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2022年3月14日 (月)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 2/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇激論なき「バトル」
 中でも、論者の発言に噛みついて、「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は既に確立されている」と強弁するのは、「サミット」に不似合いです。どこかの国の大統領の論争の際の振る舞いを真似たのでしょうか。困ったものです。

 考古学において、遺物、遺跡の交渉を堅実に積み上げて構築した世界観自体には、異議を差し挟むことは困難ですが、三世紀頃の文字記録は、遺跡から出土していないので、時代比定は不確かであるとの起点確認が必要でしょう。「医師よ自分を癒やせ」という感じです。

 それを、自説絶対と突っ張るのでは、議論が成立しないのです。それとも、番組紹介で言う「自説をぶつけ合う」とは、同士討ちのことを言うのでしょうか。

〇高価な纏向巨大建物幻想
 今回は、纏向遺跡の再現動画を上演しましたが、素人目にも、論議の場で不確実とされて反論できていない思い付き「仮説」を強引に絵解きしたのは、映像芸術以前に、考証の調わない虚構と見えます。
 いくら映像化に手間とカネをかけようと、時に、あいまいに「イメージ」ととぼけて呼ばれる絵空事は、事の実態を一切示さない上に、視聴者の感性次第でいかようにも解釈でき、あくまで「イリュージョン」(まやかし)に過ぎないのです。「仮説」は、論証するものではないでしょうか。

〇 見かけ倒しの運河構想
 例えば、運河に曳き船して荷を運ぶ図は、場違いです。そもそも、出土した水路跡を、運河の跡とみた時点で、勘違いが始まっているのです。
 素人でも、色々見聞しているとわかってくるものです。
 運河水運は、高低差がなく流速の無い水路が必要であり、つまり、等高線上に造成されるものなのです。纏向説では、河内平野から大和川を遡上し、奈良盆地内を纏向まで遡上する構想のようですが、そのように傾斜した水路の運河は、まずは流出が激しくて、さっさと露底し、運河機能を維持できません。

〇鯉の滝登り
 また、どう考えても、傾斜水路を漕ぎ上ることはできないので、人海戦術で曳き船する絵は、ごもっともの工夫でしょうが、話はここだけでは済まないのです。
 つまり、吃水の深い海船は大和川を遡上できないので、ますは、河口で「大きめの川船」に載せ替える必要があり、大和川の上流に向かうとしても、下流の「大きめの川船」は、浅瀬の目立つ急流を奈良盆地まで遡上できないので、柏原辺りの船泊で一旦荷下ろしして、身軽な小船「軽舟」に載せ替えるか、いっそ、陸揚げして、小分けし、人海戦術で背負子運びとするかということになるはずです。

 何しろ、船体は、堅固な木製であり、それ自体が結構な重量なので、急流を漕ぎ上るとか曳き船するとかしても、「ほとんど木造りの船体を運んでいる」ことになるのです。普通に考えると、船の滝登りは、大変困難(不可能)なのです。
 と言うことで、先に提案したように、小分けして、背負子で送り継ぎするのが、最善策でしょう。
 何しろ、背負子は誰でも担げるので、大勢を呼び集めて、時には、区間を区切って送り継ぐような人海戦術が成立するのです。

 して見ると、奈良盆地に運河を掘削しても、乗り入れる船がないのです。運河、曳き船となると、厖大な「物流」を予定しているのでしょうが、そんなに大量に、何を買い、何を売っていたのでしょうか。知る限り、纏向には物資の出入りが少なかったとも仄聞しています。どうして、足元を固めてから、描かないのでしょうか。国費、公費の無駄遣いとしか思えません。

 絵に描いた大量の荷物の実態は、何なのでしょうか。食糧とするのは、誠に不合理で、これほどの食糧を搬入しないと維持できない集落は、何をもって対価を支払っていたのでしょうか。

 と言うことで、上手にきれいに絵を描いても、現地、現物を写生した上でなければ、きれいな絵にはならないのです。

〇環濠と水路~「倭人在」、「国邑」の意義
 因みに、普通に考えると、水路の主目的は耕地の灌漑でしょう。それには、適度な傾斜、流速が必要です。治水というと、豪雨の際、環濠を遊水池にして、下流の氾濫を軽減する工夫が必要です。ため池が無い時代ですから、農業用水を貯水したこともあったでしょう。

 環濠の効用は、このように、水防や野獣除けが考えられます。広い眼で見るべきです。環濠は、しょっちゅう浚えないと、水草が茂り泥やごみで詰まるのです。唐古・鍵遺跡で百年以上健在であったら、ちゃんと維持管理されていたということであり、それだけでも尊敬に値します。纏向はどうだったのでしょうか。

 因みに、殷周を発祥とする中国古代では、「国」と言っても、国境一杯に勢力を示した領域国家でなく、例外なく隔壁で集落の外を囲い、隔壁内には、首長の親族の住戸を囲う内部隔壁を有した「国邑」、つまり、二重隔壁集落が「国家」の基本要件だったのです。ところが、倭人伝冒頭にあるように、「倭人」は「山島」に在るため、野獣は少なく、野盗の徘徊もなかったため、外の隔壁を省いて水壕や外海で囲われていたのです。
 僅かな字数で、「倭人」の王治所(王城)のあり方が紹介されていて、陳寿の筆の冴えを思わせます。(宮崎市定師の論考に触発された一説です)

 そのように解すると、「従郡至倭」の「倭」は、女王が住まう「国邑」であって、現代風に言うと五百㍍程度からせいぜい二㌔㍍程度四方の集落であり、それを、倭人伝は「邪馬壹国」、「女王之所」と言い、後の范曄「後漢書」は「其(倭)大倭王居邪馬臺國」、つまり、広域に及ぶ「倭」を統合する大倭王と言えども、居所は「邪馬臺國」なる、一「国邑」だったという事です。(あくまで、近来の一説です)

 陳寿の倭人伝を下敷きに、後世に新たな表現を試みた笵曄は、「其大倭王居邪馬臺國」と書いて、大倭の国々を束ねる「大倭王」の居処は「邪馬臺國」なる小集落だったとしています。後漢書の「邪馬臺國」は、その所在地を「樂浪郡徼,去其國萬二千里」と書かれていますから、倭人伝を無批判に引き写しているものの、国王居処の名称「邪馬壹国」は、敢えて踏襲しなかったもののように見えます。
 大倭王が、どの時代の何者なのか不明ですし、その居処と倭人伝の郡倭行程の終着地「邪馬壹国」との関係も不明です。
 いずれにしろ、後漢書を起用しても、所在地特定は、困難でしか無いのです。何しろ、笵曄の手元には、何も、後漢桓帝/霊帝の時代が下限で、続く、献帝建安年間、洛陽の公文書には、遼東郡公孫氏からの報告がなかったので、帯方郡創設すら記載されていないのです。つまり、東夷列傳を書いても、帯方郡関係記事の根拠とすべき資料はなかったので、捏造と言われない範囲で創作するしかなかったのです。
 端的に言うと、桓帝霊帝代、倭国大乱というのは、献帝時代について書くことができなかったための曲芸だったのです。また、「樂浪郡徼去其國萬二千里」と書いているのは、帯方郡の所在地を書けなかったので、楽浪郡の南端付近の帯方縣を想定しているのです。
 范曄「後漢書」東夷列伝の記事は、技巧を凝らしているので、信用ならないということです。

*卑彌呼「水神」巫女説の試み
 因みに、環濠集落の首長は、下流の集落への水分(みずわけ)を仕切っていた可能性があるので、太陽神ならぬ「水神」を氏神にしていた可能性があります。こちらは、命がけの争いになりかねず、首長の水捌きの不備を責められるのを避けるため、水神様を守り神に担いでいたと考えるのです。太陽の日射しは、割り振りのしようがないから、水分(みずわけ)の仲裁をすることが、重大な祀りごとだったのではないでしょうか。大した知恵のない素人は、安直な考えを捨てられないのです。

 辻褄の合わない纏向運河説は、そろりと撤回された方が良いようです。

                                未完

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