新・私の本棚 2 松井 芳明 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/1
2 魏使は、遠賀川を遡った 松井芳明
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積 2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11
*前置き
当論文は、里程論と言うより人口論のおまけであり、その点で、同誌特集の趣旨を外れかけているとともに、当方の守備範囲を外れています。
当然、行程記事は順行型解釈であり、「投馬国から南水行十日、陸行一月で王城に到る」と解釈しているので、当方の仮説とは別次元となっています。つまり、重ね重ね批判の対象外です。
と言うものの、不審な点は率直に指摘します。
*「母なる淀川」賛
当方としては、実見したことのない遠賀川が緩やかな流れであることにとやかく言う資格はないので、論評はご遠慮します。但し、いかなる河勢であろうと、たっぷり荷を積んだ荷船を、流れに逆らって漕ぎ上がるのは、大変な重労働であり、この点を考慮しない「水行」論は、ただの思い付きに過ぎません。と言っても、川岸から、人海戦術で曳き船するのも、所詮、船体を引き摺っているのに等しく、労力の大半は空費されることになります。
引き合いに出された二大河川の一つ、淀川は、太古以来、上流に安定した水源と琵琶湖があり、途中に大規模な調整池、巨椋池などもあったので、豊富で安定した水量、しかも緩やかな流れであったであろうとの推定には同感です。
古代に於いて、淀川水系は、河内の大動脈だけでなく、伏見から琵琶湖への流れと、南流木津川の中流で下船して、南のなら山を越えて奈良盆地に入る流れと、二大「幹線」を擁していました。偉大な、母なる大河と言うべきです。
*あて違いな大和川
ここで、随分不審なのは、大和川は太古以来、緩やかな流れであったとの評価です。何か、具体的な根拠をお持ちなのでしょうか。
大和川は、今日の川筋と異なり、江戸時代に大規模な付け替えで河内平野南部を西に一直線に流れる天井川に改造される以前の旧大和川は、奈良盆地から奔流となって下っていて、南河内から合流する石川と共に、河内平野に土砂をまき散らす急流だったのです。つまり、河内平野は、その堆積の大半が、渇水期はあっても雨期の急流を齎した大和川の賜物と思うです。そんな途方もない暴れ川が、「緩やかな流れ」で河内奈良間の水運を支えていたとは、何かの勘違いだと思うのです。
ちなみに、入念な治水工事が施された現代に於いても、水源地帯で広く豪雨に見舞われるなど、歴史的な出水時には、広域で氾濫する暴れ川であることは変わっていません。
重ねて言いますが、琵琶湖という水瓶を水源とする淀川は、水量豊富で安定しているという点で、他に例を見ない大河なのです。この点の認識が甘ければ、机上の曲芸で無理な類推を捻り出していることになります。
この部分の展開は、論考全体の信頼性を損なっているので、一度、情報源を確認いただきたいのです。
*遠すぎる回り道
また、遠賀川上流の投馬国から王城へどう行くにしても、もともと、伊都国から南に直行すれば、僅かな、あるいは、そこそこの日数で王城到着するのに、わざわざ漕ぎ手に負担のかかる河川遡行で、延々と道草を食うのか同感しがたいのです。いや、これは、氏以外の巡行方行程説に共通するのですが、ここでも持ち出すことにしました。
図示された鉄道路線比喩は、氏ほどの見識の持ち主にしては大変不出来です。(友人に言うとしたら、「アホか」です)ご自身は納得しているのでしょうが、古代人の目で見た時どう感じられるかのだめ出しが欠けているように思えます。
使節視点で言うと、鹿児島(?)から、百人になりそうな大勢で、大層な重荷を引っ提げて、延々人力車輌(鉄道比喩です。念のため)で長旅し、疲労困憊で東京目前の品川に着いたのに、なぜ、その上に何日も掛けて渋谷、新宿、池袋、上野、秋葉原と大迂回するのかという事です。
使節団自身の辛苦に加えて、現地採用の荷運び人夫は嵩むし、人力車輌の運行もあって労力は厖大、各駅一泊で地元は負担厖大です。
図示したのは、古代の難業を意識の外に追いやり、今日の電車移動並の楽勝との見せかけ(イリュージョン)でしょうか。電車でも、電気無しの手押しとなれば、車体重量が厖大で、楽勝とはほど遠いので、妥当な比喩としては、トロッコ押しでも想定するのでしょうか。
また、本編に還って、大量の下賜物を抱えた使節団の行程に限るとしても、普段は官道として使用していないはずの山越えの裏街道を、なぜ長々と道中するのか。大変、大変不思議です。
これは、当方が、放射行程、即ち、伊都国から王城の軽快な行程解釈に荷担して、道草論に荷担しない理由でもあります。
人口論にも、行程道草論の本体にも深入りしませんが、よほど丁寧に、真剣に説き聞かせていただかないと、時代錯誤、世界観錯誤の重層で、不審感の重ね塗りになります。
*行きすぎた分岐点 2023/06/11
初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。
この項完
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