« 2022年1月 | トップページ | 2022年3月 »

2022年2月

2022年2月27日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の汚点 「五輪リベンジ」の不始末

                      2022/02/27
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版スポーツ面のど真ん中である。いや、「陸上クロカン」なる記事の中程で、勝者の談話を持ち上げている小見出しだが、素人目にも、三流以下の不出来な談話で、何とも情けない。これでは当人の評判が下がるしかない。
 要は、当人が、ちゃんとした言葉遣いで話せない半人前なのがあからさまなのだが、それは、これまでちゃんと指導者が、汚い言葉遣いを直さなかったのが原因だろうが、何しろ、責任者の氏名不詳だから追及しようがないのである。それにしても、そんな、一人前の大人がしゃべるのが恥ずかしいセリフを、殊更でかでかと取り上げる担当記者の気が知れないのである。
 ここは、スポーツ面かも知れないが、世界最高の日本語報道紙の紙面なのである。言いたい放題のSNSではないのである。

 まずは、レースでコース外れをしてのけて、うまくごまかせたことを「やべって思った」と口汚く言った後で、勝者インタビューで「今の自分はダサい。オリンピックの舞台でリベンジしたい」などと、さらに汚い言葉で喚いたのを、そのまま報道するだけでも問題なのに、小見出しを立てるのだから、この言葉遣いは、担当記者の好みなのだろうか。予選下位敗退者が、別に何を誰に誓おうと、元々何の関心もなかったのだから、読者の知ったことではない。
 オリンピック代表に選ばれながら、自分が不出来で惨敗したのに、「くやしい、仕返ししてやる」しか言わないのは、何とも奇天烈な談話で、人選の誤りだろう。陸連は、ちゃんとした言葉で談話を出せない選手は、人選から外すべきではないか。

 また、毎日新聞も、このような姑息な手段で当人の評判を落とさなくても良いのでは無いか。今回の記事は、署名記者をブラックリストに載せるもののように見える。

 今回の大失態の責任は、このような記事が紙面を汚すのを停められなかった編集/校閲部門にあるように思う。記者の失態は、内部で是正して、読者に不快な思いをさせないというのが、大新聞の務めではないだろうか。

以上

2022年2月23日 (水)

今日の躓き石 NHKBS「奇蹟のレッスン」に汚点のナレーション 「リベンジマッチ」

                       2022/02/23
 今回の題材は、NHKBSの 『奇跡のレッスン「野球編」』である。[BS1] 2022年02月23日 午後7:00 ~ 午後8:50 (110分)

 番組は、最強コーチが、「楽しくて考える野球の道を日本の子供に伝える」ものであり、全体としてたいへんよくできたものと思うのだが、前半の締めの部分のナレーションで「リベンジマッチ」が出てきて、折角の番組に泥を塗ったのは、残念であった。

 いくら悪意がなくても、テロリスト紛いの「リベンジ」汚泥を子供達に擦り付けては、道に外れていると言わなければならない。
 負けたら、相手を恨んで次は血祭りに上げるというのは、野球界に長年漂っている悪習である。次世代に伝えたくないものである。

 いや、これは、復讐戦でなくて、近年蔓延している「ダイスケリベンジ」かも知れないが、野球界にしか通じない汚れた言葉を、さらに次の世代に伝えるというのは、恥知らずな汚点継承である。
 いゃ、番組の最後、試合に勝ったところで、「リベンジ」を果たしたとナレーションが入ったから、当番組のライターは、血なまぐさい「リベンジ」 が好みらしい。悪しき伝統に忠実なのか、勘違いで言い損なったのか、困ったものである。

 ついでに言うと、「因縁」などとこれまた血なまぐさい、反社会勢力紛いの言葉が出てきたが、同地域の有力な競争相手とたびたび闘うのは、別に偶然でもなんでもないし、何度も同じ相手に負けるのは、要するに、相手に比べて工夫が足りない、努力が足りないという事ではないか。子供じみた逆恨みなど、早く卒業してもらいたいものである。いや、当番組は、そうした知恵を各選手自身に気づいてもらえるようにするのではなかったか。

 もちろん、最強コーチは「平成の怪物」などではないから、「リベンジ」などと言っていないはずである。NHKの番組制作班のお粗末なスポーツ観が、またもや出てきたのだろうが、視聴者は、番組では、最強コーチと生徒達しか見ていないので、そこから出てきた言葉と思うはずである。折角の志に泥を塗っては困るのである。

 NHKにお願いしたいのは、スポーツ担当記者などの意識改革である。「復讐心」や「親/監督の遺志を継ぐ」だのスポーツに本来無縁の感情を書き立てるのは、ぼちぼち卒業してもらいたいのである。NHKが、そんな反社会勢力やテロリストの好む言葉を言わなくても、世間には、そうしたヤジが多いのである。

 NHKには、表立って、こうした悪い言葉を葬る「言葉の護り人」の役目を望んでいるものである。せめて、ナレーターが読み上げるまでに、誰かが止めることはできないのだろうか。NHKの番組は、大勢が知恵を出して作り上げているはずなので、その中に、ちゃんと言葉の意味を考えられる人が、一人もいないのかと淋しいのである。
 ついでながら、世間一般で意味の通らないカタカナ、インチキ言葉の「メンタル」が出回っているのも、NHKにしては不用意である。これは、公共放送として、大変不出来である。普通の言葉に言い換えれば、誰でも正確に理解できるのである。
 一方で、日米で抜群の実績を残して引退し、遠慮無しに名誉ある「レジェンド」と呼べるのに、なぜ、普通にそう呼ばないのかも、不思議である。失礼ではないか。

以上

2022年2月19日 (土)

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 1/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

〇コメントに公開回答
 以下は、【私の本棚 34 中島信文 『露見せり「邪馬台国」』】なる書評めいた記事に対して尾関かおる氏から投稿頂いたコメントで、『「海行」が呉志に用例がある』との指摘に対する回答です。(2019/11/22現在公開保留中)

 「用例」は、原テキストの全文検索で容易に発見できますが、あくまで、そういう文字列が使われていたと言う事であり、意義のある「用例」かどうか、言うならば。史料批判した上で言及すべきであり、そのまま「用例」として受け止めると深刻な誤解に陥るのは、当方も、しばしば経験しているところなので、ご指摘に台啜る反論として、以下の通り「用例批判」いたします。
 なお、当「用例」については、当然、先賢諸兄姉が却下しているものと思われますが、却下の先例のご指摘がないので、二番煎じを承知で以下説明を加えます。また、当ブログに於いて、同趣旨の記事が既出の可能性もありますが、それを見ろというのは、読者に不便を掛けるので重複ご容赦とします。
                           –記–

 「海行」は、移動行程の常用用語とされていたのであれば、海上交易の盛んであった東呉孫権政権の史官が責任編纂した国史である「呉書」に基づく三国志「呉志」で多用されているはずですが、実際は極めて「希」で、ほぼ唯一の用例について以下確認します。

▢吳主傳:  中国哲学書電子化計劃
 二年春正月魏作合肥新城詔立都講祭酒以教學諸子
 遣將軍衞溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲
 亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神山及仙藥止此洲不還
 世相承有數萬家其上人民時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行亦有遭風流移至亶洲者
 所在絕遠卒不可得至但得夷洲數千人還

*私見宣言
 もちろん、以下は、論旨を明確にするため断定調であっても、所詮は私見であって排他的ではなく、深意は推定ですから、異論があれば頂きたい。

 呉主伝に書かれている内容は、曹魏が、江水北岸合肥に「新城」を建設して、江南の東呉に対して武威を誇ったのに対抗するため、東呉が、徴兵船を夷州、澶州へ「浮海」、つまり、漠然と目指したときに根拠とした「情報」(風評)たる徐福「入海」の史記記事(正史記事の引用であるから、「風評」とは言えないのですが)に続いて、会稽海岸附近住民の「噂話」(風聞)を伝えたものであり、「会稽の東縣(海岸部諸縣。のちの臨海郡)に、海を行って(海に出て)強風に流されて澶州に行き着いた者があったという」とのことです。つまり、既知の目的地「澶州に向かって、官道として確立された行程として海を行った」のではないと見ます。
 もちろん、「海中」は、海水に沈んでいるという意味でなく、現代的に言うと「海上」の意味でした。また、「入海」は、海に入ると言っても、「入水」、つまり、身投げのことではありません。海上を船で行くという事です。
 ちなみに、曹魏の前線基地である合肥は、長江下流域で曹魏と東呉の競り合った紛争地であり、比較的、長江北岸に近かったこともあって、東呉の攻勢の的となり、西方で、蜀漢の攻勢を受けていた曹魏として、防衛の負担を軽減するために、若干後退した地点に「新城」を構えたと言うことです。そのため、東呉軍に、渡河して陣形を整える余裕を与えますが、堅守して増援を待つ姿勢を示して、不退転の意志を広く示したものです。つまり、東呉に求められていたのは、新城を攻めるための多数の歩兵であり、数さえあれば良しという思想だったように見えます。

*浮海と海行
 つまり、東呉として澶州への往復航路を確立していれば、海上道里や所要日数が知られていて、衛温、諸葛直の両将は、「浮海」などでなく「海行」したはずですが、実際は、果てしない海をあてなく漂って、行けども行けども目的地に着かず苦闘したことが窺えます。
 当時、磁石による羅針盤があったとの記録はないので、日中航行しかできなかったと見えます。と言うことは、澶州は、せいぜい数日の行程だったと見えます。
 何しろ、数千の人員で遠征して数千人を連れ帰るには、それ相当の水や食料の搭載が必要だし、途上の補給地も書かれていないので、現地調達も期待していなかったという事です。何れかの異郷が間近だったという事かも知れません。何しろ、ちゃんとした記録が残っていないので、よくわからないのです。
 「呉書」呉主伝は、東呉の正史であり、東呉の史官が公文書をもとに書いたものであり、降伏の際に晋皇帝に献上されたと言いますが、関係文書は、その際に処分してしまったのかも知れません。

〇三国志の文献批判
 念押しすると、「呉書」の収納は、陳寿の魏志編纂に先立っていて、むしろ、三国志「呉志」に、ほぼ全面的に採用されているので、陳寿は、全文を読んでいたのですが、倭人伝に、「海行」なる「新語」を採り入れることはなかったのです。魏志は、あくまで、「史記」、「漢書」の用語を典拠に編纂したのであり、叛徒である東呉の野史、つまり、非公認史書の用語は、論外だったのです。
 三国志の文書史料解釈において、「呉志」、「蜀志」は、陳寿が責任編集した「魏志」本文ではないので、峻別して取り扱うべきだということになります。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 2/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*無謀な兵船浮海
 曹魏の支配領域の沿岸を越えて遼東に大軍の兵船を派遣した実績を持つ東呉が、精鋭満載の兵船を、海を越えて遙か彼方、「海中」の夷州、澶州に派遣し徴兵する能力があった事は、呉志記事で確認できますが、それすら「海行」と言わなかった事は、当時の「航海」の限界を示すものと思います。
 もちろん、「海路」などと言う後代概念は三世紀当時には一切登場しません。諸兄姉は、時代錯誤の誹りを浴びないように、慎重に口を慎むべきです。

*愚行の教訓
 余談ですが、東呉は、(長江では)水軍で、曹魏が、一時荊州を配下とした時点でも、これに優越していて、不足しているのは、中原の平原に展開して闘う陸軍(歩兵、騎兵)ですから、言葉の通じない海人を大量に徴兵しても歩兵戦の役に立たないのです。徴兵船構想は、重大な錯誤としか言いようがありません。よほど人手不足だったのでしょう。

 「呉国志」のもととなった「呉書」を編纂した東呉の史官は、このような愚行が再発しないように慎重に言葉を選んで執筆したと思います。

*用例総評
 従って、本「用例」は、「海行」なる言葉が、東呉に於いて、倭人伝の用語の背景となっているとされている「水行」、「陸行」の制度に対峙される制度として確立されていたと証する用例ではないと考えます。

 また、陳寿が、魏志「倭人伝」を編纂する際に、呉書の孤立した用例を、公式史書である魏志に断り無く導入して、晋朝官人に承認されると判断したとは思えないのです。あくまで、呉志が東呉の語彙で書かれていることが、黙認されていたに過ぎないのです。

 ついでながら、ここに書かれている「会稽東縣人」を、「会稽東冶縣人」の誤記と解する例も見られますが、上記したように、会稽東縣とは、会稽海岸部を占める東部諸縣の通称であり、のちに分郡して臨海郡とされる地域と読み取るのが、順当な解釈です。

 会稽郡南部の東冶県は、会稽郡治から険阻な山間路を一ヵ月どころでない長期を費やして移動する遠隔地であり、そのような遠隔地の不確かな風聞を、東呉の国威を示す目的で書かれ自国史として権威を持っていた「呉書」に書くことは、ありえないものと見られます。「三国志」と一括して読まれても、呉志は魏志と異なる大義名分で書かれていることを認識して理解すべきです。

 つまり、会稽郡のお膝元で、直に取材可能な東縣の「伝聞」なのです。

▢改訂した結論 2022/01/22
 以上、丁寧すぎたので、以下、改訂した一刀両断の回答を示します。

 要するに、目下の課題は、魏志倭人伝の道里行程記事に対する呉志呉主伝記事の「海行」の影響ですが、これは、端から論外です。門前払いでお帰り戴けば、色々調べる必要は無いのです。

 以下は、あくまで、当ブログ筆者の心覚えであって、公開すると、更なる揚げ足取りを呼ぶので、内部資料として留め置くのです。(そのつもりでした)

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 3/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*内輪の説明書 (部外秘)
 魏志は、陳寿が、史記、漢書に通じる語法で書いています。早い話が、倭人伝の道里行程は、本来、秦、漢、魏の官制に従い、陸上街道に限定されています。もっとも、倭人伝の道里行程は、独自の限定された書法、語法となっています。また、倭人伝が、独自の書法、語法を採用するという事は、道里行程記事の冒頭で明示されています。

*後漢公式行程
 後漢書「郡国志」(司馬彪編 范曄「後漢書」に併録)には、洛陽から遼東郡を歴て楽浪郡までの道里五千里が記録されていますが、当然、終始一貫街道を行くので、帯方郡から先も、当然、一路東南方向に街道を行くのです。

 言うまでもないが、洛陽は河水の南、支流洛水沿いですから、遼東までに、少なくとも一度は、街道の津(船着き場)での渡船がありますが、それは、当然街道の一部であり、部分的にも「水行」などとは言わないのです。

 よって、呉志の発明した「海行」どころか、倭人伝で初出の「水行」も、本来、対象外の「無法」(違法)な用語です。倭人伝が、無法な用語で書かれていては、軽くて、却下、悪くすると、罷免、免官、馘首です。

*水行、陸行
 但し、倭人伝では、「従郡至倭」の行程が、狗邪韓国で「大海の北岸」に達して、以下、渡し舟とは言え、渡海の行程は、大海海中を進み、一日がかりなので、所要日数が発生します。そのため、余儀なく、妥当な方策がないので、特に用語定義して対処したのです。

 ここで陳寿が書いた「従郡至倭」行程では、『狗邪韓国の海岸(大海の北岸)から循して沖に出て、三度の渡船で対岸の末羅国の海岸に渡るのを「水行」と言う』と、臨時に地域限定(local)で「循海岸水行」と宣言したものです。
 つまり、公式道里に「水行」はないというのが、当然、自明の前提なのです。いや、行程が地上街道に限定されていれば、本来「陸行」も存在しませんが、東夷、西域など、街道整備が整っていない未開の世界では、必ずしも、原則だけ通用するとは限らないのです。

 因みに、行程は、末羅国で上陸し、以下「陸行」と明記して「水行」は解除されています。
 当ブログは、「従郡至倭」行程は、伊都国で完結し、女王の治所、王城までは、行程と言うほどの移動のない至近の地だったと、簡潔に見ています。「従郡至倭」行程の道里は、 千里単位ですから、本来、百里単位の端(はした)は、書くに及ばないのです。
 現に、倭人伝道里は、末羅国、伊都国間で百里単位の端(はした)を残したため、計算が合わないと揚げ足を取られていますが、千里単位の概数計算では、一里単位まで「キッチリ」合うとは限らないのが常識です。

*大海、瀚海
 中原知識人の世界観では、「海」は、塩水の満ちた「うみ」(英語でsea,米語でocean)ではなく、中原世界の四囲にある異界であり、船で渡ることなどあり得ないのです。

 一方、魏志「倭人伝」に書かれているのは「大海」ないしは「瀚海」であり、それぞれ、漢書「西域伝」に描かれた広大な塩水湖「カスピ海」が「大海」の実例であり、や砂紋の描かれた流沙(砂漠)は、水ならぬ砂の海の「瀚海」の実例なのです。
 中原人にとって既知の世界観を利用していて、陳寿が書き出しているのは、現実に追従した具体的な地理概念なのです。

*「倭人伝」宣言
 「倭人伝」は、公式史書「魏志」の一部なので、それまで、中原知識人の確認した語彙、世界観以外は、無断では使えないのです。くれぐれも、中原人の限定された世界観を遵守することです。所詮、中原人も、また一種の井蛙なのです。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 4/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*「蜀志」の開闢~余談
 陳寿が、三国志編纂を志した時点では、「蜀国志」稿が用意されていなかったのです。恐らく、蜀漢は、国家として最低限の官僚しか備えていなかったので、皇帝付きの記録係、書記官、史官は、揃っていなくて、晋で言えば、起居注として日々書きためられている記録が整っていなくて、各方面の多大な協力が必要だったのですが、陳寿の志を知れば、協力は容易に得られたものと思われます。
 陳寿は、蜀漢に事えていたので、そのような不備を承知の上であり、広く蜀漢時代の公文書を収集して蜀国志稿を整えるという活動を指揮し、最終的には、陳寿が蜀書の体裁を整えたとするのが有力な見方です。(陳寿が、自身で細部まで編纂したという主旨ではありません)
 蜀漢創業者にして、先主と呼ばれている劉備は、後漢献帝のもとから荊州を歴て成都に亡命して以来、一貫して、漢の再興を志向していたので、「蜀国志」は、中原洛陽の「東京」語法で書かれたものと思われますが、不勉強で確認できていないので、ご容赦いただきたいのです。

〇范曄「後漢書」の世界観
 因みに、三国志と言いつつ、呉志は、東呉史官(周昭,韋曜、薛瑩、華覈)が、言わば、不遜にも呉帝の事績を編纂した史書「呉書」が、東呉の降伏の際に、降伏の証しに「国宝」として晋帝に献上されたのを、陳寿が最低限の調整で呉国志として取り上げたのです。その内容に、魏志としては不適切なものが多々あるのは、皇帝以下の諸賢に承知されていましたから、呉志に書かれているから、魏志に書かれているのと同然という事はできないのです。
 要するに、三国志は、一律の統一された方針で隅々まで編纂された史書ではなく、三「国志」(魏国志、呉国志、蜀国志)なのです。

 衆知の如く、東呉は、東シナ海沿岸を自在に南北に往来していましたが、そうした業績が、中国の天子に承認されたのは、西晋が崩壊して、東晋が、長江下流の建康、つまり、東呉の旧都に亡命、東遷してからです。つまり、陳寿が魏志編纂の際に、呉志の用語を所引することはできなかったのです。

*笵曄の「海」~余談
 劉宋時代に(最後の)「後漢書」を編纂した笵曄は、建康政権たる劉宋に奉職していたから、先に書いた、太古以来の伝統的世界観は、持っていなかったと見えます。

 つまり、范曄にとって、「海」は、目前の「うみ」だった可能性が高いのです。范曄が、伝統的な史官として訓練を受けていたら、「海」は、魏志同様に、古典書に言う「海」と認識できたでしょうが、史官でない「素人文筆家」が、古典と同時代で、それぞれの語彙、世界観を書き分けていたかどうか、遥か後世人としては不明と言わざるを得ません。

*笵曄の創作~余談
 ついでながら、范曄「後漢書」東夷列伝倭伝の情報源は、不可解です。
 先に述べたように、范曄「後漢書」といいながら、「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の賜物であり、同書は、西晋代にまだ健在だった洛陽文書館の「大鴻臚」公文書から大量の資料を所引したものであって、洛陽(雒陽)から遼東郡を歴て楽浪郡への道里が記録されています。しかし、帯方郡への道里は記録されていません。それどころか、帯方郡自体、郡として記録されていません。つまり、遼東公孫氏は、献帝が曹丕に禅譲するまでの期間に、帯方郡分郡を報告したとしても、戸数、口数、道里は報告していないことになります。
 魏の文帝、明帝期は、公孫氏の自立時代ですから、魏の大鴻臚にも、帯方郡関係の報告は一切なかったのです。魏志に郡国誌も地理志も無いので、物証はありませんが、強固で反論不可能な状況証拠として、雒陽に帯方郡関係の報告は一切届いていなかったのです。それが、魏志に書かれている、公孫氏が東夷を遮っていたという記事を裏付ける物です。

 魏略及び魏志の東夷伝は、景初初頭に、帯方郡が、楽浪郡と共に、魏明帝の傘下に回収された際に、帯方郡から得られた郡文書に基づくものであり、特に、魚豢「魏略」は、後漢から政権を正当に受け継いだという立場に立っていたので、魏略「東夷伝」は、当然のごとく後漢代から説き起こしていたと見えるのです。これは、裴注として補追された魏略「西戎伝」が、大量の後漢史料に僅かな論評を加えた体裁であることからも見て取れます。これも、否定困難な状況証拠による推定です。

 と言うことで、范曄が、後漢書「東夷列伝」を書く際に、献帝期以降の記事を書くのに利用できたのは、魏略「東夷伝」だけだったということになります。何しろ、先行諸家後漢書には、その期間の東夷記事が存在しないのです。
 但し、笵曄は、後漢書「東夷伝」を編纂する際に、魏代記事をあからさまに流用できなかったので、魏志「倭人伝」相当記事を、後漢代の記事となるように、時代をずらしたものと見えます。つまり、倭国大乱を大きくずり上げ、卑弥呼の共立/即位も、目立たないようにずり上げ、陳寿の倭人伝記事の改竄を図ったものと見えるのです。
 その苦しい手口が、その国が「帯方郡の檄を去る」との記法に表れています。何しろ、笵曄は、楽浪郡治から、帯方郡治までの道里を知らなかったので、帯方郡までの道里が書けなかったのです。別の言い方をすると、笵曄は、帯方郡が後漢公文書に存在しないことを知っていたので、ここに書けなかったのです。それなら、なぜ、後漢公文書にない倭国記事が書けたのかということになりますが、不可解というしかないのです。
 其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。

*笵曄の言い分~余談
 その当時、倭の主監は楽浪郡であり、「大倭王」の居処は、陳寿の云う「邪馬壹国」と似ているが、字の違う「邪馬臺国」であり、行程の中継点も、大倭国の西北界である「拘邪韓國」だった、陳寿の「狗邪韓国」と違うだろうと言っているように見えるのです。二千年を隔てた後世の東夷にしてみると、姑息な言い逃れにも見えるのです。
 もちろん、これは、范曄「後漢書」が、誤写や改竄無しに、奇跡的に、後世に継承されたと仮定しているに過ぎないとも言えますが、現存史料を起点に考察するという方針は、既に定めているので、それは言わないことにします。ひたすら、山成す史料の片隅のすき間に、手際よく倭国物語を填め込んだ笵曄の見事な創作を賞賛するしかないのです。

 何しろ、該当時代の史料は他に存在しないので、いくら孤証でも、誰も責めないのです。何しろ、西晋代における司馬彪「續漢書」 編纂の 後、後漢の京師雒陽は、匈奴を中心とする異民族軍の攻撃で落城し、皇帝は拉致され、洛陽城は大掠奪を受けたので、厖大な公文書を退避させるどころではなく、秦代以来西晋に至る歴代の公文書は、ほぼ全滅したものと見えます。
 各後漢書は、司馬彪「續漢書」と、各地に残された地方志や公文書の写本類を頼るものになったのです。特に言うと、各地方志の中で、東夷伝のより所となるべき遼東郡の公文書は、後年、司馬氏の征討を受けて全滅しているので、後漢代の文書資料として利用できなかったのです。
 と言うことで、范曄「後漢書」倭伝に対する異議は提示されず、陳寿の記事は、笵曄の記事の下手な焼き直しの後出しに見えてしまったのです。

 総括すると、范曄「後漢書」が、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、「三史」の掉尾を飾る栄光の地位を得てから、古代氏の議論は、史記に続く両漢書(漢書と後漢書を合体させた、巨大な正史)で幕となり、三国志と晋書は、雑史の扱いになってしまったように見えるのです。いや、もちろん、「三国志」は、正史として大いに尊重されたのですが、燦然たる「三史」に比べると、一段控え目にならざるを得なかったようです。

 未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 5/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19-20

*まとめに向かって
 当記事は、余談が転々として、脱線に近いものになってきましたが、ここらで本線に戻してみます。
 つまり、倭人伝道里行程記事は、どのような方針で書かれたかという、言わば、陳寿の真意の見極めとなります。 

倭人伝「道里記事」の見極め
 と言うことで、当記事では、「水行」の由来を見極めたことになります。由来を見極めた背景として、呉志の記事が、「道里記事」に無関係だと、言わば圏外宣言したことになります。
 その余波で、「道里記事」が、古典書、史書にない独特の地理条件を、手短に説明するために、地域限定の概念を宣言して、ここだけの用語と論理を提言しています。そのような前例は見当たりませんが、それだからこそ、殊更、限定的に定義しているものです。
 倭人伝読者は、本来、自身の持ち合わせた「教養」をもとに解釈するものですが、「教養」に新たな定義を付け加えて解釈することも、あわせて求められているものと考えます。そうでなければ、新たな文書を読んでも、新たな知識を受け入れることができないからです。
 世上、正史は、先例、つまり、古典典拠(のみ)をもとに書くものであるとの決めつけが見られますが、文書解釈の根本は、文書は、目前の文書そのもので解釈すべきだとの大前提があり、陳寿が、倭人伝道里記事という前例のない地理記事で採用した宣言文は、決して、不合理な物ではないのです。

*目前の記事の意義
 因みに、「目前の文書」に集中するのは、巻物形式の文書で特に重要で、例えば、魏書第三十巻の講読を進めて、韓伝を終えて倭人伝に至ったとき、先行する第三十巻の大半は、直前の韓伝を掉尾として、右手の巻物に巻き込まれていて、読者の視界から消えているし、そのように、倭人伝の冒頭を目前に参照しているとき、二千文字の倭人伝後半千文字は、まだ、左手の巻物に隠れていて見えないはずなのです。
 つまり、読者が現に目にしているのは、後世の冊子で言えば、見開きに相当する程度の範囲ですが、冊子のように、簡単に頁送りして確認することはできないのです。もちろん、高貴な読者は、自身の手で巻物を操作することはありませんが、それでも、所望の範囲を見るために巻物を操作するのは、それこそ、一人、二人ではできない大仕事であり、しかも、目下の参照部分は、巻物にしまい込まれているので、比較参照するのは、大変むつかしいのです。
 まして、史記、漢書などの先行史書の参照となると、五人、十人の部隊が必要なので、不用意に起用できないのです。

 と言うことで、倭人伝の書法が、目前の文書記事自体による解釈を重視するのも、蒸し返しに近い再確認があるのも、もっともな理由があってのことなのです。

 「倭人伝」にある「水行」は、本来、「倭人伝」限りの用語であって、「従郡至倭」行程の三度の渡海に限定して採用されたものであり、それ以後の公文書でどのような意味で使われたかは、陳寿には無関係です。いや、余傍の国である投馬国への水行が、いかなる行程なのか、陳寿の知ったことではなかったのです。

*根幹と余傍
 陳寿は、「従郡至倭」行程を倭人伝の根幹の一つとして随分念入りに説いていて、後段では、用語表現を変えて、「參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里」、つまり、郡から倭を訪問する行程途次を説いていて、「従郡至倭」行程の三度の渡海は、 大海を大河と見立てた中州の島、洲島を渡り継ぐのであって、通常「海中」と言うような韓半島のような半島ではなく、概して絶島として独立していて、時に連なっているというものであり、この場の結論として、狗邪韓国から末羅国までは、片道五千里の行路(周旋)と珍しく念押ししていますが、こと行程外諸国に関しては、「余傍」として冷淡です。

 これら「余傍」諸国に関する「水行」を交えた行程は、遠絕、不可得詳、つまり、女王の元に公式回答がないので、万事不確実と「明記」しています。国情紹介で、二萬、七萬という絶大な戸数を申告している巨大な国の身上調査を怠るなど、もっての外なのですが、陳寿は、道里行程が第一にしてほぼ唯一の主眼であったので、蕃夷の「国」の地政学的な内部事情要素は、意に介していなかったのです。

〇結語
 以上のように割り切れば、「倭人伝」道里行程記事の「水行」「陸行」考証に、魏志以外の史書用例を審議する必要は無くなるのです。

 最後に復習すると、魏志は、三世紀の晋帝などの中原読書人のために、三世紀の西晋史官陳寿が編纂したものであり、そのように理解しないと誤解を生じるのです。ここでは、現代人に、そのような「常識」が行き届いていないことを想定して、ことさら丁寧に説き聞かせています。全て承知の諸兄姉には、ご不快かも知れませんが、当方には、読者の知識を知るすべはないので、あれこれ饒舌に説いているのです。

 当ブログ読者には、「ミミタコ」の方もあって、さぞかしご不快でしょうが、よろしくご賢察の上、ご容赦ください。誰でも、いくら博識のかたでも、「知らないことは知らないところ」から、知ろうとして勉強し始めるのです。

死罪死罪。頓首頓首。
                  完

2022年2月18日 (金)

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 1/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30
私の見立て ★★★★☆ 必見         「日本歴史」349号 (1977年6月)

*総論
 氏の論考は極めて篤実で、捨てがたい卓見ですが、採用史料の評価に同意できない点を含み、多大な論考の結論であっても、同意できないのです。今さら、ここに書評するのは、氏の古典的な論考ぶりが、今でも、同様の趣旨で継承されているからです。
 陽だまりの大樹にも実生の時代があったのであり、せめて、人の手の届く低木の時代に、このようなあからさまな傷を癒やしていれば、今日の巨木になって、大きな欠陥を人目にさらすことはなかったのにと、惜しまれるのです。まことにもったいない話です。

*不吉なタイトル
 その一端は、タイトルに表れていて「魏志倭国伝」は、氏の言う「通行本」(紹凞本)の小見出しに符合せず「倭人伝」書き出しにも整合しません。論文として、最低限の考査も加えられていない表れとみられてしまいます。

*「魏略」批判欠如~「翰苑」は論外
 通行本に並列の二史料の第一、「魏略」は現存せず、他史料に引用の佚文、つまり、ひ孫引き等された断片の集成に過ぎません。(衆知の如く、魏志第三十巻の巻末に裵松之によって補注された魚豢魏略「西戎伝」は、伝全体の良好な写本が挿入されていて、佚文などではなく、ここで言う「魏略」批判の対象外です。)
 つまり、無造作に「魏略」というものの、実態は、それぞれの断片の健康状態次第であり、いずれにしても、佚文である以上、「魏略」原本の忠実な再現かどうか、大いに疑問です。(再現の筈がないと断言しているのです)

 特に、ここで提起されている倭人伝部分の依拠する「翰苑」の所引記事は、そもそも、「翰苑」 自体が、適切に編纂された史書などではなく、「倭」関連部分に限って言えば、明白な誤解、誤記を、非常に多く含み、編纂者の資料の取扱が、不正なものではないかと大いに疑われますが、本来、原本に囚われない自由な引用と見えるので、史学の視点で言うと、大変粗雑な引用と思われます。
 早い話が、野次馬の聞き書き同然で、支離滅裂だという事です。
 三木氏が、素人目にも明らかな難点を審議しないままに、氏の論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*御覧批判欠如
 その第二、所引本は太平御覧(御覽)に引用の「魏志」です。
 世上、誤解が出回っていますが、「御覧」は史書ではないため、編纂時の引用、記事承継が、全く信頼できないと言わざるをえません。
 榎一雄氏の考察によれば、「太平御覧」は、先行する複数の類書に依存した編纂物であり、多くの所引担当者を動員した大事業と見えるので、信頼性の面では、大いに疑問があります。
 これに対して、「三國志」は、史官としての訓練を受け、史官の使命で動機づけられていた陳寿が、専念して史書として編纂して完成稿を遺し、没後の上程後は、歴代皇帝の蔵書として、適確に継承されていた、検証済みの史書です。
 氏の議しているのは、蟻が富士山に背比べを挑むようなものであり、それだけで、氏の奉じる史料批判の信頼性が大きく損なわれるものと見えます。

 「御覧」上程以後の継承に限定しても、「御覧」も絶対不朽の継承が検証されているわけではなく、「三国志」同様に、北宋末、侵入金軍による中原全土から、長江流域に至る全土での「諸書(経書、史書、類書)及び版木の全面的破壊」の被害を受け、南宋が、国の権威をもって、各地に遺存していた写本から、原本回復を行ったものであり、史料としての信頼性としては、少なくとも、同様の依存史料から復原されたと思われる「三国志」に対する批判と同等の批判を克服する必要があると思えます。

 国内史学界で出回って、陳腐化している、つまらない言い草の繰り返しは、鬱陶しいのですが、「太平御覧」の原本は現存せず、原本を読み通した者も現存しないのです。そして、最良の刊本は、精々南宋期のものでしかないのです。肝心なのは、南宋による復原努力の成果であり、原本がないこと自体は、何の根拠にもならないのです。

 見かけない議論ですが、所引に云う「耶馬臺國」は、⑴所引者の見た魏志の正確な引用なのか、⑵「邪馬壹国」(通行本由来)、⑶「邪馬臺国」(後漢書由来)の何れなのか、三択状態にあり、結局、より信頼性に乏しい後代史料によって、信頼性の卓越した通行本を批判しているのです。余りに、後代史料の信頼性が低いのです。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*両史料の信頼性評価
 まとめると、「魏略」には、かなり厳しい批判が必要であり、所引本(御覧所引魏志)にも、しかるべき史料批判が必要/不可欠であり、両史料が通行本に優越するとは(絶対に)言えません。

*先人評価~風に揺れる思い
 ちなみに、冒頭に二重引用された末松保和氏の評言は、
 所引本は、当時の三国志原本(意味不明)からの引用、要約と認めつつ、
 通行本では「侏儒国、躶国の記事を含む一節が不自然な位置と考えられ」るが、
 所引本では、「より自然と認められる位置にある」、及び
 主要国の路程などの順序が、所引本では「比較的整頓され」ているが、
 通行本は「実に支離滅裂(意味不明)
 と見た上で、所引本は、(魏志の)「本来の形」であり、所引本魏志は、通行本魏志と「系統を異にする別本」、と推定口調とは言え実質的に断定しましたが、三木氏は、前段の路程などの記述順序評価は不当と認めつつ、後段は妥当と認めているようです。(「意味不明」は、当記事での追記です)

 このあたり、論理が大きく動揺していて、とても、筋の通った推論とは見えないと申し上げざるを得ないのです。

 「所引本」に対して、史料批判、検定を受ける前から、つまり、著者の深意が知られないうちから、その記述内容について評価するのは、本末転倒の錯誤です。

                               未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 2/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*「御覽」編者の重い使命
 「御覽」編者は、当時の教養人が一読して意味が通る滑らかな記事を書くよう指示され、その問題に時代一流の解を提示したのですが、その際、原文をいわば「誤解」して、それを、滑らかな漢文に書き上げた(書き換えた)と見るものです。

 従って、氏の史料評価は観点が交錯しています。言うならば、史料に現代人にとって読み取りやすい表面的な明快さを求めるのか、深く掘り下げて古代人の文意を発掘し明快な解釈を見出すのか、方針の違いです。

*堅実な論文構成
 提示資料の史料批判をここまでにして、本論の批判に戻ると、三木氏は、先行論考を検証する意図で、ここに、自身の論考を着実に展開していて、その点、堅実な学術論文であると感じます。

*写本継承系統複線化仮説

 氏は、国内史書の写本がいくつかの写本系統で継承される過程で少なからぬ改変が生じたことを意識してのことでしょうが、中国正史は、原本の正確な継承が最優先され、引用利用された下流、派生写本への改変が原本に一切遡及しない仕組みを軽視しているように思われます。

 河水(黄河)下流、河口原での分流に見られるように、一度、扇状地に放たれた奔流は、果てしなく分岐派生し、南北に隔たった小河口でそれぞれ海に注ぐのですが、大河の上流は依然として揺るがないのです。
 下流の派生を見て、上流に揺らぎを見るのは、場違いな幻想です。

 引き合いに出された末松氏も、「別系統」で複数の正史原本が継承されていたと示唆し、南北朝期などを想定したのでしょうが、中国の正統観から言って、各王朝が自己流の正史を蔵書していたとは思えないのです。特に、ここであげつらっているのは、「三国志」の中でも「魏志」末尾の細瑾に過ぎないので、その道里行程記事を解読した上で、自己流に手を入れるなど、あり得ないでしょう。
 素人目には、何か、壮大な神がかりを思わせるのです。

 と言うことで、当方の素人考えは、たまたま、古田武彦氏の正史観と一致しますが、前提として、通行本は正史の(同時代史料群を相対評価して)最も正確な継承と見るものです。ただし、しばしば揶揄されるように神聖不可侵などと言うものではないのです。
 どんな人、著作にも、欠点はあります。
単に、信頼性随一の原点として共有し、その「岩盤」に基礎を敷いて、以下の議論を始めようというものです。

 仮に、聡明全知の後世人が、不出来、不首尾な記事と見ても、後代視点から、正史の記事を改訂、ないしは、読替えすべきではないのです。砂上楼閣はご免です。

*孤証の誹り
 氏は、本資料の中で通行本が孤立している、孤証であるとの主張を述べていますが、それは、先に述べたように、他の二史料に分に過ぎた信を置いているからであり、評価基準が適正でなければ、いくら適正な手順を採用しても、正確な結論、というか、信用できる判断はできないのです。

 言い方を変えれば、史料評価は、標本の数や字数の多少で左右すべきでない、と思うのです。それとも、収録史書の総重量、目方で行くのでしょうか。それなら、御覧の大勝でしょう。

                                未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 3/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*また一つの我田引水
 残念ながら、氏は、特定の史観の学派に党議拘束されているのか、多大の議論を、一定の目的意識に背を押されて進めていて、客観的な論証から逸脱した我田引水に労力を費やしていると見えて、大変痛々しいものの、少なくとも、その判断の根拠を明示しているので、学術的な錯誤とまでは言わないのです。

*傾いた道しるべ
 そういう視点で見れば、三木氏の本論への取り組みは、若干倒錯しています。
 明らかに、今回の論考は、到達点として、列記された課題を掲げて始まり、終始、そのような「青雲」を目指して道を選んでいるから、道が曲がっても躓き石があっても、ものともせずに、正義の旗を高々と掲げて、断固直進したとみるのです。

 いや、それは、氏だけではないのです。少なくとも、古代史学界では、大抵の論者がいわば天命に即して苦闘していて、そのような取り組みが、往々にして、結論に合わせて経路を撓める経過を辿っているので、大命を背負っていない素人は誠意を持って指摘するのです。
 三木氏が、先に挙げた参照資料の難点を意識外として、字面に沿って考察したのは、そのような背景からでしょう。
 燦然と輝く道しるべは、既に傾いていたのです。

 客観的な考察は、それ自体が学術的な成果ですが、課題必達型の考察は、自ら、学術的な価値を正当化できず、却って貶めているようにも見えます。いや、真摯な論考をこうして批判するのは、大変後ろめたいのですが、「曲がった」論考がなぜ曲がったか、率直な意見を呈して、学会に関わりの無い、一介の私人たる素人が、古代史学に貢献できればよいと考えるのです。

*風化した雄図
 氏が提示した以下の結論は、そのような議論を支持する論者には大いに歓迎されたとしても、氏の雄図はむなしく、本論公開時点以来、四十年を経て、依然として、単なる作業仮説に留まっています。もったいないものです。

 論争を終熄させるべき時宜を失し、執拗な風雨に正論の松明が負けるように、風化してしまったのでしょうか。真摯な論争が途絶えたように見える現時点では、こうした三十ー四十年を遡る真摯な論文が必読資料と見て、辛抱強く発掘しては、紹介旁々、持論を宣伝しているのです。

*解けない問題を解くために
 以下、掲げられた成果から見て、三木氏が掲げた下記の正否は素人目には明白ですが、どのような課題を自らに課すかは、各論者の専権事項であり、批判の対象外です。ですから、いちいち批判は加えません。ここで批判しているのは、考察の客観性の蛇行なのです。

    1. 邪馬台、邪馬壱論争は邪馬台国の名称が正しいこと。
    2. 倭国乱の時期は霊帝光和中であること。
      中国使節は卑弥呼に拝仮したこと。
    3. 邪馬台国までの行程記事は直進的に読むこと。

 と言うものの、世上、邪馬台国論争は混迷を続けているとか、なかでも、所在地論は、千人千様で間違っているとか、野次馬の嘲笑罵声を浴びていますが、それは、議論の立脚点を固めないままに当て推量を積み重ねて、ここに唱えられているような砂上の楼閣を築き上げたからだと感じる次第です。
 二十一世紀、令和の時代、半世紀どころではない太古の原点に戻って、問題の読み方から考え直すべき時代に来ているように思うのです。

                               完

2022年2月10日 (木)

今日の躓き石 オリンピックに「リベンジ」煽動の悪霊(レジェンド) 退散の祈願

                    2022/02/10

 今回の題材は、スポーツ新聞系記事なので、本来は見過ごすのだが、余りに問題が大きいので、ここに苦言を呈する。
 葛西紀明 怒り収まらず「どうしてあのような酷い涙を流させるのか!」 高梨には4年後リベンジ期待
[ 2022年2月8日 19:40 ]  

 掲載されたのは、「スボニチアネックス」のサイト記事であるが、いくら言いたい放題のスポーツ新聞メディアでも、本人に重大な危害が及ぶような報道は、厳に慎むべきである。

 それにしても、ご老体が、記事の末尾で、傷心のアスリートに邪悪極まりない呪いをかけているのは、痛々しい。
 「レジェンド」は、その栄誉に相応しく博物館に戻った方が良いのでは無いか。謹んで、送り火を焚きたいものである。それにしても、これほど、露骨に報復行為を宣言しては、指導者として大きな罪科を背負うのではないか。いやいや、次回オリンピックの審判団に、何をぶつけて報復しろとけしかけているのだろうか。これほど露骨に血を見る事態を指導しては、ただでは済むまい。

 それでも「高梨選手にはこんなことに負けないでまた四年後リベンジしてもらいたいです」とエールを送ったレジェンド。

 このような暴言が、横行しないように、当ブログは、しつこく「リベンジ」厳禁を訴えているのだが、しつこく燃え続ける山火事に、柄杓で水をかけるほどの結果も出せていないようである。とは言え、ただの一個人には、この程度しかできないのである。

 それにしても、「また」リベンジとは、どういう意味なのだろうか。スキージャンプ界には、報復行為の伝統でもあるのだろうか。

以上

2022年2月 5日 (土)

今日の躓き石 無くならない「リベンジ」蔓延の悪例 日本将棋連盟に到来

                    2022/02/05
 本日の題材は、日本将棋連盟サイトの下記署名記事である。内容は関係無い。タイトルで「ド滑り」しているのである。
 10連覇かリベンジか 第47期棋王戦五番勝負展望

 これは、佐藤康光連盟会長の真意でなく、記事筆者の「暴言」なのだろう。もちろん、タイトル戦当事者の言葉では無いはずである。当看板サイトに、ちゃんとした編集体勢があれば、編集長が発見して、叱責して改善したはずである。

 言葉自体が、自爆テロを思わせるものであるのに加えて、将棋のタイトル戦に復讐戦の意義しか無いと見るのが、記事筆者の品格の低劣さを物語っているのである。連盟として、当記事は「事故 」扱いして、当記事を取り下げることを謹んでお勧めするのである。
 せめて、このようなみっともないタイトルだけでも、なんとかして欲しいものである。

 因みに、当世若者言葉では、聖なる「リベンジ」を、「再チャレンジ」の茶化した意味で誤用する「ダイスケリベンジ」が大半であるのに対して、当記事の「リベンジ」は、昔ながらの血まみれの復讐戦を示していて、「旧式で的はずれ」の上に、大変たちが悪いのである。
 書いたものがそのまま公開される気楽な立場の人は、自分しか暴言に気づいて是正できる人がいないのだから、聞きかじりで書き飛ばすので無く、よくよく調べて、考えて欲しいものである。

以上

« 2022年1月 | トップページ | 2022年3月 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ