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2021年12月22日 (水)

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み  改 1/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22

■おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」は、夷人の国、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、「匈奴」は、「敵国」、対等の交渉相手と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」は、漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。

 ただし、そのような蕃人扱いは民族差別と直接関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。

〇その壹 滞在日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。
 受入体制というものの、全く予想外では、何の準備もできていなくて、漢使受け入れの客館は、既に、新羅などの蕃使のねぐらとして準備していたものを流用して準備できたのでしょうか。何の準備もしてなければ、客館新設は、材木伐採、製材、建築と多難であり、資金や人材の準備を脇に置くとして、とにかく、時間のかかるものですから、新築はあり得ず、恐らく、蕃客館を改装したものと見えます。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し王の指示を仰ぎます。横は、奈良盆地にいたことになっていますが、当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道は未整備とおもわれるので、文書使が騎馬で疾駆するのは無理というものです。とても、人馬共に全行程を完走できるはずがないので、要所要所で、文書使も乗馬も交替する人用であります。
 そのような体制ができていて、乗り継ぎで急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ筑紫の宿から発進しても、(河内なる)難波到着は八月以降と思われます。
 長距離を、一応「半分こ」の理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。
 いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な漢使が、整備されたばかりの街道を通過したという輝かしい行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館(蕃夷のねぐら)の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。古来、文官と武官は別の教育、訓練を受けるものであり、隋使が、文林郎なる文官である以上、乗馬訓練などしていないし、徒歩移動などしないので、何かの乗り物で移動するしかないのです。また、乗り物移動でも、連日移動は不可能であるし、天候次第で、移動ができないこともあるので、随分日数をかけて、ゆっくり移動することを要するのです。
 どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。素直で普通の日数計算に対して、二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録を付して、そのままの日数を書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(公里)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。

 街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里程度)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、不明です。それまで、漢使が来訪することなどなかったのに、饗応に相応しい宿場があったというのも、信じがたいものがあります。
 そして、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。

 以上、常識を働かせると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。

 「瀬戸内海航路」なる夢物語が、当然のものとして書かれていますが、漢使到来の際乗船した大型の帆船は、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡という、難所続きの海域を無事に通過することは、到底できなかったものと見えます。大型の帆船は、幅が広く舟底が深く伸びているので、地元の小振りな手漕ぎ船が通れる場合でも、難船してしまうのです。まして、大型の帆船は、手漕ぎ船のように機敏に舵が切れないので、未知の海域で安全に往来することなどできないのです。つまり、ほぼ確実に難船するのです。
 最後に、船客の問題です。筑紫までは、短期間の航行で手慣れた寄港地に入り、食料や水を補い、休養した上で船出していたのですが、当時の瀬戸内海航路は、そのような大型の帆船が寄港した前例がないので、漢使の旅は頓挫しかねないのです。
 と言うことで、難破の危険のない陸路すら、想定外の漢使の対応ができないのに、命の保証のない船の旅など、到底取りようがないのです。

 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できないとは断定できない漢使移動日程を推定すると、河内の難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて百人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(正史で、夷蛮の国に「都」の麗名を与えているのは、安息国だけです)
 時に、後漢西域都督の派遣した漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする夢想が語られることがありますが、どんな国家であろうと、武装した軍官を国内縦断の途に遇するのは問題外です。安息国は、かって、東方からの騎馬の侵略者大月氏に国土を蹂躙され、国王が戦死し、財宝を奪われているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。
 ついでながら、当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。
 かつて、西方の侵略者ローマの四万の大軍を打倒し、一万人の捕虜を得たパルティアは、全員を、全土を縦断して、東方のマーブ要塞に移動させ、常駐二万の国境守備兵の半分をローマ兵に入れ替えたと知られています。時代は、後漢が西域都護を置いていた時代に当たりますが、西域都督の使節がローマ兵を見たかどうかは不明です。
 と言うことで、ますます、東方の夷蕃を王都クテシフォンに招聘することなどなかったのです。まして、敵国ローマの準州に赴くことを許すことはあり得ません。いや、これは、世上にある、ローマ-漢交流という子供じみた空想譚に対する反論であって、目下の漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、国都に招聘すべきでないときは、名代を立てるなり、国都から派遣するなりして、国境付近で引見するのは、むしろ、当然の処置であって、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて、命がけで往復移動させるのは、大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

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