「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 増補再掲 1/3
2015/11/01 再追加 2022/01/12
〇はじめに
ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
〇『「邪馬台国」』はなかった』
『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。
ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。
「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。
- 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった。
- 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている。
- 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。
因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。
古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。
南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。
と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。
未完
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