倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義
2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17
*「所要日数」談義~半分余談 2022/03/17
ここで念押しすると、魏使として東夷の王城に派遣されるからには、「倭人」に至る「全里数」と「所要日数」は、派遣に先立って皇帝の目に届いていたに違いないのです。
帯方郡の趣旨としては、当初報告した「全里数」は、道中の行程里数ではなく、太古以来の伝統的書法に従い、天子の権威がかくも遠隔の地に届いているという表明だったのですが、結果として、里数が一人歩きして、途方もない遠隔地と理解されてしまったのです。慌てて、「所要日数」を示し、魏使が数ヵ月の日程で往還できる程度のものと訂正を図ったのですが、何しろ、「全里数」は、先帝明帝の御覧を経て、帝紀に記されてしまったので、書き換えすることができなかったという推定です。
魏使出発の正始初頭、皇帝は新帝曹芳であり、先帝の詔は堅持するものの、本質的に所要期間八十日の派遣であって、片道万二千里の往還行程とは見ていなかったのです。
街道、宿場の整備された魏の圏内でも、一日の行程は、五十里が標準/必達であり、片道万二千里は、片道二百四十日の遠路であり、往復するとほぼ五百日、一年半を要するので、とても、大量の下賜物を抱えてたどり着ける場所ではないのは、誰の目にも明らかだったのです。いや、「所要日数」は、身軽な「文書使」が余裕を持って達成できる「標準」日程だったのですが、重荷を負った使節団と雖も、倍の日数は要しない程度の分別はあったはずです。
参考までに同時代の公式論議の事例を確認すると、景初の公孫氏討伐の軍議では、洛陽から遼東郡治まで道中四千里を百日行程の行軍と見た論議がされ、「往還に二百日、現地の戦闘に百日を要すると見て、計一年以内に片を付けます」との司馬懿の進言が採用され、必要な大量の糧秣が調達、輸送手配されています。肝心なのは、所要日数が第一とわかります。もちろん、これは、概数に基づく論議ですから、一里、一日単位の精密なものではないのですが、概数だけに、大きく逸脱しない確かさを持っているのです。何しろ、洛陽から遼東は、秦代以来の官道であり、要所に関所や城塞が置かれて、食糧補充にも間違いはなかったのです。
念を押すと、本稿含め、当ブログの記事は、史上唯一中原全土で通用していた「普通里」(四百五十㍍程度)を堅持し、以上のように、筋の通った(reasonable)解釈が成立しているのです。読者諸兄姉の御不興を買ったとしても、しっかり筋が通ると自負しているので、感情的な発言はご容赦いただきたい。
▢参考資料 専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
「遣唐使の経路」
新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の唐津(タンジン)から出航して楚州に上陸することになる。
▢余談 東莱談義
新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代では、山東半島地域です。
▢東莱郡 (中国) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東莱郡(東萊郡、とうらいぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。
未完
« 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義 | トップページ | 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義 »
「倭人伝随想」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 4/4(2022.06.26)
- 新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 3/4(2022.06.26)
- 新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 2/4(2022.06.26)
「倭人伝道里行程について」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 サイト記事批判 播田 安弘 「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 1/1(2022.06.18)
- 新・私の本棚 古田史学論集 25 正木裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由(2022.04.24)
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 2/2(2022.04.11)
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 1/2(2022.04.11)
- 新・私の本棚 番外 ブラタモリ 「日本の構造線スペシャル 〜“構造線”が日本にもたらしたものとは?〜」(2022.04.06)
« 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義 | トップページ | 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義 »
コメント