« 新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5 | トップページ | 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義 »

2022年3月22日 (火)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と並ぶ東帝を称した齊は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島との海洋交易によって栄えたのでしょう。齊がこの地に封建される以前から、東夷は、南蛮交易の海船を作り出していたのでしょう。
 但し、海図も羅針盤も無い時代、島影のない海原を、安全に往き来する航海術はなかったので、東夷の「海路」、「海道」は、存在しなかったのです。

 因みに、長江で荷物輸送に多用された川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。まして、沿岸を曳航してくることはなかったのです。そうでなくても、渤海に論した各地には、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の搭載量が限られて長行程に耐えなかった時代、莱州から半島先端の登州を経て渤海列島を経て、遼東半島に到ったようです。どうも、漢城(ソウル)付近は、後背地に恵まれず、後年になって、市糴の便が生じたようです。
 と言うことで、後に、海船が長行程に耐えると、登州を扇の要として、遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へとの派生行程が生じたようです。重ねて、古来の齊「臨菑」は、四方の交通に恵まれ、一大集散地となっています。

 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、新造船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送の軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、楽浪・帯方両郡平定したとされ、その記録は、後の百済攻略に活用されたと思われます。

*景初の「ヒットエンドラン」
 いや、野球の作戦である「ヒットエンドラン」は、結構古い言葉ですが、元々、andで連ねられたHit「打つ」とRun「走る」は、一つのプレーとして行われると言うだけで前後関係を考えていないように、「叉」の文字は、二つの軍事行動が、洛陽の作戦指令で、ほぼ同じ時期に少し離れた地域で行われたと言うことをしめすだけで、細かく前後関係を問わないということのように思います。
 因みに、野球の世界では、「ヒットエンドラン」は打ってから走ると決め付けていて不正確だという意見が多いようですが、それは、言葉の意味を勘違いしているようです。いや、単なる素人の余談ですが。

閑話休題
 青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」の際の兵士輸送に起用されているので、それを機に、青州~遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪、帯方両郡への航路が確立されたと見えます。遼東半島平定後の新造海船は、諸方に払い下げられたと見えますから、以後しばらくは、船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域は危険この上もないので、進入できなかったのです。
 大型の帆船は、機敏な舵取りがきかず、舵取りに漕ぎ手を備えても手早く転進できず、水先案内が予告しない限り、安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の「邊防一」倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」とあり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、航路の無い海域を模索して「浮海」のあげく、風待ち、潮待ちのせいか、数か月後に倭に達したと追加し、「唐会要」は魔物や奇巌と書いたので、話半分としても、難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として「海路」と呼ばれたと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの内陸王城の海港に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討後、軍兵は帰還し、海峡を越えた大軍派兵と水戦は、再現不可能となったのでしょうか。新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸戦闘であり、莱州からの派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。
 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で、暦年重用された登州に渡海したのでしょう。

 いや、この海域に大型の帆船が、堂々と往来していて、金で雇えたら、日本の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。
                              この項完

« 新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5 | トップページ | 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義 »

倭人伝随想」カテゴリの記事

倭人伝道里行程について」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5 | トップページ | 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ