逝去の際に、弟である太宗趙炅が、太祖の息子である皇太子を押しのけて皇位を嗣いだことにより、以後太宗系が正統となり、太祖系の子孫は長く傍系に追いやられ冷遇されていました。
 北宋亡国の中、有力皇族男子でただ一人江南に逃れ、南宋を再建した初代高帝趙構も太宗系でしたが、いろいろな事情があって、あえて、太祖系の趙趙昚を養子に迎えて後継者としたのです。いや、太祖京皇族は、中央から遠ざけられていて、しかも、皇族名簿に載っていなかったので、異民族軍の皇族狩りを逃れたと見えるのです。
 かくして、紹興三十二年(1162)に、南宋皇帝位は、高帝から新帝趙昚に譲位され、翌隆興元年(1163)に、ほぼ二百年ぶりに太祖の正統を承けた皇帝として就位したのです。

*考宗の野心
 このようにして皇帝となった孝宗は、宋王朝正統の復活を世に知らしめる野心を持ってして、万事に先代皇帝の単なる継承を超えた意欲的な統治を行いましたが、その一環として、高帝の事業とした紹興年間の三國志復刊、「紹興本」が、最善の写本を基礎と志したものの不完全であり、言わば誤って刊行された正史三國志であることから、これを咸平本原本により近い善本に基づく正しい刊本を刊行する事業に対して決裁を下したのではないでしょうか。
 国家事業を行うためには、臣下の稟申に対して皇帝の裁可を得る必要がありますが、紹凞年間は、上皇が最終決裁権を持っていたので、まずは、上皇の内諾を得てから正式に稟申し、無事上皇の裁可を得たはずです。
 関係者は、刑死も恐れぬ上申への上皇の支持に篤く感謝したはずです。

*考宗没後の展開
 ところが、刊行を目前に控えた紹凞五年(1194)に孝宗が急逝し、権臣が病弱を理由に第三代光宗を退位させて寧宗趙炅を擁立し、建元となりました。
 このような事態の急変はあったものの、孝宗が強く支持した三國志刊本は、あくまで、孝宗の偉功として、紹凞年間に決裁が下りたことを込めて、「紹凞本」の名目で刊行されたように見えます。
 以上、空想も交えて推定した経緯のほかに、紹興本に続いて紹凞本が刊行された合理的な理由が考えられないのです。

 南宋により刊行された三國志紹凞本刊本(印刷本)は、南宋統治下の江南各地に流通し、原本散逸の可能性は大幅に低下したのですが、それでも、今日、紹熙本善本は、元、明、清の歴代王朝の興亡に伴う大陸の動乱から隔離された日本での蔵書を利用しなければならなかったのです。

〇道里論~早々の自沈
 以下、著者の見識(の狭隘さ)をうかがわせるのが「倭人伝」道里論です。著者は、賛否の表明以前に、道里の合理的な把握はできていないようです。
 その証拠に、反対論として「数学的なトリック」、「欺瞞(錯覚)」、「不確定」、「誇大化」、「孫悟空の如意棒」と耳慣れない、痛々しい言葉を募らせて、敵を罵倒するだけで、倭人伝道里が、一里100㍍に及ばない程度の「短里」で書かれているという「短里説」が不合理であるとする論拠は一切示されていないのです。これは、論理的ではありません。むしろ、窮鼠の悪足掻きを思わせます。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 3/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*「イメージ」戦略の怪
 また、「日本列島の正確なイメージ」を論じて趣旨不明な「大局的な視野」を誇示しますが、ここで問われるのは、移動経路沿いの北九州の土地勘であり、「日本全図」を書くのではないことが見失われているのです。
 三世紀当時に、列島の全貌を詳細に採り入れた「絵姿」(イメージ)なと、到底あるはずがないのに、得々と述べているのは、個人の幻覚を言いふらしているだけであり、読者にとって大変な迷惑です。
 要は、魏志「倭人伝」で書かれているのは、九州北部だけで、残りの日本列島は、陳壽が関知していないという「倭人伝」の基礎視点が欠けています。

 それにしても、魏使/帯方郡使が、現地の土地勘を書き出せないとしたら、軍事使節として不適格な「方向音痴」になるので不合理なのです。

*誤解による冤罪
 著者が非難する「短里論者が、陳壽の道里記事が正確であると決め込んでいる」という指摘が、認識不足の冤罪/誣告であることは自明です。「普通に」原文を読解すれば、倭人伝」道里記事は、整然精密で首尾一貫しているのでなく、「記事の出典に応じて整備された」ものとわかるはずです。つまり、陳壽は、資料全体を通観した上で、時に推測を交えて、(微視的には不統一な)記事の大局を整合させています
 氏の断定は、対象資料を読解できない「落第者」の詭弁であって、よく言って、負け惜しみと見えます。

 ご自身、地理的な事項を適確に認識する能力が欠けていて、勝手な幻想を思い描くしかできないのに、陳壽が、時代最高の叡知を注いだ記事の片鱗すらできない醜態であり、いかに強い口調で主張されても、あくまで「仮説」であり、検討の出発点として利用しているに過ぎないのです。

*また一つの誤解
 著者は、「魏志の記載に不正確な点があることが判明すれば、その時点で短里説が瓦解する」と自分勝手に見ているようですが、それは、偏狭な独善に過ぎません。いつから、氏は、神の立場に立ったのでしょうか。互いに六倍の差がある道里論で、里が60㍍でも100㍍でも、大局的に議論を左右するものではないのです。正確、不正確の視点が、「とっぱずれ」、「失当」になっているようです。

 史学は、些細な論点に囚われて、大局を見失ってはならないとするのが、正論と思います。まして、自分で理解できない論点に、勝手に重大な意義を持ち出すのは粗雑です。
 とくに、「魏志の記載」を理解する素養、不可欠な知識に欠けているのに、同時代唯一の資料を攻撃するのは、身の程知らずと言うべきでしょう。

*自覚のない見識不足
 どうも、筆者は、中等教育(中高)程度で習得すべき合理的、かつ計数的な見当識が備わっていないように思われます。

*見当違いの強弁
 それにしても、著者のように、ここぞと言うときに、俗説や勘違いも含めて、多彩な言葉の雨で根拠不明の意見を通そうとするのでは「論争」にならないと思います。「論争」に饒舌も絶叫する強弁も不要であり、寸鉄の論理の一言で議論は終結するものです。

〇改装のおことわり
 初稿は、ここまで一㌻、残り一㌻の二分割でしたが、加筆の結果肥大して、現在の基準では、長すぎる体裁になったので、分割再掲載しました。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 4/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

○遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)の距離にある。魏晋の尺度(一尺約二四・一センチ)からすれば、約650㌔㍍(565㌔㍍)の距離である。これを額面どおり受けとめれば、邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持することになる。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。

*コメント
 誤解を自覚せず、一陣営をトリック(「悪意による欺瞞」の意か?)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。

 いままで、1300里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞(錯覚)がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。

*コメント
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は、全く別概念である。「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との自覚の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。

 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化(意識的・無意識的を問わず)されたり、錯覚があったり、先入観によってデフォルメされたり、もしくは端から歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、当の倭人を含めて何人も持ち合わせていなかったのだから、ありうることだ)―、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 5/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 著者は、文献解釈、土地勘に優れていると自負しているようですが、「地理観が、誇大化」とは、乱れた日本語です。ここは、「陳寿や当時の中国人の地理観」など特定困難なものではなく、現地と交渉のある帯方郡官人の地理観、魏使の一員で、現に、方角や道里を記録していたと思われる書記官(軍事探偵。おそらく、半島に土地勘のある帯方郡官吏)の地理観、いわば、地域専門家の見識であり、頭から「馬鹿」にしたものではないのです。書記官は、日誌上に現場の方角、方位、歩測を日々記録し、「二千年後生の無教養な東夷である」書斎暮らしの井蛙が数字遊びの空論をもてあそんでいる「安楽椅子探偵」とは違うのです。

 ここで、誰も主張していない「ピンポイントの正確さ」(意味不明瞭なカタカナ語)を揶揄しても、犬が自身の水鏡に吠えかかっているようなものです。最大の注意を払っても、当然、歩測、目測の誤差や誤記は自明です。

 まして、「アバウト」などは、程度の低い記者用語(意味不明瞭なカタカナ語)であり、ここで古代史論に持ち出すとは、愚劣の極みです。

*「アバウト」の怪談
 著者は、突如「あのアバウトな 日本列島図」などと勝手な言い方と「日本列島の正確なイメージ」と茫漠たる巨大概念で敵方の撹乱を計っていますが、目くらましにも何にも、具体的に何を指しているのか趣旨不明で、読者に伝わらないのは、いかにも拙劣です。三世紀の東夷に列島図などあったはずがないのです。

*語彙の混乱、概念の混乱
 たとえば、全国歩測で描き出した伊能忠敬の日本全図のようなものが、三世紀当時に存在しなかったことは明確ですが、「倭人伝」冒頭に書かれている「倭人は帯方郡の東南方にいる」(倭人在帶方東南)とした倭人に対する「イメージ」(漠たる地勢観か)は、実用上十分なだけ正確であったと理解できます。
 少なくとも、本書著者のように、錯乱した地理観念を前にして書いたとは見えないのです。陳寿の歴年の考察の成果も、神のごとき著者の自負する明智にかかると、児戯に等しいものと見くびられたようです。

 この漠たる「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)に対する確たる反証の「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)はあるのでしょうか。それにしても、「イメージ」とか「アバウト」とか、「ガキ言葉」連発は、著者が論争を維持する集中力の喪失を思わせ、痛々しいものがあります。

 北部九州説では、
・邪馬台国は、伊都国から約1300里、つまり、わずか「末盧―伊都国間500里」の2.6倍の距離にある
・ 2000里    >    1300里     >   1000里
 (対馬―末盧間)  (不弥―邪馬台間)  (壱岐―末盧間)
 だから、(不弥―)邪馬台国は末盧―対馬間を半径とする円周内に含まれる。
 これらの点から、九州論者は白鳥庫吉いらい、「北部九州内(せいぜい中部九州以北)に邪馬台国はある」としてきた。
 一見、もっともらしい論理だ。まるで孫悟空の如意棒のように、1300里が100㌔㍍前後に縮んだ。しかし、先の前提が崩れれば、たちまち瓦解するほかない。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 6/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 「れば」は、仮定に基づく所感であり、学術の論には無用の言葉遣いです。「先の前提」の当否は、懸案となっていて、この後も論破されていないのです。つまり、単なる冗語です。また、信用をなくしています。
 「わずか」は、「」を飛び越えて「2.6倍」にかかるのでしょうが、これが「わずか」に見えると言うことは、よほど巨大な距離を先入観として持っていることになります。ともあれ、子供じみた乱文です。また、書かれている里数は、出典不明、根拠不明の数字の遊びであり、何の根拠にもなりません。またまた…また、信用をなくしています。

 それが、「孫悟空の如意棒」という、学術用語でなく「かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがない」比喩で不意打ちする動機になったのでしょう。著者の脳内は、奔放なイメージが乱舞しているのでしょうが、それを無分別にばらまくのは、大変迷惑です。
 言うまでもなく、「孫悟空の如意棒」は空想譚上の遊び道具であり、誰も実体を見ていないので、引き合いに出すこと自体、ご当人の知性を疑わせるものです。

 脚もとをまさぐって手応えのあったものを、確かめもせずに相手に投げつけるのでは、投げるものがなくなったら「糞」を投げつける類人猿なみと見られても仕方ないでしょう。ご自愛いただきたいものです。

*反射的な言説動揺
 著者は、自説に基づく先入観を基準としているから、事態が紛糾して言い分に窮すると、感情が刺激されて劇的な(不法な)暴言を吐くようであり、著者と先入観を共有していない読者にしてみると、著者は、100㌔㍍(現代中国語で言う100公里)の距離を、自説に整合するように500㌔㍍以上に無理矢理引き延ばしていると見るものと思います。なにしろ、論議している千三百「里」を勝手に百㌔㍍と見立てて、論敵の取り付きようのない足場にしているので、論議にならないのです。
 論議の大半は、そうした思い入れのすれ違いから来るものです。
 論争の際は、先入観に起因する感情的な意見/表現を抑えて、中立的な見解に言い換えないと、罵倒競争、子供の口げんかになってしまいます。こども返りとは、痛々しいものです。ここでも、痛々しいのです。

 しかも、直木孝次郎(「国家の発生」旧岩波講座『日本歴史』1 1962』や山尾幸久(「魏志倭人伝の史料批判」1967)が指摘するとおり、1500里を比例値(最大150キロ)とする場合、一日行程50里(漢魏里で21キロ前後)で計算すると、せいぜい五日もあれば十分だ。

*コメント
 「一日行程50里」(普通里で25㌔㍍)の前提は、牛馬荷役、道路整備と宿所の整備ですが、「倭人伝」は、「牛馬」が整っていないと語り、また、倭地街道の整備は語っていないのです。根拠のない憶測は、排除すべきです。
 途中に補給拠点(宿駅)がない場合、大量の食料と水を抱えて、徒歩行で進むことになり、毎夜野宿になります。それだけの重荷を抱えて、野宿明けを、歩調を落とすことなく、淡々と歩いていけるものかどうか。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 7/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*合わない勘定
 更に深刻なのは、一日21キロなら五日で150キロ」とおっしゃいますが、これでは算数の勘定が合わないので、筆者の感覚はどうなっているのだろうかと不審に駆られます。ここでも、痛々しいのです。せめて、編集部が検算すれば良いのですが、本書は、無校閲なのでしょうか。

 もっと肝心なのは、「それがどうした」と言う素朴な反問に対して、答えに窮するのです。「倭」は、最大でも末羅国から徒歩五日程度、つまり、手近に在るというのは、文書交信できなかった古代の世界観で言えば当然です。
 この間に一ヵ月かかるようでは、国が成り立たないのです。自滅発言です。

*引用の不備
 因みに、直木、山尾両氏は、古代史学界でも、群を抜く知性、学識の持ち主であり、そのような「暴言」は吐いていないはずです。おそらく、はっきりした前提があってのことであり、両氏の著書に示された潤沢な論考のごくごく一部、自分好みの数字だけ取り出すような勝手な引用は、そもそも不適切でしょう御両所の名声に、勝手に泥を塗っているのではないかと危惧します。

*不手際の是正待望
 案ずるに、筆者は、上位職種で、周囲に相談相手もご意見番もいないように思われます。数字に弱い人は強い人の助言を仰げば良いのであり、自分がよくわからない事項をわからないままにして、読者に錯乱状態をさらけ出す書物を出版してしまうのは、高名な著者の晩節を汚すものでしょう。
 こうしてみると、著者が、独力でできる最善最強の策は、不得意な算数論理に深入りせず、三世紀東夷の世界に「短里が施行された証拠は一切なく、そのような架空の短里説に依拠した比定もまた架空である」単刀直入に指摘する高度な戦略であったように思われます。

*講談ネタの乱入
 他の不適切な論証の例で言えば、130ページで、筆者は、卑弥呼の第一回の遣使を景初二年でない根拠の一つとして、「明智光秀の毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだ故事と同様の間違いを起こしかねない」と揶揄していますが、挙げている故事は講談ネタであって、史実でなければ学術用語でもなく、かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがないと思います。言うまでもないですが、光秀や秀吉の活躍した時代は、16世紀後半の「日本」の戦乱期であり、途方もない時代錯誤を露呈しています。

 手短に言うと、秀吉は、西方の毛利高松城を包囲布陣していたので、京都方面から西進すると、まず秀吉陣にぶつかることは、子供でもわかることです。知将光秀が、毛利に密使を派遣する時、秀吉陣の迂回を厳命するはずです。講談ネタが広がったとすると、それは、秀吉が、自分の間者の通報を合理化した宣伝工作となります。

*両郡調略の知略
 魏が遼東公孫氏を攻略するために、半島中南部や倭国にどのような宣撫工作を行ったかは、正史に明記されていないのですが、兵法常識として、遼東に派兵したときに、半島中南部や倭国からの公孫氏支援軍に攻撃されると、上陸軍が窮地に陥ることは明白であり、物の道理からして、事前に、両郡を勅命によって血を見ることなく皇帝傘下とし、両郡管轄下の東夷に対して、相当念入りに宣撫工作したことは明らかであると思います。
 このあたりは、当然自明なので、正史は省略しているのでしょう。明記されていなくても、自明と示唆されているのは、明記に等しいのです。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版 8/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*両郡調略の知略(承前)
 因みに、両郡調略は、戦後処理において、両郡の東夷管理体制を活用する主旨であり、事後、海上交易に活用可能と思われる大量の兵船造船と相俟って入念な地域振興策構想を思わせます。
 これは、司馬懿が、遼東郡攻撃で軍功と事後の昇進を掲げて猛攻し、公孫氏だけでなく配下の郡高官まで殲滅して、以後の高句麗等の統御を困難(事実上不可能 )にした武断の愚行とは、明らかに別系統の遠大な戦略であり、恐らく、明帝と腹心毋丘儉の合議によるものと思われます。明帝がこれほど早死にしなければ、東夷は、ゆるやかに、両郡の支配下に確保されたものと思われますが、実際は、以後、魏晋朝の東夷戦略は、ひたすら退潮の一途を辿ったのです。つまり、「親魏倭王」は、百年を経ずして「空手形」に帰したのです。

*景初遣使の急迫
 景初時点、そのような帯方郡の宣撫を承けて、「唇亡びて歯寒し」、次は、我が身かとあわてふためいた倭人が急遽遣使したとしても、まことに不思議はないし、魏朝が、宣撫に対する応答として好ましいから、最恵待遇でこれを迎え入れたとしても、むしろ当然の対応と思われるのですが、いかがでしょうか。
 一年遅れて、万事形勢が定まってからの遣使では、むしろ、太公望の宣言ではないですが、「遅れて至るものは斬る」で討伐の対象になりかねないのが歴史のならいです。それにしても、世上の諸兄姉は、倭人が、どんな神がかりで、公孫氏の滅亡を知り、どんな計算で、僅かな手土産で帯方詣でを決意したのか、納得できるお話を提示して戴いたでしょうか。
 素人考えでは、召集されたから、急遽参照したと考えるしかないように思うのです。
 虚心で史料に向かえば、このような推測ができるのですが、著者の目は、先入観で曇ってはいないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」とは孔子の言です。まさか、先行する各書籍から、「コピー」「ペースト」して、一丁上がりだったのでしょうか。手頃な情報に飛びついて、「裏」を取らないのでは、著者の報道人としての名声が泣こうというものです。

*講談ネタ謝絶宣言
 それにしても、安直に「講談ネタ」を本件の引き合いに出したのは、誠に学問の道を外れていて、著者への信頼を大きく損なうもので、痛々しいのです。それにしても、一流の出版社には、練達の校正担当者がいて、こうした筋違いの記述にだめ出しするはずなのですが、本書に限っては、記事校正を省略したのでしょうか。

*失われた理念~敗れ去った虚説
 関係者打ち揃って、本書を企画したときに、自らに負託した責務を失念したようです。また、別途付託されたと見える「密命」も、これでは、未達成に終わり、「虚説」として低落し続けているようです。

 それにしても、本項で指摘したのは、倭人伝」の史料解釈のつたなさであり、氏の本領では無いのかも知れませんが、聞く相手を選ぶのも器量なのです。
 専門分野別に、執筆を分担するのも醜態を避ける一案です。

*直言宣言
 さて、以上、ずいぶん失礼な言い方だと思われる方もあるでしょうが、当方は、無位無冠無職なので、学会で地位を高めたいという野心もなく功名心もなく、ただひたすらに率直な意見を述べることを趣旨としているので、行きがかり上、無遠慮で手痛い言い回しがあっても、個人攻撃の趣旨は毛頭ないことをご理解いただきたいと思う次第です。

 むしろ、学界の大家と目される方たちには、わざわざ苦言を届けてくれる率直(馬鹿正直)な取り巻きはいないと思うので、意を決して、一連の苦言としての書評の提供を開始した次第です。

                                以上

2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞夕刊「今どきの歴史」 2019年4月 歴博記事の怪 再掲

                      2019/04/22 2021/12/22

*厄介な提灯持ち
 今回の題材は、配達されたばかりの毎日新聞大阪3版夕刊文化面に記載されているかこみ記事である。旧聞であるが、深刻な問題を含んでいるので、再掲した。
 歴博「先史・古代」展示を一新  新年代が変える定説
 と、厄介な意見を書き立てている。

 当たり前と思うのだが、歴博が展示を一新したとして、それで「定説」を変えることなどできるはずがない。定説は、例えば、学界の大勢が支持するから定説であり、特定の一機関が、途方もない大声を上げたからと言って、それだけで「定説」が変わるものではないと思う。
 それとも、毎日新聞には、定説を変える権威でもあるのだろうか。

 そもそも、そんな雄図があるのであれば、堂々と記者会見の場で発表して、資料公開すべきであるが、ここに掲載されているのは、担当記者の見学記であり、歴博が責任を持った発表資料が引用されていないし、公式見解に対する責任者の表明もない。国立機関の情報公開として適法かどうか疑わしい。

 担当記者は、「日本列島の人々の暮らしの様相」が一新されたと言う。多分、現代でなく古代の「人」々のことだろうがどんな手段を使おうと、過去の人々の暮らしの様相を「一新」させることなどできるはずがない。
 あくまで、歴博の孤独な仮説が、展示物として表現されているだけであろう。記者は「刺激的だ」とグルメリポーターばりに絶叫しているが、何がどうなっているのか読者に伝わらない。これでは、個人的な感想ばかりであり、新聞報道として無意味である。

 続いて、素人目には、歴博の近年の研究予算(ヒト、モノ、カネ)、つまり、国費の大半が、極めて多額の費用を要するC14年代測定(ずり上げ)に投入されていると見えて、その成果と見える大胆な研究発表で学会の反対論を浴びていると書かれているように見えるが、それによって「定説」がどう変化したと書かれていないから、素人目には、当然出て来る反対論を、適確に克服できていない、つまり、孤立していると見えるのである。もちろん、部外者の推定であるから、見当違いであれば幸いである。

 その後も、降りかかる火の粉ならぬ、許多の反対論を無視/黙殺して同様の趣旨のデータ蓄積を進め、定説と異なる年代区分を形成したあげく、今回、手厚く正当化した独自の主張が展示されたらしいと見えるのである。(歴博発表資料が見えないので、記者の感想に過ぎないとも言える。それとも、読者は勝手に、歴博サイトを見に行けというのだろうか)

 記者は、無頓着に、歴博の提示した年代区分から、多くの興味深い「事実」が浮かび上がるというが、歴博が展示で表現した作業仮説から「事実」が浮かび上がるはずはないので、これは、記者の錯誤というか白日夢なのだろう。まさか、歴博が、これが「事実」です、と言ったはずはないと思う、いや、確証はないから憶測する、のである。

 手っ取り早く言うと、ふと現実に立ち返った記者は、これでは、歴史考証で想定する「定説」と食い違うので、別のストーリーを創出しなければならないという感想のようである。いや、繰り返すが、これは記者の個人的な感想であって歴博の公式見解ではないと思われる。歴博は、文学者ではないので、いくら経費がかからないとしても、新たな創作活動に耽るはずはないのである。

 歴博は、稲作の伝搬を、定説がもたらしていた神がかった速度でなく、人間業として解釈できる緩やかさであったと提唱しているようである。但し、記者の引用を信じるなら、九州北部に紀元前10世紀後半頃に海を越えて伝搬した稲作が、近畿に伝搬するのに300年程度、関東南部に伝搬するのに、さらに、300~400年程度要したということらしい。この推定自体は、あくまで仮説であり、批判したくても、元データも何も見えないから、個人的な感想を持ち出すことになる。ご勘弁いただきたい。

 個人的には、紀元前10世紀後半とは、黄河文明では周王朝の時代であり、どのような時代背景で稲作集団が乗り込んできたのかと思うものであるが、凡人にはどんな「事実」も浮かんでこない。

 一方、稲作前線が緩やかに東進したと想定されていて、当然の帰結として、日本列島内で地域地域の独自の文化展開があったという、これまた、人間くさい様相が想定されていて、ほっとするものがある。

 そこで、記者はまたも、白日夢に陥って、日本列島の先史・古代の「実像」を実見したらしいが、映じられているのは、どうやら記者の脳内だけなので、凡人には窺うことができない。それとも、歴博はVRでも導入しているのだろうか。華麗なイリュージョンは、国立研究機関の税金の無駄使いなので、ご勘弁いただきたい。

 ここで、記者は現実に立ち返ったか、今回の歴博展示は、博物館の大勢に逆らう異端なものと示唆しているが、記者が認めるように「過渡期」の異端説は定着するかどうか不明だし、測定結果の信頼性も検証されていないように見える。そのようなリスクを抱えた異説に大金を投じてもっともらしく展示することを、歴博はどのように正当化しているのだろうか。一度、業務監査いただきたいものである。

 最後に、歴博責任者でなく、展示リニューアルの指揮者として教授が登場するから、以上の記者感想が、歴博の支持するものかどうか不明である。監督官庁を巻き込んで、展示リニューアルへの大金投資を承認させた説得力は、相当なものと推定するしかない。

 その教授の発言として、「弥生時代に限れば、開始が何百年も遡るのは間違いない」としている。「間違いない」は、各界の承認を得た定説ではなく、個人の感想と見るしかないのだが、要は、稲作の開始を500年遡らしたため、それに引きずられて、稲作前線の展開に500年余計にかかったと見えるだけである。それもこれも、C14年代測定がそのように出てしまった辻褄合わせとも見える。この部分は、教授の発言が忠実に引用されたと見えるので、きっちり批判するものである。

 総体的に、本連載の担当記者は、脳内に独自の仮想空間を形成して、そこに形成された「実像」を見ているので、客観的事実の報道と受け取ることはできないと見るのである。
 記事全体に教授談話を引用しているのなら、教授を的に記事の当否を議論できるのだが、当記事の書き方では、ほぼ全てが記者の感想であり、議論のしようがないのである。

 以上の通り、当方は、担当記者に対して批判を述べているが、それは、このようにお先棒担ぎの無批判な報道は、毎日新聞の品格に相応しくないと信じるからである。記者が、ブログででも、個人名で意見公開するならここまでは言わないが、毎日新聞夕刊文化面に堂々掲載されているから、物差しかきついだけである。

以上

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み  改 1/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22

■おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」は、夷人の国、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、「匈奴」は、「敵国」、対等の交渉相手と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」は、漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。

 ただし、そのような蕃人扱いは民族差別と直接関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。

〇その壹 滞在日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。
 受入体制というものの、全く予想外では、何の準備もできていなくて、漢使受け入れの客館は、既に、新羅などの蕃使のねぐらとして準備していたものを流用して準備できたのでしょうか。何の準備もしてなければ、客館新設は、材木伐採、製材、建築と多難であり、資金や人材の準備を脇に置くとして、とにかく、時間のかかるものですから、新築はあり得ず、恐らく、蕃客館を改装したものと見えます。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し王の指示を仰ぎます。横は、奈良盆地にいたことになっていますが、当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道は未整備とおもわれるので、文書使が騎馬で疾駆するのは無理というものです。とても、人馬共に全行程を完走できるはずがないので、要所要所で、文書使も乗馬も交替する人用であります。
 そのような体制ができていて、乗り継ぎで急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ筑紫の宿から発進しても、(河内なる)難波到着は八月以降と思われます。
 長距離を、一応「半分こ」の理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。
 いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な漢使が、整備されたばかりの街道を通過したという輝かしい行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館(蕃夷のねぐら)の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。古来、文官と武官は別の教育、訓練を受けるものであり、隋使が、文林郎なる文官である以上、乗馬訓練などしていないし、徒歩移動などしないので、何かの乗り物で移動するしかないのです。また、乗り物移動でも、連日移動は不可能であるし、天候次第で、移動ができないこともあるので、随分日数をかけて、ゆっくり移動することを要するのです。
 どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。素直で普通の日数計算に対して、二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録を付して、そのままの日数を書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(公里)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。

 街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里程度)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、不明です。それまで、漢使が来訪することなどなかったのに、饗応に相応しい宿場があったというのも、信じがたいものがあります。
 そして、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。

 以上、常識を働かせると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。

 「瀬戸内海航路」なる夢物語が、当然のものとして書かれていますが、漢使到来の際乗船した大型の帆船は、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡という、難所続きの海域を無事に通過することは、到底できなかったものと見えます。大型の帆船は、幅が広く舟底が深く伸びているので、地元の小振りな手漕ぎ船が通れる場合でも、難船してしまうのです。まして、大型の帆船は、手漕ぎ船のように機敏に舵が切れないので、未知の海域で安全に往来することなどできないのです。つまり、ほぼ確実に難船するのです。
 最後に、船客の問題です。筑紫までは、短期間の航行で手慣れた寄港地に入り、食料や水を補い、休養した上で船出していたのですが、当時の瀬戸内海航路は、そのような大型の帆船が寄港した前例がないので、漢使の旅は頓挫しかねないのです。
 と言うことで、難破の危険のない陸路すら、想定外の漢使の対応ができないのに、命の保証のない船の旅など、到底取りようがないのです。

 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できないとは断定できない漢使移動日程を推定すると、河内の難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて百人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(正史で、夷蛮の国に「都」の麗名を与えているのは、安息国だけです)
 時に、後漢西域都督の派遣した漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする夢想が語られることがありますが、どんな国家であろうと、武装した軍官を国内縦断の途に遇するのは問題外です。安息国は、かって、東方からの騎馬の侵略者大月氏に国土を蹂躙され、国王が戦死し、財宝を奪われているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。
 ついでながら、当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。
 かつて、西方の侵略者ローマの四万の大軍を打倒し、一万人の捕虜を得たパルティアは、全員を、全土を縦断して、東方のマーブ要塞に移動させ、常駐二万の国境守備兵の半分をローマ兵に入れ替えたと知られています。時代は、後漢が西域都護を置いていた時代に当たりますが、西域都督の使節がローマ兵を見たかどうかは不明です。
 と言うことで、ますます、東方の夷蕃を王都クテシフォンに招聘することなどなかったのです。まして、敵国ローマの準州に赴くことを許すことはあり得ません。いや、これは、世上にある、ローマ-漢交流という子供じみた空想譚に対する反論であって、目下の漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、国都に招聘すべきでないときは、名代を立てるなり、国都から派遣するなりして、国境付近で引見するのは、むしろ、当然の処置であって、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて、命がけで往復移動させるのは、大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 2/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2022/05/30

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、すなわち、「史記」、「漢書」、「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志」倭人伝が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、慶州(キョンジュ)から俀都までは倭人伝「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三千里に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、千里概数で、「五」千里に届かない範囲なので、四千五百里程度まで見込めるからですが、そうした議論は、見たことがありません。

 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この倭人伝道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 「後漢書」、「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないから、百済王治泗比に立ち寄った後、西岸を南し竹島を経て耽羅で東に進路を転じて対馬を目指す道程が「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*後漢書の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。

 因みに、魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国まで、対馬、壱岐だけで、倭人伝で、道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。倭人伝に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書にも渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、東方各地に立ち寄った記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があると確認しただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀が想定しているように見える長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海に触れていて、俀国の西に海があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、『休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない』のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。隋書」が、蛮夷文書である「日本書紀」に合わせたはずはないので、「隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。

 そもそも、蛮夷が史書を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣隋使、遣唐使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 3/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09 2022/05/30 

〇その参 掌客の怪 その1
 以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。

*鴻廬掌客の誤解
 書記記事を読む限り、この時の献使と来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、大和側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。

*三名の絶大な使命
 まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は高官です)等三名の掌客任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。前例のない掌客の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。

 つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、掌客自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる交信を介した遠隔指導などできないのです。

 この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。

*「掌客」語義考
 ということで、新任された「掌客」を復習しますが、鴻廬なしのただの「掌客」であり、常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて担当官を速成したようです。
 「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
 つまり、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
 もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)

 なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪との勝手な表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。

 こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。

*漢制掌客
 かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。

 「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです

 太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。

*鴻廬寺来歴
 高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に、そのような不法な名称は、あってはならないのです。

 隋唐制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。
 夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。

 但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
 つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 4/6

 隋書俀国伝考察付き                   2020/02/28 追記2021/02/09, 12/22 2022/05/30

〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
 隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。

 皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
 これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。

 しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。

 鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、「各地の反乱を上奏する者は斬罪に処す」と命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。

*僭称の動機推定
 思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は「北狄」であり、「南朝を征服して武力で天下を取っても蛮夷に変わりはない」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。

 裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えますが、これに対する報奨は記録されていません。煬帝は、諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。

*文林郎紹介
 裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の掌客とは教養が違うのです。

 案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、「鴻臚寺掌客裴清」は、あくまで当記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ、官制で最下級の個人官職を自称するはずはないのです。

 また、推古紀にしかない、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参したとされる国書への回答は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、推古紀には、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
 魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が、俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
 つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
 そもそも、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。

*誤解の起源
 ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。

 挿話筆者は、与えられた素材を書紀に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても資料の整合が取れなかったようです。

 皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。

 以上、第三の難点への解です。

〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
 ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。

 日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)

 書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。

〇参考資料
 古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊 
 ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので詳細には触れません。
                              本論完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 5/6 資料編

 資料編 参考のみ 誤記等御免              2020/02/28 再掲2021/02/09. 12/22 2022/05/30

〇日本書紀 推古紀(出典:維基文庫。随時改行を追加)
 十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
 六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。
 是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。
 爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。
 於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。
 時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
 秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。
 是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
 壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。
 其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。
 時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
 丙辰。饗唐客等於朝。
 九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
 辛巳。唐客裴世清罷歸。
 則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。
 爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。
 是歳。新羅人多化來。

                        書紀史料完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 6/6 資料編

 資料編 参考のみ 誤記等御免              2020/02/28 再掲2021/02/09, 12/22 2022/05/30

〇隋書 俀國伝
 (出典:維基文庫。但し、倭を俀に復元訂正。随時改行追加)
 俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。
 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
 安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。
 桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。
 有女子名卑彌呼,能以鬼道惑眾,於是國人共立為王。有男弟,佐卑彌理國。
其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衞,為法甚嚴。
 自魏至于齊、梁,代與中國相通。
 開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。
 高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
*中略*
 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
*中略*
 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,
 又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
 俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,
 其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」
 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
 其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」
 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

                             隋書史料完

〇補足~私見   2021/02/12
 「海西」とは、漢書/後漢書西域伝に書かれた西方の大海カスピ海の西岸「海西」であり、普通に考えると西戎「條支」(アルメニア王国)の天子と嘲ったことになります。東シナ海の向こう岸という解釈は、中国古典を知らない解釈であり、無謀というものです。
 「日沒處」とは、西王母の住まう西の果てであり、仏教思想で言うと「彼岸」の人ということになります。
 中国正史の語法から、そのように読めるはずなのですが、大抵、後世東夷の蛮人、つまり、現代日本人の物知らず丸出しの解釈が蔓延していて、正史に相応しい解釈は、余り、見たことがないので、ここに付記しました。

以上

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 1/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

〇前置き
 当記事は、以前、単独記事の批判を掲示した論客の以後のブログ記事を、同様の見地で批判したものです。前掲記事がご不快であれば、重ねてご不快を求めることは無いと思うので、特に重複を避けずにたたみかけています。
 因みに、氏は、実名を表記していないので、ハンドル名で失礼します。

*記事前置き(2014年現在)
 去る7月19日に久留米大学公開講座で、表題の講演を行なった。
 これは魏志倭人伝のテキストクリティーク(本文批判)を発表したものであり、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を全面否定する論証である。つまり、「邪馬壱国博多湾岸説」を完全否定するものでもある。

コメント:堂々と、「魏志倭人伝」の「テキストクリティーク」と称していますが、以下、「倭人伝」の「テキスト」について、丁寧に論じられてないのは不思議です。また、提示される諸史料の「テキストクリティーク」が皆無に近いのは、不審極まりないのです。
 特に、「倭人伝」に現に明記されてい「邪馬壹国」を、「完全否定」するなど、不可能の最たるものです。
 古田氏の第一書(正しくは、『「邪馬台国」はなかった』であり、論敵の著書名を誤記するのは、まことに無様です)全面否定絶対不可能です。一書に書き詰められた諸提言を、一つ残らず「バッサリと」否定することなど、誰にもできないのです。何か、スイカ割りのような外し具合です。

 一転局限した「邪馬壱国博多湾岸説」は、湾岸説否定だけならほんの数行で足りますが、それすら安直に「完全否定」などできるものではありません。論議の大小見境なしということでしょう。いい加減に目隠しを外して、世界に目を開くべきでしょう。
 いずれにしても、いくら、個人が全面・完全「否定」しても、理屈が通らなければ世界は耳を貸さないのです。これでは、読者にそっぽを向かれるのが、むしろ「自然」、「普通」と言うものです。

 このような「罵詈雑言」は、氏の思考乱脈を想到させるものであり、世間で酷評されても不思議はありません。おつりで、誹謗中傷されても、不思議は無いのです。自説で世間を説得したいのであれば、初心に復って、修行し直すべきだと思うのです。

 いや、氏は、定期的に講演会を開いて、その際は、熱心な支持者が席を埋め、満場一致で賛辞を呈しているので、氏にとって、何の助けにもなっていないのです。ということで、見解の相違を明示し、具体的な批判に入ります。

*陳寿の見ていた「後漢書」
コメント:氏の理解がどこまでのものかわからないので、一応のツッコミを入れます。
 呉主孫権の最大の任務は会稽有力者と会盟することであり、その手立ては、有力者の「有力な女子」を娶ることです。
 「有力な女子」とは、生まれながらに「家」を背負って嫁することを目的として育てられ、孫家に於いて権力の一角を担うと共に、正夫人として嫡子を成せば、世代交代後、孫家の「皇太后」、最高権力者として実家傘下に組み込むことすら想定しています。従って、正夫人の地位を奪われることは、女子として生きる意味を無くすことを意味するのです。また、不満を言い立てて決裂すると、実家との盟約が破壊されるから、それは、できないのです。

 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に至った。

コメント唐突な観点展開ですが、意図不明、根拠不明です。
 また、裴注は、三国志の一部ではないので、何をどうひねくり回しても、考察しても、倭人伝の原文テキストを改竄する理由にならないのです。
 孤独な魂の遍歴で道しるべを求めても、個人の想念の世界は、誰にも見てとることはできないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 2/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承「後漢書」と范曄「後漢書」の関係
 魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。

コメント:記事は部分に分かれていますが、東鯷人風聞に続いて、突然、夷州、澶州の登場です。蓬莱伝説まで動員した上で、最後に、会稽東冶が出て来ます。
 結局、伝聞、風評の寄せ集めの類いであり、そのような記事は、范曄が最も嫌悪したはずなのですが、なぜここで採用されたのでしょうか。地の果てだから、どうでも良いというものでも無いでしょうに。

 「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。

コメント:三世紀当時、「イデオロギー」などという概念は無かったから、陳寿はじめとする関係者がそのような時代錯誤の「妄想」を抱いていたことはあり得ません。時代が変わっているので、現代人にとっても、古代にどんな「イデオロギー」が存在したのか、わかるはずがありません。併せて愚劣です。なぜ、誰でもわかる「普通の」言葉で言わないのでしょうか。

 原文にない東鯷「国」は、史料に書かれていないから、言うならば、氏の「妄想の産物」であり、呉の史官が編纂し、亡国の際に晋帝に献上された「呉書」を元に「呉国志」を編纂した陳寿が「三国志」に記録しなかったのも、当然です。存在しない国に「王」を見るのも妄想であり、いなかった王が「反魏倭王」として、呉と同盟して魏を挟撃するなど、とんでもない無理「推し」です。(三国志には、「呉書」、「呉志」など、紛らわしく交錯するので、時に「呉国志」、「魏国志」、「蜀国志」と書くことがあります)

 「呉主」孫権伝でわかるように、三国志には、「呉皇帝」どころか、「呉王」も存在しません。一方、夷州、亶州は、堂々と書かれています。因みに、亶州は、海中とされていますが、夷州は、どうなのでしょうか。

 それにしても、史書に無い勝手な思い付きを振り回されては、迷惑です。

 陳寿の「呉国志」編纂の三世紀当時、これら記事は「現代」記事であり、資料は豊富に入手できたはずです。このような、意味不明の記事が残ったのは不可解で、当時不可解だった記事をものを知らない東夷の末裔が解読できるというのは、どういうことか、まことに不思議です。

 右の記事の並列から知られるのは、成立順序のみを問題として、陳寿の表記が仮に「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする仮説がいかに詭弁を弄し牽強付会で固めたものであったかということであろう。

コメント:あたかも、確実な史料のように論じられていますが、諸史料の「テキストクリティーク」は、どうなっているのでしょうか。不確かな史料の不確かな憶測で、現にそこにある刊本紙面の文字を否定するのは無茶です。

 簡単な理屈ですが、論拠にあげる多様な史料がすべて信頼に足りるものである確率は皆無に近く、折角羅列しても、話半ばで論理が破綻するのは明らかです。「少数精鋭」が鉄則であり、一件論拠を増やすごとに、論考が、脚もとから瓦解していくものです。ご自愛いただきたいものです。

 陳寿三国志が、著者確定稿陳寿原本が西晋皇帝に上程され、直ちに帝室書庫に収蔵されて、以後、厳重に管理されていたと、確実に推定できるのに対して、范曄「後漢書」は、范曄父子処刑による家系断絶の後、章懐太子が付注して、帝室書庫に収納されるまでの在野の写本継承が、まことに不確かです。三国志の官製写本すら、疑念を投げかけられるのであれば、范曄「後漢書」は、苛烈な試練に曝されるべきです。

 因みに、略同期の袁宏「後漢紀」は、記事には見当たりませんが、概ねテキストが健在であるのに対して、散佚して影も形もなくなった謝承「後漢書」を、佚文、つまり飛び散った破片から、全貌と細部を復元した気で論じるのはどうでしょうか。して見ると、幻の「レジェンド」でなく、現に確認できる袁宏「後漢紀」で、范曄「後漢書」を批判することは、当然でしょう。誰が呼んだか「三国志の権威」とされている渡邉義浩氏は、袁宏「後漢紀」の研究者として知られているので、相談されたらいかがでしょうか。「聞くは一時の恥」というものです。

 さらには、史書と違い厳格な引用参照をしていない類書の一例である「翰苑」の粗雑な残簡記事を、原テキストそのもののように扱うのはどうでしょうか。

 「詭弁」、「牽強付会」とは、まるで、氏自身が、この論考を「自画自賛」しているようです。因みに、「自賛」とは、自作を褒める後世誤用でなく、評のない「画」の真髄を「賛」形式で評するとの原義に戻っているのです。
                               未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 3/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承後漢書の行方
 (范曄「後漢書」)李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が見られる。その量から推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は相当の部分が残っていたようである。

コメント:「量」、つまり、漠たる印象でなく、数字で明示いただきたいものです。印象批評で良いのなら、素人目には、壮大な「後漢書」でそのような注はないのも同然で、目にとまりません。
 まして、そのような計量されていない散在を漠然と見て、謝承後漢書が大量に(ふんだんに)残っていた証拠と断定するのか、不審なのです。帝紀無しで百三十巻という膨大な史料を「ふんだん」とか「相当の部分」などと簡単に言われては、善良な読者には、大変な迷惑です。

 唐李賢太子の命で、范曄「後漢書」の付注のために、世にある謝承「後漢書」善本は、ことごとく徴発されたと見えます。市井の写本が希少になり散佚したとも見えます。あるいは、謝承「後漢書」の有用な部分は、全部李賢注に吸収保存されたから、もはや、「汗牛充棟」、場所塞ぎで厄介な胡散臭い写本は、李賢太子主催の史学者一同の高度な判断で、不要と見限られたのかも知れません。
 素人の憶測ですが、隋帝国が南朝陳の亡国の際に入手したのか、あるいは、それ以前の、北周、北斉の東西対立時代に関東を支配していた北斉が引き継いでいた西晋洛陽書庫が、北周による統一時に引き継がれたのか、いずれにしろ、中原帝国の正統性の裏付けとして持ち越していた大量の簡牘巻物を、全国統一の機会に棚卸しして、これら諸家後漢書は、紙写本への転写の価値無しと断じて、在庫一掃したのではないかと見えます。
 何の裏付けもありませんが、誰かを罵倒するものでなく、つまり誰にも迷惑がかからない限り、素人の推定は自由です。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文は、ほぼ同時代の成立である。

コメント:史書ならぬ「幼学書」翰苑の「本文」と雍公叡付注の区別はどうしているのでしょうか。「対句」が本文で、割注が付注、別物と見えるのです。それにしても、四六駢儷文 に合わせて、改変、短縮されている対句練習用の「問題集」が、なぜ、誤字満載もお構いなしに、史書の校訂に利用されるのでしょうか。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
① 東觀漢記 一百四十三卷 起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
② 後漢書  一百三十卷 無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
③ 後漢記   六十五卷本一百卷, 梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
④ 續漢書   八十三卷 晉祕書監司馬彪撰.
⑤ 後漢書   十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
⑥ 後漢書  八十五卷本一百二十二卷, 晉祠部郎謝沈撰.
⑦ 後漢南記 四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
⑧ 後漢書  九十五卷本 一百卷

コメント:玉石混淆で、まことに無意味な例示です。史書評価は深遠です、

*袁宏「後漢紀」の真価
 袁宏「後漢紀」が漏れているのも、氏の考察の粗雑を示して疑問です。因みに、袁宏は、東晋の人であり、劉宋の人、范曄に半世紀先行しています。
 袁宏は、数種の後漢書が周知ながら「後漢紀」新規編纂に着手した動機として、「諸後漢書は散漫で、信頼できない史料を採り入れ、いたずらに厖大で座右書たり得ない」と見たのです。屋上屋を架するのではないのです。
 後漢朝は二百年になんなんとし、しかも、偉人の後裔が現世を徘徊していて、列伝の短縮、割愛は至難ですが、袁宏は「本紀」相当部分に絞り、全三十巻にまとめて、大幅な合理化に成功しています。不朽の偉業と言うべきです。因みに、袁宏は、区切り毎に「所感」を付していて、単なる切り貼り細工ではないのです。
 袁宏には、西漢、前漢二百四十年の治世を三十巻にまとめた荀悦「漢紀」なるお手本があったのです。漢紀(前漢紀)は、後漢献帝が、建安年間、曹操の仕切る仮の帝都、鄴での無聊の日々、班固「漢書」が厖大で持て余していたのを正す三十巻正史の新規編纂を指示したのであり、現存している前後両漢紀六十巻は献帝の偉業と見るべきでしょう。他の諸家後漢書と異なり、袁宏「後漢紀」は、ほぼ完全な形で現存しているのです。
 因みに、「後漢」献帝の観点では、高祖劉邦が創業した漢帝国は、謀反人王莽によって揺らいだだけであり、程なく光武帝が再開したので社稷は継承されていて、「前漢」「後漢」など、存在しなかったのです。

 因みに、諸家後漢書が、軒並み桁はずれて冗長であることは巻数から見て明らかです。恐らく、巻数、字数を稼ぐために、お構いなしに雑史料を盛り込んだのでしょうが、ほぼ全散佚している状態から見て、同時代、後世の史家の評価は明らかです。見捨てられたのは、厖大な労力を費やして写本継承する価値がないからであり、謝承「後漢書」など、類書引用の佚文しか残っていないのは、大著としての存在価値が見られないから、見捨てられたのです。

*陳壽の真意と裴松之の本意
 陳寿は、「魏志」の構想にあたり、厖大な「漢書」でなく、荀悦「漢紀」三十巻を参考に、治世の短い魏の国志三十巻に本紀、列伝を緊密に収める減縮が至当と見たようです。だれぞの虚飾のために、空疎な西域伝を付け足すようなことは、もとより念頭に無かったのです。
 裴注が追加され、大量の蛇足のために陳寿の望んだ緊密さは損なわれましたが、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」でしょう。裴注は、陳寿の知らない世界です。
 また、裴松之が蛇足を承知で補追したのは、陳壽の真意に背くと知りつつ、君命に迫られた不本意なものと見えます。いや、裴注は、読者が無視できるので、陳壽「三国志」の精髄は、損なわれていないのです。裴松之、もって瞑すべきです。


〇最後に
 素人考えを振り回して恐縮ですが、別に、先賢の意見を「完全否定」したり、意味なく罵倒したりするものではないので、ご一考いただければ幸いです。

                               以上

2021年12月 9日 (木)

新・私の本棚 0 序論 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」1/3

 昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読 2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09 2023/06/11

□総評
 季刊 「邪馬台国」 第35号は、当時、広く衆知を集め、かつ、赫赫たる編集部の交通整理が添えられて、見事なパノラマを成しています。各論は論文審査を歴て体裁が整っていて、学術雑誌としての品格が見事です。「倭人伝」里程論は、当誌の記事を踏襲することが必須なのです。

□序論~芳醇な前菜
 と言いつつ、編集部の「里程論入門 諸説を整理する」なる序論は、序論の域を超えて、以下の諸論の核心にも言及し、ここだけで満腹になる芳醇、潤沢な前菜です例えば、茂在氏論文は、かなりの部分が、紹介の分を越えて先触れされています。
 全体の味付けが、おそらく九州濃厚風なのは、本誌の持ち味であり、こてこての畿内論者は不満たらたらでしょう。核心の短里論も、「史料で解釈すれば短里に決まり」に近くて「誇張説」論者は、歯ぎしりしつつ座視しているようです。
 埋め合わせに、当特集に論考を寄せてない榎一雄氏、安本美典氏、古田武彦氏の先賢の里程論に加えて、当分野で新進気鋭の森繁弘氏の方位論が紹介されていて、その意味でも、さらに混ぜっ返しただけで、交通整理などと言うものではないようです。

 特に、森繁弘氏著作は、旧肥前国松浦郡の東西、南北地名が、地図上の東西南北と対比して、西方、つまり反時計回りに九十度回転と見える(仮説のタネとなる思い付き)ことを根拠に、これが「(魏の使いの)張昭」の方位観を曲げた、と強引に推定していますが、張昭は、魏使などではなくでなく、後年、女王国の難局に派遣された郡武官の実務家であり、既に、蛮地の等罪・南北は、整然と構成されていて、未整備漢字地名で方位感覚を崩されたとは到底思えないのです。編集部から、誤謬に対する指摘がなかったと見えるのは、残念です。
 と言うことで、苦心の奇想「奇」は、古典的な褒め言葉です。念のため)も、水没しかけた畿内説を浮上させるとは思えないのです。

 但し、記事中の里数表が、「後世に害毒を流している」とわかったので、学術的な批判を補充しました。

*目次 全十六篇 附番は当ブログのもの
 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程           茂在 寅男
 2 魏使は、遠賀川を遡った                松井 芳明
 3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程         西岡 光
 4 邪馬台国への道のり                  山田 平
 5 里程から見た邪馬台国                 船迫 弘
 6 「方」について                                            米田 実
 7 三国志の「里」について                小坂 良彦
 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位                 藤原 俊治
 9 「魏晋朝短里説」について               後藤 義乗
10 「周髀算経」の里程について              谷本 茂
11 末羅国放射式批判                   川谷 真
12 「水行」の速さと「陸行」の速さ            中村 武久
13 「黄道修正説」は誤りである              道家 康之助
14 「魏志」「倭人伝」の方位                    早川 清治
15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程        山田 平
16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観               謝 銘仁

                             未完

新・私の本棚 0 序論 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」2/3

 昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読   2019/07/16  2020/05/06 補充 2021/12/09 2023/06/11

*表2「魏志」「倭人伝」の1里は何メートルか
       「魏志倭人伝」の記述    実際の距離(中数)  一里は何㍍か
帯方郡→狗邪韓国  7000余里     630-710km(670km)     96m弱 
狗邪韓国→対馬国  1000余里      64-120km  (92km)      92m弱
対馬国→壱岐国   1000余里       53-138km   (98km)      98m弱
壱岐国→末廬国   1000余里       33-  68km   (51km)      51m弱 
末廬国→伊都国     500里        32-  47km  (40km)     80m
伊都国→奴国      100里        23-  30km  (26.5km)    265m
奴国→不弥国      100里        6-  24km  (15km)     150m 
合計        10700余里      912.5km             93m 
 これは、記事内の作表を若干加工して引用したものです。念のため補足すると、「合計」は、記述されていません。
 率直なところ、数字表記が、算用数字では、途轍もない時代錯誤であり、古代中国人には理解不可能だから、史学上の考察に不適当なので、まずは、擬古代式にしてみます。(公里 ㌔㍍  公尺 ㍍)

*「魏志 倭人伝」の一里は何公尺(㍍)か 
 区   間      記述里数    推定路程(道のり)  一里の公尺     
帯方郡~狗邪韓国  七千里     六百 ~ 七百 公里   九十~百公尺    
狗邪韓国~對海国   千里     六十 ~ 百二十公里   六十~百二十公尺
對海国~一大国    千里     五十 ~ 百四十公里   五十~百四十公尺
一大国~末廬国    千里     三十 ~  七十公里   三十~七十公尺   
末廬国~伊都国    五百里    三十 ~  五十公里   六十~百公尺
伊都国~奴国     百里     二十 ~  三十公里   二百~三百公尺
奴国~不弥国     百里      五 ~  二十公里   五十~二百公尺    
合計 (無意味)  一万里     八百 ~  千百公里   九十~百十公尺    

*問題点山積
 第一歩として、算用数字は、古代史に根本的に無意味なので漢数字で書いて評価すべきです古代史学のイロハのイですが、これほど明らかな不都合に気づかない先覚者に、何も考えずに追随していることが多いのです。

 一見、よくわからないのは、古代記法のせいもありますが、元々、幾つかの素性の異なる項が並んでいるからであり、もともと込み入っているのです。

 表形式で枠に収まっていたとき明快と感じたのは、結果だけ眺めたからであり、かくの如く図表はごまかしの道具立てにされやすいのです。
 全て嘘と言わないものの「演出」です。きれいな図表を見たら、ともあれ眉唾です。
 古代人が図表なしで文章説明したのだから、現代人も、図表なしに理解し表現できる筈だと思うからです。
 改訂表の抹消項目が棄却された理由は、追って説明します。

*概数表記の確認
 なお、倭人伝の「余」は、はした切り捨てでなく概数の中心値表示であり、当方は、概数は自明ということで省略すると決めています。
 漢数字の良いところは、全て、一の桁まででなく上位の一桁だけが「実」とわかることです。算用数字では、どこまでが「実」で、どこからが「体裁」なのか、見えないのです。

 どちらも、誤解されて議論を曲げている例を、至る所で見かけるので、念押しです。

                               未完

新・私の本棚 0 序論 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」3/3

 昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読   2019/07/16  2020/05/06 補充 2021/12/09 2023/06/11

*悪表の祟り
 ご自分で筆算計算して作表されたら、本来漢数字で縦書き記事の一部をなしていた五㌔㍍~七百㌔㍍の大小バラバラの数字を、古代に存在しなかった横書き記事の別枠に縦に並べる集計表の無意味さがわかったはずです。

 まず具体的に発露しているのは、区間によって実質の大きく異なる数字を、お構いなしに並べて、単純に足し算し、平均しているからですが、この点にこだわっても無意味なので深入りせず両断します。「実際の距離」は「虚辞」です。「実際」がわかれば苦労しません。
 こうしてみれば、計算結果は別として、「倭人伝道里」は、全て、一桁概数の世界であることがわかります。これが、古代人の見た数字なのです。

*反則退場連発
 古代人の真意に思い至ると、千里単位の概数里数に、百の位の里数を足すのは、概数計算の反則であり、また、路程の根拠も不明で、データとして無意味です。
 渡海里数は測定不能であり、陳寿は「概念」を書いたのだから、データとして無意味です。
 無意味なデータを足し加えて平均するのは、愚行なのでゴミとして抹消します。
 データ紛いのゴミを持ち込むのは、史学論として自滅行為です

 かくして、辛うじて郡~狗邪間が生き残っていますが、実際は経路審議中で、路程は不明ですから、概数以前の問題で計算が無意味です。ただし、この項を棄てると何も残らないので、計算の問題点を示すために、棄てるのを暫しとどめます。

*味噌こしの底~辛うじてデータの片鱗
 帯方郡~狗邪韓国 七千(余)里 六百~七百公里 九十~百公尺
 と書いたものの、区間里数は六千~八千里程度の幅は覚悟すべきです。根拠なしにこの間を六百~七百公里と見る不具合に眼をつむると、一里は、七十五~百二十公尺と広がります。
 こうして、
現代人感覚で見ると途方もなく見えるほど幅が広がることを見て頂くために、あえて、不確かなデータを評価したのです。それにしても、とかく誤用される「中心値」は、「倭人伝」道里論のように、統計データになっていない、少数で不統一なデータの場合、時代錯誤の場違いなものになるので、科学的な理解の妨げとなり、つまり、「百害あって一利なき有害極まるもの」なのです。

 ひいき目に見て幅を狭めてもこの程度です。但し、これほどおおざっぱに見ても、「普通里」の四百五十公尺(㍍)とは格段に違って、混同の可能性はなく、倭人伝の「従郡至倭」行程の道里が、『「普通里」の数分の一の独特の「里」で書かれているように見える』のは明白です。

 議論の核心は正鵠を得ているので、当初、この不都合には眼をつむったのです。欠点の無いものは無いのです。


*謙虚な推定~エレガントな解答例
 以上のように、整然として見える計算表が、実は意味の無い「想像の産物」と気づけば、つまり、「古代人の知らない近代科学の目でみれば総て、丸ごとお見通し」という後世人の傲慢な視点を棄てて謙虚に読めば、これだけの記事すら史料として適確に読めてないとわかるのです。

 立ち待ちでなく、しゃがんで地べたを見れば、うっすらと進むべき道が見えるはずです。まず成すべきは、「倭人伝」記事から陳寿の深意を知ることであり、陳寿すら把握できてなかった「史実」を知ることではないのです。
 中国では、太古以来、無批判追随の危険は知られていて、「前車の轍」という比喩が戒めです。自分の目で前途を見定めることです。

*まとめ~不朽の業績の赫赫たる遺構
 引用表は、季刊 「邪馬台国」 第35号に掲載されましたが、三十年余を歴て、長く広く参照され、追随、踏襲されていることに、深甚の敬意を覚えると共に、その罪の深さを歎くのです。
 安本美典氏の表明された編集方針を見るに、願わくば、掲載論文の原器となり得る矍鑠たる存在であって欲しいと思うものです。何しろ、この世に、この時期の同誌ほど学術論文の原点を守っている商業誌、軽出版物は存在しないからです。
 かつて、並行して名声を博していた史学誌が、休刊、ないしは、古代史分野記事の逓減で、単行本/ムック形式で生存している「古田史学会論集」をほぼ唯一の例外として、すっかり影を潜めているため、孤高の存在となっているのです。

                               完

新・私の本棚 2 松井 芳明 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

  2 魏使は、遠賀川を遡った        松井芳明
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積   2019/01/28 追記 2020/10/07  補充 2021/12/09 2023/06/11

*前置き
 当論文は、里程論と言うより人口論のおまけであり、その点で、同誌特集の趣旨を外れかけているとともに、当方の守備範囲を外れています。
 当然、行程記事は順行型解釈であり、投馬国から南水行十日、陸行一月で王城に到る」と解釈しているので、当方の仮説とは別次元となっています。つまり、重ね重ね批判の対象外です。
 
 と言うものの、不審な点は率直に指摘します。

*「母なる淀川」賛
 当方としては、実見したことのない遠賀川が緩やかな流れであることにとやかく言う資格はないので、論評はご遠慮します。但し、いかなる河勢であろうと、たっぷり荷を積んだ荷船を、流れに逆らって漕ぎ上がるのは、大変な重労働であり、この点を考慮しない「水行」論は、ただの思い付きに過ぎません。と言っても、川岸から、人海戦術で曳き船するのも、所詮、船体を引き摺っているのに等しく、労力の大半は空費されることになります。
 
 引き合いに出された二大河川の一つ、淀川は、太古以来、上流に安定した水源と琵琶湖があり、途中に大規模な調整池、巨椋池などもあったので、豊富で安定した水量、しかも緩やかな流れであったであろうとの推定には同感です。
 古代に於いて、淀川水系は、河内の大動脈だけでなく、伏見から琵琶湖への流れと、南流木津川の中流で下船して、南のなら山を越えて奈良盆地に入る流れと、二大「幹線」を擁していました。偉大な、母なる大河と言うべきです。

*あて違いな大和川
 ここで、随分不審なのは、大和川は太古以来、緩やかな流れであったとの評価です。何か、具体的な根拠をお持ちなのでしょうか。 
 大和川は、今日の川筋と異なり、江戸時代に大規模な付け替えで河内平野南部を西に一直線に流れる天井川に改造される以前の旧大和川は、奈良盆地から奔流となって下っていて、南河内から合流する石川と共に、河内平野に土砂をまき散らす急流だったのです。つまり、河内平野は、その堆積の大半が、渇水期はあっても雨期の急流を齎した大和川の賜物と思うです。そんな途方もない暴れ川が、「緩やかな流れ」で河内奈良間の水運を支えていたとは、何かの勘違いだと思うのです。

 ちなみに、入念な治水工事が施された現代に於いても、水源地帯で広く豪雨に見舞われるなど、歴史的な出水時には、広域で氾濫する暴れ川であることは変わっていません。

 重ねて言いますが、琵琶湖という水瓶を水源とする淀川は、水量豊富で安定しているという点で、他に例を見ない大河なのです。この点の認識が甘ければ、机上の曲芸で無理な類推を捻り出していることになります。

 この部分の展開は、論考全体の信頼性を損なっているので、一度、情報源を確認いただきたいのです。

*遠すぎる回り道
 また、遠賀川上流の投馬国から王城へどう行くにしても、もともと、伊都国から南に直行すれば、僅かな、あるいは、そこそこの日数で王城到着するのに、わざわざ漕ぎ手に負担のかかる河川遡行で、延々と道草を食うのか同感しがたいのです。いや、これは、氏以外の巡行方行程説に共通するのですが、ここでも持ち出すことにしました。

 図示された鉄道路線比喩は、氏ほどの見識の持ち主にしては大変不出来です。(友人に言うとしたら、「アホか」です)ご自身は納得しているのでしょうが、古代人の目で見た時どう感じられるかのだめ出しが欠けているように思えます。

 使節視点で言うと、鹿児島(?)から、百人になりそうな大勢で、大層な重荷を引っ提げて、延々人力車輌(鉄道比喩です。念のため)で長旅し、疲労困憊で東京目前の品川に着いたのに、なぜ、その上に何日も掛けて渋谷、新宿、池袋、上野、秋葉原と大迂回するのかという事です。
 使節団自身の辛苦に加えて、現地採用の荷運び人夫は嵩むし、人力車輌の運行もあって労力は厖大、各駅一泊で地元は負担厖大です。


 図示したのは、古代の難業を意識の外に追いやり、今日の電車移動並の楽勝との見せかけ(イリュージョン)でしょうか。電車でも、電気無しの手押しとなれば、車体重量が厖大で、楽勝とはほど遠いので、妥当な比喩としては、トロッコ押しでも想定するのでしょうか。

 また、本編に還って、大量の下賜物を抱えた使節団の行程に限るとしても、普段は官道として使用していないはずの山越えの裏街道を、なぜ長々と道中するのか。大変、大変不思議です。
 これは、当方が、放射行程、即ち、伊都国から王城の軽快な行程解釈に荷担して、道草論に荷担しない理由でもあります。

 人口論にも、行程道草論の本体にも深入りしませんが、よほど丁寧に、真剣に説き聞かせていただかないと、時代錯誤、世界観錯誤の重層で、不審感の重ね塗りになります。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 3 西岡 光 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程 西岡光
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*前置き
 「はじめに」として、「『魏志』「倭人伝」が、日本古代史を考える際の客観性をもつ有力な史料」と書き起こしていますが、何やら不吉な煙が立ち上っています。どうも、倭人伝考証は、「日本古代史」の辺境題材と見くびっているようです。視点倒錯、夜郎自大史観と言うべきですが、これは、氏の個人的な感慨ではないので、まことに勿体ないとだけ言い置きます。
 それは、初心者の自己陶酔のように思うます。率直に、倭人伝に関する知識と経験の不足を自覚して、初心者宣言すべきではないでしょうか。
 三世紀、日本は影も形もなかったのに、『「倭人伝」に書かれている国が、後の日本の祖型である、もし、不都合な記事があったら、それは、中国人が史実の認識を誤ったためである』との大前提では、本論は史料批判ではなく自己批判となります。
 
自己批判は流し読みし、不審な点だけの指摘に止めます。倭人伝」談義で、「日本古代史」など、禁句に等しいとお考えいただきたいのです。

*勘違い宣言

 まず、初心者と自覚していない論者の「倭人伝」認識、つまり、鏡に映った自己の認識が4項目に亘って宣言されていて、まことに非論理的で粗雑なものだと感じます。
 そそくさと引用します。
⑴ 三世紀前半のわが国土に、邪馬台国が存在していたこと。
⑵ 当時の倭人部族統制の権威には、男王による政治力を上回る、女性シャーマンのシンボル推戴が必要であったこと。
⑶ 部族集合体である複数小国家に共立された祭政の権力者(女王)として、卑弥呼が君臨し、後継者が壱与(台与)であったということ。
⑷ 邪馬台国の卑弥呼が、遠く中国の政治中枢部に認知されていたことは、当然国内各地域にもよく知られていたと考えられるということ。

 ⑴は、「わが国土」へのただならぬ思い入れが感じられますが、当方の理解の「圏外」です。まさか、「国土」が氏の私物だという主旨ではないでしょうが、四畳半住まいの小雀には、賛同はできません。

 ⑵は、現代の一部でだけ通じる符牒が満載で、素人には理解できません。
 
倭人部族」が何者なのか、何が「統制」なのか、「政治力」とは何なのか、「女性シャーマン」は、「シャーマン」など存在しない当時の何を言うのか、「シンボル推戴」は、「シンボル」など存在しない当時、何の意味なのか。それは、「シンボル」を推戴するのか、「シンボル」が推戴するのか、なぜそれが「政治力」を上回るのか。
 「倭人伝」に、一切出てこない、手前味噌で時代錯誤の言葉と概念を、ご大層にぶちまけても、善良な読者には意味が通じないのです。
 つまり、質問されても、無視するしかないのです。


 ⑶は、用語が前項と特に意味なく大きくずれている」ので、論者の意図を訴えるのに役に立たない不具合は置くとして、後半は、当たり前の読みであり、それが「倭人伝」里程論にどう関係するのか、論理はどうしたの、と言うことです。
 
また、「複数」と言うのは、二国、またはそれを越える数の国、という程度の意味であり、ここで強弁する意図が不明です。
 古代史で「小国」というのは、国の大小を言うのでなく、個々の國という意味であることは、聞き分けていらっしゃるようでほっとします。少し戻ると「祭政の権力者」は、中国古代史に無縁の概念であり、つまり、言葉になっていないのです。

 倭人伝」論の世界で通じない言葉づかいは、半人前呼ばわりされても、仕方ないでしょう。何しろ、ここは、「里程の謎」とテーマ指定されている場なのです。編集部が、没にしなかったのは、後難を怖れた「遠慮」でしょうか。

 ⑷は、さらに一段と理解困難です。
 「政治中枢部」は意味不明ですが、天子たる魏帝は、「倭の国中に告げよ」といいましたが、氏がここで物々しく言う「国内各地域」とは「日本列島」のどの範囲を言うのでしょうか。意味不明で困ります。「倭人伝」里程論との関連は見当たりません。

 折角力んでも、一向に、四大原則として殊更ぶち上げる意義が伝わってこないのは残念です。読者との提携を拒否していて、物書きとして修行不足です。

 続いて、突然、「海人」が登場し「国際陰謀」が起動しますが、「国際陰謀」が古代離れしていて根拠不明で、それが、万里の果ての陳寿が、魏志編纂の貴重な原史料記録を、天命に背いて捏造した動機とは同意できません。

 続いて意図不明の人口論が続き、里数論が始まらないのです。
 意図不明というのは、「倭人伝」には、有効数字一桁未満と思われる不確かな里数や戸数が出ているだけであり、憶測を重ねて漠たる推計を巡らしても、いくら数字計算が多桁に亘って正確でも、見た目にきれいな数字が並ぶだけで、意味も意義もない数遊びであり、三世紀当時の国家像と結びつかないのです。何か、考え違いされているようで、勿体ないことです。


 論者は、工業系の教養を有し、それを活かす実務に従事したはずなので、文系論者に比べて数字に強く、意味の無い多桁数字の害は熟知していると思うのですから、ひょっとして、古代史ファンの浪漫性に訴える「詐話」(フィクション)を試みているのでしょうか。

 肝心の里程論ですが、受け売りで「倭人伝」短里を認識していながら、それは、陳寿が根拠無しに五倍の里数、距離にしたもので、ことのついでに日数も五倍にしたと決めつけます。しかし、ご本尊がそうした意見に同意する根拠は、何も見られません。陳寿が耳にしたら、「ものを知らないのはお互い様ではないか、自分は、ちゃんと知らないものを知らないものとして書いているぞ」と言うところでしょうか。

 つまり、どこをどう叩いたら、ここまで、何故「倭人伝」の里数が「誇張」と言い切れるのか、論理的に正当化することを期待して読み進めている読者に対して、裏切りとしか言えません。


 重症なのは、里数の五倍と「幻の実距離」とが交錯して、「倭人伝」里数は「虚数」としていることですが、ここでは、数学の「虚数」、つまり、重大な意義と実態のある数でないのは自明ですが、勝手放題に造語されても、何の意味か、善良な読者は、一向に理解できないのです。
 案ずるに、論者は、「
倭人伝」里数を実態/実体のある数字だと気づかないまま、延々と「誇張」だと論じているのが、この一語に露呈していて、まことに錯綜しています。

 とてもとても、「里程論」「誇張論」とは言えません。場違いで無意味です。

                             この項完

新・私の本棚 4 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

  4 邪馬台国への道のり          山田 平
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 「1『魏志』「倭人伝」の旅程」の劈頭、「旅程」記事を「そのまま図にしてみると図1のようになる」と断言します。論者の「そのまま」が、そもそも里程論の混乱の原因なので、ここを無造作に踏み越えるのは、大変不吉ですが、ここは、我慢して読み過ごしておきます。

 無駄なので引用しませんが、要するに、「図」と称していても、論理の筋道を図形化した「構想図」などではなく、「倭人伝」里程論に良くある(混乱した)旅程表であり、上から下に通過点を列記して、その間の里数、日数をかき、後は、矢印の追加程度だけで、「説明図」ではないので、読者にしたら、数字の校正くらいしかできないと思うのです。凡そ、稚拙な図は、書いたものの稚拙な「思考」を、稚拙に図示しただけであり、「思考」に共感しない善良な読者には、ちんぷんかんぷんの「ポンチ絵」ですから、氏にとって、百害あって一利なしでしょう。
 併せて、当方は無造作な算用数字多桁記法を見て、この論者は、数字のイロハが、まるでわかっていないと評価するだけです。

 要は、この「図」は、氏の史学論者としての限界を露呈しているのであって。自身の解釈を的確に読者に伝える使命を果たしていないと見るのです。所詮は、「対象」を指し示す「指」かも知れませんが、「指」が「指」に見えなくては、その指し示す先は。善良な読者には理解できないのです。

 これに対して、論者は、『「図」を一見して、「一里の長さが異常に短い」、あるいは、「旅程が誇張されている」とみてとれると自身の早見えを誇示していますが、単に、論者が作図の際に諸資料を参照していて、この「図」の一里が百㍍に満たないとあらかじめ知っているから、そのように見て取れるだけです。普通の常識人たる善良な読者は、何も感じとれず、何も思わないはずです。

 まして、「異常に短い」という評価の基準(正常、あるいは尋常の基準)は。一般読者には不明です。むしろ、論者に対して、倭人伝という小宇宙、小天地では、これが正常だよ、と逆に教え諭したくなるところです。

 さらに、旅程の「誇張」はどんな現象を言うのか、論者に示して貰わなければわかるはずがないのです。「誇張」と判断する規準となる「誇張無しの旅程」は、「対象史料である倭人伝のどこから見て取れる」のでしょうか。論者の脳内には、ここで読者の拍手がどよめいているのでしょうが、それは、氏の脳内小宇宙だけで聞こえる独善(独りよがり)というものです。
 ついでに言うと、正史に虚偽の「報告」を載せたとすると、後世、ことが露見するから、その際には、皇帝を欺いた大罪で一族郎党皆殺しとなることは、だれもが承知であり、そのような大罪を犯すものがいるとは思えないのです。
 斯くの如き、ベタベタの独善で開始するのは客が逃げそうで不吉です。

*二種類の情報
 話の続きを読むと、どうやら、論者は、「倭人伝」に続けて書かれている「旅程」が、「実際は」二度に分けて中国側に齎されたものであり、その二度の間に、女王国が東方に「お引っ越し」した「東遷」があったと見ているようです。誠に「大胆」な発言であり、読者には、初耳であり、そのような卓見を、予知することはできません。いや、大胆と言っても、妻子、両親もろともに首を切り落とされることはないので、言ったもん勝ちということなのでしょうか。要するに、「ホラ合戦」の一展開なのでしょうか。

 そのような天下混乱は、国内史料を含めて、いっさい記録されていない
のが衆知の事項です。また、そのような突飛な認識が、読者が期待している「倭人伝」里程論に何を齎すのか、すぐにはわからないので、ますます不吉です。
 
*曲芸解釈

 辛抱して読み継いでいくと、論者は、先ずは、「倭人伝」の旅程記事の「南、投馬国に至る水行二十日」と「南、邪馬台国に至る…水行十日陸行一月」との記事を、伊都国以降の旅程に直線状に積み上げると決め込んでいますが、それは、(論証を要する)一解釈として知られています。
 氏は、ある意味冷静な読解で、王城が九州島内に収まらない
と見て、この二項は里数で書かれた旅程とは別儀、女王国お引っ越し後に魏朝に報告されたと見たようです。自作自演の好例です。一種の改竄説で、言いたい放題になっています。

 しかし、衆知の如く、三世紀後半、後見役の帯方郡が健在で、頻繁に倭人と交信していたから、帯方郡はもとより、魏朝に遷都を知られないでは済みません。つまり、他ならぬ「倭人伝」に明記されねばならないのです。

 史料にない、と言うより「倭人伝」に真っ向から反した創作であり、それを正当化するために、行間を読んだり、南を東に字句改訂したりしての労作に感心しますが、どうしてそう思うのか不思議です

 書く方はいかようにも曲芸を試みて、成功した試技を公示すればいいものの、読む方はその思考を追試できないのです。いくら優れた発見でも、第三者が追試して確認できなければ、単なる「法螺」です。(立証に成功すれば、画期的な新説と評価されるのですが、百の思い付きの内、新説として生き残れるのは、一件あるかどうかです)

 続いて展開するのは、遙か後世の戸籍資料などに基づく人口論であり、「当方好みの時代錯誤」の暴論、無理筋の勝手読みであって、曲芸の美技ではないのです多項目計算が必要以上の五桁と「正確」な計算を行っていても、その間の歴史の流れが不連続、非線形なのは自明なので、安易な類推は全く無意味です。

 不連続、非線形というのは、国の「お引っ越し」が、健全な国の行いなのか、亡国の報いなのかすら不明であり、かつ、それがどのような人口移動を招き、両地域にどのような社会、経済的な異変をもたらしたか、到底推察できないのです。単なる「絵空事」としか見えません。

*結論
 と言うことで、本論考も審議以前であり、当方理解圏外に去りました。

 途方もなく常識外の主張をするなら、枕の部分で、とにかく丁寧に、丁寧に説き起こすべきです。そうでないと、まじめな客は、本題を切り出す前にさっさと逃げてしまうものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                             この項完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/3

5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

〇序論
 編集部の惹き句とは言え、「豊富な資料」の触れ込みで、実際、二十㌻の大論文ですが、論理交錯で難儀します。原点たる倭人伝から読みなおす趣旨と見えますが、それにしては、東治」を「東冶」と「改訂」するなど、未検証の原文改訂行為は不首尾です。当世流行りの改竄説に似ていますが、原著作者の意に反した改訂は、改竄に等しいのです
 古代の説客が、論法の常道とした、「出会い頭のはったり」のように見え、学術の世界には似合いません。
 また、本稿では、論者の里制観が動揺し、読者の筋の通った理解を困難にしています。

 またまた、図1と作図された労作の「倭国の概観」は、「普通里」に従って韓国、倭国を大きく描いていて、いかにも、論者の歪んだ世界観を可視化して見え、それを期待してか、「倭人伝里は誇張」としています。
 要は、氏の個人的な理解を、錯誤、錯視かどうかの検証抜きに、いきなり図示しているのであって、陳寿が、倭人伝として提示した「文章問題」の解として、意義のある図解ではありません。結局、氏の抱負にかかわらず、氏の理解を評価する手段にしかならないのです。
 またまたまた、事のついでに、「会稽東冶」が妥当としています。当然ながら九州島内に女王国との表現です。

〇多桁算用数字~不滅の迷妄
 論議の絶えない帯方郡~狗邪韓国間の「郡狗行程」は、なぜか沖合遥かの無寄港と図示されていて、それを七千余里ならぬ7,000里としています。

*場違いな大型船の幻想
 そのような行程は、寒風や雨風を遮る甲板と船室があって、中国人の食事には不可欠な「竈」(かまど)と水がめを備えた厨房のある、つまり、相当大型の帆船でなければ実行不可能ですが、そのような大型の帆船の存在とそれを支える海図、水先案内などの存在も問われていません。
 南方地域には、帆船自体は存在したでしょうが、帆船回航には、帆が破損したときの貼り替え帆布の備えが不可欠であり、当時、東夷には、麻布や麻縄がなかったので、無事往来することが求められる下賜物満載の船は、乗り入れることはできなかったのです。
 丁寧に説明すると、当時、黄海で行われていたのは、短期間で向こう岸に着く、いわば渡海船であり、随分軽装備だったので、半島沖合の黄海を南下する長丁場は、こなせなかったのです。と言うことで、それまでは、港港を送り継ぐ、小船の駅伝船の世界だったのです。
 未検証どころか、検証不能の思い込みに過ぎないのですから、氏ほどの論者にしては、不用意です。

 「海岸にしたがって」と俗解されるのに反した、沖合遥かの無寄港航海の超絶技巧の無法解釈は別として、ここ以外も、現代人には当然とは言え、古代史学では「非常識」で誤解を招く算用数字多桁表示で、文献解釈に際して、的外れが露呈していて残念です。
 古代人の世界観の中で、概数を取り扱う数字計算は、里程、行程道里の理解の根幹であり、見過ごされているのは、毎度の事ながら大変残念です。

〇一里推定の徒労
 論者の倭人伝里の考察では、ほぼ一貫して、倭人伝の一里は百㍍程度、韓伝の「方四千里」も同様としつつ、頑として「誇張」と見ています。何に対して誇張なのか、根拠不明、意味不明です。独り合点や仲間内の決まり事は、ご自分一人にとどめて、第三者を納得させられる論証が求められているのです。 

 帯方郡官吏たる魏使が、自郡里制はもとより、海を隔てた倭国里制も知らぬはずはなく、まして、使節として現地視察の後には、現地を実見して正確な認識をしたはずです。ただし、そのような里制は、魏朝の公式記録である倭人伝には、一切明記されていないのですから、史料の根拠は無く、倭人伝の里程、つまり、行程道里には、そのような「里制」は、比較参照できないのです。
 また、論者が、倭人伝里制が、一里 百㍍程度と納得したら、倭地の里制も、また適確な里数と納得でき、つまり「誇張」など存在しない事になるはずです。
 にもかかわらず、論者が、氏の誤解を露呈した冒頭図に固執し、撤回しないのは、合理的ではなく、また、ご自身の方針に反するのです。

〇還らざる分水嶺
 ここで回心するなら、冒頭図は自身の錯誤を露呈していると気づいて、撤回するでしょう。古来、「過ちを改まるに憚るなかれ」と言いならわしています。まして、推敲段階の改稿に憚ることなどまるでないのですが。

 引き返せなくなる前に、経過を総括して、行程続行の当否を自問すべきなのですが、そのような「先見の妙」と「引き返す勇気」を持つ人は、ごく希です。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 三世紀当時の中国中原の常識を知らない現代東夷の素人考えで、陳寿の編纂を律してはならないのです。

                               未完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 2/3

 5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

〇野性の呼び声
 続いて、倭人伝の水行、陸行基準を論じますが、現代事例の「野性号」を史料批判無しに持ち出しているのは、まことに不出来です。
 確かに、同プロジェクトは、貴重な「実験」として大いに参考にすべきですが、倭人伝に提示された行程道里は、同時代の公的記録が基準であり、一方、当実験には、海図、コンパスがあり、難航時は支援部隊が助力しました。
 一度限りの試行は、寄港状態、採用航路を厳重に時代考証した上で、読者に誤解させないように、その「限界」を明記した上で利用しなければなりません。

〇官道としての資格審査
 当方は、大局観として「危なっかしい船便は官道たり得ない、断固陸を行く」との意見を固持します。大局観というと私見のように聞こえそうですが、要するに、官道としての機能は、乗馬の文書使が駆け抜けるのを根底の前提にしているので、乗馬して駆け抜けられない船での移動はあり得ないのです。
 中原でも、水行、つまり、河川を上下する船での移動は存在しますが、総て、河川行であり、あくまで、公式道里は、並行して陸上を行く官道に決まっているのです。端的に言うと、中原には、海を行く官道はないのです。
 河川行は、荒天や増水の際は、いずれかの川岸に立ち寄ることができるので、難船を、避けられるのですが、浅瀬や岩礁の存在する海岸沖合では、所定の寄港地以外で陸に接近するのは自滅行為であり、いわば、荒天は、避けようのない事態になるのです。
 このような危なっかしい輸送/交通手段は、国家制度として採用されないのです。無作法を承知で言わせて頂くと、この海上行程が極めて危険で通行困難(実際上不可能)であることは、ほぼ常識であり、それは、実験するまでもなく、思考実験、当世風「シミュレーション」だけで明らかなのですが、冒険試行され、その結果が実用に適していることの証左と誤解されているのは、まことに不幸な成り行きです。
 冒険は、どんな時代錯誤の支援を受けてでも、困難を超えて一度完漕すれば「成功」ですが、国家の制度として運用するには、とにかく、安全で確実でなければならず、不時の事態が発生しないような万全の備えが必要なのです。船が沖合で難船すれば、当時の沿岸の体制では救助は不可能であり、まさしく、海のモズクならぬもくずと消えるのです。

*「ハードル」談義~余談
 陸上競技の「ハードル」は、学校の体育の時間で習ったことを大きく外れた巷間の風聞/迷信と異なって、競技者を「阻止」するものではなく、難なく飛び越えられる高さで、しかも一定していて配置されています。何なら、ハードルを残らず突き倒しても、何の罰則もないのですが、それでは速度が落ちるので、ハードル勝者となるには、全数を飛び越えるのです。周知のように、何も無い走路の所要時間と、大差ない快速の競争なのです。ハードルは、「試錬」ですが、「壁」とか「難関」と言うべきものではないのです。
 この理解しやすい比喩に対して、古代の海上航行は、数千里の航路の一箇所でも船が沈めば万事休すです。競技者が挫折して水死する前提の競技など、絶対にあり得ないのです。

〇新羅遣唐使の道里
 後世新羅遣唐使が、「半島東南の王城慶州(キョンジュ)を発して北行して官道を一貫陸行し、小白山地を、二世紀に官道として確立された竹嶺(チュンニョン)の険で越えて西に転じ、海港唐津(タンジン)から山東半島に渡海した」ことも、この意見の裏付けと言えます。
 新羅が、高句麗と百済の係争地であった、漢城付近の要地を、精鋭の急襲で確保し、以後両国の回復を許さなかったのも、小白山地を越える官道が軍道としての用に耐える確実な交通、輸送経路であったことを語っています。

〇理性的な解法
 また、倭人伝の言う「水行」が、沿岸行、渡海、河川行のどの主旨で書かれたか、「倭人伝」二千字では不明瞭との主張が出回っていますが、ですが、当方は、正史の行程道里に、そもそも、「水行」はないとの決断であり、仕方なく大局的な分類を求めて、水行は、三度の渡海、つまり千里渡海の一日行程の三回と見るので、「上陸後の水行はなかった」(投馬国は傍路)と割り切っていて細かい理屈づけは無縁なのです。

 見解の相違ですから、論者に同意できないと言うだけで排除しているのではありません。また、国家制度に拘束されない市糴の槽船が、ある程度の危険を承知で、徐行した可能性を否定しているものでもありません。例えば、日帰り近隣の海市まで、地勢ならぬ海勢を熟知した村人の操る荷船が往き来するのは、むしろ、健全な姿であり、そのような往来を連ねれば、遠隔地まで、市糴の鎖が通じていたものと見えます。
 ここでは、当時、帯方郡に於いて、帯方郡から漢江に沿って小白山地に至り、峠越えで洛東江流域に下りて、以下、慶州付近に繋がる官道が制定されていたと主張しているのです。

 と言うものの、一般人といえども、生命の危険は、そうそう犯さないものです。海域の天候、干満、潮流、浅瀬や岩礁の所在など、知り尽くした上で進んだはずですが、よそ者は、そのようなことを知るはずがないので、容易に多島海の寄港地に近づけないのです。

〇隋使の絶海行程踏破
 後世、隋煬帝の使者文林郎裴世清は、明らかに、山東半島からの海船で来訪していますが、関係部署に保存されていたはずの魏使行程を踏襲したのではなく、記録のない未踏の海域を開拓したような書きぶりです。是非参考にしていただきたいものです。
 要するに、隋使は「倭人伝」行程記事が、黄海航路を確立した記録でなく、あくまで、郡から倭に至る公式行程、公式道里、公式日程の記録であることを理解していたので、記録に残っていない未開拓の行程を、恐る恐る進んだものと見えます。もちろん、わざわざ、入出港が困難な狗邪韓国の海岸に乗り付けるような無謀な真似をしていないのですが、このあたり、説明が面倒なので、参照しないようなのは、誠に、勿体ないことです。
 因みに、唐使高表仁は、新州刺史ということで、海船の回航に通じた高官だったのですが、半島西岸沖の航行で難航し、数か月を要して突破したように書かれています。

                                未完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 3/3

5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

〇水行陸行の世界観転換
 長々と行程道里記事の「水行十日陸行一月」の位置付けを模索していますが、当方は、古田氏に倣って、倭人伝に不可欠な総所要日数と見ているので、放射状行程の起点議論は、無関係です。

〇卓見の理解/誤解
 論者が、高橋善太郎氏の新旧唐書地理志の用例批判を引用していて、二重引用の批判は好ましくないのですが、大要「中国史書の用例を元に「倭人伝」記事を解釈しようとしても、多くの”自己撞着”に直面して頓挫するので、”無理”である。よって、"状況判断"せざるを得ない。」との啓示を受けたと見えます。独特の用語で訓示いただいても、標準的な用語に「通訳」しないと、適確な理解はできないと思いますが、仕様がないので、お伺いするしかないのです。

 その啓示の理路を素人なりに整理すると、『「倭人伝」を「正史語法」で読み解こうとしても、厳密に一致しない「倭伝語法」で書かれているため、正解は、「倭伝語法」を体得して解釈するしかない』との卓見に見えます。同時代随一の史官と評価されていた陳寿が、全身全霊を傾けて編纂し、同時代の知識人が高く評価し、当代皇帝が嘉納した畢生の著作が、二千字の倭人伝に多くの「自己撞着」を孕んでいるというのは、理解を超えた「超能力」の発言と見えます。同時代の知識人と同等ねないしは、それ以上の知識を有しているという壮大な自負心は、どこから舞い降りたのでしょうか。
 冷静に見ると、この表現は、ご自身の無力、無知を天下に曝しているものと見えます。よく言う「おつり」を浴びている姿を曝しているのであり、まことに勿体ないところです。

 高橋氏が、当方同様に、卓見の無法さを自覚し、感じ取って、”無理”を放棄し、解釈の起点を、中国史書に移し、さらに、現場、現物である倭人伝の「倭伝語法」解釈に転換したかどうかは、当論説から読み取れません。

〇史料理解力への疑問
 同時代論者の日本語の文章を適確に理解されているかどうか不明では、三世紀漢字史料の解釈が適確かどうか、一段と不明です。何しろ、「倭人伝」原文を引用した上での議論ではないので、正体不明の翻訳者の掌の上での議論であり、大変不安なのです。

〇合わない靴の山
 案ずるに、合わない靴をいくら品定めしてもしょうがないので、先ずは、状況に適した視点、感覚で、「合う靴」を見つけるべきです。
 論者は合う靴をはなから選択肢から外してそっぽを探し、手の届く範囲のものが、ことごとく「合わない」ことを証左としているので、一向に解答に近づけていないように、素人目に映るのです。

〇考古学頼み、神頼み
 以下、「十一 邪馬台国への道」なる図版入り六㌻の大作で、国内後世資料と多彩な考古学成果をもとに女王国の所在地検証の考察を深めていますが、国内後世資料は、同時代同地域の記録が適確に継承された確証に乏しく、考古学遺物には年代が書いていないので、「倭人伝」解釈に於いては、共に参考資料の域を出ず、論考の決定打にならないのです。
 先に挙げた「倭人伝」に対する暴言は、国内後世史料やそれに基づいた考古学遺物解釈を「金科玉条」としているところから発しているものと見えますので、まずは、「金科玉条」の検証が先決と見るのです。

 「一部の考古学界先哲は、望む発掘成果が出るまで、対象地域は、何年かかろうと悉く掘り尽くす」と豪語しています。また、一部では、所望の試験結果が得られない試験方法は、「基本データを造作してでも所望の検査結果が出るように誘導する」受け取れかねない態度で豪語しています。そのような超自然的な活動は、公的資金のふんだんの援護がなくては持続できず、公的資金は担当省庁の承認あっての予算支出であり、これを持続させるためには、学問の正義は脇に押しやって、壮大に自己顕示せざるを得ないと見えるのです。
 それが、考古学界の神頼みとしたら、神様」は使い走りの小僧同然であり、随分見くびられたものです。

 氏の場違いなぼやきは、そのような極端な動きに繋がるものであったのではないかと危惧するのです。そして、発掘物による所在地検証は、問われている、倭人伝里程の謎の解明と対極にあるものと見られるのです。勿体ないことです。
 それにしても、氏の属すると思われる学派は、倭人伝に「邪馬台国」の文字がないのを度外視して、書かれていない「邪馬台国」の所在地を決め込むのは、筋違いと見えます。そのためには、『「倭人伝」は、肝心の国名が誤伝されるような不正確な伝承文献である』と言わざるを得ず、従って、方位や里数も、誤伝しているに違いないと言わざるを得ず、言わば、不退転の決意で、「倭人伝」、ひいては、編者である陳寿を罵倒している始末です。
 氏が、どこまで、そのような「陰謀」に加担しているのか不明ですが、素人目には、何とも擁護しかねるのです。

〇まとめ
 氏は、高度な推論力を有しているとしても、史料自体を把握できていないことから来る不安定感があり、足元の論理を固めてのち見聞を広げるべきで、「里程論」に挑むと大言壮語する前に「倭人伝」の堅実な理解が先決です。

 倭人伝」里程論議は、「倭人伝」に書かれている漢字文章の解釈から出発するしかないのであり、誰もが初学者の謙虚な姿勢を持たなければならないのです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 6 米田 実 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 改訂 1/1

6 「方」について    米田実        
私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠無き憶測    2019/01/29 改訂 2021/01/21 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 論者米田氏が、正史といえども「一枚岩」でなく、個別の史書特有の言葉遣いがあるとの当然の前提の元に論考している点は支持します。

*「方里」四倍誇張説~根拠の無い思い付き
 提示されているのは、「倭人伝」に登場する海国「方四百里」、一大国「方三百里」が、方形一辺でなく周回里数「周方里」との「思い付き」であり、これを採用すれば、一里百㍍程度の「短里」でなく一里四百㍍程度の魏晋里「長里」(普通里)でも、面積が四分の一なので辻褄が合うというものです。
 これは、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』で提示し、広く支持を得た「短里」説への「異議」ですが、その論証は空を切っています。

*ダメ出し~「周方里」はなかった
 「思い付き」を作業仮説とするには、要件が欠落しています。つまり、「周方里」記法の「典拠」がないことから、ご都合主義のこじつけと見られるのです。史官が、古典書ないしは周知の文書に典拠のない表記を採用することは、あり得ません。無法な表記に対して、高官の非難を浴びて職を失うからです。

 はなから不適格と判断される「思い付き」の具体的な内容批判は、言いがかりを買う可能性が高いので禁物ですが、ここでは、素人なりにダメ出ししてみます。

 当時、「大海」中の未踏の海島の外形を知るのは不可能です。また、対海、一大両国には、そのような不可能任務を果たす義務はないのです。

 氏の言う「周方里」は、全て、後世人の夢想、憶測であって、一切実在せず、古代史学を議論する場に取り上げるべきではないのです。

*散漫な考察~徒労の蓄積
 氏は、「史記」、「後漢書」、「魏書」(北魏「後魏書」)に考察を広げますが、全て地上でありながら、地名比定等が憶測で一向に定まらず、更に、「方里」の意味は、時代、地域によって不確定と見られますから、さながら、底なしの泥沼に岩盤基礎を求めるようなものです。

 確たる論拠は、一件で足るのですが、憶測を無数に積み上げ、紙数、字数を費やしても論拠にはならないので、持論弁護の議論は収束しません。ということで、この部分は、いくら身を入れようとしても、つかみ所がなく意図不明です。

 比較的評判の良い「三国志」等の孫氏記事「江東方数千里」ですが、長江下流域らしい「江東」が定まらない上に「方数千里」が具体的にどんな数値なのか、皆目不明ですから、何の支えにもならないのです。単なる風評の類いですから、「数千里」という慣用表現を、無理矢理概数表現に落とし込むという誤解の是正にまで、当方の筆が及ばないのです。「つけるクスリがない」というわけではないのですが、同意も助言もできないのです。

*結論~また一つの甲斐なき労苦
 と言うことで、丁寧に読ましていただきましたが、氏の「思い付き」論証は全面的に無効です。当分野で大変ありふれた「泥こね」による理論構築ですが、不在の方を名指しで批判することもできないので、ここは、目前の方を批判するしかないです。

*方里の目的~私見
 倭人伝に関する論証では、当の「倭人伝」を優先精査すべきです。文献考察では、まず、文献に明記されていることと示唆されていることを確定してから、先に進むべきです。

 別記事のように、遅くとも漢代以来官人教養とされた「九章算術」が明記した通り「方里」の「里」は、道里の「里」と異なり、面積単位です。集計された農地は、面積こそ確たるものですが、存在する場所は不確かであり、散在しているので、寄せ集めた形などわかるはずがありません。

 一大国記事の「方可三百里」は、漠たる推定と明記した上での一大国総農地面積表記であり、明示されている三百「平方里」は、十七普通里(8㌔㍍)角ですから、三千許家でも農地が閑散なのは記事と符合します。對海国も大差なく、記事は、両島の貧困を明記しているのです。
 東夷列伝で、「方二千里」などと書かれた諸国で、比較的近隣の高句麗、韓国などの蕃国の領地外形には、全く意味が無いので、誤解してはならないのです。また、当然、對海国、一大国を含めた各国に於いて、精密な実測(実地測量)が行われたはずもなく、元々存在しなかった実測値を憶測するのは、重ねて無意味です。

倭人伝抜粋
始度一海千餘里至對海國。其大官曰卑狗副曰卑奴母離。所居絕㠀方可四百餘里、土地山險多深林道路如禽鹿徑。有千餘戶無良田食海物自活乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國。官亦曰卑狗副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴。
                               以上

                              この項完
追記 2020/10/07
〇常識と非常識 
 氏の論考は、「九章算術」に示されている古代中国の幾何学教程に気づいていないので、『倭人伝に登場する対海国「方四百里」、一大国「方三百里」の形容が、方形一辺でなく方形周回の里数か』二者択一の作業仮説を提示していますが、残念ながら、肝心の「時代常識」を取りこぼしていています。
 肝心の、正当な仮説が選択肢から漏れている二者択一では、いくら熱を入れても、論議が空転します。何か大事なことを忘れていませんか、というところです。
 いや、当ブログ筆者も「九章算術」「方田」「里田」の深意をある程度察することができたのは最近なので、氏共々、中国史料解釈の落第生ということになります。

                   以上

新・私の本棚 7 小坂 良彦 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」新考 1/2

7 三国志の「里」について 「従」と「方」の読み方 
私の見立て ★★★☆☆ 疑問山積 2019/01/30 追 2020/10/07 再 2021/01/13 補 2021/12/09 2023/06/11 2024/02/23

○全面改定の弁
 初稿では、本論考に関する批判は、議論の隅つつきにとどまっていましたが、以来、「九章算術」などの学習を経て、氏の見解を掘り下げて批判することになったので、ここに全面改定して公開します。

*序論
 タイトルの「読み方」は、漢字の発音問題ではないようです。
 氏は、「倭人伝」里百㍍弱の短里「定説」化は不当であると異を唱えましたが、多大な論考の労に拘わらず、当方として同意できないままに終わりました。とはいえ、豊穣であった里程論が、十分展開されていないのは残念です。

▢「従」の部~「従郡至倭」談義
 まず、氏は、「従」の字の解釈にこだわっています。「読み方」と云うから誤解するのであり、「」素直に画柊刊を身につけていただいた方が云いようですが、べつに、氏を指導する義務はないので、云いっぱなしです。
 氏の提唱する作業仮説は、『「従郡至倭」直後の狗邪韓国までの里程、つまり「従郡至狗」の七千里の起点は、「従」と書く以上、定説の帯方郡でなく帝都洛陽であり、七千里は短里ではない』というものです。
 単なる思い付きで無く、部分的には筋の通った見方にも見えますが、諸史料中に論者を支持する用例が存在しても、「倭人伝」里程がそう書かれる理由が提示されてないので、世上の諸説を覆す説得力は見いだせないのです。

 「倭人伝」で「従郡至狗」七千里の終点狗邪韓国は、帯方郡管理下の行程通過点でした。また、帯方郡は、後漢献帝建安年間に、遼東郡公孫太守によって創設されたというものの、笵曄「後漢書」にも、併収されている司馬彪「郡国志」、「地理志」に郡として記載されていなくて、もちろん、公式道里は書かれていません。景初以前は、遼東郡太守公孫氏の傘下であって、皇帝にその存在を知らされていなかったので、いきなり東京洛陽、曹魏の「首都」雒陽からの道里は見えないのです。

 加えて、「倭人伝」里が、漢制以来の「普通里」(概算四百五十㍍、あるいは、丸めて五百㍍)では、狗邪~対海|一大~末羅間、「狗対一末」の三度の渡海各千里の説明がつかないのです。

 もっとも、短里説は論議を重ねていて、安易に棄却できないのです。
 また、氏の提言で、曹魏代の雒陽から帯方郡までの経路は不明瞭です。首都雒陽からの里程が不安定では信頼が置けないのです。

 公孫氏健在時、帯方郡は遼東郡傘下なので、行程は洛陽~遼東~帯方だったでしょうが、公孫氏滅亡後は、遼東郡経由か、山東半島莱州から渡海するか、不確かなのです。私見では、街道は遼東郡から南下していたと見るのです。
  少なくとも、正史「倭人伝」に公式道里として記録する以上、後漢書「郡国志」などに記録されている、遼東郡までの公式道里(秦置
雒陽東北三千六百里)、あるいは、楽浪郡までの公式道里(武帝置 雒陽東北五千里)が前提であることは言うまでもないと思います。
 自明、当然なので書いていませんが、普通に考えると「従郡至倭」の起点は、遼東郡発の官道が、帯方郡治に達した地点から始まるのであり、それに続いたと言うことは、半島内陸の帯方郡治から、官道が真一文字に東南方に続いていて、これを行程に重ねて辿ると、「倭」、つまり、「倭人」の王城に至るというのが、以下の道里行程記事の前提と見るのです。

*概念里程の基点
 但し、氏の説から感じとれるように、雒陽から「郡を経て倭に至る」万二千里が、「倭人」の概念的な遠隔観・架空里を定義するものであれば、行程は無関係と思うのですが、同意しきれないと見ます。「倭人伝」に、「倭」に到達できる航程と所要期間が書かれていなければ、それは、皇帝に上申する以前に却下されるからです。

 ただし、先に触れたように、街道道里の基点が、当時東方管理拠点であった遼東郡であれば、難点の大半は解決します。所詮、蕃王は、遼東太守の臣下だったのです。因みに、西域諸国の行程道里は、西域都護治所が起点となっています。
 ということで、まだ検討課題が残っています。

*「従」の幾何学的用法
 因みに当ブログ筆者は、「九章算術」で課題図形の奥行きを「従」で示すことから、ここは、郡の南境から東南方向に直行する行程を示すと見ています。
 氏と異なる視点から、「自郡」でなく「従郡」と書いた意味を求めたのです。僅か、一文字の解釈でも、論議の奥は深いのです。

*小論
 ということで、「従」の「読み方」に関する氏の論考に。深甚の敬意は表しますが、同意はいたしかねます。

                               未完

新・私の本棚 7 小坂 良彦 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 新考 2/2

7 三国志の「里」について 「従」と「方」の読み方 
私の見立て ★★★☆☆疑問山積 2019/01/30 追記 2020/10/07 再訂 2021/01/13 2023/06/11 2024/02/23

▢「方」の部~方里の模索
 氏自身が、文中で示されているように、魏志で「方里」が示されるのは、烏丸東夷伝諸国記事のみであり、魏朝が地形に関する測量を確保していない(と推定される)境地に限られています。

 氏は、九章算術の「方田」に始まる農地面積の幾何計算例題を通読した上で、大半は、「歩、畝、頃」の計算例であって、里の計算例は二題にとどまるとして、里の用例が不足との量的評価のようですが、これには同意できません。(「歩」は、仮に、俗説のようえに、歩幅に由来したとしても、六尺が一歩であるという換算で、一尺が25㌢㍍として、一歩が1.5㍍になっているのです)
 事は、用例の数の多少で判断するものではないのです。

 里の用例が少ないのは、農地面積は、全て「歩、畝、頃」で測量、検地されるためです。これは、実際の農耕は、農夫が犂鍬で耕作できる、区分された「歩」(ぶ)単位の農地であり、「里」は、個々の農地面積を計測する「検地」の実務には、全く関係ないからです。その代わり、「方田」に始まる例題は、各種四角形に始まり、最終的に、円形などの変則的な形状の農地の面積まで計算する方法、計算公式を述べています。

 これに対して、面積単位「方里」は、郡、県の下部にある郷、亭の行政区分の農地面積を統計する際に、「検地」によって記帳した戸別の土地面積を足して、領域の農地総面積を得る際の換算に使用され、要は、一里三百歩(四百五十㍍)の確認のための例題なのです。(ここでは、具体的な換算手順や係数は省略します)

○方里の意義確認
 「方里」は、道里単位の「里」と次元の異なる「面積単位」であり、加減算も比較もできないのです。魏朝は、農地面積を要求しているのであり、地形や領域面積は不要です。
 因みに、魏朝直轄地では、戸籍制度、土地制度が完備していて、戸数だけでも収穫高は明確に把握できるのですが、辺境は戸籍,地籍が未整備なので、農地面積を要求したのです。
 中原では、土地面積から穀物の収量を求める手順が完備していましたが、それは、農地の灌漑が確保され、犂鍬で耕作され、種蒔きや収穫が集団で統制されていて、言わば、計算通りの収量が想定できる状態であり、戸数を言うだけで収量が推定できると言う、計画的な農政なのです。これに対して、未開の地では、そのような計画的な農政は、限定的であり、言わば、想定困難なのです。
 特に、農耕に牛犂が使えない場合は、個別の農地は、大幅に減縮されるので、戸数から、地域の農業収入を計算することは、的外れになります。また、ゼニが流通していない場合は、収穫物自体を税納するしかないので、税収入は、地域、地域に備蓄するしかないのです。
 つまり、帯方郡に報告された、各国戸数は、意味を持たないことになるのです。


 推定ですが、公孫氏は、東夷の状況に適した国力評価指標として、戸籍に登録された農地の面積を集計、計上させる手段に出たものと見えます。そのため、陳寿の手元に届いた東夷の史料は、異例の数値が記入されていたものと見えますが、史官の立場として、この「方里」を、東夷相互の比較指標として残したとも見えます。
 わかっているのは、「方…里」が、正方形領域の一辺を「道里」の「里」で記したものではないということです。

*地図の亡霊
 氏は、倭人伝論をさまよう「精密地図の幻」を信じて、近代的「地図」を見ていますが、当時、「地図」は存在せず、街道と各国王城を描いた概念図で十分だったのです。
 倭人伝に続いて記事第三十巻に補注されている魚豢「魏略」西戎伝は、後漢代の西域都護の活動を語っていますが、西域都護は、管轄地域内の各国勢力の主君の居城と行程を示す「西域図」を執務の場に掲げていたとされています。いや、書かれているのは「西域旧圖」があったと言う事だけですが、当然、「旧圖」を更新した「西域圖」が掲げられていたと見るものです。
 因みに、図が描かれていたのは、絹布でしょうが、別に衣装用の良品でなくてもいいし、何しろ、西域都護の命で献上するので、十分妥当な対価で得られていたはずです。
 いや、肝心なのは、そこに描かれていたのは、概念図であって、精密な「地図」などではなかったのです。

 地図測量がいかに大事業であるか、江戸時代の伊能忠敬の偉業で偲ぶとして、伊能図は、方位磁石と光学機器と三角関数を含む高等算術が前提であり、三世紀には到底なしえない事です。ということで、氏の地図観は、確固たるものとは言えないのです。

 付け足すと、後世作成された伊能図の海岸線は、全て、踏破して書いたものです。つまり、未踏の地は「地図」にできないのです。

▢誤差論再点検 
 理性的な「誤差」考慮は、氏の冷静な態度を偲ばせるものであり、全論者が、この「誤差」の見方を採り入れて欲しいと思うものです。

 但し、氏の例示された「誤差」の「最大四十㌫程度」という見方は、随分楽観的なものと見ます。「倭人伝」の里数は、実測値に基づく概数ではないので「誤差」を出しようがないのです。三世紀当時の関係者は、そのような不確かさは、承知していたはずで、「実測値」にもとづく推計に依存していたとは思えないのです。

 ということで、「倭人伝」の紙面に書かれている「数字」は、実測の裏付けのありそうなものと「見立て」による仮想のものが混在しているので、一律に誤差範囲を想定して「実際の里数」を想定するのは、「数字」にとらわれて解釈を誤っているのではないかと懸念されます。これは、氏だけの事情ではないので、丁寧に説いているものです。

 そのように、氏の誤差観は理性的ですが、個別の「数字」の実質に関して、よほど注意して適用しないと、「倭人伝」の諸数値は霧消し、氏の展開する論理の根底を揺さぶっているように見えます。

○短里説否定論の不確かさ
 氏は、慎重に推論を運んだ上に、氏の提言する両論を適用すれば、「倭人伝の里程は、短里ではないとの主張を否定できない」としています。
 但し、氏の論証をもって、氏の二重仮説を有意のものと見なし、短里制という、単純な仮説を棄却する」という提言は、無理なものと考えます。不確かな根拠を積み重ねて、排他的な仮説を構築するのは、本来、不可能なのです。いや、これは、氏だけに向かって指摘しているのでは無いのです。

○付言
 当方は、別に氏の「倭人伝」解釈の個人的仮説を排除しているのではないので、不同意の物証を提示するつもりは、全くありません。
 「問題」が解けないのは、独解力を含めた知識が不足しているのであって、出題者を貶すのは、まだまだ早いのです。

                              以上

新・私の本棚 8 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作               2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、60ページ近い労作ですが、専門学術誌「計量史研究」の連載記事(1979,80)に加筆訂正を加えたものです。
 初出時の批判、応答を承けて熟成している点が感じ取れます。学術誌掲載ということで、関連史料とそれに関する先賢所説総覧が充実し、百五十件を越える付注も貴重です

 また、冒頭に、過去の邪馬台国論争における諸論輻輳を鎮めるべく核心を提示し、それに即した論考としていて、読者として安心して後を慕うことができます。総合的な論考とは、かくありたいものです。

 氏は、煩雑を厭わず邪馬「台」国論争と書いて、この国名が依然審議中であることを、初心の読者に無用の刷り込みを避けたのは、まことに賢明です。

 当方としては、氏の論文作法に異論は無く、採用史料もところを得ているので、大部の割には短評に止めることができたのです。

*論点の明示
Ⅰ 里(歩)程論争をめぐって
 「はじめに」と総序があり、以下、「従郡至倭」万二千里程の議論です。

*倭人伝里程由来
 「長里説」「短里説」、そして、「地域短里」「魏晋朝短里」は、「里程の謎」に注目している本誌読者諸兄に周知と見て、説明を略します。

 当部分で、当方が参考としたのは、秦漢魏里制は、秦始皇帝の布令に基づくもので、具体的には、戦国諸国を滅ぼして天下を統一した秦が、六尺を一歩(ぶ)とし、(結果として)三百歩を一里とするという単位系徹底宣言であったという主張です。
 時に言うように、秦が普通の周制を廃したものと限らず、「同文同軌」の一環として、秦度量衡により諸国度量衡を全廃、統一したものです。
 つまり、秦支配下の諸地は悉く秦制を敷いたのです。法治主義により、全国に官吏を派遣して苛政を押しつけ徹底させた秦ですから、間違いないところです。

*「魏晋朝短里」説の非道
 当説は、古田武彦氏が、安本美典氏提唱の倭人伝短里を採用する際に、そのような「里」は、三国志編者陳寿の編纂方針によるものとの理解から、「魏志の里制が短里」と確信したことから生まれ、論証課題として、三国志の里制記事検証という壮図が生じたものと見えます
 
 
古田氏は、当初、魏朝創業の文帝曹丕が、秦漢旧弊を廃する目的で里制改訂したと推定したのですが、特に史料に根拠はなく、また、三国志全本文の各用例の検証は、労苦を厭わぬ壮挙と賞賛を惜しまないものの、素人目には不調に終わったと見えます。東呉孫氏政権は、後漢を尊崇していたし、蜀漢の劉氏政権は、両漢の正統な継承者を名乗っていたので、それぞれ、後漢制度を廃して、曹魏の制度に替えることはあり得ないのです。

 文帝曹丕も、後漢献帝からの禅譲を奉じていて、つまり、漢制の堅持を至上の使命と見ていたものであり、戦時の国内に大混乱必至の里制変更を施行するとは、到底考えられないと見えます。ただし、後継明帝が、先帝の「漢制堅持」の遺訓を覆して、景初改暦、祭礼変更と共に「里制改訂」を布令した(と見える)などの反論mありますが、切りがつかないので、以下別義とします。
 
冷静に見れば、三国志も、晋書も、この大事件に一切言及していません。つまり、論拠となる文献資料が、皆無なのです。
 
 
私見では、本説は、とうに使命を終え、廃却するべき時が来たと感じるものです。言わば、現役を離れ、殿堂入りする花道が求められているように感じますが、当事者ではないので、何とも申し上げられません。

                               未完

新・私の本棚 8 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*里制再確認

 本論諸例でも明らかなように、秦制の六尺一歩、三百歩一里の関係の間に、十歩ー一畝、一里ー三十畝があり、畝は、農耕地の地券台帳などに多用されているので、里と歩だけを独立して動かせないのです。

*始皇帝不改訂の弁
 始皇帝は、諸国の行政機構を全壊させ、いわば更地に秦の法体系の機構を適用するので、大抵の新制度は実施できたのですが、周制と異なる独自里制は敷いていなかったので里制変更は実施しなかったのです。つまり、秦里は周里だったのです。そもそも、秦は、西戎、つまり、西域の蕃夷だったものが、周の指導によって、中原文化に属したので、諸制度は、周に従ったのです。以後、中原諸国から、指導者を招いたので、文明に浴していたのです。

 私見では、秦始皇帝が周里を温存したのは、土地管理、税制の根幹を揺るがすような里制改訂に、絶大な「経済効果」でもあれば別として、本意である精度の高い土地管理、徴税漏れや偏重のない適正課税に何ら寄与しない、どころか、全土に大混乱を招くのが必死だったので、重ねて秦初の里制改訂はなかったのです。何より、自身の国内土地制度を破綻させるような「里制」改訂に取り組むはずがないのです。

 記録にない「幻の周制」に基づいて里制改訂するとは、後世の魏朝皇帝は、とてもとても思いつかず、臣下も奏上しなかったのは、魏志によって明らかです。また、後年編纂された晋書地理志の記事から見ても、秦 漢 魏 晋を通じて、里制の変更はなかったのが明確です。

 魏晋朝短里説は、無理に無理の重なった仮説であり、早々に博物館に引退いただくべき至宝です。

*倭人伝短里説の是非
 以上のように、中原全土に及ぶ里制改訂は「意味なき夢想」ですが、それなら、なぜ倭人伝に短里が成立するのかということです。

 なぜなら、当時そう書いた、と言うしかありません。西域辺境は、中原領域と活発な往き来があり、時に西域都護府がおかれ、中原との交信していたので、里制も同化していたのですが、半島以南の東夷は、中原との交流が困難で、中原側も、現地の抵抗の多い里制改訂を強行しなかったのではないかと思われます。いやも、何も文献史料がないので、その辺りの事情は不明です。

*短里の由来談義
 周制にない短里は、前世(商殷)里制の形骸とも思われ、井田制以前の小規模集落時代のもので、古風として周朝近畿に生きたかとは、勝手な随想です。倭人伝行程道里記事を見ると、その時代その地域に短里が生きていたかのように見えますが、実は、これを証する記事は無いのです。書かれているのは、倭人伝の記事として「郡から狗邪韓国まで七千里と見立てる」との宣言だけなのです。

Ⅱ 中国本土の里数値
 後半は、「魏晋朝短里説」の当否検証ですが、前項批判で論じたように、当方は、全土里制の改訂は不可能と判断し、介入を避けます。

 長里は短里の五ないし六倍であるため、史料での判定が容易と見えますが、時代により、地名や地域観が大きく変わるための曖昧さと、原資料の厳密性の不足とが重なり、断定しがたいものとなって「百年河清無し」に見えます。(「河」は、年中濁流の「河水」つまり、大河「黄河の」ことです)お付き合いせず、申し訳ありません。
 また、その記事の里長が確定できたとしても、それは、その時代その地域で、道里測定がそのようであったと言うだけであり、全国制度を証するものではないのです。あくまで、得意な例外であって、それが、「普通」であったことを証する効力はないのです。そして、そのような例外が、手に余る数に上っても、無効であることに変わりはないのです。全国制度として実施されたことを証するには、帝詔などの公文書が必要であり、あるいは、後世史書や類書に収録されるものでなければならないのです。

*歩制の積み残し
 女王の冢の径百歩の歩数論は、ついにきっちりと語られていないのです。
 何しろ、「歩」が、尺から発した尺度単位なのか、土地制度に発した測量単位なのか、確定した意見が見られないので、論者の意見は動揺しているのです。国家制度の一環である以上、誤解しようのない明快な提議があるはずなのですが、里制論義に伴う泥沼に埋もれているのは、勿体ないところです。

                              この項完

新・私の本棚 9 後藤 義乗 季刊 「邪馬台国」第35号 「里程の謎」 再 1/1

  9 「「魏晋朝短里説」について 赤壁の戦いの用例の検討 後藤義乗
  私の見立て ★☆☆☆☆ 的外れの力作   2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 本論文は、極めて限定されていて、古田武彦氏が、倭人伝里程の「短里」が当時魏朝の公式里制であったと提言した論拠に、陳寿「三国志」の記事を提示したのに対する反論であり、当方が無理と見る「魏晋朝短里説」対象であり、論破すべき敵は、実はあやふやな史料で、それ自体、棄却に足りるのですが、折角の労を尊重して確認したところ、それ故に反論も不明確と言わざるを得なかったのです

*「問題の所在」
 普通、「問題」とは、解答の用意された試験問題のようなものと思いますが、ここでは、古田氏の提言が否定さるべき根拠を言うようです。現代人の書いた文章を現代人が、普通に、すらすらと理解できないというのも、困ったものです。

 氏は、シェークスピアのハムレットばりに、「それは問題だ」と目を剥いているのですが、原文に書かれているのは、questionに過ぎないのです。要は、設問が解けないと言っているのであって、難点を上げているのではないのです。
 あるいは、中高生の参考書、問題集を見て頂いたらわかるように、「問題」は、自身の知識と理解力を駆使して、読み解いて回答すべきものなのです。いつの頃からか、「問題」の二つの意味が混在して、行き違いを招いていますが、当誌に論考を掲載するほどの方は、そのような両義のある表現は避けるか、その場で補足して混乱を避けるものと考えます。

*史料批判

 本論に還ると、ここで古田氏によって論拠とされたのは、陳寿「三国志」「魏志」の陳寿原文ではなく、東呉関係者が編纂した「呉書」に準拠の「呉志」本文でもなく、「周瑜伝」への裴松之付注(裴注)の「江表伝」であって、陳寿は一切関与してない記事であり、裴松之も、校訂していないのですから、ここで説かれているように、古田氏が自説の論拠としたこと自体、まことに不適当です。
 まして、古田氏が、情熱をこめて、軍談中の「里」表示にこだわるのも面妖です。何しろ江水を軽舟で走っているのに、誰が彼我の間隔を測量したというのでしょうか。

*「赤壁の戦い」はなかった
~余談長文御免
 三国志は、曹魏、蜀漢、東呉の三国それぞれが、自国の国志を編纂していた原稿を、陳寿が集成したものであり、用語、視点ともに、必ずしも統一されていません。
 特に、いわゆる「赤壁の戦い」の取扱いは、三国志の各国志で異なり、「魏志」武帝紀には、赤壁の船戦で大敗したと書かれてないのです。

 時は、後漢末期とは言え、献帝建安年間ですから、曹操は、後漢丞相として「官軍」を率いて、長江(揚子江)中流の荊州に、後漢朝に対して不服従の刺史劉表討伐に向かい、劉表没後、荊州劉氏は献帝に帰服し、曹操は使命を完了したものです。
 曹操は、雒陽に帰還する際に、降伏した劉氏水軍を率いて下流南岸の孫権に接近し、穏やかに、曹操の陣に参上して、皇帝への忠誠を示すように要求したところでした。言わば、投降降伏勧告であり、孫権が応じていれば、曹操は、一兵も損ずることなく、東呉兵力を傘下に収め、南北平定を大巾に進捗させていたところです。
 因みに、降服した孫権は、いずれかの僻地に左遷され、歴史の闇に埋もれるところでしたが、配下の諸公は、所領を安堵され、地方領主として、安楽な余生を送ることができたはずです。

 ただ、当時、孫権に寄留していた劉備は、後漢の朝敵だったので、帰服した旧孫権将兵に討伐され、江南の地で消滅していた可能性が高いのですから、劉備は、孫権が降服しないように、懸命に説得したに違いありません。
 「三国志」魏志は、魏に主点が置かれていますから、劉備陣営の画策は、大きく取り上げられていませんが、形勢から見て、そのような流れが想定されます。

 周知の通り、孫堅は勧告に応じず、曹操は、荊州水軍を持って東呉水軍と対峙していたところ、自軍内の悪質な病気蔓延のため帰郷した
との趣旨です。それまでの曹操の敗戦につきものだった、勇将の戦死は見られません。別に、関羽をはじめとする敵軍猛将の追撃を辛うじてかわして、命からがら官道を逃走したわけではないのです。
 本来、曹操は、後漢丞相として、勅命で荊州討伐とともに逆臣劉備を攻撃しただけで、勅命にない孫権との「戦い」はできなかったのです。

 違勅も大敗も、親族連座の誅殺に値する極めつきの大罪であり、呉が吹聴するような大敗が皇帝の元に報じられれば、曹操はもとより、曹丕、曹植、正夫人など、近親は残らず斬首でした。

*いくさ自慢のほら話~「江表伝」史料批判
 孫権側は、荊州水軍艦船を悪質な威嚇と見て断固攻撃し、火攻めの詭計で大破して大軍を撃退したと自慢ですが、めざましい陸戦はなく、落ち武者狩りにも失敗したようなので、どの程度事実を反映したか不確かです。
 つまり、挙げられているのは、孫権麾下の水軍の手柄話であり、通例に漏れずほら話の正確さは論外なので、本論は名刀で幻を斬る態です。
 因みに、陳寿は、当然、東呉滅亡時に提出され、西晋帝室書庫に保管されていた「呉書」を通読した上で、呉志に採用したのですが、「江表伝」に描かれているような芝居がかった軍談は、もともと「呉書」に採用されていなかったこともあって、呉志に採用しなかったのです。
 裴松之は、劉宋皇帝周辺の意を拝して、あえて「江表伝」を補追したのですが、恐らく、不本意だったものと考えますし、その成り行きは、陳寿の知ったことではなかったのです。

*まとめ
 折角の論文ですが、丁寧に説きほぐしてみると、題材は、古代史論、特に、陳寿「三国志」の魏志の陳寿原本にない記事であり、従って、「倭人伝里程論」に場違いと考えます。いえ、ここで批判しているのは、ほら話や「演義」由来の余談を持ち出した古田氏の無法な提言であり、後藤氏は、言わば、軽率な対応でとばっちりを食ったのかも知れないのです。

                              この項完

新・私の本棚 10 谷本 茂 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

10 「周髀算経」の里単位について      谷本茂
  私の見立て ★★★★☆ 議論明快 関連不明             2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 冒頭の断定は、丁寧に言うと二段階に別れています。(丁寧に言うしかないように思うのですが、他人の趣味には干渉しません)
 ⑴「周髀算経」に記されている一里は、七十六㍍から七十七㍍である。
 ⑵ 倭人伝に記されている一里は、これとほぼ同じ七十六㍍から七十七㍍である。
 して見ると、一括して断定するのでなく、それぞれ独立して提唱された⑴,⑵の仮説が必然的に連動していると論証するか、それぞれの仮説、特に後者が自立して論証できるかの何れかが急務と思われます。

*結論

 途中の学術的議論は、当方の手の届くところではなく、推論過程に口を挟めるものではないので、本項は、大変簡潔にとどめます。

 率直なところ、本論は、倭人伝里程論とは別世界のものであり、氏が文献から算定した仮称「周里」と古田武彦氏が提言した倭人伝短里が、ほぼ同一長であっても、両者の間に論理的な連続性が見られない以上、そのような関連性が論証されるまでは、偶然の一致とするしかないものと思われます。

 論理的には、まずは、「周髀算経」 は計算問題として明解にたどれるような数字や計算式を設定したのであり、実際実施されていた里を保証するものではないと思われます。そして、魏晋朝代に、同等の「里」が。国家制度として寛く行われていたことを語るものではないのです。
 後者を言い換えると、「魏晋朝短里説」の論拠は何も得られていないことがわかるのです。

 氏には、周朝に於いて、そのような短里が、どのように成文化定義され、各国に徹底されていたものか、また、晋書「地理志」に代表される史書に見られる「周制」に定義された「普通里」といかなる関係があって、あるいは、両者併存していたと仮定できるのか、丁寧に究明する必要/責務があると考えます。

                          この項完

新・私の本棚 11 川谷 真 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

11 「末羅国放射式」批判           川谷真
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 未完成、不完全           2019/01/31 2019/02/08 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 論者は高校一年生。見聞が熟していないまま、軽率な屈託を進めています。

 書き出しで、謝銘仁氏と張明澄氏が、ともに中国人ながら解釈が一致していないとしていて、「中国人」は、同一の古文解釈力を有すると大々的に誤解しています。留学生や観光客に聞けば誤解とわかります。
 中国人にも広大な個性があり、特に、張氏は「普通」でないので、謝氏と同列評価できないのです。

 張明澄氏は、日本統治下の台湾で生まれ、12歳まで戦前の日本式教育、つまり、日本語教育を受けています。それ以降、中華民国の教育を受け、社会主義政権下の中国本土の中国人とは、言語教養が大きく異なります。そして、古文解釈能力は、個人の資質、教育、教養に帰すべきものであり、一括りに論じるのは余りに乱暴です。

 因みに、中国本土の中国人は、現代の日本を侵略国家として敵愾心を抱く教育を受けているので、古代史料である「倭人伝」などの冷静な考察が困難という事も無視してはなりません。
 いや、中国古典の教育は、反社会主義的な保守思想なので、そのような「文化」を棄却して、新時代の「文化」を採用せよという「文化大革命」の嵐が吹き荒れた時代、古典書の学習は反社会的とされたのです。ここに名の出たお二人は、「文化大革命」の濁流に呑まれなかったと思いますが、中国古典書の解釈に「中国人」が最適という保証はないのです。

 現代日本人にとって、解釈は「語学」問題、つまり、正答の用意された試験問題などではなく、歴史文献の解釈という実戦の世界ですが、国内史料に基づく頑固な意見(思い込み、ないしは、勘違い)が災いして、中国史料解釈の方途を見失っている方が大変多く(ほとんど全員)、多年に亘り混乱を極めている影響で、提示される論議は、堂々たる論理を失ったもので、発言者当人の感性、知性次第であり、まことに個性的です。後生の方(若い方達)は、真似しないでほしいものです。

 「語学的に決着がつけにくい」と言いますが、論者が「語学」に何を求めているのか不明であり、案ずるに、議論の出発点が全く間違っていますから、いくら考えても、「語学」から適確な回答は得られないものと思います。見当違いもいいところです。

*批判の提示
 続いて、批判と言えない誤解満載の(若者に似合わない)「グチ」が述べられています。

「遠い国を先に書くのは普通ではない」と断定しますが、「普通」の意味が不明です。同様に「道理はない」も意味の無い断言です。「倭人伝」の時代の史官にとって何が「普通」、「道理」か、「二千年後の現代、正当な教養を持っていない蛮夷/東夷の素人論者が知るはずはない」のです。

奴国記事が「簡単」で「差別」』とは、ものを知らない論者の偏見です。
   「倭人伝」に、奴国の詳細記事のない理由は不明「差別」非難は不都合です。直線式なら奴国を「差別」しても良いとする意味が不明です。
 要するに、「倭人伝」が「従郡至倭」と書き下した「倭人伝」道里行程記事に、行程順路を外れた奴国の紹介は、本来必要ないのです。このあたり、相談する相手を取り違えて、迷路にはまっている感じで、勿体ないところです。

奴国が博多付近」との「通説」は「漢文に弱い」日本人の勝手な解釈であり、加えて、国名と後世国内史料を安直に結びつけるのは不都合です。
 陳寿は、「国内史料」を一切目にしていないし、「日本人」に読みやすいように筆を矯めることはなかったのです。

『太平御覧「魏志」の「又」表現を信用すると放射式には「絶対」読めない』とするのは、史料批判不備の素人判断で「絶対」不都合です。
 「すると」と言うのは、そのように言い立てている人の見識不足の産物、つまり、誤釈であって、大変な誤解の可能性があるのです。
 丁寧に分析すると、御覧編者は史家でなく、類書編纂時に「普通」の古代知識不備で、誤引用史料で魏志を曲解した可能性が無視できず、太平御覧所引魏志は、魏志「邪馬壹国」を「耶馬臺國」と誤記したように誤記多発の可能性があります。(粗忽に引用すると、その度に誤記、誤写が積み上げられていく可能性がある/否定できないことは、「常識」です)信頼できない史料に無批判に寄り添うのは、論理的な自滅行為です。

 三木太郎氏の「倭人伝より古形をとどめたもの」発言が正確な引用とすると、氏は秘法で倭人伝紙背に古形を見出したようであり、不思議な発言です。史学は、神がかりの世界なのでしょうか。

 そのようなことは勿体ぶって発言するような人に、相談するのが間違っていたのです。


*不都合な指導助言

 伊都国放射式について、誰の意見か根拠を示さずに「語学的に無理」と決め込んでいますが、ここでも相談する相手を間違えたようです。

 既に、氏は、「語学的」な判断で正確な解釈ができないと断定しているのですが、この発言は「中学生でもわかる」自己矛盾です。自分で書いたことを忘れるのなら、読み返すか、信頼できる方に読んで貰うか、何れかです。それができないなら、顔を洗って出直すべきです。

 また、当特集で論じられるのは、文献解釈による「里程」論であって、「語学」、つまり、漢文の文法について審議したいのではありません。どうしてもと言う事であれば、意見を公開する前に、「語学」的な判断を文献批判して、適確な発言だと確証する必要があります
 不勉強な個人の私見を無造作に持ち込まれても、相手をしていられないのです。

 本論文について誰かの指導、助言を仰いでいるとしたら、それは、相談する相手を間違えたと言うべきで、本誌に寄稿するなら、安易な受け売りや思いつきでなく、自前の判断力と論考力の整備も必要不可欠と思います。

*課題論文の不出来~編集の不備

 結局、当方は、ここでも、論文としての体裁を備えない、論証のない、随想風の選外佳作論文を添削指導させられ、編集姿勢に疑問が募ります。安本氏の示した編集方針は、ご当人の目前で、風化崩壊していたのでしょうか。

 論文の校閲を怠り、不出来な文章を掲載しては、署名した当人の不名誉が、長く保存されるのです。担当編集者の氏名は、誰も伝えないのです。
 
                             この項完

新・私の本棚 12 中村 武久 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

12 「水行」の速さと「陸行」の速さ    中村武久
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 論考途絶、結論暴走        2019/01/31  2019/02/08 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 『「唐六典」をはじめ(とする)諸文献によって考える』との触れ込みで、興味深いのは、「水行」を河川航行とみて推定を始めることです。
 であれば、船速に河川流速が重畳され、流速の遅い江水、つまり長江(揚子江)の場合と流速の速い河水(黄河)のそれぞれで、遡行順行の差が異なるのも当然です。

 「唐六典」 は、公的な漕運の一日行程と運賃の協定内容を定めたものであり、自ずと、苛酷でも怠惰でもない妥当な範囲に落ち着いていたはずです。 他の文献も、同様に、文献としての目的があって規定するなり、記録するなりしているのです。史料として参照する際には、数字の意味を解した上で論議すべきです。文献として、特に目的を持たないとしたら、そのような落書きを参照すべきでありません。

 論者は、流速の影響を中和した船速で、静水に近いとみた海上水行は陸行五十里に近い速度としますが、驚いたことにそれが結論ではないのです。

*論考展開の無理
 氏の論考は、取り敢えずの所、一見、確たる史料に準拠した適確な推定と見えますが、八世紀の六典の河川水行規定を、三世紀の海上運行の基準とするのは、元々、無謀な時代錯誤です。

 詳細は具体的に論議するとしても、船舶の形状、重量、漕ぎ船と帆船の差、淡水と
塩水の違いなど、諸々の差異が、一切考証・評価できていないので、無理無体な暴論と考えます。

 まして、河川の場合は、並行する陸道の測量で、道里を設定できますが、海上運行では、それ大変困難です。特に、倭人伝記事にある「渡海」は、並行陸道がないので、道里の測りようがなく、従って、「唐六典」には、参照項目がないのです。

 甲板と船室のある大型帆船で、航路の確定した河川を行くなら、無寄港、一定行程で連日運航できても、甲板も船室もない小型漕ぎ船は、晴天日の日中だけの運行であり、日を重ねると漕ぎ手の疲労が激しく、とても長丁場の定速運航はできないのは自明です。しばしば、寄港して休息する必要があります。河流の帆走で、人馬を労賛意、つまり、労力(費用)の要らない河川航行とは、根本的に道理が違います。

 また、航路不定ないしは不明では、難船を怖れる手探りの水面下確認で、更に低速となり、ますます唐六典の規定は適用できないのです。

 更に重大なのは、唐六典は、明らかに「普通里」に基づくもので、倭人伝道里に対して時代錯誤となっています。

*河川水行と「海岸沿い水行」(??)の混同・錯誤
 合わせて、河川と海面の航行の違いについて明快な考察がされていないと思われます。
 そもそも、河川上の運送規定用語である「水行」は、海上運送には適用できないことを理解しなければなりません。「海」は「水」ではないのです。全て、古代の公式文書に、「海上を行く水行はない」とするところから始まるのです。ここまで、漢文解釈の規律から外れていたら、以後、倭人伝解釈は、迷走の一途を辿るのです。

 具体的には、狗邪韓国―末羅国間の「狗末」行程は、海上ながら、河川水流並み、ないしはそれ以上の激流海流を側面から受け、題材の河川遡行順行とは異なります。そのため、陳寿は、倭人伝行程は、中原の規定では律しきれないので、『海上運送だが、実態は渡し舟なので「水行」として扱う』と、倭人伝限定で提言しているのです。

 氏の論議は、万事、架空の当て推量で、実態と遊離しているので、忽ち、論理が崩れます。

*どんでん返し
 以上、善良な読者は、懸命に読解こうとしたのですが、氏は、最後近く、日程記事を里数に換算したとき、(結果が)短里との「保証はない」と突如逃げます。取り残された読者は、短里に換算すれば短里が出るだけ、と解するので、突然の敵前逃亡を奇っ怪と歎くだけです。別に、氏に、短里制を「保証」してくれと懇願したわけではないのです。むしろ、こうした浅薄で勘違いだらけの「保証」は、ない方がましです。

 続いて、突然、正史「晋書」ならぬ、その存在すら不確実な佚文資料「晋紀」の漠たる表現を根拠に、冒頭提言に反して魏晋代一日行程を長里四十里として脱線し、勝手読みで伊都国~邪馬台国区間を陸行一月としておいて、実距離百㌖に一月は不合理とその場で転倒します。根拠不明。論理不明の衝動的見解は、読者の頭から泥水をぶっかけるような「サブライズ」であり、論考として無茶です。

 このように、筋を通そうとしていたと見える論考を、いわばちゃぶ台返しして、いたずらに混沌を掻き立て、倭人伝記事の目的は所要日数であり、里数・方位は虚飾と放言します。このどんでん返しは、まじめな読者を愚弄するものです。なぜ、一発退場にできなかったのか、不審です。

 これでは、まじめに、倭人伝の行程道里の意義を論じているものは、みんな、氏と同類のペテン師と見なされては、溜まりません。そうでなくても、歴史学の研究者は、みんな嘘つきだという趣旨の放言が出回っていて、迷惑しているのです。

*結論
 氏の論考は、具体的な史料に基づいて開始しながら、中原大河から海面、さらには、実情不明の国内河川にと、適用対象が動揺して不確かであるために、論理が錯綜したことに自身が耐えられず、破綻と感じた着実な論考を無残に放棄して、独断に堕しているのは、読者として耐えがたい乱行です。

 とても、学問の道とは思えません。
                             この項完

新・私の本棚 13 道家 康之助 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

13 「黄道修正説」は誤りである      道家康之助
  私の見立て ★★★★☆ 堅実、確実な論考            2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 一読理解しがたいタイトルですが、我慢して読むと、本論は、一部「トンデモ」倭人伝論ですが、
 『古代人は、太陽観測によって方位測定し、地軸の傾きの角度だけ「黄道」の修正を行っていたため、倭人伝の「東」は、現在言う東北東の方位だったとする理不尽な「黄道修正説」』
 への反論です。ついつい、氏の論旨を誤解させてしまいそうで、恐縮です。

*結論
 当方も時々力説するように、正確な方位は、簡単な太陽観測により容易に検出でき、太古、稲作集団の君主の任務として、春分、秋分を含む二十四節気の精度高い宣言が求められていたことから、当然、日々の太陽南中を観測し、南北方向の劃定、付随して東西方向の劃定を行っていたのです。

 太陽観測というと大層に思えますが、少し噛み砕いて言い直すと、日時計を立てて、影を見るだけでも「南中」が観測できて、南北が確定し、後は、南北線に垂線を立てれば、東西が得られるのです。別に、壮大な石造建築は不要であり、また、高度な科学技術も不要なので特に高度な技術を要せず実現できたのです。
 精度を高めるために、大規模にするとか、長期間の記録を残すとか、状況に応じた努力が注がれていたはずですが、日常の用に適した程度であれば、一㍍程度の棒があれば良く、周辺の建物に、東西南北の表示を木札などで示せば、十分なのです。もちろん、それは、首長の所在でしか示せないのですが、方法さえ呑み込めば、どんな遠隔地でも実施できる物なのです。
 例えば、遠来の使節であっても、滞在地で、木の棒を入手すれば、たちどころに方位を知ることができるのです。初見の地ですから、随員が、たちどころに四方方位を確定したでしょう。
 因みに、手っ取り早い方法としては、日の出~日の入りの方角を直結すれば、それが、東西線であり、東西線に直行する線を引けば、それが南北線なので、大まかに四方を知ることができるのです。大まかというのは、その地で、地平線、水平線が見えないときは、山並みに接する方角しかわからないと言うことですが、それで十分であれば、そのような四方を知ることができるのです。

 つまり、天動説を知らなくても、日時計のある場所の東西南北は明白だったのであり、「黄道修正説」など無用なのです。

 それにしても、理不尽な一説にも理路整然たる反論を行うというのは、素人には徒労と見えるのですが、本論は、労を厭っていないので絶賛するのです。これで、とどめが刺せているものと信じます。
                             この項完

新・私の本棚 14 早川 清治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

14 「魏志」「倭人伝」の方位        早川清治
  私の見立て ★☆☆☆☆ 論考不在、疑問山積         2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、「人は、自身のいる地点での正確な方位を知ることが困難だという非科学的、かつ情緒的で理不尽な見解を読者に押しつけている」ものであり、そのために、倭人伝方位は、時に大きく錯誤しているという説です。さすがに、郡から狗邪韓国までは、郡に既知の行程であったから、その間の方位は正確として、それ以後は、魏使の誤解が連発していたと言うものです。

 そのような理不尽な見解を学問的仮説と言うには、確実な論証が論者のけじめというものです。これでは、論者が合理的な思考ができず、検証努力を怠って、思い付きを言い散らす悪癖の持ち主だと語っている(自嘲している)ことになります。まことに、勿体ないことです。

 なぜ、誰も、自滅的発言をやめるように忠告しないのでしょうか。

*方位混乱説の背景
 要は、氏が倭人伝を解釈したところでは、九州島到着後の行程の方位が、氏が比定した諸国間の方位に合わないとして、そのような無理を唱えるのです。その根拠として、論者は、自身の体験と称して、半ば自罰的に方向音痴を語ったのですが、それが、古代人に通用しないことは自明であるから紙数の無駄です。氏の倭人伝解釈、氏の諸国比定と方位解釈のそれぞれが、適確なものだという検証が抜けていますから、無意味な発言です。
 要は、自分が正しいに決まっているから、陳寿が間違っているに決まっているという論理ですが、勝手なものです。

 古来、現代の素人のうろ覚えの知識や体験をもとに、古代人の錯誤を論ずる例が多々見られますが、それは、現代人のいい加減さを語っているだけであって、古代人の見識を見くびった愚考に過ぎません。現代の読者や聴衆を騙せても、学問の徒は騙せないのです。

 いや、堂々と、「狗邪韓国から末羅国は、東南であって南でない」と頑張っていますが、これは、別の意味で錯誤です。
 倭人伝冒頭で「倭人は帯方郡の東南」としていますが、これは、帯方郡治から倭人の王治を見たとの想定で、八分方位で書いていて、行程に際しては、八分方位で言うほど厳密な方位観が得られないのを想定して、概ね南とか言っているのです。

 又、陸上行程では、追分でどの道を行くべきか指示するもので、後は道なりに進めば良いから、書かれているのは出発点の道しるべに書くような方位でよいのです。

 それぞれの方位には、それ自体の意義と有効性が付いているので、大人は大人の読み方をすべきです。まして、知的な嬰児は、言うまでもないでしょう。そうした解釈を経て、やはり、古代人が方向音痴だったと主張するのなら、それなりの信を置くことができますが、本論の目的は、里程説の解釈であって、古代人の方向音痴の立証ではないのを忘れています。 

 場違いな方位観、綿密すぎる照合・校正は、古代人には無関係で、かたや、魏使随行の専門家集団は、現地の情報提供がなかったとしても、少なくとも、毎宿泊地での(数日どころではない)天測で正確な、つまり、かなりおおざっぱとしても、実用になる程度の確かさを得ていた方位を得ていたでしょうから、論考に書き足されているような時代錯誤の余談は無用なのです。
 それとも、当時の関係者全員が方向音痴で、それが、洛陽の陳寿に伝染したというのでしょうか。大胆な思い付きですが、検証可能でしょうか。

*結論

 当論文を通読して感じるのは、魏志の行程道里を勝手に解釈して展開し、それでは、「実際」、つまり、氏の思い付きである勝手な「比定地」 と「行程道里」に合わないから、辻褄の合うような方位間違いを主張するという本末転倒の展開です。
 このように手ぶらでできる難詰は、言う方だけ気楽な混ぜっ返しに過ぎません。無責任なヤジは厳禁です。

 ここまで出てきたように、それは足に合う靴を探すのでなく、手に触れた靴に足を削って合わせる愚なのです。それでも、自分の足を削っても痛くも痒くもない人は、なんの苦痛もないのでしょうが、一般の人は、身を削る痛みには耐えられないのです。

 そろそろ、勝手読みの行程道里解釈で方位読替えすることに、学問的に意義があるどうか、必要かどうか、まじめな論考を聞きたいものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 15 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

 15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程 山田平
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 疑問山積、無意味な展開     2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 正直言って、国内史書は、当方の「圏外」なので、論議を避けたいところです。氏は、日本書紀(書紀)の不可解な点を一つでも減らそうと、一大仮説を提示しています。但し、倭人伝の書かれた時点で、「日本書紀」は、影も形もないので、倭人伝解釈の根拠を求めても無意味です。

*倒錯旅程の謎
 書紀の編者は、乏しい史料記事を素材とした「フィクション」の構築、つまり、史書の編纂にあたって、書庫の魏志史料の記事を参照して、まずは、神功皇后の所伝の基礎として、卑弥呼と壱与の遣使記事を、晋起居註まで取り入れて利用し、さらには、倭人伝の旅程記事を倒錯して焼き直し、神功皇后の新羅侵攻記事の旅程に利用したとしているのです。まことに、持って回った手前味噌ですが、それが、倭人伝里程論に何の関係があるのか、ついていけません。

 議論が倒錯しているのか、転覆しているのか、素人には、見当もつきません。ここでは、倭人伝里程の議論が求められているのであり、書紀の辻褄合わせ論議を求めているのではないのです。

*結論
 いやはや、大変な大事業ですが、何のためにそこまで無理に無理を重ねて、書紀の再解釈に努めるのかわかりません。

 無資格の門外漢とも見られかねない方が、堂々と私見をここに公開する気が知れません。

 素人考えで恐縮ですが、倭人伝談義に、何らかの外部資料を持ち込むなら、『当該資料の依拠資料、編纂過程、編纂者の身元/素行調査、原本の現時点での所在、現存写本の信頼性、各刻本の実態など、三国志に対して要求されたと同様の大量の身元資料を提出するのが「常識」ではないでしょうか。そこから、はじめて、倭人伝規準で言う外部資料/外国資料の史料批判ができるわけです。
 そこまでの試練を経ても、史料自体と対等の立場ではないのです。

 議論は、起点の確立が必要です。別世界、外国の視点を無造作に持ち込むのは、学問の道を外れています。
 精神論のように聞こえるかも知れませんが、科学的な観測/測定 では、観測/測定に使用する機器、依拠する原器/物差の校正が最初に成すべき事なのです。
 物差が違っていては
、議論が成り立たないと言うだけです。

                              この項完

新・私の本棚 16 謝 銘仁 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

 16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観        謝銘仁
  私の見立て ★☆☆☆☆ 発見無し   2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 本論文で説かれるのは、「倭人」の地理観であり里程論ではありません。つまり、課題を見失った場違いなのです。
 倭地が、漢書地理志で紹介された海南島、朱崖、儋耳と対比されていると見えることの背景を述べていても、だからといって格別に斬新でないように思います。別に謎でもない話題に、別に斬新でもない解を与えているのに、掲載する価値はあったのでしょうか。
 いえ、謝銘仁氏に求められているのは、長年の論争のほんの一部でもいいから、闇に一条の光を当てる論文と思うのです。

*倭人伝史料批判
 倭人伝の中で、倭地の風土、風俗を、海南島、朱崖、儋耳のものと対比しているのは、明らかに洛陽人の意見であり、最終的には、陳寿の見識と見なすべきだという事に異論はありません。但し、そのように概観した背景は、論ずる余地があると思います。
 付け足すなら、同じ倭地でも、玄界灘沿岸と「薩摩」とでは、大いに異なるように感じます。温暖と言うより暑熱の海南島と対比されたのは、どちらなのでしょうか。

 まずは、倭人伝里程記事を当時の里長で絵解きすると、倭地は海南島にも及ぶ南方に展開しているから、引き合いに出したという理解です。この解釈を言い立てるのは、畿内論者が多いようです。魏志行程を、何か何でも、わが地に引きつけようとしているようです。

 あるいは、当時の中原人の地理認識で、漢書地理志によって海島として、ほぼ唯一知られていた海南島と、倭人伝で初めて対比例として紹介された東夷倭人の住む海島とが、「世界にただ二つ、海島という点で共通している」との視点から、ここに海南島の海島風俗を取り上げたという理解です。

 当方の意見では、陳寿は、倭人伝の里程、方位が、正確、厳密なものでなく、むしろ、不確かなものであると認識していたのであり、倭地がどの程度の南方か確言できないと見て、漠然と比較したと見るものです。

 当方は、陳寿の倭地地理観をそのように見て、その主旨から理解しているものであり、前者の理解に立つ論に対して、一考に値する、言下に棄却すべきでないと信ずる異説を立てるものです。

 さいわい、氏は、文献解釈の大家であるので、このような異説を無下に廃却しないものと信じて、ここに提言します。

*結論
 謝氏ほどの権威から、中国人ならではの語学解釈が聞けないのは残念です。また、氏ほど博学なかたが、裸国・黒歯国記事解釈で足元が乱れるのは残念です。
 一旦、「また裸国・黒歯国ありて、さらにその東南にあり」と書いておいて、ただちに「裸国・黒歯国は、さらにその東南にあり」と言葉を変えるのは不可解です。そもそも、見るからに字数稼ぎ、不体裁で、この程度の不体裁は、編集部で校正してほしいものです。
 「船行一年」を、そのような「航路」と論じていますが、そもそも、倭人伝時代に「航路」なる言葉は「ありえない」のに、根拠不明で両断するのも不可解です。
 とは言え、「航路」、あえて解釈すると、「一種の街道」が確立されたほど往来があれば、一年の航行の間の停泊地が必須です。中国古代文に堪能なはずのかたですから、「倭人伝」にとどまらず「三国志」にも用例のない「航路」の意味、さらには「路」の重大な意義はご承知と思いますから、出し惜しみせずにご教示いただきたいのです。

 手の内を見せないために、高校生に揶揄されるようなはめに落ちているのではないかと危惧します。

 と言うことで、本誌の特集に、この程度の随想しか寄稿されなかったことに、大変失望しているのです。まさか、早々に、殿堂入りして「レジェント」扱いで、神棚に登って満足されたのかとも思えないのですが。

                             この項完

新・私の本棚 17 まとめ 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

                      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09
〇総評に代えて

 以上の通り、一介の私人としての全力を振るって、全論文の書評を試みましたが、ここまでのブログ記事で、独自見解と示唆して公開している私見で、知らないうちに先人の見解を勝手に下敷きにしていたものは無いようで、ほっとしています。

 編集部の総括を参考に読解を試みたのですが、ここに総力特集を提示したにも拘わらず、依然として混沌たる状況に見えて不満があります。
 特に難があるのは、「里程の謎」と題して、「謎」の解法を募ったはずなのに、見当違いな論説を寄せている論者が、結構多いのである。特に問題なのは、「倭人伝」の文献解釈をはなから放棄して、つまり、難題に降参して、「思い付き」を展開している例が少なくないのです。
 結果として、ここに衆知を集めたにも拘わらず、「謎」の解明か進まなかったということです。

〇方位感の確立について

 一つには、倭人伝の里程方位は、魏使が日の出方位を真東と誤解したために方位記録を間違えたという、低級な愚説が廃却されていないことです。

 古代人は、方位を非常に重視していて、国王居所は、当然、正確な方位感で建てられていたので、訪問者は、方位を聞く必要がなかったのです。そのような方位感の確認は、交流の大前提であり、訪問者が日の出方位で勝手に方位感を更新するなどあり得ないことです。

 無駄覚悟で深追いすると、帯方郡民の魏使は、郡地の日の出が、季節によって真東から外れることは、承知していて、倭地に赴いても、季節による方位認識の誤解は、あり得ないのです。俗説は、随分、古代人の知性を見くびっているのに驚きます。

 当時の方位認識は、太陽観測から得られていたのは明らかですが、その観測精度は、小振りな日時計程度から、夏至冬至を確定するための高度観測も可能な大規模施設まで種々考えられます。観測点での測定精度確立は、国王威信の根拠であるため優先的に施設整備し、広く誇示されていたのです。
 ただし、里程の方位の目的は、道案内であり、方位精度は大まかで十分だったのです。

 以上、ものの道理を尽くした個人的な最善の考察であり、軽薄な現代人感覚を強く打ち消すために、強い表現をとっていますが、別に、史料、遺跡、遺物を得ているわけではないので、漠たる思索との批判は甘受します。

〇誇張説の廃却
 今となっては意義の無い「誇張説」は、廃却されるべきと考えます。
 誇張の根拠である実態里長論は地名比定の余燼として「誇張」と切り離し、時代錯誤で非科学的な「陰謀」説は、史学論争から排除すべきでしょう。

〇魏晋朝短里説の廃却~「倭人伝道里」待望
 本説は、編集部が総括したように、本質的に無効な主張であり意義の無い一説に過ぎないのです。そして、魏晋朝短里説を廃却しても、地域短里説は微動だにしないのです。
 丁寧に言うと、郡から狗邪韓国まで七千里、全行程一万二千里との二点が比定されない限り、これらの「道里」は、四百五十㍍でなく、七十五㍍でしかないのです。
 いや、それは、当時の漢魏帯方郡管内で、一里七十五㍍が制度として施行されていたと主張しているのではないのです。倭人伝の道里が、七十五㍍基準で書かれていると言うだけなのです。帯方郡地域短里説と区別するとすれば、「倭人伝道里」説と呼ぶべきものです。

 無効な主張の細部に対して反論すると、本説は有効と見なされて、論争の収束に逆行するので、曖昧な反論はすべきでないのです。
 
〇まとめ
 本号の絶大な努力に拘わらず、里程説の「謎」は、原初の混沌が、一向に晴れないことから、古代史論争の決着は、今後とも、永遠、遼遠と見るものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                             書評完

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