« 私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充 | トップページ | 新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂 »

2022年5月11日 (水)

新・私の本棚 毎日新聞「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 571 謝罪と訂正

 東高野街道/62 柏原市 竜田道は「国道1号」 2022/03/12 記 2022/03/27 再掲 2022/05/11

▢謝罪と訂正
 当記事は、毎日新聞の連載記事の批判であるが、後続の連載回を含めた一連の記事について、「柏原市歴史資料館安村俊史館長の説明が不出来であったために記者が誤解した」との印象になってしまって、関係者に、ご不快の念を与えたかと思うが、今般、柏原市立歴史資料館のサイトに、「館長の連載コラム」と題された一角があり、そこに2015年 「亀の瀬 こぼればなし」 (全10回・2~5月連載)として、詳しい解説が公開されていることに気づいたものである。
 同連載コラムは、読んで頂ければわかるように、専門家である「柏原市立歴史資料館の安村俊史館長」が、大変な時間をかけて、一般の読者に理解しやすく書きためたものであり、不勉強な記者は、取材を焦る余り、手ぶら、「予習復習」抜きで、勝手な記事を書いたようにみえる。報道のプロとして、もっての外の怠慢と思われる。
 いや、気づいてみれば、当然である。世間の研究者は、真面目に研究成果を還元しているのである。纏向関係者の粗雑なメディア対応は、あくまで、例外の極みなのである。
 と言うことで、以下、細かく訂正していない当記事に、安村館長に対する非難の響きが残っているとしたら、それは、見当違いであるので、深くお詫びする次第である。

 以下、当初記事に戻る。

〇始めに~記事批判の弁
 当連載は、毎日新聞大阪版の連載記事であり、概して当ブログの時代圏外を現地紀行を通じて紹介しているが、話題が古代に及んだのを機に口を挟んだ。当記事は、相談相手一辺倒でなく異論紹介が必須と見たのである。
 当記事には、担当記者 松井宏員氏の署名入りである。

◯記事引用批判
 柏原から大和川沿いに奈良県三郷町に抜け、斑鳩へと通じる竜田道が近年、見直されている。一昨年には日本遺産に認定された。なにせ、古代から奈良と大阪を結ぶルートだったのだから。そして、日本で最初の官道、今でいえば国道だったと考えられているのだ。

 コメント:
 七世紀、さらには、それ以前、「日本」「奈良」「大阪」は存在しなかったから、真面目な論議に合わない。こどもたちが、間違った言い回しを真似しないよう、正しい言葉遣いに改める必要がある。河内の古代史を語る上で、大事な「基礎」と思うものである。

 推古天皇の時代の613年、難波から京までの間に大道をもうけた、と日本書紀にある。この京は飛鳥のことだ。従来、この大道は松原、羽曳野、太子町から奈良県葛城市へ、二上山の南の竹内峠を越える竹内(たけのうち)街道だと考えられていた。

 コメント:
 交易荷物の既設経路を官道整備したと見える。「竹内街道」が「難波」から「松原、羽曳野」を通ったとは初耳で、正しくは、堺港から富田林、太子町を経て竹内峠越えの東西道と見える。
 全ての荷が、難波から飛鳥に向けて送りつけられたと決め込んでいるようだが、当時、そのような遠距離輸送が成立していた証拠はあるのだろうか。確かに、柏原に荷さばき場があって、河内湾からここまでに船で遡行した上で、一旦荷下ろししたと見えるが、それは、随分後世のことのように見えるのである。
 ここから、山向こうの飛鳥に行くのに、石川筋を遡って太子町から竹内街道を行くというのは、素人目に分の悪い経路であるが、それは、時代相応の堅実な見方ではないように見える。
 仮に藤井寺、富田林あたりに、大口の買い手、古代豪族がいれば、海港からそこまで荷が届くのであり、その買い手が、山向こうの飛鳥に荷を売りつければ、経路は竹内峠越えである。まさか、柏原まで下りて「竜田道」を行くはずはないのである。

 河内平野が、大和川と石川の合流した暴れ川の扇状地で、荷船の往来などできなかった時代が、先だって、随分長く続いたはずである。その時代は、堺に入港して、羽曳が丘の丘陵地帯に荷送りしていた時代があったのではないか。素人考えで申し訳ないが、地形図を眺めていると、東西に通じる、手短で、さほどの難路でない経路があったのではないかと見えるのである。
 事ほどさように、河路の比較対照は、時代背景を見極める必要があるのではないか。
 ついでに言うと、柏原市立歴史資料館の展示資料として、美麗な地図が引用されているが、だれが推古代の地形を正確に再現したのだろうか。素人目には、奈良盆地にも、河内平野にも、多数の「ため池」が存在しているように見えるが、それぞれの「ため池」の造営年代が、推古代以前とする証拠はあるのだろうか。

 安村さんは約10年前から「竜田道」説を唱えている。その最大の理由は高低差だ。「竜田道は高い所で標高78メートル。それに対して竹内峠は約290メートルもあります。」

 コメント:
 険しい上りの直登は、「禽鹿径」(けもの路)であり、荷道は、つづら折れが常識である。
 先読みした次回記事で道幅狭隘「隘路」とされた「竜田道」界隈は、世評によると、地盤不安定で崖崩れの不安があり、街道の通行安全が保証できないと見える。学問上の「説」をぶち上げるからには、そうした否定的な要素も考慮し、克服した上で持ち出すものではないのだろうか。
 千五百年前の交通事情考証だから、本来、先人達が諸論を出し尽くしているはずであり、古代史学界は、今さらの「新説」と独り合点してがむしゃらに言い立てて、反論無しに時間が経てば、立場が強くなる、「言ったもん勝ち」と言うことであれば、ここに示された安村氏見解の評価には、大いに疑問が投げかけられる。
 それにしても、次回記事の裴世清の使節一行百人(と推定される)は、未整備「竜田道」を、どのようにして越えたのだろうか。このあたりのダメ出しを経ていないというのは、心細いものがある。毎日新聞社は、提案者の言いなりに記事を書き出すしかしないのだろうか。
 もちろん、ここまで、どんな手段で移動したのかというのも、大変な課題である。何しろ、太古以来、九州北部から河内まで大変な難所続きで、とても、隋船は、通行できなかったと、確信されるのであるが、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

*竹内峠の評価
 竹内峠を越えたことがある。明治時代にだいぶ削って通りやすくしたが、それでもかなりの急坂だった。

 コメント:
 一方的な當麻側体験談だが、地域住民は誰でも知っていることで、近年まで、つづら折れの旧道が通じていたのを、伏せているのは、なぜだろうか。
 また、全国紙紙面で堂々と「越えた」と言うからには、当人は峠の西側まで進んで、以下、楽々下山したはずなのだが、その辺りについては、何のご意見も見せていない。太子町の側は、高低差が少ないだらだら坂で、論証の邪魔になるから、隠したのだろうか。
 この辺り、別に、荒海や瀬戸を漕ぎ渡る話ではないので、一度歩けば、誰にでもわかることであり、隠し立てしても仕方ないと思うのである。困ったものである。

 コメント:
 峠道の難関の評価指標は、登り口と頂上の「高低差」と経路の傾斜であり、氏が最初に述べたように、取り付きからの高低差が大事で、標高(海抜)差に、大した意味は無い。急坂であっても、つづら折れを繰りして、緩傾斜の長丁場にしてしまえば、「貴人が輿から転げ落ちる」など、全く問題外とわかるのである。
 このように、坂道の評価は、高低差すら大問題ではなく、つづら折りまで含めた経路傾斜が、ほぼ全てであり、「難しい」と人手と時間の泣き言は「貴人」厳命に背く理由にならない。要するに、「街道」なら、必要な通行の便が整っていたのである。

 現実の竹内街道も、河内の太子町側はダラ下がりで、上り下りに問題はないと見える。良くある「片峠」であるが、記者は河内側に足を踏み入れずに駄弁を弄したと見える。いや、この部分は、主として安村氏の発言の引用なので、記者の書き方を真に受けると、安村氏の不明によるものかとも思われるのである。
 
 コメント:
 ついでに言うと、太古以来、洋の東西を問わず、誰でも、荷を背負って峠に登り、そこで、山向こうの相手と背負い荷を交換して下山すれば「交易」できるのであり、半日ほどで往き来できれば、別に難所でもないのである。言うまでもないが、そのような往き来は、毎日のことでないので、近隣の健脚が交替で取り組んでも良いのである。

*何でも「太子」頼み
 さらに安村さんは「官道として整備したのは、聖徳太子で間違いないでしょう」と言い切る。「なぜなら、このころ太子は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)にいて、四天王寺などと行き来してます」。斑鳩宮は竜田道沿いにあり、竜田道から北西に延びる渋川道(渋河道)が造営中の四天王寺まで通じており、その途中には先に見た渋川廃寺や、船橋遺跡(柏原市~藤井寺市)から見付かった船橋廃寺など、いくつもの寺がある。仏教に深く帰依していた聖徳太子が関わったのでは、というのだ。

 コメント:
 取り敢えずは、別の目的で往き来する二つの経路があって時代が違ったのではないか。他に、北の方に「暗峠」の難関を越える経路が利用されていたと思うのである。さらに、北に行くと、なら山越えの「木津道」が常用されていたと見えるのである。それぞれ、太古に始まり、後世まで重用されていたはずである。
 いや、別に『「竜田道」がなかった』と言っているものではない。時代相応の世界観を大事にして欲しいと言うだけである。

 いや、さすがの聖徳太子も、「廃寺」を造営するはずは無いと思うのだが、引用外となっているので、記者の錯誤となるが、まことに、その辺り無頓着である。
 それにしても、「聖徳太子」は、これほど多数の仏寺造営を指示したことになっているのだが、どうやって、必要な知識を得たのだろうか。そして、どこから資金を得たのだろうか。当然、斑鳩を離れて、現場に住み込んで逐一指示しないと、仏寺造営の新技術、大事業などできないはずなのだが、どこでそのような知識を得たのだろうか。大変な才人と見える。と言うような問いかけは、素人には、当然の疑問ではないか。
 先立つ時代、物部氏は河内にあって、外来技術をものしていたようだが、史書によれば、排仏論者であったので、仏寺の造営などしなかったはずである。このあたりの事情には、通じていないので、憶測ばかりであるが、もう少し、初学者向けに説明して欲しいものである。
 それにしても、国家として、仏教の全国布教を通じて、隋唐に迫る法治国家を形成するという豊富だったはずなのだが、これらいくつもの「廃寺」が骸を曝したのはどうしてだろう。国家が、自領を与えなかったのだろうか。あるいは、豪族が帰依せず、経済封鎖したのだろうか。もっとも、これは、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

◯結論
 以上の問いかけなしの一方的、安直な割り切りは、いかにも勿体ないのではないか。

                                以上

« 私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充 | トップページ | 新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂 »

新・私の本棚」カテゴリの記事

隋書俀国伝談義」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充 | トップページ | 新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリー

無料ブログはココログ