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2022年7月

2022年7月30日 (土)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、決して、個人攻撃でないと了解いただきたい。氏ほどの見識の方が、中国史書の書法に行き届いていないために、見過ごしによる誤解と見える発言が散見されるので、誠実、率直に指摘しているものです。
 当連載記事は、当初掲示以来、五年以上たった今、少ないとは言え、閲覧件数が維持されているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。以後、時に応じて、補充しています。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、古田氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、その視点から言うと、日本書紀は、「史料批判、つまり、資料としての検証を要する外部文献」です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の魏晋代以前の文書の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。
 つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。
 これは氏の独断でなく、国内史学界で常用されているのでしょうが、小生は、一介の素人であって、遠慮なく正論を唱えることができるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来、三世紀、さらには、七世紀に向かって、変遷を重ねています。言う迄も無いのですが、この期間、中国に「世紀」の概念は無いので、本来、世紀で論じるのは無意味なのですが、便宜症、つまり、他に、適当な紀年法がないので、大勢に従うことにします。

 漢字の考証という事で言うと、「都」は、本来、つまり、殷周代の用法では、「すべて」、「つどう」の意味で、当然、以降の秦漢魏晋代にも、その意味は脈々と受け継がれています。
 後世、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所/居処を示す意味で使われたのです。
 つまり、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して「都」の意味が異なるので、当然、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の隋書「俀国伝」で「都於邪靡堆」と風聞に基づいて書いた趣旨は、時代、状況不明で、理解困難な事例の最たるものです。

*笵曄「後漢書」評判記の試み
 いつ、誰が書いた文献の引用なのか、知るすべがないのです。衆知の如く、笵曄「後漢書」は「邪馬臺国」であり、魏志「倭人伝」は「邪馬壹国」なので、「邪靡堆」は、無根拠の誤記と見えます。南北朝の時代を、荒廃した中原地域を支配した北朝は、手に入る中国古典資料をもとに、秦漢以来の国政を復元しようとしたはずですが、後漢、魏、西晋まで辛うじて維持されていた、歴代政権の公文書は喪われていて、西晋の公式文書であった魏志は、比較的高度な写本を獲得したようですが、南朝劉宋時、逆臣として斬首の目に遭った笵曄の遺著は、どのようにして、北朝の蔵書となったか不明です。後漢代の正史は、西晋代に到っても確立していなくて、劉宋の高官であった笵曄は、先行する「後漢書」候補を参照した上で、文章家としての贅を尽くした「後漢書」を編纂したと見えますが、あくまで、先行史書と併存する「一史書」との評価にとどまっていたと見えます。
 唐の統一政権下、旧南朝政権の蔵書を徴用して、中原政権に相応しい正史編纂の偉業を成し遂げた関係者の労苦は、大いに讃えるべきですが、記事内容に関しては、慎重な「査定」が必要と言わざるを得ません。
 と言うことで、隋唐史官の手にあった南朝編纂史書「後漢書」の素性は、大変不確かと言わざるを得ません。

 我々、遙か後世の東夷の無教養、無学な輩は、何としても、安直な受け売りを避けねばならないのです。

*日本語に残る古代語~倭人伝考
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、渡来以来、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。まずは、諸兄姉の脳内辞書を点検して、中国史書の解釈に取り組む必要があるのです。

 つまり、「都於邪靡堆」の「都」の解釈は、いずれの時代のいずれの史料を承継しているのか、精査が必要です。因みに、倭人伝の「都水行十日、陸行一月」は、未踏の倭に至る行程、道里を縷々述べた後での総括であり、ここで求められるのは、郡を発して以来の総所要期間と見るのが「普通」と見えます。つまり、「都合水行十日、陸行一月」であり、部分日程の総計日数であることを示していると見ると、自然に解釈できるのです。

*牛馬のいない倭地の事情
 「倭人伝」の編纂にあたっては、新参の東夷「倭人」に至る文書送達日数が必須事項であり、倭人の地には、中原地域と異なり、街道がない、つまり、文書使が騎馬で疾駆し、宿場ごとに馬を替えて乗り継ぐ「インフラストラクチャー」(道路、水道、宿場制度など、古代社会の基礎構造)が存在しないため、国間道里を書いても到達日数が保証されないという背景から、倭人は、「行程道里を言うとき所要日数で言う」という定見を明記したと見えるのです。

 このあたり、世上、俗耳に馴染んでいる考証の大半が、そっぽを向いて空転し、世間に混沌を広げているのではないかと、懸念しています。
 もちろん、国内史学界用語が、中国史料が書かれている語彙を、しばしば逸脱して、時代錯誤の「造語」に走っているのは、時に、中国古代史家から指摘があるのですが、これだけ蔓延していると、「つけるクスリがない」という例に、散見どころでない頻度で、おめにかかるのです。

*無理な造語
 このように、丁寧に考察を深めていくと、氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効と見え、露呈した疑問点を克服すべく、考え直して頂く方が良いでしょう。

 「七世紀の倭都は筑紫ではなかった」と、今ひとつの「なかった」提言ですが、このたびは、大きな空振りと見えます。
 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

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*竹斯俀国説~竹斯放射行程説
 まず、隋使は、最終目的地として竹斯國に安着、滞在したと見えるのです。竹斯国は、倭人伝の伊都国に相当する政治、経済の中心地と見受けます。

 つまり、俀国王治(王の居所、ないしは居城)は、竹斯国そのものか、近傍と示唆/明示されています。倭人伝では、伊都国を扇の要とした「伊都中心」の放射字葉の行程解釈が最有力で、それに追随していると見えます。隋書編纂にあたっては、最有力の先行史料として、魏志倭人伝を精読したはずであり、
 俀国伝に言う「達於海岸」とは、街道行程で陸地を進んで海岸に至り、竹斯国の所在する海島の東端を確認したと言うだけであり、言わば、海を眺めたという程度でしょう。
 丁寧に言うと、そこから船出したとは書いていないのです。倭人伝で言うと、狗邪韓国の海岸に達した後、渡海して對海国に至ったと明記されていてるのです。隋書は、当然、倭人伝を熟読して書かれているわけですから、渡海に類する記事がないということは、隋使は、海岸から引き返しているのです。あるいは、東に行くと海岸に出るとの風聞を書き記しているだけかも知れません。

 因みに、倭人伝の文書としての深意が、郡から倭に向かう端的な行程に、余傍の国に関する追記が付されているとみれば、『「放射行程説」は、諸国を対等に取り上げている』と倭人伝の文意を取り違いしているとみられるのです。
 このあたり、先行史書、特に、魏志倭人伝を丁寧に解釈した上で、隋書の取り組むべきであり、間違っても、国内史書の視点で道を誤らない注意が必要です。
 この点は、国内史料に造詣が深ければ深いほど、早合点しやすいので、ご自戒いただきたいものです。
 と言うことで、中国史書の視点から、かなり深く読み解かないと、国内史学界に「普通」の文法解釈、先例踏襲に囚われて、深意を見失うことが多いようです。

 元に戻って、俀国伝の行程の意味を、もう一度、今度はゆっくり考えると、隋使滞在地の東に秦王国があって、さらに東に進めば、十余国を経て海岸に着く(達於海岸)とみられるのです。「海岸」とは、字義からして、海に臨む岸壁であり、当然、砂浜や渚などではなく、また、そこに船着き場があるかどうか述べていないのです。
 船着き場があれば、「津」と明記されるものであり、隋書編者は、正史記事に身命を賭しているので、行程の経過点である「津」を、暢気に「海岸」などと書くことはないのです。そう言えば、重要な行程道里抜きに、「津」に着いたと書くことはないのです。

 そして、「海岸」の向こうは、岩壁か浜か渚を歴て、多くの船が往き来する海だから、そこには、最早「国」はないのです。そうした、東方の諸国十余国(十余国に秦王国を一国足しても同じく十余国)が、皆、竹斯國に附庸しているというのは、倭人伝に順当に追記していることになり「明快」です。

*隋使竹斯滞在説の掘り下げ
 つまり、隋使は、到着以来竹斯国に滞在したのであって、一路東に旅したわけではないと見られるのです。
 仮に、遠路東に向かったのであれば、「循海岸水行」、海岸の港から沖に出たと書くでしょう。あるいは、「浮海」、海をゆるゆる漂ったと書くものでしょう。中原人にとって、陸路を行かない移動は想定外なので、もし、未知の国で、そのような前例のない移動をせざるを得ないとしたら、克明に書き遺すものでしょう。そうでなければ、東夷の国城を探査するべく派遣された隋使の役目を果たしていないことになるのです。

 復習すると、隋書俀国伝は、正史の東夷伝として、三世紀に書かれた倭人伝に依拠しているからこそ、後世正史としては、重複した記事を書く必要はなく、かくも簡略な記事で済むのです。

 言い換えると、倭人伝にも中原官制にもない、異例極まりない命がけの東方船舶航行が数十日に亘り続いたなら、省略が許されなかったでしょうし、初めてその境地を書いたという誇りが文面に表れたでしょう。

 以上は、ただ史料の字面を追うだけで済まない、かなり高度な文章読解になりますが、落ち着いて考えれば、以上のような堅実な読みに至るはずです。要は、史料に書かれていない、明示も示唆もされていないことは、史料には書かれていないのです。

 かくして、しばらく「客館」に滞在いただいた上で、迎えを送って隋使を歓待したものでしょう。全て、竹斯国とその周辺の出来事と見ると、記事が簡潔なことに符合します。

                               未完

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*客館掌客の深意
 因みに、中国古代語法で、「客館」は、「客」と美称を得ているものの、文意としては「蛮人のねぐら」です。
 北朝が天下を取り、北狄鮮卑の血を引く皇帝が、隋唐の帝位に就いて「中世」が開幕したから、蛮夷を「客」と呼ぶ官制は変わりそうなものですが、煬帝は、鴻廬寺の「典客」を「典蕃」に改称したように、むしろ「天子」の意識が強く、裴世清も東夷を見おろす意識を堅持していたでしょう。
 と言う事で、書紀に書かれた、あっけらかんとした「掌客」任命には、曰わく言いがたい不審を感じるのです。高官から下っ端まで同格、一律の「掌客」とは、何をお手本にした創作なのか、不可解です。要するに、書紀編者には、当時、中国に長く確立されていた組織的な国家体制の認識はなく、つまり、国家には、蕃夷を接待する鴻臚が存在し、そこには、最上位から下位に至る格付けがあったと見る見識がなかったのです。

*明快な一解の提示
 以上に例示した「読み」は、言うならば、誠に端的明快ですが、氏の奉じる古代「浪漫」に整合しないので、同意はいただけないでしょう。それはそれとして、倭人伝解釈に連動した史料解釈として、意義あるものと考えます。
 以下、氏の紹介に従い隋使来訪事件の顛末を読み進めますが、真剣な提言に真剣な批判を加えるのは最高の讃辞と思い、しつこく批判する次第です。

*国内史料依存の隋書解釈
 引き続き、氏が滔々と提示する、隋書の倭国(四庫全書版隋書に従ったと言うものの、実は、日本書紀に大部分を依拠)記事に関する考察を通じて、先に提示した当ブログ提示の解釈と異なる点を指摘したいところです。

 「つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは魏志倭人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも明快な行路記事である。」

 「凡庸な論客は、自信のないときは、ことさら断言する、自信の全くないときは、断然断言する」という経験則に従うと、氏は、この部分に大分疑いを抱いているようです。そのせいか、筆の滑りも不都合になっています。
 対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き」とは、まるで、現実感のない、夢路のようです。対馬、壱岐から筑紫に至る行程は、とても、「東行」と言えるものではありません。筑紫は、壱岐のような海島ではないので、一旦上陸して、固い寝床に安着する必要があります。又、筑紫から俀王に安着の報せを送り、歓迎の返信を待つ必要があります。俀国側も、受入体制を整える必要があるのです。
 とても、秦王国を歴て、そのまま東行とは行かないのです。隋使の乗船を秦王国の東に回付するとしたら、関門海峡の難所を突っ切り、どことも知れぬ「東の海岸」で待ち合わせる必要があります。俀国の便船が、東の海岸に待機していたとすれば、其のような大層な連絡は軽減されますが、それでも、筑紫から指示して、海港で隋使の受入をしなければなりません。以降、「瀬戸内海を東行」で片付けていますが、これだけの長い行程ですから、筑紫から指示して、港港に隋使乗船の寄港体制を作り、復唱を受けて、遙か「大阪」湾岸にまで移動可能と見通した上でないと、「東行」などできないのです。「掌客」を新任して済むものではないのです。まして、そのような大規模な移動は、過去にないのです。

 素人でも見当がつく大事業ですが、隋使一行は、魔法の絨毯か、孫悟空の觔斗雲にでも乗ったように、「秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸」 に着いています。「素直」は、国内史学者の世界観が中国史官に通じているという素朴な思い込みに流されたのではないかと懸念されます。

 因みに、朝鮮半島西岸、南岸の旅路は、倭人伝で既知の行程であれば、いきなり、対馬に着いたと書けば良いのであり、殊更、要所での停泊を書くのは、倭人伝に当該行程が書かれていなかった、つまり、実は、公式道里は、帯方郡を発して一路内陸街道を移動したと見えるのです。
 また、対馬、壱岐について特に書いていないのは、倭人伝に既に書かれているからであり、竹斯国も書くに及ばないものと見えるのです。
 
*待てば海路の日和
 冗談口を叩かれるのを望んだわけでもないのでしょうが、難所続きで、とても安楽に通過できたとは思えない「瀬戸内海」を一気に過ぎているのです。古人曰く「白河夜船」でしょうか。先に触れたように、瀬戸内海を船で通るには、「既に、各地に寄港地が整備され、難所には、場合によっては迂回路を提供して、一貫した帆船航行ができた」と仮定しても、寄港地ごとの潮待ち、風待ちで、まあ、悲惨な船酔いは緩和されたでしょうが、「海路の日和」を待ち続けて、どう思ったのでしょうか。
 とても、眠り続けては居られなかったでしょう。何しろ、ゴロゴロ船室は回り続けるし、いつ難破して海のモズク、いや、もくずになるか、怖くなかったのでしょうか。

*見えない墳丘墓の景観
 「大阪湾岸」と言っても、当時、其のような時代錯誤の地理概念は存在せず、いつ、河内平野北部が乾いて、平地に隋使を迎えられる宿舎や馬車で移動できる街道が整備されたのか、それとも、湿地帯を避けて南の古墳地帯の羽曳が丘の丘陵部から、二上山の鞍部、竹内峠(「峠」は中国語にない「国字」です)を越えたのか。これも不明です。泥濘地から勃興した河内平野の繁栄を論じるには、緻密な時代考証が必要です。

 「河内湾の船上から見えるように殊更に基礎を持ち上げた」という古墳群の勇姿/絶景が、隋書に書かれていないのは、これもまた不思議です。隋使なる悪質な蛮人に見られないように覆い隠したのでしょうか。とても、素直になれないのです。

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*接待、慰労、そして検疫
 好意的に見るならば、隋使に限らず、大陸や朝鮮半島からの来訪者は、長期の航海で、船酔いしなくても、死ぬほど疲労していたと思われます。当然、九州島に到着したら、なによりも上陸して、くつろいだと思うのです。
 また、ここまで隋使をもたらした外洋船も、食料や水の補給は当然として、長期の係留には、川港の汽水層に占めて、船腹を保護しなくてはなりません。
 受け入れる倭も、素通りさせられないはずです。海の向こうからの来訪者は、悪疫を運ぶことが想定され、接待慰労とともに検疫隔離したはずです。

*越せない難所連発
 念を押すと、筑紫を出た隋使の船が、遠路遙か、未知なる大阪湾まで航行するのであれば、いかに大型で頑丈であろうと、多島海の航路と寄港地を熟知した水先案内人の乗船が不可欠です。いや、格段の大型の船舶であれば、地元の漁船が抜けられる難関に、船腹か船底がつかえて、難船するでしょうから、とても、無事で通過できないことでしょう。
 と言うことで、いくら現地海況に通じた案内人がいても、別に、外洋航行の大型の船の舵取りを経験はないので、どのような大技で、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡とある極めつきの難所を、無事通り抜けられたのか、そして、何の報告もないのは不可解です。
 隋煬帝が、不遜な蛮夷を討伐するために、大兵を乗せた海船を送ったとしても、難所突破の策がなければ、討伐どころか難船してしまうのです。
 ここで疑問を投げかけると、国内史料には、各地の要所の寄港地に水先案内を備え、乗り継いで瀬戸内海を一貫して船で往き来できる体制が、いつ整ったのか、史料をお持ちなのでしょうか。
 また、後世、整然たる街道が整ったとして、隋使来訪の時点で、街道往来のできない事情は何かあったのでしょうか。当時の中原人にとって、海船での長期の移動は、難破による水死の恐怖と転げ回る船室と船酔いの苦痛の渦であり、数十人の一稿と見て、一人、二人では済まない死者が出そうなものですが、なぜ、陸上移動しなかったのか、素人考えでは不可解です。
 もちろん、当時は、三世紀の倭人伝時代以来数世紀を経ても、乗馬移動も馬車移動もできなかったという事なのでしょうが、それでは、「奈良盆地」ないしは「河内湾岸」の国王は、北九州竹斯国の支配を、どのようにして維持していたのか。そぞろ疑問です。
 辻褄の合わないことを、素直に説かれると、不信感が増すだけです。

 遠路、超大国の使節が来たのに九州北部から大阪湾までの、隋使にとって未知の、しかも、長期長距離の行程を、自力で来いとはおかしな話です。書紀に従い、隋使に小野妹子一行が随行していたとしても、多数の出迎え必須でしょう。
 筑紫から大阪湾岸に連絡があって、一方では接待の体制を作りつつ、一方では出迎えの一同を送り出したのでしょうか。日帰り範囲に来たのに対して船団で出迎えているようですが、それまで放置していたのでしょうか。

*筑紫鴻廬館談義(?)
 筑紫に後年の「鴻臚館」相当の施設があったかどうかは不明ですが、順当に考えれば、どこか、適切な宿舎で待機している隋使到着の知らせを「大阪湾岸」まで伝えて、出迎えの高官を派遣するものではないでしょうか。

 「鴻臚館」は、蛮人の滞在先という意味であり、鴻臚「掌客」は野蛮人の接待役という役所(やくどころ)の最下級の役人なので、隋使が聞いたら、蕃夷扱いの上に、ぞろぞろと下っ端しか出てこないのかと憤激することでしょうが、書紀の関連記事では、そのような「賓客」の意義は全く意識されていないのです。

 そもそも、蛮人の「もてなし」と言いつつ、礼儀を躾けていた「鴻臚寺」の役所を誤解しているので、かくのごとく間違いだらけになったのでしょう。恐らく、鴻臚の組織、分掌など知らなかったのでしょう。何しろ、隋が、大使節団を送り込んでくるのだから、隋使は高官と決め込んだのでしょうか。中国の国家制度は、厖大な官職組織ですから、遣隋使の見聞では、接待役の鴻廬掌客は見知っていても、別組織の「文林郎」など聞いたこともなかったのでしょう。

 待機期間は、「大和」に至る遠距離との連絡往復であれば、文書交信の期間も含めて数ヵ月に及ぶ可能性があります。随分長期間の待機滞在だったはずなのに、何も書いていないから何もわからないのです。だからといって明解と言うことではないのです。謎を呼ぶのです。

 それにしても、書紀が正確な記録としたら、隋書は、なぜ、肝心な事項を、不正確にしたり、書き漏らししたりにしたのでしょうか。

 隋使の報告は、厳格に監査され、隋使の評価が下されたでしょうから、裴世清が処罰されたと書かれていない以上、其の報告は、妥当なものとして受忍されたとみるべきです。何しろ、後年の唐使高表仁は、刺史という高位にありながら、倭の王子と口論して、使命を達成できなかったと酷評されているので、裴世清には、其のような不始末はなかったと見るのです。

                               未完

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*謁見の場
 さて、書紀を援用する氏の解釈に従うと、隋使は、恐らく半年近くたって、遠路遙か「大阪湾岸」に上陸して、宿舎で接待され、更に日を経て大和に招かれ、倭王と会見したらしいのです。

*知られざる交流史~放念された伝統
 隋書にある俀王の言葉は、「中国に大隋のあることは知っていたが、これまで、(山中に)引きこもっていたので、使いを出せなかった。先年、使節を送ったのは、大隋の恩恵に浴したいためであった」とありますが、大いに不審です。
 そもそも、隋以前、歴代王朝への長年の遣使があったのです。隋書に書かれている遣使の歴史は、俀王が、歴代蕃王の伝統の継承者であると宣言しているものであり、隋朝文林郎たる裴世清には、すべて既知であったはずです。

 長安ないしは洛陽の鴻廬には、秦漢代以来の「鴻臚」の貯えた、れっきとした公文書が保管されていたのです。もちろん、「皇帝御覧」の神聖不可侵の文書記録ですから、改竄、差替は不可能の極みです。また、各文書上申部門には、全て控えがあり、皇帝に上申した内容は、部門公文書に所蔵されています。中国史料は、そのように、改竄、変造に対して、絶大な抵抗力を持っているのです。いや、これは、度々触れるように、西晋が、匈奴などの侵略で国を喪った際に、継承が断たれたのですが、その際、侵入者は、公文書撲滅の意識は無かったので、全滅まではしなかったと見えます。

 ここで確認すると、隋使来訪は、二回目の遣隋使派遣に対する応答です。
 初回遣使で、使人は、国書での提示ともに、鴻臚の審問に応えて口頭で国情、風俗を述べています。なかには、俀王の政事について述べた下りがあって、皇帝隋文帝は、これを「道理」に反するものとして叱責し、改めるように厳命しています。
 何しろ、俀国使人は、自国が勝手に制定している官制など、「礼」に外れた蕃制を得々と語っているのです。これも、南朝と称した「賊」の認めた無礼なのかと、怒りを覚えたはずです。
 皇帝の叱責を受けた使人は、当然、帰国次第、俀王に皇帝の指示を伝え、改めさせると約束したものと思われます。

 ところが、八年後の遣使の献じた国書には、大隋の仏教興隆に感銘を受け、仏僧を留学させたいと述べていますが、俀王の政事をどのように改めたか明言がないように見えます。煬帝は、先帝の指示に対する応答がないのは、無礼と感じたものと思われます。

*海西の由来
 また、しきりに、隋帝を、「海西」の君主と称しています。当時の常識としては、西域の萬二千里の蕃国安息国の更に西、大海の向こう岸にある海西、幽冥の地に擬しているものと思われますが、東夷の蕃王天子と西戎(蕃王)天子と対等の位置付けに擬されて、無礼この上なしと怒気を発したものと思われます。そもそも、中国では、天子は、唯一不可侵であるので、このような無礼は、死に値する罪科です。
 周が殷(商)を打倒したのは、天下に天命を受けた天子は唯一で、天命を喪った天子は直ちに撲滅しなければならない、としたものであり、東夷の天子は、西戎の天子を滅ぼすと挑戦したものとも解されるのです。
 
 東夷の自称天子は、定説では、全て承知の上で、西戎天子と対等との姿勢を示したことになっていますが、世上、「夜郎自大」と言われたり、蟻が大山と背比べするようなものといわれたり、「井蛙」、つまり、井の中の蛙と言われたり、無知な蛮人の暴言は、正史に晒し者になっているのです。

 以上のような背景を見ると、隋使にして見れば、皇帝が使人に与えた指示が、代々の蕃王に継承されず、無礼の罪すら謝罪しないとしたら、互いに取り決めすることは無意味になるのです。
 礼を知らないという煬帝の非難の中には、拝謁の際の勅諚、つまり、厳命された取り決めが維持されないのは無礼である、と言う主旨も含まれていたのではないでしょうか。蛮人は物の道理を知らないから、無知による無礼の失言は直ちに咎めるべきではないという天子の寛容性は、限度に達したと見るものでしょうか。

 「礼」の中には、約束を守るという大原則が含まれているように思います。もちろん、国内史料には、そのような究極の「無礼」の自覚も反省もないのです。

*倭国紀年
 ここで、氏は、日本書紀記事の信頼性の裏付けとして、隋書と書紀の紀年の整合を言い立てます。
・部分引用(…は中略記号)
 「しかも…「明年」とは、直前(中略)に大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、…中国の使者裴世清…が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。」

 後年の書紀編纂時に、編纂部門全体としては、史記、漢書、三國志から隋書に至る正史や晋起居註などの中国史料を参照できたのは、明らかですから、書紀の史料批判に際しては、隋書記事に合うように、書紀の紀年を操作したのではないかという素朴、自然、順当、普通の議論(異論)克服の「試錬」が必要でしょう。
 「何の矛盾もないように見える」などと温厚な断定表現ですが、単なる見てくれで安心してはならないのです。

 素人考えですが、隋初まで中国と交流が無かった「ヤマト」が神功皇后紀に魏志記事を挿入したように、大変「巧妙に」紀年を中国暦と整合させたと見て取れます。素人が感じる疑念を解消していただかなくては困るのです。
 このように、(中国)史官の史書編纂は、「述べて作らず」が厳命されているので、「書紀」の度を過ごした創作志向には、(中国)「正史」に寄せる信頼と同等の信頼は置けないのです。

未完

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 6/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*書紀史料批判~初回遣使記事の欠落
 俀国伝には「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とあり、「俀国」遣隋使は、魏代以来、隋が逆賊とみた齊、梁へ遣使の歴史を裏付けたことは明らかです。隋は、南朝最後の陳を滅ぼした際、公文書を徴用したが、倭国の遣使については、肯定も否定もしなかったと見えます。

 大業四年(608CE)の隋使来訪に先立ち、隋文帝の開皇二十年(600CE)に遣使して、独自の官位制など、国政概要を滔々と申告していますが、書紀には、この際の交流は何も書かれず、大業遣隋(唐)使が、初お目見えと書かれています。書紀編者は、俀国伝との食い違いに気づかなかったのでしょうか。気づいていれば、辻褄合わせは「さほど」困難でなかったと見えるのです。

 何しろ、前例がないから、漢使接待儀礼は未整備で、漢語を話す公式通詞もいないはずですから、ちょっとした見物(みもの)だったはずです。そして、文明国家は、克明な記録が必要と厳格に訓練されたはずです。
 遠隔地に報告するとしても、日々、早馬で急報したはずです。いや、船便しか無いのであれば、急使は、甲板を馬で駆けた事になります(冗談御免)。
 このように、書紀は、隋との交流に関して確認しただけでも、欠落が多く史料として信頼性を損じていることが明らかです。と言う事で、提示された隋使来訪記事は、史実の適確な反映かどうか疑問が生じます。

 この点だけに絞っても、書紀編纂時、紀年を中国史書と整合させる高度な努力を払ったから、隋使来訪の画期的事件の紀年が整合するのは当然です。そして、更なる整合がとれていないのに、疑問を呈しているのです。
 紀年整合は、ほんの初歩であり、ことさら「合致」と言い立てるものではないと思うのです。八世紀創建の「日本」側では原記録不明、継承不確実とあっては、正史史料批判に採用できないのが「普通」の考えでしょう。

*こよみの始まりと遡行
 丁寧に言うと、推古十二年(604CE)、最初の暦が開始されたと伝えられますが、要は中国暦の運用を開始したのであり、それ以前は暦が無いと読み取れるのです。

 暦では、日日、甲子、乙丑、丙寅と六十日周期の干支が充てられますが、暦の無い時代に干支を遡行させるには、月の大小に合わせた日数調整と閏月計算が必要です。隋開皇二十年は四年前ですが、高度な演算が必要です。
 つまり、書紀記事の六世紀までの記事の紀日、紀月、紀年の干支は、編纂関係者の労苦の産物であり、誤算や疎漏があっても責められないのです。
 川村氏ほど、造詣の深い方であれば、素人読者を置き去りにせずに、少なくとも、本件に関する素人の不審感を振り払っていただければ幸いです。

*書紀史料批判~誤記、誤引用放置  追記 2021/09/12
 書紀記事の欠点は諸所に露呈し、改めて指摘するのも失礼なのですが、(中国)正史隋書「俀国伝」と対照すると、次の謬りが歴然としています。
1.国名誤認
 まず、遣使先の国名を誤記しています。
 「大唐」は、遣使時点で存在していなかった後継帝国の尊称であり、書紀の原典史料にそう書かれていたはずはないのです。して見ると、根拠史料は逸失していて、書紀編者の捏造と見ざるを得ません。

 なぜ、「大隋」と書かなかったのでしょうか。なぜ、国名誤認に気づいて訂正しなかったのでしょうか。隋書「俀国伝」は、国名蔑称とみて、忌避していたのでしょうか。まことに不可解ですが、それは別儀です。

                               未完

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私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

2.職分誤認
 隋使裴世清は「文林郎」でしたが、書紀は「鴻臚寺掌客」と誤記しています。
 あえて、論外な書紀記事の不規則発言を許すと、どちらも、官位の下辺で略同格ですが、「文林郎」は文書管理部局の散官で教養を有し、「掌客」は、蕃客接待専任部署の実務担当で、権能が異なります。書紀記事は、官制や「客」の意義に無知な者の憶測と見られます。
 書紀記事をあえて信じると、裴世清は、国書で鴻臚の蕃客接待の下級官人と紹介され、返書では、鴻臚寺掌客の使人派遣に感謝したことになり、極端な事実誤認が浮き彫りになります。まことに不合理です。

 つまり、それら記事は、書紀にとどまるものであり、隋国に対して表明されたものではないのです。言うならば、記事捏造です。

 隋使は、特任外交官、行人、使人です。そうしないで、原職としていると、随行官が服従しませんから、臨時に、高官に擬されていたことになります。蛮人への「大使」は、大抵、臨時の高官なのです。

3.国書捏造
 隋帝は、「無礼、無作法で、服属を認めない」頑冥な蕃夷に、皇帝名の国書を呈するわけはないのです。
 正使は、あくまで「表敬訪問」であり、接見の場では、余人を排した場で、口頭で非礼を叱責し、俀王に改悛を求めた筈です。
 初回の無作法に続く再犯であり、重罪と悟らせる必要があったのです。当然、そのような応酬は、国史に残せません。皇帝に大変な不面目を浴びせるからです。
 これに対し、書紀は、「存在しない国書」の物々しい文言を滔々と述べ、後世に隋帝の国書の継承がないのを言い訳してか、こともあろうに、正使は、裴世清大使と同行した(と誤認した)百済訪問時に、不法にも、百済によって国書を「盗まれた」と詐称しています。俀国正使が、隋使と同行して、百済を訪問したというのは、不合理な推定であり、採用できないものです。
 倭の正使は、少なくとも、警備を含めて、数人では済まない一団であり、それこそ、国書強奪は、血の雨が降る大事件なので、隋使に知られずには済まなかったとみられます。史料を見る限り、俀国正使は、隋使に随行せず、早々に単独帰国したと見る方が妥当です。
 (存在しなかった)国書喪失という国家重大事件は、明らかに無残な捏造で、遣隋使が親族連座の重罪を犯し、流罪に値すると裁定した上で、君主が正使を免罪したなど、無法な事態収拾に苦闘したと見受けます。

 書紀の記録を見る限り、正使は、隋使に国書喪失を知られたら不名誉との理由で寛大に赦免され、後に正使に起用されています。まことに不合理です。
 隋使は、国書を携えて来訪したのであれば、会見の際に俀王に授けるのであり、例えば、正使に渡した国書を仮のものとして、正式国書と入れ替えに回収するなどと言い出せば、応答に窮するのです。

 そもそも、百済は、長年中国政権と交信しているから、このような際に、隋と俀のやりとりを妨害したら、とんでもない懲罰を受けるのは自明であり、また、隋国書を奪っても、実質的に得るものはないことも自明であり、して見ると、国書掠奪などは意味不明な一大事なのです。
 何しろ、書紀の字面では、隋使は、倭使と同道して百済に寄港したことになっていて、言わば、隋使の鼻先で窃盗を行うなど、論外の愚行で、あり得ないことです。

 とは言え、書紀の記録に依れば、正使は流罪に値する罪科を犯したのであり、免罪されても、正使一族は消しようのない汚名を曝しています。

 綜合して評価すると、国書事件は、史実に反する、誤解に基づく捏造であり、書紀記事の信頼性を大いに損ねています。

 案ずるに、隋使来訪、応接の文書記録が一切継承されていないため、正史編纂の際に、何らかの文書をたたき台に、一連の事情を創作したと見えます。その際、隋書「俀国伝」が参照できていたら、隋使の官位取り違いなど、低次元の錯誤は是正できたはずですが、編者の手元には、隋書のそちこちの走り書きの抜き書きだけで、貴重書隋書全文は、到来していたとしても、機密文書として秘蔵されていて、容易に参照できなかったと見えます。

◯まとめ
 日本書紀には、隋使が竹斯で何をしたか、皆目書かれていないのです。隋書で目を引く阿蘇山や有明海らしき紹介記事は、初回遣隋使の提出資料に基づくようですが、だからといって、初見の東方往還記がないのは、まこと不可解です。何のために、煬帝が、巨費を投じて、不遜な蕃王の領分を探索させたか、まことに不可解です。

 「普通に」考えると、朝鮮半島や中国大陸との交信、文物交換には、九州北部に外交権限と武力、経済力を持った高官/長老が常駐していたはずです。「武力」は、外敵侵攻を阻止する兵力と推定できますが、兵力推定できる戸数、口数は提出されていないのです。つまり、使人の往き来はあっても、俀国は、隋に臣従しなかったと見えます。

 竹斯が、「単なる出先」に過ぎなかったとするのなら、急遽、「ヤマト」から、接待にふさわしい高官と実務担当者の一行を、大量の資材、機材と共に派遣したはずです。また、隋使一行(十人程度でなく、百人規模とされる)を歓待するには、恰幅の良い迎賓館の急遽新造が必要だったはずです。それにしても、遠距離支配を想定したとしても、交通どころか文書通信すら覚束ないのに、どのように国家を維持できたか大変疑問です。

*筑紫幕府説/筑紫都督説
 結局、竹斯国のような地方拠点には、十分な兵力を備え、そのために、周辺諸国から税の取り立て、兵士召集の大権と、外敵侵攻に王命を待たずして即座に反撃できる特権が必要であり、要するに、一種「幕府」(中国史用語)を開設したと見ます。
 別の言い方で「総督」に準じる「都督」なる地方官がありますが、「都」はすべての意で「郡太守」が地域の諸事を委任したので強力ではありません。
 以上は、王に諸事を報告するのに数か月を要する遠隔支配体制に必要・不可欠です。一方、竹斯に王城があれば、文書連絡ができなくても、騎馬文書使、伝令がいなくても、徒歩で良いから、伝令で王に速報でき、「幕府」、「都督」は必要ないのです。このあたり、小手先の韜晦ではやり過ごせないのではないでしょうか。

 「単なる出先」でなかったら、渉外活動の克明な文書記録があるはずですが、国内史料は、竹斯での歓迎、渉外について沈黙していると見え、不可解です。記録がなければ、後代の漢使来貢に対応する際に、より所がないという不都合な事態になるのです。いや、竹斯に「鴻臚寺」組織を設けて、国家としての対応を制度化したのなら別ですが、どうなのでしょうか。

 ちなみに、大唐の律令には、四夷の蕃使、典蕃/典客を掌客する組織規定はあっても、皇帝を上回る至高の天子の使節は、もとより対等の「敵国」(匹敵、同格の国)使節を接待する規定などないのです。

                               未完

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*「九州王朝説」の成り行き~難波東都論
 因みに、ご参考までに申し上げると、氏が否定する「九州王朝説」論は、近来、筑紫京都~難波東都論の首都~副都仮説が提言されています。
 なお、タイトルに関して難詰した「都」の時代混乱は、川村氏独自の錯覚ではなく、国内古代史学界に普遍的なのですが、ここに説明無しに掲題している以上、用語の不見識は、氏の責任とみたのです。

 ちなみに、氏の動機は、古田武彦氏なる個人論調への攻撃なので当人がいなくなれば空振りですが、論敵は論旨を後継者に託して続いているのです。

 そう力まなくても、隋書には、俀国は、漢魏晋以来南朝の宋、齊、梁を経て、統一後の隋まで一貫して貢献していたとあり、これに耳を貸せば良いでしょう。

*避けられない時代錯誤
 氏の「浪漫」派史観の弱点は、「時代錯誤」でしょう。特に七世紀初頭の「中国人が中国人である皇帝に上申した古代史書」の実務的記事を、はるか後世、古代中国語の読み書きを知らないで育った「現代人」が、すらすら明快に読めるという決め込みに、何の抵抗も感じないところに疑問があります。

*幻の瀬戸内海一貫帆走
 ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による輸送経路が繋がっていただけで、「ヤマト」は交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、漢倭交流から隔離されていたと見えるのです。そのため、筑紫での貴重な記録が継承できなかったのでしょう。
 言うまでもなく、隋使乗船は、百済人の助言で竹斯まで到達しても、大型の帆船の案内人がない状態で、序の口の関門海峡すら越せなかったでしょう。

*竹斯国東岸海港
 竹斯国から東に向かって海港に出るというものの、東方の芸予諸島、備讃瀬戸の多島海、明石/鳴門海峡の難関は、隋唐の帆船では越せなかったでしょう。いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓したとしても、元来難業なのです。
 隋使は、生還を期せない冒険航海など考えなかったのであり、使節自身はもとより、連座という事で人質になっている家族の生死に関わるので、殊更命を惜しんだのです。
 因みに、当記事筆者は、先の背景から、「倭の五王」の南朝遣使はもとより、後の初期遣唐使船まで、帆船航行に不安のない九州母港とみています。ここは、あくまで、川村氏の所説の批判であるので、自説を押しつけないように言及を避けているのですが、別に、何の定見も持たずに、重箱の隅をつついているのではないのです。諸兄姉には、自明事項と思いますが、道理の通じない読者があれば、万一にも誤解しそうなので、くどくど書いた次第です。

*倭人伝解釈の確認~三世紀古代国家の構想
 ここまで書き進んで、川村氏は、倭人伝解釈に於いて「畿内説」を採用しているように見えてきました。

 私見によれば、「畿内説」は、単に「邪馬台国」比定地の一説ではなく、三世紀時点、九州北部を遠隔支配する古代国家が成立していて、当然、文書行政国家の統制を保つために、街道網が整備され、国の礎が築かれていたという壮大な巨像を築き上げているものであり、倭人伝を根拠史料とするために、随分強引な二次創作で、お手盛りの「倭人伝」を創造しているように見えるのです。僅か二千字程度の史料に少なからぬ誤記、誤字、曲筆を言い立てているのは、お手盛りの「倭人伝」を創造していると評しても、言いすぎではないでしょう。

 ちなみに、そのように早々に古代国家が形成されていたら、当然、東西の二大要地を周旋/往来する街道交通、文書連絡は、さらに遡って確立済みであり、また、必然的に文書行政の国家であったから、それから四世紀を経た七世紀には、当然、楽々と東西連携して隋使の受入ができたというお考えなのでしょうが、ここまで当記事で随時触れたように、そのような古代国家の形成は、万全の論証を具備しない限り、随分尚早と見えるのです。

 考古学の見地でいくと、国内に文書連絡があれば、それぞれの要地に厖大な文書、文書稿が生成、廃棄されねばならず、当時、木簡と帛書に頼っていたとすれば、少なくとも、厖大な木簡文書遺物が出土するはずです。であれば、不確かな推量に頼らずとも、遺物に依拠した考察が展開できるはずですが、そのような成果発表は、ほとんど見かけません。

 いや、後年の遣唐使が美しい紙質の手帳を駆使していたと伝えられているので、何れかの時期に、各地に製紙工房が林立したのでしょうか。何しろ、文書行政は、戸籍を国政の基礎としているので、萬戸の国は萬戸分、十萬戸の国は十萬戸分の戸籍を記帳、保管、集計、例えば十年ごとに全面更新しなければならなかったのです。更新というのは、旧戸籍を廃棄し、新戸籍を書き上げるのであり、旧戸籍は、裏紙用紙として多用途に活用したとしても、いずれは、裏面の余白も尽きるのであり、こよりとして帳票の綴じ紐にしたり、火口(ほくち)として、竈などの焚き付けに供したとしても、あるいは、遙か後世では、襖の下張にしたとしても、所蔵したり、廃棄したりで残されるものとみるのです。つまり、何も残らないはずはないのです。

 と言うものの、それは、各人の構想の問題であり、確たる信念があっての七世紀論であれば、当記事は、単なるアラ探しにとどまるかも知れません。それはそれとして、ご一考頂ければ幸いと思い、自説を述べているのです。

                               未完

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◯夢物語 2020/10/28 補充
 以下、裴清滞在記を考察する際に、正史前例から辻褄合わせを考えます。

*王城不到達の言い分

 漢使(魏使、隋使の総称)が、蕃王の王城に至らなくても違命にならない事例として、范曄「後漢書」西域伝を前例として、「裴世清は、高官(長老)に伴われて竹斯から東の海岸に着いたが、竹斯からそこに到る海峡の危険と東方遥かな目的地まで連続する岩礁が波を噛む荒海の様を聞いた上で、『風待ち、潮待ちで、半年を経てようやく安着するが、それは、幸運にも難船を免れたものに過ぎない、難所では、難破船の残骸が船人を呼んでいる』などと聞いて、恐れを成して竹斯に引き返した」とでも書けば良かったように見えます。
 隋使としては裴世清なる文林郎は、行人なる文官であって武官でなく、国王接見を厳命されていたわけで無いので申し開きはできたでしょう。
 帝国の威信をかけた使節派遣は、巨費を投じている事もあり、一介の下級官吏が無謀な行程を採用する事は許されなかったと見るのです。

*武帝使節安息国訪問記の先例
 漢帝の任じた漢使が、相手国の国王と会見せずに、萬餘の兵と共に国境防塞を与る「長老」に国書を渡して帰国した例もあるのです。
 前例があれば、使命不達成で処刑される事は無いのです。(その際、文書使が、西方数千里の国都までの街道を短期間で疾駆往復し、国王の親書を持ち帰ったと記録されています)(班固「漢書」西域伝・安息国伝)
 裴世清来訪の際に、(実行不可能な)大移動が無かったものとすると、以上の成り行きが浮かんできました。
 そのような苦肉の策が、書紀編者に一切伝えられなかったため、今見て取れるような、不自然な推古紀記事になったものと見えるのです。
 素人考えで恐縮ですが、ここに異議として提示します。

*下級官人派遣の背景
 漢使として、最下級に近い官人が任用された背景として、蛮夷の国への漢使が、しばしば殺害されたことも関係しているようです。武帝時代に、西域諸国に初回漢使として派遣された百人規模の大人数の使節団は、潤沢な宝物を携えていたのですが、時には、問答無用で使者の首を切って宝物を奪い、地の果ての漢帝国に挑戦した例もあるのです。それも一度ならず。
 俀国の場合は、それに加えて、中原の官人が荒海を不慣れな海船で越える難儀もあり、とても、初回使節に高位の官人を起用できなかったのです。要は、とても確実な生還を期せない文字通り「必死」の渡海行と思われます。

〇最後の締めくくり
 以上の締めくくりは、諸論者に、魏晋代にとどまらず、隋代に到る期間の瀬戸内海海上移動のとてつもない危険を伝えられていない事を反省して、多少、メリハリをつけたまでです。
 私見としての「裴世清は、終始竹斯にとどまったのではないか」という論議は、変わっていません。

 念のため言い添えると、以上の長口説は、氏の好まれない「九州王朝説」を押しつける趣旨ではないので、ご不快であればご容赦いただきたい。

                               完

2022年7月27日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の悪しき伝統 「リベンジ」変異株発現

                                                  2022/07/27
 今回の題材は、一日遅れで、昨日(7/26)の毎日新聞大阪朝刊第14版スポーツ面、でなく26面「総合・社会面」であるが、スポーツ面記者が、はみ出し記事を書いたとして、以下批判する。多少の筋違いは、ご容赦いただきたい。
 いや、目立つ場所ででかでかだから、当然気づいていたのだが、正直、あきれ果てて、「つけるクスリがない」と見放そうかと思ったのである。鬱陶しいので、一日持ち越してしまった。

 当事例の類いは、随分症例を見ているが、大別して、二種ある。
 一つは、「復讐」の意味で、どぎたなく罵る「リベンジ」であり、国際テロにも繋がる血の復讐の連鎖を褒め称えるもので、大抵の人は、この意味で、つまり、「仇討ち」、「天誅」の意味で使っている。要は、正義は我にあり、敵は滅ぼせという、自己中心の世界観の産物になっている。

 もう一つは、プロ野球界で、日米を通じて大スターであった松坂大輔が広めた、俗な言い回しで、要するに、「もう一丁行こう」と言う軽い意味であるが、大抵は、認識されていないので、先に挙げた「復讐」の意味で理解されていると思う。(最新版の広辞苑に、収録されている)

 若手は、第二の意味で、何の気なしに、口汚い言葉で誌面を汚しているのである。しかし、大きな問題は、書き手と読み手の間で、意味がずれているのである。いや、若手の記者は、仲間内で意味が通じるから、それで良しとしているが、世間のかなりの人々は、違う意味で、「正解」していて、問題が垂れ流しになっているのである。
 もっと卑近な例では、多くの(中高年層の)読者は、「鳥肌が立つ」と言えば、いきなり、背筋に冷水を注がれたとか、ガラスを爪で引っ掻く音を聞かされるとか、大変な嫌悪感を想起させる表現であるが、現代若者言葉では、大変な褒め言葉らしい。
 と言って、全国紙の紙面で、「鳥肌が立つ」と、忌まわしい言葉が氾濫するのは、大変迷惑である。世間が二分されているとして、大変悪い語感の言葉を無神経に書き散らして、読者に、大変不愉快な感じを抱かせるのは、全国紙の取るべき立場でないのは、言う迄も無いと思う。言葉には、いきなり、感情を掻き立てる切実なものがあり、それに気づいていない面々が横行しているようなので、普段、無視している話題について、ことのついでに文句を述べる。

 これまで、毎日新聞の症例で言うと、古手の記者は、第一の意味で捉えていて、世間に蔓延っている第二の意味を掴み損ねていると見えた。「雪辱」などと言う年代物の精神状態に陥っていると見える。
 一方では、霞が関に熱烈な「リベンジ」愛好者がいるのか、「リベンジポルノ」などと、制裁暴露の自分勝手な無法な行為を賞賛するような呼び方が出回っていると見受けた。

 一応、各種症例を回顧したのであるが、概して、つけるクスリがない愚行でしかない。

 今回の例は、「リベンジ誓い」などと迷文句を物しているが、第一の意味なら、不穏極まりない、犯行予告であり、天下の毎日新聞が紙面に載せて良いものではない。と言うか、これは、選手の発言ではないので、全面的に毎日新聞の責任で、汚名を着せたことになる。
 そもそも、この記者は、「セットアッパー」などと、極めつけの出来損ないカタカナ語を平然と使っているから、カタカナ語に大変、天然で弱いのかも知れないが、このあたりを校閲段階で査読するのは毎日新聞の役目であるので、ここでは、「内政干渉」の印象を避ける。

 と言って、第二の意味は、要するに、次回大会に出るのが「リベンジ」であり、別に、全国紙の紙面で、決意表明するようななものではない。
 今大会では、自チームが敗退したものの、勝者によって当人の実力が高く評価されたから、一時的とは言え、チームに参加したのであり、自チームに復帰した後、次回の大会予選で勝ち抜くことができれば、誰に血の復讐を期することもなく、「リベンジ」は成り立つのである。

 もっとも、当人のつもりでは、今大会のように、敗退したチームから呼ばれて、敵チームに補強されたことを一種「屈辱」と感じたように見える。しかし、それは筋違いの逆恨みである。自チームが敗退したのは、時の運であり、敵を恨むべきではない。補強されたのは、当人の実力と姿勢が際だって高く評価されたのであり、言わば「レンタル」(毎日新聞公認用語)で期間限定で移籍した上で、地区代表チームの一員として、第93回都市対抗野球の場に出たのである。
 これは、選手としてのキャリアに於いて、圧倒的に大半の選手にとって願っても得られない輝かしい一ページであり、素直に感謝すべきであり、誰かを恨む筋合いはない。どうか、くれぐれも、勘違いしないで欲しいものである。
 そんなつもりは無いなら、聞く人が勘違いするような言い回しはすべきではない。現に、記者は、選手の発言に「リベンジ」の汚辱溢れる要約を示している。

 そして、毎度のことであるが、全国紙の(スポーツ面)記者は、自分の書いた記事が、選手の理念に疑いを招くような書き方は、断じてするべきでは無い。全国紙の読者は、記者が正確に報道しているとして、選手の実名入り、見出しでかでかの失言を記憶にとどめるのであり、いくら署名していても、記者の名前は記憶しないのである。

 未来ある選手の発言は、選手に相応しい言葉で真意を伝えるのが、記者に与えられた貴重な使命・特権であり、絶大な特権には、絶大な倫理規範が求められると思う。いわんや、極めつけの罵倒発言が選手の口から漏れたとしても、それは、ぐっとこらえて割愛すべきなのである。
 記者は、地震に委ねられた特権を見据えた上で、「報道しない勇気」を持つべきである。

 このクスリが効くかどうかは問わないが、できれば、一掬の差し水で荒れた紙面の一角を潤したいのである。

 これも当たり前のことであるが、当ブログ記事の筆者は、全国紙の大株主や経営者でなく、記者の上司でなく、まして、記者の祖父母、両親でもない。別に、意見を聞く必要はないのである。

以上
 

 

2022年7月20日 (水)

今日の躓き石 J:Sportsの適切なインタビューとぼんくらヒーローのぼけ応答

                         2022/07/20

 本日の題材は、CS J:Sports 1のヒーローインタビューである。

 勝者ヒーローたる投手へのインタビューで、折角、インタビューアーが、選手がつまらない失言をしないように、かんで含めるように、まことに丁寧に「同学年」「同期」と言葉を選んでいるのに、肝心のヒーローが「同級生」と大ぼけをかまして、笑うに笑えないのである。
 因みに、アナウンサーも、当然、正しい言葉遣いを守っている。

 衆知の如く、別に同窓生でもないのに「同級生」というのは、頭の悪い、ものを知らない、寝ぼけた三流タレントの言い間違いだったのが、一時、メディアの底層に蔓延して、情けないのだった。
 十年程度たった今、ちゃんとプロの手で是正が働いているのは、誠に尊敬に値する。ここまで、専ら公共放送の「血祭り」暴言連発を歎いていたが、ちゃんと、言葉の護り人としての務めを理解している人は、健在なのである。

 それにしても、広島の広報は、選手にどのような教育をしているのだろうか。いや、していて、それでも、落第生はいるのだろうが、責任は、そちらに向けるしか無いのである。何しろ、広報は、言葉のプロである。選手が、世間に向けて、時には、全世界に向けて、赤っ恥をかかないように、キッチリしつけをするのが、大事な役目なのである。

以上

2022年7月17日 (日)

今日の躓き石 低落したNHKの報道倫理  陸上世界選手権百メートルに「リベンジ」乱入

                          2022/07/17

 本日の題材は、NHK G、つまり総合の19時のニュースである。堂々たる晴れ舞台に、汚い言葉遣いは似合わないのだが、選手が口走った「リベンジ」なる「ドギタナイ」言葉が、堂々と字幕になって、全国報道されている。ほとんど、放送事故である。受信料返せである。

 どうも、負けるはずのない奴らに負けたのがくやしくて、「次は、仕返しにぶちのめしてやる」と言っているようだが、陸上競技はレーンで別れて走るので、上位に入った六人と再会しても、血だるまにぶちのめすわけには行くまい。子供じみた暴言は、止められなかったろうが、何も、堂々と報道して、世界に恥を曝すものではない。

 負けん気が強いのは当然としても、自己ベストすら出せずに負けたからには、自分が弱かったから負けたと認めるものではないのだろうか。いや、別に、選手でもなんでもない野次馬だが、正直にそう思うのである。これでは、「メンタル」(ヘルス)の健全さを問われそうである。

 公共放送たるもの「選手の不穏な発言を報道して、全国のこどもたちが、どんどん真似するように暴言蔓延に尽力する」べきでは無いと思うのである。

以上

2022年7月13日 (水)

今日の躓き石 NHKが新世代に贈る醜悪な言葉 「復讐旅行」 リベンジトラベル

                    2022/07/13

 いや、夜更かししているとろくな事はない。NHK総合にNABEなる番組があって、その11で「リベンジトラベル」をぶち上げている。良く、「復讐旅行」などと言えるものだ。

 NHKは、血塗られた、汚い、無様な言葉を「若い人」に植え付けるのを使命にしているのだろうか。
 堂々とテロリスト支援しているのだろうか。

 NHKの良識は、どこに消えたのだろうか。「受信料返せ」である。

 どうも、これからは、「NHKから国民を守る」と喚かないといけないのだろうか。

以上

2022年7月 6日 (水)

今日の躓き石 NHKBS1 国際報道2022の邪悪な「リベンジ 復讐」普及策

                       2022/07/06 2022/07/07

 本日の題材は、NHKBS1 「国際報道2022」のとんでもない暴言である。一瞬、「トラブル」かと思ったが、「トラべル」である。
 予測不可能な(NHKでは、「絶対」あり得ない)カタカナ言葉が、突然出て来たので、不意打ちを食らって誤解したのである。

 パッと聞いただけでは、ありがちなこととして、テロ事件などの被害者が、「リベンジ」=復讐の目的でテロリストの母国に乗り込むのが引き起こす「トラブル」=国際問題かと思ったのである。まるで、目下紛糾している関係で、U国難民を仇討ちの刺客としてR国に送り込むようなものである。とても、とても、とても、P大統領に知らせられないと思うのである。

 どうも、字で書くと「リベンジトラベル」のようであるが、この言葉を英語で発言すると、物議を醸すこと請け合いである。よくぞ、NHKBS1が「国際報道」なる番組で堂々と放送するものである。このような刺激的で、度汚い、子供に聞かせられない言葉を、国内だけでなく、国際的に普及させてどうしようというのだろうか。まことに、まことに、まことに困ったものである。

 当ブログには、自主的なコードがあるから、このカタカナ語を、この場で英語で書けないから、回りくどくなっているが、NHKは、何もルールも倫理基準もない無法状態なのだろうか。誰が、次世代を担う子供達を、汚い言葉から守るのだろうか

 それにしても、なぜ、自分の書く言葉が、どんな意味で理解されるか、まことに無頓着で、NHKの番組を製作できるものかと、驚くのである。そして、そのように無神経に制作された番組を、このように無造作に放送するのだろうか。

 だからといって、NHKに自浄作用がないとは思わないので、こうやって、つまらない批判を公開するのである。

以上

 補足すると、NHKが信念をもって「リベンジトラベル」と報道したいのであれば、「復讐怨念旅行」と誰でもわかる日本語訳を付すべきではないだろうか。いや、赤文字にしろとまでは言わないが。

 

 

2022年7月 4日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞が蔓延被害拡大「リベンジ」~「球磨川」復興悲願に泥水

                             2022/07/04
 毎度のガセネタ批判であるが、今回は、当ブログに良くあるスポーツ面ネタではなく、「リベンジ」慣れしていない担当記者にとって、大変不愉快な記事になりそうである。題材は、毎日新聞大阪夕刊4版一面のど真ん中だから、夕刊読者には、すぐ目に付く。影響力が、スポーツ面の細切れ記事の比ではないので、それだけ、厳しく言わざるを得ないのである。別に、個人攻撃ではない。その証拠に、署名されてい名前には触れていない。

 いや、ここで批判している問題発言は、現地の関係者の談話であるから、いくら言葉遣いが汚いと言っても、それ自体は、その個人の自由だから、新聞社としてどうしようもない。知らずにご自分の顔に泥を塗っていると言うだけで、別に、地の果てのよそ者が聞きつけて、とやかく言うものではない。と言う言い訳が成り立ちそうだが、それは、随分情けないことになる。

 要するに、発言を聞いた記者が、それは、不適切な発言なので言い換えるべきだと丁寧に説明すれば、ご当人も、失言に気づいて、言葉を選べるからなんでもなかったのである。そうすることで、世間から、忌まわしい言葉の誤解・中毒の犠牲者を、確実に、少なくとも一人減らせていたのである。それが是正というものなのだが、それに記者が気づかず、間違った物言いを紙面に載せたから、事態は深刻なのである。
 これでは、日本中に「リベンジ」中毒患者が一段と蔓延するのである。
 現に、冒頭には、「川を恨むことなく自然と共存して」と切々たる言葉が語られている。全国紙夕刊記事としては、何も付け加えなくて良かったのである。まことに、つまらない失言のためにぶち壊すには惜しい記事ではないだろうか。

 このでかい記事で、水害をもたらした球磨川に血なまぐさく仕返しする「リベンジ」を目的と言われると、「球磨川」商標の譲渡という無上の好意に甘えながら、折角いただいた「球磨川」の名に、べっとりと泥を塗る発言をしたように全国報道されているクラウドファンディングに応じた諸兄姉も、球磨川を恨んで血なまぐさく復讐することに賛同して、大事な寸志を届けたのではないと思う

 そのような発言は、本位ではないと思うのだが、紙面には、そう書かれている。それは、「リベンジ」が、毒々しい、忌まわしい呪いの言葉だと知らない担当新聞記者が、何も考えずに誌面を汚したものであり、最終的には、そのような不都合な記事を配布した全国紙たる毎日新聞社の責任と言える。担当記者が、正しい言葉遣いを厳命されていて、それに背いたための失態としても、最終責任は、毎日新聞社にある

 それにしても、毎日新聞社には、紙面審査も、紙面校閲も無いのだろうか。

 毎日新聞社は、当記事に関し訂正記事を掲載し、合わせて、発言を「誤報」された方に謝罪すべきであろう。
 折角、気持ちをこめて発言したのに、深意に反する報道をしたのだから、それは、「真実の報道」という使命に背く重大な誤報である。

以上

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