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2022年5月

2022年5月24日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞がこだわる過去の遺物用語「ナイター」の怪

                                 2022/05/24
 今回の題材は、お馴染みの毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面記事である。今日から開始する「日本生命セ・パ交流戦」の下馬評で、まことに結構な景気づけのはずである。そこで、開幕カードの紹介であるが、最後を「すべてナイターで行われる」と、粗相して、過去の遺物としたい「廃語」を述べているのは、何とも感心しない。この記事を概観すると、冠スポンサーも巻き込まれている感じがして、大変失礼である。

 それにしても、プロ野球界は、インチキカタカナ語「ナイター」によって、日本文化に大きな負の遺産を負わせたのだが、商標めいた使用で箔を付け「普及」させたことを大いに恥として、自らは厳格に排除し、他分野の「パクリ」利用については、新聞社などメディアの協力で使用を減退させ、風化を誘っているように見える。いや、一読者の勘違いかも知れないが、日々の報道から消えていった言葉を感じ取っている。
 ところが、毎日新聞は、そのような動きに反発しているのか、ここに、堂々と紙面に出ているのは、何とも、情けない話である。

 毎日新聞朝刊スポーツ面に掲載されれば、当然、多くの読者が目にし、口にし、廃語の風化は大きく後戻りするのである。担当記者は、自分の記事が、大勢の関係者の努力を無にしていると気づいていないのだろうか。

 それにしても、毎日新聞社は、署名記事の校閲をしないで、事足れりとしているのだろうか。定期購読者としては、ここで、ささやかな文句を言うしかないのである。

以上

2022年5月21日 (土)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂

 編集部      梓書房 2022/1/4刊       初稿 2022/03/24 二稿  2022/05/21
私の見立て ★☆☆☆☆ 認識不足、早合点
 
〇はじめに~巻頭言の不勉強
 今回の題材は「巻頭言」であり、言わば、世間話で本号の「つかみ」としているのだろうが、見当違いの発言を正していこうというものである。

◯引用紹介と提言
 冒頭に、「富山県が平成6年に発表して以来、話題を集めた、南北を逆さまにして大陸から日本を見た地図である。この地図は、『(1)中国、ロシア等の対岸諸国に対し、日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調する、(2)本県(注・富山県)が本州の日本海側の中央に位置し、環日本海交流の拠点づくりを進めていることを国内にPRする』という目的で作成された」と「逆さ地図」が紹介されている。二重引用部の出典不明。
 参考 環日本海・東アジア諸国図(通称:逆さ地図)の掲載許可、販売について 
 現代の感覚では、海路は最も時間のかかるイメージであるが、古来においてはまさに「ハウェイ」(ママ)であった。車も電車も、ましてや新幹線もない陸路では、運べる荷物の量も限られ、移動スピードも海路には格段に劣っていた。それだけ「海でつながっている」ということは、地域にとっての強みであり、海路は交易の主役だったのだ。古代の人々にとっては、海とは「隔てる」ものではなく、「つなげる」ものだったのではないだろうか。

◯コメント~引用資料の時制混乱/錯誤
 氏は、富山県の著作物を口頭で紹介した上で、第三者著作物を踏み台として、自己主張しているのは、感心しない。編集子は、「最も時間のかかるイメージ」などの混乱した感覚をまき散らして、理解困難で勝手に論調を仮想してみた。

 冒頭紹介の富山県提案が、古来、日本海中部に対岸と連携する輸送交通路「航路」が形成されていたとの主旨と仮定すると、本誌守備範囲の紀元二~四世紀の時代背景で、そのような「航路」は、不可能そのものである。また、それを証する出土遺跡、遺物もないはずである。
 ただし、よくよく見ると、富山県は、明らかに「古代幻想」不関与で、引き合いに出されて大迷惑と見た。大破綻である。

*救済不可能な破綻/「海路」の時代錯誤
 編集子提示の「海路」は、出典不明の後世語で、当時、「海路」概念は一切存在せず、実体がないので評価不可能。時に見かける時代錯誤である。従って、倭人伝に「海路」なる用語はなく、当時存在したのは、対馬海峡渡海船だけである。従って、比較検討は無意味である。繰り返すと、当時、「海路」は全く存在しない上に、陸上「公道」(正解は「ハイウェイ」)は未整備で比較不成立である。

 なにしろ、編集子提言は、時代像非開示で、誠に不用意である。スピード比較を言うが、根拠不明では、検証不可能である。

 日本海中央部に輸送に値する荷物は存在しなかったと思われ、提言いただいた輸送手段は成立しないから、比較は、一段と無意味である。

*空転、空疎な提言
 してみると、両者が「海水でつながっている」と逃げずに、いつ交通可能になったか提示すべきであり、同時代外ならここに展開すべきものではない。

◯結論 苦言進上
 本誌巻頭言は、実際上編集長の執筆だろうが、編集長無謬ではないから、玉稿といえども校閲の上で掲載すべきではないだろうか。
 編集諸兄姉の顧客は、読者の筈である。雑誌の令名に恥じない巻頭言を掲載していただきたいものである。

                                以上

2022年5月11日 (水)

新・私の本棚 毎日新聞「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 571 謝罪と訂正

 東高野街道/62 柏原市 竜田道は「国道1号」 2022/03/12 記 2022/03/27 再掲 2022/05/11

▢謝罪と訂正
 当記事は、毎日新聞の連載記事の批判であるが、後続の連載回を含めた一連の記事について、「柏原市歴史資料館安村俊史館長の説明が不出来であったために記者が誤解した」との印象になってしまって、関係者に、ご不快の念を与えたかと思うが、今般、柏原市立歴史資料館のサイトに、「館長の連載コラム」と題された一角があり、そこに2015年 「亀の瀬 こぼればなし」 (全10回・2~5月連載)として、詳しい解説が公開されていることに気づいたものである。
 同連載コラムは、読んで頂ければわかるように、専門家である「柏原市立歴史資料館の安村俊史館長」が、大変な時間をかけて、一般の読者に理解しやすく書きためたものであり、不勉強な記者は、取材を焦る余り、手ぶら、「予習復習」抜きで、勝手な記事を書いたようにみえる。報道のプロとして、もっての外の怠慢と思われる。
 いや、気づいてみれば、当然である。世間の研究者は、真面目に研究成果を還元しているのである。纏向関係者の粗雑なメディア対応は、あくまで、例外の極みなのである。
 と言うことで、以下、細かく訂正していない当記事に、安村館長に対する非難の響きが残っているとしたら、それは、見当違いであるので、深くお詫びする次第である。

 以下、当初記事に戻る。

〇始めに~記事批判の弁
 当連載は、毎日新聞大阪版の連載記事であり、概して当ブログの時代圏外を現地紀行を通じて紹介しているが、話題が古代に及んだのを機に口を挟んだ。当記事は、相談相手一辺倒でなく異論紹介が必須と見たのである。
 当記事には、担当記者 松井宏員氏の署名入りである。

◯記事引用批判
 柏原から大和川沿いに奈良県三郷町に抜け、斑鳩へと通じる竜田道が近年、見直されている。一昨年には日本遺産に認定された。なにせ、古代から奈良と大阪を結ぶルートだったのだから。そして、日本で最初の官道、今でいえば国道だったと考えられているのだ。

 コメント:
 七世紀、さらには、それ以前、「日本」「奈良」「大阪」は存在しなかったから、真面目な論議に合わない。こどもたちが、間違った言い回しを真似しないよう、正しい言葉遣いに改める必要がある。河内の古代史を語る上で、大事な「基礎」と思うものである。

 推古天皇の時代の613年、難波から京までの間に大道をもうけた、と日本書紀にある。この京は飛鳥のことだ。従来、この大道は松原、羽曳野、太子町から奈良県葛城市へ、二上山の南の竹内峠を越える竹内(たけのうち)街道だと考えられていた。

 コメント:
 交易荷物の既設経路を官道整備したと見える。「竹内街道」が「難波」から「松原、羽曳野」を通ったとは初耳で、正しくは、堺港から富田林、太子町を経て竹内峠越えの東西道と見える。
 全ての荷が、難波から飛鳥に向けて送りつけられたと決め込んでいるようだが、当時、そのような遠距離輸送が成立していた証拠はあるのだろうか。確かに、柏原に荷さばき場があって、河内湾からここまでに船で遡行した上で、一旦荷下ろししたと見えるが、それは、随分後世のことのように見えるのである。
 ここから、山向こうの飛鳥に行くのに、石川筋を遡って太子町から竹内街道を行くというのは、素人目に分の悪い経路であるが、それは、時代相応の堅実な見方ではないように見える。
 仮に藤井寺、富田林あたりに、大口の買い手、古代豪族がいれば、海港からそこまで荷が届くのであり、その買い手が、山向こうの飛鳥に荷を売りつければ、経路は竹内峠越えである。まさか、柏原まで下りて「竜田道」を行くはずはないのである。

 河内平野が、大和川と石川の合流した暴れ川の扇状地で、荷船の往来などできなかった時代が、先だって、随分長く続いたはずである。その時代は、堺に入港して、羽曳が丘の丘陵地帯に荷送りしていた時代があったのではないか。素人考えで申し訳ないが、地形図を眺めていると、東西に通じる、手短で、さほどの難路でない経路があったのではないかと見えるのである。
 事ほどさように、河路の比較対照は、時代背景を見極める必要があるのではないか。
 ついでに言うと、柏原市立歴史資料館の展示資料として、美麗な地図が引用されているが、だれが推古代の地形を正確に再現したのだろうか。素人目には、奈良盆地にも、河内平野にも、多数の「ため池」が存在しているように見えるが、それぞれの「ため池」の造営年代が、推古代以前とする証拠はあるのだろうか。

 安村さんは約10年前から「竜田道」説を唱えている。その最大の理由は高低差だ。「竜田道は高い所で標高78メートル。それに対して竹内峠は約290メートルもあります。」

 コメント:
 険しい上りの直登は、「禽鹿径」(けもの路)であり、荷道は、つづら折れが常識である。
 先読みした次回記事で道幅狭隘「隘路」とされた「竜田道」界隈は、世評によると、地盤不安定で崖崩れの不安があり、街道の通行安全が保証できないと見える。学問上の「説」をぶち上げるからには、そうした否定的な要素も考慮し、克服した上で持ち出すものではないのだろうか。
 千五百年前の交通事情考証だから、本来、先人達が諸論を出し尽くしているはずであり、古代史学界は、今さらの「新説」と独り合点してがむしゃらに言い立てて、反論無しに時間が経てば、立場が強くなる、「言ったもん勝ち」と言うことであれば、ここに示された安村氏見解の評価には、大いに疑問が投げかけられる。
 それにしても、次回記事の裴世清の使節一行百人(と推定される)は、未整備「竜田道」を、どのようにして越えたのだろうか。このあたりのダメ出しを経ていないというのは、心細いものがある。毎日新聞社は、提案者の言いなりに記事を書き出すしかしないのだろうか。
 もちろん、ここまで、どんな手段で移動したのかというのも、大変な課題である。何しろ、太古以来、九州北部から河内まで大変な難所続きで、とても、隋船は、通行できなかったと、確信されるのであるが、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

*竹内峠の評価
 竹内峠を越えたことがある。明治時代にだいぶ削って通りやすくしたが、それでもかなりの急坂だった。

 コメント:
 一方的な當麻側体験談だが、地域住民は誰でも知っていることで、近年まで、つづら折れの旧道が通じていたのを、伏せているのは、なぜだろうか。
 また、全国紙紙面で堂々と「越えた」と言うからには、当人は峠の西側まで進んで、以下、楽々下山したはずなのだが、その辺りについては、何のご意見も見せていない。太子町の側は、高低差が少ないだらだら坂で、論証の邪魔になるから、隠したのだろうか。
 この辺り、別に、荒海や瀬戸を漕ぎ渡る話ではないので、一度歩けば、誰にでもわかることであり、隠し立てしても仕方ないと思うのである。困ったものである。

 コメント:
 峠道の難関の評価指標は、登り口と頂上の「高低差」と経路の傾斜であり、氏が最初に述べたように、取り付きからの高低差が大事で、標高(海抜)差に、大した意味は無い。急坂であっても、つづら折れを繰りして、緩傾斜の長丁場にしてしまえば、「貴人が輿から転げ落ちる」など、全く問題外とわかるのである。
 このように、坂道の評価は、高低差すら大問題ではなく、つづら折りまで含めた経路傾斜が、ほぼ全てであり、「難しい」と人手と時間の泣き言は「貴人」厳命に背く理由にならない。要するに、「街道」なら、必要な通行の便が整っていたのである。

 現実の竹内街道も、河内の太子町側はダラ下がりで、上り下りに問題はないと見える。良くある「片峠」であるが、記者は河内側に足を踏み入れずに駄弁を弄したと見える。いや、この部分は、主として安村氏の発言の引用なので、記者の書き方を真に受けると、安村氏の不明によるものかとも思われるのである。
 
 コメント:
 ついでに言うと、太古以来、洋の東西を問わず、誰でも、荷を背負って峠に登り、そこで、山向こうの相手と背負い荷を交換して下山すれば「交易」できるのであり、半日ほどで往き来できれば、別に難所でもないのである。言うまでもないが、そのような往き来は、毎日のことでないので、近隣の健脚が交替で取り組んでも良いのである。

*何でも「太子」頼み
 さらに安村さんは「官道として整備したのは、聖徳太子で間違いないでしょう」と言い切る。「なぜなら、このころ太子は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)にいて、四天王寺などと行き来してます」。斑鳩宮は竜田道沿いにあり、竜田道から北西に延びる渋川道(渋河道)が造営中の四天王寺まで通じており、その途中には先に見た渋川廃寺や、船橋遺跡(柏原市~藤井寺市)から見付かった船橋廃寺など、いくつもの寺がある。仏教に深く帰依していた聖徳太子が関わったのでは、というのだ。

 コメント:
 取り敢えずは、別の目的で往き来する二つの経路があって時代が違ったのではないか。他に、北の方に「暗峠」の難関を越える経路が利用されていたと思うのである。さらに、北に行くと、なら山越えの「木津道」が常用されていたと見えるのである。それぞれ、太古に始まり、後世まで重用されていたはずである。
 いや、別に『「竜田道」がなかった』と言っているものではない。時代相応の世界観を大事にして欲しいと言うだけである。

 いや、さすがの聖徳太子も、「廃寺」を造営するはずは無いと思うのだが、引用外となっているので、記者の錯誤となるが、まことに、その辺り無頓着である。
 それにしても、「聖徳太子」は、これほど多数の仏寺造営を指示したことになっているのだが、どうやって、必要な知識を得たのだろうか。そして、どこから資金を得たのだろうか。当然、斑鳩を離れて、現場に住み込んで逐一指示しないと、仏寺造営の新技術、大事業などできないはずなのだが、どこでそのような知識を得たのだろうか。大変な才人と見える。と言うような問いかけは、素人には、当然の疑問ではないか。
 先立つ時代、物部氏は河内にあって、外来技術をものしていたようだが、史書によれば、排仏論者であったので、仏寺の造営などしなかったはずである。このあたりの事情には、通じていないので、憶測ばかりであるが、もう少し、初学者向けに説明して欲しいものである。
 それにしても、国家として、仏教の全国布教を通じて、隋唐に迫る法治国家を形成するという豊富だったはずなのだが、これらいくつもの「廃寺」が骸を曝したのはどうしてだろう。国家が、自領を与えなかったのだろうか。あるいは、豪族が帰依せず、経済封鎖したのだろうか。もっとも、これは、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

◯結論
 以上の問いかけなしの一方的、安直な割り切りは、いかにも勿体ないのではないか。

                                以上

2022年5月 8日 (日)

私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充

                           2022/01/25 補充 2022/05/08
〇はじめに
 別記事で、散佚した謝承「後漢書」を論じたとき、同書には「東夷伝」がないと断じたところ、根拠を持って断じたのにも拘わらず、「御覧」に謝承「後漢書」所引に続き「東夷列伝」所引があるのだから、謝承「後漢書」「東夷列伝」と見ることができるとの指摘があり、一旦、引例の史料批判が不適格で、端から棄却すべきと指摘したが、不適格とする参考例をここに追加する。
 いや、自明事項を念押しするのは自信が無いためと曲解され、言い逃れ、言いつくろいが見苦しいなどと、いわれのない非難を浴びた忌まわしい経験があるのだが、懲りずに、以下、念押ししたのである。

*探索の動機
 「太平御覧」で、引用元書名無しに、「東夷伝」/「東夷列伝」と書くのは、どういう事情か知りたかったのである。

《太平御覽》 [北宋] 977年-984年 全千巻 中國哲學書電子化計劃
【壱】《兵部八十六》《甲上》
 又《東夷傳》曰:漢時扶夫王葬用玉甲,常以付玄莬音免郡王死則迎取。公孫淵誅,得之玄莬庫。 [注:扶夫は、扶余の誤記か]

*コメント
 「甲上」では、「玄莬」の「莬」は珍しいので、「発音は「免」(べん)と付注」しているが、実は誤字である。もっとも、肉眼で区別がつくかどうか、視力検査である。往時は、異体字で「菟」「莬」を区別したはずである。
 いや、世の中には、「臺」と「壹」が紛らわしいと主張している方がいるのだが、素人が一見して区別できる、はっきり異なった字を区別できないとしたら、不勉強、不注意としかいいようがない。中国で、教養人、つまり、一人前の文化人と認められるには、数万ある「漢字」は、ほぼ全て、学習済みであり、易々と区別できるものである。
 いや、一部の論者が主張している草書類似の略字体は、判別不能な例も、多数あるようだが、ここで論じているのは、楷書系の正字である。一部、繁体字と称しているが、その本質は、中国文化の根底となっている「正字」であり、簡体字なる略字を論じているのでない。当今、安直な誤解の方が、俗耳に馴染んで、広く通用する傾向にあるので、敢えて、事を荒立てたのである。

 「玄莬」 ならぬ「玄菟」は、漢武帝が朝鮮旧地に設けた漢制「郡」である。日本では「ゲント」としている。混同している例は皆無では無いが、文字の誤解はしていないはずである。
 白川勝師の字典「字通」では、「菟」は、黒いつる草らしい。これまで、素人の軽率で、「黒兎」の意味と速断していたが、よく考えれば、草冠は植物である。加えて、黒ウサギは、大変、大変稀少である。いや、時に勘違いも面白いのである。

 「御覧」編者は、「玄菟郡」を関知せず「述べて作らず」として、所引(メモ書き)のまま書いたようである。もちろん、山成す原本を実際に、逐一確認していたら、こうした誤解は生じないのだが、いくら大広間で作業しても、手の届く範囲における原本は、ごく限られるのである。

 後漢書「東夷列伝」「扶余伝」によると「夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里,本濊地也。(中略)其王葬用玉匣,漢朝常豫以玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。(中略)永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。」とある。
 所引は、随分縮約しているものの、結局、范曄「後漢書」が出典と見える。ただし、「玄菟」を書き損なったのか、走り書きにして、区別が付かなくなったか、「玄莬」に変身しているのである。

 当所引は献帝時に及ぶが、遼東公孫氏が、東夷を遮断する前だろう。事務的、機能的な列伝調で、「倭伝」が范曄風随想記事なのと好対照である。後漢公文書に基づいているという事であろう。 つまり「倭伝」は史料の出典が異なるのである。

【貳】《四夷部十一·南蠻六》《黑齒國》
 《山海經》曰:黑齒國,為人黑齒。《東夷傳》曰:倭國東四千餘里有裸國,東南有黑齒國,船行一年始可至也。《異物志》云:西屠染齒,亦以放此也。

*コメント
 本例は、「東夷伝」だから、後漢書でなく魏志が出典だろうか。
 いずれにしろ、「御覧所引」は、しばしば不正確な縮約があり、検証しようにも、原文対応が不明確である。なにしろ、「御覧」は、一気に編纂された物でなく、北斉(六世紀)、唐(七世紀)の三大類書を基礎に、北宋(十世紀)で大成したから、個別の編集経過は不明である。「御覧」千巻の人海戦術による編集の際、所引簡(メモ書き)は大量に発生するので、不備、誤解、錯簡が、発生しても不思議でない。
 このような編纂経過の成果である類書の一条、断片に表れる記事を根拠に、厳密に検討された正史を校勘するのは、無理も良いところで、あくまで、参考の参考にとどめるべきである。

〇まとめ
 本件用例探索の成果は、漠然としているが、冒頭に「東夷列伝」とある用例条は、前条後継でなく別項と見てよいようである。本来、このように不確かな史料は、史料審査で「証拠不十分」として却下すべきものだろう。どうしても、主張したければ、佚文漁りをやめて、信頼できる裏付け史料を用意すべきである。

                               以上

追記:「立証義務」の不履行という怠慢
 本件に関しては、ついつい、謝承「後漢書」に関する大家の論議の「粗相」を「尻拭い」してしまって、手過ぎた失敗と感じている次第である。大体、史書として厳密に編纂されていない、つまり、校閲を重ねていない「太平御覧」であるから、別系列の独立した史料による裏付けなしに、所論の根拠にしてはならない、と言うのが、当然、自明だと信じているのだが、同感していない方もあるようで、謝承「後漢書」所引に続いて書かれている「東夷列伝」が、謝承後漢書の所引だという可能性は、完全に否定はできないのではないかというご意見のようである。
 論議の起点に変えると、そのような断片的で、当てにならない史料を、端から正確な引用と決め付けた大家が、論証義務を怠っていたのであり、その一点で却下すれば良かったのである。つまり、他ならぬ大家が、当該「東夷列伝」記事が、謝承「後漢書」の所引であると立証する重大な義務を怠っているのだから、一介の素人の異議が聞こえたら、それこそ、「太平御覧」を全文検索して、同様な事例全てで、氏の主張を裏付けていると立証する義務があるのである。立証義務は、勝手に放棄してはならないのである。

 以上、丁寧に説明すると、丁寧さがあだになって、揚げ足取りめいた無作法な放言を呼ぶという例であり、本件は、深入りしないで幕とする。
 従って、「コメント」対応は、黙殺とする。

以上

 

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