私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 3/6
〇その参 掌客の怪 その1
以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。
*鴻廬掌客の誤解
書記記事を読む限り、この時の献使と来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、大和側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。
*三名の絶大な使命
まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は高官です)等三名の掌客任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。前例のない掌客の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。
つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、掌客自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる交信を介した遠隔指導などできないのです。
この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。
*「掌客」語義考
ということで、新任された「掌客」を復習しますが、鴻廬なしのただの「掌客」であり、常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて担当官を速成したようです。
「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
つまり、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)
なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪との勝手な表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。
こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。
*漢制掌客
かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。
「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです)
太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。
*鴻廬寺来歴
高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に、そのような不法な名称は、あってはならないのです。
隋唐制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。
夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。
但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
未完
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