新・私の本棚 4 山田 平 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 再 1/1
4 邪馬台国への道のり 山田 平
私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積 2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/06/11
*序論
「1『魏志』「倭人伝」の旅程」の劈頭、「旅程」記事を「そのまま図にしてみると図1のようになる」と断言します。論者の「そのまま」が、そもそも里程論の混乱の原因なので、ここを無造作に踏み越えるのは、大変不吉ですが、ここは、我慢して読み過ごしておきます。
無駄なので引用しませんが、要するに、「図」と称していても、論理の筋道を図形化した「構想図」などではなく、「倭人伝」里程論に良くある(混乱した)旅程表であり、上から下に通過点を列記して、その間の里数、日数をかき、後は、矢印の追加程度だけで、「説明図」ではないので、読者にしたら、数字の校正くらいしかできないと思うのです。凡そ、稚拙な図は、書いたものの稚拙な「思考」を、稚拙に図示しただけであり、「思考」に共感しない善良な読者には、ちんぷんかんぷんの「ポンチ絵」ですから、氏にとって、百害あって一利なしでしょう。
併せて、当方は、無造作な算用数字多桁記法を見て、この論者は、数字のイロハが、まるでわかっていないと評価するだけです。
要は、この「図」は、氏の史学論者としての限界を露呈しているのであって。自身の解釈を的確に読者に伝える使命を果たしていないと見るのです。所詮は、「対象」を指し示す「指」かも知れませんが、「指」が「指」に見えなくては、その指し示す先は。善良な読者には理解できないのです。
これに対して、論者は、『「図」を一見して、「一里の長さが異常に短い」、あるいは、「旅程が誇張されている」とみてとれる』と自身の早見えを誇示していますが、単に、論者が作図の際に諸資料を参照していて、この「図」の一里が百㍍に満たないとあらかじめ知っているから、そのように見て取れるだけです。普通の常識人たる善良な読者は、何も感じとれず、何も思わないはずです。
まして、「異常に短い」という評価の基準(正常、あるいは尋常の基準)は。一般読者には不明です。むしろ、論者に対して、倭人伝という小宇宙、小天地では、これが正常だよ、と逆に教え諭したくなるところです。
さらに、旅程の「誇張」はどんな現象を言うのか、論者に示して貰わなければわかるはずがないのです。「誇張」と判断する規準となる「誇張無しの旅程」は、「対象史料である倭人伝のどこから見て取れる」のでしょうか。論者の脳内には、ここで読者の拍手がどよめいているのでしょうが、それは、氏の脳内小宇宙だけで聞こえる独善(独りよがり)というものです。
ついでに言うと、正史に虚偽の「報告」を載せたとすると、後世、ことが露見するから、その際には、皇帝を欺いた大罪で一族郎党皆殺しとなることは、だれもが承知であり、そのような大罪を犯すものがいるとは思えないのです。
斯くの如き、ベタベタの独善で開始するのは客が逃げそうで不吉です。
*二種類の情報
話の続きを読むと、どうやら、論者は、「倭人伝」に続けて書かれている「旅程」が、「実際は」二度に分けて中国側に齎されたものであり、その二度の間に、女王国が東方に「お引っ越し」した「東遷」があったと見ているようです。誠に「大胆」な発言であり、読者には、初耳であり、そのような卓見を、予知することはできません。いや、大胆と言っても、妻子、両親もろともに首を切り落とされることはないので、言ったもん勝ちということなのでしょうか。要するに、「ホラ合戦」の一展開なのでしょうか。
そのような天下混乱は、国内史料を含めて、いっさい記録されていないのが衆知の事項です。また、そのような突飛な認識が、読者が期待している「倭人伝」里程論に何を齎すのか、すぐにはわからないので、ますます不吉です。
*曲芸解釈
辛抱して読み継いでいくと、論者は、先ずは、「倭人伝」の旅程記事の「南、投馬国に至る水行二十日」と「南、邪馬台国に至る…水行十日陸行一月」との記事を、伊都国以降の旅程に直線状に積み上げると決め込んでいますが、それは、(論証を要する)一解釈として知られています。
氏は、ある意味冷静な読解で、王城が九州島内に収まらないと見て、この二項は里数で書かれた旅程とは別儀、女王国お引っ越し後に魏朝に報告されたと見たようです。自作自演の好例です。一種の改竄説で、言いたい放題になっています。
しかし、衆知の如く、三世紀後半、後見役の帯方郡が健在で、頻繁に倭人と交信していたから、帯方郡はもとより、魏朝に遷都を知られないでは済みません。つまり、他ならぬ「倭人伝」に明記されねばならないのです。
史料にない、と言うより「倭人伝」に真っ向から反した創作であり、それを正当化するために、行間を読んだり、南を東に字句改訂したりしての労作に感心しますが、どうしてそう思うのか不思議です。
書く方はいかようにも曲芸を試みて、成功した試技を公示すればいいものの、読む方はその思考を追試できないのです。いくら優れた発見でも、第三者が追試して確認できなければ、単なる「法螺」です。(立証に成功すれば、画期的な新説と評価されるのですが、百の思い付きの内、新説として生き残れるのは、一件あるかどうかです)
続いて展開するのは、遙か後世の戸籍資料などに基づく人口論であり、「当方好みの時代錯誤」の暴論、無理筋の勝手読みであって、曲芸の美技ではないのです。多項目計算が必要以上の五桁と「正確」な計算を行っていても、その間の歴史の流れが不連続、非線形なのは自明なので、安易な類推は全く無意味です。
不連続、非線形というのは、国の「お引っ越し」が、健全な国の行いなのか、亡国の報いなのかすら不明であり、かつ、それがどのような人口移動を招き、両地域にどのような社会、経済的な異変をもたらしたか、到底推察できないのです。単なる「絵空事」としか見えません。
*結論
と言うことで、本論考も審議以前であり、当方理解圏外に去りました。
途方もなく常識外の主張をするなら、枕の部分で、とにかく丁寧に、丁寧に説き起こすべきです。そうでないと、まじめな客は、本題を切り出す前にさっさと逃げてしまうものです。
*行きすぎた分岐点 2023/06/11
初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が残した東夷身上書に基づいていたのであり、それが、魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠した「史実」だったのです。ですから、そこには「誇張」はないのです。
「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律、「行きすぎ」とも見なければならないのです。
この項完
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