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2022年1月

2022年1月27日 (木)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で滑るのは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは子供である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきであると言っているに過ぎない。「頭から、倭人伝が間違っていると思い込んでは、研究にならない」のである。むしろ、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の倭人伝史料を原点にするという学問的に当然の手順を確認しているのである。宝賀氏は、「原点」に対して、はるか後世のものが改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である新「倭人伝」を論じるのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」と呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、宝賀氏の不勉強を示しているに過ぎない。
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然とか、陳寿が全知で無いとは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うことであり、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「正史」でもなんでもないのである)

 「魏略」論が混入しているが、「手放しで」同時代史料とは意味不明である。「魏略」佚文に誤写が多いのは、低級な佚文書写故で、「倭人伝」基準で「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。史記基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、三国志の基準を適用するしかない。三国志は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿の複製が上申され、皇帝の嘉納を得て帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が健全に維持されたのである。改竄など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。
 後世、特に現代の文献学者に言わせると、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、飯のタネにならん、と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなものであり、見当違いなのである。河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしで氏の先入観と見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。
 「トータル」で整合性がないとの印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*魏略再考
 因みに、魏略の文献評価は、「倭人伝」後に補追の著名な魏略『西戎伝』に尽きるのでは無いか。倭人伝並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。魏略『西戎伝』 は、権威ある百衲本の一部である。 字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。
 結論を言うと、魚豢は、史書編纂の筆の強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。しかし、魚豢を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 1/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

 実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので勝手にしようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。

 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の論理に歯が立たないのは当然である。いや、趙氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は、古典的に正しいと見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、魏志編纂者が、倭人伝資料をご自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた」とする仮説には、同意できかねる。倭人伝は、記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は漢書地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、倭人伝行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。

 伊都国から発する全ての倭道は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、魏志編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、倭人伝道里行程記事を、直線的な行程を書いたものに違いないとする意見への所感を「アイデア
」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

 

2022年1月21日 (金)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎

                           2022/01/21
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の通説は、陳寿の真意ではないようである。「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史魏志の権威は絶大で、以後、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり魏志の「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、陳寿に、そのような意図はなかったのである。後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制などなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。
 ここでも、倭人伝の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都也
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり誤字も然り、と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設で、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」による徴収は、古来、国庫でなく帝室財政への収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の外征乱発や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので、国庫収入に付け替えたようである。
 何にしろ、当時の経済活動の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、倭人伝解釈に有益ではないかと思い、本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。

 先週の見出しは、「卑弥呼の都、纒向に突如出現」であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。
 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。
 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かないに重蔵が見えているように思うのである。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。
 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない。
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

2022年1月17日 (月)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  1/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。「無理なく」「自然に行きつく」とは、過去の失敗例里上塗りに過ぎないと受け止められてしまうので。勿体ないことです。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、要するに、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい「さる方」のご託宣の丸写しなのでしょうが、「さる方も」、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。一覧表を掲示していただいたら、随分勉強になるのですが、このままでは、単なるホラ話であり、単に、一覧表の末尾に連なるものにすぎません。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。自虐、自爆は、珍しくもないので、いい加減にしてもらいたいものです。 

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  2/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、根拠不明の「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではないのです。農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐために「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量衡に属さない「歩」は、単位として別世界に属するものであり、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世記当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  3/14 補追

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの日のある時間帯は、季節次第で移動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。古代であれば、「町」は、隔壁などで囲まれていたので、日が暮れたら、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など、保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら、五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。
 規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代感覚で言うと、途方もない大河を、士人、つまり、お供をつれたご主人様が、「泳いで(?)」渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、士人は、荷物を担がず、また、裾の長い衣裳が正装だったので、脚もとを絡げて、脛を濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、一日の行程で、十分余裕が撮れる程度の間隔で、必ず宿舎はあったのです。朝は、早立ちでも、午後には、次の宿場に着く設定だったのです。何しろ、官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。
 そのような計画した旅で野宿とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに「国」、いや、その事態に応じた区画である「縣」や「郷」があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、倭人伝で「国」が、「国邑」として散在していて、「国」と「国」の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があったのであり、野宿自炊前提の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の公道は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手に対して、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。
 いや、当時の士人は、衣裳を纏っていて、言わば、袴を履いていることが必須だったので、衆目のあるところで、裾をからげるのすら、面目を失するのです。
 因みに、衣裳の下の「裳」を脱ぐのは、中原では「裸」とされていて、もっての外の重罪でした。つまり、倭人伝に言う「夏后少康の子が会稽に封じられた」という故事で、「水人」と称して水中に入るのは「裸」国に入るという事であり、被髪文身以前に、華夏文化から排斥される行動だったのです。
 陳寿が、倭人の風俗を紹介する前に、夏后の子の故事を詳解したのは、倭の水人の裸体は、野蛮として排斥できないというものです。

 因みに、当記事で、

 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河が、特に、河水は、両眼が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 倭人伝の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、倭人伝に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。
 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。物知らず、不勉強な見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、倭人伝には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路をしくことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに、百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、倭人伝は、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る船は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。いかのように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。
 何より、現在、当時の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わるので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*倭人伝観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、倭人伝の記事を解釈できないのは書き方が間違っているからと予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、倭人伝の言語や世界観を読解できてないようです。
 古代中国語の言葉と文法を解しないものは、倭人伝論議の場から去れ、とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*一律増倍論
 ここで、氏は、倭人伝の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、自分流に読替えれば自分に明快との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。

 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の世間話を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に、後漢の国政を支配したものの、終生後漢の宰相であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、劉備の宿敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*「明帝の景初三年」はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の五期に決まっていると、倭人伝誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、倭人伝に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、倭人伝には、誤記がざらにあるというホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、纏向説論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫権が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、東呉の方は、後継者に難があると見て孫権が去るのを期待していたようです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては「専売特許」になどならないのです。

                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた部分は、倭人伝、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

                                未完

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*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、蛮夷の来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤もいい加減にしてほしいものです。。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。
 特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。
 曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。
 どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記:2022/01/17

 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、倭人伝題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。
 これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

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*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない、三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、倭人伝里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できてないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、四段を占めると、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鶏は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

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*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に、「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は、論外です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。通説と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記が?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、倭人伝里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*「大らか」(?)な日程主義
従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 まず大事なのは、倭人伝で言う「倭人」は、今日言う「日本人」と同様に当の国の民衆を言うのではなく、「倭」と称している集団の公式名だということです。この書き方では、そのような語彙なのかどうか不明確です。

 なお、納税や派兵のような期限付き命令の期限設定には、所要日数が明文で規定されていなければならないのです。日常の定期報告のような文書通信の期限設定も、所要日数の「客観的な規定」があればこそです。一尺25㌢㍍の「絶対的」尺度で、数千里にもなる道里を距離計測するというような、途方もない夢物語は、とても客観的、正確な測定はできないに等しいのです。

 たとえば、日数規定抵触は即「厳罰」であり、おおらかではないのです。(クビというのは、首を切り落とすことを言うのです)
 法と秩序の世界で、これほど、客観的な規定はないでしょう。よくよく、お考えいただきたいものです。

*歩測論再び
当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。

 当時、里数は歩測したが目的地への移動中は歩測しなかったとの個人的断定に、読者は納得しないでしょう。魏使には、副使と書記役がいて、初見の地で歩測は優先任務ですから、取りこぼし指摘は重大な非難です。大体、中国では、士と呼ばれる高官は手仕事を一切しないのですから、使節が補足することはぜったい無いのです。

 「変に里程に換算する」とか「誠実なやり方」というものの、何が「変」で、何が「誠実」かは個人差があり、無責任な放言です。誠実とは、方便として嘘を混じえてでも話を丸めるのか、馬鹿正直に筋を通すのか、ということです。

 要は、氏は、三世紀当時普遍的だった「普通」の観点を理解せず、ご自身の観点、世界観を、二千年前の著作「倭人伝」に押しつけて、意味が通じるようにしようと改竄しているものであり、それは、いくら声を大にして押しつけても、学問的に受け入れられないのです。

*重箱の果て
 氏の好著の重箱つつきは、以下に続きますが、一旦総括します。

 少し言い方を変えてみると、氏は、「後世知識」人の高邁な立場から、古代人の稚拙な行動や言動を指弾して論じても、実は、古代人の言葉、即ち文化を理解しないまま、自身の持ち合わせた言語で誤解したまま「無教養人 」として判断しているのであり、これは、現代の古代史論者の通り相場、普通、自然の世界観とは言え、本書の意欲的な論議のあり方として大変不出来です。ぜひ、この難詰を直視していただければ、幸いです。

 ついでながら、この場所が空いたので書き記すと、壹与の、弱冠の意図らしい「若干十三歳」の誤認は、誤変換・誤記だけでないのです。男子加冠儀礼は「年十三」ですが、幼女には、全く無縁です。また一つの不見識です。

*お説教
 長丁場の息継ぎで書くと、当ブログ筆者が、個人的な意見としているのは、一古代人が、別の、大切な古代人のために、最善の努力を注いで書き上げた畢生の著作は、当該古代人と同じ地平に立って、最善の努力で読解しようとすべきだという考えです。耳にたこと言われるので、用語を変えていますが、言っている主旨は、一貫しています。

                               未完

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*また一つの時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。

 古代に「直線距離」は時代錯誤です。倭人伝は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
 また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
 とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。

 そして、肝心なのは、晋書地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って、遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪。帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。

 こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。

*最初の一歩
 漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上の直線距離に意義はないのです。
 また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
 「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
 そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
 
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。

 本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で倭人伝記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
 当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。

*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です

 まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
 氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、鴻廬館などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、

 ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地が温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。
 ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
 このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、倭人伝解釈の特異な点です。

 現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。

 記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。

 但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、おおボケです。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。

 これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 13/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏使のおもてなし 承前
 続けて、離船上陸時に、「貴人」を歩かせたと決め込んでいますが、乗り物、車にも輿にも駕籠にも乗せず、膝栗毛させたと断定する根拠が不明です。中国で、貴人は自分の脚を地面に下ろさないのが当然としたら、倭地でも同様だったから何も書いていないと見るべきでしょう。

 中国には、太古殷代から戦車があり、周代には公道を走る四頭立て馬車があったのに、倭人に車がなかったと決めつけるのは理解できません。「牛馬なし」と言っても、一切飼育されていなかったと断言すべきものではなく、大人が馬車を活用しなかったとは早計のようです。
 例えば、魏使到着に合わせて、半島から馬車を送り込むことも可能だった筈です。超超重要人物なら、その程度の「最大限のおもてなし」もおかしくないはずです。いや、別に大受けして笑えと言っているのではないのですが。

これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。
 重大発言ですが、賓客を歩かせても屈辱などではなく、馬代わりに踏みつけられた時にでも屈辱を感じたら良いのです。
 古代士人にとって、恥辱は命を顧みずに晴らすべきものでしたから、その時は、殿中で勅使に切りつけるのか、接待指南役に切りつけるのか、いずれにしても、逆上して仕損じず、必殺してほしいものです。もっとも、魏の側では、現地で死ぬことまで想定して、帯方郡官人を魏使として送り込んでいるのです。漢代以来、西域に送り込まれた、各百人規模の使節団ですが、派遣先で、いきなり使節の首を斬った国もあるのです。それも、一度に限らずです。その地では、敵対の可能性のある使節は、まず、使節を斬首するものだったようです。そのような惨事を起こさないために、軍を通じて身元調査し、伊都国に精鋭の先遣隊を送って魏使の安全を確保したでしょうが、それにしても、数万戸の戸数がある、つまり、数万人の動員力の有る蕃夷ですから、百人を送り込んでも、安全の保証にならないのです。

対馬國や一大國でも同様なことは行われていました。(中略)そんないつ沈んでもおかしくないものに生活を依存するのは間違いなく危険でした。
 船がいつ沈んでもおかしくないと杞憂に耽ると、海峡渡海も南北市糴も成り立たず、半島沿岸長途航行は論の外の極みです。何かの「間違い」でしょう。因みに、運搬や移動に船を利用できないとしたら、島人は皆餓死してしまうのです。無責任な放言です。多少、分別を働かせていただきたいものです。例えば、年間、多数の死傷者が出ている「自動車」ですが、いつ死者が出るか知れないとしても、万人の生活はそのような移動手段に依存しているのです。ものごとは、白黒両断でなく、価値評価して採否を決めるべきです。

 それにしても、「半島沿岸長途航行」を絶対否定するのにも、ここまで待っていたとすると、氏は、中々食わせ物ということになります。

*独り合点の記
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
ところが実際には一〇倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。

 仮定は仮定、結果は結果、どこに論理がつながるのか示すべきです。
 「実際」「事実」は、氏の意見であり、史書に一切示されていない
ので、何が自然で何が「不自然」か、読者には理解できません。
 善良な読者には、矛も盾も見えていません。多分、氏の脳内世界の備品なのでしょう。
 
別に述べたように、当時の算数能力では、十倍以外のかけ算は大変むつかしく、十以外の割り算はとてつもなくむつかしいのです。十だけは、単位の付け替えだけで計算が要らないので「自然」なのです。

もし(中略)サイコロを振って(中略)たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が一〇倍に誇張されていたというのはほぼ一〇〇パーセント確実なのです。

 結果論に負けは無いとしても、「倭人伝の行程道里が間違っている」という論証はされず、また、史官が信条を放棄し、同僚も併せて家族共々刑死する危険を冒して万事を増倍し、史書稿を改竄した動機は、示されていないのです。まして、史官が史書をサイコロ博打で決めていたとも思えないのです。それを言うなら、筮竹、おみくじの「神頼み」とでも言うのでしょうか。

 原則として、事は、論理で決するべきでは無いでしょうか。

*縁起担ぎ
 松本清張氏を初め、倭人伝に登場する数字が、奇数の大変多い偏ったものになっていることを重大視して、縁起担ぎで、奇数が多い、作った数字に書いたと断じている例がありますが、それは考えが浅いというものです。

 蛮夷の地の道里や戸数のように、憶測でしかない概数を扱う時は、ずらりと敷き詰めた数字を使うのでなく、切り良くするために、一,三,五,七,十、十二と言った具合に、階段のように飛び飛びにして、概数の目を、事態相応に粗くするのも、史料に憶測の介入を防ぐ、大切な行き方なのです。
 史書の僅かな記事から、このような現象を見出す眼力は尊敬にあたいしますが、僅かな資料から、飛び飛びの数字の背景まで見通せなかったとしても、それは仕方ないことです。

*陳寿擁護
 陳寿は史官であり理知の人ですから、公式史書に、何の方針もなしに実態と関係ない「虚構」を書いたとは思えません。
 書いたとすれば、緻密な「増倍」戦略によって十倍としたはず
で、確率論は意味ないのです。どんな方針があっても、勅命があっても、虚構のための虚構は書かないと信じますが、それはそれとして、無意味な虚構を書くと思えないのです。
 史官の使命感は、後世人の遊び半分の数字遊びには関係ないのです。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」、重責にある者の倫理観を後世の安穏な者が安易に語るべきではないのです。

 しかして、論理にも何にもなっていない、空虚な行が続いています。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 14/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。

 古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
 
倭人伝道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。

 まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。

 最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、倭人伝は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。

 以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。

 万二千里というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。

 憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。

 余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、倭人伝の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。

*道里行程論の深意
 案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
 後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。

*縄張り説~「できる」古代測量
 耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。

*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
れを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。

 景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
 と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなどできなかったのです。

 「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、 中国が、定例使節に数百枚の銅鏡を下賜するのは、それ自体あり得ない「妄想」です。
 まして、
古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのです。当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
 渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも言えるのです。

 偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、誇張ではないようだとしているのですが、関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が多すぎるという難題に直面しているのです。

 一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。

第二節 倭國の実像
*虚像と実像
 節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
 光学実像は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
 心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。

*倭国大乱の幻影 道の果て
 「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如倭人伝にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
 農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。

 氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。

 以下、氏は、倭人伝を遠く離れて、過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。

*総評の念押し
 当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
 ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。
                                完

2022年1月15日 (土)

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

〇はじめに
 文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。
 深刻な問題は、登用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。
 特に、国内史料は、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として、文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内史料を見ていないので、統一がないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と書くが、原文が景初二年であるのは衆知であるから、これは、端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとするなら、官人なのは、揺るぎない原典の選定である。検証無しに、世上の文書を引用するべきではない。
 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、中国古代史史料以外に「三国史記」と共に、大量の国内史料が論じられ、つづいて、纏向史蹟出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。
 一般論であるが、用例確認は、小数の価値あるものを精査するべきである。用例が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ信頼性は低下するのである。つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で賢明に埋める努力が見えるが、倭人伝の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。

 倭人伝の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家にされている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘るとされている。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている。しかし、国名列記で、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が、『畿内に及ぶ各地に散在して東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 私見では、倭人伝行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。枯れ木も山の賑わいである。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して、比定するのは不要である。そう、当ブログ筆者は、直線最短行程説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪するが、倭人伝に書かれていない推測なので、意味不明である。氏の論議の大半は、倭人伝原文から遊離した憶測が多いので、ついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とみているのは、不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と、後漢状勢と半島情勢を関連させて、滔々と古代浪漫を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。いや、氏の憶測だから、氏なりに辻褄は合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと言うが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていない。本冊子で、遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に、手堅く立脚しているのと好対照の空論である。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点である、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した咎が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら全体像ができないが、倭人伝のせいでなく氏の構想限界である。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、諸国は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語などが共通であり、街道網が完備して、盟主が月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集すると見える。しかし、それは、倭人伝にない事項であり、言わば、氏の「特製倭人伝」であるが、どのように史料批判されて受け入れたのであろうか。氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは朝廷と見なされるのである。
 しかし、「纏向所見」は、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。

*承継される鍋釜持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら、「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は、数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているが、関係者の私見であろう。
 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、千、万でなければ、何年もかけて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者の功績になるとことから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、いわゆる法螺話の類いで、まじめな論者が言うことではないのだが、「三国志の権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文にヤジを飛ばすので、結構、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。良い子が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向に置いて「会盟」が挙行され、私案と称しながら、以下の盟約を想定している。

 本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約は、架空なので「復原」は独善か、勘違いであり、現代人による個人的な創作である。その証拠に、非学術的な、普段着の現代語で書き飛ばされている。勿体ないことである。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*時代錯誤の連鎖
 一.「命名」は、当人の実の親にしか許されない。第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
    卑弥呼が実名でないというのは、詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
 二.女王の婚姻禁忌は、無意味である。女王候補者は、端から生涯不婚の訓育を受けることになると思う。
    当時の上流家庭は、早婚が当然であるから、そうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
 三.『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇態である。
    となると、「邪馬台国」は、あったのか。持続しない王統では、魏に臣従が許されない。代替わりしたら、前王盟約は反古では、ダメということである。
    当然、各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、しかるべき出自の未成年に限られる。誰が、身元審査するのだろうか。
 四.「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。因みに、東夷に「王都」はない。
    氏は、倭人伝冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかっていないのではないか。
 五.毎年定時(?時計はあったのか)会盟は無意味である。参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年参上は、国力消耗の悪政である。
    女王の生死は予定できないので、交代時、各国は不意打ちで候補者共々参上しなければならない。通常、即日践祚、後日葬礼である。
    ということは、突然の交替を避けるためには、定年を設けるのであろうか。前女王は、どう処分するのだろうか。
    王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
    回り持ちの女王、回り持ちの女王国で、墓陵はどうするのだろうか。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、精々三頭鼎立で成立していたのである。総選挙など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、不熟者の勘違いである。先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。

 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。関東諸公を召集してなどいない。陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が前提であり、「盟約」は、締盟の証しとして、金文に刻されて配布され、原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年開催なら、会盟録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会盟なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、幕舎とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「纏向屋敷」に国人を常駐させ不時の参上に備えるのである。各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。お馴染みの「まだ全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえる。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、持続可能だったのだろうか。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*神功紀再考~場外余談による曲解例示
 俗に、書紀に、神功紀追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例があるように効くが、そのような言い訳は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、書紀本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」として遇されたから、後日、国内には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ、実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、神功紀の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の余談で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、書紀には、推古紀の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が異なる「創作」記事を填め込んだ前例(?)があるので、書かれているままに信じるわけにはいかないのである。いや、これは、余談の二段重ねで。前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)史書は、史書用語を弁えた「読者」を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた知識、教養で、史書を解してはならない。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は不確かである。後漢後期は「絶」、不通状態であり、景初遣使が言わば初見なので、まずは、以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、倭人伝は、倭に会盟の素地がなかったと明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の倭人伝膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は、見かけなかったが、このように餡のつまった画餅も、依然として、口に運ぶことはできないのである。
 諸兄の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 1/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇はじめに
 ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

〇『「邪馬台国」』はなかった』
 『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。

 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
 隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていた
のである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 2/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

付記
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので。相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。
 例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで「呉書」の記事である。 

 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している三国志テキストデータを全文検索させていただいたのだが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田氏の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に誹謗する向きがあって、呆れたりするのだが、ここでは、「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していないのである。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…..

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に、先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、左氏伝の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、左伝由来の卑称をこめたのかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

 因みに、「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
 百済は、馬韓時代から早々と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、無法な逸脱を色々発明したようである。それは、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、海峡を越えた世界に伝わったようである。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。いや、古田氏すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

 因みに、従来、三国志の中で、呉書、蜀書の用語を、魏書の用語と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、魏書以外の用語については、それぞれの「書」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることかあることを申し上げておくものである。

以上

2022年1月14日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ                          2022/01/13

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。
「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で隔離され、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サブライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力の研究機関の研究者の総意で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯を言っているのではない。単なる冗句である。「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

2022年1月13日 (木)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。
 著作権商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。

 かくして、本書の社会的生命は地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである

 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する。史学が「過去に起きた事実を後刻推定する科学」である以上、直接見聞する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかないことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは、意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。



*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、軽薄な現代人たる自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」  改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。晋朝が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。

 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、魏史として、昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官が、私的に、つまり、晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのか、このような支離滅裂な証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが、自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍扉が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる査読者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。

 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、以下の内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。

 本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2022年1月12日 (水)

今日の躓き石 誤解が渦巻く「アナウンサー」否定論 (毎日新聞夕刊コラム)

                       2022/01/12

 本日の題材は、毎日新聞大阪夕刊「放送」面の囲記事であるから、今回は、毎日新聞の姿勢を問うものではない。関係者は、安心して読み飛ばして欲しいものである。

 『「アナウンサー」もうやめない?』と題しているが、一読して感じるように「アナウンサー全体に対して引退を強要している」のではなく、「ナレーター近藤サトのテレビぎらい」とコラム自体に題しているから、筆者が個人的に敵意を感じている旧世界「テレビ」に対して、「言葉狩り」の手法を借りて悪態をついているのだが、それにしても、まことにできの悪い提案である。記事が書かれているのは、どう見ても「正しい」日本語を目指したものであり、真意が伝わらず誤解されるのは、単に、文体の区別が付かない、書き方が下手なというだけである。そうでなければ、筆者の真意が伝わらないから、「アナウンサー」に正しい日本語を確保して貰わなければ、今後とも自己主張ができないのに気づいていないようである。

 切り出しの「もともと正しい日本語はありません」は、筆者の無知を曝しているだけで、知識として、どんな日本語が話されたか知らないし、言葉は、時代、文化によって変わっていくという事を無視した独断なのである。すかさず、「卑弥呼の話した言葉」を持ち出しているが、卑弥呼の時代には、広く通じる「日本語」はなかった、いや、「日本」すらなかったから、読者に何ももたらさない虚辞である。
 少なくとも、「卑弥呼の話した言葉」が、一切記録されていない以上、簡単にも何も、現代人が、いかに現代技術を動員しても、理解もなにもできないのは間違いないのであるが、だからどうだというのだろうか。「切り出し」と書いたが、どうも「滑り出し」のようである。これが、筆者の意図を伝える最善の手口とは思えない。

 当然、当時として、正しい、誰でも誤解無く理解できる言葉を話そうとしたのは間違いないところであり、そのような良識なくして、何を読者に伝えたいのかわからない。乱れた日本語を、堂々と言うものだと呆れるだけである。

 と、大ぼけで滑り出したのに、「言葉は変遷するもの」と聞いた風なことをおっしゃって、読者がついてくると思ったのだろうか。「この人は、言葉が乱れているから、頭の中も乱れている」と思われるだけではないのだろうか。確かに、「美」は、言葉を感じ取った人の内部に発生する感情であるが、それは、言葉を発した人の内部にあった感情が、うまく伝わったものである。筆者の感じ方は、独善を推奨するだけであり、それこそ、長年アナウンサーが言葉の護り人として闘ってきたものである。
 筆者は、幾千万の先人が、長年に亘って形成、継承した資産を踏みにじって、何を、人の世にもたらそうというのだろうか。

 その後、筆者は、勝手な「アナウンサー」論、個人的な理想を振りかざすが、誤解乱発の書きぶりが祟って、またも、滑った感じである。

 筆者は、「アナウンサー」が、時代の変化に取り残された(亡ぼさるべき)化石と言いたいようだが、自身で、書き連ねているように、「アナウンサー」は 広大な分野を包含する言葉として、広い世間に理解されているのだから、ことさら、個人的な恨み辛み(があるとしかおもえない)で、勝手に制約を決め付けて全面的に否定することはないのではないだろうか。

 当ブログでは、しばしば、公共放送の報道アナウンサーが、適当な新語に飛びつくのに警鐘を鳴らしているが、それは、その役割、言葉の護り人としての至上の価値を再確認しているのであって、その他大勢の「アナウンサー」を叱責しようとしているのではない。自ら、「アナウンサー」でないと公言している筆者に対して、何も言いたいことはない。ただ、無知と認識不足を正しているだけである。ついでに、一般読者に、現状認識の謬りを指摘し、改悛を求めるにも、話を聞いて同意してもらえる語り口があるのではないか、「もっと勉強しなさい」と言いたいだけである。

 但し、いくら偉そうに言い立てても、別に何の権力も影響もないから、筆者が耳を貸さず、見識を改めなくても、何もない、ただの市井の人であり、筆者とは、一切無縁の衆生である。

 とどめのように、あいまいな言葉の呪縛と称しているが、あいまいな言葉には、呪文の効力などない。何か勘違いであろう。また、何か言葉狩りをして、「アナウンサー」を廃語にしても、背景となっている概念が生きている限り、根絶やしにはできないのである。自然界では、草を刈る人が亡んで土に帰っても、雑草は滅びないのである。

以上

 

2022年1月 7日 (金)

今日の躓き石 NHK 「時論公論」で唖然とする「リベンジ消費」蔓延活動

                           2022/01/07

 本日の題材は、NHKが、「時論公論」なる看板番組で堂々とぶち上げた「リベンジ消費」である。一日に二度お目にかかるとは、世も末である。しかも、今回は、口頭の言い飛ばしでなく、堂々と画面に書き出しているから、単なる舌が滑ったでは済まない。
 NHKには、番組の品位を審査する部門はないのだろうか。

 これは、NHKが堂々と「リベンジ消費」 の蔓延、普及に乗り出したと言う事であり、 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、NHKの手で広く普及されていくという事かと、歎くのである。

 このように、善良な消費者の意志を誹謗/愚弄/侮辱する暴言にNHKが、無批判に追従しただけでも、嘆かわしいと思ったのだが、こんな番組を目にするとは思わなかった。長生きはしたくないものである。

 一視聴者としては、どうか、NHKが、自身の使命に目覚めて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいと思うのである。よりによって、このような罰当たりな言葉を使わなくても、「時論公論」の報道番組としての使命は果たせると思うのである。どうか、どうか、目を覚まして欲しいものである。

以上

今日の躓き石 NHK ニュースほっと関西「リベンジ消費」の汚染拡散

                           2022/01/07

 本日の題材は、午後7時前のNHK ニュースほっと関西が、ぼろっと漏らした「リベンジ消費」である。

 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、生き残っているのは、NHKとは思えない「放送事故」である。

 もちろん、このような極めつきの悪性語を駆使してまで、消費者を誹謗/侮辱する暴言を堂々と打ち出した某大手銀行系シンクタンクの広報担当が悪いのだが、NHKが、無批判に追従したために、一時は、蔓延するのではないか危惧したものである。
 たちまち姿を消したのは、NHKの統制力と感心したものであるが、当ブログには、悪い言葉が聞けなかったことを顕彰する体制がないので、ご勘弁いただきたいものである。

 どうか、NHKの面目にかけて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいものである。

 忙しいので、くどい説明は省略である。

以上

 

 

2022年1月 6日 (木)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体に署名がないので、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、現代の西日本地図に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端のどん詰まりの纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、各勢力貢納物が纏向に集中したと言うようだが、九州からの貢納物は、吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見るものには、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる。但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら。どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて「2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。

 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を渡った東方については述べていない。(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。
 後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、漢書で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。

 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ難所を隘路にとどめて、海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。

 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、韓、倭の洛陽伺候を許さず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは勘違いである。つまり、冒頭の九州勢力退勢風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

2022年1月 4日 (火)

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 1/3 改2 国名論~倭人伝論

 卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
 私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇はじめに
 本書は、倭人伝語が七~八世紀の「万葉仮名」に反映されたとの作業仮説に関して、第二章、第三章の厖大な考察(専門的につき書評回避)を経て構築した「解読」の原則に従い、倭人伝解釈に挑んでいるものです。

 総じて、安本氏の諸著作で目障りだった好敵古田武彦氏に対する攻撃を抑制し、学術書の境地に到ったと見るのです。また、本書で追及している原則の性質上、多くの場合、断定表現を避けているのは賢明です。
 
〇第一章 邪馬壹国 幻の国名論
 探し求めたのは、『「邪馬壹国」なる国名に含まれる「ヤマイチ」或いは「ヤマイイ」の後半部の母音続きが、七~八世紀の古代日本語で厳重に避けられていて、自称国名たり得ないから、「邪馬壹国」はなかった』とする託宣ですが、遂に、本書の結論部には見つかりませんでした。

 最初に提示された大野晋氏見解は、「放言」と見える座談紹介の失言が誤解か、明らかな誤りを放置した粗相の事態ですから、安本氏が、自説の根拠にしたとは考えられません。真剣に取り組むなら、大野氏の論文等を発掘して、史料批判した上で利用したと見るからです。

 森博達氏見解は、一般紙記事断片で、佚文である御覧所引魏志引用と並べて「倭語の法則性に反する」と根拠不明の見解で断言していますから、森氏ほどの学究の徒の説としては、粗雑です。つまり、文献批判に耐えず、安本氏の論拠として、不適格なのです。
 ただし、それで終わると、事のついでに森氏の顔に泥を塗ったままになってしまうので、以下、論文に準ずる論考を引用します。

*森博達氏の考察
 森氏は、日本の古代 1「倭人の登場」 5「倭人伝」の地名と人名(中央公論社)において、本書の安本論考に先立つ着実な展開で、古代日本語と三世紀中古中国語の音韻関係を論じています。

 ただし、両語は、時代、地理が隔絶している上、事例は、多数の中の一例でなく、乏しい資料用例のほぼ全部であり、とにかく資料が乏しいことから、森氏は、断定的な見解を述べていません。当然のことと思います。

 また、制約として、「倭人伝語は中国中古語に忠実に基づいていない可能性があり、その場合は適用できない」と明記されていますが、安本氏の紹介にはありません。本書の参照引用は、かくのごとく不確かです。資料批判は、原典、特に出版された論考に対して行うべきものです。

*安本氏の見解
 安本氏は、森氏の論議を踏まえて、『「邪馬壹(壱)国と表記されていたとしても、必ずしも、母音が二つつながっている原音をうつしたことにはならない」と言う考え方もできそうである』と、言葉を選んだ上で限定付きで明言しています。森氏が、「自然」などと、根拠不明の非学術的情緒表現としているのと好対照です。

 ただし、同業者論文引用の際の儀礼ですから、森氏の論考の行き届かない点をあげつらうことはできないのです。この点、同業者ならぬ素人である当ブログ筆者が、時として、諸兄の書斎に土足で踏み込むような乱暴、無礼をしてのけるのとは、大違いです。

 なお、以下では、学術的な見識として、両氏の「厳重に避けられていた」なる断言が、絶対のものではないとする用例を述べています。

〇第四章 浮かびあがる「邪馬台国」
 章冒頭で『「大和」をなぜ「やまと」と読むか』の小見出しでそそくさと駆け抜けますが、素人目にも引っかかる所が多いのです。
 「やまと」が、はじめ「倭」だった根拠は示されないし、そもそも「はじめ」とは、いつのことなのか曖昧です。

*根拠なき誹謗
 また、「倭」が、「背が曲がった丈の低い小人」と解するのは、白川静氏に代表される漢字学上に根拠が見当たらず、また、安本氏による見解も示されず、根拠薄弱に見えます。 あるいは、藤堂明保史編の「漢字源」などの辞書によるものかとも思われますが、所詮、風評に近い不確かなものであり、国号を改変する動機にはならないと推察します。

 さらに、「倭」を「やまと」と読む伝統と共に「倭」は「邪馬台」との伝統もあったろうと付記しますが、そのような「伝統」が実在していたという根拠は示されていません。「伝統」とは、本来、血統が継続維持されるという意味であり、一国の国号は、正当に継承されずに時の風評で変遷するものではないのです。

 復習になりますが、三世紀にそのような発音があったとする文字資料は、一切ないのです。ない資料が、7~8世紀まで伝承されたとする資料も、また存在しないと見るしかないのです。

 安本氏は、そのような限界を承知しているので、ここでは、単に、一つの意見を述べているものと見られます。

*お門違いの枕詞
 また、「枕詞」説ですが、「倭」「やまと」では逆縁で語調も合いません。
安本氏にしては、論理の筋も口調も整わない不思議な乱調です。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 2/3 改2 倭人伝論

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇第五章 地名と人口から見た倭人の国々
 本章では、倭人語解読を踏まえて、倭人伝道里記事による戸数推定などが始まります。

 安本氏は、邪馬臺国は、小国連合の「大国」であって七万戸を有したと解釈していて、世に蔓延る百花斉放の新説提唱者と同様に、一説である先入観を、読者に押しつけていると見えます。
 また、行程道里も、背景不明の概数を、一律に多桁計算処理する時代錯誤をたどっていて痛々しいものがあります。

*原点からの再出発の提案
 倭人伝を、倭人語解読により正解するのなら、この際、倭人伝解釈の旧弊を深い穴に打ち棄てて、一から虚心に読みなおすべきではないでしょうか。
 纏向派などの俗説派の諸兄は、多年の学究で壮大な理論体系を構築し、起点部分から考え直すことはできないでしょうが、安本氏も、いたずらに旧説に固執するのでしょうか。
 いえ、無礼にも、素人考えで質問しているだけです。定めしご不快でしょうが、素人論者は、率直を旨としているので、そうなるのです。

〇第七章 新釈「倭人伝」
 本章の諸見解は、安本氏の絶大な知識、学識を背景とした倭人伝新釈であり、これを偉として、大いに傾聴すべきであると思います。

*長大論
 「長大」論では、奈良時代文書の用例を主たる根拠として、俗説となっている老齢説を一蹴しているのは、痛快であり、大いに賛成です。
 俗説遵守の諸兄は、卑弥呼が老婆に決まっているとの牢固たる先入観に支配されて、柔軟、適確な用例評価ができないのです。当方は、無用の先入観を有しない安本氏が、頑迷な俗説を打破したことに、この上なく感謝しているのです。

 僭越ながら、当ブログ筆者は、中国史書の用例を参照して、同様の結論が導き出せるものと信じて、かねて、成果を発表しているものです。ここで種明かしされている結論は、新入生の如く先入見のない眼で中国史料用例を斟酌すれば、むしろ難なく到達できる「正解」と思うのです。

 勝手ながら、私見では、氏は、別の山路を登坂して、同一のいただきに至ったのであり、いただきの正しさを二重に確証している、大変ありがたい論説なのです。逆に、世にはびこる感染症である長大老齢説は、一体、何を根拠としているのでしょうか。不思議です。

 因みに、「長大」呉書用例から三十代男性の形容との考察は古田武彦氏の提言です。
 私見では、古田氏に、安本氏の慎重さがあれば、「長大」論で、魏書ならぬ呉書に依拠する愚は避けられたはずです。

*都督論
 「都督」論で、安本氏は中国側用例を軽視して好ましくないと思うのです。「都督」は、歴代中国王朝で、古来しばしば起用された地方官名であり、倭人伝も、古典用例を踏まえているとみられるのであり、奈良時代国内文書も、本来、中国用例から発しているはずですから、前後関係を度外視した起用は好ましくないと思われます。
 ただし、「都」を、平城京などの「みやこ」の意味に固定したために、以後の「都」の解釈は、中国とずれて行くように思います。
 また、「都督」に表れている「すべて」の意味が、それによって、国内文書から姿を消したように見受けます。
 中国史料の読解に、大いに影響している国内「用語」の変遷です。

*大夫論
 中腰書を参照すると、「大夫」は、周制の最高官でしたが、秦で、爵位の最低位から数えた第五位の「低位」、塵芥のごとき一般人階層となり、錦衣が雑巾の感じです。秦が、周制高官を意識的に雑巾扱いしたように見えます。
 因みに、漢は秦の爵位を継承しましたが、新朝の皇帝として君臨した王莽は、周制を復活させ、「大夫」を周制同様の至高の官位としましたが、束の間の晋が滅び、漢を回復した光武帝劉秀は、漢の官制を復興したので、「大夫」の高揚は、束の間だったのです。

 案ずるに、諸兄は、中国では「大夫」は地に墜ちたが、倭人は、古(いにしえ)の周制を踏まえて、その高官としているように見えるという史官陳寿、魚豢の示した機微を見損ねています。

 安本氏の「大夫論」「は、奈良時代文書の同様の誤解の影響でしょう。してみると、安本氏は、ここでは安直な「俗説」に追従して、随分不用意です。

*劈頭句から始まる別の道
 「倭人在帯方東南大海中依山島依国邑」は、倭人伝劈頭句ですが、この句は、史官たる陳寿が、想定読者である皇帝等の教養人に対して提言するものであり、厳格に史書としての行文、用語に従ったと見るものです。

 安本氏は、七~八世紀の奈良時代文書から古代人の解釈を察することを、「勉強」と勧めますが、こと「倭人伝」解釈では、少なからぬ傍路、道草と思量します。いや、念のため付け足すと、勉強は、道草から思わぬ収穫を得るものです。時には、道草をついぱんで、ツメクサの滋味を知ることもあるのです。

 口幅ったいようですが、古代史書の解釈には、文書著作者の「辞書」を想到する努力を、もっと大事にしてほしいものです。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 3/3 改2 倭人伝論 世界観談義

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

*大海談義 隔世の世界観~余談
 以下、安本氏初め先学諸兄には、常識のことばかりでしょうが、当ブログの読者には未知の領域の方もあると思うので、ご容赦ください。

 隔世の世界観というのは、三世紀の中原人、倭人、後世奈良人は、それぞれの世界、天下を持ち、従って、それぞれの「世界」の認識は大きく異なるから、同じ文字、同じ言葉で書いた史料も、そこに表現された意義は、それぞれで随分異なるということなのです。

 それに気づかず、その記事の著者の深意を推定する当然の努力を怠り、現代日本人のそれも「無学な」素人の「常識」で字面だけを判読したのでは、「誤解」も避けられないでしょう。もっとも、「誤解」は、自分自身が気づかないと是正されないのですが。「付ける薬がない」のですが。

 例えば、同時代の夷蕃伝「魏略西戎伝」で、西域万里の「大海」はカスビ海であり、総じて,当時の中原人にとって、「大海」は、英語でPond, Lake、つまり「内陸水面」、但し、塩水湖とわかります。三世紀時点の中国の世界観は、そうなっていたのですが、この点の論議は、先人の説くところなので省略します。

 いや、現代の英米人は、両国間の大洋Atlantisを、しばしば、Pond、水たまりと呼ぶのです(もちろん冗談半分でしょうが)。「古池」をジェット機で飛び越す感覚なのでしょう。それ以前、英語では、伝統的にブリテン島の周囲の海をSeaと呼ぶものの、米語では、東部人は、目前の海を、まずはOceanと呼んだのです。後に、西海岸の向こうの大洋を知ってAtlantis, Pacificと呼び分けたのです。認識の水平線は、時代で変わっているのです。

 ざっと走り読みしただけでも、土地と時代で、世界観が大きく異なり、それに従って「海」の意義が大きく異なるのです。

*認識の限界 地平線/水平線効果~余談
 もちろん、倭人伝の「海」、「大海」の認識は不明ですが、例えば、帯方人や倭人が南方の太平洋、南シナ海を認識していた証拠はないと思われます。認識の「地平」が異なるのです。

 例えば、倭人伝の「大海」は、当時の中原人世界観に従うと、韓国の南を大河の如く滔々と流れているのであって、これまた大河のように中州(山島、洲島)があって、対海国、一大国、そして、末羅国が、それぞれの中州の上にある諸国を、渡し舟で伝っていくという感じなのです。

 従郡至倭、つまり、郡から「倭人」、つまり、倭人王の治所、居城まで、普通里で萬二千里であるとの解釈が出回っていますが、東夷が、それほど広大な世界観を持っていた証拠は、何所にも無いのです。後世人が色々推定して、勝手に言い立てるだけで、資料には、何も何も書いていないのです。繰り返しばかりですが、世界観、地理認識が異なれば、言葉の意味は異なるのです。

 七~八世紀以前の奈良人が、内海から隔絶した、地平線/水平線のない奈良盆地で、見たこととも聞いたこともない「大海」をどう認識していたか、知ることはできません。「まほろば」は、住民の先祖が流亡の果てに安着した桃源郷、陸封安住の境地と見えるからです。
 隋帝を海西の天子と呼んだ俀国天子は、半島経由で黄海を軽々と渉る行程を知らず、漠然と、両者を隔てる「海」を言い立てたのかも知れませんが、隋帝にとって、海西とは、西域の果ての大海「裏海」の西岸であり、つまり、途方もない辺境を指定されたと感じたのでしょう。

 いや、時代人の本心は、当人に訊かねば分かりません。「グローバル」な視野に囚われた後世人が、倭人の世界観に同化するには、精緻広範な地球儀(グローブ Globe)を棄て、同じ「井戸」に入ることです。まずは、「ローカル」が、万事の基礎です。

 古代奈良平野は、立派な湖水を有していたそうですから、『対岸は見通せても、そこは「海」』と見立てた海洋観が存在した「かも知れない」。そうした時代地理環境も影響するのです。

*魚豢の慨嘆~余談
 倭人伝最後に付注された魏略西戎伝には「議」が記され、魚豢は、自分を含め万人は自身の井戸の時空に囚われた「蛙」との趣旨で、洛陽世界に囚われている自身を慨嘆しています。西域万里を実見できず、前世の他人の見聞録に頼るもどかしさを感じたのでしょう。

〇総評

 誤解を避けるために付言しますが、安本氏は、古代史学界にまれな資料読解力と理数系合理的世界観の持ち主であり、本書は、氏の最善の論考と思います。その一端として、本書の随所で安本氏の優れた大局観が確認できます。

 なお、当ブログの手口として、しばしば安本氏の著書書評から脱線して、持論の手前味噌に迷走していますが、具体的に根拠を示して反論していない議論は、書評外です。諸兄の関心を引くための手口であり、ご容赦ください。

 当方は、安本氏の論に、時に軽率な決めつけが散見されると指摘しますが、それは難詰ではありません。
 広範な考察範囲を述べていけば、誰でも間違いはあるのです。大事なのは、基本的な論考姿勢です。

*参考文献の偏り
 安本氏の限界とも思いますが、当分野における古田氏の意見について、ほぼ印象批評、人格批判しか公開されていないのは、氏ほどの学究にしては、大変偏ったものと言わざるを得ません。

 また、白川静氏は、漢字学の碩学ですが、万葉集に深い見識を示されているので、是非、氏の遺した著書、辞書を、安本氏の参考文献に取り入れていただきたいものです。白川氏は、七十代半ばで教職を辞し、以後二十年掛けて、三大辞典と多数の漢字学書を公刊し、その中には、潤沢な教養を生かした、万葉論もあるのです。

                                完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読  補足編 改

 「卑弥呼が使った言葉を推理する」勉誠出版 2003年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的 2020/07/01 補足 2022/01/04

◯はじめに
 本書書評としては、既に三回連載形式の記事公開の上で、随時補充していますが、検証不十分と判断されたのか賛同が聞こえないので、少し丁寧に掘り下げて追い打ちするものです。自己記事を自由に引用できるのに、補充した際に文意から繋ぎ損ねていたら、ご愛敬としてください。

◯三世紀の日本語考
 安本氏は、単行本33ページの「三世紀の日本語の特徴」条に言語学論考を並べていますが、無解説に近いので、素人は、自力で踏み石を配置して理解の助けとするしかありません。

*森博達氏 上代八世紀日本語の音韻法則
 森氏は、引用出所の単行本30ページに及ぶ学術的論考の労作を見ても、八世紀奈良時代の豊富な日本語文書資料から得た知見を根拠に、「上代日本語」は、四世紀余前世の筑紫地域語らしい「倭人語」と共通の音韻法則を有すると主張するものの、有効な推定と断定しているものではないのです。

 また、語中の母音連続禁則も、「決して」と断定せず、「原則として」と限定しています。当禁則には、既知の例外があるのでしょう。

 素人考えでは、括弧内に例示されたように「青し」(awoshi)が禁則でないなら、「邪馬壹」も、yamawi(邪馬委)のように、w音が間に入れば、禁則除外となると見て良いかと愚考されます。ただし、手元の森氏単行本では、例示出典は不明です。文庫本で補充されたのでしょうか。

*長田博樹氏 倒錯した方言観
 長田氏は、「倭人語」音韻は、「上代日本語」のそれと明らかに異なるとしますが、「筑紫方言」は本末転倒でしょう。馬関係かが逆転していて、「上代日本語」は「倭人語」の、後世奈良方言かとも思われます。いかがでしょうか。

*大野晋氏 場違いな勘違い放言
 大野氏対談で、鈴木武樹氏が、丁寧に古田氏の馬委(yamawi)説を紹介したのに対して、粗忽に「上代日本語で成り立たない」と言うものの、何がどう成り立たないのか、全くもって根拠不明で引用が打ち切られていて、これでは、単なる「ジャンク」情報と見えます。
 このようなお粗末な発言が、なぜ延々と掲示されているのか、安本氏の意図が不明です。

*安本氏の訂正と総括
 追いかけて、安本氏から、「倭人語」は、奈良時代の「上代日本語」ではないとの訂正があり、大野氏のうろ覚えの断言を是正した後、「倭人語」にも、母音が重なるのを避ける傾向があると、森、長田両氏の論考を承継しています。大野氏の暴言は、どう補正しても、両氏の精緻な論考と席を連ねられるものではないと愚考します。

 安本氏は、慎重に言語学権威の発言を引用しつつ、賢明にも加減、毒消しして総括し、そのような傾向が認められるとしても断言できないとの口調です。誠に、妥当な対応です。

*「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か(単行本181ページ)~未解決の課題
 氏は、第4章で、以上の論議を回顧し、「馬壹がyamaiと発音されていたと限らない」可能性も考慮した上で、「言語学的に、邪馬壹国が、倭人語発音上で許容されたかどうかは、判じがたい」としています。

 続いて、地名論などの多角的視点から、両国名のいずれが妥当であるか論議を加え、当然「邪馬台国」有利の方向に重きを置いて論じても、両論には、「それぞれ異なった視点から根拠あり」としています。むしろ、一時の「邪馬壹国排斥論」でなくなっているように見えます。

 勿論、本書は、国名論の最終回答として物されたのではないので、この際、断定しなければならないということは無いのです。

 当ブログ筆者は、安本氏のかかる慎重な筆法は、学術的に極めて公正かつ妥当なものと見るのです。

 これ程周到に進めた議論の結論を、断定的結論を示したと解されると、安本氏も、大いに困惑するでしょう。

 本記事の愚見に関して、安本氏に問い質すつもりはありませんが、もし、とんでもない勘違いを書いているとしたら、しかるべき筋からご指摘があるでしょうから、お待ちしています。

◯まとめ
 本書は、全体として、誠に堅実な論考の宝庫であり、安本氏の明晰な論理の冴えを示すものです。

 ただし、本書が対象読者としていない古代語学初級者が早合点するのが完全に防止されていないのは、やや残念です。ただし、それは、本書の学術書としての意義をいささかも損なうものではないのです。

                                 完

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 「私の邪馬台国論」

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにできないのです。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱とは言え、北アイルランドの動向が不明とか、ウクライナの加入などが、重大懸案ですから、三世紀の古代事情の連漕先としては、まことに不似合いでしょう。もっと、レジェンド化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。
 史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~水行疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後に書かれている「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この間を全十日行程と見ているのは無残な勘違いです。当時の交通手段で、この区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、最低3日、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。(潮まかせ、風まかせで不安定な船便では、所要日数は、青天井ですが)
 この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説を、誤謬を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです、 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

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