新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 12/14 補追
邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~ Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17
*また一つの時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。
古代に「直線距離」は時代錯誤です。倭人伝は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。
そして、肝心なのは、晋書地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って、遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪。帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。
こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。
*最初の一歩
漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上の直線距離に意義はないのです。
また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。
本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で倭人伝記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。
*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です。
まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、鴻廬館などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、
ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地が温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。
ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、倭人伝解釈の特異な点です。
現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。
記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。
但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、おおボケです。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。
これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。
未完
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