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2022年6月21日 (火)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  4/11 改訂版

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作   2017/12/15 追記公開 2020/07/09

*読み飛ばしの弁
 途中の膨大な論述は、ここまでの「味見」からして、大勢として信頼できないものと見られるし、一々批判しては、諸兄姉の読書の楽しみを盗むので、路なき地帯は端折って末尾に飛びます。

◯掉尾の観察
 ここからは、原文と当方の意見を並記するので、どこがどうだめと見られたか見て取って頂ければ幸いです。

 言うまでもないでしょうが、以下のダメ出しの視点に権威がある訳でないし、商用出版物を排斥する論議でもないので、軽いものと考えていただければ幸いです。要は、当方のひけらかしのダシにしているのです。

八•九「邪馬臺国論争」――もう神学論争はやめよう
 小見出しが、意味不明です。「神学論争」の比喩の典拠が何であって、どうして、真剣な史学「論争」が、そこまで揶揄されるのか解き明かされないのです。これは、文章作法のイロハを知らない、ド素人の書き方です。乱文は、文章を書いて金を獲るものの業ではないのです。

「邪馬臺国はどこか?」。『日本書紀』には、卑弥呼を神功皇后に比定する記述が存在します。『日本書紀』の神功皇后摂政三九年の条に「是年、魏志にいわく、明帝の景初二年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむ……」とあります。

 衆知の書紀記事を「誤引用」するのはどういう意味か、理解困難です。信じられないという言葉通りです。書紀の記事は、「明帝景初三年」と書いていて、それは、中国史書の原則を外れているので、原史料「倭人伝」の正確な引用ではない。と言うのが、学術的な判定なのです。著者は、それを知らないとしても、書紀を確認すれば、容易にわかることです。

 私見ですが、倭国遣使の帯方郡参上が、景初二年六月では、畿内説の根底が崩れるので、この不確かな後世資料を根拠に、倭人伝原記事は景初三年であった証拠と言い立てているのです。
 いわば命がけの必争論点で誤引用とは、著者の権威も何もかも喪失です。

*盗まれた批判
 引き続く書紀記事の背景として、景初三年元旦に、皇帝曹叡が夭逝して明帝と諡され、少帝曹芳(斉王)が当日直ちに即位し、但し、改元はその翌年年頭であり、景初四年となるはずだった年が、新帝の正始元年となったのです。そのため、景初三年は、皇帝の冠の付けられないただの「景初三年」と表記されるのです。

 よって、「明帝景初三年」は、先帝に対しても新帝に対しても、不敬極まりないので、(中国)史官は、絶対書かないし、従って、陳寿も、三国志魏書に、絶対に書かないのです。従って、魏志引用で「明帝景初三年」とは、空耳ならぬ錯視です。
 つまり、書紀が「魏志云」と書いても、「明帝景初三年」記事は、疑問の余地なく魏志の正当な引用でなくて今日風フェイク記事であり、史料としての書紀不信の否定しがたい根拠です。
 それが、氏によって、「明帝景初二年」と改訂/改竄されていては、ダメ出しができず、不満たらたらなのです。

                               未完

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