新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 2/5
「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19
*狗邪韓国まで七千里
素人考えでは、途方もない前世紀の怪物が史学界を徘徊しています。
郡から狗邪韓国までの「街道」、つまり、中国制度で定めた連絡路が真一文字に東南に通じているのに、大きく迂回して、官制にない、危険この上ない海上を行く想定は、あり得ない、一種の怪談です。法制は別としても、魏使、郡使は皇帝下賜物を抱え、剣呑な海上を行くはずはないのです。
郡の定例文書便は、普段は日程計算できる徒歩行、ないしは騎馬行で、時に緊急便として騎馬疾駆するものです。いずれも、中継駅で人馬交代する駅伝を採用して日程厳守です。当てにならない船便を起用するわけがありません。はなから、無法な論外なので、倭人伝に、いきなり出て来ることはないのです。
海上経路を仮想すると、漕ぎ手も水先案内も屡々交代しますが、郡から僻遠の馬韓南部の、物資の流通は希薄なので、そのような体制は、到底維持できないのです。加えて、南岸多島海は難破必至で、とても生きて完漕できないのです。
韓伝も倭人伝も、そうした難関に言及してないのは、「海上経路など無かった」からです。
いや、この「水行」行程は、妖怪が不吉なら見事な画餅です。更に言うと、南下から東進に転ずる展開点が不明では、道中案内として大変な不備です。
*最初の暗転
氏は、そのような「あり得ない」「水行七千里」を無批判に採用します。
異論に挙げた古田、中島両氏の論は、眼をつむっても歩ける大地の「道」を通行するので、優に百年の実績があり、宿駅整備、所要日数も郡規になっているはずです。氏は、「石橋を叩いて渡る」の故事を失念して、石橋どころか、揺らぎ続ける木船に命を預けるというのです。
氏も引用する帯方郡下の弁辰産鉄は、所定の運送手段、最短経路で両郡に運ばれ、日限のある輸送は、不安定な海上「迂回」路でないのは明白でしょう。
郡~狗邪陸路ですが、郡治から概して東、南に下り、途中、竹嶺(チュンニョン)の険で小白山地を越える経路は、地図上の直線と大差なく、里数は概数に紛れるはずです。(峠道と言いたいところですが、「峠」は、中国語にない「国字」なので、不適切なのです)
*水行と渡海
それぞれ千里の渡しですが、実測は無意味です。一日がかりの長丁場に過ぎず、千里に距離としての意義はないので、現代人が地図上の「距離」なり想定航路長と対照した数字に意味はなく、郡~狗邪間の街道とと同列に論ずべきではありません。
*里程論に提言
あえて、郡~狗邪行程を元に倭人伝「里」を推定すれば八十㍍程度で、氏の言う九十㍍と大差ないのですが、郡が「実際に」、つまり、後漢~魏の機関として、そのような「普通里」に反する里を敷いたとの根拠はないのです。
素人考えでは、陳寿が、魏史編纂段階で、恐らく公孫氏時代に提出された原資料の「万二千里」に妥協して、特に宣言した倭人伝「里」と見えるのです。いくら不合理でも、既に皇帝の閲覧/印璽を得た公文書は、改訂できないのです。そうでもなければ、正史としてのけじめがつかないのです。
氏が何気なく書いた道里論を考察するには、以上のような厖大な論議をたて、更に論議を重ねる必要があります。追試のない無批判な追従は、不用意で不信を招くだけです。ちなみに、当方は、倭人伝戸数里数談義に挑んだものの、諸兄諸論の検証に、多大な消耗を重ねたものです。
諸兄が各国比定を論じる場合は、郡~狗邪行程に両論ありと流して、取っつきに『倭人伝里は、百㍍より短い八十㍍程度と見られるので、以下、この「倭里」を規準とします。』との「臨時定義」が賢明でしょう。「臨時定義」 は、ある意味「地域定義」(local)であり、定義位置から、倭人伝結尾までに限定して有効です。 あるいは、提示された「倭人」世界に専用です。
本論以前に、中途半端な口説で躓き石をまかないことです。
〇端的でない路程
氏は、続いて、「2 帯方郡から狗邪韓国まで」と題して、行程を論じますが、倭人伝に関して、解釈に異論が絶えない、そして、異論が克服さてれいない岩波文庫の現代語訳をもとに解釈して、先に参照した奥野氏の解読などの有力な異論を参照しないのは不審です。以下、同様です。
当記事と違って、紙数があるので、依拠資料は丁寧に明示すべきでしょう。
未完
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