新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 3/3
1983年春号(特集「邪馬台国の時代」) 大和書房
私の見立て ★★★★★ 必読・画期的 2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26
*倭人伝里数観
氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭の王治までの行程を、郡~末羅行程と末羅~倭都行程に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快であり、倭の王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上と図示しています。
また、「従郡至倭」の目的地である倭の王治は、帯方郡治から東南方向であり、円弧上に具体的に限定できます。
いずれにしろ、倭の王治の所在を、九州島北部の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると、立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を回避、黙殺したのです。
*精密な地図の弊害 私見
苦言をお許しいただけるなら、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。
*概数計算の復習 私見
以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。
全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は大幅に絞られて、二千里に一千里を増減する程度と見えます。
それにしても、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、現代人が慣れているのに比べて、かなり大きなばらつきが想定されます。
また、この区間が二千里であれば、末羅~伊都間の里数五百里は、計算上無視できず、伊都~倭間を直行と見ると、五百里から二千五百里の間という見かけ上、大変大きな範囲内であり、世上言われるように、倭人伝記事だけで精密に特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。
このような現象は、最初に全区間里数を設定し、そこから、大きな区間里数を弾くという「概数計算」に避けられない、いわば当然の現象ですが、皇帝以下の同時代教養人に理解困難であるどころか、現代人でも「概数計算」の基本をしっかり身につけていない人には、理解困難と思量します。
いうまでもなく、陳寿を含め、里数記事を書き上げる史官や書記官には、このような帳尻合わせを最初に済ませるのが当然の注意事項ですが、倭人伝の場合、先に全体里数を決め、次いで、大きな区間の里数を一千里単位の切りの良い数字にしたので、後に、現地の国内小国間の里数が提出されたとき、うまく整合できなかったようです。
*道里、戸数の由来~私見
いや、全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。帯方郡は、公孫氏の出先に過ぎなかった体制から、皇帝傘下の「郡」に昇格したばかりでした。ということで、公孫氏時代の資料を整理して東夷管理体制を構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても仕方ないところだったのでしょう。
そのようにして提出された粗雑な「台帳」であっても、皇帝の御覧を得たからには、後日の改竄・訂正はできなかったのです。また、陳寿の史官としての業務倫理から、現に公文書に書かれている倭人伝の里数や戸数を改竄することもできなかったのです。
このように最終行程の帳尻が合わないので、整合を断念して伊都~倭間里数の記載を割愛したと個人的に思量します。何も証拠はありませんが、倭人傳の書き方から見て、そのような経緯があったと理解するのです。そう、陳寿ほどの史官がそのような省略記法を採用したからには、正当な理由があったのです。
*論争の深い闇
余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。
よく、邪馬台国論争は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、論争などではなく、単なる水掛け論に終始している感があるのです。
〇まとめ
氏は、結語で当時「季刊邪馬台国」連載張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝解釈は中国人まかせが一番と、ここでは軽率です。
倭人伝漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の古典教養が求められます。延々たる連載記事迷走を見ると張氏の欠格は自明ですが、藤井氏には見て取れなかったようです。あるいは、氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうか。
もちろん、「語学」の視点で倭人伝が解釈できていないのに、できているように錯覚して論じている見当違いの論者は、論外であることは言うまでもありません。
*実論追求
聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは迷惑です。
本論のように論理的な解釈で、問題点を絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、倭人伝論の深い闇、泥沼を思わされるのです。
安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は、世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。
以上
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