新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 4/5
「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19
*「禽鹿徑」談義
「禽鹿徑」は、道里行程用語ではなく、つまり、「径」は、「道」「路」と異なり、官制外であって、路面整備も宿駅もないのです。
倭地に「道」や「路」が一切ないわけはありません。「市糴」は大小軽重交易物の搬送で道路が必須です。ここは、例外特記なのです。何しろ、対海国は、渡海して至り渡海して去るので、陸上行程は官道ではなく、道里もないのです。
つまり、「禽鹿徑」は、恐らく峠越えの近道、間道で、例外的に路面が荒れた坂道であり、二本脚の「痩せ馬」が喘ぐような隘路との趣旨でしょう。「市糴路」とすれば、ほんの一部としか思えないのです。
因みに、某サイトで、「けものみち」と称する写真が、無造作に掲示されていましたが、何も「みち」らしいものは映っていないので、困りました。いくらけものでも、藪が踏み分けられていなければ、通れないのです。まして、人馬といいながら、馬や騾馬の力を借りられないのでは、「痩せ馬」のお世話にならざるを得ないのです。(峠は、「漢字」ではないのですが、適当な中国語が無いの、代えられないのです)
これまでに出てきた郡~狗邪の長途は、通い慣れた、人馬の通行を前提に整備された街道筋であり、概して「陸道」です。半島中央の小白山地の竹嶺(チュンニョン)越だけは、鹿数頭が並べる程度の山道(three deer abreast?)と見えるので、一見「禽鹿徑」のようですが、傾斜を緩和するつづら折れは人馬の路ならではの整備された姿です。と言うことで、寸鉄人を刺す史官の筆を見くびるのは損です。
因みに、後に、末羅国でことさら「陸行」と書いたのは、そこまでの「道」のない不正規の渡海「水行」が、正規の「陸道」に戻ったと確認しているのです。別に、一貫して、渡船に乗り続けたものではないのです。(以下、「女王居処」までの行程道里で、陳寿の辞書による「水行」はないのです。つまり、投馬国への水行は別儀なのです)
▢一大条~余談あり
氏は、榊原氏の言う「一大島内陸行」を否定する論拠として、倭人伝に記述がないことを挙げますが、書記役や史官が自明と見た記事は割愛されるのです。氏は、他にも、一国で特筆されている事項は、他国でも共通と談じていますが、無断で省略して良いのは、古典、史書で自明とされた事項であり、他は、明記して省略しなければならないのです。
一部論者は、倭人伝の悪路を、倭地の普遍的なものと見ただけでは収まらず、韓地内の状態も同様であった、即ち、韓地内の陸上移動は、危険であったと言い立てていますが、根拠のない暴論に過ぎません。韓地には、つづら折れの山道は会っても、蜀の桟道のような崖に貼り付いた官道などないのです。
確認すると、対海条で「禽鹿径」と書かれているのは、その区間の特定の部分を述べているに過ぎないのです。また、一大国に陸上行程があったとしても、官道ではなく道里もないのです。
倭人伝には、「南北市糴」と書かれていますから、相当量の荷物が往来していたのであり、人が背負って運ぶにしろ、ある程度の整備はされていたとみるべきです。根拠なく倭人の知恵を見くびってはなりません。
市糴の陸上搬送は、小分けして担ぐので担い手に事欠かず、また、日程厳守の文書使等と違い、寸秒を争わないでよいので、万事ゆるゆるです。そもそも、東夷の市糴は、量が知れているのです。むしろ、弁辰産鉄の両郡納入がお荷物でしょうが、その分報われるのです。
それにしても、一部杞憂を示されている向きがありますが、倭地を往還する魏使は士人ですから、自ら荷運びの労を担うことはないのです。正史、副使には、輿などの便が供されたはずであり、士人が、蛮地の泥に足士を置いたとは、書かれていません。
こうした点を見過ごした論議は、「非常識」で難物です。
▢末羅条
素人考えですが、渡船は元来直行のみであり、市糴の荷物を運ぶためには、船を大型化するのでなく、数で稼いだのです。つまり、極力便数を増やしたものと見ます。
渡船が着くと、手近の「臨海倉庫」に荷揚げして陸送に委ね、新たに荷を積み漕ぎ手を代えて、手早く折り返しの帰り船としたと見ます。
深入りして、他にも輸送手段のある陸地に上陸できるのに、いたずらに航路を延ばすと、漕ぎ手が多く必要となり、そんなことでは、積み荷を大して積み込めない渡船の槽運収益は出ないのです。現代風に言うと、難所の漕ぎ手という専門職、高給取りの人件費がどんどん募るのです。
まして、荒海を漕ぎ渡るために頑丈に作られた渡海船で、内陸河川を漕ぎ上るなど無謀そのものです。まして、渡海船の山越えなど、無謀の極みです。漕ぎ手込みの全重量の大半は、船隊であり、遡行するだけでも、無謀です。非常識は、時代を越えて非常識なのです。
*草木繁茂
書かれている「草木繁茂」ですが、酷評だけではないのです。
各国は、市糴の運送、通行に支障ない程度に公道を整備していたはずです。それでも、ちょっと油断する目と草木が繁るのは、温暖湿潤な倭地ならではの現象です。稲作の繁盛が想定されていたのかも知れません。これは、乾燥した黄土地帯ではあり得ない景色を特筆(誇張)した賛辞かも知れないのです。
末羅国は、山の迫った海辺ということですが、戸数から見て、結構、農地があり、農耕に勤しむ住民がいて、道路整備に人手不足は無かったはずです。古来、勤労動員は税の要素であり、荷運びにも動員できたのです。後世、律令制度で定めた租庸調と並べた税務三要素の一件なのです。
▢伊都条
*戸数談義
翰苑所引 魚豢「魏略」引用による万戸想定は、子供じみた錯誤でしょう。
「魏略」は、魏朝史官の手になる同時代一級史料ですが、魏志裴注での「西戎伝」全文引用が、魏志同等の最上の継承がされているのに対して、残る諸書所引の佚文は、書印された時点から史料として粗雑であり、それも、子引き、孫引きのうろ覚えと推定されます。
就中、「翰苑」残簡に引用された魚豢「魏略」佚文は、筆写継承の過程で累積したと思われる誤記、誤写が多発していて、厳格な史料批判無しに、文献史料として依拠すべきではないのです。伊都国戸数の史料と見ると、信頼すべき史料と検証されている倭人伝に、千戸単位で書かれている以上、信頼性を検証されていない「万戸」は、誤記とみて排除すべきなのです。この点、本末転倒の議論が徘徊するのは、当分野独特なのか。国内史学会の遺風なのか、不明ですが、場外に排除すべきです。
史料評価て言えば、「翰苑」残簡は、魚豢が責任を持った「魏略」原著の適確な引用とは見えず、そのようないい加減な資料に依存する論理のすすめ方は、粗暴、乱雑です。当ブログ筆者は、入念に「翰苑」残簡の影印本の諸処を点検した上で、史料として信ずるべきでないと提言しているのであり、勝手な印象批評で述べているのではないのです。
それとも、諸兄の手元には、「千」と「万」とを誤写した正史異本史料が山とあるのでしょうか。
正史を訂正するには、参照資料を厳密に史料批判するのが先決です。文献解釈を、見くびっているのではないでしょうか。
史料としての信頼の置けない、「ごみ同然の佚文」で、正史として編纂され継承された大部の倭人伝を改竄するのは、度外れた不当な処理です。
伊都国戸数を言うならば、倭人伝の千餘戸を断固維持するのが正論でしょう。
それにしても、信頼性が不確かなほど、記事が極端なほど、史料として厚く信用されるというのは、どのような妖怪の仕業なのか、いや、別に取り憑かれたいというわけではないのですが。
因みに、「戸」は、耕作地割り当て、課税、徴兵、労務動員の際の規準であり、必ずしも、成人人口の要素ではありません。
例えば、王の居処が、国家の中枢として機能するには、多数の官奴、公務員を要し、また、公費で雇っている公務員に課税するのは無意味であり、また、公務員を勤労動員したり派兵したりすると、国家の機構が機能しなくなるから、官奴の戸を、一般世帯並みに戸数に計上して、課税、徴兵、労務動員 の義務を課してはならないのです。
また、王の居処は、農民比率が低いので、各戸に耕作地を割り当てないかも知れないのです。と言っても、全ての官奴が、専業だったかどうかは、わかりません。
と言うことで、伊都国は、農戸千戸程度であっても、大国、ここでは人口規模の大きい国だった可能性が、十分にあるのです。
*国邑談義~再訪
倭人伝冒頭で予告されているのは、以下の郡倭行程上の各国は、「国邑」、つまり、殷代に中原で展開していたような隔壁集落という確認であり、伊都国は、後代の「国」としては、小規模であった可能性もあるのです。少なくとも、倭人伝は、行程上の各国、對海國、一大国、末羅国、伊都国は、せいぜい数千戸規模の国邑と統一されていて、そのような世界観に従うべきです。
因みに、倭人伝の行程記事から見ると、奴国、不弥国、投馬国は、余傍の国であり、行程上ではないので、無造作に、数万戸と書かれているものと思われます。あるいは、風聞でしかない「レジェンド」、つまり、雲の上の「国」として書かれているのかも知れないのです。
倭人伝の語法、世界観が理解できないために、自説となっている「思い込み」に合うように、不合理な「原典改竄」に走るのであり、虚飾を棄て、わからないことはわからないと認めるべきであり、自己中心の尺度で塗り込めるべきではないのです。
伊都の「津」、船着場に文書や使者が来たとは、身軽な文書便等は、渡船と別仕立ての便船で脚を伸ばしたとの趣旨でしょう。道里談義は、よくよく考えれば明解ですが、現代人の勘で安直に理解できるほど単純ではありません。
▢諸国条
以下、氏は、奴国、不彌、投馬を有力国と見て、国内後世資料や考古学所見、現代地図まで援用して滔々と論じますが、当方は、伊都~倭直行道里専攻で絞り込んでいるので、「有力国」論は圏外、無縁としていて、地理、風土、地名論、国内史料論共々、謹んで読み飛ばしました。おかげで、万事明解です。
そもそも、これら「有力国」が、倭人伝にとって重要と見ていれば、このような書き飛ばしでは済まないのです。倭人伝が主題としている諸国は、行程上の諸国であり、他は、あくまでも余傍のなかば無名の「レジェンド」に過ぎないのです。
▢最後の道里論~根拠を隠した異様な提示
氏の諸国道里論は、世上流布している直線行路を採らず、古田氏創唱と思われる不彌起点放射状行路に見えますが、所要期間は郡基点としています。
どうも、ぽっと出の生煮え新説に無批判に飛びついてさっさと書き抜けたのは、巷間、異議轟々予想され、論文として不用意と見えます。
いや、文意を察するに、氏の支持する河村哲夫氏の指導に従ったものでしょうが、肝心の河村説は、どこにも示されていません。参考資料に掲載はされているのは、一般に流通していない、カルチャーセンターの講義資料であり、席上配布を受けていない、不参加の一般人には、その内容を知ることはできません。ということで、氏の帯方郡起点説提示は、大変無責任なものになっています。
これでは、河村氏の史学者としての名声に泥を塗る形になっています。もっとも、このような大胆な論断を、川村氏自身が、参照可能な論考の形で発表していない点が事の起こりなので、河村氏は、史学者を自認していないのかも知れませんが、何しろ、氏の講義録の原文を目にしていないので、勝手な推定に過ぎません。
いや、後日、史料を取り寄せたのですが、典拠となる記述は見当たらないので困惑しています。
ただし、道里記事が冒頭「従郡至倭」で開始し、諸国を経た後、「女王の居処(都する)ところ」が結末となって、その後に、全行程の水行陸行期間が続いたとの解釈なら、大局的には同感できます。たたし、真理は細部に宿るので、別に大した同感ではないのかも知れません。
*「国邑」道里観~2021/12/11, 19
私見では、倭人伝の世界観に従うと、伊都国の王城である「国邑」と女王居所の王城である「国邑」は、中国古代の聚落の定型として、共通した外部隔壁に囲まれ、同一聚落に包含されていたとも見えます。
であれば、伊都国から先の道里は存在しないのです。この見方は、古田氏の見解と似ていますが、古田氏は、両国とも、王城はそれぞれの「広がりを持つ」支配領域内にあって、王城同士は直接隣接していないが支配領域が接しているので、道里を計上しなかったというものであり、中国古代の常識として、国間道里は、王城間の道里とすると言う定則に反していて、世界観が異なります。
なお、千里単位の道里表記では、十里代の道里は書きようがないし、郡倭道里は里単位のものなので、本来百里単位の道里は、積算計算に乗らず、まして、十里単位の短道里は、計算に弱い読者を混乱させるので、このあたりの道里は、表記を避けているものと思われます。
以上、この場では説明しきれないので、店仕舞いします。
▢異様な投馬国道里
細かく言うと、氏による有力国でありながら道里不明の傍路で済まされている投馬国行程の扱いが何とも面妖で、良くこのような形式不備の論文が、季刊「邪馬台国」誌の懸賞論文審査を通過したかと不思議です。
氏の主張する内容は、氏の考察の結果、氏の見識の反映ですから、尊重するものですが、論文としての形式不備は、それ以前の低次元の欠点なので、ことさら「非難」するものです。
未完
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