倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8
2017/10/29 補追 2021/12/26
*岡田氏の限界
以上の観点に立てば、倭人伝の戸数、里数は、決して過大でない。それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。
*古田説批判
「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では無効である。
たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。
概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工は必要ない。史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。
*古田氏の限界
古田氏が、東夷伝、倭人伝独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである。
*倭人伝道里事情
帯方郡は、倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであり、全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都―倭の最終道里を書かなかったと見る。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。
*放射道里説
榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
伊都国が実質上の首都であり、そこから各国に至る里数が知られていたという提案には、重大な意義があると思う。
未完
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