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2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 3/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承後漢書の行方
 (范曄「後漢書」)李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が見られる。その量から推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は相当の部分が残っていたようである。

コメント:「量」、つまり、漠たる印象でなく、数字で明示いただきたいものです。印象批評で良いのなら、素人目には、壮大な「後漢書」でそのような注はないのも同然で、目にとまりません。
 まして、そのような計量されていない散在を漠然と見て、謝承後漢書が大量に(ふんだんに)残っていた証拠と断定するのか、不審なのです。帝紀無しで百三十巻という膨大な史料を「ふんだん」とか「相当の部分」などと簡単に言われては、善良な読者には、大変な迷惑です。

 唐李賢太子の命で、范曄「後漢書」の付注のために、世にある謝承「後漢書」善本は、ことごとく徴発されたと見えます。市井の写本が希少になり散佚したとも見えます。あるいは、謝承「後漢書」の有用な部分は、全部李賢注に吸収保存されたから、もはや、「汗牛充棟」、場所塞ぎで厄介な胡散臭い写本は、李賢太子主催の史学者一同の高度な判断で、不要と見限られたのかも知れません。
 素人の憶測ですが、隋帝国が南朝陳の亡国の際に入手したのか、あるいは、それ以前の、北周、北斉の東西対立時代に関東を支配していた北斉が引き継いでいた西晋洛陽書庫が、北周による統一時に引き継がれたのか、いずれにしろ、中原帝国の正統性の裏付けとして持ち越していた大量の簡牘巻物を、全国統一の機会に棚卸しして、これら諸家後漢書は、紙写本への転写の価値無しと断じて、在庫一掃したのではないかと見えます。
 何の裏付けもありませんが、誰かを罵倒するものでなく、つまり誰にも迷惑がかからない限り、素人の推定は自由です。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文は、ほぼ同時代の成立である。

コメント:史書ならぬ「幼学書」翰苑の「本文」と雍公叡付注の区別はどうしているのでしょうか。「対句」が本文で、割注が付注、別物と見えるのです。それにしても、四六駢儷文 に合わせて、改変、短縮されている対句練習用の「問題集」が、なぜ、誤字満載もお構いなしに、史書の校訂に利用されるのでしょうか。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
① 東觀漢記 一百四十三卷 起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
② 後漢書  一百三十卷 無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
③ 後漢記   六十五卷本一百卷, 梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
④ 續漢書   八十三卷 晉祕書監司馬彪撰.
⑤ 後漢書   十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
⑥ 後漢書  八十五卷本一百二十二卷, 晉祠部郎謝沈撰.
⑦ 後漢南記 四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
⑧ 後漢書  九十五卷本 一百卷

コメント:玉石混淆で、まことに無意味な例示です。史書評価は深遠です、

*袁宏「後漢紀」の真価
 袁宏「後漢紀」が漏れているのも、氏の考察の粗雑を示して疑問です。因みに、袁宏は、東晋の人であり、劉宋の人、范曄に半世紀先行しています。
 袁宏は、数種の後漢書が周知ながら「後漢紀」新規編纂に着手した動機として、「諸後漢書は散漫で、信頼できない史料を採り入れ、いたずらに厖大で座右書たり得ない」と見たのです。屋上屋を架するのではないのです。
 後漢朝は二百年になんなんとし、しかも、偉人の後裔が現世を徘徊していて、列伝の短縮、割愛は至難ですが、袁宏は「本紀」相当部分に絞り、全三十巻にまとめて、大幅な合理化に成功しています。不朽の偉業と言うべきです。因みに、袁宏は、区切り毎に「所感」を付していて、単なる切り貼り細工ではないのです。
 袁宏には、西漢、前漢二百四十年の治世を三十巻にまとめた荀悦「漢紀」なるお手本があったのです。漢紀(前漢紀)は、後漢献帝が、建安年間、曹操の仕切る仮の帝都、鄴での無聊の日々、班固「漢書」が厖大で持て余していたのを正す三十巻正史の新規編纂を指示したのであり、現存している前後両漢紀六十巻は献帝の偉業と見るべきでしょう。他の諸家後漢書と異なり、袁宏「後漢紀」は、ほぼ完全な形で現存しているのです。
 因みに、「後漢」献帝の観点では、高祖劉邦が創業した漢帝国は、謀反人王莽によって揺らいだだけであり、程なく光武帝が再開したので社稷は継承されていて、「前漢」「後漢」など、存在しなかったのです。

 因みに、諸家後漢書が、軒並み桁はずれて冗長であることは巻数から見て明らかです。恐らく、巻数、字数を稼ぐために、お構いなしに雑史料を盛り込んだのでしょうが、ほぼ全散佚している状態から見て、同時代、後世の史家の評価は明らかです。見捨てられたのは、厖大な労力を費やして写本継承する価値がないからであり、謝承「後漢書」など、類書引用の佚文しか残っていないのは、大著としての存在価値が見られないから、見捨てられたのです。

*陳壽の真意と裴松之の本意
 陳寿は、「魏志」の構想にあたり、厖大な「漢書」でなく、荀悦「漢紀」三十巻を参考に、治世の短い魏の国志三十巻に本紀、列伝を緊密に収める減縮が至当と見たようです。だれぞの虚飾のために、空疎な西域伝を付け足すようなことは、もとより念頭に無かったのです。
 裴注が追加され、大量の蛇足のために陳寿の望んだ緊密さは損なわれましたが、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」でしょう。裴注は、陳寿の知らない世界です。
 また、裴松之が蛇足を承知で補追したのは、陳壽の真意に背くと知りつつ、君命に迫られた不本意なものと見えます。いや、裴注は、読者が無視できるので、陳壽「三国志」の精髄は、損なわれていないのです。裴松之、もって瞑すべきです。


〇最後に
 素人考えを振り回して恐縮ですが、別に、先賢の意見を「完全否定」したり、意味なく罵倒したりするものではないので、ご一考いただければ幸いです。

                               以上

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