新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 4/9
~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統
*接待、慰労、そして検疫
好意的に見るならば、隋使に限らず、大陸や朝鮮半島からの来訪者は、長期の航海で、船酔いしなくても、死ぬほど疲労していたと思われます。当然、九州島に到着したら、なによりも上陸して、くつろいだと思うのです。
また、ここまで隋使をもたらした外洋船も、食料や水の補給は当然として、長期の係留には、川港の汽水層に占めて、船腹を保護しなくてはなりません。
受け入れる倭も、素通りさせられないはずです。海の向こうからの来訪者は、悪疫を運ぶことが想定され、接待慰労とともに検疫隔離したはずです。
*越せない難所連発
念を押すと、筑紫を出た隋使の船が、遠路遙か、未知なる大阪湾まで航行するのであれば、いかに大型で頑丈であろうと、多島海の航路と寄港地を熟知した水先案内人の乗船が不可欠です。いや、格段の大型の船舶であれば、地元の漁船が抜けられる難関に、船腹か船底がつかえて、難船するでしょうから、とても、無事で通過できないことでしょう。
と言うことで、いくら現地海況に通じた案内人がいても、別に、外洋航行の大型の船の舵取りを経験はないので、どのような大技で、関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸、明石海峡とある極めつきの難所を、無事通り抜けられたのか、そして、何の報告もないのは不可解です。
隋煬帝が、不遜な蛮夷を討伐するために、大兵を乗せた海船を送ったとしても、難所突破の策がなければ、討伐どころか難船してしまうのです。
ここで疑問を投げかけると、国内史料には、各地の要所の寄港地に水先案内を備え、乗り継いで瀬戸内海を一貫して船で往き来できる体制が、いつ整ったのか、史料をお持ちなのでしょうか。
また、後世、整然たる街道が整ったとして、隋使来訪の時点で、街道往来のできない事情は何かあったのでしょうか。当時の中原人にとって、海船での長期の移動は、難破による水死の恐怖と転げ回る船室と船酔いの苦痛の渦であり、数十人の一稿と見て、一人、二人では済まない死者が出そうなものですが、なぜ、陸上移動しなかったのか、素人考えでは不可解です。
もちろん、当時は、三世紀の倭人伝時代以来数世紀を経ても、乗馬移動も馬車移動もできなかったという事なのでしょうが、それでは、「奈良盆地」ないしは「河内湾岸」の国王は、北九州竹斯国の支配を、どのようにして維持していたのか。そぞろ疑問です。
辻褄の合わないことを、素直に説かれると、不信感が増すだけです。
遠路、超大国の使節が来たのに九州北部から大阪湾までの、隋使にとって未知の、しかも、長期長距離の行程を、自力で来いとはおかしな話です。書紀に従い、隋使に小野妹子一行が随行していたとしても、多数の出迎え必須でしょう。
筑紫から大阪湾岸に連絡があって、一方では接待の体制を作りつつ、一方では出迎えの一同を送り出したのでしょうか。日帰り範囲に来たのに対して船団で出迎えているようですが、それまで放置していたのでしょうか。
*筑紫鴻廬館談義(?)
筑紫に後年の「鴻臚館」相当の施設があったかどうかは不明ですが、順当に考えれば、どこか、適切な宿舎で待機している隋使到着の知らせを「大阪湾岸」まで伝えて、出迎えの高官を派遣するものではないでしょうか。
「鴻臚館」は、蛮人の滞在先という意味であり、鴻臚「掌客」は野蛮人の接待役という役所(やくどころ)の最下級の役人なので、隋使が聞いたら、蕃夷扱いの上に、ぞろぞろと下っ端しか出てこないのかと憤激することでしょうが、書紀の関連記事では、そのような「賓客」の意義は全く意識されていないのです。
そもそも、蛮人の「もてなし」と言いつつ、礼儀を躾けていた「鴻臚寺」の役所を誤解しているので、かくのごとく間違いだらけになったのでしょう。恐らく、鴻臚の組織、分掌など知らなかったのでしょう。何しろ、隋が、大使節団を送り込んでくるのだから、隋使は高官と決め込んだのでしょうか。中国の国家制度は、厖大な官職組織ですから、遣隋使の見聞では、接待役の鴻廬掌客は見知っていても、別組織の「文林郎」など聞いたこともなかったのでしょう。
待機期間は、「大和」に至る遠距離との連絡往復であれば、文書交信の期間も含めて数ヵ月に及ぶ可能性があります。随分長期間の待機滞在だったはずなのに、何も書いていないから何もわからないのです。だからといって明解と言うことではないのです。謎を呼ぶのです。
それにしても、書紀が正確な記録としたら、隋書は、なぜ、肝心な事項を、不正確にしたり、書き漏らししたりにしたのでしょうか。
隋使の報告は、厳格に監査され、隋使の評価が下されたでしょうから、裴世清が処罰されたと書かれていない以上、其の報告は、妥当なものとして受忍されたとみるべきです。何しろ、後年の唐使高表仁は、刺史という高位にありながら、倭の王子と口論して、使命を達成できなかったと酷評されているので、裴世清には、其のような不始末はなかったと見るのです。
未完
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