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2022年3月14日 (月)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 3/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中 

*纏向巨大建物論
 纏向陣営も、ここしばらくの怒濤の展開ですが、ある時突然に纏向に大型建物が出現したとの想定は、無理が多く、後付けで「証拠」を付け足しているのは苦笑を禁じ得ません。

 建物は、土地を整地し、縄張りし、柱穴を掘り、柱を立て、梁を交いと言った風に大工仕事を重ねるから、何もない状態から創業して、建物になるのに五年や十年はかかるのです。整地した土地には専門の技術者が緻密に縄張りしたし、柱は、具体的な寸法と材質をもって、山々の木こりに指図していたはずです。いや、金属工具の無い時代、どれほどの手間がかかったか不思議です。それとも、工具持参、大工帯同で、いきなり、集団稼業が操業したのでしょうか。
 整地段取りも、材木、その他諸々の資材の手配も、先だって、どこかの工房で決定したものでしょう。建物工事の人員の手配、寝泊まりの手配、食事の手配、いずれも、先立って準備したに違いありません。時間としても空間としても、随分広がっていたはずです。

 そうした段取り全体を構想して仕分けするには、経験豊かな指導者が必要です。指導者には、補佐役が必要です。それぞれ十分な報酬が必要です。いや、指導者が献策したのか、誰かが募集したのか、どこから来たのか、いずれにしろ、大抵、大規模墳墓は年数をかけられる生前造成(寿陵)の筈です。
 唐古・鍵遺跡の考古学から見ると、地域としては、土木工事の技術に関して長年の蓄積(人材養成、機材、素材の備蓄)があったようですが、建物建築技術は、周囲に先例が見当たらなかったように見えるのです。前例があれば、どこが先駆者であって、時代と共に、どう伝播したか語られるはずなのですが、まだ、そのような創世談は目にしたことがありません。
 ともあれ、「纏向一推し」が頽勢に移ったのは、まことに めでたいことです。

*誤解された遣使談
 倭の三十国が魏と外交関係を持ったと見るのは、俗耳に訴えるものの、実は、単なる勘違いです。当時、蕃国は、魏に外臣、蕃王として臣従するのであり、「外交」など時代錯誤丸出しです。いや、それは、纏向説論者だけの症状ではないのですが、いくら、多数を占めていても、錯誤は錯誤です。
 また、魏としては、四囲の蕃夷にはるばる押しかけてこられると、しかるべく応対して、銅印やみやげものを渡さないといけないので、対応を厳選します。倭で言えば、帯方郡で選抜して代表国だけ申請せよと云うものです。いえ、このような格付けは、魏が発明したのではなくて、通常、周制で始まったとされていますが、歴代、そのようであったはずです。

 倭人の景初遣使は、質素な貢献物に対して大層な下賜物を受けていますが、それは、あくまで初回だけであり、それ以外は金印(青銅製)と手土産程度でしょう。
 それにしても、手土産目当てに毎年来られてはたまらないのです。何しろ、倭人の例で言えば、帯方郡参上から洛陽までの旅程は、全て、帯方郡官人のお供が接待するのであり、いくら、大帝国といえども、毎年来られてはたまらないのです。
 大抵の処遇は、十歳ないしは二十歳に一貢というものであり、要するに、遠方の蕃夷は、十年、ないしは二十年に一度で良い、それ以上来るなと云うものです。後年の遣唐使は、二十歳一貢でした。中間年に出かけて、追い返されかけたこともあったようです。

 中国側の制度にお構いなしの素人考えも、ほどほどにして欲しいものです。

*卑弥呼王族待遇の怪
 因みに、中国の考古学者が、卑弥呼は中国王族と同格と言ったのにはびっくりしました。ご存じないのでしょうが、蕃王は、太守配下なので、随分格下なのです。中国人の史学者と言っても、別に倭人伝専攻ではなく、ひょっとしたら、秦漢魏晋代の官制を熟知しているわけでもないので、大抵は慌てて関係ありそうな資料を読みあさるのであり、理解度はこの程度なのです。
 ちなみに、蕃夷を「賓客」と言い、鴻廬の専門部門が、丁寧な接待を行うのは、余り露骨に差別を示すと、反逆されかねないので、そうならないように、ご機嫌取りしているものです。

 漢代、蛮夷の使節は、正使から使い走りまで、漏れなく印綬を賜ったという記録が残っています。後漢書に由来を求めている「漢」の「倭」の「奴国王」印綬は、比定されている遺物の材質が「黄金」、金無垢という材質が、異例に近いものであるというだけです。

 つまり、「金印」は「金印」でも、当時「金」と呼ばれていた青銅印なら、一介の小国王に付与しても不思議はないものです。黄金印、つまり、金無垢の印は、三世紀当時、製造困難でした。黄金の素材が大変貴重であり、また、黄金は、青銅、鋳鉄などに比べて、高度な技術や設備と加熱燃料が必要です。そのような希少価値のある黄金印を、無冠無名に近い「倭奴国王」に下賜する事情が不明なのです。因みに、後漢書には、黄金印を下賜したという明確な記事はないようです。

*突然の出雲高揚
 いや、突然の紹介ですが、出雲が「大陸」と交易したとしていますが「半島」も、大陸なのでしょうか。帯方郡と接触すれば、郡の公文書に残るはずですから、後世に残っていないということは、馬韓、弁辰などの諸小国と交流があったのではないでしょうか。これらの諸国は、東夷の仲間で、言うならば同格ですから外交が成立するのです。

 そのような小国との交易が皆無でないとしても、小振りで漕ぎ手少人数の海峡渡海船の乗り継ぎでよい九州北部と違い、出雲からの往来は、さらに数日がかりの難業であり、とても、便数などの面で競争にならなかったと見えます。何しろ、海流に逆らう往路は、絶大な体力が必要なのです。そして、いかに強力な漕ぎ手でも連日の漕行はできないのです。休養を与えるなり、交替で漕ぎ継ぐなり、稼業とするには、それ相当の体制作りが必要です。そして、漕ぎ船では、漕ぎ手の体重分だけ積み荷が減るのです。して見ると、日数が伸びれば、荷主の取り分は大巾に減るのです。
 こうした考証は、思い付きに任せた口先考古学では済まないのです。

 当ブログの常套手段では、途中で漕ぎ手を代えて乗り継ぎして狗邪韓国あたりで上陸し、後は、手軽な陸上経路で繋いだとも考えるのです。商いの相手としての半島西南部は、三韓との連絡が少なかったとみられるので、穴場になったのかも知れません。何しろ、この地域のことは、韓伝にも倭人伝にも、はっきり書かれていないので、空白地域と推定するのです。

                                未完

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