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2021年12月23日 (木)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  4/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

○遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)の距離にある。魏晋の尺度(一尺約二四・一センチ)からすれば、約650㌔㍍(565㌔㍍)の距離である。これを額面どおり受けとめれば、邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持することになる。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。

*コメント
 誤解を自覚せず、一陣営をトリック(悪意による欺瞞)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。

 いままで、1300里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞(錯覚)がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。

*コメント
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は、全く別概念である。、「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との自覚の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。

 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化(意識的・無意識的を問わず)されたり、錯覚があったり、先入観によってデフォルメされたり、もしくは端から歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、当の倭人を含めて何人も持ち合わせていなかったのだから、ありうることだ)―、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

                                未完

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