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2021年12月22日 (水)

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 2/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、「史記」、次いで「漢書」、最後が「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志倭人伝」が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、慶州(キョンジュ)から俀都までは倭人伝「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三千里に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、千里概数で、「五」千里に届かない範囲なので、四千五百里程度まで見込めるからですが、そうした議論は、見たことがありません。

 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この倭人伝道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 「後漢書」、「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないないから、百済王治泗比に立ち寄った後、西岸を南し竹島を経て耽羅で東に進路を転じて対馬を目指す道程が「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*後漢書の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。

 因みに、魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国まで、対馬、壱岐だけで、倭人伝で、道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。倭人伝に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書には渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、東方各地に立ち寄った記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があると確認しただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀にあるように、長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海に触れていて、俀国の西に海があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、『休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない』のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。隋書」が、蛮夷文書である「日本書紀」に合わせたはずはないので、「隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。

 そもそも、蛮夷が史書を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣隋使、遣唐使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

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