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2021年12月11日 (土)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 3/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
 私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、この間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の異論を紹介していますが、「歴韓国」の歴の解釈だけを掘り下げて、異論不採用の弁としているは不審です。両氏は、実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて、「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。

 古田氏は、今や古典となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時水行南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里行程を提示しています。素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に至る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない行程とするには、賛同しがたいのですが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 それぞれ、誰の口から出た学説であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすとこはできないのです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを河川沿いの「陸行」に止めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄後漢書再評価
 氏は、素人目には魏代史料として二流の范曄後漢書が「国々皆王と称す」と倭人伝を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。

 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。

 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。

 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。
 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。

 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

*異論
 対馬陸行について、榊原氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは、「渡船」の任務を食みだし、回航は、漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 人と物を端的に陸峡越えさせて、南東側から対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などで滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地 内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。
 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて、船体を運ぶ必要がないことから、「船越」は、船荷の峠越えと見る方が理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないので、連年実施できる合理的な輸送法なのです。
 陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 ここで、塩田氏は険路数百里の移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、極めつきの激流とされていて、それなら最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。倭人伝で言う「瀚海」は、やはり、特別の意味を持つと見えるのですが、詳しくはわかりません。ということで、問題提起だけしておきます。

 渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。倭人伝も、区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。

 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。

 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

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