私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 改 4/6
隋書俀国伝考察付き 2020/02/28 追記2021/02/09, 12/22 2022/05/30
〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。
皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。
しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。
鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、「各地の反乱を上奏する者は斬罪に処す」と命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。
*僭称の動機推定
思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は「北狄」であり、「南朝を征服して武力で天下を取っても蛮夷に変わりはない」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。
裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えますが、これに対する報奨は記録されていません。煬帝は、諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。
*文林郎紹介
裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の掌客とは教養が違うのです。
案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、「鴻臚寺掌客裴清」は、あくまで当記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ、官制で最下級の個人官職を自称するはずはないのです。
また、推古紀にしかない、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参したとされる国書への回答は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、推古紀には、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が、俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
そもそも、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。
*誤解の起源
ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。
挿話筆者は、与えられた素材を書紀に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても資料の整合が取れなかったようです。
皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。
以上、第三の難点への解です。
〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。
日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)
書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。
〇参考資料
古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊
ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので詳細には触れません。
本論完
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