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2021年12月27日 (月)

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 2/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

*「唐六典」趣旨
 規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑えるため、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。
 ただし、このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、このような全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。

 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、意味の通らない「ジャンク」とされますが、実際は、随分古くから、沿岸や川筋を帆走したでしょうが、ここに規定されているような大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」<による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 なお、川船の海船転用は、安全面の要素も関係して、困難(不可能)ですが、ここでは論議しません。

 ちなみに、これら大河の中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世になっても、橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)で渡船に乗り渡河するのです。ただし、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼っていたというのは、現代になって自動車交通が普及しても、各地に残っていたのであり、例えば、オーストラリアのシドニーでは、長く渡船(フェリー)による連絡交通が残っていました。

*時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」の規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明の域外である「外国」、魏志倭人伝の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝関係者からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のものであり、参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情が違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。

 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外すのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。前期の遣唐使は、「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後は、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など、海上を行くのは極めて短期間で、したがって、荒天も避けられた行程だったので、随分、随分危険が少なかったのです。安全な「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、倭人伝専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
29(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢 」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは荷車が重いためでしょう。特に、登り坂になると、負荷が途端に大きくなるためでしょう。
 「」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、疾駆させる軍用に貴重なので、荷役用には、専ら「驢」を利用したのです。いや、荷役は、ほぼ、大人しい驢馬の担当に決まっていたのです。
 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)ないしは「驢」の荷は、二人で分けていたようです。
 最後に、例外規定として「小舡」が書かれています。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。
 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。何しろ、全国制度から見たら、はしたのはしたですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」には、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然必要不可欠だったのですが、はしたなので、里数には数えなかったのです。

                                未完

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