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2022年3月

2022年3月26日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 「圧巻」の剛腕エースの暴言「リベンジ」の蔓延 

                     2022/03/26
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版「スポーツ」面のプロ野球戦評である。昨シーズンの大活躍に続いて、「チームに12年ぶりの開幕戦勝ち星をもたらした」と絶賛なので「気合を入れ」たことについて、別に何も言う事はない。
 ところが、ひと息入れた後「リベンジの意味で強い気持ちを持って投げた」と、とんでもない暴言で全てぶち壊しである。自分で自分の顔に泥を塗っているのだが、こういう見苦しい談話は、オフレコに願いたいものである。誰もが、言葉遣いのお手本としている全国紙に、このような無様な発言が出ては、こどもたちが真似するので、大変困るのである。

 一流プレーヤーは。一流の談話を期待されているのだが、この「リベンジ」は、球界で広く蔓延している「ダイスケリベンジ」でなく、前時代の忌まわしい、血塗られた暴言である。とんでもない失言であるが、それを麗々しく取り上げた記者の書きぶりは、とんでもない失態である。全国紙の紙面にあってはならない、テロリスト紛いの発言は、報道すべきではなかった。

 それにしても、一流選手が、相手チームの投手に向けた個人的な恨みを動機に闘っていたとは、困ったものである。大事なのは、チームの勝利ではなかったのだろうか。何より、自分一人の勝手な感情で闘われては、大変な迷惑である。選手達は、そのような目先の復讐心を糧にしないとマウンドに立てないのだろうか。

以上

 

 

2022年3月23日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞 シドニー便り 見出しで選手に泥塗る「リベンジ期す」

                          2022/03/23

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面で、W杯豪州戦の前祝いの筈なのだが、一選手の個人的な感慨をでかでかと書き立てる記事であり、「リベンジ期す」と大見出しにしても、何も読者に通じない暴言を見出しにしているのは、何としても、不都合な暴走である。

 大体が、日本代表が勝ち進むことが、唯一最大の目的であるべきなのに、個人的な復讐心をでかでかと書き立てるのは、全国紙の報道姿勢として、大いに疑問である。しかも、記事を読んでも、選手が、誰を復讐の血祭りに上げようとしているのか不明では、「金返せ」である。
 少し読むと、どうも、2018年大会の予選のオーストラリア戦で、召集されなかったのを恨んでいるようだが、それなら、当時の指導者をぶちのめすべきである。いや、せいぜい、今になって見返してやると言う事でしかなく、復讐の血祭りに、オーストラリアチームや現在の指導者を的にするのは、見当違いである。その程度の区別がつかないとしても、選手として、場所柄に相応しくない言動は控えるべきである。こどもたちが、わけもわからずに真似するのである。

 それにしても、全国紙記者ともあろうものが、選手の不穏な言動をそのまま報道するのは、どういうつもりなのだろうか。それが、毎日新聞スポーツ報道の党則なのだろうか。

 真剣に言うと、選手の真意は、そのような暴言にはないはずである。適正な報道で、選手のスポーツマンシップ、不屈の努力を讃えるのが、報道の本道ではないだろうか。それとも、記者は、絶えず、誰かに恨みを抱いて生きているのだろうか。
 それとも、南半球で、季節と重力方向が逆転して、頭に血が上ったのだろうか。(苦笑)

以上


 

 

2022年3月22日 (火)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇魏志「倭人伝」道里記事考察
 当記事は、魏志「倭人伝」冒頭の郡を発して倭に至る「従郡至倭」の行程は海を行かないという話です。(三千里の渡海は除きます。魏使の行程と書いたのは、紛らわしいので、倭人伝の表現に戻しました 2022/03)
 当ブログは、倭人伝論議に珍しく、後代史料は、まず史料批判しています。 ただし、倭人伝解釈に後代資料を援用するのには慎重ですが、それは、「頭から信用はしない」と言うだけで、厳格な史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは避けていないのです。(2020/11/15)
            現代中国語で公里は㌖です。

〇間奏曲 隋書・唐書
 倭人伝の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 隋書は百済・新羅から水陸三千里とします。古田武彦氏は、三千里は新羅南端と倭北端の渡海とします。「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 舊唐書は隋書の三千里を書かず、倭は京師を去る一万四千里としています。
 倭人伝里程を維持したのか、倭人王城をどこに見たのか微妙なところです。
 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、隋書、舊唐書、新唐書は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 言い足すと、これらは、別に、三世記の魏使の移動経路を論じているのではなく、公式経路の公式里程を述べているものです。

〇新唐書地理志 入四夷之路
 新唐書地理志によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。
 日本国は絶海の地で交通がなく、東夷の最果てとして、新羅慶州(キョンジュ)が報告されています。平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。この時代、往年の高句麗(高麗)のあとに、「渤海」国が半島中南部の新羅と南北対峙し、東夷の北端渤海国王城も、登場しています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで、鴻廬の記録から消えたと言う事でしょうか。もちろん、正史の訂正、改竄は、あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。
                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 四夷に至る路は七路に大分され、東夷は、一「營州入安東道」により往年の遼東郡に近い渤海湾岸営州から安東府を経るか、二「登州海行入高麗渤海道」により山東半島登州から渡海し、渤海(新羅と半島を南北二分)などへの経路を経るかいずれかで、以下に引用しますが、具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城,城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。
乃南傍海壖,過烏牧島、浿江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島(。)千里[。]
[自](至)鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城。
 自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城。

 鴨緑江河口部を去る一千里の唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城(慶州 キョンジュ)まで東南陸行七百里は、現代地図で一千公里(㌔㍍)程度と思われます。これは、唐代玄宗期に確定された官路里程です。
 発進地である登州府は、山東半島を管轄した登州の首都で、半島北端に位置しました。西は渤海湾沿岸、北は半島沿岸、東/南は、郎邪から南に江東を経て、広州から南海に至るようです。
 登州から遼東半島への経路は渤海列島に恵まれ、最初、つまり、春秋時代に当時の齊によって確立されたと思われます。後年、南の平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)付近が良港と評価され、航行が活発になったようですが、半島西南部は見えません。
 山東半島の東の最果ての岬、成山角には、始皇帝や徐福が訪れたという記録が残っています。目前の半島を無視して、どこへ行ったのでしょうか。
 唐書は、「倭人伝」と大巾に時代が違うので、海船による移動は、「海行」と明記し、以下、「過」「大謝島」などと通過地を列記した後「得..長口鎮」などと到着地と里程を記しています。中継地は公式経路の海港と言うことです。河川経路を行く「水行」などはなく、河川航行する場合は、「溯流し至る」などとしています。
 つまり、仁川(インチョン)付近唐恩浦口から新羅王城まで東南陸行八百里とし、世上誤解されているような「沿岸航行」する行程は、存在しなかったのです。

 唐恩浦口から新羅王城まで、帯方郡時代以来の公式街道であり、道里は「道のり」と見て現代地図で推定すると、小白山(ソベクサン)を竹嶺(チュンニョン)で越えても四百公里(㌖)程度と思われます。(訂正 2020/11/15)

 追記:「海行」は、山東半島登州から半島の対岸への「渡船」であって、単に、海を行くとの意味です。街道行程などではありませんが、最終的に三百里と総括されていますから、東大の道里観は、変化していたのでしょう。(2020/11/15)

 追記:「鴨淥江唐恩浦口」は、前後関係から見て「鴨緑江唐恩浦口」の誤写と見えます。登州から渤海王城に至る報告の傍路として挿入されていて、鴨淥江唐恩浦口から新羅慶州まで七百里と解します。(2022/10/02 一部改訂)

                                未完


倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 いずれにしろ、鴨緑江口からの海行千里は、報告者の実測でなく、現地人の報告に基づく大雑把な推定であっても、慶州への陸行七百里は、官道として長年の実績があり、実務に基づく正確なものと見るべきです。但し、郡から狗邪韓国まで七千里とした倭人伝「道里」は、この陸行里数とは別次元の里数ですから、「混ぜてはならない」危険なものなのです。

 実際に登州から新羅王城に赴く際は、鴨緑江河口部経由の海行一千里の大回りでなく、別資料に登場する唐津(タンジン)に直行したと見受けます。また、同経路は、新羅と青州の間の交易船の航路でもあります。

 慈覚大師円仁の残した「入唐巡礼行記」には、登州に「新羅館」なる新羅在外公館が設けられていたと記録されていますから、隋代から当時に至るまで、新羅の仕立てた便船が往復する主経路だったのです。日本の遣唐使も、新羅との友好関係が維持されていたら、半島内陸行、海峡渡船、大陸内陸行という、安全で迅速な経路が利用できたはずです。

 唐代玄宗期の官制経路と里程ですが、過去に遡って推定可能な堂々たる史実です。この行程が、事項に登場する新羅遣唐使経路になったのは、古来、街道として宿駅まで整備され常用されていたからと思われます。新羅遣唐使の永川から忠州を経た海港への経路も、楽浪/帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は使節宿舎を含め、一級官道整備されていたと思われ、対岸の登州には新羅館もあったとのことです。

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの「新羅遣唐使研究」によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港へ陸行し登州に出港です。忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内七百里の陸行です。当ブログで常用の「普通里」概数である一里四百五十㍍で、300公里(㌔㍍)となります。

*「倭人伝」道里記事考証
⑴魏使来貢 行程考証
 魏使が、登州から渡海して牙山に到来したとすると、上陸後は、東行して清州を経て、竹嶺(チュンニョン)鞍部で小白山(ソベクサン)分水嶺を越え、洛東江上流忠州から洛東江沿いの陸行が、狗邪までの常道と見えます。

⑵帯方郡官道 行程考証
 「従郡至狗邪韓国」として、帯方郡を発する街道/官道は、まずは陸行東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を陸行し、あるいは、陸行の一策として川船に揺られて南下して、南漢江との合流部から引き続き南下遡行して、高度を稼ぎつつ南漢江中游(中流)の要地清州で合流したと見えます。

⑶清州狗邪韓国官道 行程考証
 清州から狗邪韓国に至る経路は、帯方郡の視点では、自明であったので、韓伝ならぬ「倭人伝」は「歴韓国」にとどめたものと見ます。
 このように、清州(チョンジュ)は、河川、街道交通の要所にあったことを反映したものと見えます。つまり、街道沿いに宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、後に新羅繁栄の根幹、基礎となったと見えます。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定(承前)
 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。
 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていたのです。
 一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、まことに無責任なホラ話なので、同列に見るべきではないのです。

〇遣唐使「新羅道」談義~余談
 初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているということなので、半島内は新羅官道を通り新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。

 多分、その時期、両国は友好関係で、新羅遣唐使に随行して官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗できたはずです。新羅道は、内陸だけでなく、登州への渡海も含めて、新羅が管理していた経路という事です。

 官道宿舎の寝床は嵐で揺れず、新羅貴人のご相伴で、地域の新鮮な食事を愉しんだと思えますし、渡海は、そこそこ大型の帆船の手慣れた運用に身を委ね、手短で難破の危険もなく、ゆったりした船室であり、揺れで転げ回ることもなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。

 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で「大船」を造船して、東シナ海越えに挑み、半数が難船となる難関とせざるを得なくなったものと解されます。こうして回顧すると、当時、新羅との間に「外交」関係は維持されていなかったものと見られます。(2020/11/15)

 因みに、対馬、壱岐を歴る渡来は、魏代以来の手慣れた経路でした。

*「仮想」魏使航海記~余談
 因みに、倭人伝談義で起用される「仮説」で、三世紀に仮想されている魏使一行の沿岸航行の手漕ぎ船は、漕ぎ手の負担を軽減するために、随分小型なものであって、旅人も荷物も、甲板や船室のない筏同然の渡し舟で吹きさらしであり、いくら、後年の大渡海に比べると波穏やかであっても、所詮、海が荒れているときは、小船で動揺が激しく、おちおち座っていられない、すさまじいものだったはずです。
 当然、船上泊はできないので、日々下船して休養し、乗り継ぎ、漕ぎ継ぎで、長旅となったものと仮想されます。いや、乗り継ぎであれば、船員、漕ぎ手は交替するのですが、旅人、行人は、公務で船賃はいらないものの、延々と乗りっぱなしで、道中、生きた心地がしなかったはずです。

 もちろん、大抵の官人は船酔いで、果てしない苦行であり、生死の境を行くものだったかも知れません。後世の論者は、別に実体験を迫られたわけではないので、平然と「仮想」していますが、当時の使者の視点で事態を眺めると、このような「仮想」は、数日と続かないで破綻すると見えます。

 言い足すと、「仮想」の魏使は、貴重で厖大な宝物と同行であり、一体、何十艘仕立てで潮風吹きさらしの闇路を進んでいたのか、気の毒です。荷物は、一応覆ったとしても、防水完璧の筈はなく、潮風に曝されて、大丈夫だったでしょうか。

 いや、本稿では、実行不可能であったことを言うための余談であり、やればできたとか言うものではないのであり、事のついでです。(2022/03/17)

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志再論
 新唐書地理志に見られる鴨緑江河口部を去ること一千里の仁川(インチョン)付近の海港唐恩浦口から新羅王都までの陸行七百里は、最長経路とみると、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たとも見られます。端的な経路は、唐津から清州、常州を経由して、小白山地を越えたと見えます。

 経由地と思われる各地は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。韓国国内地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難で推測に止めますが、あくまで半島内陸行で、これら要地を経ることのない沿岸航行ではないのは明瞭です。

 隋唐代の裴世清や高表仁の来訪は、山東半島の海港から大型の帆船であり、裴世清の泗沘訪問を除き、無寄港に近いと見えるので、先に挙げた官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)

 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 正史蛮夷伝である「倭人伝」冒頭に記録され、皇帝の承認を得た、郡から「倭人」に到る公式行程は、公式行程の基準に従い、例外としてあえて「水行」と定義した「渡海」以外は、一切、海を行かなかったのです
 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(668年頃-900年頃)に遣唐使が半島内を陸行したからには、倭人伝の帯方郡時代(三世紀前半)も、当然、半島陸行が、唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。
 魏の当時も、隋、初唐期も、公式経路は、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進み、沿岸航行など到底あり得なかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 倭人伝原資料を帯方語で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。

 目下の最終読者は現代日本人で更なる誤解は避けられず、さらには、古手の「日本人」が理解に苦しむ当世言葉の世界なので、何をか言わんやです。

追記:
〇事の発端 2022/01/16
 以上は、初出時の道里観でまとめたもので、今回編集したものの、目下の意見と異なる点があることをご理解ください。

 倭人伝冒頭部の道里行程記事の主要部は、魏使訪問以前に書かれたと見えます。つまり、倭人を鴻臚の四夷「台帳」に登録する際に、必要項目として、国名、王名、王城名、道里、戸数などが必須であったので、倭人の申告を参考に上申したと見えます。地域概念図(旧圖)まで出したかも知れません。

 魏使派遣の際、行程概要を行程に上程する必要があり、既に記帳されていた全行程「万二千里」は、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が計三千里とする事で理屈づけていて、所要日数としては、四十日程度と報告していたはずです。いや、正史の蛮夷伝である「倭人伝」に、現在伝わるように書かれているのは、帝国公文書にそのように記録されていたからであって、「倭人伝」編纂に際して、陳寿が、改竄したものではないのは明らかです。一部に、陳寿曲筆説が物々しく語られていますが、見当違いの勘違いであることは明らかです。

 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると、「出張期間が不明では出張承認が下りない」ので、明帝没後とは言え「倭人王治まで万二千里は、『周制』に倣った形式的なものである」ことは、関係者に通じていたとみるのです。
 そうでなければ、「魏志」を上程しようにも、「倭人」道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、「倭人伝」は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、関係者に根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*「所要日数」談義~半分余談 2022/03/17
 ここで念押しすると、魏使として東夷の王城に派遣されるからには、「倭人」に至る「全里数」と「所要日数」は、派遣に先立って皇帝の目に届いていたに違いないのです。
 景初初頭に皇帝直轄に回収された帯方郡新任太守の趣旨としては、赴任当初に報告した「全里数」は、道中の行程里数ではなく、太古以来の伝統的書法に従い、天子の権威がかくも遠隔の地に届いているという表明だったのですが、結果として、里数が一人歩きして、途方もない遠隔地と理解されてしまったのです。
 慌てて、「所要日数」を示し、魏使が数ヵ月の日程で往還できる程度のものと訂正を図ったのですが、何しろ、「全里数」は、先帝明帝の御覧を経て、帝紀に記されてしまったので、書き換えすることができなかったという推定です。

 魏使出発の正始初頭、皇帝は新帝曹芳であり、先帝の詔は堅持するものの、本質的に所要期間八十日の派遣であって、片道万二千里の往還行程とは見ていなかったのです。

 街道、宿場の整備された魏の圏内でも、一日の行程は、五十里が標準/必達であり、片道「万二千里」は、片道「二百四十日」の途方も無い遠路であり、往復、ほぼ五百日、一年半を要するので、とても、大量の下賜物を抱えてたどり着ける場所ではないのは、誰の目にも明らかだったのです。いや、「所要日数」は、身軽な「文書使」が余裕を持って達成できる/しなければならない「標準/必達」日程だったのですが、重荷を負った使節団と雖も、その倍の日数は要しない程度の分別はあったはずです。

 参考までに同時代の公式論議の事例を確認すると、景初の公孫氏討伐の軍議では、洛陽から遼東郡治まで道中四千里を百日行程の行軍と見た論議がされ、「往還に二百日、現地の戦闘に百日を要すると見て、計一年以内に片を付けます」との司馬懿の進言が採用され、必要な大量の糧秣が調達、輸送手配されています。肝心なのは、所要日数が第一とわかります。もちろん、これは、概数に基づく論議ですから、一里、一日単位の精密なものではないのですが、概数だけに、大きく逸脱しない確かさを持っているのです。
 何しろ、洛陽から遼東は、秦代以来の官道であり、要所に関所や城塞が置かれて、食糧補充にも間違いはなかったのです。

 念を押すと、本稿含め、当ブログの記事は、史上唯一中原全土で通用していた「普通里」(四百五十㍍程度)を堅持し、以上のように、筋の通った(reasonable)解釈が成立しているのです。読者諸兄姉の御不興を買ったとしても、しっかり筋が通ると自負しているので、感情的な発言はご容赦いただきたい。「リーズナブル」と当世風にカタカナ書きすると、「値段が安い」のと混線するので、英語を残しているのです。

▢参考資料 専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 「遣唐使の経路」
 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の唐津(タンジン)から出航して楚州に上陸することになる。

▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代では、山東半島地域です。

▢東莱郡 (中国)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらいぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と並ぶ東帝を称した齊は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島との海洋交易によって栄えたのでしょう。齊がこの地に封建される以前から、東夷は、南蛮交易の海船を作り出していたのでしょうか。
 但し、海図も羅針盤も無い時代、島影の確認できない海原を、安全に往き来する航海術はなかったので、齊から東夷倭人に至る「海路」、「海道」は、存在しなかったのです。

 因みに、長江で荷物輸送に多用された川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。一部で、東呉が擁していた大型川船を、はるばる東夷の地まで回航したとの夢想が示されていますが、物知らずの勘違いに過ぎません。
 又、正体不明の軍船は別として、長江を運行していた荷船は、悉く槽運業者の業務用船舶と乗員であり、とうごこうていといえども、ちょうようしてかいこうすることなと゜゛できなかったのです。
 そうでなくても、渤海に論した各地には、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の搭載量が限られて長行程に耐えなかった時代、莱州から半島先端の登州を経て渤海列島を経て、遼東半島に到ったようです。どうも、漢城(ソウル)付近は、後背地に恵まれず、後年になって、市糴の便が生じたようです。
 と言うことで、後に、海船が長行程に耐えると、登州を扇の要として、遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へとの派生行程が生じたようです。重ねて、古来の齊「臨菑」は、四方の交通に恵まれ、一大集散地となっています。

 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、新造船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送の軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、兵員を輸送して、楽浪・帯方両郡平定したとされ、その記録は、後の百済攻略に活用されたと思われます。

*景初の「ヒットエンドラン」
 いや、野球の作戦である「ヒットエンドラン」は、結構古い言葉ですが、元々、andで連ねられたHit「打つ」とRun「走る」は、一つのプレーとして行われると言うだけで前後関係を示していないように、「叉」の文字は、二つの軍事行動が、洛陽の作戦指令で、ほぼ同じ時期に少し離れた地域で行われたと言うことをしめすだけで、細かく前後関係を問わないということのように思います。

 因みに、野球の世界では、「ヒットエンドラン」は「打って」から「走る」と決め付けていて不正確だという意見が多いようですが、それは、言葉の意味を勘違いしているようです。いや、単なる素人の余談ですが。

閑話休題
 青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」攻撃の際の兵士輸送に採用されているので、それを機に、青州~遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪/帯方両郡への航路が確立されたと見えます。遼東半島平定後、新造海船は、諸方に払い下げられたと見えますから、以後しばらくは、船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域は危険この上もないので、とてもとても進入できなかったのです。
 大型の帆船は、機敏な舵取りがきかず、舵取りに漕ぎ手を備えても手早く転進はできず、水先案内が予告しない限り、安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の「邊防一」倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」とあり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、航路の無い海域を模索して「浮海」のあげく、風待ち、潮待ちのせいか、数か月後に倭に達したと追加し、「唐会要」は魔物や奇巌と書いたので、話半分としても、難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として「海路」と呼ばれたと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの内陸王城の海港に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討後、軍兵は帰還し、海峡を越えた大軍派兵と水戦は、再現不可能となったのでしょうか。新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸戦闘であり、莱州からの派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。
 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で、暦年重用された登州に渡海したのでしょう。

 いや、この海域に大型の帆船が、堂々と往来していて、金で雇えたら、日本の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。
                              この項完

2022年3月14日 (月)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。

出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

▢はじめに
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人(風)であって、素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送で、広く取材した番組で司会者の含蓄のあるコメントに感心したものです。
 NHKは、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、ようやく新作にお目にかかりました。いや、一視聴者としては、大枚の制作費をかけて、ごみ情報番組を増やすくらいなら、何もしない方がましと思うのです。

 今回の番組も毎度ながら、背景に倭人伝刊本を大写しで見せながら、そこに書かれているはずの「邪馬壹国」、「壹与」を、現代創作の「邪馬台国」、「台与」と決め付ける定番手口に幻滅します。それほどではないものの、魏使来訪が海上大迂回になっていて、計算は大丈夫かな、ちゃんと史料を読めているのかなと心配しているのです。

 このように、まず最初に取り組むべき史料解釈の基礎固めが疎かなままなので、脚もと乱雑で、架空の論理を積み上げていくのは、「最新」の証拠や資料をもとに自説をこね上げる様子で前途多難です。二千年前の文書史料が、ろくに読めていないのに、何が飛び出すのか、剣呑な話です。

総論
 不吉な序奏から、意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向説陣営の広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 当番組は、討論でなく各論紹介と評価になっていて、改善が見られたものでした。

*碩学の晩節
 一番印象に残っているのは、最後に、纏向博士の石野御大(石野博信師)が「レジェンド」(博物館財貨)の立場から、静謐な託宣を垂れていたことです。当コメントは、氏の晩節を飾る明言と思うので、さらりと紹介すると、『「倭人伝」に書かれているという「邪馬台国」の所在について論議するのはこの辺にして、歴史を語ろうではないか』というものだと思うのです。

 纏向出土の土器も、全国各地から持参されたなどの年代物のこじつけ議論を去って、吉備から持参、あるいは、将来されたかと、穏当な推定はありがたいのです。
 それまで、「談合」とか「大乱」とか、それこそ、治にあって乱を求める議論が漂っていましたが、氏の齎した柄杓一杯の水で、全て鎮火した感じです。ただし、後進の方は、石野氏の木鐸を担うのは、自分たちだと自負して新たな火種を掻き立てていたようです。

 後継者諸兄も、三世紀における倭国広域連合「古代国家」の白日夢を、早々に卒業して時代相応の考察を進めるべきではないでしょうか。今からでも遅くないと思うのです。もっとも、ただの素人がここでいくら提唱しても、何の効果もないのでしょうが。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 2/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
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〇激論なき「バトル」
 中でも、論者の発言に噛みついて、「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は既に確立されている」と強弁するのは、「サミット」に不似合いです。どこかの国の大統領の論争の際の振る舞いを真似たのでしょうか。困ったものです。

 考古学において、遺物、遺跡の交渉を堅実に積み上げて構築した世界観自体には、異議を差し挟むことは困難ですが、三世紀頃の文字記録は、遺跡から出土していないので、時代比定は不確かであるとの起点確認が必要でしょう。「医師よ自分を癒やせ」という感じです。

 それを、自説絶対と突っ張るのでは、議論が成立しないのです。それとも、番組紹介で言う「自説をぶつけ合う」とは、同士討ちのことを言うのでしょうか。

〇高価な纏向巨大建物幻想
 今回は、纏向遺跡の再現動画を上演しましたが、素人目にも、論議の場で不確実とされて反論できていない思い付き「仮説」を強引に絵解きしたのは、映像芸術以前に、考証の調わない虚構と見えます。
 いくら映像化に手間とカネをかけようと、時に、あいまいに「イメージ」ととぼけて呼ばれる絵空事は、事の実態を一切示さない上に、視聴者の感性次第でいかようにも解釈でき、あくまで「イリュージョン」(まやかし)に過ぎないのです。「仮説」は、論証するものではないでしょうか。

〇 見かけ倒しの運河構想
 例えば、運河に曳き船して荷を運ぶ図は、場違いです。そもそも、出土した水路跡を、運河の跡とみた時点で、勘違いが始まっているのです。
 素人でも、色々見聞しているとわかってくるものです。
 運河水運は、高低差がなく流速の無い水路が必要であり、つまり、等高線上に造成されるものなのです。纏向説では、河内平野から大和川を遡上し、奈良盆地内を纏向まで遡上する構想のようですが、そのように傾斜した水路の運河は、まずは流出が激しくて、さっさと露底し、運河機能を維持できません。

〇鯉の滝登り
 また、どう考えても、傾斜水路を漕ぎ上ることはできないので、人海戦術で曳き船する絵は、ごもっともの工夫でしょうが、話はここだけでは済まないのです。
 つまり、吃水の深い海船は大和川を遡上できないので、ますは、河口で「大きめの川船」に載せ替える必要があり、大和川の上流に向かうとしても、下流の「大きめの川船」は、浅瀬の目立つ急流を奈良盆地まで遡上できないので、柏原辺りの船泊で一旦荷下ろしして、身軽な小船「軽舟」に載せ替えるか、いっそ、陸揚げして、小分けし、人海戦術で背負子運びとするかということになるはずです。

 何しろ、船体は、堅固な木製であり、それ自体が結構な重量なので、急流を漕ぎ上るとか曳き船するとかしても、「ほとんど木造りの船体を運んでいる」ことになるのです。普通に考えると、船の滝登りは、大変困難(不可能)なのです。
 と言うことで、先に提案したように、小分けして、背負子で送り継ぎするのが、最善策でしょう。
 何しろ、背負子は誰でも担げるので、大勢を呼び集めて、時には、区間を区切って送り継ぐような人海戦術が成立するのです。

 して見ると、奈良盆地に運河を掘削しても、乗り入れる船がないのです。運河、曳き船となると、厖大な「物流」を予定しているのでしょうが、そんなに大量に、何を買い、何を売っていたのでしょうか。知る限り、纏向には物資の出入りが少なかったとも仄聞しています。どうして、足元を固めてから、描かないのでしょうか。国費、公費の無駄遣いとしか思えません。

 絵に描いた大量の荷物の実態は、何なのでしょうか。食糧とするのは、誠に不合理で、これほどの食糧を搬入しないと維持できない集落は、何をもって対価を支払っていたのでしょうか。

 と言うことで、上手にきれいに絵を描いても、現地、現物を写生した上でなければ、きれいな絵にはならないのです。

〇環濠と水路~「倭人在」、「国邑」の意義
 因みに、普通に考えると、水路の主目的は耕地の灌漑でしょう。それには、適度な傾斜、流速が必要です。治水というと、豪雨の際、環濠を遊水池にして、下流の氾濫を軽減する工夫が必要です。ため池が無い時代ですから、農業用水を貯水したこともあったでしょう。

 環濠の効用は、このように、水防や野獣除けが考えられます。広い眼で見るべきです。環濠は、しょっちゅう浚えないと、水草が茂り泥やごみで詰まるのです。唐古・鍵遺跡で百年以上健在であったら、ちゃんと維持管理されていたということであり、それだけでも尊敬に値します。纏向はどうだったのでしょうか。

 因みに、殷周を発祥とする中国古代では、「国」と言っても、国境一杯に勢力を示した領域国家でなく、例外なく隔壁で集落の外を囲い、隔壁内には、首長の親族の住戸を囲う内部隔壁を有した「国邑」、つまり、二重隔壁集落が「国家」の基本要件だったのです。ところが、倭人伝冒頭にあるように、「倭人」は「山島」に在るため、野獣は少なく、野盗の徘徊もなかったため、外の隔壁を省いて水壕や外海で囲われていたのです。
 僅かな字数で、「倭人」の王治所(王城)のあり方が紹介されていて、陳寿の筆の冴えを思わせます。(宮崎市定師の論考に触発された一説です)

 そのように解すると、「従郡至倭」の「倭」は、女王が住まう「国邑」であって、現代風に言うと五百㍍程度からせいぜい二㌔㍍程度四方の集落であり、それを、倭人伝は「邪馬壹国」、「女王之所」と言い、後の范曄「後漢書」は「其(倭)大倭王居邪馬臺國」、つまり、広域に及ぶ「倭」を統合する大倭王と言えども、居所は「邪馬臺國」なる、一「国邑」だったという事です。(あくまで、近来の一説です)

 陳寿の倭人伝を下敷きに、後世に新たな表現を試みた笵曄は、「其大倭王居邪馬臺國」と書いて、大倭の国々を束ねる「大倭王」の居処は「邪馬臺國」なる小集落だったとしています。後漢書の「邪馬臺國」は、その所在地を「樂浪郡徼,去其國萬二千里」と書かれていますから、倭人伝を無批判に引き写しているものの、国王居処の名称「邪馬壹国」は、敢えて踏襲しなかったもののように見えます。
 大倭王が、どの時代の何者なのか不明ですし、その居処と倭人伝の郡倭行程の終着地「邪馬壹国」との関係も不明です。
 いずれにしろ、後漢書を起用しても、所在地特定は、困難でしか無いのです。何しろ、笵曄の手元には、何も、後漢桓帝/霊帝の時代が下限で、続く、献帝建安年間、洛陽の公文書には、遼東郡公孫氏からの報告がなかったので、帯方郡創設すら記載されていないのです。つまり、東夷列傳を書いても、帯方郡関係記事の根拠とすべき資料はなかったので、捏造と言われない範囲で創作するしかなかったのです。
 端的に言うと、桓帝霊帝代、倭国大乱というのは、献帝時代について書くことができなかったための曲芸だったのです。また、「樂浪郡徼去其國萬二千里」と書いているのは、帯方郡の所在地を書けなかったので、楽浪郡の南端付近の帯方縣を想定しているのです。
 范曄「後漢書」東夷列伝の記事は、技巧を凝らしているので、信用ならないということです。

*卑彌呼「水神」巫女説の試み
 因みに、環濠集落の首長は、下流の集落への水分(みずわけ)を仕切っていた可能性があるので、太陽神ならぬ「水神」を氏神にしていた可能性があります。こちらは、命がけの争いになりかねず、首長の水捌きの不備を責められるのを避けるため、水神様を守り神に担いでいたと考えるのです。太陽の日射しは、割り振りのしようがないから、水分(みずわけ)の仲裁をすることが、重大な祀りごとだったのではないでしょうか。大した知恵のない素人は、安直な考えを捨てられないのです。

 辻褄の合わない纏向運河説は、そろりと撤回された方が良いようです。

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新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 3/5

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*纏向巨大建物論
 纏向陣営も、ここしばらくの怒濤の展開ですが、ある時突然に纏向に大型建物が出現したとの想定は、無理が多く、後付けで「証拠」を付け足しているのは苦笑を禁じ得ません。

 建物は、土地を整地し、縄張りし、柱穴を掘り、柱を立て、梁を交いと言った風に大工仕事を重ねるから、何もない状態から創業して、建物になるのに五年や十年はかかるのです。整地した土地には専門の技術者が緻密に縄張りしたし、柱は、具体的な寸法と材質をもって、山々の木こりに指図していたはずです。いや、金属工具の無い時代、どれほどの手間がかかったか不思議です。それとも、工具持参、大工帯同で、いきなり、集団稼業が操業したのでしょうか。
 整地段取りも、材木、その他諸々の資材の手配も、先だって、どこかの工房で決定したものでしょう。建物工事の人員の手配、寝泊まりの手配、食事の手配、いずれも、先立って準備したに違いありません。時間としても空間としても、随分広がっていたはずです。

 そうした段取り全体を構想して仕分けするには、経験豊かな指導者が必要です。指導者には、補佐役が必要です。それぞれ十分な報酬が必要です。いや、指導者が献策したのか、誰かが募集したのか、どこから来たのか、いずれにしろ、大抵、大規模墳墓は年数をかけられる生前造成(寿陵)の筈です。
 唐古・鍵遺跡の考古学から見ると、地域としては、土木工事の技術に関して長年の蓄積(人材養成、機材、素材の備蓄)があったようですが、建物建築技術は、周囲に先例が見当たらなかったように見えるのです。前例があれば、どこが先駆者であって、時代と共に、どう伝播したか語られるはずなのですが、まだ、そのような創世談は目にしたことがありません。
 ともあれ、「纏向一推し」が頽勢に移ったのは、まことに めでたいことです。

*誤解された遣使談
 倭の三十国が魏と外交関係を持ったと見るのは、俗耳に訴えるものの、実は、単なる勘違いです。当時、蕃国は、魏に外臣、蕃王として臣従するのであり、「外交」など時代錯誤丸出しです。いや、それは、纏向説論者だけの症状ではないのですが、いくら、多数を占めていても、錯誤は錯誤です。
 また、魏としては、四囲の蕃夷にはるばる押しかけてこられると、しかるべく応対して、銅印やみやげものを渡さないといけないので、対応を厳選します。倭で言えば、帯方郡で選抜して代表国だけ申請せよと云うものです。いえ、このような格付けは、魏が発明したのではなくて、通常、周制で始まったとされていますが、歴代、そのようであったはずです。

 倭人の景初遣使は、質素な貢献物に対して大層な下賜物を受けていますが、それは、あくまで初回だけであり、それ以外は金印(青銅製)と手土産程度でしょう。
 それにしても、手土産目当てに毎年来られてはたまらないのです。何しろ、倭人の例で言えば、帯方郡参上から洛陽までの旅程は、全て、帯方郡官人のお供が接待するのであり、いくら、大帝国といえども、毎年来られてはたまらないのです。
 大抵の処遇は、十歳ないしは二十歳に一貢というものであり、要するに、遠方の蕃夷は、十年、ないしは二十年に一度で良い、それ以上来るなと云うものです。後年の遣唐使は、二十歳一貢でした。中間年に出かけて、追い返されかけたこともあったようです。

 中国側の制度にお構いなしの素人考えも、ほどほどにして欲しいものです。

*卑弥呼王族待遇の怪
 因みに、中国の考古学者が、卑弥呼は中国王族と同格と言ったのにはびっくりしました。ご存じないのでしょうが、蕃王は、太守配下なので、随分格下なのです。中国人の史学者と言っても、別に倭人伝専攻ではなく、ひょっとしたら、秦漢魏晋代の官制を熟知しているわけでもないので、大抵は慌てて関係ありそうな資料を読みあさるのであり、理解度はこの程度なのです。
 ちなみに、蕃夷を「賓客」と言い、鴻廬の専門部門が、丁寧な接待を行うのは、余り露骨に差別を示すと、反逆されかねないので、そうならないように、ご機嫌取りしているものです。

 漢代、蛮夷の使節は、正使から使い走りまで、漏れなく印綬を賜ったという記録が残っています。後漢書に由来を求めている「漢」の「倭」の「奴国王」印綬は、比定されている遺物の材質が「黄金」、金無垢という材質が、異例に近いものであるというだけです。

 つまり、「金印」は「金印」でも、当時「金」と呼ばれていた青銅印なら、一介の小国王に付与しても不思議はないものです。黄金印、つまり、金無垢の印は、三世紀当時、製造困難でした。黄金の素材が大変貴重であり、また、黄金は、青銅、鋳鉄などに比べて、高度な技術や設備と加熱燃料が必要です。そのような希少価値のある黄金印を、無冠無名に近い「倭奴国王」に下賜する事情が不明なのです。因みに、後漢書には、黄金印を下賜したという明確な記事はないようです。

*突然の出雲高揚
 いや、突然の紹介ですが、出雲が「大陸」と交易したとしていますが「半島」も、大陸なのでしょうか。帯方郡と接触すれば、郡の公文書に残るはずですから、後世に残っていないということは、馬韓、弁辰などの諸小国と交流があったのではないでしょうか。これらの諸国は、東夷の仲間で、言うならば同格ですから外交が成立するのです。

 そのような小国との交易が皆無でないとしても、小振りで漕ぎ手少人数の海峡渡海船の乗り継ぎでよい九州北部と違い、出雲からの往来は、さらに数日がかりの難業であり、とても、便数などの面で競争にならなかったと見えます。何しろ、海流に逆らう往路は、絶大な体力が必要なのです。そして、いかに強力な漕ぎ手でも連日の漕行はできないのです。休養を与えるなり、交替で漕ぎ継ぐなり、稼業とするには、それ相当の体制作りが必要です。そして、漕ぎ船では、漕ぎ手の体重分だけ積み荷が減るのです。して見ると、日数が伸びれば、荷主の取り分は大巾に減るのです。
 こうした考証は、思い付きに任せた口先考古学では済まないのです。

 当ブログの常套手段では、途中で漕ぎ手を代えて乗り継ぎして狗邪韓国あたりで上陸し、後は、手軽な陸上経路で繋いだとも考えるのです。商いの相手としての半島西南部は、三韓との連絡が少なかったとみられるので、穴場になったのかも知れません。何しろ、この地域のことは、韓伝にも倭人伝にも、はっきり書かれていないので、空白地域と推定するのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 4/5

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*不用意な失言集 順不同

  •  纏向関係者は、好んで「日本」と言いますが、三世紀当時、「日本」などありません。
  •  三世紀「日本列島」に現代風「都市」はないし、中国外に「王都」は存在しません。
  •  卑弥呼を「諸国で」共立したとは書いていません。
  •  どさくさ紛れに、卑弥呼遣使を二百三十九年と言うのも、考証不正で杜撰です。
  •  卑弥呼は「鬼道」に事えたと言いますが、呪術を行ったとは書いていません。
  •  邪馬台(たい)国でなく邪馬臺(だい)国です。ごまかしてはなりません。
  •  最初の大王が女性と言うものの、それまで「男王」が代々続いていた筈です。
  •  倭国「乱」は、諸国が近隣と諍いして、王が調停できかっただけであり、戦い合ったわけではないし、三世紀の交通、通信事情では、遠隔地と長期間の交戦は不可能です。
    范曄「後漢書」が持ち込んだ「大乱」は、国の覇権を目指して、竜虎角逐するものであり、総力戦と言わないまでも、相当の壮丁を死傷させるので、安直に行うものではありません。三世紀当時の「国」が、農耕を度外して総力戦に乗り出せば、亡国必至です。

 以上、勉強不足の勘違いが、雪崩れています。「倭人伝など、苦労して解釈する必要はなく、好きなように書き換えれば良い」のだという、安易な姿勢が感じ取れます。

*「ネットワーク」の怪
 文字のない、つまり、文書のない三世紀に「ネットワーク」とは時代錯誤であり、奇異です。広げた網の節々同士、相互の連絡をどうしていたのか。そもそも、カタカナ言葉の本来の意味がわからないままに、うろ覚えで当てはめられては、不可解です。また、連携を言うなら、平時の行政運営を重視すべきです。
 いずれにしろ、言っている当人すら、言葉の意味が理解できていない「生煮え」、「うろ覚え」の理屈を振り回されては、読者、視聴者はたまりません。ことは、簡単で、古代史論で、カタカナ語を原則排除すれば良いのです。

*雑言集
 「スケール小さすぎ」と褒めているのは、「邪馬臺国」七萬戸説に惑わされています。一度、倭人伝の戸数記事をよくよく見直して欲しいものです。いずれにしろ、このような「幼児語」では、論議できません。何しろ、時代錯誤の大国幻像を脳内に飼っているので、大小判断が錯綜しているのです。

 鉄鏃出土数の話は,九州説にとって効果的ですが、そのため、纏向説論者からは、黙殺されます。それでも考古学無視の勝手な論議と批判され、絶句するのです。

 銅鐸については、史書に、しかるべく書かれていないのが命取りです。全国の銅鐸は、無償配布の証拠と纏向説論者から聞きますが、無茶なこじつけです。「配布」とは、それぞれ自国官人が持参したということですが、どんな口上を持って参上し、何を持って帰ったのか。不思議です。

 今回は、唐古・鍵遺跡に言及していますが、なぜ、奈良盆地外の外界に近い唐古・鍵が凋落して、山沿いの纏向が頂点か、二百年環濠を維持した唐古・鍵は、纏向隆盛をどう見たのか。是非、欠席裁判は止めにして、当事者の意見を伺いたいものです。

*共立綺譚~古代国家幻想
 そこで、渡邉氏が、「共立」について得々と語りますが、「当人にその気がないのに、大勢で寄ってたかって無理矢理に」とは、落語の落とし話めいて、奇異です。氏は、范曄「後漢書」に加えて、三国志を 全巻通読しているはずですが、それにしては、「倭人伝」が、中国文化にどの程度影響されていたか、見識を持ち合わせていないのでしょうか。
 どさくさ紛れに、倭人伝に複数回登場する「壹與」が自動的に「トヨ」になるのも不思議です。ここでも、説明はありません。「邪馬臺国」は、范曄「後漢書」を手がかりに遮二無二こじつけていますが、倭人伝に、繰り返し書かれている卑弥呼宗女の名前が、繰り返し誤記されたと判断できる根拠は見当たりません。

 それにしても、各陣営とも、なぜ三世紀に強大な中央政権を見るのでしょうか。中国周代は封建制でしたが、諸公が周王を頭領に立てただけで、絶対服従では無かったはずです。加えて、中国には、文書で締盟し、命令を徹底する体制が整っていたから、「法と秩序」が蔓延っていましたが、文字の無い東夷では、相互に盟約もできず、また、何しろ、文書が通じていなかったので、纏向仕立ての法制に強制的に服従させられるわけでもなく、後は、各地に、説客を派遣して、舌先三寸で異国の支配者を丸め込んだことになるのです。
 それにしても、各地の諸公は、なぜ、大々的に反抗しなかったのでしょうか。

 それはさておき、文字の無い世界で、広域政権が成立したとしても、どんな手段で服属を長く維持できたでしょうか。どうして、自分たちの墳墓造成の労役を、広域に課することができたのでしょうか。さらには、各国に勝手な墓制を強制できたのでしょうか。これこそ、古代史最大の謎と言うべきです。

*雑感
 「細かい」批判はそこまでとして原典に戻ると、倭人伝に「邪馬台国」と書かれているという不可解な妄言帯方郡から海の「径」〔みち〕をたどるとする安易な決め込みが、一般人の理解の妨げ、躓き石となっています。初学者ならともかく、斯界の権威が、安直で子供じみた誤読や改竄を信奉しているのは残念です。

 また、陳寿が、実情不明と匙を投げた投馬国談義を始め、水行十日、陸行三十日の果てに邪馬台国があるという、保証付きの「誤読」(私見です)を言い立てているのは、困ったものです。既にドブに嵌まっているのに、気づかないのは、困ったものです。このあたりの頑冥さは、学問の道とは思えないのです。

 世上、俗耳に馴染みやすい「素直に読む」とか「簡単に読み下す」という助言が健在ですが、少し考えれば誰でもわかるように、代中国人が古代中国人のために書いた史書を、現代人が「素直に」、つまり、適切な教育、訓練無しに読んで、無教養な世界観で、正確に理解できるはずがないのです。
 まして、当時、「世界」最高の知性であった陳寿と弟子達が、長時間、精力を注いだ深意を、現代人が易々と探り出すのは無理そのものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 5/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中 

*倭人伝造作説の帰結
 渡邉師の提言は、年代物の誤読の成果です。師が現代日本人である以上、陳寿の方針/深意がわかるはずがありません。困ったものです。いや、なぜ、一介の素人が、氏の理解力を知っているのかというと、氏の著書、番組での発言からそう見ているのです。氏は、「三国志」の権威と自認しているようですが、ことごとく、虚言に陥っているのは、勿体ないのです。
 気軽に「情報操作」などとおっしゃいますが、「三国志」編纂は、三国統一後の西晋代であり、その際、東呉、孫氏政権関係者の編纂した「呉書」が魏の帝室書庫に所蔵されていて、「三国志」呉志に大半が採用されたのです。ほらを吹いても仕方ないのです。

 繰り返しになりますが、三国志」の想定読者は、西晋諸官であって、現代の日本人ではないのです。

 私見では、曲筆/誇張/偏見の動機があったのは、「魏略」編纂者、魏朝官人魚豢です。魚豢にとって、呉は反逆者、蜀は侵略者で、むしろ、筆誅を加えて当然です。但し、「魏略」佚文は、記事本文と対照的な引用が多いので、ことさら、魏帝に阿った曲筆に見えますが、全文が健在な「魏略」西戎伝を通読すると、特に、史実を魏朝中心に粉飾しているようには見えません。

 但し、陳寿は、史書編纂にあたって、特に東夷伝に関しては、他に信頼するにたる史料がなかったので、魚豢の視点に同意できなくても、魏略「東夷伝」の造作を引き継いだとしても仕方ないところです。いずれにしろ、無教養の後世人は、憶測しかできないのです。当方も、諸兄の憶測を是正する趣味はありません。

 そこで、特異な史料である「翰苑」の登場です。断簡とは言え、天にも地にも、これっきりしかない史料だから、異本、異稿によって裏付けが取れないという苦言は、なぜか余り聞かないのが奇特です。ここで、不意打ちとして持ち出されたので、会稽東冶の誤読が「翰苑」で否定されると見たのですが、渡邉氏は、一ひねりしています。
 但し、古典依拠の誇張があるというのは頷けます。
 いずれにしろ、俗耳に馴染みやすい「翰苑」倭国条が、『三世紀編纂の「魏志」倭人伝より先に書かれた』という子供じみた俗説は、無能な論者の最後の隠れ家に過ぎません。

*一説談義
 突然の「新説」ですが、卑弥呼が「邪馬臺国」女王でないとの発言は、史書表現を誤解しています。安直な思い付きで視聴者の俗耳に阿(おもねる)「芸風」は、受けても一度限りでしょう。

*纏向説への疑問 
 纏向遺跡の建物の規模や桃種の多数出土を「日本」に比類ないというのは、纏向関係者が好んで持ち出すものの、考古学的に見て、根拠不明の断言です。当時の「日本」は、奈良盆地だけなのでしょうか。いや、当時、「日本」は、奈良盆地にも、地球上のどこにもなかったのです。俗耳に阿るだけの冗談も、連発されると聞き苦しいものです。
 因みに、全国の同時代遺跡で桃種の数を競えば、纏向は下位に沈むはずですから、桃種の数で背比べするのは愚策です。
 そんなに桃種が大事なら、出土したときにごみ扱いして、散水ホースで貴重な泥を洗い流したりせずに、小数でも良いから、土器片などと同様に、年代比定するための資料として、大事に扱うべきだったのです。
いや、「ゴミ捨て場から出現したからごみと思った」という直感を大事にすべきだったのです。

 「古代国家」は、時代錯誤史眼であり、他地域説論者が中国文献や遺跡に忠実な解釈を展開するのを蔑視するのは、当番組の主旨を理解していないのです。動揺して恥をさらした感じですが、纏向説への「サプライズ」、嫌がらせの闇打ちでしょうか。NHK番組で、前例のあるあざとい手口でしょうか。

*王権論議
 ついでながら、「卑弥呼の権力が弱かった」とは、つまらない事実誤認です。女王即位によって諸国の連携が回復し、女王の死後、国が乱れたということから見て、女王の権力が「強かった」から諸国が文句なしに従ったと見るものでしょう。いや、そう思わないというのは、個人の勝手ですが、史書に示唆すらされていない事項を、何も知らない後世人が最もらしく憶測して、殊更、目覚ましい言葉で断定するのは、古代史界の悪習であり、まことに子供っぽいので、早く卒業してほしいものです。
 どさくさ紛れに、「男王では統御できない」と性差別発言ですが、公共放送で不都合です。それに、卑弥呼以前は、代々男王が系譜を伝統していたのです。因みに、最初の女王だったかどうかは、倭人伝に書かれていないので、不明としか言いようがありません。

 纏向説の根底にある、三世紀にがんじがらめの中央集権「古代国家」は、文献にも考古学にもない夢想の世界です。自身の脳内で虚構を繰り広げて論議しているので、万事自明と感じられて暴言乱発になるのです。論争とは、結局、論戦の相手を説得するのが、究極の目的であり、「いたずらに、敵を作り育てる暴言罵倒を避けるべき」ではないでしょうか。

 最後に、泥沼作戦なのか、「掠奪」論が提起されて幻滅ですが、今回は、全開番組のように、古代史学素人の司会者が、したり顔でしゃしゃり出て、論議を煽る愚行が再現されなかったのは、人選の妙でしょう。
 三世紀の関係諸国は、良い意味で、文字通りの親戚づきあい
であり、「弱肉強食」など世界に溢れている暴虐は、随分長い間縁遠かったのです。
 因みに、環濠で囲まれた聚落は、掠奪集団にしたら、大した障壁にならないのです。何しろ、丸太を担いできて、壕に渡せばどうと言うことはないのです。また、環濠の幅程度では、強弓の射程を超えていないので、別に、投石機はいらないのです。中国では、唐代の長安城と雖も、外壁に数カ所門があるだけであり、しかも、城内各区画は、それぞれ、隔壁に囲まれて、街路から入るには、これまた、数カ所の門しかなかったのです。治安に不安があれば、そのように何重にも隔壁化するのです。
 隔壁でなく環濠で済んでいたと言う事は、磯田氏好みの盗賊集団が存在しなかったという事の表れとみるべきです。いや、「倭人伝」には、殊更に、狗邪韓国から南下する途上の「諸国」は、海を隔壁代わりの「国邑」としていて、独特の体制になっていたと明記されているのです。

 以上、同意できない遺物的な主張群を批判しましたから、当番組に対して不満ばかりのように聞こえるかも知れませんが、このように、連発された纏向説論者の常用する各種主張の杜撰さが浮き彫りになる番組構成には、まことに感心するのです。

*司会者の叡知
 それにしても、素人司会者の「古い解釈を取り除いて、原本から出直す」との至言は見事です。
 きっと、来年は、原点に還った論議が聞けるものと期待しています。後世人には、歴史ロマンでなく、冷静な歴史考証を伝えたいものです。

 別稿も含めて、聞き咎めせざるを得なかった難点を取り上げて述べていますが、当記事読者にとってご不快であるなら、無視していただいて結構です。どの道、耳を貸す気がないということでしょう。もちろん、反論、異論には、耳を貸すことになるでしょう。

                              この項完

2022年3月13日 (日)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 1/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

⚪はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、古賀氏の堅持している古田武彦師氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログが素人論断なのは自明ですが、とかく、罵倒のネタになるので、特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。
 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。あるいは、古代史論で人口に膾炙した「120年ずらし」を逆用したとも見え、大変、不吉な響きを禁じ得ません。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、一方当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、田中氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない中国史書の文献批判について、根拠の無い、場違いな批判を強引に展開して、「橿考研」が基礎としている倭人伝の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、講演会の主催者である石野氏を、公開の場で罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 2/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が集積していますが、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。私見では、「纏向」が、削り込み技法を売り物に、各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。
 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられと見えるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が長い道中を持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。また、身軽であることを信条とする行商人が、土器を担いで、海山越えて旅する図は戯画にもなりませんが、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してのことです。
 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか、重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく(仮想)「古代国家」に、こじつけるからです。

 筋の通った「reasonable」な仮説として、各地特産物の上納の初期の例として、纏向制薄肉土器の交換として、各地土器に特産物を詰めて還送したと見えるのですが、どうでしょうか。いずれの「物々交換」でも、対面取引で互いに等価だと合意して、初めて、交換が行われたはずです。何もないのに、各地産物が一人歩きしてくるとみるより「reasonable」でしょう。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。
 その後、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。何しろ、クチコミしかないのですから、売り込みできる範囲は、大変限定されていたのです。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部から木津水系を経て淀川の河川運送に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの「田中」氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。
                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 3/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*試行錯誤の伝説
 一体に、「考古学」の諸兄は、どこかで技術革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいますが、時代錯誤と言うより、事実誤認です。
 土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程で、失敗から学んだ技術者が土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用とするから貴重なのです。
 そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分、年月を要するのです。
 と言うことで、革新的な新技術が広がるには、大変な時間がかかるのです。橿考研が、空論を広げているのは、実務寄りの考察を進める人材に欠けるためだと見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、風説引用に陥っているのは残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容をこれに当てて審議していくはずなのですが、そのような前提は一切確立されていないのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で、言ったもん勝ちの議論を推し進めているのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢諸兄姉は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、学問的な意義のない、単に、無節操な批判のための批判を浴びせます。大抵は、先人の「一刀両断」の蛮勇に、無批判で追従しているのですから、何も新たな知見が付け加えられているものでなく、素人目にも、当時唯一無二の史料として尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに否定論を述べ立てる発言者に対しては、信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる倭人伝に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず、根拠不十分な異論を言い立てて「邪馬臺国」と無法にも改竄しています。根拠なき改竄は、学会ぐるみの悪習であり、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。
 倭人伝不信論調に従い、原文改竄、後代創作している第Ⅷ章には、信を置けません。

 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は、厳しい反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょう。氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、心地良いほど纏向論に合っているとご自慢と見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される安直な造形物ではありません。
 氏が、田中琢氏の本末転倒倭人伝全否定論に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢諸兄姉に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 補 序論

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ   2021/10/08 補充 2022/03/13

〇緒言のお断り~限定的論義
 榊原氏の本書での論議で気になるのが、後世概念闖入による不首尾です。
 例えば、氏は、東夷の変遷を理解していますが、殷代に山東半島の東夷が討伐されて一掃されたと誤解していますが、東夷が漢語を読み書きし古典を解する「教養」人、文化人となって、「夷」でなくなったのであり、民族不問です。もっとも、各国で、古典書を諳んじているような文化人は、一割に遥かに及ばなかったはずです。
 古来、中国史書で、稀少な例外は除き、民族を想定させる風貌記載は無く、身体特徴は短躯とされた曹操、晏子などの偉人を除けば、特記されているのは、「丈夫」の巨漢です。「丈」は、別に十尺(三㍍)というわけでなく七尺(二㍍)なら「丈夫」、さらに強調して「大丈夫」と形容したと思われます。素朴な強調は、東夷によって誤解され続けているのです。(日本人の日常会話で「大丈夫」がどんな意味になっているか、確認いただければ幸いです。極端な場合、「ネギラーメン」を注文したのに、「ネギ、大丈夫ですか」と確認されようなものです)
 と言うことで、「文化人」となった者達は「夷」と呼べないので、東夷は「発展的に」解消し、中原人はさらなる僻遠の地に無教養な「東夷」を求めたと思われます。別に、中原人が、東夷を侵略しつくしたとは限らないのです。
 因みに、後の「齊」「臨菑」は、四方に交易の道を得て繁栄し、万物が一に都(すべて)會する「一都會」との賛辞を受けていたと班固「漢書」に讃えられていますが、それは、東夷と呼ばれた太古にも、同様だったとみるのです。案ずるに、商の執拗な東方征伐は、侵略者の撲滅などでなく、東夷が得ていた巨利を妬んでのものだったと見えます。

*孔子東夷談義~ずれた理解
 氏が引用する孔子の言で、海に筏を浮かべても、「日本列島」には、到底達し得ません。
 「筏」は、要するに、船室、船倉、甲板のない軽舟、小船であって、船体は備わっていないので、潮風、雨ざらし、海水浸入で、普通人は、数日しか耐えられません。気軽な「浮海」は、山東半島沖合の海中の山島、朝鮮半島行きですから、食糧ももつし、外しようがありません。
 要するに、北は齊に遮られていた「魯」の孔子が、東に「東夷」を求めようとしても、深遠な「海」に遮られたので、結局、「北に浮海して北海を越えて、海中山島に行くことになる」との世界観だったのですが、その先の道のりは、遂に知るところではなかったのです。

*「首都」談義~枯衰する「都」の概念
 氏が、持ち出した「首都」と言う後世語ですが、三世紀、「都」は、洛陽などの帝国皇帝居城専用です。蕃夷に「都」は、あり得ないのです。また、「首都」と言うのは、幾つかの「都」があって、「首」は、順列一位というに過ぎません。言わば、「都」が、唯一絶対でなく、大安売りされた時代の造語なのです。魏略佚文では、『魏文帝曹丕が、長安、洛陽、譙、鄴、許昌を「五都」とし、「洛陽」を首都とした』とあるようですから、三世紀当時に、そのような造語が出回ったのかも知れませんが、三国志本文には見当たりません。
 余談ながら、「都」が蔓延状態にある現代日本では、かつて、平安朝以来の「京都」に服する東京と称した「首都」の意義は揺らいでいるようで、むしろありふれたまち(都)で、でかく、賑やかなものと解されているようです。あるいは、都道府県と列記された最上位でしかなく、仮に、一時唱えられた「大阪都」が成立すれば、それこそ二都時代の「首都」に過ぎないことになるところだったのです。
 そのような長々しい時代考証はともかく、三世紀における「首都」を(仮想された)広域国家の国王居所と解して、古代の各国が、(仮想された)広域「国家」を形成していたとみるのは、倭人伝に明記も示唆もされていない。要するに(仮想された)「幻想」です。少なくとも、「文化」の唯一無二であった原点「中国」では、とうに滅却された概念のように思うものです。

*連邦国家談義~時代錯誤の一例
 氏が持ち出した「連邦国家」なる後世語ですが、国体が不明では「邦」と呼べるかどうか不明です。「邦」は戦国七雄の領域国家と地域聚落「国邑」を区別しましたが、漢高劉邦を僻諱して死語となったので、古代史では、意味が不確定です。いずれにしろ、「連邦」は場違い、時代錯誤です。近現代欧州史を語る際のことばであって、国内史学会の諸兄姉が、古代史論議に持ち込むのは、時代錯誤の愚を犯しています。
 また、倭人伝の諸「国」は、客観的に証されない限り「邦」との大国宣言はありません。「邦」がなければ、「連邦」はないのです。

 「連合」と緩めてみても、三世紀当時を時代考証する限り、隣近所の村々との連合ならともかく、遠隔地に散在する諸国が、どう連絡を取って、どう盟約を締結して、どう連合を形成し、維持していたのか不可解です。文字無しで文書は遅れず、馬無しで各国は、健脚の伝令を走らせていたのでしょうか。数世紀の時代錯誤があるようです。
 いや、隣近所であれば、月に何度か寄り合いして、その場で談合すれば、「朝廷」だの「連合」と称することができるのですが、そんなに物々しい「国家」像を描かないと、「イメージ」、「イリュージョン」が描けないのでしょうか。国内史学会の諸兄姉が、古代史論議て゜゛展開する論議は、時代錯誤の愚を犯していると感じます。

*意味のない戸数~方里の意義
 そもそも、中国式の「戸」は、各戸が、所定の耕作地を牛犂などによって耕作する前提で「国家」を評価しているのですが、倭人は「牛馬無し」、つまり、農民が自動的に(自分の手足でAutomaticに)耕作し荷運びする東夷では、戸数によって収穫量を算定することはできないのです。つまり、東夷伝各国の戸数は、各国の獲れ高指標にならず、私見ですが、そのために「方里」なる、独特の統計指標を採用したと見えます。陳寿は、読者に対して太古の中原世界を想起させるよう努力していますが、「自動的な耕作」は、先史時代の社会になるので、適当な史料がなく、道里も戸数も、曖昧にするしかなかったようです。
 まして、各国に正確な戸籍がなければ、「戸数」は憶測に過ぎず、家族構成が不明では、兵員徴兵の際の指針となる人口推定の役にも立たないのです。ついでに言うと、文字や計数の基礎教育が、全国に行き届いていなければ、戸数、工数の全国集計はできないので、ますます、意味のない統計数字となります。

*後世語、後世概念の排除
 要するに、中国史書解釈で、「後世語」、「後世概念」の無法な混入は、論者と読者の意思疎通を、大いに疎外するので厳重に避けるべきと思われます。

*周旋談義~大仰な解釈
 氏は、「周旋五千里」に通俗解釈を採用していますが、海上洲島、小島が散乱した国家形態で、領域周長などおよそ無意味です。文脈から、そのような俗説は不都合だと理解いただきたかったものです。ご自愛いただきたいものです。もちろん、当時、精密も何も、今日言う「地図」はなかったし、群島国家の領域など測量のしようがなかったのです。
 同時代の袁宏「後漢紀」で、「周旋」は、「二つの名家を往き来する」用例で、まことに、日常感覚の明解な地理観で、素人にも納得できます。つまり、倭人伝では「狗邪~倭間が五千里と明示されている」ものと思われます。郡~狗邪~倭の主行程記事に、奴国、不弥国、投馬国の傍路条が挟まったので、読者が誤解しないように念押ししたと見ます。
 倭人伝の冒頭、まず、「倭人は、帯方東南に在り」と大局的な地理を明示した後、倭人は、「大海中山島」に国邑を形成していたとの予告を受け、洲島を伝い倭に渡ると念押ししています。何しろ、島の上に聚落を形成していたので、勘合も城壁も必要なく、また、国境など不要だったと書かれているのです。
 そして、末羅で上陸して、以後、陸行に転じて、伊都~倭直行と明示しているのは、長期水行渡海を要して九州島内に収まらないのが自明の投馬国共々、奴国、不弥国は、主要国でありながら、風俗記事を書かず、余傍であることを明示しています。

*倭人伝解釈に王道無し~余談
 随分言い古された警句ですが、倭人伝は、後世東夷人に耳当たりの良い「紀行書」などでなく、三世紀当時の知識人が、同時代の知識人に提示した「問題集」なのです。同時代知識人が自慢の教養をもってしても、適度に苦労する「解釈」が必要で、皇帝初め教養人に頭を捻らせる難易度だったのです。
 もちろん、読者が投げ出すような高度な設問ではないので、手頃な小手調べであって、問題に対する解答は、当時、自明に近かったのですが、現代では、なめてかかった不勉強な落第者が、山を成しているのです。知識、見識が不足して「落第」するのは、自然の成り行きであって、別にに、恥じても何でもありません。「落第」を逆恨みして、出題者を誹謗するのが「末代の恥」なのです。
 なお、以上は氏に対する批判などではなく、世間に溢れる不埒な「落第」者に対する苦言であることは、ご理解いただきたいものです。氏は、惜しくも及第していませんが、最善を尽くした上での結論であり、提起された解釈は、陳寿に成り代わって、敬意をもって受け止めたいと思いますが、「問題集」を改訂する術はないので、その旨よろしくご了解いただきたいものです。

                         この項完 以下別途

2022年3月 5日 (土)

私の意見 歴博展示品「後漢書東夷伝復元複製」の怪

                                                 2022/03/05
〇はじめに
 最近、堂々と歴博(大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館)に展示されている「後漢書東夷伝復元複製」は由来不明です。なお、歴博所蔵の范曄「後漢書」南宋刊本は、木版印刷の紙冊子です。

 歴博展示物は、何を復元複製したのか、大変疑問です。複製、レプリカは、原本の制作過程、素材、加工手法を忠実に再現していなければ、学術史料の意義はないのですが、歴博は明細を公開していません。貴重な展示品の複製製作が根拠不明ではならないとみるのですが、どうでしょうか。

*范曄「後漢書」の由来
 笵曄は、劉宋皇帝に反逆を企て、嫡子と共に斬首された重罪人ですから、未公開の後漢書遺稿は行方不明となり、唐代に章懐太子の元に届いた范曄「後漢書」は、「続漢書」の「志」部を採り入れた正史体裁となっていて、原本はとうに消滅していたのです。(苦笑)
 何しろ、南北朝の分裂を、北朝側の隋が武力統一し、その隋が、煬帝の失政で戦乱の渦に沈んだあげくの唐による全国統一なので、経過不明なのです。

 章懐太子は、「増補版」范曄「後漢書」に付注し、「史記」、「漢書」に続く三史の締めとしたから、歴博「後漢書」は、そうした章懐太子原本の「正史」の復元複製と思えますが、その時点では、袋綴じ冊子形態の写本と見えます。但し、それまでも、それ以降も、刊本以前の「後漢書」写本を見た者は、誰一人現存していません。(苦笑)

*考証不備
 展示品は、范曄「後漢書」東夷列伝の復元複製と称していますが、正史小伝の分冊書が存在したと思えないので復元しようがないと見えます。(苦笑)歴博が、展示物を「後漢書東夷伝」復元複製と主張するには、歴史上、実物が存在した根拠となり得る証明が必要ですが、どこにも見られません。

 「日本の古代14 ことばと文字」(中公文庫)「9.木・紙・書風」によると、素人が、時として簡牘巻物と称していたのは、学問的には「冊書」であり、簡牘の中で最も早く晋代に滅びたようです。

 東晋では、帝室書庫蔵書は、紙に変わっていたはずであり、続く劉宋代、財産家で高級官僚の笵曄は、後漢書草稿段階から紙に専念したのではないでしょうか。編集部門内の覚え書きなど、紙に限ると言えます。

 一体、何を目的に、当初は、冊書だった可能性が無視できない陳寿「三国志」魏志東夷伝でなく、正当化が困難な范曄「後漢書」東夷伝を復元したのか意図不明です。

*歴博の独断
 歴博は、紙巻物とでも対比して「冊書」退潮を書けたはずです。范曄「後漢書」の原本を一巻復元すれば、対比が鮮明でしょう。なにしろ、本紀十巻、列伝八十巻の大著ですから、早々に木簡を廃したはずです。
 歴博サイトの紹介では、単に、紙になっていなかったとしているだけで、これでは、歴博関係者の独断を押しつけていることになります。

*謎めいた制作意図
 これまで、当事件については、不審なことが窓ガラスの向こう側の曇りに見えて、手がつかなかったのですが、今回、すっきりと拭えたのです。

〇まとめ
 と言うことで、歴博の「後漢書東夷伝復元複製」の背景説明をお伺いしたいのです。それとも、一国民は、監査請求しないといけないのでしょうか。

                               以上

2022年3月 4日 (金)

新・私の本棚 第395回 邪馬台国の会 講演 安本 美典 「謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと」

 謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと(みかん物語・田道間守の話)
私の見立て ★★★★☆ 潤沢 2022/03/04

〇始めに
 当記事は、情報豊富で大変参考になるが、細瑾が見えたので、以下、私見を提示する。

⑴古墳古尺談義
 (5)永寧二年(302)の骨尺にもとづけば、晋の一尺は、二十四センチである。このものさしではかれぱ、崇神天皇陵古墳の全長240メートルは、ちょうど1000尺である。垂仁天皇陵古墳の全長は、950尺、景行天皇陵古墳の全長は1300尺である。晋のものさしを用いて、古墳の設計が行なわれているようにみえる。

 安本氏にしては、突っ込みが浅いと書いてしまった。「尺」は度量衡で、土木工事には場違いである。古代に多桁数字はなくて間尺に合わず、誤解を誘う時代錯誤である。
 古墳全長は、測量単位の歩(ぶ)、一歩六尺、1.5㍍程度が必須である。概算で、崇神陵、垂仁陵は六百歩程度、景行陵は九百歩程度となる。机上計算は精密でも、実務「縄張り」は、必然的に大まかである。

 と言うものの、多少大まかでも、魏晋「尺」基準の設計、施工を否定するものではない。先行論文を参照された方が良いように思う。
 例『「古韓尺」で作られた纏向大型建物群』 新井 宏 計量史研究 32-1 2010
   国立国会図書館デジタルコレクション ART0009530400.pdf

 表2 後漢尺、魏尺および古韓尺の纏向遺跡への適合度
 見る限り、垂仁/景行陵は25㌢㍍の「尺」、1.5㍍の「歩」で採寸されたと見える。古墳全長は土木工事分野で、万事大まかと見える。私見では、精密さを問うには、精測可能な墓室内の尺度領域を言うべきだろう。

⑵柑橘類談義
 『中国での柑橘類の「大産地」は、おもに、かつての、呉の国と、蜀の国との領域内になることがわかる。』と至当である。柑橘類は、水分に満ち、降水量が多く、気温の高い土地でないと育たない。まして、現代日本では、長年の品質改良で、多果汁、甘く、種が少ないもので参考になりにくい。
 現代日本でも、ミカンは南、林檎は北で好まれ、果物に地域性がある。

⑶「弱水」談義
 私見では、国内古代史論者に共通の古典書教養不足のようである。厖大な史料に通じた巨峰白鳥庫吉師も軽視したから、仕方ないが、漢字学泰斗白川勝師によれば、「弱」は下部に飾りのある弓で、祭壇に献げたのである。私見では、武器に無意味な「弱い弓」は「飾り弓」だからである。そして、西王母の前に、河流「弱水」が控えると見るものである。あくまで、素人の推定だから、ご一考いただくだけで幸いである。

 楊子雲は、司馬遷「史記」大宛伝や班固「漢書」西域伝の元史料を見たのか、西の最果て「西王母の住まいの裾野に弱水が在る」と述べているが、西遊記の孫悟空が達した「五本の柱」のように最果ての奇観(賛辞)である。

 「西海」が、大海「裏海」かどうか不明である。武帝使節団は安息東境木鹿城Mervに長期滞在したが、私見では、応対の安息長老、実は、二万の兵を擁する司令官が、百人級の軍使団に、不用意に内情を漏らしたとは思えない。

⑷范曄大秦夢譚~余談
 私見では、范曄「後漢書」西域伝は、安息、條支の西に「西王母」と「弱水」を仮想している。「流沙」は、西境に揺蕩う「砂の海」と見え、笵曄は大秦を雒陽官僚の落書きと明言して、筆が踊っている。いや、大秦がローマとは、古来の大「誤謬」であるが、安本氏が唱えたものではない。為念。
 私見では、笵曄は、先例の乏しい蛮夷伝では、自由な語り部になるのである。

                               以上

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