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2021年12月25日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 3/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29

〇コメント~三部作の口切り
 タイトルで予定されるのは「放射説」考察ですが、実は、主として名を挙げられている榎氏提言に対する伊藤氏のグチです。「放射説」と無造作に括っていますが「伊都放射説」でしょう。因みに、「なかった」古田武彦氏は、第一書で「不弥放射説」でした。「考える」際に榎説の「引用」、ないしは、文献参照はなく、個人的解釈を掲げる「独り相撲」が、氏のほぼ一貫した芸風なのです。

〇倭人伝基準論~私見の展開
 文献史料「倭人伝」は、三世紀、権威ある史官が公文書を基に編纂し、当時の権威の承認のもとに魏志に収録されたから、史書として何の問題もなかったと見るものではないでしょうか。以下、その視点で述べますが、私見は私見なりの根拠があると理解の上でご批判いただきたいものです。

〇放射説の由来
 「伊都放射説」の道里は、後に補充された榎氏の論述によれば、伊都国が、現代風に言うと、政治、経済(商業、貿易)交通の要であったことに由来していて、「倭人伝」にも、倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査されるとあり、妥当と思われます。つまり、国王居処と別に国の中心地があったとも解釈できます。ここで、口に出たがる「首都」は、時代錯誤なので自粛しました。特に、当時、蕃王の治所、王城を「都」と書くことはなかったのです。

 因みに、過去先賢が議論したように、例えば、漢書「西域伝」は、夷蛮の国への道里として、帝都(長安)、ないしは、最寄りの「幕府」(西域都護)から蛮王居処への官道道里を示します。これは、漢からの文書通達と回答が届く日数を知るものであり、次いで、兵の動員時の所要日数を知るものですが、後者は、道中の食料、水の補給も関係し、あくまで参考ですが、西域都護の幕府を道里の拠点とする意義は大きいのです。道里の出発点を「郡」とするのは、決して、不当では無いのです。
 古来、皇帝は、蕃夷の末梢まですべて外臣とするものではなく、各方面の対外拠点が適確と認めたものだけを相手にしていたのですから、すべての道里を、管理部門である「鴻廬」の台帳に登録するものではないのです。何しろ「外臣」と認めたら、その王治の遠さに応じて何年かに一度の来貢を予定して、応対の費用を予定し、土産物を用意し、来訪者には、上下の人員に数々の印綬を制作して与えなければならないので、「外臣」は、少ないに越したことはないのです。

 大きい「国」では、王の居処から、国内主要国への方位、道里を示して、王の権威の及ぶ範囲を示しています。国によって、領域概要が述べられますが、国力は戸数で明示されるので、「方里」はあくまで子供だましの「イメージ」(あやかし)に過ぎません。何しろ、収穫高や兵数把握は極めて重要ですが、夷蛮の国の荒れ地の広がりは、知ってもしょうがないので、測量も表示もしないのです。
 つまり、「方里」は、領域面積を示すものではないのです。

*「方里」幻想の正体
 別稿で考証しましたが、「方里」は、対象地域内の耕作地、農地の面積を、例えば、一里四方の方形単位で数えたものであり、現代風に言えば、平方里に相当します。但し、耕作地面積は、個別の農地の登録面積、つまり、管理台帳に書き込まれた歩数を机上で合計したものです。それぞれ、耕作者の「戸」が固定しているので、「戸数」と相関関係があるのですが、一戸あたりの農地割り当ては、地域により、作付け穀物によって異なるので、あくまで地域の「国力」の目安なのです。
 現代風に言う地図上の領域面積は、何千年と思われる歴史を歴て農地開発が進んだ中原諸国ならともかく、未開の山野が続く東夷では、ごく一部が耕作されるに過ぎないので、「国力」の目安にはなりませんから、わざわざ測量することもなければ、表明することもないのです。
 もし、「方里」が、公式の面積単位として運用されていたのなら、史書に満載のはずですが、実際は、確実な記事としては、このように東夷伝に数例あるのに過ぎないのです。恐らく、遼東郡太守が、管内の各国の国力把握のために、特に施行し、皇帝にあてて報告していた「報告書」の名残と見えるのです。
 とは言え、陳寿が採用した以上は、手元に未開の荒れ地を含んだ高句麗、韓国などの国力表示に「方里」を記載した資料が齎されていたのであり、同じ「方里」が、対海国、一大国に限ってとはいえ、倭人に関する資料として記録されている以上、魏志「東夷伝」としては、忠実に掲載しなければならないと感じたはずです。
 思うに、陳壽が「倭人伝」編纂した際には、そのような背景を証する雑資料が少なからず手に入っていたでしょうが、正史には、そのような資料は割愛したものと見えるのです。
 東夷伝に散在する「方里」の意味は、そのような背景を推定すれば、筋が通るように見えるのです。

〇王の居処と伊都国~スープの冷めない近しさか
 当ブログ筆者は、伊都放射説に無批判に追従する者ではなく、伊都以降は、王の居処に直行したとの説です。つまり、奴国、不弥国、投馬国の行程道里は、最終目的地である「倭」への行程の一部ではなく、事のついでに貼り付けられた参考行程と見ています。よく聞き分けていただければ幸いです。
 ここで大事なのは、要点である伊都国と「倭」、つまり王の居処の間が、里程を書くほどもない短距離と事実上明記している点にあります。何しろ、倭人伝の主要行程道里は、千里単位で書かれていますから、百里単位の道里は、末羅~伊都間の繋ぎの部分を除けば、脇道であり、全体道里に関係しないのです。下手に明記すると読者の勘違いを誘うので、避けるのです。
 もう一つの目安は、行程の様子や「至る/到る」国の様子が書かれているかどうかです。「投馬国」は、自称大体五万戸程度の「大国」ですが、行程の内容は書かれていないし、同国の様子は、何も書かれていません。
 また、伊都国に到る行程と伊都国の様子は書かれていても、そこから先は、ここには書かれていないのです。

〇概数道里の道理~夷蕃伝の要件
 古田武彦氏は、概数計算を失念していたためでしょうが、百里単位の整合にとらわれて、対海国、一大国行程に、島巡りの辻褄合わせを述べ、最終行程は「零里」としました。倭人伝は、あえて端(はした)の道里を省いたと思われます。
 「国邑」の本質から、各国の本拠は、領域の一部に過ぎず、伊都国の王処と女王国の王処が共通でない限り、行程道里はゼロではないので、それは、書かずに済ませる理由にはならないのです。古田氏が、結論を焦って、場当たりな論理に陥っている一例です。

 概数計算では、端(はした)を入れて計算すると、大抵の場合帳尻が合わないのです。それは、正確、不正確の問題ではなく、概数計算の持つ宿命なのです。また、末羅~伊都間も百里単位ですが、史官は、現地地理に関心はなく、所詮「余」付千里概数の大局道里と整合しないので、参考として書いてあるに過ぎないのです。

*「従郡至倭」の由来と結末
 倭人伝の「郡から到る」里数は、まだ、倭人の成り行きがわからないうちに、帝都から、最も遠い辺境の地という主旨で書かれたものであり、その時点で、実際の道里など知るはずもなく、まして、精緻に書こうとしたわけでないと思われます。その万二千里で、もっと大事、つまり肝心なのは、郡から到る所要日数と想定すると、伊都国からの道里も方角も、大局に関係しない現地事情に過ぎず「倭人伝」では、細瑾として省いたのでしょう。それぞれの行程は、街道として整備されていたので、「道なり」に進めば目的地に着くのです。また、普段街道を往来している者達は、別に、地図も、道案内も必要としないのです。

*「倭人伝」の必須要件
 つまり、「倭」の王治、王の居処は「帯方郡の東南方」にあり、行程道里は「万二千里」、所要日数は、「水行十日、陸行三十日の計四十日」で、戸数は「七万戸」、諸国は三十国あるので、城数は「三十城」が、必須要目であり、以上で、夷蕃伝の要件を満たしていたのです。
 ここにある「城数」は、倭の国内に、「国邑」と呼べる隔壁集落が、それだけあったと言う事であり、それぞれ、木なのか土なのか石なのかは別として、国主の住まいが千戸台の集落であって、周囲の住民の住まいや農地から隔離されていたという意味です。現地の実情はどうであれ。中原の「国」は、隔壁集落だったので、それに合わせて書かれたのです。

*所在地論の要点/終点
 後は、倭人」の国名が「邪馬壹国」でも「邪馬臺国」でも良く、所在が、筑紫でも纏向でも、帯方郡と四十日で連絡できれば良かったのですが、その要件を復習すると「邪馬壹国」 は、倭人の首長の住まう集落であり、九州北部から海峡を越えて半島に至る交易経路の南にあって、交易を統御していたから、丁寧に考えると、所在地は限られているのです。 後は、時代時代の形勢で、あちこち移動したかも知れないと言うだけですが、「倭人伝」には、卑弥呼時代が語られているだけであり、先立つ、范曄「後漢書」倭伝の書く、後漢桓帝、霊帝、そして献帝時代のことは、范曄自身すらわからないまま、風聞を書き残したと見えるのです。

 と言う事で、倭人伝」は 「伝」の体裁を完備した、一級史料なのです。

                                未完

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