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2021年12月

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26 2024/04/29

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*序章「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英弘氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、なぜ身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。
 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26 2024/04/29
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝」は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

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*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*局地里制の先人
 古田武彦氏を始め多くの論者が主張している「短里説」だが、論拠は「三国志」内里制表記であり、「倭人伝」が「独自基準」の局地里制を宣言、採用していることを根拠とした説は記憶にないので、先例をあげることができない。

*図形表示技法の提案
 あえて言うならば、安本美典氏が、地図上で、帯方郡起点で狗邪韓国まで七千里ととしたとき、狗邪韓国起点で五千里の円を描いて大体の範囲を示していたのが想起される。
 補追:この「想起」は不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。
 安本氏は、藤井滋氏の提唱を引用して、帯方郡基点で万里となる末羅国を起点として、二千里の範囲にあるという指摘であった。(2021/12/26)

*倭人伝里数考察 明解な読解き
 一方、里数に対する後世史家の見解だが、衆知の如く、「倭人伝」の里数に修正を加えて書いた「倭人伝」修正版というのはついぞ見かけない。いや、近現代国内での論説は別としての意味である。
 それは、中国側により現地踏査が行われたであろう後も変わっていないように見受けられる。 隋、唐、北宋などは、「倭人伝」里数の現地検証は可能であったと思われる。
 特に、隋唐時代に、数度の使節来訪があり、随行書記官により、現地調査での里数検証の機会はあったと思うが、「倭人伝」里数記事が修正された、あるいは、付注されたと言うことは聞かない。
 つまり、「倭人伝」の里数表示は、帯方郡から狗邪韓国の間が基準として示されているから、資料として正確であると見たと思われるのである。
 そのような考察を怠って、「過大」の一言で切り捨てるのは乱暴に過ぎるのである。

 補追:この「考証」は、不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。 (2021/12/26)
 中国正史で、先行史書の訂正は、極めて希である。訂正しても、正史として、歴代王朝に公認された史書を訂正するのは、禁止事項であったのである。許容されているのは、裴松之の付注で見られるような「補注」であり、本文と区別の付く形で追加するものである。中国では、写本継承は、極めて厳格に精査されたので、補注が原文に紛れ込む異常事態は、稀少である。

*戸数について
 岡田氏が、倭人伝の戸数を過大とみた理由は、里数ほど明確でないので、以下当て推量を試みる。
 女王国(壹臺論回避策)の戸数が七万戸と書かれていて、先行する諸国戸数を合計するとすでに七万戸であるから、三十国の総戸数は(書き漏らしているが)十四万戸を越え、当時の情勢から見て過大という論理と思われる。
 以下、これが、必ずしも確実な議論でないことを、追々説明する。

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倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 4/8

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*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*総戸数説
 これは、女王国の戸数七万戸が、三十余国の集合である倭国全国の戸数の内数であるという推定から出ているが、これは、あくまで、倭人伝戸数記事解釈の「一案」であり、氏の議論は、全てこの「一案」に立脚すると見るのである。
 因みに、晋書「倭人伝」によれば、七万戸は「倭人」の総戸数であり、奴国二万戸、投馬国五万戸は、内数となる。全体に通じる「余」は、程度にあたる概数表現であるので、全国戸数の積算は、七万戸に収束すると見て良いということである。詳しくは、長くなるので、後記する。

*「倭国伝」の試み
 「倭人伝」のかなりの部分は、帯方郡使の書記役が記録したと見られるが、定説は、帯方郡から女王国への行程総里数は必須として記録されても、同様に重大な総所要日数は書かれていないと見ているようである。同様に、全三十国の総戸数は書かれていないと見ているようである。読者が計算担当に見える。
 これに対して、本論は、「倭人伝」は「倭国伝」を目指して書かれたと見ているので、総日数と総戸数の記録が無いのは体裁不備と見る。
 そうでなくても、「倭人伝」が、読者たる皇帝を初めとする知識人に、煩雑な加算計算を強いたと見るのは、何かの勘違いであろう。漢数字の加算は、そう簡単ではないのである。
 私見であるが、「倭人伝」は「伝」の要件を意識して書かれたと見るものである。これが、本論の一つの提案である。

*戸数論再訪 明解な読解き
 女王国七万餘戸は各国戸数の合算を下回るので倭国総戸数と見ることができないというのは、概数合算算術の理解不足が一因と思われる。

*帯方流「餘」の解釈
 倭人伝で、里数、戸数ほぼ全ての「餘」が端数の切り捨てと見るのは「読み違い」であり、四捨五入的概数「略」(ほぼ)と読むべきではないかと見ている。
 「略二万戸」と「略五万戸」を足せば「略七万戸」であるが、それは、六万戸程度から八万戸程度の範囲内のどこかであって、七万戸を上回るとは限らない。数学記号で言うと、≒であって=ではない。

*概数計算の妙味(ほめ言葉)
 次に、大国の万戸台の戸数に千戸台の中小国の個別戸数を足す計算であるが、概数計算では、桁の異なる概数の漢数字を、多桁の算用数字に「翻訳」した足算計算は勘定が合わないことか少なくない。

                                         未完

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*加筆再掲の弁
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*戸数の意義
 それ以外に考慮すべき要素として、女王国の中の女王直轄地たる居処地域が、千戸台の戸数しか備えていないと思われることが挙げられる。
 すでに、政治経済の中心として重要な伊都国の戸数が、少ないことが話題に上っているが、それは、戸数の意義を理解していないからである。
 戸数は、戸籍上のものであり、壮丁の人数、つまり、軍人として召集可能な人数の計算根拠である。
 伊都国のような経済活動区や王治は、まず、農業人口が少なく、また、後世の国家公務員に相当する首都圏居住者は、多くの場合、税務、軍務、役務が免除ないしは軽減されるので、戸数として計上しないことがあるようである。
 論拠は明示できないが、妥当ではないかと見る。

 補追:倭人伝冒頭に「国邑」と書かれているように、対海、一大、末羅、伊都の諸国は、太古の中原諸国のように、王の居処を隔壁が取り囲んでいる聚落「国家」であり、広く領域を確保した「古代国家」ではないと見られる。従って、戸数は、せいぜい千戸台であり、山島、洲島を占めているので、隔壁を持たないとしても、周囲は「大海」で囲まれていることになるから、国の広がりは、言うだけ無意味なのである。(2021/12/26)

*戸数の精度
 三国志全体を検証したわけでないが、諸史の郡国志などに従うと、戸籍制度が徹底した地域の戸数集計は一戸単位の正確さであった
 つまり、帝国の全国を網羅する戸籍が整っていて、戸籍台帳に記載された数値を集計しているから、正確な計数が可能であり、それを正確に集計するから一戸単位なのである。
 戸数、口数は、帝国経営の基本であり、税務、軍務、そして役務の根拠であるから、正確でなければならない。戸籍制度維持、管理は、同じく、国政の基である。決してゆるがせにできないのである。
 従って、戸数計算では、当然、部分の総計が全体となり、「倭人伝」にあるような、戸籍もない未開の土地の戸数計算の参考にならない。

*「倭人伝」は概数世界
 このように、魏志の他の部分では、精緻に戸数計算されているから、「三国志全体」を読んだうえで「倭人伝」を読むと誤解しても無理はない。「倭人伝」は、おおざっぱな数が横行する概数世界に適した用語、文体を取っているのである。

 物事を緻密に調べれば調べるほど、真実から遠ざかるという事例もあるのである。  

                                                 未完

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                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26 2024/04/29

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*未開の国の未開のデータ
 戸籍がない国の戸数の出所は、大抵、国主の「やまかん」であり、戸籍データの裏付け、根拠はないから、当然、概数、それも、荒っぽい概数である。
 その証拠に、表示数字は、一から九まで揃ってなくて離散している。七と八の共存例は見つからず、一または二,五,七または八と進んで桁上がりし、一万の次は一万二千、一万五千と飛ぶようである。小林行雄氏の言う「おおざっぱ」である。あるいは、松本清張氏の言う「奇数」偏重である。
 元に戻って、帯方郡ないしは楽浪郡は、正確な戸数の得られない実情がわかっているから、遼東郡太守公孫氏に、おおざっぱな戸数を計上したのであろう。

*先人の足跡
 晋書「倭人伝」では、女王国戸数七万餘戸が倭国三十余国の戸数総計であると明記されている。これが、倭人伝戸数の順当な読み方である。
 『邪馬台国の全解決』(六興出版)孫栄健著で発表され、榎一雄氏が紹介、批判している。
 「邪馬台国に関する孫栄健氏の新説について」初出 季刊邪馬台国。榎一雄全集第八巻収録。
 榎氏の批判は、孫氏のその他の諸提言もろとも、大変手厳しく、ほぼ全面棄却となったようである。

 榎氏は、『「晋書倭人伝」は、全体として「魏志倭人伝」の不出来な要約であり、戸数論議も依拠すべきでない』と批判しているが、悪例で全体を処断する論法は、榎氏自身が、かねてから囚われるべきでない論法と戒めていて、その現れで、戸数表記自体は、さほど批判されていない。
 つまり、女王国、即ち倭国三十国、総戸数七万戸説自体は、榎氏によって否定はされていないとみる。

*戸数論の定説への影響
 現時点で、以上の戸数解釈は、定説を損なうので採用されないものと思う。遺憾である。
 因みに、当方は、当該論説を知らずに「郡国志」論から独自に思いついたことを申し上げておく。

*里数計算再び
 文書通信を最重視した魏武曹操を例として、道里、即ち、街道里数、所要日数は帝国経営の基本であり、街道と宿駅の維持は責務である
 さすれば、里数計算では、部分総計が即全体となるが、倭国は未測量で、街道未整備の荒地であるから、杓子定規に援用できない。いずれにしろ、倭人は、域外の夷蕃であるから、魏制に従っていなくとも不思議は無いのである。
 因みに、三国鼎立時代、蜀漢、東呉、それぞれの戸籍と土地台帳は、曹魏の圏外だったので、それぞれ、蜀志、呉志に収録されていても、魏志には、収録できなかったのである。それが、三国志の成り立ちである。

                                                    未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26 2024/04/29

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*岡田氏の限界
 以上の観点に立てば、「倭人伝」の戸数、里数は、決して過大でないが、それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので、岡田氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。

*古田説批判
 「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では、むしろ無効である。
 たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を、倭人伝に一切根拠の無い、「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工の帳尻合わせは必要ない。まして、記事冒頭の架空の「水行」行程の臆測道里を取り込むのも、無意味である。

 史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
 このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。

*古田氏の限界
 古田氏が、東夷伝、「倭人伝」独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
 いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである

*倭人伝道里事情
 景初年間以降、魏天子の直轄となった帯方郡は、文書使の往来を通じて倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであると承知していたのである。
 全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都-倭の最終道里を書かなかったとも見える。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
 先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
 それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。

*追記~2023/06/27
 であるが、道里記事が起草され、全体道里が万二千里と記帳されたのは、「後漢建安年間」の公孫氏時代であり、その時点では、伊都国が「倭」であったと推定される。帯方郡創設時点に近くなって、女王を共立し、その居処として「邪馬壹国」が設けられたと「時代考証」すると、「後漢建安年間」には、「邪馬壹国」は存在せず、先に述べた「伊都-倭」道里は、存在しなかったことになる。その後、初年間に、魏明帝が、帯方郡太守を派遣して、直轄体制にしたときには、女王が君臨し、伊都国を従えた「邪馬壹国」が存在していたが、道里記事に書かれた文書通信所要日数規定は、変わらなかったと見える。

*放射道里説
 榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
 『「伊都国」が実質上の倭人王治であり、そこから各国に至る里数が知られていた』という提案には、重大な意義があると思う。

                                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 8/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26 2024/04/29

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*伊都国王治論批判~批判
 榎氏が創唱したと見える「放射道里説」に対する主たる批判は、中国史料で「放射道里」が書かれているのは、起点が王治所など地域中心の場合だけと頑強であるが、それは、「倭人伝」が、そのような厳格な基準に基づいて書かれたという前提に基づいたものであり、「倭人伝」の当該部分が、帯方郡の書記官によって、「倭人伝」独自筆法で書かれたとすれば、当てはまるとは限らない。そして、陳寿は、史官の本分に従い、魏代の公文書、つまり、皇帝公認の公式史料に忠実な史官倫理を「旧套墨守」したものと思われる。
 「倭人伝」解釈で、二千年後生の無教養な東夷の「思い込み」は、しばしば「曲解」につながるのである。

 「首都」は、恐らく、魏朝初代皇帝曹丕の造語であり、後漢末期の動乱の結果、後漢献帝の流浪により、帝詔が洛陽、長安、鄴、許都などから発せられて混乱しているのに対して、『後漢の天下を継承した以上、総ての「都」は有効であるが、天子の治所雒陽を「首都」とする』と宣告したことから来ている。
 中国史書の語法に従うと、首都は、天子の居処であり、蛮夷の王の居処に用いるのは、大逆罪であるから、「倭人伝」論では、避けるべきである。

*全ての道の通じるところ~補充 2021/12/26
 いつの間にか、伊都国が実質的な首都かどうかとの議論となったが、海峡交易の要(かなめ)であった伊都国は、交易中心にして物資集散地であり、実務上、各国への里数が知られていたと考える。
 漢書では、地域の交通の要は、すべての人と物資が会する処であることから、「一都會」、「一に都(すべ)て会す」と評していたが、陳寿は、ここでは、そのような迷走は避けている。そもそも、中国語に於いて、「都」に「みやこ」の意味が付託されたのは、「王」が、交通の要に治所を定め、市(いち)を開設したためであり、本来は、「すべてが集う」という意味であり、多くの場合、今日に到るまでその意味が貫かれているのである。これは、日本語での「都」の意味と随分異なるので、史書の解釈で、「思い込み」に惑わされないように注意する必要がある。

 余談ながら、現代人が、これを漢書の新語「都會」と曲解しているが、何とも珍妙な時代錯誤である。漢書の編者班固は、史官の伝統を堅持していたから、そのような生煮えの新語は採用しないのであって。単に、文字の連なりに過ぎないのである。とかく、「都」は、後世人に誤解されやすいのである。

*「倭人伝」の主題
 ともかく、「従郡至倭」、つまり、公式史書の作法に従って、帯方郡起点で書かれている、内陸の帯方郡を発して一路南下して「女王之所」に至る行程と里数、日数記録が「倭人伝」の主題である以上、伊都国から女王国直行であり、他国経由の道草行程は書かれてないと思うのである。
 念のため言うと、世上で「定説」とされている「魏使訪倭経路」説は、大胆な読み替えであり、また、「倭人伝」道里の書かれた時点と齟齬しているので、一言で言うと「大きな勘違い」である。多くの先賢が、この「定説」に合わせて、「倭人伝」道里記事を「曲解」しているのは、勿体ないことである。要は、陳寿の筆の運びに合わない見方は、いかに現代風の精緻な論理に裏付けられていても、陳寿の真意を見損ねていて、単なる「誤解」、「曲解」と言わざるを得ないのである。

*結末 明解な読解き
 岡田氏の言説に対する反論が大きく膨れあがったが、端的に言うと、この程度の考察を踏み台としない、性急な断定は、大抵の場合、軽率の誹りを免れないのである。威勢の良い発言で、異論を一蹴、排除するのは、大いに俗耳に訴え、大いに俗受けするので、止められないのであろうが、論理が主役であるべき学問の世界では、的外れ、心得違いというものである。

 当ブログ筆者は、太古の賢人「墨子」にならって、なろう事なら「尚賢」でありたいと思うのである。

                                                                      以上

2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞夕刊「今どきの歴史」 2019年4月 歴博記事の怪 再掲

                      2019/04/22 2021/12/22

*厄介な提灯持ち
 今回の題材は、配達されたばかりの毎日新聞大阪3版夕刊文化面に記載されているかこみ記事である。旧聞であるが、深刻な問題を含んでいるので、再掲した。
 歴博「先史・古代」展示を一新  新年代が変える定説
 と、厄介な意見を書き立てている。

 当たり前と思うのだが、歴博が展示を一新したとして、それで「定説」を変えることなどできるはずがない。定説は、例えば、学界の大勢が支持するから定説であり、特定の一機関が、途方もない大声を上げたからと言って、それだけで「定説」が変わるものではないと思う。
 それとも、毎日新聞には、定説を変える権威でもあるのだろうか。

 そもそも、そんな雄図があるのであれば、堂々と記者会見の場で発表して、資料公開すべきであるが、ここに掲載されているのは、担当記者の見学記であり、歴博が責任を持った発表資料が引用されていないし、公式見解に対する責任者の表明もない。国立機関の情報公開として適法かどうか疑わしい。

 担当記者は、「日本列島の人々の暮らしの様相」が一新されたと言う。多分、現代でなく古代の「人」々のことだろうがどんな手段を使おうと、過去の人々の暮らしの様相を「一新」させることなどできるはずがない。
 あくまで、歴博の孤独な仮説が、展示物として表現されているだけであろう。記者は「刺激的だ」とグルメリポーターばりに絶叫しているが、何がどうなっているのか読者に伝わらない。これでは、個人的な感想ばかりであり、新聞報道として無意味である。

 続いて、素人目には、歴博の近年の研究予算(ヒト、モノ、カネ)、つまり、国費の大半が、極めて多額の費用を要するC14年代測定(ずり上げ)に投入されていると見えて、その成果と見える大胆な研究発表で学会の反対論を浴びていると書かれているように見えるが、それによって「定説」がどう変化したと書かれていないから、素人目には、当然出て来る反対論を、適確に克服できていない、つまり、孤立していると見えるのである。もちろん、部外者の推定であるから、見当違いであれば幸いである。

 その後も、降りかかる火の粉ならぬ、許多の反対論を無視/黙殺して同様の趣旨のデータ蓄積を進め、定説と異なる年代区分を形成したあげく、今回、手厚く正当化した独自の主張が展示されたらしいと見えるのである。(歴博発表資料が見えないので、記者の感想に過ぎないとも言える。それとも、読者は勝手に、歴博サイトを見に行けというのだろうか)

 記者は、無頓着に、歴博の提示した年代区分から、多くの興味深い「事実」が浮かび上がるというが、歴博が展示で表現した作業仮説から「事実」が浮かび上がるはずはないので、これは、記者の錯誤というか白日夢なのだろう。まさか、歴博が、これが「事実」です、と言ったはずはないと思う、いや、確証はないから憶測する、のである。

 手っ取り早く言うと、ふと現実に立ち返った記者は、これでは、歴史考証で想定する「定説」と食い違うので、別のストーリーを創出しなければならないという感想のようである。いや、繰り返すが、これは記者の個人的な感想であって歴博の公式見解ではないと思われる。歴博は、文学者ではないので、いくら経費がかからないとしても、新たな創作活動に耽るはずはないのである。

 歴博は、稲作の伝搬を、定説がもたらしていた神がかった速度でなく、人間業として解釈できる緩やかさであったと提唱しているようである。但し、記者の引用を信じるなら、九州北部に紀元前10世紀後半頃に海を越えて伝搬した稲作が、近畿に伝搬するのに300年程度、関東南部に伝搬するのに、さらに、300~400年程度要したということらしい。この推定自体は、あくまで仮説であり、批判したくても、元データも何も見えないから、個人的な感想を持ち出すことになる。ご勘弁いただきたい。

 個人的には、紀元前10世紀後半とは、黄河文明では周王朝の時代であり、どのような時代背景で稲作集団が乗り込んできたのかと思うものであるが、凡人にはどんな「事実」も浮かんでこない。

 一方、稲作前線が緩やかに東進したと想定されていて、当然の帰結として、日本列島内で地域地域の独自の文化展開があったという、これまた、人間くさい様相が想定されていて、ほっとするものがある。

 そこで、記者はまたも、白日夢に陥って、日本列島の先史・古代の「実像」を実見したらしいが、映じられているのは、どうやら記者の脳内だけなので、凡人には窺うことができない。それとも、歴博はVRでも導入しているのだろうか。華麗なイリュージョンは、国立研究機関の税金の無駄使いなので、ご勘弁いただきたい。

 ここで、記者は現実に立ち返ったか、今回の歴博展示は、博物館の大勢に逆らう異端なものと示唆しているが、記者が認めるように「過渡期」の異端説は定着するかどうか不明だし、測定結果の信頼性も検証されていないように見える。そのようなリスクを抱えた異説に大金を投じてもっともらしく展示することを、歴博はどのように正当化しているのだろうか。一度、業務監査いただきたいものである。

 最後に、歴博責任者でなく、展示リニューアルの指揮者として教授が登場するから、以上の記者感想が、歴博の支持するものかどうか不明である。監督官庁を巻き込んで、展示リニューアルへの大金投資を承認させた説得力は、相当なものと推定するしかない。

 その教授の発言として、「弥生時代に限れば、開始が何百年も遡るのは間違いない」としている。「間違いない」は、各界の承認を得た定説ではなく、個人の感想と見るしかないのだが、要は、稲作の開始を500年遡らしたため、それに引きずられて、稲作前線の展開に500年余計にかかったと見えるだけである。それもこれも、C14年代測定がそのように出てしまった辻褄合わせとも見える。この部分は、教授の発言が忠実に引用されたと見えるので、きっちり批判するものである。

 総体的に、本連載の担当記者は、脳内に独自の仮想空間を形成して、そこに形成された「実像」を見ているので、客観的事実の報道と受け取ることはできないと見るのである。
 記事全体に教授談話を引用しているのなら、教授を的に記事の当否を議論できるのだが、当記事の書き方では、ほぼ全てが記者の感想であり、議論のしようがないのである。

 以上の通り、当方は、担当記者に対して批判を述べているが、それは、このようにお先棒担ぎの無批判な報道は、毎日新聞の品格に相応しくないと信じるからである。記者が、ブログででも、個人名で意見公開するならここまでは言わないが、毎日新聞夕刊文化面に堂々掲載されているから、物差しかきついだけである。

以上

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 1/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22 2024/03/27

〇前置き
 当記事は、以前、単独記事の批判を掲示した論客の以後のブログ記事を、同様の見地で批判したものです。前掲記事がご不快であれば、重ねてご不快を求めることは無いと思うので、特に重複を避けずにたたみかけています。
 因みに、氏は、実名を表記していないので、ハンドル名で失礼します。

*記事前置き(2014年現在)
 去る7月19日に久留米大学公開講座で、表題の講演を行なった。
 これは魏志倭人伝のテキストクリティーク(本文批判)を発表したものであり、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を全面否定する論証である。つまり、「邪馬壱国博多湾岸説」を完全否定するものでもある。

コメント:堂々と、「魏志倭人伝」の「テキストクリティーク」と称していますが、以下、「倭人伝」の「テキスト」について、丁寧に論じられてないのは不思議です。また、提示される諸史料の「テキストクリティーク」が皆無に近いのは、不審極まりないのです。
 特に、「倭人伝」に現に明記されてい「邪馬壹国」を、「完全否定」するなど、不可能の最たるものです。
 古田氏の第一書(正しくは、『「邪馬台国」はなかった』であり、論敵の著書名を誤記するのは、まことに無様です)全面否定絶対不可能です。一書に書き詰められた諸提言を、一つ残らず「バッサリと」否定することなど、誰にもできないのです。何か、スイカ割りのような外し具合です。

 一転局限した「邪馬壱国博多湾岸説」は、湾岸説否定だけならほんの数行で足りますが、それすら安直に「完全否定」などできるものではありません。論議の大小見境なしということでしょう。いい加減に目隠しを外して、世界に目を開くべきでしょう。
 いずれにしても、いくら、個人が全面・完全「否定」しても、理屈が通らなければ世界は耳を貸さないのです。これでは、読者にそっぽを向かれるのが、むしろ「自然」、「普通」と言うものです。

 このような「罵詈雑言」は、氏の思考乱脈を想到させるものであり、世間で酷評されても不思議はありません。おつりで、誹謗中傷されても、不思議は無いのです。自説で世間を説得したいのであれば、初心に復って、修行し直すべきだと思うのです。

 いや、氏は、定期的に講演会を開いて、その際は、熱心な支持者が席を埋め、満場一致で賛辞を呈しているので、氏にとって、何の助けにもなっていないのです。ということで、見解の相違を明示し、具体的な批判に入ります。

*陳寿の見ていた「後漢書」
コメント:氏の理解がどこまでのものかわからないので、一応のツッコミを入れます。
 呉主孫権の最大の任務は会稽有力者と会盟することであり、その手立ては、有力者の「有力な女子」を娶ることです。
 「有力な女子」とは、生まれながらに「家」を背負って嫁することを目的として育てられ、孫家に於いて権力の一角を担うと共に、正夫人として嫡子を成せば、世代交代後、孫家の「皇太后」、最高権力者として実家傘下に組み込むことすら想定しています。従って、正夫人の地位を奪われることは、女子として生きる意味を無くすことを意味するのです。また、不満を言い立てて決裂すると、実家との盟約が破壊されるから、それは、できないのです。

 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に至った。

コメント唐突な観点展開ですが、意図不明、根拠不明です。
 また、裴注は陳寿「三国志」の一部ではないので、何をどうひねくり回しても、考察しても、「倭人伝」の原文テキストを改竄する理由にならないのです。
 孤独な魂の遍歴で道しるべを求めても、個人の想念の世界は、誰にも見てとることはできないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 2/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22 2024/03/27

*謝承「後漢書」と范曄「後漢書」の関係
 魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。

コメント:記事は部分に分かれていますが、東鯷人風聞に続いて、突然、夷州、澶州の登場です。蓬莱伝説まで動員した上で、最後に、会稽東冶が出て来ます。
 結局、伝聞、風評の寄せ集めの類いであり、そのような記事は、范曄が最も嫌悪したはずなのですが、なぜここで採用されたのでしょうか。地の果てだから、どうでも良いというものでも無いでしょうに。

 「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。

コメント:三世紀当時、「イデオロギー」などという概念は無かったから、陳寿はじめとする関係者がそのような時代錯誤の「妄想」を抱いていたことはあり得ません。時代が変わっているので、現代人にとっても、古代にどんな「イデオロギー」が存在したのか、わかるはずがありません。併せて愚劣です。なぜ、誰でもわかる「普通の」言葉で言わないのでしょうか。

 原文にない東鯷「国」は、史料に書かれていないから、言うならば、氏の「妄想の産物」であり、呉の史官が編纂し、亡国の際に晋帝に献上された「呉書」を元に「呉国志」を編纂した陳寿が「三国志」に記録しなかったのも、当然です。存在しない国に「王」を見るのも妄想であり、いなかった王が「反魏倭王」として、呉と同盟して魏を挟撃するなど、とんでもない無理「推し」です。(三国志には、「呉書」、「呉志」など、紛らわしく交錯するので、時に「呉国志」、「魏国志」、「蜀国志」と書くことがあります)

 「呉主」孫権伝でわかるように、三国志には、「呉皇帝」どころか「呉王」も存在しません。一方、夷州、亶州は、堂々と書かれています。因みに、亶州は、海中とされていますが、夷州は、どうなのでしょうか。

 それにしても、史書に無い勝手な思い付きを振り回されては、迷惑です。

 陳寿の「呉国志」編纂の三世紀当時、これら記事は「現代」記事であり、資料は豊富に入手できたはずです。このような、意味不明の記事が残ったのは不可解で、当時不可解だった記事をものを知らない二千年後生の東夷の末裔が解読できるというのは、どういうことか、まことに不思議です。

 右の記事の並列から知られるのは、成立順序のみを問題として、陳寿の表記が仮に「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする仮説がいかに詭弁を弄し牽強付会で固めたものであったかということであろう。

コメント:あたかも、確実な史料のように論じられていますが、諸史料の「テキストクリティーク」は、どうなっているのでしょうか。不確かな史料の不確かな憶測で、現にそこにある刊本紙面の文字を否定するのは無茶です。

 簡単な理屈ですが、論拠にあげる多様な史料がすべて信頼に足りるものである確率は皆無に近く、折角羅列しても、話半ばで論理が破綻するのは明らかです。論拠としてあげるべき史料は、「少数精鋭」が鉄則であり、一件論拠を増やすごとに、論考が、脚もとから瓦解していくものです。ご自愛いただきたいものです。

 陳寿「三国志」が、著者確定稿である「陳寿原本」が西晋皇帝に上程され、直ちに帝室書庫に収蔵されて、以後、厳重に管理されていたと、確実に推定できるのに対して、范曄「後漢書」は、范曄父子処刑による家系断絶の後、唐代に章懐太子が付注して、帝室書庫に収納されるまでの在野時代の写本継承が、まことに不確かです。陳寿「三国志」の官製写本すら、疑念を投げかけられるのであれば、范曄「後漢書」は、苛烈な試練に曝されるべきです。

 因みに、略同期の袁宏「後漢紀」は、記事には見当たりませんが、概ねテキストが健在であるのに対して、散佚して影も形もなくなった謝承「後漢書」を、佚文、つまり飛び散った破片から、全貌と細部を復元した気で論じるのはどうでしょうか。して見ると、幻の「レジェンド」でなく、現に確認できる袁宏「後漢紀」で、范曄「後漢書」を批判することは、当然でしょう。誰が呼んだか「三国志の権威」とされている渡邉義浩氏は、袁宏「後漢紀」の研究者として知られているので、相談されたらいかがでしょうか。「聞くは一時の恥」というものです。

 さらには、史書と違い厳格な引用参照をしていない/粗雑な所引でしか無い類書の一例である「翰苑」の粗雑な残簡記事を、原テキストそのもののように扱うのはどうでしょうか。

 「詭弁」、「牽強付会」とは、まるで、氏自身が、この論考を「自画自賛」しているようです。因みに、「自賛」とは、自作を褒める後世誤用でなく、評のない「画」の真髄を「賛」形式で評するとの原義に戻っているのです。

                               未完

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 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22 2024/03/27

*謝承後漢書の行方
 (范曄「後漢書」)李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が見られる。その量から推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は相当の部分が残っていたようである。

コメント:「量」、つまり、漠たる印象でなく、数字で明示いただきたいものです。印象批評で良いのなら、素人目には、壮大な「後漢書」でそのような注はないのも同然で、目にとまりません。
 まして、そのような計量されていない散在を「漠然」と見て、謝承「後漢書」が大量に(ふんだんに)残っていた証拠と断定するのか、不審なのです。帝紀無しで百三十巻という膨大な史料を「ふんだん」とか「相当の部分」などと簡単に言われては、善良な読者には、大変な迷惑です。

 唐李賢太子の命で、范曄「後漢書」の付注のために、世にある謝承「後漢書」善本は、ことごとく徴発されたと見えます。市井の写本が希少になり散佚したとも見えます。あるいは、謝承「後漢書」の有用な部分は、全部李賢注に吸収保存されたから、もはや、「汗牛充棟」、場所塞ぎで厄介な胡散臭い写本は、李賢太子主催の史学者一同の高度な判断で、不要と見限られたのかも知れません。
 素人の憶測ですが、隋帝国が南朝陳の亡国の際に入手したのか、あるいは、それ以前の、北周、北斉の東西対立時代に関東を支配していた北斉が引き継いでいた西晋洛陽書庫が、北周による統一時に引き継がれたのか、いずれにしろ、中原帝国の正統性の裏付けとして持ち越していた大量の簡牘巻物を、全国統一の機会に棚卸しして、これら諸家後漢書は、紙写本への転写の価値無しと断じて、在庫一掃したのではないかと見えます。
 何の裏付けもありませんが、誰かを罵倒するものでなく、つまり誰にも迷惑がかからない限り、素人の推定は自由です。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文は、ほぼ同時代の成立である。

コメント:史書ならぬ「幼学書」翰苑の「本文」と雍公叡付注の区別はどうしているのでしょうか。「対句」が本文で、割注が付注、別物と見えるのです。それにしても、四六駢儷文 に合わせて、改変、短縮されている対句練習用の「問題集」が、なぜ、誤字満載もお構いなしに、史書の校訂に利用されるのでしょうか。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
① 東觀漢記 一百四十三卷 起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
② 後漢書  一百三十卷 無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
③ 後漢記   六十五卷本一百卷, 梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
④ 續漢書   八十三卷 晉祕書監司馬彪撰.
⑤ 後漢書   十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
⑥ 後漢書  八十五卷本一百二十二卷, 晉祠部郎謝沈撰.
⑦ 後漢南記 四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
⑧ 後漢書  九十五卷本 一百卷

コメント:玉石混淆で、まことに無意味な例示です。史書評価は深遠です。
 誤解が出回っていますが、「玉石混淆」とは、「石」、つまり、高貴な貴石、準宝石の類いに混じって、至高の「玉」が埋もれているという壮観を示したものものであり、列挙した「後漢書」を貶めているのではないのです。

*袁宏「後漢紀」の真価
 袁宏「後漢紀」が漏れているのも、氏の考察の粗雑を示して疑問です。因みに、袁宏は、東晋の人であり、劉宋の人、范曄に半世紀先行しています。
 袁宏は、数種の後漢書が周知ながら「後漢紀」新規編纂に着手した動機として、「諸後漢書は散漫で、信頼できない史料を採り入れ、いたずらに厖大で座右書たり得ない」と見たのです。屋上屋を架するのではないのです。
 後漢朝は二百年になんなんとし、しかも、偉人の後裔が現世を徘徊していて、列伝の短縮、割愛は至難ですが、袁宏は「本紀」相当部分に絞り、全三十巻にまとめて、大幅な「合理化」に成功しています。不朽の偉業と言うべきです。因みに、袁宏は、区切り毎に「所感」を付していて、単なる切り貼り細工ではないのです。
 袁宏には、西漢、前漢二百四十年の治世を三十巻にまとめた荀悦「漢紀」なるお手本があったのです。漢紀(前漢紀)は、後漢献帝が、建安年間、曹操の仕切る仮の帝都、鄴での無聊の日々、班固「漢書」が厖大で持て余していたのを正す三十巻正史の新規編纂を指示したのであり、現存している前後両漢紀六十巻は、言うならば献帝の偉業と見るべきでしょう。そして、他の諸家後漢書と異なり、袁宏「後漢紀」は、ほぼ完全な形で現存しているのです。
 因みに、「後漢」献帝の観点では、高祖劉邦が創業した漢帝国は、謀反人王莽によって揺らいだだけであり、程なく光武帝が再開したので社稷は継承されていて、「前漢」「後漢」など、存在しなかったのです。

 因みに、諸家後漢書が、軒並み桁はずれて冗長であることは巻数から見て明らかです。恐らく、巻数、字数を稼ぐために、お構いなしに雑史料を盛り込んだのでしょうが、ほぼ全散佚している状態から見て、同時代、後世の史家の評価は明らかです。見捨てられたのは、厖大な労力を費やして写本継承する価値がないからであり、謝承「後漢書」など、類書引用の佚文しか残っていないのは、大著としての存在価値が見られないから、見捨てられたのです。

*陳壽の真意と裴松之の本意
 陳寿は、「魏志」の構想にあたり、厖大な「漢書」でなく、荀悦「漢紀」三十巻を参考に、治世の短い魏の国志三十巻に本紀、列伝を緊密に収める減縮が至当と見たようです。だれぞの虚飾のために、空疎な西域伝を付け足すようなことは、もとより念頭に無かったのです。
 裴注が追加され、大量の蛇足のために陳寿の望んだ緊密さは損なわれましたが、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」でしょう。裴注は、陳寿の知らない世界です。
 また、裴松之が蛇足を承知で補追したのは、陳寿の真意に背くと知りつつ君命に迫られたために臨んだ不本意なものと見えます。いや、裴注は、読者が無視できるので、陳壽「三国志」の精髄は、損なわれていないのです。裴松之、もって瞑すべきです。


〇最後に
 素人考えを振り回して恐縮ですが、別に、先賢の意見を「完全否定」したり、意味なく罵倒したりするものではないので、ご一考いただければ幸いです。
                               以上
*追記 2024/03/27
 仄聞するに、当ブログの主催者は、斯界で高名な福永晋三氏のようであるが、実名を明示しない事情は不明である。また、同ブログには、古田武彦氏への「追悼記事」として、私怨にも似た行文が連ねられていて、本稿に示された氏の議論が、しばしば脱輪する由来が明記されている。あわせて、「古田史学の会」奪胎前後の軋轢から、古賀達也氏への私怨も表明されている。氏ほどの見識の持ち主が、排斥される原因を念入りに醸し出していて、まことに、勿体ないことである。

2021年12月 9日 (木)

新・私の本棚 2 松井 芳明 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

  2 魏使は、遠賀川を遡った        松井芳明
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積   2019/01/28 追記 2020/10/07  補充 2021/12/09 2023/06/11

*前置き
 当論文は、里程論と言うより人口論のおまけであり、その点で、同誌特集の趣旨を外れかけているとともに、当方の守備範囲を外れています。
 当然、行程記事は順行型解釈であり、投馬国から南水行十日、陸行一月で王城に到る」と解釈しているので、当方の仮説とは別次元となっています。つまり、重ね重ね批判の対象外です。
 
 と言うものの、不審な点は率直に指摘します。

*「母なる淀川」賛
 当方としては、実見したことのない遠賀川が緩やかな流れであることにとやかく言う資格はないので、論評はご遠慮します。但し、いかなる河勢であろうと、たっぷり荷を積んだ荷船を、流れに逆らって漕ぎ上がるのは、大変な重労働であり、この点を考慮しない「水行」論は、ただの思い付きに過ぎません。と言っても、川岸から、人海戦術で曳き船するのも、所詮、船体を引き摺っているのに等しく、労力の大半は空費されることになります。
 
 引き合いに出された二大河川の一つ、淀川は、太古以来、上流に安定した水源と琵琶湖があり、途中に大規模な調整池、巨椋池などもあったので、豊富で安定した水量、しかも緩やかな流れであったであろうとの推定には同感です。
 古代に於いて、淀川水系は、河内の大動脈だけでなく、伏見から琵琶湖への流れと、南流木津川の中流で下船して、南のなら山を越えて奈良盆地に入る流れと、二大「幹線」を擁していました。偉大な、母なる大河と言うべきです。

*あて違いな大和川
 ここで、随分不審なのは、大和川は太古以来、緩やかな流れであったとの評価です。何か、具体的な根拠をお持ちなのでしょうか。 
 大和川は、今日の川筋と異なり、江戸時代に大規模な付け替えで河内平野南部を西に一直線に流れる天井川に改造される以前の旧大和川は、奈良盆地から奔流となって下っていて、南河内から合流する石川と共に、河内平野に土砂をまき散らす急流だったのです。つまり、河内平野は、その堆積の大半が、渇水期はあっても雨期の急流を齎した大和川の賜物と思うです。そんな途方もない暴れ川が、「緩やかな流れ」で河内奈良間の水運を支えていたとは、何かの勘違いだと思うのです。

 ちなみに、入念な治水工事が施された現代に於いても、水源地帯で広く豪雨に見舞われるなど、歴史的な出水時には、広域で氾濫する暴れ川であることは変わっていません。

 重ねて言いますが、琵琶湖という水瓶を水源とする淀川は、水量豊富で安定しているという点で、他に例を見ない大河なのです。この点の認識が甘ければ、机上の曲芸で無理な類推を捻り出していることになります。

 この部分の展開は、論考全体の信頼性を損なっているので、一度、情報源を確認いただきたいのです。

*遠すぎる回り道
 また、遠賀川上流の投馬国から王城へどう行くにしても、もともと、伊都国から南に直行すれば、僅かな、あるいは、そこそこの日数で王城到着するのに、わざわざ漕ぎ手に負担のかかる河川遡行で、延々と道草を食うのか同感しがたいのです。いや、これは、氏以外の巡行方行程説に共通するのですが、ここでも持ち出すことにしました。

 図示された鉄道路線比喩は、氏ほどの見識の持ち主にしては大変不出来です。(友人に言うとしたら、「アホか」です)ご自身は納得しているのでしょうが、古代人の目で見た時どう感じられるかのだめ出しが欠けているように思えます。

 使節視点で言うと、鹿児島(?)から、百人になりそうな大勢で、大層な重荷を引っ提げて、延々人力車輌(鉄道比喩です。念のため)で長旅し、疲労困憊で東京目前の品川に着いたのに、なぜ、その上に何日も掛けて渋谷、新宿、池袋、上野、秋葉原と大迂回するのかという事です。
 使節団自身の辛苦に加えて、現地採用の荷運び人夫は嵩むし、人力車輌の運行もあって労力は厖大、各駅一泊で地元は負担厖大です。


 図示したのは、古代の難業を意識の外に追いやり、今日の電車移動並の楽勝との見せかけ(イリュージョン)でしょうか。電車でも、電気無しの手押しとなれば、車体重量が厖大で、楽勝とはほど遠いので、妥当な比喩としては、トロッコ押しでも想定するのでしょうか。

 また、本編に還って、大量の下賜物を抱えた使節団の行程に限るとしても、普段は官道として使用していないはずの山越えの裏街道を、なぜ長々と道中するのか。大変、大変不思議です。
 これは、当方が、放射行程、即ち、伊都国から王城の軽快な行程解釈に荷担して、道草論に荷担しない理由でもあります。

 人口論にも、行程道草論の本体にも深入りしませんが、よほど丁寧に、真剣に説き聞かせていただかないと、時代錯誤、世界観錯誤の重層で、不審感の重ね塗りになります。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 3 西岡 光 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程 西岡光
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*前置き
 「はじめに」として、「『魏志』「倭人伝」が、日本古代史を考える際の客観性をもつ有力な史料」と書き起こしていますが、何やら不吉な煙が立ち上っています。どうも、倭人伝考証は、「日本古代史」の辺境題材と見くびっているようです。視点倒錯、夜郎自大史観と言うべきですが、これは、氏の個人的な感慨ではないので、まことに勿体ないとだけ言い置きます。
 それは、初心者の自己陶酔のように思うます。率直に、倭人伝に関する知識と経験の不足を自覚して、初心者宣言すべきではないでしょうか。
 三世紀、日本は影も形もなかったのに、『「倭人伝」に書かれている国が、後の日本の祖型である、もし、不都合な記事があったら、それは、中国人が史実の認識を誤ったためである』との大前提では、本論は史料批判ではなく自己批判となります。
 
自己批判は流し読みし、不審な点だけの指摘に止めます。倭人伝」談義で、「日本古代史」など、禁句に等しいとお考えいただきたいのです。

*勘違い宣言

 まず、初心者と自覚していない論者の「倭人伝」認識、つまり、鏡に映った自己の認識が4項目に亘って宣言されていて、まことに非論理的で粗雑なものだと感じます。
 そそくさと引用します。
⑴ 三世紀前半のわが国土に、邪馬台国が存在していたこと。
⑵ 当時の倭人部族統制の権威には、男王による政治力を上回る、女性シャーマンのシンボル推戴が必要であったこと。
⑶ 部族集合体である複数小国家に共立された祭政の権力者(女王)として、卑弥呼が君臨し、後継者が壱与(台与)であったということ。
⑷ 邪馬台国の卑弥呼が、遠く中国の政治中枢部に認知されていたことは、当然国内各地域にもよく知られていたと考えられるということ。

 ⑴は、「わが国土」へのただならぬ思い入れが感じられますが、当方の理解の「圏外」です。まさか、「国土」が氏の私物だという主旨ではないでしょうが、四畳半住まいの小雀には、賛同はできません。

 ⑵は、現代の一部でだけ通じる符牒が満載で、素人には理解できません。
 
倭人部族」が何者なのか、何が「統制」なのか、「政治力」とは何なのか、「女性シャーマン」は、「シャーマン」など存在しない当時の何を言うのか、「シンボル推戴」は、「シンボル」など存在しない当時、何の意味なのか。それは、「シンボル」を推戴するのか、「シンボル」が推戴するのか、なぜそれが「政治力」を上回るのか。
 「倭人伝」に、一切出てこない、手前味噌で時代錯誤の言葉と概念を、ご大層にぶちまけても、善良な読者には意味が通じないのです。
 つまり、質問されても、無視するしかないのです。


 ⑶は、用語が前項と特に意味なく大きくずれている」ので、論者の意図を訴えるのに役に立たない不具合は置くとして、後半は、当たり前の読みであり、それが「倭人伝」里程論にどう関係するのか、論理はどうしたの、と言うことです。
 
また、「複数」と言うのは、二国、またはそれを越える数の国、という程度の意味であり、ここで強弁する意図が不明です。
 古代史で「小国」というのは、国の大小を言うのでなく、個々の國という意味であることは、聞き分けていらっしゃるようでほっとします。少し戻ると「祭政の権力者」は、中国古代史に無縁の概念であり、つまり、言葉になっていないのです。

 倭人伝」論の世界で通じない言葉づかいは、半人前呼ばわりされても、仕方ないでしょう。何しろ、ここは、「里程の謎」とテーマ指定されている場なのです。編集部が、没にしなかったのは、後難を怖れた「遠慮」でしょうか。

 ⑷は、さらに一段と理解困難です。
 「政治中枢部」は意味不明ですが、天子たる魏帝は、「倭の国中に告げよ」といいましたが、氏がここで物々しく言う「国内各地域」とは「日本列島」のどの範囲を言うのでしょうか。意味不明で困ります。「倭人伝」里程論との関連は見当たりません。

 折角力んでも、一向に、四大原則として殊更ぶち上げる意義が伝わってこないのは残念です。読者との提携を拒否していて、物書きとして修行不足です。

 続いて、突然、「海人」が登場し「国際陰謀」が起動しますが、「国際陰謀」が古代離れしていて根拠不明で、それが、万里の果ての陳寿が、魏志編纂の貴重な原史料記録を、天命に背いて捏造した動機とは同意できません。

 続いて意図不明の人口論が続き、里数論が始まらないのです。
 意図不明というのは、「倭人伝」には、有効数字一桁未満と思われる不確かな里数や戸数が出ているだけであり、憶測を重ねて漠たる推計を巡らしても、いくら数字計算が多桁に亘って正確でも、見た目にきれいな数字が並ぶだけで、意味も意義もない数遊びであり、三世紀当時の国家像と結びつかないのです。何か、考え違いされているようで、勿体ないことです。


 論者は、工業系の教養を有し、それを活かす実務に従事したはずなので、文系論者に比べて数字に強く、意味の無い多桁数字の害は熟知していると思うのですから、ひょっとして、古代史ファンの浪漫性に訴える「詐話」(フィクション)を試みているのでしょうか。

 肝心の里程論ですが、受け売りで「倭人伝」短里を認識していながら、それは、陳寿が根拠無しに五倍の里数、距離にしたもので、ことのついでに日数も五倍にしたと決めつけます。しかし、ご本尊がそうした意見に同意する根拠は、何も見られません。陳寿が耳にしたら、「ものを知らないのはお互い様ではないか、自分は、ちゃんと知らないものを知らないものとして書いているぞ」と言うところでしょうか。

 つまり、どこをどう叩いたら、ここまで、何故「倭人伝」の里数が「誇張」と言い切れるのか、論理的に正当化することを期待して読み進めている読者に対して、裏切りとしか言えません。


 重症なのは、里数の五倍と「幻の実距離」とが交錯して、「倭人伝」里数は「虚数」としていることですが、ここでは、数学の「虚数」、つまり、重大な意義と実態のある数でないのは自明ですが、勝手放題に造語されても、何の意味か、善良な読者は、一向に理解できないのです。
 案ずるに、論者は、「
倭人伝」里数を実態/実体のある数字だと気づかないまま、延々と「誇張」だと論じているのが、この一語に露呈していて、まことに錯綜しています。

 とてもとても、「里程論」「誇張論」とは言えません。場違いで無意味です。

                             この項完

新・私の本棚 4 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

  4 邪馬台国への道のり          山田 平
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 「1『魏志』「倭人伝」の旅程」の劈頭、「旅程」記事を「そのまま図にしてみると図1のようになる」と断言します。論者の「そのまま」が、そもそも里程論の混乱の原因なので、ここを無造作に踏み越えるのは、大変不吉ですが、ここは、我慢して読み過ごしておきます。

 無駄なので引用しませんが、要するに、「図」と称していても、論理の筋道を図形化した「構想図」などではなく、「倭人伝」里程論に良くある(混乱した)旅程表であり、上から下に通過点を列記して、その間の里数、日数をかき、後は、矢印の追加程度だけで、「説明図」ではないので、読者にしたら、数字の校正くらいしかできないと思うのです。凡そ、稚拙な図は、書いたものの稚拙な「思考」を、稚拙に図示しただけであり、「思考」に共感しない善良な読者には、ちんぷんかんぷんの「ポンチ絵」ですから、氏にとって、百害あって一利なしでしょう。
 併せて、当方は無造作な算用数字多桁記法を見て、この論者は、数字のイロハが、まるでわかっていないと評価するだけです。

 要は、この「図」は、氏の史学論者としての限界を露呈しているのであって。自身の解釈を的確に読者に伝える使命を果たしていないと見るのです。所詮は、「対象」を指し示す「指」かも知れませんが、「指」が「指」に見えなくては、その指し示す先は。善良な読者には理解できないのです。

 これに対して、論者は、『「図」を一見して、「一里の長さが異常に短い」、あるいは、「旅程が誇張されている」とみてとれると自身の早見えを誇示していますが、単に、論者が作図の際に諸資料を参照していて、この「図」の一里が百㍍に満たないとあらかじめ知っているから、そのように見て取れるだけです。普通の常識人たる善良な読者は、何も感じとれず、何も思わないはずです。

 まして、「異常に短い」という評価の基準(正常、あるいは尋常の基準)は。一般読者には不明です。むしろ、論者に対して、倭人伝という小宇宙、小天地では、これが正常だよ、と逆に教え諭したくなるところです。

 さらに、旅程の「誇張」はどんな現象を言うのか、論者に示して貰わなければわかるはずがないのです。「誇張」と判断する規準となる「誇張無しの旅程」は、「対象史料である倭人伝のどこから見て取れる」のでしょうか。論者の脳内には、ここで読者の拍手がどよめいているのでしょうが、それは、氏の脳内小宇宙だけで聞こえる独善(独りよがり)というものです。
 ついでに言うと、正史に虚偽の「報告」を載せたとすると、後世、ことが露見するから、その際には、皇帝を欺いた大罪で一族郎党皆殺しとなることは、だれもが承知であり、そのような大罪を犯すものがいるとは思えないのです。
 斯くの如き、ベタベタの独善で開始するのは客が逃げそうで不吉です。

*二種類の情報
 話の続きを読むと、どうやら、論者は、「倭人伝」に続けて書かれている「旅程」が、「実際は」二度に分けて中国側に齎されたものであり、その二度の間に、女王国が東方に「お引っ越し」した「東遷」があったと見ているようです。誠に「大胆」な発言であり、読者には、初耳であり、そのような卓見を、予知することはできません。いや、大胆と言っても、妻子、両親もろともに首を切り落とされることはないので、言ったもん勝ちということなのでしょうか。要するに、「ホラ合戦」の一展開なのでしょうか。

 そのような天下混乱は、国内史料を含めて、いっさい記録されていない
のが衆知の事項です。また、そのような突飛な認識が、読者が期待している「倭人伝」里程論に何を齎すのか、すぐにはわからないので、ますます不吉です。
 
*曲芸解釈

 辛抱して読み継いでいくと、論者は、先ずは、「倭人伝」の旅程記事の「南、投馬国に至る水行二十日」と「南、邪馬台国に至る…水行十日陸行一月」との記事を、伊都国以降の旅程に直線状に積み上げると決め込んでいますが、それは、(論証を要する)一解釈として知られています。
 氏は、ある意味冷静な読解で、王城が九州島内に収まらない
と見て、この二項は里数で書かれた旅程とは別儀、女王国お引っ越し後に魏朝に報告されたと見たようです。自作自演の好例です。一種の改竄説で、言いたい放題になっています。

 しかし、衆知の如く、三世紀後半、後見役の帯方郡が健在で、頻繁に倭人と交信していたから、帯方郡はもとより、魏朝に遷都を知られないでは済みません。つまり、他ならぬ「倭人伝」に明記されねばならないのです。

 史料にない、と言うより「倭人伝」に真っ向から反した創作であり、それを正当化するために、行間を読んだり、南を東に字句改訂したりしての労作に感心しますが、どうしてそう思うのか不思議です

 書く方はいかようにも曲芸を試みて、成功した試技を公示すればいいものの、読む方はその思考を追試できないのです。いくら優れた発見でも、第三者が追試して確認できなければ、単なる「法螺」です。(立証に成功すれば、画期的な新説と評価されるのですが、百の思い付きの内、新説として生き残れるのは、一件あるかどうかです)

 続いて展開するのは、遙か後世の戸籍資料などに基づく人口論であり、「当方好みの時代錯誤」の暴論、無理筋の勝手読みであって、曲芸の美技ではないのです多項目計算が必要以上の五桁と「正確」な計算を行っていても、その間の歴史の流れが不連続、非線形なのは自明なので、安易な類推は全く無意味です。

 不連続、非線形というのは、国の「お引っ越し」が、健全な国の行いなのか、亡国の報いなのかすら不明であり、かつ、それがどのような人口移動を招き、両地域にどのような社会、経済的な異変をもたらしたか、到底推察できないのです。単なる「絵空事」としか見えません。

*結論
 と言うことで、本論考も審議以前であり、当方理解圏外に去りました。

 途方もなく常識外の主張をするなら、枕の部分で、とにかく丁寧に、丁寧に説き起こすべきです。そうでないと、まじめな客は、本題を切り出す前にさっさと逃げてしまうものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                             この項完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/3

5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11 2024/06/17

〇序論
 編集部の惹き句とは言え、「豊富な資料」の触れ込みで、実際、二十㌻の大論文ですが、論理交錯で難儀します。原点たる倭人伝から読みなおす趣旨と見えますが、それにしては、東治」を「東冶」と「改訂」するなど、未検証の原文改訂行為は不首尾です。当世流行りの改竄説に似ていますが、原著作者の意に反した改訂は、改竄に等しいのです
 古代の説客が、論法の常道とした、「出会い頭のはったり」のように見え、学術の世界には似合いません。
 また、本稿では、論者の里制観が動揺し、読者の筋の通った理解を困難にしています。

 またまた、図1と作図された労作の「倭国の概観」は、「普通里」に従って韓国、倭国を大きく描いていて、いかにも、論者の歪んだ世界観を可視化して見え、それを期待してか、「倭人伝里は誇張」としています。

 要は、氏の個人的な理解を、錯誤、錯視かどうかの検証抜きに、いきなり図示しているのであって、陳寿が、倭人伝として提示した「文章問題」の解として、意義のある図解ではありません。結局、氏の抱負にかかわらず、氏の理解/妄想を評価する手段にしかならないのです。

 またまたまた、先に触れたように「会稽東冶」が妥当としています。当然ながら九州島内に女王国との表現です。

〇多桁算用数字~不滅の迷妄
 論議の絶えない帯方郡~狗邪韓国間の「郡狗行程」は、なぜか沖合遥かの無寄港と図示されていて、それを七千余里ならぬ7,000里としています。誤解の蔓延は、もったいないことです。

*場違いな大型船の幻想
 そのような行程は、寒風や雨風を遮る甲板と船室があって、中国人の食事には不可欠な「竈」(かまど)と水がめを備えた厨房のある、つまり、相当大型の帆船でなければ実行不可能ですが、そのような大型の帆船の存在とそれを支える海図、水先案内などの存在も問われていません。

 南方地域には、帆船自体は存在したでしょうが、帆船回航には、帆が破損したときの貼り替え帆布の備えが不可欠であり、当時、東夷には、麻布や麻縄がなかったので、無事往来することが求められる下賜物満載の船は、乗り入れることはできなかったのです。

 丁寧に説明すると、当時、黄海で行われていたのは、短期間で向こう岸に着く、いわば渡海船であり、手漕ぎの上に随分軽装備だったので、半島沖合の黄海を南下する長丁場は、到底こなせなかったのです。と言うことで、それまでは、港港を送り継ぐ、小船の駅伝船の世界だったのです。
 未検証どころか、検証不能の思い込みに過ぎないのですから、氏ほどの論者にしては、不用意です。

 「海岸にしたがって」と俗解されるのに反した、沖合遥かの無寄港航海の超絶技巧の無法解釈は別として、ここ以外も、現代人には当然とは言え、古代史学では「非常識」で誤解を招く算用数字多桁表示で、文献解釈に際して、的外れが露呈していて残念です。
 古代人の世界観の中で、概数を取り扱う数字計算は、里程、行程道里の理解の根幹であり、見過ごされているのは、毎度の事ながら大変残念です。

〇一里推定の徒労
 論者の「倭人伝」里の考察は、ほぼ一貫して、倭人伝」の一里は百㍍程度、韓伝の「方四千里」も同様としつつ、頑として「誇張」と見ています。何に対して誇張なのか、根拠不明、意味不明です。独り合点や仲間内の決まり事は、ご自分一人にとどめて、第三者を納得させられる論証が求められているのです。 

 帯方郡官吏たる魏使が、自郡里制はもとより、海を隔てた倭国里制も知らぬはずはなく、まして、使節として現地視察の後には、現地を実見して正確な認識をしたはずです。ただし、そのような里制は、魏朝の公式記録である倭人伝には、一切明記されていないのですから、史料の根拠は無く、倭人伝の里程、つまり、行程道里には、そのような「里制」は、比較参照できないのです。
 また、論者が、「倭人伝」里制が、一里百㍍程度と納得したら、倭地の里制も、また適確な里数と納得でき、つまり「誇張」など存在しない事になるはずです。
 にもかかわらず、論者が、ご自身の誤解を露呈した冒頭図に固執し撤回しないのは、合理的ではなく、また、ご自身の方針に反するのです。

〇還らざる分水嶺
 ここで回心するなら、冒頭図は自身の錯誤を露呈していると気づいて、撤回するでしょう。古来、「過ちを改まるに憚るなかれ」と言いならわしています。まして、推敲段階の改稿に憚ることなどまるでないのですが。

 引き返せなくなる前に、経過を総括して、行程続行の当否を自問すべきなのですが、そのような「先見の妙」と「引き返す勇気」を持つ人は、ごく希です。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 三世紀当時の中国中原の常識を知らない現代東夷の素人考えで、陳寿の編纂を律してはならないのです。

                               未完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 2/3

 5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2024/06/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇野性の呼び声
 続いて、「倭人伝」の「水行陸行」基準を論じますが、現代事例の「野性号」を史料批判無しに持ち出しているのは、まことに不出来です。
 確かに、同プロジェクトは、貴重な「実験」として大いに参考にすべきですが、「倭人伝」に提示された行程道里は、同時代の公的記録が基準であり、一方、当実験には、海図、コンパスがあり、難航時は支援部隊が助力しました。
 一度限りの試行は、寄港状態、採用航路を厳重に時代考証した上で、読者に誤解させないように、その「限界」を明記した上で利用しなければなりません。

*不可能の証明
 冷淡な言い方をお許しいただくとして、同プロジェクトは、手漕ぎ船で狗邪韓国-対海国-一大国-末羅国という極め付きの難所を、積荷無しでも、北上しきれなかったという問題と、狗邪韓国から漢江河口付近まで、半島海岸沿いの黄海を、連日漕ぎ抜くことは出来なかったという問題が重なっていて、とても、実施可能な行程とは見えないのです。そのような行程を常用するとすれば、途中で挫折するのは許されないのであり、一度でも、一日の行程を漕ぎ切れない事態があれば、航路として成立しないという事をもっと重く見るべきでしょう。
 関係者一同、絶大な尽力で実施した「実験」に対して、否定的な意見を述べるのは、大変残念なのですが、ぼちぼち、率直な意見が許される時期になったのではないかと感じる次第です。

〇官道としての資格審査
 当方は、大局観として「危なっかしい船便は官道たり得ない、断固陸を行く」との意見を固持します。大局観というと私見のように聞こえそうですが、要するに、官道としての機能は、乗馬の文書使が駆け抜けるのを根底の前提にしているので、乗馬して駆け抜けられない船での移動はあり得ないのです。
 三世紀時点までの史書を参照すると、中原で、「水行」、つまり、河川を上下する船での移動は、存在を否定できないようですが、総て、河川行であり、そのような場合も、あくまで、公式道里は並行して陸上を行く官道に決まっているのです。さらに言うと、中原には、海を行く官道はないのです。

 「河川行」は、荒天や増水の際には、いずれかの川岸に立ち寄ることができるので、難船を避けられるのですが、浅瀬や岩礁の存在する海岸沖合の沿岸航路では、所定の寄港地以外で陸に接近するのは自滅行為であり、いわば、海上での荒天は、避けようのない遭難事態になるのです。おそらく誤解されている方が多いのでしょうが、帆船の操舵は、困難なものであり、手漕ぎ船で漕ぎ抜けられるような入港航路も、帆船は、立ち往生するのです。解決策は、漕ぎ手を乗せる、槽運/帆走兼用であり、大変大規模なものになるのです。三世紀、半島東南部の難所に、そのような大型の帆船が通用していたとは見えないのです。

 本論に還ると、このような危なっかしい輸送/交通手段は、三世紀当時、国家制度として採用されないのです。無作法を承知で言わせて頂くと、この海上行程が極めて危険で通行困難(実際上不可能)であることは、ほぼ常識であり、それは、実験するまでもなく、思考実験、当世風「シミュレーション」だけで明らかなのですが、冒険が試行されて、その結果が、十分な批判を経ずに、手漕ぎ船航路が実用に適していたことの証左と誤解されているのは、まことに不幸な成り行きです。
 冒険は、どんな時代錯誤の支援を受けてでも、困難を超えて一度完漕すれば「成功」ですが、国家の制度として運用するには、とにかく、安全で確実でなければならず、不時の事態が発生しないような万全の備えが必要なのです。船が沖合で難船すれば、当時の沿岸の体制では救助は不可能であり、まさしく、海のモズクならぬもくずと消えるのです。

*「ハードル」談義~余談
 陸上競技の「ハードル」は、学校の体育の時間で習ったことを大きく外れた巷間の風聞/迷信と異なって、競技者を「阻止」するものではなく、難なく飛び越えられる高さで、しかも一定していて配置されています。何なら、ハードルを残らず突き倒しても、何の罰則もないのですが、それでは速度が落ちるので、ハードル勝者となるには、全数を飛び越えるのです。周知のように、何も無い走路の所要時間と、大差ない快速の競争なのです。ハードル」は、「試錬」ですが、「壁」とか「難関」と言うべきものではないのです。

 この理解しやすい比喩に対して、古代の海上航行は、数千里の航路の一箇所でも船が沈めば万事休すです。競技者が挫折して水死する前提の競技など、絶対にあり得ないのです。

〇新羅遣唐使の道里
 後世新羅遣唐使が、「半島東南の王城慶州(キョンジュ)を発して北行して官道を一貫陸行し、小白山地を、二世紀に官道として確立された竹嶺(チュンニョン)の険で越えて西に転じ、海港唐津(タンジン)から山東半島に渡海した」ことも、この意見の裏付けと言えます。
 新羅が、高句麗と百済の係争地であった、漢城付近の要地を、精鋭の急襲で確保し、以後両国の回復を許さなかったのも、小白山地を越える官道が軍道としての用に耐える確実な交通、輸送経路であったことを語っています。

〇理性的な解法
 また、倭人伝の言う「水行」が、沿岸行、渡海、河川行のどの主旨で書かれたか、「倭人伝」二千字では不明瞭との主張が出回っていますが、当方は、そもそも、正史の行程道里に、「水行」はないのが常識であり、水行」は、三度の渡海、つまり千里渡海の一日行程の三回のみと見るので、末羅国上陸で「陸行」に移行したあと、「水行はなかった」(投馬国は傍路)と割り切って細かい理屈づけは不要なのです。

 見解の相違ですが論者に同意できないと言うだけで排除しているのではありません。また、国家制度に拘束されない市糴の槽船が、ある程度の危険を承知で徐行した可能性を否定しているものでもありません。例えば、日帰り近隣の海市まで、地勢ならぬ海勢を熟知した村人の操る荷船が往き来するのは、むしろ、健全な姿であり、そのような往来を連ねれば、遠隔地まで、市糴の鎖が通じていたものと見えます。

 ここでは、当時、帯方郡の制度として、郡から漢江に沿って小白山地に至り、峠越えで洛東江流域に下りて、以下、慶州付近に繋がる官道が制定されていたと主張しているのです。

 一般人といえども、生命の危険はそう犯さないものです。海域の天候、干満、潮流、浅瀬や岩礁の所在など、知り尽くした上で進んだはずですが、よそ者は、そのようなことを知るはずがないので、容易に多島海の寄港地に近づけないのです。

〇隋使/唐使の絶海行程踏破
 後世、隋煬帝の使者文林郎裴世清は、明らかに、山東半島からの海船で、筑紫に来訪していますが、関係部署に保存されていたはずの魏使行程を踏襲したのではなく、記録のない未踏の海域を開拓したような書きぶりです。是非参考にしていただきたいものです。

 要するに、隋使は「倭人伝」行程記事が、黄海航路を確立した記録でなく、あくまで、郡から倭に至る公式行程、公式道里、公式日程の記録であることを理解していたので、記録に残っていない未開拓の行程を、恐る恐る進んだものと見えます。もちろん、わざわざ、入出港が困難な狗邪韓国の海岸に乗り付けるような無謀な真似をしていないのですが、このあたり、説明が面倒なので、参照しないようなのは、誠に、勿体ないことです。

 因みに、後の唐使高表仁は、新州刺史ということで、海船回航に通じた高官だったのですが、半島西岸沖の帆船航行で難航し、数か月を要して突破したように書かれています。

                                未完

新・私の本棚 5 船迫 弘 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 3/3

5 里程から見た邪馬台国         船迫弘
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積  2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11 2024/06/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇水行陸行の世界観転換
 長々と行程道里記事の「水行十日陸行一月」の位置付けを模索していますが、当方は、古田氏に倣って、倭人伝に不可欠な総所要日数と見ているので、放射状行程の起点議論は無関係です。

〇卓見の理解/誤解
 論者が、高橋善太郎氏の新旧唐書地理志の用例批判を引用していて、二重引用の批判は好ましくないのですが、大要「中国史書の用例を元に「倭人伝」記事を解釈しようとしても、多くの”自己撞着”に直面して頓挫するので、”無理”である。よって、"状況判断"せざるを得ない。」との啓示を受けたと見えます。独特の用語で訓示いただいても、標準的な用語に「通訳」しないと、適確な理解はできないと思いますが、仕様がないので、お伺いするしかないのです。

 その啓示の理路を素人なりに整理すると、『「倭人伝」を「正史語法」で読み解こうとしても、厳密に一致しない「倭伝語法」で書かれているため、正解は、「倭伝語法」を体得して解釈するしかない』との卓見に見えます。同時代随一の史官と評価されていた陳寿が、全身全霊を傾けて編纂し、同時代の知識人が高く評価し、当代皇帝が嘉納した畢生の著作が、二千字の倭人伝に多くの「自己撞着」を孕んでいるというのは、理解を超えた「超能力」の発言と見えます。同時代の知識人と同等ねないしは、それ以上の知識を有しているという壮大な自負心は、どこから舞い降りたのでしょうか。

 冷静に見ると、この表現は、ご自身の無力、無知を天下に曝している自嘲と見えます。よく言う「おつり」を浴びている姿を曝しているのであり、まことに勿体ないところです。

 高橋氏が、当方同様に、卓見の無法さを自覚し、感じ取って、”無理”を放棄し解釈の起点を、中国史書に移し、さらに、現場、現物である倭人伝の「倭伝語法」解釈に転換したかどうかは、当論説から読み取れません。

〇史料理解力への疑問
 同時代論者の日本語の文章を適確に理解されているかどうか不明では、三世紀漢字史料の解釈が適確かどうか、一段と不明です。何しろ、「倭人伝」原文を引用した上での議論ではないので、正体不明の翻訳者の掌の上での議論であり、大変不安なのです。

〇合わない靴の山
 案ずるに、合わない靴をいくら品定めしてもしょうがないので、先ずは、状況に適した視点、感覚で、「合う靴」を見つけるべきです。
 論者は合う靴をはなから選択肢から外してそっぽを探し、手の届く範囲のものが、ことごとく「合わない」ことを証左としているので、一向に解答に近づけていないように、素人目に映るのです。

〇考古学頼み、神頼み
 以下、「十一 邪馬台国への道」なる図版入り六㌻の大作で、国内後世資料と多彩な考古学成果をもとに女王国の所在地検証の考察を深めていますが、国内後世資料は、同時代同地域の記録が適確に継承された確証に乏しく、考古学遺物には年代が書いていないので、「倭人伝」解釈に於いては、共に参考資料の域を出ず、論考の決定打にならないのです。
 先に挙げた「倭人伝」に対する暴言は、国内後世史料やそれに基づいた考古学遺物解釈を「金科玉条」としているところから発しているものと見えますので、まずは、「金科玉条」の検証が先決と見るのです。

 一部の考古学界先哲は、「望む発掘成果が出るまで、対象地域は、何年かかろうと悉く掘り尽くす」と豪語しています。また、一部では、『所望の試験結果が得られない試験方法は、「基本データを造作してでも所望の検査結果が出るように誘導する」』受け取れかねない態度で豪語しています。そのような超自然的な活動は、公的資金のふんだんの援護がなくては持続できず、公的資金は担当省庁の承認あっての予算支出であり、これを持続させるためには、学問の正義は脇に押しやって、壮大に自己顕示せざるを得ないと見えるのです。
 それが、考古学界の神頼みとしたら、「神様」は使い走りの小僧同然であり、随分見くびられたものです。

 氏の場違いなぼやきは、そのような極端な動きに繋がるものではないかと危惧するのです。そして、発掘物による所在地検証は、問われている、倭人伝里程の謎の解明と対極にあるものと見られるのです。勿体ないことです。
 それにしても、氏の属すると思われる学派は、「倭人伝」に「邪馬台国」の文字がないのを度外視して、書かれていない「邪馬台国」の所在地を決め込むのは、筋違いと見えます。そのためには、『「倭人伝」は、肝心の国名が誤伝されるような不正確な伝承文献である』と言わざるを得ず、従って、方位や里数も、誤伝しているに違いないと言わざるを得ず、言わば、不退転の決意で、「倭人伝」、ひいては、編者である陳寿を罵倒している始末です。

 氏が、どこまで、そのような「陰謀」に加担しているのか不明ですが、素人目には、何とも擁護しかねるのです。

〇まとめ
 氏は、高度な推論力を有しているとしても、史料自体を把握できていないことから来る不安定感があり、足元の論理を固めてのち見聞を広げるべきで、「里程論」に挑むと大言壮語する前に「倭人伝」の堅実な理解が先決です。

 倭人伝」里程論議は、「倭人伝」に書かれている漢字文章の時代相応の解釈から出発するしかないのであり、誰もが初学者の謙虚な姿勢を持たなければならないのです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 6 米田 実 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 改訂 1/1

6 「方」について    米田実        
私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠無き憶測    2019/01/29 改訂 2021/01/21 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 論者米田氏が、正史といえども「一枚岩」でなく、個別の史書特有の言葉遣いがあるとの当然の前提の元に論考している点は支持します。

*「方里」四倍誇張説~根拠の無い思い付き
 提示されているのは、「倭人伝」に登場する海国「方四百里」、一大国「方三百里」が、方形一辺でなく周回里数「周方里」との「思い付き」であり、これを採用すれば、一里百㍍程度の「短里」でなく一里四百㍍程度の魏晋里「長里」(普通里)でも、面積が四分の一なので辻褄が合うというものです。
 これは、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』で提示し、広く支持を得た「短里」説への「異議」ですが、その論証は空を切っています。

*ダメ出し~「周方里」はなかった
 「思い付き」を作業仮説とするには、要件が欠落しています。つまり、「周方里」記法の「典拠」がないことから、ご都合主義のこじつけと見られるのです。史官が、古典書ないしは周知の文書に典拠のない表記を採用することは、あり得ません。無法な表記に対して、高官の非難を浴びて職を失うからです。

 はなから不適格と判断される「思い付き」の具体的な内容批判は、言いがかりを買う可能性が高いので禁物ですが、ここでは、素人なりにダメ出ししてみます。

 当時、「大海」中の未踏の海島の外形を知るのは不可能です。また、対海、一大両国には、そのような不可能任務を果たす義務はないのです。

 氏の言う「周方里」は、全て、後世人の夢想、憶測であって、一切実在せず、古代史学を議論する場に取り上げるべきではないのです。

*散漫な考察~徒労の蓄積
 氏は、「史記」、「後漢書」、「魏書」(北魏「後魏書」)に考察を広げますが、全て地上でありながら、地名比定等が憶測で一向に定まらず、更に、「方里」の意味は、時代、地域によって不確定と見られますから、さながら、底なしの泥沼に岩盤基礎を求めるようなものです。

 確たる論拠は、一件で足るのですが、憶測を無数に積み上げ、紙数、字数を費やしても論拠にはならないので、持論弁護の議論は収束しません。ということで、この部分は、いくら身を入れようとしても、つかみ所がなく意図不明です。

 比較的評判の良い「三国志」等の孫氏記事「江東方数千里」ですが、長江下流域らしい「江東」が定まらない上に「方数千里」が具体的にどんな数値なのか、皆目不明ですから、何の支えにもならないのです。単なる風評の類いですから、「数千里」という慣用表現を、無理矢理概数表現に落とし込むという誤解の是正にまで、当方の筆が及ばないのです。「つけるクスリがない」というわけではないのですが、同意も助言もできないのです。

*結論~また一つの甲斐なき労苦
 と言うことで、丁寧に読ましていただきましたが、氏の「思い付き」論証は全面的に無効です。当分野で大変ありふれた「泥こね」による理論構築ですが、不在の方を名指しで批判することもできないので、ここは、目前の方を批判するしかないです。

*方里の目的~私見
 倭人伝に関する論証では、当の「倭人伝」を優先精査すべきです。文献考察では、まず、文献に明記されていることと示唆されていることを確定してから、先に進むべきです。

 別記事のように、遅くとも漢代以来官人教養とされた「九章算術」が明記した通り「方里」の「里」は、道里の「里」と異なり、面積単位です。集計された農地は、面積こそ確たるものですが、存在する場所は不確かであり、散在しているので、寄せ集めた形などわかるはずがありません。

 一大国記事の「方可三百里」は、漠たる推定と明記した上での一大国総農地面積表記であり、明示されている三百「平方里」は、十七普通里(8㌔㍍)角ですから、三千許家でも農地が閑散なのは記事と符合します。對海国も大差なく、記事は、両島の貧困を明記しているのです。
 東夷列伝で、「方二千里」などと書かれた諸国で、比較的近隣の高句麗、韓国などの蕃国の領地外形には、全く意味が無いので、誤解してはならないのです。また、当然、對海国、一大国を含めた各国に於いて、精密な実測(実地測量)が行われたはずもなく、元々存在しなかった実測値を憶測するのは、重ねて無意味です。

倭人伝抜粋
始度一海千餘里至對海國。其大官曰卑狗副曰卑奴母離。所居絕㠀方可四百餘里、土地山險多深林道路如禽鹿徑。有千餘戶無良田食海物自活乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國。官亦曰卑狗副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴。
                               以上

                              この項完
追記 2020/10/07
〇常識と非常識 
 氏の論考は、「九章算術」に示されている古代中国の幾何学教程に気づいていないので、『倭人伝に登場する対海国「方四百里」、一大国「方三百里」の形容が、方形一辺でなく方形周回の里数か』二者択一の作業仮説を提示していますが、残念ながら、肝心の「時代常識」を取りこぼしていています。
 肝心の、正当な仮説が選択肢から漏れている二者択一では、いくら熱を入れても、論議が空転します。何か大事なことを忘れていませんか、というところです。
 いや、当ブログ筆者も「九章算術」「方田」「里田」の深意をある程度察することができたのは最近なので、氏共々、中国史料解釈の落第生ということになります。

                   以上

新・私の本棚 8 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作               2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、60ページ近い労作ですが、専門学術誌「計量史研究」の連載記事(1979,80)に加筆訂正を加えたものです。
 初出時の批判、応答を承けて熟成している点が感じ取れます。学術誌掲載ということで、関連史料とそれに関する先賢所説総覧が充実し、百五十件を越える付注も貴重です

 また、冒頭に、過去の邪馬台国論争における諸論輻輳を鎮めるべく核心を提示し、それに即した論考としていて、読者として安心して後を慕うことができます。総合的な論考とは、かくありたいものです。

 氏は、煩雑を厭わず邪馬「台」国論争と書いて、この国名が依然審議中であることを、初心の読者に無用の刷り込みを避けたのは、まことに賢明です。

 当方としては、氏の論文作法に異論は無く、採用史料もところを得ているので、大部の割には短評に止めることができたのです。

*論点の明示
Ⅰ 里(歩)程論争をめぐって
 「はじめに」と総序があり、以下、「従郡至倭」万二千里程の議論です。

*倭人伝里程由来
 「長里説」「短里説」、そして、「地域短里」「魏晋朝短里」は、「里程の謎」に注目している本誌読者諸兄に周知と見て、説明を略します。

 当部分で、当方が参考としたのは、秦漢魏里制は、秦始皇帝の布令に基づくもので、具体的には、戦国諸国を滅ぼして天下を統一した秦が、六尺を一歩(ぶ)とし、(結果として)三百歩を一里とするという単位系徹底宣言であったという主張です。
 時に言うように、秦が普通の周制を廃したものと限らず、「同文同軌」の一環として、秦度量衡により諸国度量衡を全廃、統一したものです。
 つまり、秦支配下の諸地は悉く秦制を敷いたのです。法治主義により、全国に官吏を派遣して苛政を押しつけ徹底させた秦ですから、間違いないところです。

*「魏晋朝短里」説の非道
 当説は、古田武彦氏が、安本美典氏提唱の倭人伝短里を採用する際に、そのような「里」は、三国志編者陳寿の編纂方針によるものとの理解から、「魏志の里制が短里」と確信したことから生まれ、論証課題として、三国志の里制記事検証という壮図が生じたものと見えます
 
 
古田氏は、当初、魏朝創業の文帝曹丕が、秦漢旧弊を廃する目的で里制改訂したと推定したのですが、特に史料に根拠はなく、また、三国志全本文の各用例の検証は、労苦を厭わぬ壮挙と賞賛を惜しまないものの、素人目には不調に終わったと見えます。東呉孫氏政権は、後漢を尊崇していたし、蜀漢の劉氏政権は、両漢の正統な継承者を名乗っていたので、それぞれ、後漢制度を廃して、曹魏の制度に替えることはあり得ないのです。

 文帝曹丕も、後漢献帝からの禅譲を奉じていて、つまり、漢制の堅持を至上の使命と見ていたものであり、戦時の国内に大混乱必至の里制変更を施行するとは、到底考えられないと見えます。ただし、後継明帝が、先帝の「漢制堅持」の遺訓を覆して、景初改暦、祭礼変更と共に「里制改訂」を布令した(と見える)などの反論mありますが、切りがつかないので、以下別義とします。
 
冷静に見れば、三国志も、晋書も、この大事件に一切言及していません。つまり、論拠となる文献資料が、皆無なのです。
 
 
私見では、本説は、とうに使命を終え、廃却するべき時が来たと感じるものです。言わば、現役を離れ、殿堂入りする花道が求められているように感じますが、当事者ではないので、何とも申し上げられません。

                               未完

新・私の本棚 8 藤原 俊治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2/2

 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位      藤原俊治
  私の見立て ★★★★☆ 熟読すべき労作      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*里制再確認

 本論諸例でも明らかなように、秦制の六尺一歩、三百歩一里の関係の間に、十歩ー一畝、一里ー三十畝があり、畝は、農耕地の地券台帳などに多用されているので、里と歩だけを独立して動かせないのです。

*始皇帝不改訂の弁
 始皇帝は、諸国の行政機構を全壊させ、いわば更地に秦の法体系の機構を適用するので、大抵の新制度は実施できたのですが、周制と異なる独自里制は敷いていなかったので里制変更は実施しなかったのです。つまり、秦里は周里だったのです。そもそも、秦は、西戎、つまり、西域の蕃夷だったものが、周の指導によって、中原文化に属したので、諸制度は、周に従ったのです。以後、中原諸国から、指導者を招いたので、文明に浴していたのです。

 私見では、秦始皇帝が周里を温存したのは、土地管理、税制の根幹を揺るがすような里制改訂に、絶大な「経済効果」でもあれば別として、本意である精度の高い土地管理、徴税漏れや偏重のない適正課税に何ら寄与しない、どころか、全土に大混乱を招くのが必死だったので、重ねて秦初の里制改訂はなかったのです。何より、自身の国内土地制度を破綻させるような「里制」改訂に取り組むはずがないのです。

 記録にない「幻の周制」に基づいて里制改訂するとは、後世の魏朝皇帝は、とてもとても思いつかず、臣下も奏上しなかったのは、魏志によって明らかです。また、後年編纂された晋書地理志の記事から見ても、秦 漢 魏 晋を通じて、里制の変更はなかったのが明確です。

 魏晋朝短里説は、無理に無理の重なった仮説であり、早々に博物館に引退いただくべき至宝です。

*倭人伝短里説の是非
 以上のように、中原全土に及ぶ里制改訂は「意味なき夢想」ですが、それなら、なぜ倭人伝に短里が成立するのかということです。

 なぜなら、当時そう書いた、と言うしかありません。西域辺境は、中原領域と活発な往き来があり、時に西域都護府がおかれ、中原との交信していたので、里制も同化していたのですが、半島以南の東夷は、中原との交流が困難で、中原側も、現地の抵抗の多い里制改訂を強行しなかったのではないかと思われます。いやも、何も文献史料がないので、その辺りの事情は不明です。

*短里の由来談義
 周制にない短里は、前世(商殷)里制の形骸とも思われ、井田制以前の小規模集落時代のもので、古風として周朝近畿に生きたかとは、勝手な随想です。倭人伝行程道里記事を見ると、その時代その地域に短里が生きていたかのように見えますが、実は、これを証する記事は無いのです。書かれているのは、倭人伝の記事として「郡から狗邪韓国まで七千里と見立てる」との宣言だけなのです。

Ⅱ 中国本土の里数値
 後半は、「魏晋朝短里説」の当否検証ですが、前項批判で論じたように、当方は、全土里制の改訂は不可能と判断し、介入を避けます。

 長里は短里の五ないし六倍であるため、史料での判定が容易と見えますが、時代により、地名や地域観が大きく変わるための曖昧さと、原資料の厳密性の不足とが重なり、断定しがたいものとなって「百年河清無し」に見えます。(「河」は、年中濁流の「河水」つまり、大河「黄河の」ことです)お付き合いせず、申し訳ありません。
 また、その記事の里長が確定できたとしても、それは、その時代その地域で、道里測定がそのようであったと言うだけであり、全国制度を証するものではないのです。あくまで、得意な例外であって、それが、「普通」であったことを証する効力はないのです。そして、そのような例外が、手に余る数に上っても、無効であることに変わりはないのです。全国制度として実施されたことを証するには、帝詔などの公文書が必要であり、あるいは、後世史書や類書に収録されるものでなければならないのです。

*歩制の積み残し
 女王の冢の径百歩の歩数論は、ついにきっちりと語られていないのです。
 何しろ、「歩」が、尺から発した尺度単位なのか、土地制度に発した測量単位なのか、確定した意見が見られないので、論者の意見は動揺しているのです。国家制度の一環である以上、誤解しようのない明快な提議があるはずなのですが、里制論義に伴う泥沼に埋もれているのは、勿体ないところです。

                              この項完

新・私の本棚 9 後藤 義乗 季刊 「邪馬台国」第35号 「里程の謎」 再 1/1

  9 「「魏晋朝短里説」について 赤壁の戦いの用例の検討 後藤義乗
  私の見立て ★☆☆☆☆ 的外れの力作   2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 本論文は、極めて限定されていて、古田武彦氏が、倭人伝里程の「短里」が当時魏朝の公式里制であったと提言した論拠に、陳寿「三国志」の記事を提示したのに対する反論であり、当方が無理と見る「魏晋朝短里説」対象であり、論破すべき敵は、実はあやふやな史料で、それ自体、棄却に足りるのですが、折角の労を尊重して確認したところ、それ故に反論も不明確と言わざるを得なかったのです

*「問題の所在」
 普通、「問題」とは、解答の用意された試験問題のようなものと思いますが、ここでは、古田氏の提言が否定さるべき根拠を言うようです。現代人の書いた文章を現代人が、普通に、すらすらと理解できないというのも、困ったものです。

 氏は、シェークスピアのハムレットばりに、「それは問題だ」と目を剥いているのですが、原文に書かれているのは、questionに過ぎないのです。要は、設問が解けないと言っているのであって、難点を上げているのではないのです。
 あるいは、中高生の参考書、問題集を見て頂いたらわかるように、「問題」は、自身の知識と理解力を駆使して、読み解いて回答すべきものなのです。いつの頃からか、「問題」の二つの意味が混在して、行き違いを招いていますが、当誌に論考を掲載するほどの方は、そのような両義のある表現は避けるか、その場で補足して混乱を避けるものと考えます。

*史料批判

 本論に還ると、ここで古田氏によって論拠とされたのは、陳寿「三国志」「魏志」の陳寿原文ではなく、東呉関係者が編纂した「呉書」に準拠の「呉志」本文でもなく、「周瑜伝」への裴松之付注(裴注)の「江表伝」であって、陳寿は一切関与してない記事であり、裴松之も、校訂していないのですから、ここで説かれているように、古田氏が自説の論拠としたこと自体、まことに不適当です。
 まして、古田氏が、情熱をこめて、軍談中の「里」表示にこだわるのも面妖です。何しろ江水を軽舟で走っているのに、誰が彼我の間隔を測量したというのでしょうか。

*「赤壁の戦い」はなかった
~余談長文御免
 三国志は、曹魏、蜀漢、東呉の三国それぞれが、自国の国志を編纂していた原稿を、陳寿が集成したものであり、用語、視点ともに、必ずしも統一されていません。
 特に、いわゆる「赤壁の戦い」の取扱いは、三国志の各国志で異なり、「魏志」武帝紀には、赤壁の船戦で大敗したと書かれてないのです。

 時は、後漢末期とは言え、献帝建安年間ですから、曹操は、後漢丞相として「官軍」を率いて、長江(揚子江)中流の荊州に、後漢朝に対して不服従の刺史劉表討伐に向かい、劉表没後、荊州劉氏は献帝に帰服し、曹操は使命を完了したものです。
 曹操は、雒陽に帰還する際に、降伏した劉氏水軍を率いて下流南岸の孫権に接近し、穏やかに、曹操の陣に参上して、皇帝への忠誠を示すように要求したところでした。言わば、投降降伏勧告であり、孫権が応じていれば、曹操は、一兵も損ずることなく、東呉兵力を傘下に収め、南北平定を大巾に進捗させていたところです。
 因みに、降服した孫権は、いずれかの僻地に左遷され、歴史の闇に埋もれるところでしたが、配下の諸公は、所領を安堵され、地方領主として、安楽な余生を送ることができたはずです。

 ただ、当時、孫権に寄留していた劉備は、後漢の朝敵だったので、帰服した旧孫権将兵に討伐され、江南の地で消滅していた可能性が高いのですから、劉備は、孫権が降服しないように、懸命に説得したに違いありません。
 「三国志」魏志は、魏に主点が置かれていますから、劉備陣営の画策は、大きく取り上げられていませんが、形勢から見て、そのような流れが想定されます。

 周知の通り、孫堅は勧告に応じず、曹操は、荊州水軍を持って東呉水軍と対峙していたところ、自軍内の悪質な病気蔓延のため帰郷した
との趣旨です。それまでの曹操の敗戦につきものだった、勇将の戦死は見られません。別に、関羽をはじめとする敵軍猛将の追撃を辛うじてかわして、命からがら官道を逃走したわけではないのです。
 本来、曹操は、後漢丞相として、勅命で荊州討伐とともに逆臣劉備を攻撃しただけで、勅命にない孫権との「戦い」はできなかったのです。

 違勅も大敗も、親族連座の誅殺に値する極めつきの大罪であり、呉が吹聴するような大敗が皇帝の元に報じられれば、曹操はもとより、曹丕、曹植、正夫人など、近親は残らず斬首でした。

*いくさ自慢のほら話~「江表伝」史料批判
 孫権側は、荊州水軍艦船を悪質な威嚇と見て断固攻撃し、火攻めの詭計で大破して大軍を撃退したと自慢ですが、めざましい陸戦はなく、落ち武者狩りにも失敗したようなので、どの程度事実を反映したか不確かです。
 つまり、挙げられているのは、孫権麾下の水軍の手柄話であり、通例に漏れずほら話の正確さは論外なので、本論は名刀で幻を斬る態です。
 因みに、陳寿は、当然、東呉滅亡時に提出され、西晋帝室書庫に保管されていた「呉書」を通読した上で、呉志に採用したのですが、「江表伝」に描かれているような芝居がかった軍談は、もともと「呉書」に採用されていなかったこともあって、呉志に採用しなかったのです。
 裴松之は、劉宋皇帝周辺の意を拝して、あえて「江表伝」を補追したのですが、恐らく、不本意だったものと考えますし、その成り行きは、陳寿の知ったことではなかったのです。

*まとめ
 折角の論文ですが、丁寧に説きほぐしてみると、題材は、古代史論、特に、陳寿「三国志」の魏志の陳寿原本にない記事であり、従って、「倭人伝里程論」に場違いと考えます。いえ、ここで批判しているのは、ほら話や「演義」由来の余談を持ち出した古田氏の無法な提言であり、後藤氏は、言わば、軽率な対応でとばっちりを食ったのかも知れないのです。

                              この項完

新・私の本棚 12 中村 武久 季刊「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

12 「水行」の速さと「陸行」の速さ    中村武久
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 論考途絶、結論暴走        2019/01/31  2019/02/08 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 『「唐六典」をはじめ(とする)諸文献によって考える』との触れ込みで、興味深いのは、「水行」を河川航行とみて推定を始めることです。
 であれば、船速に河川流速が重畳され、流速の遅い江水、つまり長江(揚子江)の場合と流速の速い河水(黄河)のそれぞれで、遡行順行の差が異なるのも当然です。

 「唐六典」 は、公的な漕運の一日行程と運賃の協定内容を定めたものであり、自ずと、苛酷でも怠惰でもない妥当な範囲に落ち着いていたはずです。 他の文献も、同様に、文献としての目的があって規定するなり、記録するなりしているのです。史料として参照する際には、数字の意味を解した上で論議すべきです。文献として、特に目的を持たないとしたら、そのような落書きを参照すべきでありません。

 論者は、流速の影響を中和した船速で、静水に近いとみた海上水行は陸行五十里に近い速度としますが、驚いたことにそれが結論ではないのです。

*論考展開の無理
 氏の論考は、取り敢えずの所、一見、確たる史料に準拠した適確な推定と見えますが、八世紀の「六典」の河川水行規定を、三世紀の海上運行の基準とするのは、元々、無謀な時代錯誤です。
 詳細は具体的に論議するとしても、船舶の形状、重量、漕ぎ船と帆船の差、淡水と
塩水の違いなど、諸々の絶大な差異が、一切考証・評価できていないので、無理無体な暴論と考えます。
 まして、河川の場合は、並行する陸道の測量で道里を設定できますが、海上運行では、それが大変困難です(実際上不可能の意味です)。特に、倭人伝」記事にある水行、即ち、軽快な渡し舟による「渡海」は、並行陸道がないので道里の測りようがなく、従って「唐六典」には、参照項目がないのです。

 甲板と船室のある大型帆船で、航路の確定した河川を行くなら、無寄港、一定行程で連日運航できても、甲板も船室もない小型漕ぎ船は、晴天日の日中だけの運行であり、日を重ねると漕ぎ手の疲労が激しく、とても長丁場の定速運航はできないのは自明です。しばしば、寄港して休息する必要があります。河流の帆走で、人馬を労さない、つまり、労力(費用)の要らない河川航行とは、根本的に道理が違います。

 また、航路不定ないしは不明では、難船を怖れる手探りの水面下確認で、更に低速となり、ますます「唐六典」の規定は適用できないのです。

 更に重大なのは、「唐六典」は、明らかに「普通里」に基づくもので、倭人伝道里に対して時代錯誤となっています。

*河川水行と「海岸沿い水行」(??)の混同・錯誤
 合わせて、河川と海面の航行の違いについて明快な考察がされていないと思われます。
 そもそも、河川上の運送規定用語である「水行」は、海上運送には適用できないことを理解しなければなりません。「海」は「水」ではないのです。全て、古代公式文書に海上を行く水行はない」とするところから始まるのです。ここまで、漢文解釈の規律から外れていたら、以後、「倭人伝」解釈は、迷走の一途を辿るのです。

 具体的には、狗邪韓国―末羅国間の「狗末」行程は、海上ながら、河川水流並み、ないしはそれ以上の激流海流を側面から受け、題材の河川遡行順行とは異なります。そのため、陳寿は、道里行程記事の冒頭で、「倭人伝」行程は、中原の規定では律しきれないので、『海上運送だが、実態は渡し舟なので「水行」として扱う』と、「倭人伝」限定で提言しているのです。
 氏の論議は、万事、架空の当て推量で、実態と遊離しているので、忽ち、論理が崩れます。

*どんでん返し
 以上、善良な読者は、懸命に読解こうとしたのですが、氏は、最後近く、日程記事を里数に換算したとき、(結果が)短里との「保証はない」と突如逃げます取り残された読者は、短里に換算すれば短里が出るだけ、と解するので、突然の敵前逃亡を奇っ怪と歎くだけです。別に、氏に、短里制を「保証」してくれと懇願したわけではないのです。むしろ、こうした浅薄で勘違いだらけの「保証」は、ない方がましです

 続いて、突然、正史「晋書」ならぬ、その存在すら不確実な佚文資料「晋紀」の漠たる表現を根拠に、冒頭提言に反して魏晋代一日行程を長里四十里として脱線し、勝手読みで伊都国~邪馬台国区間を陸行一月としておいて、実距離百㌖に一月は不合理とその場で転倒します。根拠不明。論理不明の衝動的見解は、読者の頭から泥水をぶっかけるような「サブライズ」であり、論考として無茶です。

 このように、筋を通そうとしていたと見える論考を、いわばちゃぶ台返しして、いたずらに混沌を掻き立て、「倭人伝」記事の目的は所要日数であり、里数・方位は虚飾と放言します。このどんでん返しは、まじめな読者を愚弄するものです。なぜ、一発退場にできなかったのか、不審です。

 これでは、まじめに、倭人伝の行程道里の意義を論じているものは、みんな、氏と同類のペテン師と見なされて、溜まりません。そうでなくても、歴史学の研究者は、みんな嘘つきだという趣旨の放言が出回っていて、迷惑しているのです。

*結論
 氏の論考は、具体的な史料に基づいて開始しながら、中原大河から海面、さらには、実情不明の国内河川にと、適用対象が動揺して不確かであるために、論理が錯綜したことに自身が耐えられず、破綻と感じた着実な論考を無残に放棄して、独断に堕しているのは、読者として耐えがたい乱行です。

 とても、学問の道とは思えません。
                             この項完

新・私の本棚 14 早川 清治 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1

14 「魏志」「倭人伝」の方位        早川清治
  私の見立て ★☆☆☆☆ 論考不在、疑問山積         2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 本論は、「人は、自身のいる地点での正確な方位を知ることが困難だという非科学的、かつ情緒的で理不尽な見解を読者に押しつけている」ものであり、そのために、倭人伝方位は、時に大きく錯誤しているという説です。さすがに、郡から狗邪韓国までは、郡に既知の行程であったから、その間の方位は正確として、それ以後は、魏使の誤解が連発していたと言うものです。

 そのような理不尽な見解を学問的仮説と言うには、確実な論証が論者のけじめというものです。これでは、論者が合理的な思考ができず、検証努力を怠って、思い付きを言い散らす悪癖の持ち主だと語っている(自嘲している)ことになります。まことに、勿体ないことです。

 なぜ、誰も、自滅的発言をやめるように忠告しないのでしょうか。

*方位混乱説の背景
 要は、氏が倭人伝を解釈したところでは、九州島到着後の行程の方位が、氏が比定した諸国間の方位に合わないとして、そのような無理を唱えるのです。その根拠として、論者は、自身の体験と称して、半ば自罰的に方向音痴を語ったのですが、それが、古代人に通用しないことは自明であるから紙数の無駄です。氏の倭人伝解釈、氏の諸国比定と方位解釈のそれぞれが、適確なものだという検証が抜けていますから、無意味な発言です。
 要は、自分が正しいに決まっているから、陳寿が間違っているに決まっているという論理ですが、勝手なものです。

 古来、現代の素人のうろ覚えの知識や体験をもとに、古代人の錯誤を論ずる例が多々見られますが、それは、現代人のいい加減さを語っているだけであって、古代人の見識を見くびった愚考に過ぎません。現代の読者や聴衆を騙せても、学問の徒は騙せないのです。

 いや、堂々と、「狗邪韓国から末羅国は、東南であって南でない」と頑張っていますが、これは、別の意味で錯誤です。
 倭人伝冒頭で「倭人は帯方郡の東南」としていますが、これは、帯方郡治から倭人の王治を見たとの想定で、八分方位で書いていて、行程に際しては、八分方位で言うほど厳密な方位観が得られないのを想定して、概ね南とか言っているのです。

 又、陸上行程では、追分でどの道を行くべきか指示するもので、後は道なりに進めば良いから、書かれているのは出発点の道しるべに書くような方位でよいのです。

 それぞれの方位には、それ自体の意義と有効性が付いているので、大人は大人の読み方をすべきです。まして、知的な嬰児は、言うまでもないでしょう。そうした解釈を経て、やはり、古代人が方向音痴だったと主張するのなら、それなりの信を置くことができますが、本論の目的は、里程説の解釈であって、古代人の方向音痴の立証ではないのを忘れています。 

 場違いな方位観、綿密すぎる照合・校正は、古代人には無関係で、かたや、魏使随行の専門家集団は、現地の情報提供がなかったとしても、少なくとも、毎宿泊地での(数日どころではない)天測で正確な、つまり、かなりおおざっぱとしても、実用になる程度の確かさを得ていた方位を得ていたでしょうから、論考に書き足されているような時代錯誤の余談は無用なのです。
 それとも、当時の関係者全員が方向音痴で、それが、洛陽の陳寿に伝染したというのでしょうか。大胆な思い付きですが、検証可能でしょうか。

*結論

 当論文を通読して感じるのは、魏志の行程道里を勝手に解釈して展開し、それでは、「実際」、つまり、氏の思い付きである勝手な「比定地」 と「行程道里」に合わないから、辻褄の合うような方位間違いを主張するという本末転倒の展開です。
 このように手ぶらでできる難詰は、言う方だけ気楽な混ぜっ返しに過ぎません。無責任なヤジは厳禁です。

 ここまで出てきたように、それは足に合う靴を探すのでなく、手に触れた靴に足を削って合わせる愚なのです。それでも、自分の足を削っても痛くも痒くもない人は、なんの苦痛もないのでしょうが、一般の人は、身を削る痛みには耐えられないのです。

 そろそろ、勝手読みの行程道里解釈で方位読替えすることに、学問的に意義があるどうか、必要かどうか、まじめな論考を聞きたいものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                              この項完

新・私の本棚 15 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

 15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程 山田平
  私の見立て ☆☆☆☆☆ 疑問山積、無意味な展開     2019/01/29 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*序論
 正直言って、国内史書は、当方の「圏外」なので、論議を避けたいところです。氏は、日本書紀(書紀)の不可解な点を一つでも減らそうと、一大仮説を提示しています。但し、倭人伝の書かれた時点で、「日本書紀」は、影も形もないので、倭人伝解釈の根拠を求めても無意味です。

*倒錯旅程の謎
 書紀の編者は、乏しい史料記事を素材とした「フィクション」の構築、つまり、史書の編纂にあたって、書庫の魏志史料の記事を参照して、まずは、神功皇后の所伝の基礎として、卑弥呼と壱与の遣使記事を、晋起居註まで取り入れて利用し、さらには、倭人伝の旅程記事を倒錯して焼き直し、神功皇后の新羅侵攻記事の旅程に利用したとしているのです。まことに、持って回った手前味噌ですが、それが、倭人伝里程論に何の関係があるのか、ついていけません。

 議論が倒錯しているのか、転覆しているのか、素人には、見当もつきません。ここでは、倭人伝里程の議論が求められているのであり、書紀の辻褄合わせ論議を求めているのではないのです。

*結論
 いやはや、大変な大事業ですが、何のためにそこまで無理に無理を重ねて、書紀の再解釈に努めるのかわかりません。

 無資格の門外漢とも見られかねない方が、堂々と私見をここに公開する気が知れません。

 素人考えで恐縮ですが、倭人伝談義に、何らかの外部資料を持ち込むなら、『当該資料の依拠資料、編纂過程、編纂者の身元/素行調査、原本の現時点での所在、現存写本の信頼性、各刻本の実態など、三国志に対して要求されたと同様の大量の身元資料を提出するのが「常識」ではないでしょうか。そこから、はじめて、倭人伝規準で言う外部資料/外国資料の史料批判ができるわけです。
 そこまでの試練を経ても、史料自体と対等の立場ではないのです。

 議論は、起点の確立が必要です。別世界、外国の視点を無造作に持ち込むのは、学問の道を外れています。
 精神論のように聞こえるかも知れませんが、科学的な観測/測定 では、観測/測定に使用する機器、依拠する原器/物差の校正が最初に成すべき事なのです。
 物差が違っていては
、議論が成り立たないと言うだけです。

                              この項完

新・私の本棚 16 謝 銘仁 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

 16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観        謝銘仁
  私の見立て ★☆☆☆☆ 発見無し   2019/01/31 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11

*序論
 本論文で説かれるのは、「倭人」の地理観であり里程論ではありません。つまり、課題を見失った場違いなのです。
 倭地が、漢書地理志で紹介された海南島、朱崖、儋耳と対比されていると見えることの背景を述べていても、だからといって格別に斬新でないように思います。別に謎でもない話題に、別に斬新でもない解を与えているのに、掲載する価値はあったのでしょうか。
 いえ、謝銘仁氏に求められているのは、長年の論争のほんの一部でもいいから、闇に一条の光を当てる論文と思うのです。

*倭人伝史料批判
 倭人伝の中で、倭地の風土、風俗を、海南島、朱崖、儋耳のものと対比しているのは、明らかに洛陽人の意見であり、最終的には、陳寿の見識と見なすべきだという事に異論はありません。但し、そのように概観した背景は、論ずる余地があると思います。
 付け足すなら、同じ倭地でも、北九州、玄界灘沿岸と「薩摩」とでは、大いに風土、気候は異なるように感じます。温暖と言うより暑熱と見える海南島と対比されたのは、どちらなのでしょうか。

 まずは、倭人伝里程記事を当時の里長で絵解きすると、倭地は海南島にも及ぶ南方に展開しているから、引き合いに出したという理解です。この解釈を言い立てるのは、畿内論者が多いようです。魏志行程を、何が何でも、わが地に引きつけようとしているようです。

 あるいは、当時の中原人の地理認識で、漢書地理志によって海島として、ほぼ唯一知られていた海南島と、倭人伝で初めて対比例として紹介された東夷倭人の住む海島とが、「世界にただ二つ、海島という点で共通している」との視点から、ここに海南島の海島風俗を取り上げたという理解です。

 当方の意見では、陳寿は、「倭人伝の里程、方位が、正確、厳密なものでなく、むしろ、不確かなものである」と認識していたのであり、倭地がどの程度の南方か確言できないと見て、漠然と比較したと見るものです。

 当方は、陳寿の倭地地理観をそのように見て、その主旨から理解しているものであり、前者の理解に立つ論に対して、一考に値する、言下に棄却すべきでないと信ずる異説を立てるものです。

 さいわい、氏は、文献解釈の大家であるので、このような異説を無下に廃却しないものと信じて、ここに提言します。

*結論
 謝氏ほどの権威から、中国人ならではの語学解釈が聞けないのは残念です。また、氏ほど博学なかたが、裸国・黒歯国記事解釈で足元が乱れるのは残念です。
 一旦、「また裸国・黒歯国ありて、さらにその東南にあり」と書いておいて、ただちに「裸国・黒歯国は、さらにその東南にあり」と言葉を変えるのは不可解です。そもそも、見るからに字数稼ぎ、不体裁で、この程度の不体裁は、編集部で校正してほしいものです。
 「船行一年」を、そのような「航路」と論じていますが、そもそも、倭人伝時代に「航路」なる言葉は「ありえない」のに、根拠不明で両断するのも不可解です。
 とは言え、「航路」、あえて解釈すると、「一種の街道」が確立されたほど往来があれば、一年の航行の間の停泊地が必須です。中国古代文に堪能なはずのかたですから、「倭人伝」にとどまらず「三国志」にも用例のない「航路」の意味、さらには「路」の重大な意義はご承知と思いますから、出し惜しみせずにご教示いただきたいのです。

 手の内を見せないために、別記事で、高校生に揶揄されるようなはめに落ちているのではないかと危惧します。

 と言うことで、本誌の特集に、この程度の随想しか寄稿されなかったことに、大変失望しているのです。まさか、早々に、殿堂入りして「レジェント」扱いで、神棚に登って満足されたのかとも思えないのですが。

                             この項完

新・私の本棚 17 まとめ 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1

                      2019/01/30 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09
〇総評に代えて

 以上の通り、一介の私人としての全力を振るって、全論文の書評を試みましたが、ここまでのブログ記事で、独自見解と示唆して公開している私見で、知らないうちに先人の見解を勝手に下敷きにしていたものは無いようで、ほっとしています。

 編集部の総括を参考に読解を試みたのですが、ここに総力特集を提示したにも拘わらず、依然として混沌たる状況に見えて不満があります。
 特に難があるのは、「里程の謎」と題して、「謎」の解法を募ったはずなのに、見当違いな論説を寄せている論者が、結構多いのである。特に問題なのは、「倭人伝」の文献解釈をはなから放棄して、つまり、難題に降参して、「思い付き」を展開している例が少なくないのです。
 結果として、ここに衆知を集めたにも拘わらず、「謎」の解明か進まなかったということです。

〇方位感の確立について

 一つには、倭人伝の里程方位は、魏使が日の出方位を真東と誤解したために方位記録を間違えたという、低級な愚説が廃却されていないことです。

 古代人は、方位を非常に重視していて、国王居所は、当然、正確な方位感で建てられていたので、訪問者は、方位を聞く必要がなかったのです。そのような方位感の確認は、交流の大前提であり、訪問者が日の出方位で勝手に方位感を更新するなどあり得ないことです。

 無駄覚悟で深追いすると、帯方郡民の魏使は、郡地の日の出が、季節によって真東から外れることは、承知していて、倭地に赴いても、季節による方位認識の誤解は、あり得ないのです。俗説は、随分、古代人の知性を見くびっているのに驚きます。

 当時の方位認識は、太陽観測から得られていたのは明らかですが、その観測精度は、小振りな日時計程度から、夏至冬至を確定するための高度観測も可能な大規模施設まで種々考えられます。観測点での測定精度確立は、国王威信の根拠であるため優先的に施設整備し、広く誇示されていたのです。
 ただし、里程の方位の目的は、道案内であり、方位精度は大まかで十分だったのです。

 以上、ものの道理を尽くした個人的な最善の考察であり、軽薄な現代人感覚を強く打ち消すために、強い表現をとっていますが、別に、史料、遺跡、遺物を得ているわけではないので、漠たる思索との批判は甘受します。

〇誇張説の廃却
 今となっては意義の無い「誇張説」は、廃却されるべきと考えます。
 誇張の根拠である実態里長論は地名比定の余燼として「誇張」と切り離し、時代錯誤で非科学的な「陰謀」説は、史学論争から排除すべきでしょう。

〇魏晋朝短里説の廃却~「倭人伝道里」待望
 本説は、編集部が総括したように、本質的に無効な主張であり意義の無い一説に過ぎないのです。そして、魏晋朝短里説を廃却しても、地域短里説は微動だにしないのです。
 丁寧に言うと、郡から狗邪韓国まで七千里、全行程一万二千里との二点が比定されない限り、これらの「道里」は、四百五十㍍でなく、七十五㍍でしかないのです。
 いや、それは、当時の漢魏帯方郡管内で、一里七十五㍍が制度として施行されていたと主張しているのではないのです。倭人伝の道里が、七十五㍍基準で書かれていると言うだけなのです。帯方郡地域短里説と区別するとすれば、「倭人伝道里」説と呼ぶべきものです。

 無効な主張の細部に対して反論すると、本説は有効と見なされて、論争の収束に逆行するので、曖昧な反論はすべきでないのです。
 
〇まとめ
 本号の絶大な努力に拘わらず、里程説の「謎」は、原初の混沌が、一向に晴れないことから、古代史論争の決着は、今後とも、永遠、遼遠と見るものです。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。

                             書評完

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